「出雲を原郷とする人たち」には驚きの連続

岡本雅享著「出雲を原郷とする人たち」(藤原書店)が昨年11月に出版された時、すぐ読みたかったのですが、定価が3024円とちと高く、しばらく手が出なかったのですが、最近になって、やっと読めるようになりました。

2011年4月から16年1月まで「山陰中央新報」という地方紙に連載されていたものを単行本化したらしいのですが、レベルが高い。あまりにもの学術的、専門的過ぎて、小生のような浅学非才な人間にとっては難し過ぎて、通読できませんでした。

◇全国に移住する出雲の氏族

それでも、興味がある箇所だけは読みました。タイトルにある通り、出雲(今の島根県)の民が、全国に散らばって移住し、その集落にしっかり出雲という地名や出雲の名前が付いた神社を創建して、ちゃっかりと痕跡を残しているという驚きの学術書というよりかルポルタージュに近いのです。

その範囲は、越前、加賀、能登の国から信濃、越後、武蔵、岩代の国、筑前、周防、伊予、讃岐、山城、播磨、壱岐…と、粗末な船か歩くしかなかった古代の時代に、出雲の氏族たちはよくぞここまで踏破、制覇したものだと感服してしまいます。

出雲の国は、古事記や日本書紀では「国譲りの物語」として登場しますが、出雲の氏族は、そんな記紀が成立するはるか昔から全国に移動していたと言われています。

ということは、天皇族=大和政権が強大な権力を握る前に、彼らは出雲地方だけではなく全国的に制覇していた強力な豪族だったことは間違いないでしょう。(古代は恐らく全国ネットワークがあまりなかったので中央集権とは違ったものだと思われますが)

◇百済から大和へ、新羅、高句麗から出雲へ

なぜ、これほどの文化が出雲に栄えたのかといいますと、著者は水野祐早稲田大学名誉教授の学説を引用して、百済から瀬戸内海を通ってきた大和への文化に対して、新羅や高句麗を通して日本海ルートで出雲に入ってくる文化があったからだといいます。恐らく、海流や潮の流れで、古代でも半島や大陸から出雲に流れ着くことは容易かったのでしょう。

そして「新羅と結びつく出雲文化は、さらに日本海を北上して能登半島から越の国に伝播していき、さらに信州へ、関東の北部に入って南下していった」といいます。そういう流れだったんですね。

大和朝廷が百済系との結びつきが高かったということは、桓武天皇の母高野新笠が百済系渡来人だったという史実(「続日本紀」)と一致しますね。

◇出雲大社は本来、杵築の大社

この本を読んで一番驚いたことは、古代は今の島根半島は地続きではなく、島だったということでした。そして、今の出雲大社は、本来、杵築の大社(きずきのおおやしろ)と呼ばれていて、出雲大社と改称されたのはつい最近、明治に入った1871年だったというのです。

また、古代に遡ると、律令時代に入ると、ほとんどの国造(くにのみやつこ)は政治権力を失いますが、出雲の国造(出雲だけは「こくそう」と読むらしい)だけは権力を保持し続けたようです。

この本は全て読み切れなかったので、今たまたま御縁のある「武蔵国」(今の埼玉、東京、神奈川辺り)編だけは熟読しましたが、これまた知らないことばかりでしたね。

◇武蔵国には出雲伊波比神社と出雲乃伊波比神社の2社が

武蔵国には、出雲から最も離れた所に、二つの出雲系直轄とも言うべき神社が今でもあるといいます。それは、入間郡(埼玉県毛呂山町)の出雲伊波比(いわい)神社と男衾郡(埼玉県寄居町)の出雲乃伊波比神社の2社です。

また、武蔵国の東部にも出雲系の神社が多く、それは氷川神社、久伊豆神社、鷲宮神社群だといいます。埼玉県神社庁によりますと、氷川神社は284社(埼玉県204社、東京都77社、神奈川県3社)、久伊豆神社は54社(全て埼玉県)、鷲宮神社は100社(埼玉県60社、東京40社)に上るといいます。

◇氷川は出雲の斐伊川が由来

この中で、私が特に取り上げたいと思う神社は、足立郡式内氷川神社です。この神社について、文政11年(1828年)の「新編武蔵国風土記稿」には「出雲国氷の川上に鎮座せる杵築大社をうつし祀りし故、氷川神社の神号を賜れり」と記されています。この「氷の川」は古事記で「肥河」(ひのかは)、日本書紀では「簸川」(ひかは)とも書かれた斐伊川のことで、これが氷川神社の社名の由来になったといいます。

