「鎌倉殿の13人」NHK大河ドラマ館、鎌倉国宝館、鎌倉歴史文化交流館へ小旅行

 いざ、鎌倉へ。

鎌倉・鶴岡八幡宮 二の鳥居

 月刊「歴史人」の読者プレゼントで、「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館の入場券が当選したので、平日に有休を取って、行って参りました。

 平日にしたのは、鎌倉は一大観光地であり、今年のNHK大河ドラマで鎌倉が舞台になっており、週末は相当混むと予想したからでした。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 案の定、「鎌倉の原宿」のような小町通りを始め、平日だというのに人混みでいっぱいでした。特に、中学生か高校生らしき少年少女が、秋の遠足か修学旅行で、団体でいっぱい押し寄せておりました。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 それに輪をかけたのは、9月14日(水)~16日(金)は鶴岡八幡宮の例大祭に当たっていたことです。一般の参拝者も多数詰めかけておりました。

 例大祭ということで、こうして、一の鳥居付近で、「鎌倉囃子」が演奏されていました。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 取り敢えず、「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館に向かいました。場所は、一の鳥居を入った八幡宮内の「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」にありました。

 入場は日時指定だったため、ネットで事前に申し込んでおきました。そのため、超満員ということはなく、ゆったりと落ち着いて見学できました。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 個人的に、最近、大河ドラマ館によく足を運んでおりまして、2017年の「おんな城主 直虎」(井伊直虎=浜松市)、2020年の「麒麟がくる」(明智光秀=岐阜県)、2021年の「青天を衝け」(渋沢栄一=東京都北区飛鳥山)以来4度目です。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 これまた、個人的な話ですが、私がNHKの大河ドラマにハマったのはつい最近のことです。子どもの頃見ていたのは、「源義経」(1966年)と「天と地と」(1969年)と「樅ノ木は残った」(1970年)ぐらいでした。

 あとは、長じで、仕事として見ることになった「太平記」(1991年)だけです。後は、タイトルを知っていても、中身はほとんど見ていませんでした。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 それが、どういうわけか、大河ドラマにハマって見るようになったのは、2016年の「真田丸」からです。それ以降の「おんな城主 直虎」「西郷どん」「いだてん~東京オリムピック噺~」「麒麟がくる」「青天を衝け」「鎌倉殿の13人」と、7年連続、大体見ています。

 こうして振り返ると、月日の経つ速さには唖然としてしまいます。

「鎌倉殿の13人」大河ドラマ館

 その、今年の「鎌倉殿の13人」ですが、正直、あまり、面白くありませんね。分析すれば、スタジオ撮影が多く、野外での合戦シーンがほとんどないせいだと思います。

 本来、源平合戦と内部抗争の話で、おまけに平泉での源義経追討の合戦も見どころだったはずなのに、弁慶の立ち往生もないのですから、拍子抜けしました。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 大河ドラマ館は30分ほどで引き揚げて、鶴岡八幡宮に久しぶりにお参りすることにしました。

 鶴岡八幡宮は1063年、河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮を鎌倉の由比郷鶴岡に鶴岡若宮として勧請したのが始まりと言われています。

鎌倉・鶴岡八幡宮

 それを現在にも残っているような若宮大路を整備し、鶴岡八幡宮を移して拡張したのが、1185年に鎌倉幕府を開いた源頼朝でした。若宮大路は、妻政子の安産祈願も兼ねていたようです。

 八幡宮ですから、武運の神をまつっています。

 鶴岡八幡宮では、「応神天皇」「神功皇后」「比売神」の三柱の神様を御祭神としてお祀りしています。

 八幡宮内では、流鏑馬や相撲や放生会などの「神事」が行われ、鎌倉の精神的、文化的支柱になっていたようです。

 私も、普段より多めのお賽銭を奮発し、ウクライナ戦争が早く終わるよう世界平和と万人の健康をお祈りし、またまた健康長寿のお守り(800円)を買い求めました。

鎌倉国宝館

 大河ドラマ館は、想像していた通りでしたが、大いに期待したのは、大河ドラマ館の入場パンフレットを提示すると、鎌倉国宝館(大人300円)と鎌倉歴史文化交流館(同)に無料で入場できることでした。そのため、事前にホームページで、両館の休館日をチェックして、日曜日と月曜日を避けることにしたのでした。

