日本はスパイ天国? =小谷賢著「日本インテリジェンス史」

 ちょっと必要に迫られて、小谷賢著「日本インテリジェンス史」(中公新書)を読了しました。正直、あまりスラスラ読める本ではなく、2週間ぐらい掛かりました。今年8月25日初版発行となっていますので、今年7月に暗殺された安倍元首相は、「安倍晋三(1954~2022)」と早くも歴史上の人物となっています。

 ちょっと偏狭な見方をしますと、この本は、長年の縦割り行政の弊害から各省庁(警察庁、外務省、防衛省、内閣府など)で共有して来なかった機密情報の一括収集機関として、2013年からその翌年にかけて国家安全保障会議(NSC)とその事務局の国家安全保障局(NSS)を設置させ、特定秘密保護法を成立させたそれまでの道のりと功績を讃えるような趣旨になっていると思います。紆余曲折の末、最後にまとめたその最大の功労者は安倍元首相であり、外事警察官僚出身で2011年から8年近く内閣情報官を務めた北村滋氏(1956~)となるようです。

 私は、タイトルの「日本インテリジェンス史」から、もっと戦前の、陸軍と海軍との対立や軍部と外務省との覇権争いなどの歴史が事細かく描かれているかと思いましたら、内容は戦後が中心でした。もっとも、著者によると、戦前は情報や機密や諜報、防諜などと言われていたことが、広い意味を含めて「インテリジェンス」という言葉に置き換えられて市民権を得たのは、2006年に「インテリジェンス 武器なき戦争」(佐藤優と手嶋龍一との初の対談本)が23万部のベストセラーになってから、ということですから、「インテリジェンス史」が21世紀の話が中心になるのは当然かもしれませんが。

 現在、日本は秘密保護法やスパイ防止法等が整備されましたが、それまでの日本は「スパイ天国」と揶揄されていたといいます。特に、1954年、駐日ソ連二等書記官を表向き装いながら、内実はソ連内務人民委員部(NKVD、後のKGB)所属の諜報員だったラストボロフ事件が有名ですが、それ以降も、やりたい放題で、日本の機密情報がソ連側に筒抜けだったのでした。

 ラストボロフ事件は、戦後間もないこともあり、シベリア抑留から日本帰国を引き換えにソ連に協力を強制された「誓約引揚者」を多く使って16人の工作員が仕立てられました。彼らは外務省職員や元軍人や大手新聞社のモスクワ支局長だったりした人です。(50ページで、警視庁が同事件で逮捕した庄司宏の肩書が「通産省通産局市場第一課課員」となってますが、「外務省国際協力局第一課課員」の間違いではないかと思われます)

 ラストボロフ事件以降にも、ソ連がらみに限っただけでも、1969年のセドフ事件、71年のコノノフ事件、74年のクブリッキー事件、76年のマチューヒン事件、同年のゴットリーブ事件、それに80年のコズロフ・宮永事件などあったようです。個人的には全く同時代で起きた事件だったというのに、寡聞にもよく知りませんでした。不明を恥じます。

 しかし、これだけ多発するとスパイ防止法や特定秘密保護法の制定を多くの市民が待ち望み、成立すれば、諸手を挙げて大賛成するのが当然と思いきや、何度も世論の反対等があって、法の成立まで戦後70年以上も掛かったのは、やはり、一部で警戒心が強かったからではないでしょうか。その原因の一つは、戦前の治安維持法を思い起こさせ、為政者の恣意的判断で、ナンボでも冤罪を生み出せそうだからです。

 この本では、筆者はあくまでも推進派であり、ゼロではありませんが、あまり批判的見解は見当たりません。それは、恐らく、筆者が、御自分の体験として本文とあとがきに書いてある通り、2005年に、PHP総研の提言書「日本のインテリジェンス体制―変革へのロードマップ」作成者の一人に選ばれたインナーサークルの人だったせいかもしれません。

 蛇足ながら、92ページに「実際に本法(軍機保護法)が適用されたのは41年のゾルゲ事件ぐらいであり」と書かれていますが、軍機保護法といえば、42年の「宮沢レーン事件」を少し取り上げてほしかったです。当時、北海道帝国大学工学部の学生だった宮沢弘幸が大学の英語教師で親しくしていたレーン夫妻に軍事機密を漏らし、夫妻もその機密を在日米大使館に伝えたとされる事件で、実際は、宮沢の道東旅行の土産話程度で、軍機とされた根室第一飛行場の存在も、市販の地図に掲載されていたという冤罪でした。(夫妻は、北海道で服役した後、米国へ強制送還。宮沢氏は拷問を受け、戦後釈放されたものの、27歳で病死。)

 こういう例を知っているせいなのか、秘密保護法やスパイ防止法等が制定され、NSCが設置されても、ジョージ・オーウェルの「1984」のビッグブラザーによる監視社会が強化されそうで、個人的には諸手を挙げて賛成できず、素直に喜べないのです。

 勿論、今の国際関係の危機、身近な例で言えば、ミサイルを飛ばし続ける北朝鮮や台湾の問題がある以上、法律制定は必要不可欠かもしれません。が、日本人は異様に真面目な民族なので、極端に走りがちになってしまうことを危惧してしまうわけです。

今まで食べていたスシは寿司ではなかったのか?

 ブログのネタに困ると、やはりランチになってしまいます。

 私の好物はたくさんありますが、中でもお寿司は大好物です。運の良いことに、銀座、築地界隈は全国一と言っていいくらい寿司屋さんのオンパレードです。それらは、ミシュランの星が付くような超高級店から大衆店までさまざまです。

手前がランチ寿司5万円の「とも樹」、向こうがカケ蕎麦500円の「歌舞伎そば」(東銀座)

 超高級店を列挙すれば、一番有名なのは、日本の首相が米大統領を接待する「すきやばし次郎」でしょうか。それに、「寿司界の東大」と言われる「二葉鮨」、会社からほど近い所にあってミシュランの星が付いて今最も勢いのある「鮨 銀座おのでら」辺りでしょうか。そうそう忘れていました。ランチが5万円からという歌舞伎座の裏にある「とも樹」なんかも富裕層に注目されています。老舗では「銀座 九兵衛」「銀座 きよ田」などがあり、枚挙に暇がありません。

 しかし、我々庶民は、そんな超高級店の暖簾はめったにくぐれません。(えっ?我々庶民、って一緒にするな、ですか?)