なるほど。これで、やっと長年の疑問が氷解しました。

首都圏の神社仏閣を網羅するサイト「猫の足あと」を主宰する松長社長には必読書となることでしょう。

【追記】

京都の相国寺境内では、出雲集落の遺跡が発掘されています。

また、新羅の古都だった現韓国慶州市にある古墳(5世紀末〜6世紀前半)で、国引き神話が描く新羅と出雲と越(こし=福井、石川、富山、新潟)の繋がりを象徴するかのように、出雲石の勾玉と糸魚川産翡翠の勾玉が出土しているといいます。

現代人が想像する以上に、古代では交流が盛んだったということなのでしょう。

【書評】山本武利著「陸軍中野学校」

先週、山本武利著「陸軍中野学校『秘密工作員』養成機関の実像」(筑摩選書)を読了しまして、2、3点疑問に感じたことがあり、先日、見学ツアーでお世話になったNPO法人インテリジェンス研究所の事務局長さんに問い合わせたところ、そのメールが著者の山本武利早大名誉教授に回って、山本氏から直々に「御返事」があり、吃驚してしまいました。

実はちょっと「物足りなかった」と正直な感想を書こうと思ったのですが、山本先生から「お書きになったブログをお送り下さい」と逆に依頼されてしまい、それは困った。どうせ、誰も読むことはないだろうと安心していたからです(苦笑)。しかし、「世界最強の忖度メディア」を自称しておりますから、あまりきついことが書けなくなってしまいました。いや、これは半分冗談です。

◇朝日新聞の中国侵略 大陸新報

小生が山本氏のお名前を知ったのは2011年2月に初版が出た「朝日新聞の中国侵略」(文藝春秋)という刺激的なタイトルの本をたまたま東京・新宿の紀伊国屋書店で見つけ、その内容に大変感服してしまい、いつか謦咳に接したい先生だなあと思っておりました。(その後、一度名刺だけ交換させて頂きました)

この本は、良心的な朝日新聞が、昭和14年に中国市場の制覇を目論んで、上海で「大陸新報」という日本語新聞を帝国陸軍や満洲浪人らと手を組んで発行し、戦後は、その歴史的事実を朝日新聞がひた隠しにしたことから、山本教授が半世紀に渡る専門のメディア研究から史実を掘り起こした労作でした。

私自身は、この本で初めて「大陸新報」の存在を知りましたが、皆様ご存知の京洛先生が若かりし頃に勤めていた新聞社の先輩にこの大陸新報出身の方がいらしたという話を聞いた時は驚きましたね。

箱根山・陸軍戸山学校趾(本書に出てくる《山》もこの辺り)

で、山本氏の「陸軍中野学校」について、ですが、私が何故、最初に「物足りなかった」と生意気、傲岸不遜な感想を述べたかといいますと、これでも小生は、近現代史関係の読み物を少し読んでいるとはいえ、小生如き知的レベルの人間でも知っていることがこの本には書かれておらず、「もっと逸話的な話を盛り込めば、読者は興味を掻き立てられてるはずなのに」と僭越にも思ってしまったわけです。

◇岩畔豪雄と秋草俊

例えば、陸軍中野学校の基礎を作った岩畔豪雄(いわくろ・ひでお)と秋草俊という2人の人物のことです。岩畔については、戦後生き延びて、京都産業大学の創立者の1人になったこと。この京都産業大学教授に招聘された若泉敬教授が、佐藤栄作首相(当時)の密使として沖縄返還協議に加わっていた関係にも踏み込んでほしかったですね。

もう1人の秋草については、私も、この《渓流斎日乗》の今年2月6日に取り上げた斎藤充功著「日本のスパイ王陸軍中野学校の創立者・秋草俊少将の真実」で触れましたが、あの本は、エピソードが満載で(例えば、秋草の親戚には日本電電公社総裁や富士通社長、日興證券社長らがいる華麗なる一族だったことなど)、初めて秋草俊という人物像が立体的に浮かび上がり、寝食を忘れるほどあの本には没頭したものでした。

とはいえ、私の「勘違い」は、山本先生の御著書は、あくまでも歴史家の書く学術書だということでした。あまり、脇道逸れたこと(逸話)を書くことはアカデミズムでは邪道なんでしょうね。(それに、庶民はどうも、中野学校に関しては市川雷蔵主演の映画のような派手な活劇を求めてしまいます)

ですから、斎藤氏の著作では、シベリアに抑留された秋草俊はウラジーミル監獄で「獄死」したことになっておりましたが、(ソ連の公式通知)山本氏は、発掘した公文書の秋草俊のところに「受刑」と書かれていたことから、「秋草の死の公表の遅れは彼が病死ではなく、ソ連が追及してやまない対ソインテリジェンス工作の現場の総指揮官を秘密裏に処刑つまり冷酷に死刑に処した事実を隠していたことを示唆している」と歴史家の冷静な目で分析しております。