 この中で、鎌倉国宝館は大正解でした。館内での写真撮影は出来ませんでしたが、国宝、重要文化財の仏像(如来、菩薩、明王、天)や高僧像などがズラリです。私が特に感動したのは、本などの写真ではよく拝見していた「北条時頼坐像」(重文)を目の前で見ることができたことです。思わず、「えっ? これ本物?」と声をあげそうになりました。

 北条時頼は第五代執権で、三浦泰村一族を滅ぼすなど得宗独裁政権を確立した人でもあります。一方で、仏教、特に禅宗に信仰が篤く、蘭渓道隆を招いて鎌倉五山第一位の建長寺を建立しています。

 晩年は出家して、最明寺の入道とも呼ばれ、日蓮が「立正安国論」を献本したのがこの最明寺の入道であり、能の「鉢の木」や「徒然草」などでも登場します。

鎌倉歴史文化交流館

 次に向かったのが、「鎌倉歴史文化交流館」です。地図で見ると、若宮大路の二の鳥居辺りで、西に進み、小町通りを突っ切り、東海道線の踏切も渡り、くねくねした軽い坂道を登ったところ(扇が谷)にあるようでした。

 9月半ばだというのに、30度の暑さで、辿り着くだけでふうふうでした。

鎌倉歴史文化交流館

 館内では、「吾妻鏡」の原本(写本)らしきものが展示されていたり、大佛次郎、川端康成ら「鎌倉文士」の足跡を辿るビデオが流れたりしていました。

鎌倉「カフェ ミルクホール」

さて、昼時になったので、一度行きたかった鎌倉「カフェ ミルクホール」を目指しました。

今は便利な時代になり、スマホのグーグルマップで検索して、「徒歩」を押すと、自動車のナビゲーターみたいに、「次を右折して」とか「次を左折して」とか言ってくれるのです(笑)。

 いやはや、本当に便利な時代になったもんです。

鎌倉「カフェ ミルクホール」オペラライス・セット 1300円

 鎌倉「カフェ ミルクホール」のお目当ては、白クリームのオムライスであるこの店の名物「オペラライス」です。随分昔に、何かの雑誌か、テレビで知ったもので、いつか一度、チャレンジしたいと思っていたのです。

鎌倉「カフェ ミルクホール」オペラライス・セットの珈琲とデザート 1300円

 オペラライスは上品な味でしたが、量はそれほど多くないので、若い男性諸君では物足りないかもしれません。

 が、私のような年配者なら大丈夫です。昭和初期のミルクホールというより、大正ロマンを感じさせる店の雰囲気は何物にも代えがたく、ゆっくり落ち着けました。

比企氏一族滅亡で生き延びた比企能本とその子孫の女優=「鎌倉殿の13人」

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(三谷幸喜脚本)が1月9日にスタートし、初回の視聴率が17.3%(関東)で、「そんなに低いのか」と思っていたら、16日の2回目は14.7%と2.6ポイントもダウン。最近、「見逃し配信」で見る人も多いので、視聴率に反映されませんが、2回目で視聴率が下がるのは6作連続らしいですね。1987年の「独眼竜政宗」(主演渡辺謙)が記録した最高視聴率39.7%は、夢のまた夢で、もう実現することはないかもしれません。

  「鎌倉殿の13人」 は、二代執権北条義時(小栗旬)が主人公で、鎌倉幕府を開いた源頼朝を支え、頼朝の死後は、承久の乱で、約650年続く武家政権の礎を築いた武将の物語ですが、何となく通好みのような気がします。何しろ、戦前は、義時は承久の乱で後鳥羽上皇を隠岐に配流するなどしたため、「逆賊」「悪党」扱いでしたから、とても小説や舞台の主人公になりえませんでした。

 時代は変わるもので、最近の歴史研究では、当初は、朝廷に対して弓をひくことなど考えもしなかった義時で、むしろ、無理難題を押し付けて挑発した後鳥羽上皇側の方に無理があったという学説に傾いているようです。つまり、義時の評価が見直されたわけです。

 いずれにせよ、私自身、北条氏といえば、まずは「尼将軍」政子であり、あとは初代執権の時政か、御成敗式目を制定した三代泰時か、元寇を退けた八代時宗ぐらいがキーパースンだと思っていましたから、義時についてはあまりよく知りませんでした。でも、私は真面目ですから(笑)、ここ数年は鎌倉にまで出掛けて義時所縁の寺社仏閣巡りをしたり、関連本を読んだりして勉強しました。