 では、私だけの場合、ランチの寿司を食する場合、大抵、値上げする前の「銀座 壮石」や「築地 きたろう」「築地 かつら」「築地 江戸銀」「築地 すしざんまい」辺りに行きます。大体、ランチ寿司1000円~1300円ぐらいで食べられるからです。「銀座 壮石」は、3年前は一番安い「染井」は980円でしたが、現在は1600円です。

 上限はないのですが、贅沢したい時は、2000円ぐらいの予算で、銀座コリドー街にある「美登利総本店」に行ったりします。

鮨 Ishijima ※撮影は板さんに断っております

 それが、本日は間違えて、予算を遥かにオーバーする寿司店に入ってしまいました。新富町にある「鮨 Ishijima」です。いつもなら大行列なのに、誰も並んでいない。扉が開いているので、中をチラッと覗き見するとほとんどお客さんがいない。「しめた!」と思って飛び込んでしまったのです。

 そしたら、ランチは4400円(十貫)と6600円(十二貫)の二種類のみ。「あれま」もう入ってしまったので仕方がない。4400円のランチを注文することにしました。

鮨 Ishijima ※撮影は板さんに断っております

 威勢の良い40代ぐらいの板さんの話によると、これまで、大行列が出来ていたのは、4400円相当?のランチを「特別ランチ」として期間限定で1650円で提供していたからだといいます。それが、先月9月いっぱいで終了したというのです。知らなかった…。

 特別ランチを提供した最終日は午後4時までランチの時間を延長したそうですが、それでも、皆、平均2時間ぐらい並んでいたそうです。

 10月になり、特別ランチがなくなった店内は、貧困層、いや失礼しました、情報通が来なくなったので、がら空きになったわけでした。それ、早く言ってよ~

鮨 Ishijima ※撮影は板さんに断っております

 しかし、板さんには隙を見せるわけにはいきません。いつも、「すきやばし次郎」や「おのでら」や「とも樹」に通い慣れているような素振りをみせなければいけません。

 でも、正直な私は、つい「こんな旨い寿司は今まで食べたことがないくらいですよ」と告白してしまいました。本当にその通りだったのです。第一に、カウンターに醤油が置いていない。「へい、お待ち」と差し出される握りには、既に味付けされているからです。醤油を置いていない寿司店なんて初めてでした。

 第二に、魚に筋っぽさが全くなく、鮪も鯵もトロリと溶けるような柔らかさ…。板さんの説明では、食材は宮城産、対馬産、房州産等の最高級魚の中でも最高級部位を取り揃えているというのです。それらは、キロ当たりで普通のものより2000円も高いというのです。道理で美味いはずです。

 となると、今まで私が食べていたお寿司は何だったのか?と思ってしまいましたよ。お金を出さなければ、本物は食べられませんね。哀しいかな、それが世の中の仕組みです。

 ちなみに、新富町「鮨 Ishijima」は銀座1丁目の「鮨 石島」の姉妹店です。銀座の本店(有名なイタリアン「ラ・ベットラ・ダ・オチアイ」の近くにあります)の方は、ランチは6600円~からです。だから、本物の鮨を出す4400円の新富町店のランチは一生に一度は経験してみると良いかもしれません。

 私も「今度また宝くじでも当たったら来ますよ」と言って、お店を出ました。

渓流斎ブログの手引き=最悪の場合は「お取り潰し」

 もひかひて、もしかして、生まれて初めて、この《渓流斎日乗》ブログにアクセスされた方がいらっしゃるかもしれません。

 というのも、私は今年4月24日、都内で大学の同窓会の講師に招かれて、講演させて頂いたのですが、時間が足りず、用意したレジュメの4分の1もお話できなかったのでした。そこで、その大学の同窓会の会報に、「お話できなかったことは、色々とブログに書いておりますので、足りない部分は是非ご参照ください」といったような趣旨といいますか、宣伝文(笑)をブログのアドレス付きで寄稿してしまったのです。(同窓会の会報は昨日、自宅に届きました)

 真面目な大学のOB、OGの皆さんのことですから、もひかひて、「あの野郎がそう言うなら、冷やかしで見てみるか」と思われた方もいらっしゃるのではないかと思ったわけです。

 しかし、初めてこのブログを読まれる方にとっては、戸惑われることも多いかもしれません。あまりにもの情報の多さで、恐らく、何をどうやって手を付けていいのか分からないと思います。

彼岸花

 そこで、私のお薦めのやり方の一つは、パソコンでしたら、サイトのトップの右に、スマホでしたらサイトの一番後ろの辺りに「検索…」Qとありますから、例えば、その中に「メディア」と書いて検索すると、過去に書かれたメディア関係の記事が出て来ます。

 私はビートルズが好きなので、結構ビートルズのことを書いていますが、やはり、検索欄に「ビートルズ」と入れて検索すると、色々と過去記事が出て来ます。私のお薦めは「銀座 新聞」と検索欄に入力して頂くと、明治時代、銀座は新聞社だらけだったことを現在の場所に行って写真を撮って5回連載した記事が出て来ますので、是非読んで頂きたいと存じます。

 でも、検索欄に「郷ひろみ」とか「SixTONES」とか入力しても記事は出て来ません。要するに「趣味が合わない」ということで、別に渓流斎ブログを今後お読みにならなくても宜しいということを意味するわけです(笑)。

 もし、かりそめにも、趣味が合ったりして、そのまま最新記事もお読み頂いたら、嬉しい限りで御座います。

◇お取り潰しの危機

 あと、申し遅れましたが、もしかして、この渓流斎ブログも今年いっぱいぐらいで、なくなってしまうことを告知しなければなりません。理由は、このブログのサイトを立ち上げ、サーバーも管理して頂いたIT技術者の松長哲聖氏が今年7月に急死されてしまったからです。松長氏の会社の後を継いでくださる方が正式に決まれば、このブログも安泰ですが、まだ御連絡がないので、今後どうなるか分かりません。

 最悪の場合、このブログも「お取り潰し」になってしまうわけです。江戸時代みたいですね。でも、人生には限りがあるわけですから、私もある程度、覚悟しております。が、世の中には、渓流斎ブログの廃絶を大喜びする輩も何人かいるので、正直、それだけは悔しいですね。

 メメント・モリ。明るく、楽しく、前向きに!