◇陸軍中野学校の研究書の決定版

山本氏は、中野学校が、1938年4月の防諜研究所〜1939年5月の後方勤務要員養成所〜1940年8月の陸軍中野学校と名称が変遷したことを突き止め、その歴史はわずか7年間で、養成要員は2000人余りだったことを明らかにし、その要員の一部の行方を詳細に追っています。

特に、昨年101歳で亡くなった第1期生の牧澤義夫氏には生前、インタビューを重ね、彼から借りた貴重な写真も同書には掲載されています。

中野学校は秘密機関ですから、陸軍内でもその存在を知っている者はわずかで、生徒は軍服を着ないで、背広や私服を着ていたことなど私が初めて知ることが多く書かれています。陸軍中野学校についてはこれまで実に多くの関連書が出版されていますが、恐らく、今の時点で中野学校に関する研究書の決定版と言っても間違いないことでしょう。

それだけに、版を重ねた際には、見学ツアー後の講演会で指摘された「ポツダム昇進組」(264ページ)と、私も指摘させて頂いた「小校鈴木」(227ページ)の誤記は直してもらいたいものです。(ポツダム昇進組の記述に関しては、戦中の昭和19年に少佐に昇進している卒業生がいるので間違い。小校は少校=満洲軍で、日本の少佐に当たる=の誤記)

第1期生の越巻勝治氏が、後半、何の断りもなく、急に「越村」となって登場し、「誤記かな」と思ったら、終わりの索引の中でだけ「越巻(越村)勝治」となっており、「なるほど、越村とは変名だったのか」と後で分かりました。また、同じ第1期生の久保田一郎氏は、日下部一郎氏と同一人物だったでしょうか。本文中に注記してもらいたいものです。

いずれにせよ、小生の細かい質問にも御丁寧にお答え頂いた山本先生には大変感謝しております。

 

京都・西陣は千本釈迦堂の大根炊き

京都・西陣「千本釈迦堂」©️Kyorakusakio

京洛先生です。

最近、どういうわけか《渓流斎日乗》では、滋賀県の大津農林水産通信員とやらが、幅を利かせておられるようです。

が、「元祖」「本家本元」はこのアタシだということを、読者諸兄姉の皆々様方にはよおく御理解、御芳情、御鞭撻の程、宜しく賜わりたき次第にて存じまする。

京都・西陣「千本釈迦堂」©️Kyorakusakio

◇12月8日は臘八大接心

あ、さて、12月8日は、何の日かご存知ですか? 「米国がイスラエルの首都をエルサレムに宣言して、パレスチナで紛争が激化している?」「富岡八幡宮の女性宮司が弟(前宮司)に殺された?」。
それも大きな事件でしたが、仏教徒の始祖、お釈迦様、釈尊、仏陀が悟りをひらかれた「成道会(じょうどうえ)」(12月8日)です。禅宗では「臘八大接心(ろうはつ おおぜっしん)」と言って、12月1日から8日まで僧堂できびしい修行に勤しみます。

◇応仁の乱の舞台で大根炊き
京都・西陣の一隅にある「千本釈迦堂」では、その「悟り」にあやかり、毎年開いている「大根焚き」の日です。鎌倉時代から続いていて、今では、洛中の冬の風物詩にもなっています。
同寺は、仮寓のそばでもあり、今日はその盛況ぶりを覗いて来ました。
通称”千本釈迦堂”。正しくは「大報恩寺(真言宗智山派)」は、あの「応仁の乱」でも、唯一、焼け残った洛中の最古の建造物であり、本堂は「国宝」になっています。

京都・西陣「千本釈迦堂」©️Kyorakusakio

貴人も数年前に、大根炊きを食べに見えたでしょう。本堂の横の「宝物館」の運慶、快慶らの重文の仏像の見事さにびっくりされたりしましたが、例のあの椿事もこの境内でしたね。

◇この紋どころが見えぬか!
緋毛氈の敷かれた床几に腰を掛け、出来立ての温ったかい大根焚きを食べていると、大阪からやってきた、さる民放の報道クルーが、迂生に「取材に応じてくれませんか」と頼みに来ました。
こちらは、取材でも、インタビューでもなんでも応じても良いのですが、後で、彼らが上司から叱られたら可哀そうなので、偶々、着用していたジャンパーの胸の小さなマークをお見せしたところ、カメラマン氏は、大声を出してその場にひっくり返って、大急ぎで逃げ出しました。