 そして、今月は、大河ドラマに便乗した「歴史人」(「鎌倉殿と北条義時の真実」特集)(ABCアーク)と「歴史道」(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)の2冊も宣伝に乗せられて買ってしまいました。

 今は「歴史人」の方を読んでいるのですが、非常にマニアックで、正直、読むのに難儀しています。なかなか頭に入ってくれません。

 大学入試の「日本史」で、「頼朝の死後、『13人合議制』になったが、その有力御家人13人を全て書け」という問題が出たら、全員は書けませんね(苦笑)。

 しかしながら、この13人の曲者同士が仲良く末永く穏便に暮らせるわけがなく、凄まじい、血なまぐさい権力闘争が繰り広げられます。最終的には、父親である初代執権の北条時政を追放した義時が最高権力者の座(二代執権)に就くことになるのですが、その間、例えば、頼朝の「右腕」として鎌倉幕府成立に粉骨砕身した梶原景時は、御家人66人からの連名で「糾弾訴状」を突き付けられて失脚します。景時は、目付役として義経を貶めた人物とされ、御家人の監視役として恨みを買ったと言われます。一方で実務に長けた優秀な人材だったという説もあり、権力闘争に巻き込まれた形で、嫡男景季から九男景連らを含む梶原一族33人は殲滅され、路上で首を晒されたといいます。怖ろしい。

 他に、殲滅された有力御家人の中には和田義盛や畠山重忠(居城は埼玉県武蔵嵐山市の「菅谷館」)らもおりますが、本日は比企能員(ひき・よしかず)を取り上げます。

 比企能員は、源頼朝の乳母だった比企尼の甥で、その養子になった御家人で、源平合戦で鎌倉方の幕僚として活躍します。(比企氏が一帯を支配した武蔵国は、埼玉県比企郡として今も名を残しています。比企氏は大資産家でしたが、北条氏によって比企氏の事績や勲功が「吾妻鏡」から削除されたため不明な点が多いといいます)。比企能員の娘の若狭局が後の二代将軍頼家の妻となり、長子一幡(いちまん)を生んだことから、能員は二代将軍の義父、三代鎌倉殿候補(一幡)の外祖父として強大な権力を握ることになります。

 これに危機感を持った北条時政が、比企能員に謀反の疑いがあるという謀略を仕組み、時政の自邸に招いて部下の天野遠景、仁田忠常に殺害させ、息子の北条義時には、比企氏の館を襲撃させて、幼い一幡もろとも比企一族を殲滅します。時政は、比企氏の血が濃い一幡よりも、娘の政子が生んだ千幡(せんまん=頼家の弟で、一幡の叔父に当たる。後の三代将軍実朝)を将軍にしたかったためでした。(慈円「愚管抄」)

鎌倉・妙本寺

 この北条氏によって滅ぼされた比企一族の館跡には、妙本寺が建立され、私もお参りしたことがあります。この寺は、比企能員の末子で、事件当時は京都で勉学中だったため生き延びた比企能本(よしもと)が文応2年(1260年)に日蓮宗に帰依して建立したものです。

 境内には比企一族の供養塔もあります。当時の比企館の一部でしょうが、妙本寺は広大な敷地でした。鎌倉時代は想像した以上に血なまぐさい武力闘争が頻発していたことを改めて思い起こしました。

 1980年代の往年のアイドル歌手で、今も女優として活躍する比企理恵さんは、比企一族の末裔と言われ、御先祖を意識して、全国の寺社仏閣巡りを心掛けているという話を聞いたことがあります。

鎌倉五山の円覚寺~浄智寺~建長寺~寿福寺、そして源義朝、太田道灌ゆかりの英勝寺に参拝

 12月12日の日曜日、思い立って、「鎌倉五山」巡りを決行して来ました。

 「鎌倉五山」とは、御説明するまでもなく、神奈川県鎌倉市にある臨済宗の禅寺で、第一位建長寺、第二位円覚寺、第三位寿福寺、第四位浄智寺、第五位浄妙寺の寺院とその寺格のことで、一説では北条氏によって制定されたといいます。

 「京都五山」(別格南禅寺、第一位天竜寺、第二位相国寺、第三位建仁寺、第四位東福寺、第五位万寿寺)と対をなしていますが、残念ながら、その規模や雄大さ、壮麗さ等を含めて鎌倉五山の方がどうしても見衰えしてしまいますが、国宝、重文級のものもあり、とても等閑にはできません。