秋は何処へ行った?=今年は有名人がよく亡くなる…

 10月1日は、確か、秋・冬の衣替えの日だったはずですが、首都圏は気温が30度近くもあり、巷では半袖姿の人も目立ちました。とても、衣替えする気になりませんね。

 10月1日は都民の日でもあります。昔、学生時代、私は東京に住んでいたので、学校がお休みになり、動物園や植物園などが無料で入場できるということで大層嬉しくて、「特別な日」でした。

 こうした都営の施設に無料で入場するには河童のバッジが必要だったような覚えがあります。今は便利な時代で、調べてみたら、私が小・中・高校生時代に製作された河童のバッジをデザインしたのは、清水崑さん(1959~1975年)でした。1976年から小島功さんに引き継がれ、1997年を最後に販売されなくなったようでした。

 道理で見かけなくなったんですね。「都民の日⇒河童のバッジ」を連想できる人類は、今や絶滅危惧種かもしれません。

 東京の実家の庭ではこの通り、夏の風物詩である朝顔が満開に咲いていたのです。でも、何かおかしい。もう異常気象を通り越しています。

 ところで、老境生活に入ったせいなのか、最近、とみに時間の流れの速さに唖然としてしまいます。

 でも、私だけが年を取ったわけではなく、テレビを見ると、80年代、90年代の往年のアイドルが出演したりすると、「随分、老けたなあ」と率直に声が出たりします。自分のことは棚に置いて、相手に聞こえないようにしていますけど。

 60年代、70年代アイドルになりますと、もう今や80歳代、70歳代ですからね。そりゃあ、それなりになられていて、人相もすっかり変わってしまった人もいます。アイドルではありませんが、先日、空港で暴行容疑で逮捕された元プロ野球投手で「マサカリ投法」で有名だった村田兆治さん(72)の最近の写真が出て来ましたが、失礼ながら「えっ?この人誰?」と思ってしまいました。

 そして、今年は随分、亡くなった有名人が多い気がします。最近ではノンフィクション作家の佐野真一(75)、落語家の三遊亭円楽(72)、元プロレスラーのアントニオ猪木(79)と相次いで亡くなり、9月はジャン・リュック・ゴダール監督(91)、エリザベス女王(96)、8月はソ連のゴルバチョフ元大統領、京セラ創業者の稲盛和夫(90)、俳優の古谷一行(78)と久野綾希子(71)、ファッションデザイナーの森英恵(96)と三宅一生(84)、歌手のオリビア・ニュートン・ジョン(72)、7月は女優の島田陽子(69)、バイオリニストの佐藤陽子(72)、安倍晋三元首相(67)、歌手の山本コータロー(73)、6月はコラムニストの小田嶋隆(65)、写真家の田村武能(93)、5月はドイツ文学者の小塩節(91)、お笑いの上島竜兵(61)、作家の早乙女勝元(90)、4月はシンガーソングライターの小坂忠(73)、宗教評論家のひろさちや(85)、漫画家の藤子不二雄A(88)、社会学者の見田宗介(84)、3月は俳優の山本圭(81)と宝田明(87)、作家の宮崎学(76)と西村京太郎(91)、2月は歌手の西郷輝彦(75)、作家の西村賢太(54)と石原慎太郎(89)、女優のモニカ・ビッティ(90)、1月はベンチャーズのドン・ウイルソン(88)、漫画家の水島新司(82)、海部俊樹元首相(91)…といった具合です(敬称略)

 まさに、メメント・モリです。

銀座、ちょっと気になるスポット(8)=歌舞伎発祥之地

 しばらく中断しておりましたが、久しぶりに「銀座、ちょっと気になるスポット」シリーズを再開しましょう。

 銀座といえば、やはり歌舞伎座です。今ある歌舞伎座は明治になって、東京日日新聞社長なども務めた福地源一郎らの尽力で出来ましたが、江戸時代には、今では「歌舞伎発祥之地」になっている猿若中村座があったり、森田(守田)座(明治になって新富座に)があったり、山村座(「絵島生島事件」で廃座に)があったりしましたので、銀座は「芝居小屋町」と言っても差し支えないでしょう。

 以前、この渓流斎ブログで、守田座跡や山村座跡、新富座跡を何回かご紹介したことがありましたので、今回は歌舞伎発祥之地である猿若中村座跡(写真上)を取り上げることにします。

 場所は、京橋3丁目なので、正確に言えば銀座ではありませんが、銀座1丁目の高速下の歩道を渡ってすぐ側ですから、あまり堅いことは言わんといてください(笑)。

  座元中村勘三郎が、猿若中村座をこの地に建てたのは、寛永元年(1624年)のことです。中村勘三郎と言えば思い出してください。2022年5月17日付の渓流斎ブログ「旧友を訪ねて 43年ぶり再会も=名古屋珍道中(上)」で取り上げております。初代中村勘三郎(1598~1658年)は、あの豊臣秀吉と全く同じ現在の名古屋市中村区にある中村公園内に生まれ、その生誕記念碑が建っていることを御紹介しました。

 …中村勘三郎は、豊臣秀吉の三大老中の一人、中村一氏の末弟・中村右近の孫だと言われてます。兄の狂言師・中村勘次郎らと大蔵流狂言を学び、舞踊「猿若」を創作したといいます。 元和8年(1622年)江戸に行き、寛永元年(1624年)、猿若勘三郎を名乗り、同年江戸の中橋南地(現東京・京橋)に「猿若座」(のちの「中村座」)を建てて、その座元(支配人)となった人です。…

 これを読むと、勘三郎丈が猿若座を建てたのは26歳の若さだったことが分かります。それなりの潤沢な資金があったのでしょうか。中村屋(屋号)は現在でも続く名門中の名門の大幹部で、勘三郎はその基礎を作った人ですから、実に偉い人だったことが分かります。

コナミ本社=銀座1丁目

 先ほど、「歌舞伎発祥之地」は正確には銀座ではなく、京橋3丁目です、と書きました。

 でも、その目の前(という言い方も変ですが)は銀座1丁目です。そこは、かつてセゾングループの高級ホテル西洋銀座(2013年閉鎖)と、映画館の銀座テアトルシネマなどがあったのですが、今はすっかり様変わりして、アミューズメント会社のコナミの本社になっておりました。

 しばらく、この場所に足を運んでいなかったので吃驚です。もう30年ぐらい昔ですが、この高級ホテル西洋銀座で、セゾングループ総帥堤清二氏というか作家の辻井喬氏(1927~2013年)にインタビューしたことがあったので、隔世の感を禁じ得ませんでした。

銀座1丁目「ニューキャッスル」

 このあと、銀座1丁目にある「ニューキャッスル」に行き、ランチのカライライス(レギュラー100円)を食しました。

 喫茶店「ニューキャッスル」はかつて、蔦がからまった店舗が有楽町駅近くにあり、私も昔、通ったことがありますが、いつの間にかなくなっていました。それが、先日、テレビでやっていて、2011年に東北大震災の影響で古い建物が損害を受けるなどして閉店し、今は、常連さんだった人が三代目として切り盛りしているということでしたので、訪れたのでした。

 創業昭和21年の看板の味をしっかり受け継いでおりました。

 

 

念願の身延山久遠寺にお参り出来ました

昨日のつづき

 9月25日(日)、甲府は晴れ。甲府駅で身延線が全線復旧したことを確認し、前日、駅で予約していた特急ふじかわ4号(8時45分発)で身延駅へ。身延山久遠寺お詣りに再チャレンジです。