何もご存知の無い貴人も、慌てて、「京洛先生!何かあったのですか」と、心配そうな表情を見せられたので、「いやいや、これを見せただけですよ」と、微苦笑しながら、ジャンパーに縫ってあった彼らのライバルのテレビ局のマークを見せたのでした。
貴人もそれを見て「ヒヤ―、それでは、カメラマンさんも驚いて逃げますよ」と大笑いになりました。

京都・西陣「千本釈迦堂」の大根炊き 1000円©️Kyorakusakio

千本釈迦堂の大根焚きは、7日と8日の2日間開かれていて、報道関係者は初日に殺到するので、8日はマスコミは何処も来ておらず、人出もそれほど多くありませんでした。
ただ、大きな大根が3切れと油揚げが一枚入った無病息災の大根焚きは千円です。
関係者によると2日間で1万人が大根焚きを食べるので、俗に言えば売り上げは1千万円はくだらないわけですね。
仕込みから料理、接遇をするのは檀信徒さんで、事実上、無料奉仕でしょうから、この売り上げはすべてお寺の収入になるわけです。ただ、お寺としては「お賽銭」のほかは、これと言った大きな収入がないだけに、この「大根焚き」は、お寺の修理維持費にとっては貴重な財源になっているのは確かです。

ちなみに、鎌倉時代、同寺の三世慈禅上人が、大根の切り口に梵字(ぼんじ)を書いて魔よけにしたのが起源の「大根焚き」は、少し辛めの出汁が、大きな大根に染みて、昼飯代わりになるくらいボリュームがあり美味かったですね。

ご報告迄。

英語教育よりも国語が大事

モネの庭 ©️par Hinachan

新井紀子国立情報学研究所社会共有知研究センター長といえば、現代日本を代表する国際的な数学者の一人です。

彼女は、一般社団法人「教育のための科学研究所」代表理事・所長も兼務されており、最近、新聞・雑誌など色んなところで教育について発言されていて、私も興味深く読み、「我が意を得たり」と大賛成することがあります。

そんな中で、新井教授は、こんなことを発言されております。(色んな記事からの換骨奪胎で、このような趣旨の発言をされていた、ということで御理解を)

東銀座「わにわ」日替り定食

…最近、中学生の中で「数学ができない」「分からない」といった生徒を調査したところ、例えば、「平均」といった言葉の意味が分からず、数学以前に読解力がないということが判明して衝撃を受けました。

要するに、国語力、日本語がよくできていないのです。それなのに今の教育行政では、小学生から英語の授業を必修にしたりして、ますます国語の時間が減っているわけです。

昔のように、教科書を反復熟読したり、写し取ったりしないせいなのかもしれませんが、何といっても、国語が基本です。

こんなことを数学者の口から言うのも変だと思いますが…。

いやあ、英語より国語を重視せよという新井教授の提言は大賛成ですね。

◇日本進学教室の思い出

この記事を読んで、私も自分自身の恥ずかしい過去の体験を思い出しました。もう半世紀も昔の時効の話なのですが、田舎の鈍才だった小生は、当時はさほど多くなかった難関中学校入試の予備校「日本進学教室」(日進)に通うことになりました。(嗚呼、富士山マークのバッヂが懐かしい)

日進の教室は東京・原宿にありました。当時の原宿は、まだファッションの最先端でもなく、竹の子族もなく、埼玉や茨城や千葉から出てくる若者もおらず、とにかく人通りの少ない寂れた住宅街といった雰囲気でした。

私が国立大学附属中学を目指して受験勉強を始めたのが、二学期に入ってからだったので、1年前から備えて頑張っている周囲と比べて格段の差があり、正直、授業には全くついていけませんでした。

模擬試験でも最下位集団だったことは間違いありません。(隣席の男の子の名前は忘れましたが、品川区の旗の台から来てると言い、とても優秀でした。彼は今頃どうしてるかな?)

そして、新井教授の提言を読んで、当時、自分が算数の問題が解けなかったのは漢字が読めなかったり、意味が分からなかったことを思い出したのです。

それは、算数の問題の中にあった「最も」です。小学6年の鈍才は「さいも」としか読めず、意味が取れなかったのです。恥ずかしいですね。後で父親を悲しませてしまいました。

日進の国語の漢字テストもかなり難しく、教科書に出てこない漢字ばかりでした。

例えば、「灘の生一本」の「生」は何と読むか?えっ?「き」?鈍才の小学生が読めるわけありませんでした。

現代のお受験世代は、既に幼稚園から準備しているので、私の話なんぞはお笑い草でしょうが、「英語より国語が大事」という新井教授の提言を読んで、私のような鈍才は妙に納得してしまったわけです。