 来年(2022年)というより、来月から始まるNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が放送されれば、鎌倉はまためっちゃ混みますから、人混みを避けたかったのでした。

鎌倉五山第二位 円覚寺
鎌倉五山第二位 円覚寺

 皆様御案内の通り、私自身、鎌倉五山第五位の浄妙寺に関しては既に昨年8月にお参りしたばかりですので、今回は、残りの4寺院をお参り致しました。(浄妙寺は、「八幡太郎義家」こと源義家のひ孫で足利氏二代目義兼(よしかね)が1188年に創建。2020年8月12日付の渓流斎日乗「いざ鎌倉への歴史散歩=覚園寺、鎌倉宮、永福寺跡、大蔵幕府跡、法華堂跡、浄妙寺、報国寺」をご参照)

 まずは第二位の円覚寺を目指しました。JR横須賀線の北鎌倉駅からすぐ近くです。

 円覚寺(拝観志納金500円)はかつて数回はお参りしていますが、もう20年ぶりか、30年ぶりぐらいです。もうほとんど覚えていません。

鎌倉五山第二位 円覚寺 山門

 円覚寺といえば、私の場合、すぐ夏目漱石のことを思い起こします。三部作の最後に当たる「門」の舞台になったところで、漱石自身もここの宿坊「帰源院」で明治27年12月下旬から1月7日まで座禅修行したことがありました。横須賀線は明治22年に開通しています。

 現在も座禅が出来るようですが、一般といいますか、在家向けは、新型コロナの影響で結構中止になったようです。

鎌倉五山第二位 円覚寺

 円覚寺は1282年創建、第八代執権北条時宗が蘭渓道隆亡き後、中国から招いた無学祖元(後の仏光国師)が開山しました。その2年後に亡くなった時宗と九代貞時、最後の十四代執権高時をお祀りしています。

 
鎌倉五山第二位 円覚寺 舎利殿(国宝)

 円覚寺といえば、何と言っても国宝の舎利殿(仏陀の歯牙をお祀りしている)ですが、お正月三が日など特別な期間以外は拝観制限されているとのことで、遠くから写真を撮るのみでした。

 この舎利殿は、三代将軍源実朝が、宋の能仁寺から請来したもので、鎌倉の太平寺(尼寺・廃寺)から仏殿(鎌倉末~室町初期に再建)を移築したものだといいます。

鎌倉五山第四位 浄智寺 鎌倉では珍しい唐様の鐘楼門
鎌倉五山第四位 浄智寺

 次に向かったのが、 鎌倉五山第四位の浄智寺 (拝観志納金200円)です。円覚寺から迷わなければ、歩7,8分というところでしょうか。途中、駆け込み寺として有名な東慶寺がありましたが、我慢して通り過ぎました。

 浄智寺の正式名称は、臨済宗円覚寺派金宝山浄智寺です。第五代執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔うために1281年頃に創建されました。開基は宗政夫人と諸時親子。開山は、建長寺第2代住職も務めた中国僧兀庵普寧(ごったん ふねい)ら3人です。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 御本尊は、阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒如来の木造三世仏坐像(神奈川県重要文化財)です。

 これは、後で知ったのですが、映画「ツィゴイネルワイゼン」や「武士の一分」などが境内で撮影され、映画監督の小津安二郎や日本画家小倉遊亀らがこの寺域で暮らし、墓所には作家澁澤龍彦らが眠っております。

鎌倉五山第一位 建長寺
鎌倉五山第一位 建長寺

 次に向かったのが 鎌倉五山第一位の建長寺(拝観志納金500円)です。やはり、第一位だけに迫力が違いました(笑)。かつて、一度は参拝したことがあったのですが、これまた全く記憶にありません(苦笑)。

 100年の歴史がある進学校「鎌倉学園」(加藤力之輔画伯、サザンの桑田佳祐の出身校)が隣接していたことも今回初めて知りました。

 正式名称は巨福山(こふくざん)建長興国禅寺。上の写真の 巨福山 の「巨」の字に点が付いているのは、十代住職一山一寧(いっさんいちねい)が筆の勢いに任せて書いてしまったといいます。しかし、結果的にその点が全体を引き締めて百貫の値を添えたことから「百貫点」と呼ばれるようになったといいます。

