銀座、ちょっと気になるスポット(1)=ジョン・レノンの「樹の花」

 《渓流斎日乗》のブログは2005年3月に始めたので、今年でもう17年になります…中途半端ですね(笑)。この17年間、どういうわけか、このブログが原因でかつては親しかった友人たちが、疎遠になってしまう事案が複数回、起きています。このままブログを続けて良いものか迷い道にはまり、正直、かなり落ち込んでおります。

 ある友人の非難の理由は、このブログが「衒学的過ぎる」ということでした。ま、小難しいことばかり書いていて、気取っている、ということなのでしょう。生意気だ、気に喰わないということなんでしょう。本人は全くペダンチックだとは思ってはおりませんが、預言者というものは、お里が知れた故郷では受け入れられないものです。

 「賢い読者からの指摘があれば、問題になりそうな箇所はすぐ削除する。まるで自民党の手口だね。男気がない」などという批判もありました。

 「どうしようもない三流のマスコミに何十年もしがみついてきた三流のジャーナリストの書くものは、読むに値しない」と直球を投げて来る友人もおりました。

 読みたくなければ、読まなければいいのですよ。わざわざ、アクセスする必要もないでしょう。と、言わなくても友人たちはとっくに離れて、このブログはもう読んでいないと思いますが(笑)。

 それにしても、世間に影響も与えないこんな小さな無名のブログが、何でそこまで、見ず知らずの赤の他人からではなく、親しかった友人たちから非難されなければいけないのか、理解に苦しみます。欧米では食事中に政治や贔屓チームの話をすることはタブー視されていますが、私自身もなるべく現在の世論を二分にするような政治的イッシューを取り上げることはわざと避けて来ました。炎上してもその場限りです。実にくだらない。わざとらしいし、恥ずかしい。わざわざ火中の栗を拾うこともないでしょう。

 もう、生身の現代人を扱うことは嫌になったので、最近のブログでは、なるべく歴史上の人物を取り上げるようにしていたのですが、それでも、やはり、衒学的ですかねえ?

 まあ、好きにしてくださいな。嫌ならアクセスしなければ良いだけの話です。こちらは、お読み頂ける読者の皆様がいらっしゃる限り続けていくだけです。勿論、感謝を込めて。

 さて、そんな中で、考えた企画は「銀座、ちょっと気になるスポット」シリーズです。飲食店だけでなく、気になった史跡なども取り上げて、お茶を濁そうかと思ったわけです。実は、これまでこのブログに登場したサイトも重ねて取り上げるかもしれませんが、その点はどうか御勘弁ください。

 記念すべき第1回は「樹の花」という喫茶店を取り上げることに致しました。失礼ながら、ランチにカレーライスを出すような何の変哲もない喫茶店ですが、あのジョン・レノンとオノ・ヨーコが利用したお店でした。

 1979年夏のことです。何とこの店が開店して4日目だったそうです。東銀座の歌舞伎座の「横」にありますから、てっきり、ジョンとヨーコが歌舞伎を見た帰り、たまたま立ち寄った喫茶店かと思っていたら、お店にしっかり説明書きがありました。

 ジョンとヨーコはハイヤーで築地の映画館に来ると、子どもたちだけを降ろして「スーパーマン」が終わる時間までどこかゆっくり過ごせる場所を探して銀座4丁目の方へ歩き始めた。…少し歩いた所で、偶然、樹の花という看板を見つけた。…二人は入り口に近い窓際のテーブルに向かい合って座った。コロンビアコーヒーとダージリンティーを注文すると互いの目を見つめながら静かに語り合う。…

 築地の映画館とは恐らく「東劇」のことでしょう。このビル(松竹本社)は改修(建て替え)されることが決まっており、間もなく閉館されます。

 「樹の花」は、ビートルズ・フリークの私ですから、一度、ジョンとヨーコが座った同じ席に座ったことがあります。今はどうなっているのか知りませんが、10年ぐらい昔、私が利用した時は、席の壁に二人の写真が飾られていました。

上野・洋食「黒船亭」1979年8月 ジョン・レノン(前列右から2人目)とオノ・ヨーコ ※お店の人に許可を得て撮影しております

 そう言えば、今年2月28日に行った上野の老舗高級洋食店「黒船亭」にも、訪れたジョンとヨーコの写真が店内に飾られていました。撮影日が1979年8月とありますから、ちょうど銀座の「樹の花」を訪れた時と同じような頃です。偶然の一致に少し驚いてしまいました。

 それにしても、「樹の花」が開店して4日目にジョンとヨーコが偶然、訪れ、この店は、それ以来今日まで43年間も続いているとは…。残念ながら、ジョン・レノンはそれから1年半後の1980年12月8日にニューヨークの自宅前で暗殺されてしまいます。行年40歳。