延暦寺で秘仏本尊「釈迦如来像」特別御開帳

比叡山延暦寺 ©️Ohtsu

HNKラヂオの昼間の憩いです。

本日は晴天なり。滋賀県大津市にお住まいの大津農林水産通信員からのお便りです。

比叡山延暦寺 ©️Ohtsu

渓流斎主筆の労力を少しでも和らげようと、本日は、伝教大師・最澄が建てた「延暦寺」に行って参りましたのでご報告させて頂きます。

◇秘仏本尊「釈迦如来像」
ご案内のように「延暦寺」は延暦7年(788年)に比叡山に建立されましたが、境内の「西塔(さいとう)」では今月10日(日)まで、33年ぶりに秘仏本尊「釈迦如来像」の「特別御開帳」と、比叡山内で最も古い建造物の釈迦堂の「内陣特別拝観」が行われているので拝観してきました。

仏さまが祀られている聖域の内陣には、平素も限られた僧侶しか入れず、勿論、一般にはこういう機会でないと入ることはできません。

比叡山延暦寺 ©️Ohtsu

特別御開帳の「釈迦如来像」を守るように、東西南北に「四天王像」が並び、内陣の四つの扉も今回初めて開扉されました。
今年10月から、この御開帳は始まりましたが、紅葉の季節は、西塔・釈迦堂前は長蛇の列だったそうですが、今日は平日で、その時期も過ぎたので、人出も少なくゆっくり御開帳の時間を過ごせました。

延暦寺境内での、ボランティアガイドさんによると「恐らく今週末の12月9日(土)、10日(日)は、御開帳も最後となるので相当な人出になるでしょう」と話してくれました。
そして「京都市内と違って延暦寺や近江、滋賀のお寺、神社にはアジアの旅行客はそれほど増えていませんが、この静寂さも、いつまで続きますかね」と、まだ、騒がしい”外国人旋風”が吹いていないことを教えてくれました。

◇特別御開帳の有り難み
”花のお江戸”では、「運慶」展が大変な賑わいだったそうですが、主筆も行かれたのでしたね。以前、京洛先生も「絶対秘仏」のことについて、この《渓流斎日乗》で紹介されていましたが、「特別御開帳」「特別御開扉」は、美術館や博物館での陳列、展示と違って雰囲気が全然違います。お線香、お香の匂いが漂う中、数百年、千年以上の秘仏を拝むのですから、その有難味は比べようがありません。

◇217年ぶりの御開帳
実に217年ぶり、2008年に御開帳された、和歌山の「粉河寺」本堂の「千手観音像」などは、人間の一生のうちに、拝むことはとても無理な話です。

比叡山延暦寺 ©️Ohtsu

最近、週刊誌が、浅草寺の「仲見世」商店街の家賃が16倍に大幅に値上がりになる、と報じましたが、お読みになりましたか?
主筆もご存知のように「浅草寺(聖観音宗)」のご本尊は、飛鳥時代、推古天皇36年(628年)の早朝、江戸浦(隅田川)に漁撈(ぎょろう)中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を得たのが起源です。
そして大化元年(645年)、勝海上人(しょうかいしょうにん)がこの地で、観音堂を建立、夢によりご本尊を「ご秘仏」と定められ、以来、今日まで、この伝法(でんぼう)の掟は厳守されている、というのが寺伝です。

◇「絶対秘仏」は住職、管長すら見られない
文字通り、観音像は「絶対秘仏」です。「お前立ち」は、一年に一度、特別御開帳されますが、ご本尊は「絶対秘仏」で、住職、管長ですら目に触れることは出来ません。
俗な話で恐縮ですが、この際、何処かの新聞社、テレビ局が「浅草寺」に掛け合って、「2020年東京五輪開催記念」として、この「絶対秘仏」を「超特別御開扉」として拝める機会を設ければ、大変な話題になって凄い賑わいになると思いますよ。
家賃、地代の値上げなど、吹き飛び、周辺の商店街も大繁盛、東京五輪も大いに盛り上がるでしょう。罰当たりな考えですかね?

◇善光寺は6年に1度
ちなみに、信州の「善光寺」は、6年に一度、ご本尊の「阿弥陀三尊立像」のお前立ちの特別御開帳をしていますが、浅草寺のご本尊のお前立ちの「特別御開帳」は、今月13日(水曜)午後2時から、一年に一度だけ拝めます。皆さんも足を運ばれては如何でしょうか?