鎌倉五山第一位 建長寺 三門

 建長寺は、建長5年(1253年)、五代執権北条時頼が建立した我が国最初の禅宗専門寺院です。開山(創始者)は、中国の宋から33歳の時に来日した蘭渓道隆(後の大覚禅師)です。

 上の写真の「三門」は国の重要文化財に指定されています。三門とは、三解脱門の略で、「空」「無相」「無作」を表し、この三門をくぐることによって、あらゆる執着から解き放たれることを意味するといいます。

 神社の鳥居のような役目を果たしていたんですね。

鎌倉五山第一位 建長寺

 この梵鐘は国宝です。重さ2.7トン。開山した大覚禅師の銘文もあります。

 この梵鐘から、夏目漱石が「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」という句をよみました(明治28年9月)。これに影響されて、漱石の親友正岡子規が「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」を作ったと言われます。漱石が子規の影響を受けたのではなく、その逆です。

鎌倉五山第一位 建長寺 仏殿 地蔵菩薩坐像

仏殿は、国の重文で、 地蔵菩薩坐像 が安置されています。

 現在の建物は四代目で、東京・芝の増上寺にあった二代将軍徳川秀忠夫人お江の方(三代家光の母)の霊屋を建長寺が譲り受けたといいます。

鎌倉五山第一位 建長寺 法堂 千手観音菩薩 雲龍図(小泉淳作画伯)

  法堂は、僧侶が住持の説法を聴き、修行の眼目とした道場です。388人の僧侶がいたという記録もあります。現在の建物は、文化11年(1814年)に再建されたもので、御本尊は、千手観音菩薩です。天井の「雲龍図」は建長寺創建750年を記念して、小泉淳作画伯によって描かれました。

 小泉淳作画伯は、京都の建仁寺の「双龍図」も描かれています。

 小泉淳作画伯の美術館は私もかつて仕事で赴任したことがある北海道十勝の中札内村にあります。確か、小泉画伯は、このような壮大な雲龍図などは、廃校になった小学校の体育館をアトリエにして描いていたと思います。

鎌倉五山第一位 建長寺 葛西善蔵之墓

 境内には、太宰治も敬愛した無頼派の元祖とも言われる私小説作家の葛西善蔵の墓がある、とガイドブックにあったのでお参りしてきました。

 案内表示がないので、結構迷いましたが、階段を昇った高台にありました。葛西善蔵は、極貧の中、昭和3年に42歳の若さで亡くなっていますが、今でも新しいお花が生けてありました。忘れられた作家だと思っていたので、いまだに根強いファンがいらっしゃると思うと感激してしまいました。

鎌倉市山ノ内 カフェ「Sakura」 ビーフカレー(珈琲付)1300円

 時刻も午後1時近くになり、お腹も空いてきたのでランチを取ることにしました。本当は、ガイドブックに出ていた「去来庵」という店で名物のシチューでも食べようかと思ったら、コロナの影響で、喫茶のみの営業でしたので諦め、建長寺近くにあったカフェに入りました。

 量的には少なかったのですが、大盛にすると1500円です(笑)。でも、お店のマダムはとても感じが良い人だったので、また機会があれば行きたいと思わせる店でした。

浄土宗 東光山英勝寺
浄土宗 東光山英勝寺

次に向かったのが、最後に残った 鎌倉五山第三位の寿福寺 です。

ランチを取ったカフェの目の前の亀ヶ谷坂切り通しを通りましたが、「切り通し」というくらいですから、中世に谷間を削って出来た人工的な道ですから、かなりの急勾配でした。

 建長寺辺りは「山ノ内」で、この 亀ヶ谷坂切り通し辺りから「扇が谷」という地名になります。歴史好きの人ならすぐピンとくるでしょうが、室町時代になると、関東管領の山ノ内上杉家と扇が谷上杉家とが熾烈な争いをします。両家の勢力圏がこんな近くに隣接していたとは行ってみて初めて分かりました。

 寿福寺に行く途中で、全く予定のなかった「鎌倉五山」ではない英勝寺を通り過ぎようとしたところ、上の写真の「太田道灌旧邸跡」の碑があったので吃驚仰天。予定を変更してこの浄土宗東光山英勝寺(拝観志納金300円)もお参りすることにしました。

 英勝寺自体は、太田道灌から数えて4代目の康資(やすすけ)の娘で、徳川家康の側室、お勝の方(英勝院)が1636年に創建した鎌倉唯一の尼寺です。

 太田道灌は江戸城や河越城などを築城した武将ですが、扇ケ谷上杉氏の家宰だったので、ここに邸宅があったのですね。

浄土宗東光山英勝寺の御本尊、阿弥陀如来三尊像は運慶作ということですが、国宝に指定されていないのでしょうか?