ジョン・レノンが愛した洋食店に行って参りました=東京・上野の老舗「黒船亭」

 ロシアが2月24日にウクライナに侵略して、5日経ちます。民間人にもかなりの犠牲者が出たようですが、停戦交渉も「画に描いた餅」のように現実性がなく、膠着状態のようです。

 こんな蛮行は、冷戦時代にもなく、戦後初めてではないかと思っていたら、冷静に振り返ってみれば、ソ連時代の1956年に「ハンガリー動乱」と1968年に「プラハの春」がありました。いずれも、戦車で首都を制圧し、ブタペストでは数千人、プラハでは約400人の市民の死者を出しています。前者は、ソ連のフルシチョフ首相、後者はブレジネフ第一書記が最高責任者でしたが、プーチン大統領も彼らの顰に倣ったのでしょうか。

 ただ、信じられないような未確認情報が飛び交っています。「プーチン大統領は、パーキンソン病を患っており、正常な判断ができない」(英「サン」紙など)のだと。プーチン大統領は、ベラルーシのルカシェンコ大統領と会談した際、彼の左手が痙攣しているようで、椅子の後部を左手で必死に抑えているビデオが流れ、確かに不自然さを誰でも感じてしまう映像でした。

 ロシアによるウクライナ侵略について、世界の多くの識者が「狂気の沙汰」と批判していますが、もし、そのまま文字通り、プーチン大統領が正常な判断が出来ない状態だとしたら、そんな人間が核のボタンを握っていることになり、夜も眠れないほど恐ろしくなりますね。

上野・洋食「黒船亭」ビーフシチュー・セット グラスワイン クロズリーデ・ピノ・ノワール950円

 さて、昨日の渓流斎ブログの「昭和の香りがする名店を紹介=森まゆみ著『昭和・東京・食べある記』」の中で、「上野の『黒船亭』には、いつか行くしかない」と書きましたが、昨晩、会社の帰りに途中下車して行って参りました。

 思い立ったが吉日。「このブログを書くため」にですから、御苦労さまのことです。どうせ、誰一人、褒めてくれないでしょうけどねえ(苦笑)。

上野・洋食「黒船亭」1979年8月 ジョン&ヨーコ ※お店の人に許可を得て撮影しております

 何としてでも行きたかったのは、偏に、尊崇するジョン・レノン様が行かれた店だったからでした。並ぶのが嫌なので、ネットで予約しましたが、結構空いていて、何と、私が予約して確保して頂いた席の壁に、ジョンとヨーコが訪問した時の記念写真が飾ってあったのです。

 撮影日は「1979年8月」とありましたから、ジョンが暗殺される1年4カ月前のことでした。老けて見えますが、当時38歳です。

 天下のジョン・レノンなんだから、カラーで撮ってくれよお、と突っ込みたくなりましたが、こんなに当たり前にカラー写真が普及したのは、せめて、80年代以降だったことでしょう。私の学生時代は1970年代でしたから、白黒写真が多いです。

上野・洋食「黒船亭」ビーフシチュー・セット5220円

 何を注文しようかと思いましたが、電車の中で考えていた通り、ビーフシチューにしました。コース料理もありましたが、それほど空腹でもなかったので、サラダとパンとコーヒーの付いたセットにしました。

 このセットで5220円ですから、あのプーチンさんの全盛期のように、正常な判断が出来る状態でしたら、こういう高級料理店に足を踏み入れることはありませんでした(笑)。

 ついでに、仏産クロズリーデ・ピノ・ノワールのグラスワインを頼んだら、驚くほどドデカイ、ワイングラスを持ってきてくれ、「どんだけ注いでくれるんかいなあ」と愉しみにしていたら、全体の8分の1程度、ちょこっと、注いでくれただけでした。これで950円。

 締めて、6170円でした。

上野・洋食「黒船亭」

 ビーフシチューは、シチューが少しだけで、ほとんどビーフでした。4~5時間もグツグツ煮込むようです。味付けは抜群。大抵しょっぱくなるんですが、塩加減を抑えている感じでした。こんな高くてうまいもん、ジョンとヨーコは毎日喰っていたんだろうなあ、と羨ましくなりました。

 「ビーフは4~5時間煮込む」というのは、実は、隣りのテーブルの老夫婦も同じビーフシチューを注文していて、彼らの会話が耳に入ってきたのでした。お二人とも85歳は超えているような感じで、旦那さんの方はかなり衰弱していて奥さんには我が儘放題に振舞っていました。でも、何となく、この近くに住み、不動産からの莫大な不労所得がありそうな富裕層で、通い慣れた常連客といった感じでした。

 何故なら、店の奥から、若手のシェフがわざわざ二人のテーブルの側に出てきて、「いつも有難う御座います」と最敬礼して会話しておりましたから。

昭和の香りがする名店を紹介=森まゆみ著「昭和・東京・食べある記」

 森まゆみ著「昭和・東京・食べある記」(朝日新書、2022年2月28日初版)を読んでいます。出たばっかりの新刊ですが、「『懐かしの昭和』を食べ歩く](PHP新書、2008年)や「東京人」などに掲載された一部のお店を再取材して所収したものもありました。