正義とは一時的なもの

鴻巣市「阿部」天麩羅せいろ 1400円

広瀬ずずです。

今年は、かの世界史的出来事、ドイツのマルティン・ルターが宗教改革(1517年)を始めてちょうど500年でした。

この改革者ルターが残した言葉に素晴らしいものがあります。

 

 

人形の街・鴻巣市

 正義は一時的なものであり、いつかは終わりが来るはずだ。

 しかし、良心は永遠なるものであり、決して滅びることはないのだ。

自分は正しい。向こうが間違っている―というのは得てして自信家が口にする言葉です。

これが、個人ならまだしも、国家レベルとなりますと、相手を敵国とみなし、正義のための戦争を起こす口実にしかねません。周辺諸国と領土問題を抱えている当時国であれば尚更です。

しかし、500年前のルターは言うのです。正義とは一時的なものだ、と。常識もそうなのかもしれません。その時代、時代の社会通念で正しかったことでも、時代が変われば、価値観が180度変わることもあります。

日本で言えば、幕末か太平洋戦争の敗戦の前後ということになるでしょう。昨日まで「正義」だったことが、朝起きたら、逆賊だったり、悪者になったりするわけです。

それは、500年前も同じことで、だからこそ、ルターは、そういった正義を振りかざす人間の浅はかさを見抜いて、箴言を発したのではないでしょうか。

根津で忘年会 小三治の話、伊藤律の話…

東京・根津「車屋」

最近の華麗じゃなかった、加齢と動体視力の低下によりまして、電車内でスマホで毎日更新することが、正直、身体的にとてもしんどくなりました(苦笑)。

◇根津の「車屋」で痛飲

先週の土曜日といいますと、12月2日に東京・根津で開かれた忘年会に参加しましたが、マスコミ業界紙の敏腕記者から「書かないと刑事告訴しますよ♪」と脅されていたにも関わらず、体力的にすぐに書けませんでした(笑)。

ま、今日は簡単に触れます。ちょうど去年の今頃、東京・目白の「五城目」という秋田料理の小料理屋さんで忘年会をやったと思ったら、あれからもう1年も経ってしまったんですからね。早いもんです。今年は、紳士淑女合わせて9人も集まりました。

根津は落ち着ける安くてうまい居酒屋がたくさんあるので、私も好きな街です。串揚げの「はん亭」とか小料理屋の「うさぎ」なんかは昔、よく通ったものです。

今回の会場「車屋」という所は、赤羽彦作村長行きつけの店で、私は初めて行く居酒屋さんでしたが、雰囲気があるなかなかの店でした。お店の人は忙しいのでなかなか注文を聞いてくれませんでしたが、かの有名な吉田類先生の大きな色紙が飾ってありました。

東銀座「凱旋門」生姜焼き加齢じゃなくて、カレーランチ800円

大した話をしたわけではありませんが、有名出版社に勤める成田さんが、熱心に落語の話をされてました。

今は人間国宝の柳家小三治の大ファンというか、追っかけをやっていて、先日は、遠路、埼玉県志木市文化会館で開催された独演会にも行かれたそうです。

そして、熱烈な小三治ファンだけに、彼の愛車のナンバーが「★532」だということまで掴んでおりました。532で小三治と読めますね。(笑)

成田さんが最も敬愛していた落語家は古今亭志ん朝らしいですが、彼も若くして亡くなってしまいました。

自慢話になりますが、私は、20年以上昔になりますが、小三治さんにも、生前の志ん朝さんにもお会いしてじっくりお話を伺っているんですよね。  成田さんには鼻高々です(笑)。

◇伊藤律と甘粕大尉の架空インタビュー

ところで、いつも私を脅迫して喜んでいる敏腕記者は「《渓流斎日乗》はウソばっかし書く。フェイクニュースだ」と、どこかの国の大統領のように絡んでくるので、私も反論しました。

「かの大新聞、朝日新聞が、当時、北京に幽閉されて、外部の人間に会えるわけがない伊藤律にインタビューした、という記事を掲載し、『架空インタビュー』ということで、世間では大騒ぎになりました。フェイクニュースは今に始まったわけじゃありません。そして、もう一人…」と言った途端、名前が出て来ず、「あ、忘れてしもうた」と大失態を演じ、大笑いされてしまいました。トホホ…

悔しいので、ここに書きます。大正12年、関東大震災のどさくさに紛れて無政府主義者の大杉栄らを惨殺したとされ、軍法会議の前に雲隠れしていた甘粕大尉のことでした。

当時、何処の新聞社も先を争って血眼で甘粕大尉の行方を探しますが見つかりません。そこで、某新聞社が会ってもいないのに甘粕大尉のインタビューを掲載して、後で「架空インタビュー」だと発覚するのです。

私も、この場で、汚名返上、名誉挽回が少しできてスッキリしました。

「ETV特集 ロシア革命100年後の真実」は必視聴番組です。

ロシア革命から100年後の東京・銀座

11月25日夜11時からEテレで放送された「ETV特集 ロシア革命100年後の真実」は、ここ何十年間で最も興味深い内容のテレビ番組でした。国民を馬鹿にするようなお笑い番組ばかり作っている民放では作れませんね(笑)。

「100年後の真実」では、まさに、これまでの歴史観を180度転換してしまうような「コペルニクス的転回」の真実が明らかにされます。(期間限定で今ならネットで視聴できます!)