 でも、太田道灌で驚いていてはいけません。

 英勝寺の「拝観のしおり」には、ここは平安時代末期に、源頼朝の父義朝の屋敷だったというのです。「えーー、早く言ってよお」てな感じです。

 源義朝と言えば、保元・平治の乱で活躍した人で、義朝は平治の乱で平清盛らに敗れて敗走し、途中尾張で部下に殺害されたと言われます。行年36歳。お蔭で、嫡男頼朝は幼かったので伊豆に流され、その後、その土地の北条政子と結婚し、鎌倉幕府を築いていく話は誰でも知っていることでしょうが、頼朝の父義朝が鎌倉に居を構えていたことを知る人は少ないと思います。

 源頼朝の生地は、母の実家がある尾張の熱田神宮の近くと言われますが、父義朝が鎌倉に所縁があったので鎌倉に幕府を開くことにしたのでしょうか? 幼い時に、この鎌倉の義朝邸に頼朝も住んだことがあったのでしょうか?

鎌倉五山第三位 寿福寺
鎌倉五山第三位 寿福寺

 今回、最後に参拝したのは、英勝寺に隣接していた鎌倉五山第三位の寿福寺でした。

 ここは山門から堂宇にかけては非公開なので、拝観志納金もないのですが、そのためパンフレットもありません。

 でも、上の看板にある通り、とても重要な寺院なのです。

鎌倉五山第三位 寿福寺 中門

 何と言っても、正治2年(1200年)、頼朝の妻政子が開基し、日本の臨済宗の開祖栄西が開山した鎌倉五山最古の寺院なのです。

鎌倉五山第三位 寿福寺 北条政子之墓

 境内には北条政子と、政子の次男で暗殺された三代将軍源実朝ののやぐら(墓地)もあります。

鎌倉五山第三位 寿福寺 源実朝之墓

 標識があまりないので、恐らく、一番奥まったところにあるのだろう、と勝手に想像して、やっと探し当てました。

 実朝は、将軍ながら「金槐和歌集」でも有名な歌人でもありました。大海の磯もとどろに寄する波破れて砕けて裂けて散るかも なんて良いですよね。

鶴岡八幡宮で、甥の公暁に暗殺されたのは1219年。今から800余年前のことです。やぐらの写真を撮らさせて頂いたところ、何か、無念のまま亡くなった右大臣実朝将軍の霊がこちらに迫ってきたような感じがしました。

鎌倉時代は難しい…=何だぁ、京都との連立政権だったとは!

 日本史の中で、鎌倉時代とは何か、一番、解釈が難しいと思っています。貴族社会と武家社会の端境期で、三つ巴、四つ巴の争い。何だかよく分からないのです。私自身の知識が半世紀以上昔の高校生レベルぐらいしかない、というのも要因かもしれませんが、歴史学者の間でも、侃侃諤諤の論争が展開されているようです。(武士の定義も、「在地領主」と考える関東中心の図式と、京都で生まれた殺人を職能とする「軍事貴族」と考える関西発の図式があるそうです=倉本一宏氏)

 第一、源頼朝による鎌倉幕府の成立が、1192年だということは自明の理だ、と私なんか思っていて、語呂合わせて「イイクニ作ろう鎌倉幕府」と覚えていたら、

(1)治承4年(1180年)12月=鎌倉殿と御家人の主従関係が組織的に整えられた。

(2)寿永2年(1183年)10月=頼朝の軍事組織による東国の実効支配を朝廷が公認。

(3)文治元年(1185年)11月=守護・地頭の設置が朝廷に認可された。

(4)建久元年(1190年)11月=頼朝が右近衛大将(うこんのえたいしょう)に任官。

(5)建久3年(1192年)7月=頼朝が征夷大将軍に任官。

 と、成立年に関しては、こんなにも「諸説」があるのです。

 驚くべきことには、もう鎌倉時代という時代区分の言い方は実態に沿っていないと主張する学者も出てきて、2003年の吉川弘文館版「日本の時代史」では、「京・鎌倉の王権」と表記するほどです。つまり、鎌倉時代は、江戸時代のように京都の朝廷の権力が衰えていたわけではなく、京都と鎌倉で政権は並立していたという解釈です。

