銀座・泰明小学校のアルマーニ騒動について

「アルマーニ制服」で話題沸騰の東京・銀座の泰明小学校に行ってきました。フットワークが軽い?いえ、いえ、単に勤務先から近いので、昼休みがてら行ってきただけです(笑)。

振って沸いたこの大騒動。泰明小学校の和田利次校長(62)が独断と偏見(?)で、今年4月から上下スーツからワイシャツ、靴下等に至るまで1セット8万円以上もする超高級ブランド「アルマーニ」製を「標準服」として採用すると発表したことがきっかけです。

標準服なので、強制ではありませんが、保護者会やPTAで話し合われて決定したわけではなく、校長の独裁。8万円はいかにも高過ぎる。「いかがなものか」となったわけです。しかも、子どもさんは成長が早いですからね。1年で着られなくなるかもしれませんから、在学中は数回、セットを買い換える必要もあるでしょう。

和田校長は採用の理由について「銀座という土地のブランドを大切にしたいから」といった趣旨の発言をしたようです。

確かに泰明小学校は名門です。創立は明治11年(1878年)。校門に「島崎藤村 北村透谷 幼き日 ここに学ぶ」という石碑もあります。このほか、卒業生には、首相も務めた近衛文麿をはじめ、詩人の金子光晴。芸能人に朝丘雪路、加藤武、中山千夏、殿山泰司、歌舞伎の澤村田之助丈もおりますね。

以前、銀座暖簾会の「銀座百点」で、田之助丈と加藤武さんが対談されて、泰明小学校の思い出を語ってましたが、加藤武さんは2015年に亡くなっていたとは…。

さて、問題になったのは、泰明小学校は、中央区立、つまり公立だからです。私立だったら、別に、児童に宗教上の理由で100万円もする首飾りを着用させようが、勝手ですが、あくまでも税金の補助がある公立ですからね。

「アルマーニ採用は撤回しない」と胸を張った和田校長の素性について、既にネット上で色々書かれております。東京学芸大出身だとか、アルマーニと癒着して相当マージンをもらっているのではないか、といった類です。いずれも憶測の域を出ておらず、私も色々眺めているうちに、色々書かれているにしてはネタ元が一つのような気がして興味を失いました(笑)。

ただ、ほとんどの世間の人は知らないでしょうが、公立学校の校長は、よほどのスキャンダルがない限り、国から叙勲されるという事実です。

例えば、88歳の米寿を迎えた元公立の小・中学校の校長先生は、「瑞宝双光章」、高校長なら「瑞宝小綬章」を授与されるのです。

または、その前か、その後に死亡すれば、小学・中学校長なら「正六位・瑞宝双光章」など、高校長なら「従五位・瑞宝小綬章」など、大学(名誉)教授なら「従四位・瑞宝中綬章」などが叙勲されるのです。

ということで、公立学校の校長は立派な公人です。

そのうち、いつの日か、和田利次校長先生も「アルマーニ標準服を導入し、経済を活性化した」として、正六位どころか、大学教授並みに「従四位・瑞宝中綬章」を叙勲されるかもしれません。

ま、その頃は、和田校長先生も忘れられ、世間の関心は全く失せていることでしょうが…(笑)。

ワニブックス、池辺三山、有馬記念とは

我ながら、こう飽きもせず、毎日書き続けるものだと思います。今日の新聞広告で、佐野眞一著「枢密院議長の日記」(講談社現代新書)のコピーで「大正期、激動の宮中におそるべき”記録魔”がいた」とあります。明治・大正・昭和の三代の天皇に仕えた倉富勇三郎の日記らしいのですが、「超一級史料」ということで、読んでみたくなりました。

最近読んだ本や雑誌の中で意外だったことを備忘録としてメモ書きします。

●ワニブックス

青春出版社の岩瀬順三氏が、光文社の神吉晴夫氏が生み出して大成功したカッパブックスに対抗して創刊した。その理由が「河童を餌にするのはワニだから」

●池辺三山の朝日退社

陸羯南が創刊した「日本」(正岡子規も記者だった)の記者だった池辺三山は、東京朝日新聞社に入社し、主筆として活躍。東京帝大講師だった夏目漱石を1907年4月、朝日新聞に招聘。その三山は、漱石の弟子森田草平が平塚雷鳥との愛人関係を赤裸々に描いた「煤煙」を紙上に掲載するかどうかを巡って、その背徳性を批判する大阪通信部長の弓削田精一(秋江)と衝突し、1911年11月に退社。