 JR東海身延線は単線でした。身延駅には9時38分着。9時45分発のバス・身延山駅には悠々間に合いました。この辺り、電車もバスも1時間に1本とか2本ですから、乗り過ごしたら大変です。

 何しろ、生まれて初めて独りで行く所ですから不安でした。身延駅から身延山終点までバスで12分ほどでしたが、途中で、久遠寺の「総門」があり、その巨大さに吃驚仰天し、不安も吹き飛んでしまいました。

身延山久遠寺 三門

 バス終点から、何となくこちらの方向だろうと、歩き始め、数分で三門に到着。これもあまりにも巨大で荘厳さがあり、圧倒されました。

 この三門の手前に、お土産店も兼ねた観光案内所があったので迷わず飛び込みました。私は食いしん坊の自称グルメですから(笑)、何処かランチが出来る店を紹介してもらおうと思ったのです。

 案内所の係の女性はとても親切な方で、沢山のパンフレットとマップ、それにロープウェイの(100円)割引券までくれるのです。ありがたや、ありがたやです。これで奥之院まで行けます。

菩提梯 高さ104メートル、287の石段

 いざ出発。三門を潜り抜けて、まず目に入ったのがこの急勾配の石段です。「菩提梯」と呼ばれ、高さ104メートル、287の石段があるというのです。

 ひょっえー、これは無理じゃあー。

 横道として、やや急な「男坂」と緩やかな「女坂」があり、私は男坂にすることにしました。

日蓮を身延の地に招いた鎌倉の御家人波木井実長の碑

 男坂の手前に、日蓮聖人を身延の地に招いた鎌倉の御家人で、甲斐国波木井郷の領主だった南部(波木井)実長の像と碑がありました。

 南部氏は、新羅三郎源義光の子孫で、甲斐源氏の加賀美遠光の子である南部三郎光行に始まるといわれています。その名字は甲斐国の南部郷から由来するといいます。その子孫は、近世になって南部藩(盛岡藩)の藩主となるわけです。

身延山久遠寺 五重塔 明治8年の大火で焼失し、2008年、133年ぶりに再建

 少し大袈裟ですが、息も絶え絶え、途中休憩しながら男坂をやっと登り、久遠寺境内に到着しました。

 最初にお迎えてしてくださったのは、この五重塔です。明治の大火で焼失していましたが、2008年に133年ぶりに再建されたといいます。

身延山久遠寺 本堂

 ついに本堂です。

身延山久遠寺 本堂

 本堂内は、靴を脱いで、自由にお参りできます。

身延山久遠寺 祖師堂

 本堂から祖師堂~報恩閣~拝殿~仏殿と建物内で「陸続き」になっており、それぞれのお堂を個別にお参りできます。

身延山久遠寺 祖師堂
身延山久遠寺 仏殿
身延山久遠寺 御真骨堂

 私自身はそれほど熱心な仏教徒とは言えませんが、このような聖地をお参りすると、さすがに荘厳厳粛な気持ちになれます。

 身延山に来られてよかった、身延山を参拝することが出来て本当によかった、と感謝の気持ちが沸き起こりました。

 これで、天台宗の比叡山延暦寺、真言宗の高野山金剛峰寺、浄土宗の知恩院、浄土真宗の東西本願寺、時宗の清浄光寺、臨済宗の建仁寺、曹洞宗の永平寺…と各宗派の総本山をほとんど制覇した感じです。この中で、高野山にはかなり圧倒されましたが、この身延山も比類なき聖地で圧巻でした。

 日本人だったら日蓮宗信徒でなくても、いや、世界の人類だったら誰でも、一度はお参りするべき寺院ですね、この日蓮宗総本山・身延山久遠寺は。

 何と言っても、人間の持つ信仰の力というものは凄まじい。あれだけ急勾配の石段や大伽藍をつくってしまうわけですから。

身延山第九十世 日勇上人のお言葉

 この後、ロープウェイで奥之院に向かう途中の境内で、「身延山第九十世 日勇上人のお言葉」が掲示されていました。

 このお言葉を読んで、私自身にも呼び掛けているようで、心が救われ、心が洗われ、少し涙が出て来ました。そして、これからも生きていけるような自信と勇気をもらいました。

身延山ロープウェイ 往復1500円⇒1400円

 午前11時発の身延山ロープウェイに乗りました。

 久遠寺駅(標高390メートル)から奥之院駅(同1153メートル)まで、全長1665メートル。時速18キロで所要時間7分です。と、パンフレットに書いてありました(笑)。

身延山 奥の院 思親閣

 また、そのパンフレットには、奥之院思親閣とは「日蓮聖人が身延山にご隠棲の9カ年の間、風雨厭わず山頂へ登られ、故郷房州小湊を拝し、ご両親お師匠様をお慕いなされた故事に因んで建てられたお堂」と書かれています。

 現代人はロープウェイに乗って、ズルしてしまいますが、日蓮聖人は風雨厭わず山頂へ登られたとのこと。日蓮聖人は凄い健脚だったんですね。

身延山奥之院 日蓮像

 日蓮聖人像は、鎌倉などで何像も、結構拝見したことがありますが、この像が一番御本人に似ているような気がしました。

 つまり、罰当たりになるのを恐れずに述べれば、日蓮聖人を妙に神格化せず、素の本人の姿絵がそのまま像になったように見えるのです。

日蓮聖人 お手植え杉

 日蓮聖人(1222年2月16日~82年10月13日)お手植え杉は樹齢750年を超えるといいます。

 日蓮聖人は西洋式に計算しますと、今年2022年は生誕800年、没後740年になります。が、日蓮宗では数え年を採用されているようで、昨年2021年を「日蓮聖人降誕800年」とされているようでした。

身延山 奥の院 思親閣

 どうも私はせっかちな性格なもので、11時20分発の下りのロープウェイに乗車してしまいました。山頂滞在時間、わずか20分でした(苦笑)。

菩提梯 下り287段 

 久遠寺境内を再度散策した後、いよいよ帰りです。

 今度は下りですから、菩提梯の石段に挑戦しました。公称287段となっていますが、私が勝手に数えながら降りたら294段になりました。恐らく数え間違いでしょう。

身延山 旅館山田屋 喫茶園林 ハヤシライス1200円

 さてお昼時。先ほどの観光案内所で頂いたパンフレットで目を付けていたお店に何軒か行きましたが、日曜日のせいか、閉まっていたり、「ご予約様のみです」と断られたりしてなかなか見つかりません。