 源頼朝が、鎌倉に幕府を開く前後に、平家との戦いだけでなく、同じ身内の源氏の叔父やら実弟らとの間で権力闘争や粛清があったりしますが、京都や北陸では木曽(源)義仲(頼朝の従兄弟)が実効支配していたり、朝廷は後白河法皇が実権を手放さず、譲位後も34年間も院政を敷いたりしておりました。

◇「歴史人」7月号「源頼朝と鎌倉幕府の真実」特集

 といったことが、「歴史人」7月号「源頼朝と鎌倉幕府の真実」特集に皆書かれています(笑)。この雑誌一冊読むだけで、鎌倉史に関する考え方がまるっきり変わります。「今まで勉強してきた鎌倉史は一体、何だったのか?」といった感じです。

 登場する人間関係が色々と複層しているので、家系図や年表で確認したりすると、この雑誌を読み通すのに、恐らく1カ月掛かると思います。私もこの1冊だけを読んでいたわけではありませんが、1カ月経ってもまだ読み終わりません。仕事から帰宅した夜に1日4ページ読むのが精いっぱいだからです。この中で、一番、目から鱗が落ちるように理解できたのが、近藤成一東大名誉教授の書かれた「日本初の武家政権『鎌倉幕府』のすべて」(58~59ページ)です。

 それによると、1180年に頼朝が鎌倉に拠点を定めた時点では、頼朝は朝廷から見れば依然として反逆者であり、頼朝の勢力圏は東国に限られていました。西国は、安徳天皇を擁する平家(平宗盛)の勢力圏に属し、北陸道は木曽義仲、東北は藤原秀衡の勢力圏に属していました。(…)その後、このような群雄割拠している状況で、東国における荘園、国衙領の支配を立て直すのに、朝廷は頼朝の権力を必要としたというのです。「鎌倉時代」と呼ばれてきたこの時代を鎌倉の政権と京都の政権が共存し相互規定的関係にあった時代だと定義し直すと、この時代の始まりは、鎌倉幕府と朝廷との共存関係が成立した寿永2年(1183年)と考えるのが適当であろう。

 へー、そういうことだったのですか。…となりますと、鎌倉時代は今風に言えば、

1183年、鎌倉・京都連立政権成立

 といった感じでしょうか。

紫陽花

 来年のNHKの大河ドラマは「鎌倉殿の13人」(三谷幸喜脚本)が放送される予定ですが、この本は、この番組を見る前の「予習」になります。

 鎌倉殿13人とは、源頼朝の死後、二代将軍頼家ではなく、頼朝の御家人ら13人が合議制で支配した機関のメンバーのことですが、凄まじい内部での権力闘争で、最後は執権になった北条氏が他のライバルを粛清して権力を独占していったことは皆さま、御案内の通りです。

 13人のメンバーの中で、まず、北条時政(初代執権)と北条義時(二代執権、頼朝の妻政子の弟でドラマの主人公、鎌倉に覚園寺を創建)は実の親子。元朝廷の官人だった中原親能大江広元(政所初代別当、長州毛利氏の始祖とも言われていますが、この本では全く触れず)は兄弟で、侍所の別当和田義盛三浦義澄の甥。また、安達盛長の甥が、公文所寄人足立遠元といった感じで、13人は結構、縁戚関係が濃厚だったことを遅ればせながら、勉強させて頂きました。

 また、鎌倉殿13人の一人で、頼朝の乳母だった比企尼(びくに)の養子となった比企能員(ひき・よしかず)は、二代将軍源頼家の岳父(比企の娘若狭局が頼家に嫁ぐ)となったお蔭で、権勢を振るうことになりますが、北条時政の謀略で滅ぼされます。比企一族の広大な邸宅の敷地跡は、私も昨年訪れたことがあり、「今では日蓮宗の妙法寺になっている」と昨年2020年9月22日付の渓流斎ブログ「鎌倉日蓮宗寺院巡り=本覚寺、妙本寺、常栄寺、妙法寺、安国論寺、長勝寺、龍口寺」に書いたことがありました。比企一族の権力がどれほど膨大だったのか、その敷地の広さだけで大いに想像することができました。

【追記】

 三重県津市に「伊勢平氏発祥の地」の碑があるそうです。ここは、平清盛の父忠盛が生まれた場所だということです。刀根先生は行かれたことがあるんでしょうか?