丸山議員の「戦争しないと、どうしようもなくないですか」発言はいかがなものか

 大阪選出の丸山穂高衆院議員が北方四島の返還に関連して、「戦争しないと、どうしようもなくないですか」などと発言した問題。大騒動になり、彼の所属する日本維新の会が「除名処分」にするまで発展しました。 

 丸山氏は議員を辞職せず、このまま無所属として活動するようですが、国会議員としての自覚が足りないというか、勉強不足ですね。

 外見は若いイケメンで、チャラ男風という感じですが、東京の最高学府の経済学部を卒業して経産省に入省していた経歴には驚きました。外見とのミスマッチに驚いたというのではなく、「その程度なのか?」という驚きです。

 丸山議員は35歳ということで、学業途中で学徒出陣した世代の孫世代に当たります。私たちのように、二代目の子の世代なら、親から散々悲惨な戦争体験の話を聞くことはできましたが、もう三代目となると無理なんですね。哀しい哉、やはり、人間は痛い目に遭わなければ分からないんですね。

 ここ1週間、たまたま、和田春樹著「朝鮮戦争全史」(岩波書店、2002年3月11日初版)を、老骨に鞭を打って読んでいます。重い(笑)。本文だけで492ページの大作です。やはり、朝鮮戦争を知らなければ、現代史を語れないからです。これを読むと、自分の不勉強を恥じますね。私の場合、近現代史の勉強は、満洲問題から東京裁判あたりで終わってしまってましたが、この本を読むと、人間が生きている限り歴史は続いていたことが分かります。当たり前ですが。

 特に、満洲=中国東北部は、大日本帝国なき後、「真空地帯」になったのか、中国共産党と国民党との間の内戦で、最も激戦が続いた戦場になり、北朝鮮の金日成主席は、満洲派と呼ばれ、戦中は満洲でのパルチザンとして活動していたと言われます。

 1950年6月25日(日)午前4時40分に、朝鮮戦争が勃発します。しかし、戦争は急に始まったわけではなく、1年前から、いや1948年に、ソ連による北朝鮮と米国による韓国という二つの分断国家が成立してから「統一国家」を目指して始まっていたようです。

 同書では、多くの往復書簡や暗号電報などが引用されていますが、北朝鮮の金日成らは、ソ連のスターリンと中国の毛沢東の「お墨付き」を得て、圧勝できる確信を持って開戦したようです。

 1953年7月 27日午前10時20分、板門店で停戦協定が調印されましたが、この戦争で、韓国人 約133万人(うち軍人は約24万人で、ほとんど民間人)、北朝鮮人約272万人(うち軍人約50万人、平壌は米軍による空爆で壊滅した)、中国人約100万人(中国の公式発表は2万9000人)、 米国人約5万4000人、ソ連299人が死亡したと著者は推定しております。朝鮮戦争は、事実上、米ソ戦(空域)と米中戦(地上)でした。日本人も哨戒船などで出動し、数十人が戦死したといわれています。(レーダーに捉えにくい木造船で、近海に詳しい日本人の船員らが犠牲)

 この朝鮮戦争期間中、日本人にとっても忘れてはならない大きな歴史的出来事がありました。1950年8月10日の警察予備隊(後の自衛隊)創設と、1951年9月8日のサンフランシスコ講和条約締結(52年4月28日発効)です。

 詳細については、リンクを貼りましたので、お読みいただくことにして、このサンフランシスコ講和条約で、日本は、千島列島と南樺太への権利・権原・請求権をも放棄しました。千島列島には北方四島も含まれますね。

 あ、やっと最初に書いた丸山議員の発言につながりました(苦笑)。

 ドイツの哲学者カントや大作曲家ワーグナーらが住んでいた街として有名な歴史的都市ケーニヒスベルクは、第2次世界大戦で徹底的に破壊され、今ではカリーニングラードと改名され、ロシアの領土(飛び地)となっています。

 戦争とはそれほど非情で悲惨で、不条理だという事実を若い国会議員は想像すらできないのでしょうか。まさか、彼自ら、三八式歩兵銃を持って最前線に行くつもりで発言したわけではないでしょうから。

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