 結局、身延山バス停留所の真向かいにある「喫茶 園林」に入り、ハヤシライスを頂きました。

日蓮聖人 草庵跡 御廟

 さあ、ご飯を食べてエネルギーを補給できたので、次に向かったのは、日蓮聖人の草庵跡と御廟です。

 「喫茶 園林」から3~4分で三門に戻り、三門から「草庵跡・御廟」の入り口まで歩いて6~7分。

日蓮聖人 草庵跡 御廟

 でも、入り口から草庵跡までが意外にも長かった。誰もいない坂道を10分ぐらい歩いてやっと草庵跡に辿り着きました。

日蓮聖人 草庵跡

 「ここだったのかあ」という感慨が押し寄せました。

 日蓮聖人は、修行三昧の生活で、冬は極寒で、寒さと飢えに苦しみ、胃腸病も患っていて大変な思いをされたことを手紙等に書き残されておりました。(久遠寺境内と比べ、体感温度はここは3~4度低い感じがしました。何でここに草庵を結んだのか不思議でした)

 近くに川が流れておりましたが、魚を獲るなど殺生もできるはずありませんからね。

日蓮聖人 御廟

 草庵跡からさらに先に進むと、1~2分で御廟です。

 後から来た50代ぐらいの男性が靴を脱いでここに上がって、独りで法華経を唱えていました。

日蓮聖人 御廟

 日蓮聖人は、亡くなったらこの身延の地に葬ってほしい、と言い残されたとされます。その通り、ここで静かに眠っておられると思うと、感無量になりました。随分、立派な御廟です。

 身延山にお参り出来て本当に良かったと思いました。

下部温泉

 25日は、下部温泉「湯元ホテル」に予約していたので、身延から下部温泉駅まで、また身延線で甲府方面に戻りました。

 今回、不思議なことがありました。行きの甲府から身延線で身延駅で降りて、身延山行きのバスに乗ったら杖をついた40代後半ぐらいの男性と一緒になりました。その方も久遠寺にお参りする感じでした。そして、11時発のロープウェイに乗ったら、またその男性と一緒になりました。お顔をジロジロ見たわけではないのですが、杖をついておられたので直ぐ分かりました。そして、何と、身延から下部温泉駅で降りたら、またまたこの男性と一緒になったのです。何という偶然でしょうか。「仏の顔も三度まで」なのか、その後、もうお会いすることはありませんでしたが、不思議だなあと思いました。

 湯元ホテルは、高浜虚子や海音寺潮五郎がよく贔屓にして泊まっていたという宿だったので、ここを予約したのですが、かなり建物も古くなり、昭和というか大正の感じがしました。

 夜の料理は、生ビールがサービスで付き、刺身あり、ステーキありで意外と豪華でした。温泉もゆっくり堪能出来ました。

【追記】

 台風15号による豪雨で、静岡では甚大な被害を受けました。御見舞い申し上げます。

危うし、身延山に参拝できず?甲府城に予定変更

 9月24日(土)~26日(月)、2泊3日の小旅行に行って参りました。主目的は、日蓮宗総本山「身延山久遠寺」参拝です。

 そしたら、ぎゃびーんですよ。JR中央本線、特急あずさ9号で甲府駅に向かう途中、車内アナウンスで、台風15号の影響で、身延線が「終日運休」だというのです。えっ?24日は、身延山久遠寺の宿坊「覚林坊」に宿泊する予定で、1カ月以上前から予約していました。

 どうしよう?

 覚悟を決めました。キャンセルしかない。だって、身延まで行けないのですから。当日キャンセルなので、100%キャンセル料が戻って来ないことが分かっていましたが、仕方ありません。このまま自宅に戻ろうか、迷いましたが、そうだ、甲府の何処かで一泊して、翌日に再チャレンジすることにしました。だって、甲府の山梨県はカンカン晴れで、翌日の予報も晴天だからです。

 そこで、車内で、代わりのホテルのネット予約をスマホで検索しました。1軒目、満員。2軒目、満員…。そりゃそうでしょう。当日になって、空いている方がおかしい。そして、6軒目でやっと駅前北口1分のビジネスホテルが見つかりました。「残り1室」!プチ! ジャニ―喜多川さんの「ユー、やっちまいな」の声が聞こえてきました。

甲府駅に展示された案内板

 甲府駅の改札で駅員さんに確認すると、「終日運休」は確かでした。しかし、何処となく無責任というか、他人行儀でした。被害者の親身になってくれません。

 後で分かったのですが、甲府駅の東京~松本を通る中央本線はJR東日本ですが、甲府~静岡を走る身延線はJR東海と会社が違っていたのです。もしかして、駅員はJR東日本の社員だったので、他社のことだから、という気持ちが態度に出たのかもしれません。

 今回、台風15号が静岡で1日に1カ月分の大雨を降らせる大被害を齎したので、身延線が止まってしまったわけですが、身延線は「すぐ運休する」ことで地元では有名だったようです。

 駅構内で、覚林坊に電話して、事情を話して、当日キャンセルしてもらいました。

 そしたら、吃驚です。

甲府駅北口にある武田信虎像

 もう一度、先方から折り返し電話があり、今回は不可抗力でお越し頂けなかったわけですから、宿泊料は頂くことが出来ませんというのです。次回、機会がありましたら、御願いしますということで、キャンセル料(事前予約、クレジット決済)を返還してくれるというのです。

 随分、良心的です。500年の歴史があるという身延山久遠寺の覚林坊。皆さんも覚えておいてください。

甲府・武田氏館跡

 さて、甲府駅に午前10時半頃到着し、ホテルのチェックイン(15時)まで随分時間があるので、武田神社に行くことにしました。ここは勿論、武田信虎、信玄、勝頼と三代に渡って屋敷を構えた、別名「躑躅が崎館」跡です。

 時間があれば、最終日に行く予定でしたが、逆転した格好です。

 甲府駅北口のロータリーからバスで10分ほどで着きました。(バス停を探すのに苦労しましたが)

 武田神社の拝殿前の階段を登り切ったところに、「太宰治の愛でた桜」の看板がありました。

 あ、忘れていました。太宰治は新婚時代、妻美知子さんの実家のある甲府で約8カ月間過ごし、「富嶽百景」や「女生徒」「新樹の言葉」などの名作を生んでいました。

 太宰の甲府時代は、小説を執筆した御坂峠の天下茶屋が有名ですが、当然、武田神社も訪れていたんですね。

甲府・武田神社

本殿にて、ウクライナ戦争の一刻も早い終結と人類の平和と皆さんのご健康もお祈りしました。

躑躅が崎館跡
武田神社

 神社内には能舞台までありました。

躑躅が崎館跡

 旧大手門の外に出ると、躑躅ヶ崎館跡の石垣が見られました。

躑躅ヶ崎館跡
躑躅ヶ崎館跡 あの石垣らしきものは何?