 著者の森まゆみさんにはもう30年近い昔、彼女が「谷根千」の編集長として脚光を浴びていた頃に、会社の新年企画でインタビューしたことがあります。千駄木にある千代紙の「いせ辰」など彼女のお気に入りのお店を一緒に回った思い出があります。でも、こんな有名な作家になられるとは思いませんでした。「鴎外の坂」「彰義隊遺聞」(新潮社)など次々と力作を発表され、最近では「聖子——新宿の文壇BAR「風紋」の女主人」(亜紀書房)も出されています。(主人公の林聖子さんは、太宰治の「メリイクリスマス」のモデルになった少女で、新宿で文壇バーのマダムをやっていた人です。私も一度訪れたことがあり、「風紋」の同人誌のようなものを頂いたことがありました。先週2月23日、93歳で亡くなりました)

 森さんは、何でこんな筆力があるかと思いましたら、早稲田大学政経学部の藤原保信ゼミ出身だったんですね。「名伯楽」の藤原ゼミからは、奥武則、姜尚中、斎藤純一、原武史、佐藤正志といった今第一線で活躍する多くの学者を輩出しています。

上野・天ぷら「天寿々」

 さて、「昭和・東京・食べある記」ですが、ムフフフ、この中で取り上げられているお店は、結構、私自身も行っております。甘味は負けますが、居酒屋でしたら森氏以上に行っていると思います。王子の居酒屋「山田屋」には週2回も行っていた時期もありましたが、ボトルキープしていた焼酎を紛失されたのに全く責任を取らないので、行かなくなりました。十条の有名店「斎藤酒場」は、作家の中島らもがこよなく愛して、大阪からわざわざ泊りがけで通ったというお店ですから、その辺りの逸話にも触れてほしかったと生意気ながら思ってしまいました(笑)。

 森氏得意の歴史から、森鴎外も通った上野の蕎麦店「蓮玉庵」や夏目漱石も贔屓にした神田の洋食店「松栄亭」が登場するかと思いましたが、取り上げられていませんでした。その代わり、上野の「藪そば」、天ぷら「天寿々」、浅草の「駒形どぜう」、神保町の喫茶店「さぼうる」「ラドリオ」「ミロンガ」、渋谷の台湾料理「麗郷」、新宿の居酒屋「地林坊」、銀座のインド料理「ナイルレストラン」…といった昭和の香りがする、いわば手堅いお店が選ばれています。

東銀座・イタリアン「ヴォメロ」マルガリータ・ランチ13200円

 森氏は「聞き書き」が得意ですから、お店の御主人らにしっかり取材しています。特に、印象深かったのは、上野の洋食店「黒船亭」の三代目の須賀光一会長の話です。初代の須賀惣吉が明治35年(1902年)に栃木から東京に出てきて、色んな商売をした上で、上野に「鳥鍋」という料亭を始めたのが原点だそうです。初代惣吉は教育熱心で、11人の子どものうち男の子には家庭教師を付け、何人かは東京大学に進学したといいます。

上野・中華「東天紅」

 三代目須賀光一会長の父利雄(二代目)も東大の美学科を出て、大正6年(1917年)に「カフェ菊屋」を始め、当時としてはモダンな輸入酒やハヤシライスやオードブルを出していたそうです。昭和12年(1937年)には初代惣吉と二代目利雄は池之端に本格中華「雨月荘」を始めます。昭和19年に三島由紀夫が出版記念会を開いたのもこの「雨月荘」だったそうです。後に、この中華店は懇意にしていた小泉さんという人に譲り、今は「東天紅」になっているというのです。

 えーー、この東天紅は、私も学生時代、一日だけですが、ウエイターのアルバイトをしたことがありました(笑)。

 須賀一族は、このほか、日本料理「世界」や天ぷら「山下」や洋品店など色んな店を展開しますが、戦災などにも遭い、戦後、昭和44年に二代目利雄は、婦人用品店を兼ねた「レストランキクヤ」を始めます。この店にはジョン・レノンとオノ・ヨーコ夫妻もみえ、写真が残っています。

 昭和61年(1986年)、その店を洋食「黒船亭」に代えたのが、この三代目の光一会長でした。残念ながら、私自身は、この店に行くといつも満員で、何人も行列をなして並んでいたので一度も入ったことがありません。この話を聞けば、いつか行くしかありません。

 ジョン・レノンも行った店ですし、こんな歴史のある店なら、30分ぐらい待ってもいいかもしれません。朧げな記憶ですが、確か戦前の「カフェ菊屋」時代、ゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実も、通っていたと思います。彼はかなりのグルメでしたから、結構、銀座、浅草など東京の高級料理店をはしごしているのです。

 【追記】

「黒船亭」のHPを見たら、現在は、4代目の須賀利光氏が店主になっておられました。