1917年の「十月革命」から今年でちょうど100年。1991年のソビエト連邦崩壊から26年。今やそのロシア革命に対する国民の評価が分かれているというのです。

◇ロシア政府主催記念式典なし、十月革命は単なる出来事!

何と言っても、プーチン政権は、政府主催のロシア革命100周年記念行事を行わなかったというのですから、現政権のロシア革命に対する捉え方が分かります。

しかも、驚くべきことに、かつては「偉大なる十月社会主義革命」と教科書などで教えていたこの革命が、今の公立高校の歴史では、単なる「1917年10月の出来事」として教えているというのです。

巨匠エイゼンシュタイン監督は、映画「十月」の中で、革命軍が、臨時政府閣僚が立て籠もる宮殿に押し寄せて、抵抗勢力と戦い抜いて漸く勝利を収める、まさに「偉大なる十月社会主義革命」が劇的に描かれていますが、実際は、閣僚たちはさほど抵抗せずにいとも容易く逮捕されています。

まさに「出来事」でしたが、事実としては革命の指導者レーニン(1870〜1924)らによるクーデターだったのです。

レーニンは、公約通り、翌11月に「憲法制定議会選挙」を実施します。ところが、蓋を開けてみると、社会革命党(エスエル)が410議席で首位、レーニン率いるボリシェビキ党が175議席の2位に甘んじ、これでは、ボリシェビキが政権を担うことができなくなりました。

この時、レーニンは禁じ手を使います。翌日、議会を封鎖して議員を入れなくして、憲法制定会議を解散してしまうのです。

レーニンは、自著「国家と革命」の中で披瀝したように、議会制民主主義を否定してしまったのです。

内戦に突入します。ボリシェビキ支配下の赤軍と反革命軍の白軍が血と血で争う内戦を始めました。後のKGBの前身の秘密警察チェカ(非常委員会)も作り、反対者を弾圧します。

間の悪いことに、翌1918年に飢饉が襲い、都会では餓死者が続出します。レーニン政権は、農村に食糧徴発部隊を派遣して、農村から食糧を搾取したため、農民も武装して抵抗するようになりました。

◇タンボフ農民を毒ガスで虐殺

1920年、モスクワから南に400キロ離れたタンボフ県では富農が多かったため、政府は重点的に食糧徴発部隊を派遣します。堪忍袋の尾が切れた農民3万人が反乱を起こし、レーニンは10万人の赤軍を派遣します。

この番組で「初公開」と銘打って明らかにした歴史的事実は、1921年6月12日、赤軍はここで毒ガスを使用し、1万4000人の農民を殺害したというのです。ロシア国内で化学兵器が使われた唯一の例だということです。

レーニンは、資本家が独占する富を分配して貧富の差のないユートピアのような社会主義国家を目指していたはずです。レーニンは暴力に基づく政権奪取と革命を主張しました。これでは、大衆に向けた赤色テロです。

今、 ロシア革命の評価が分かれる理由がよく分かります。

歴史学者のゲンナジー・ボルジュゴフ氏によると、ロシア革命では、内戦や諸外国からの干渉などによる戦いなども含めて1000万人から1200万人の人が犠牲になったといいます。

同氏は「革命は、いくらロマンチックに語られようと、起きてはならないと考えます。政権に就く者には常に社会の爆発を予見する賢しこさが必要です。それは、自らを改革変化する力で、そうしないと、多くの犠牲を生むことになる」と発言してましたが、私も同感ですね。

◇ドイツが革命に45億円も資金援助

番組では、このほかに、第一次世界大戦中(1914〜1918年)、ドイツ帝国(ウィルヘルム2世)が、ロシアを戦線から離脱させるために、密かに、レーニンの革命同志だったゲリファンドに100万ルーブル(今の価値で45億円!)もの大金を渡したという事実を、ドイツ外務省アーカイブの資料から暴いていました。

実際、この大金は革命運動に使われ、1917年2月の「二月革命」(300年続いたロマノフ王朝崩壊)の成功などにつながるわけです。

いやあ、私も、ロシア革命については、教科書的なテクストでざっとしか学んでいなかったので、知らなかったことばかりで、まさに目から鱗が落ちるような話で、1時間ずっと圧倒されっぱなしでした。