 いまだ調査、発掘、整備の途中のような感じがしました。

 遥か先にも石垣が見えましたが、年を重ねたせいか、ちょっと、体力と気力がなく、近くまで行きませんでした。恐らく、気温30度ぐらい。汗が出てしょうがありません。

 昼時だったので、日蔭のベンチで、昼食用に持って来たお握りを頂き、取り敢えず、バスの時刻に合わせて、甲府駅に戻ることにしました。(独り徒歩旅行は、電車やバスの時刻を絶えず気にして手配しなければならないので、心がいつもざわついて落ち着きません。神経が疲れます)

甲府城(舞鶴城)公園

 甲府駅に着いて、反対の南口にある甲府城跡を目指しました。

 甲府城は、武田氏滅亡後、豊臣秀吉の命により築城されました。徳川体制になってからも西側への防衛として改築したり、増築したりして、重要性を保持したといわれています。

 甲府城の最も有名な城主は、五代将軍綱吉の側用人になった柳沢吉保でしょう。(東京・駒込の六義園は、柳沢吉保の別邸だった)

 私自身は、甲府城と言えば、幕末、最後の起死回生を図って甲府城を攻めた新選組の近藤勇を思い浮かびます。

甲府城(舞鶴城)公園

 でも、実際、足を運んで見て、その広さと堅固さに驚きです。

 これは、本や文字では全然分からなかったことでした。

甲府城(舞鶴城)公園 天守台

 近藤勇が甲府城を落とせなかったのがよく分かりました。

甲府城(舞鶴城)公園

 まるで要塞です。いや、要塞そのものです。

甲府城(舞鶴城)公園 天守台から臨む

 天守から見下ろせば、敵の動静が丸見えです。

甲府城(舞鶴城)公園

 とにかく、急峻で、鎧兜で登るとなると息も絶え絶えです。

 それに広い、広い。それなのに、これでも、敷地は、旧跡の3分の1しか残っていないというのです。

甲府城跡

 甲府駅の北口にもこうして山手門が復元されています。

甲府駅と甲府城櫓

つまり、甲府城郭のど真ん中にJR中央本線が走っていたのです。

甲府城跡

 だから、甲府駅の南口だけでなく、北口にも城郭跡が残っているのです。

甲府城天守台

 甲府駅北口側に戻ると、こうして、線路を挟んで南口にある天守台が見えるわけです。

甲府駅南口

 甲府城と武田氏とは関係がありませんが、甲府というか、山梨というか、甲斐の国・甲州が産んだ最大の英雄は武田信玄でしょう。(雨宮敬次郎、根津嘉一郎や小佐野賢治といった「甲州財閥」も有名ですが)

 甲府駅の北口には信玄が追放した父親の信虎像が、2019年に建立されましたが、南口の武田信玄像は結構古いと思います。もう40年ぐらい昔、友人の今村君と急に昇仙峡で釣りをしようということで出掛け、この武田信玄像も拝謁したことを覚えています。当日、何処に泊まったのか、全然覚えていませんが、この信玄像だけは如実に覚えています。(調べたら、信玄像は1969年に完成。当初は駅前噴水の南側にありましたが、1985年、駅前広場の整備で現在地に移設されたそうです。)

甲州ほうとう「小作」(甲州駅北口)

 ホテルニューステーションにチェックインした後、夕食は、このホテルの隣の隣の隣にある「甲州ほうとう 小作」にしました。

 甲州の名産といえば、ほうとうでしょう。小作は結構有名店のようで、店内には有名人のサイン色紙が結構貼ってありました。

甲州ほうとう「小作」豚肉ほうとう1500円

 選んだのは、豚肉ほうとうです。

 甲州は山岳地帯が多く、平野が少なく、お米が取れません。それで、お米が取れる領地獲得のため、武田信玄は、上杉謙信や北条氏、織田信長らとの戦いを余儀なくされたという説があります。

 ほうとうは、信玄が陣中食として考えたという説が有力です。まあ、太いうどんと野菜や肉を煮込んだ鍋と言っても間違いなさそうです。戦うための栄養満点といったところでしょうか。

甲州ほうとう「小作」ワイン500円 チリ産だった!

 甲州に来たからには、「甲州ワイン」は欠かせません。今や世界的ブランドです。この店の小作ワインを注文して、ラベルを詳しくみたら、何と「チリ産」と書いてありました。

 ありゃあまあ、てな感じでした。

(つづく)

仏教に救いはない? 一神教と多神教の違いは?

 何か、誰かから追い立てられているような感じがしますが、パスカルの「パンセ」(中公文庫)を読破し、橋爪大三郎+大澤真幸「ゆかいな仏教」(三笠書房)を読了し、今、同じ二人による対談「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書)を読んでいるところです。

 乾いた土が勢いよく水を吸収するように、私の乾いた脳に知識のシャワーを浴びせられているような気分で、お蔭さまで平常心を取り戻しつつあります。

 それでは、これまで平常心ではなかったのか、と聞かれますと、その通りです。ここ数カ月、生きている畏れと不安と虚無感に襲われていて落ち着けませんでした。ただし、軽症で、夜も眠れないほど、といった重症ではありませんが、毎日、張り合いがないといいますか、砂を噛むような味気ないといった感傷と言えば当たらずとも遠からずです。

 仏教の基本思想である「因果応報」を持ち出して、原因について考えてみると何個か複数思い当たるフシがありました。その一つに、友人知人にメールを出しても返信が来ない、といった子供染みたものがありました。「何か悪いことでもしたのか?」「向こうは自分など何とも思わず、メール自体が迷惑だと思っているのかしら?」などと余計な勘繰りばかり先立ってしまい、心を不安定にさせていたのです。

 でも、時間が経てば少しずつ解決されていきます。例えば、昨日の渓流斎ブログで書きましたが、このブログのサイトの技術面で大変お世話になっていた松長哲聖氏に何度も連絡を取っても繋がらず、反応もなく、落ち込んでいたら、何と、彼は既に7月に亡くなっていたことを知ることになったわけです。語弊を恐れずに言えば、これで何か区切りが付いた気がしたのでした。

 悲しくも若くして亡くなった松長氏ですが、逆に、生き残った我々に勇気を与えてくれました。例えば、「メメン・トモリ(いつか死ぬことを忘れるな)」、そして、明石家さんまさんが口癖のように言う「生きているだけで丸儲け」…。「せっかく生命があるのだから、もっと一生懸命に生きてください」と叱咤激励されている感じがしたのです。