●世が世なら

1954年に「終身未決囚」で直木賞を受賞した有馬頼義(ありま・よりちか)は、旧久留米藩主、伯爵有馬頼寧(ありま・よりやす)の三男。頼寧は、1930年に未遂に終わった「桜会」が起こそうとした軍事クーデター「三月事件」の黒幕というか主犯格だった。このクーデターは、参謀本部の橋本欣五郎中佐ら将校100人以上が、国家改造と満蒙問題解決のために密かに結成した「桜会」が、時の浜口雄幸内閣を打倒し、現職の陸軍大臣宇垣一成を首班とする軍部独裁政権を樹立しようとするクーデター計画。頼寧が、大日本正義団総裁の酒井栄蔵を唆して軍部を動かした。

頼寧は、近衛文麿首相のブレーンの「昭和研究会」のメンバーで、農林大臣などを歴任し、日本中央競馬会理事長時代に競馬の「有馬記念」を創設。

作家の有馬頼義は、西荻窪駅から数分のプール付きの豪華な邸によく若い作家を集めて「石の会」を主宰していた。1972年5月、川端康成がガス自殺したことに衝撃を受けて、自分も追うようにガス自殺を図ったが、一命を取り留める。自殺未遂の後、広大な邸宅に住むことなく、自宅近くの狭いアパートで、精神病院入院中に知り合った若い女性と同棲した。

鳥居民著『近衛文麿「黙」して死す』

 ローマ

公開日時: 2007年5月11日 @ 09:37

 

 鳥居民著『近衛文麿「黙」して死す』(草思社)を読みました。

 この本を読むと「何が真実なのか」という疑問にかられない人は、まずいないと思います。同時に、「何を信じたらいいのか」という非常に個人としても混迷の極地に突き落とされます。

 

 同書は、昭和二十年十二月に巣鴨プリズンへの出頭を前に自決した元首相の近衛文麿の「自殺の真相」に迫ったものです。近衛自身は、最期まで黙して語らなかったため、真相は闇の中なのですが、著者は、ずばり、近衛を自殺に追い込んだ犯人を言い当てています。

 

 犯人は、近衛の学習院時代から大の親友でもあった元内大臣の木戸幸一、カナダの外交官出身で、GHQ調査分析課長のハーバート・ノーマン、そして、後に一橋大学の学長も務める経済学者の都留重人です。

 

 木戸幸一は、明治の元勲木戸孝允の養子孝正(孝允の妹治子の息子)の長男に当たります。終戦工作に邁進し、「木戸幸一日記」を残し、昭和史を語るのに欠かせない人物なのですが、終戦後、日記は自分の都合の良いように改竄したとも言われています。

 

 都留重人は木戸幸一の義理の甥に当たります。つまり、妻正子の父親和田小六は東工大学長を務めた航空工学者で、木戸幸一の弟に当たります。都留は、戦争中、この内大臣木戸幸一のコネを利用して、兵役を逃れます。この本の中で、東條英機首相の赤松秘書官が、政財官の大物の子息の兵役免除のリスト作りに立ち回っていた秘話も暴露されています。

 

 ハーバート・ノーマンは、昭和史に興味を持つ人にとって、知らない人はいない第一級の日本研究家です。「忘れられた日本人」として江戸時代の思想家で医者でもある安藤昌益を発掘し、彼の著書を羽仁五郎、丸山真男らが大絶賛しています。全集が出ているのも世界でも日本ぐらいではないかということです。

 

 私は、いずれの3人も終戦工作に尽力したり、戦後の処理をしたりした「正義の味方」だと思っていたのですが、鳥居氏の調査では、彼らは悪党の中の悪党なのです。

 

 要するに内大臣木戸幸一は、戦犯容疑者のリストを作成したノーマンと手を結んで、戦争の全責任、開戦の責任のすべて近衛文麿に押し付けた、というのです。

 

 ノーマンが作成した戦犯容疑者リストは、かなりかなりいい加減で、すでに他界した内田良平(黒竜会創設者)や中野正剛(国家主義者)らが含まれ、欧米のジャーナリズムで有名だった「死のバターン行進」の責任者の本間雅晴中将を真っ先に血祭りに上げろと指示したりしたことなどが、本書で暴露されています。

 

 戦後教育を受けた者にとって、内大臣の権限についてさっぱり分からず、本来なら首相の方が格上なので、内大臣の木戸が首相の近衛に責任を押し付けることができるわけがないと思っていたのですが、むしろ内大臣の方が尋常ならざる権限を持っていた、と本書では説明されています。

 

 内閣と統帥部、陸軍と海軍は、権限は同等同格だったというのです。つまり、首相も内大臣も投票権は同じ一票で同格なのです。しかし、もし、対立や抗争があった時に、解決できる力を持っていたのは、むしろ内大臣の方で、天皇に助言できるのは内大臣ただ一人だったというのです。

 

 この事実は、戦後処理をしたノーマンさえ知らなかったと思われます。内大臣木戸は、「総理大臣に言われて仕方なく従った」と言えば、GHQの連中は皆信じたことでしょう。

 話は最初に戻ります。「一体、何が真実なのか?」