1924年1月21日、レーニン死去。享年53。この番組で初めて、レーニンの動く姿と声を聞きましたが、こんな若い時に歴史的な大革命を成し遂げたことに感心していました。とはいえ、1200万人の犠牲者は、レーニンの責任と言えなくはありません。

この番組で、すっかり、感心から否定に評価が変わってしまいました。

「禅と骨」のミトワ禅師にまつわる意外な話の展開

東銀座「ねのひ」B定食800円

(昨日の続き)

渓流斎です。

昨日は、京都にお住まいの京洛先生のお薦めの映画「禅と骨」をご紹介しましたが、あれから吃驚。京洛先生も知らない驚くべきお話が寄せられました。

スクープですかね?(笑)

「禅と骨」は、「粋人か?変人か?」と言われた有名な禅僧ミトワさんの評伝ドキュメンタリー映画でしたね。

そしたら、世間は狭い。このミトワ禅師の奥さんを知っている方がいらしたのです。

京洛先生行きつけの馴染みのお店。京都三条商店会「力」(今年、惜しまれて閉店)の女将さんの美人従姉妹マキさんです。知ってるどころではありませんでした。

いわゆる一つの今年の流行語大賞を受賞した「インスタ映え」、じゃなかった、「LINE」で女子高生のような電報を送って下さったのです(笑)。

…こんにちは。従姉妹のマキです。お元気ですか?渓流斎さんのブログを読ませて頂き、特にミトワさんの記事に驚きました‼️(びっくり)

実は中学生の頃から奥様のMrs.ミトワ (幸子)さんに英会話を習っていました☺️高校生の時に、Mrs.ミトワと一緒にアメリカ🇺🇸旅行へ行きました✈️

当時まだ日本に東京ディズニーランドの無い時で、“遂に私は夢の国へやって来た〜🏰”と大興奮(笑)
その後20代前半までMrs.ミトワ家(天龍寺)へ通ってました。ヘンリー・ミトワさんとはご挨拶くらい。
そして、私が13年くらい前に帰京した時に、再会したのが最後です。

とても懐かしかったので、ここでお喋りさせていただきました☘…

ねっ?大スクープでしょ?

これは京洛先生も知らないことなので、さぞかし吃驚していることでしょう(笑)。

映画「禅と骨」所感

東銀座・イタリア「ダ・フェリーチェ」ランチ1000円

京都の京洛先生です。私の書いた記事が《渓流斎日乗》で大変好評だと聞きまして、これは横井英樹さんに倣って乗っ取るしかないと確信し(笑)、一筆啓上仕ります。

◇禅僧ミトワの半生

帝都は東中野の「ポレポレ東中野」で12月11日まで上映している「禅と骨」はご覧になりましたか?

迂生は京都の”小芝居”ならぬ”小映画劇場”の京都シネマで見てきました。ドキュメンタリータッチで、禅宗の周辺には、こういう人士が多士済々なのだ、と再認識しました。

青い目のミトワという生臭い「禅僧」の戦前、戦後の一代記を評伝風に作ってあります。ミトワは日系アメリカ人ですから、戦前はスパイとして特高からマークされ、父親の母国に行っても、今度は敵国から来たという扱いを受けたり、何処の国でも、ハーフ、混血というのは苦労が多く、生き方も大変だと、思い至ります。

”グローバリズム”は、体裁の良い事ばかりが、強調されますが、「日本の近未来」の前触れというか、歴史は同じことの繰り返しです。

◇男を迷わせるもの

また、ミトワ自身も、家族をほったらかしにして、思うように生きたわけです。親しかった作家の水上勉の臨終直前には、お互いの◯◯を握り合って「これが男を迷わせるので、困ったものだ」と言ったり、「ワシは未来に興味、関心はない。過去に興味があるのだ」と言ったりします。

天龍寺の老師は「風流人だった」と言っていますが、家族は迷惑だったことでしょう。面白い生き方の一つだ、と思いますが…。

◇千玄室大宗匠の迫力
ミトワの末娘が父親の生き方を批判的で、反発しますが、あれは本当は父親のミトワが大好きだった、と思いますね。
映画には「裏千家」の千玄室大宗匠も出てきます。もう、93歳なんですね。この人も、生臭くて、ミトワと相通じるものがありますが(笑)、久しぶりに映像で見ました。風格が出て、何とも言えない雰囲気が出ています。底の浅い映画俳優より迫力をにじませています。

予告編は「禅と骨」で検索されるとみられます。 野口雨情作詞の「赤い靴」の謂れも紹介されたり、「映画製作はカネが無いと踏んでかかると、サッと皆んなが引いていく」とか、新たな人生勉強になりましたよ。