 不安と畏れに駆られていた時に手に取ったのが、先述したパスカルの「パンセ」と橋爪大三郎+大澤真幸の対談「ゆかいな仏教」と「ふしぎなキリスト教」でしたが、心の癒しになったことは確かです。こんな精神的なお薬はありませんでした。特に、後者の「ゆかいな仏教」と「ふしぎなキリスト教」の二冊から学び取ったことは、結局、「人生とは心の持ちよう次第」だということです。

ロンドンではなく東銀座

 「ゆかいな仏教」の中で、「仏教に『救い』という考え方がない」という橋爪氏の発言には本当に吃驚しました。そもそも、仏教という宗教は、釈迦が覚りを開いたということを(言葉で言い表せないが)信じ、衆生も努力次第で、本人がいつか仏陀になれる、ということを信じること。だから、仏陀になった釈迦も、他者を覚らせる(救済)ことは出来ない、と説明されれば、少し分かった気がします。(原始仏教では、出家者はビジネスをしてはいけない。お金を触ってもいけないので在家の布施によってしか生き延びるしかない。また、本来、仏教は葬式を営まなかった。仏教は、アンチ・カースト制から始まったというのは納得。)

 そもそも、人生とは自分の思い通りにはいかない⇒人生は苦である⇒しかし、人生はなるようにしかならないだけ⇒甘い期待や幻想を抱かずにあるがままに受け入れる⇒全てがプラスになる⇒苦は実体がないので、苦は苦だと思わなければよい、といった「思考法」=「心の持ちよう」が、たとえ「仏教に救いはない」と言われても、私自身には救いになりました。

◇◇◇

 「ふしぎなキリスト教」では、「ユダヤ教とキリスト教はほとんど同じで、イエス・キリストがいるかいないかの違い」とか「ユダヤ教には原罪という考え方はない」「罪とは『唯一神ヤハウェに背く』こと」「原罪とは、しょっちゅう罪を犯すしかない人間は、その存在そのもが間違っているという考え方⇒キリストによる贖罪」「サタンとは本来、『反対者』『妨害者』という意味で、中世キリスト教でおどろおどろしく描かれた悪魔ではない」といった私自身が認識不足だったことが、明解に説明されて、妙に心に残りました。

 また、一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)と多神教の宗教の違いで、こうも考え方が違うのか、といった好例がありました。

 人生には理不尽なことが起きる。何故、自分の家族だけが重い病や障害や事故に襲われるのか?何故、自分の努力が報われないのだろうか? 世の中、悪がはびこり、裏切り、寝返り、詐欺、迫害が続く…。仏教や神道のような多神教だったら、それは運が悪かったとか、悪い神様のせいだと考えれば済むことがある。しかし、一神教の場合、そういうわけにはいかない。全ての出来事は神の意思によって起こるからだ。そこで、「祈り」という神との不断の対話が繰り返されることになる。

 嗚呼、そういうことだったんですか。…これで少し、違いが分かったような気になりました。

 そこで、究極的には、宗教の信者や信徒や門徒になるということは開祖の奇跡を信じることができるかどうかの違いだと思いました。キリスト教なら、イエスの復活や最後の審判などです。仏教なら、陰徳を積めば極楽に行けるといったような因果律を信じることができるかどうか、といった問題です。私の場合、いずれも懐疑的ですから、キリスト教徒にも仏教徒にもなれないでしょう(苦笑)。ですから、宗教に救いを求めようとしたこと自体が間違っていたのかもしれません。

 それでも、私は寺社仏閣や教会にはお参りします。人生とは心の持ちよう次第です。私自身、「メメント・モリ」「生きているだけで丸儲け」だけでも信じられるからです。

サイトのIT技術者松長哲聖氏が急逝=渓流斎ブログは今後どうなるのか?…

  ちょっとショックなことがあり、口もきけないような状態です。

 この《渓流斎日乗》ブログのサイトの立ち上げから技術トラブル処理に至るまで、何から何までお世話になっていたIT企業社長の松長哲聖氏に、何度メールや電話で連絡しても通じなかったことから、入院でもしているのかと思い、昨晩、湯島にある酒房に直接行って主人の坂元氏に事情を聞いたところ、7月に亡くなっていたことを聞かされたのです。

 何と言っても、松長さんは、私の高校の後輩で、私より一回りも若い。亡くなったのも53歳という若さでした。前日、夜遅くまで呑んでいて、翌日、自宅近くで散歩途中で倒れて、帰らぬ人となったといいます。普段からお酒の飲み過ぎで、私もよく注意したものでした。そして、彼には「俺より先に死ぬなよ。12歳も違うから死ぬわけないか。でも、お酒は控えた方が良い」と約束していたので、悔しくて涙も出ないほどです。本人も自分自身がこんなに早く身まかるとは思ってもいなかったと思います。

 彼とは、2016年頃、海城高校の同窓会で知り合いました。名刺交換して、IT企業「プラニクス」という会社を自分で創設した社長さんだということは分かりましたが、具体的にどんなことをしているのかは知りませんでした。でも、プラニクスは、立派なホームページがあるので、事業内容が「ホームページ作成」や「インターネット広告・広告代理」などであることは、今では分かりますが。

 それが、ひょんなことで、彼と親密になるきっかけがありました。皆様御案内の通り、私はお城や寺社仏閣巡りが趣味です。ある日、家の近くを散歩中に、見知らぬお寺があったので、スマホを片手にそのお寺を検索してみました。すると、「猫の足あと」という首都圏を中心にした寺社情報のサイトがあり、それに概要から由緒に至るまで非常に詳しく掲載されていたのです。しかも、「新編武蔵風土記」などの文献も引用し、学術的価値もあって信頼できそうです。

 でも、「猫の足あと」? どっかで聞いたことあるなあ、と思い、彼からもらった名刺を再度見てみたら、吃驚。業務の一つとして、しっかり、「猫の足あと」も記載されていたのです。何だ、彼がやっていたサイトだったのか!です。(サイトに掲載されている寺社の写真は、全て、松長さんが足を運んで参拝して自ら撮影したものでした。どれだけ時間とお金を掛けたサイトだったことでしょう。彼は、首都圏だけでも全ての寺社は回り切れないと話していました。)

 それから、彼と連絡を取り、神保町にあった彼の会社というか事務所にも何度もお邪魔し、近くの居酒屋や、高校のラグビー部の後輩が経営する湯島の純酒肴「吟」や、彼の親戚筋の経営する池袋の焼鳥屋さん「雲吉」で飲むようになりました。それで、2017年9月から私のブログのサイトも独自に製作してもらうことになったのです。

 ブログに広告を付けて広告料が入るようになったのも彼のおかげです。そのため、そのブログの広告収入は個人事業主を申請して確定申告するようになったのでした。もっとも、その収入も微々たるものですから、一晩の呑み代で消えてしまいますが(苦笑)。

 彼とは、このブログに書けないような色んな話をしました。彼は、名門都立日比谷高校を蹴って、海城に入り、某国立大学に合格しながらそれも蹴って、「高卒」で起業した人でした。かなり苦労した話も聞きました。それでも、大変な勉強家で、ほぼ独学でITをマスターしたようなのでした。

 頭の良い彼は、酔うと自信満々になるところがありましたが、普段は気立てが良いというか、気前が良いヤツでした。こうして書きながらも、あの若い彼がこの世から去ってしまったとは今でも信じられません。

 彼の急死で、この渓流斎ブログがこの先どうなってしまうのか分かりません。でも、やっと、奥さんと連絡を取ることが出来まして、今後、会社の継承者を模索中だということまでお伺いしました。

 いずれにせよ、畏れていた最悪の事態が起きてしまった感じで、茫然自失です。

仏陀の教えの本質が分かる本=「ゆかいな仏教」(三笠書房)

 実家に行く途中にある西武池袋線「秋津」駅近くにある本屋さんに立ち寄ったら、偶然、ある本を見つけて、すっかりハマってしまいました。こんなこと、ネットでは味わえないことです。

 だから、私は、出来るだけ本屋さんがアマゾンの影響でつぶれないように、暇さえあれば、何処でも本屋さんに行くことにしています。

 偶然見つけた本は「ゆかいな仏教」(三笠書房)という文庫本です。2022年10月5日が「第一刷」となっているので、随分さばを読んでいます(購入したのは9月17日=笑)。10年程前に出た単行本の文庫化らしいので、既にお読みになった方も多いかもしれません。

 でも、これが、めっちゃ面白い。社会学者の橋爪大三郎さんと大澤真幸さんとの対談をまとめたものなので、とても分かりやすい。お二人とも、仏教徒でもキリスト教徒でもない第三者のような感じで、宗教学が専門でもないので、社会学者として純粋に学問的、哲学思想的にアプローチしているように見受けられます。特に橋爪氏はほぼ断定的に語っているので、関連書籍は数百冊どころか数千冊、いや数万冊は読破している感じです。

 とにかく、私自身が何十年も疑問に思っていた「仏教とヒンドゥー教との関係」「仏教とキリスト教とユダヤ教との違い」「何故、仏教はインドで下火になったのか?」「カーストとは何か?」「そもそも仏教は何を目指しているのか?」といったことを明解に答えてくれるので、まさに目から鱗が落ちるといいますが、目が見開かされます。

 まず、仏教とは何か? 紀元前5世紀ごろ、実在したゴータマ・シッダールタ(釈尊)という王子が29歳で出家し、艱難辛苦の修行を経て、6年後の35歳で覚りを開いたことを端に発する運動のことで、釈迦が何を覚って仏陀になったのか、お釈迦様にしか分からない。言葉では言い表せない。でも、誰でも覚りを開いて涅槃(ニルヴァーナ)の境地に入ることが出来る(一切衆生悉有仏性=いっさいしゅじょうしつうぶっしょう=生きとし生けるものはすべて生まれながらにして仏となりうる素質を持つ)。たとえ覚りを開くことができる人は、何十億年に一人の確率であっても、それを信じるというのが、大雑把に言って仏教という宗教だといいます。

 橋爪氏は言います。

 「仏陀というのは人間なんです。あくまでも。人間が、人間のまま、仏になる。これを成仏という。…このことに集中している仏教は、神に関心がない。神なんかなくてもいいと思っている。人間は、神の力を借りず、自分の力で完璧になれると思っている。こういう信念なんです。」(47ページ)

 へー、そうでしたか。…橋爪氏はこんなことも言います。

 「仏教の場合、…覚るのは自己努力(世界をどう認識するかという問題)だから、覚っていない人間に第三者が覚らせることはできない。原理的にできない。」(205ページ)「仏教にもよく探せば、『阿弥陀仏が来迎して救ってくれる』という考え方がありますけれど、これは浄土系のかなり特別な考え方で、仏教には、仏が主体的に人間を救うという考え方は、もともとないのです」(207ページ)「仏教には救済という考え方はないが、(キリスト教など)一神教には、救いというものがある。一神教では、神が救済する主体。人間が救済される存在。救うか救わないかは、神の一存で決まる。」(209ページ)

 あらまあ、仏教に救済という考え方がもともとなかったというのはショックですね。浄土系が特殊というのも衝撃的です。日本(の仏教)では、浄土系の観音様信仰が根強く、救い求めるから仏教が宗教だと思っておりましたから。

 私自身、仏教について、嫌だなあ、と言いますか、とても付いていけないなあと思ったことは、仏教が「人生とは苦なり」ということを見つけたことです。生老病死、愛別離苦、怨憎会苦といった四苦八苦のことです。身も蓋もないではありませんか。しかし、橋爪氏の手にかかるとこうなります。

 「仏教にいう苦は、自分の人生が思い通りにならない、ということに等しい」(88ページ)「自分の人生が思い通りにならないのは何故なのか。一つの結論は、人生についてあらかじめこうであると考えているから、そうなるわけです。むしろ、人生は、客観的な法則によって、なるようになっているだけ。だとすれば、あらかじめこうであるべきだというふうな甘い期待というか、幻想というか、そんなものを端的に持たないようにすれば、百%掛け値なしに、人生をあるがままに享受できる。全てをプラスと受け取ることができる。こういうことを言っているだけ。だからむしろ、ポジティブな考えだと思うんです。」(89ページ)

 橋爪氏はこの考えをさらに進め、仏教の言う「苦」についても一刀両断です。

「苦の場合、人間はそれを自分で取り除くことがきる。取り除くというか、問題はものの見方なのです。苦には実体がない。苦を苦と思わなければいい。ともかく、苦を自分で取り除くことが出来る。苦から自由になれる、と認識しているのが正しい」(94ページ)

 どうですか?この本を読むと勇気が湧くのは私だけではないと思います。

 登場する橋爪氏は1948年生まれ、大澤氏は1958年生まれ。10歳年下の大澤氏が橋爪氏に質問する形で対談は進みますが、大澤氏は、プラトンやカントやマックス・ウエーバーまで導入して比較し、先輩の橋爪氏よりさらに深い教養があるように見え、橋爪氏が一言しか答えないのに、何十倍もの量で質問するところが面白いです。いずれにせよ、当然のことながら、学者さまの学識の深さには圧倒されるばかりです。

【追記】

 二人が2012年に対談して出版した「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書)も昨日、慌てて、家の近くの本屋さん(とは言ってもバスで15分)に走って買いに行きました。