やはり、「ご縁」とは不思議なもので、このブログを通して面識を得ました京都市左京区にある浄土宗青龍山安養寺の村上純一住職とは、何かの縁(えにし)でつながり、御指導、御鞭撻を賜っております。
もし、村上住職と知り合わなかったら、これほどまでに日本浄土思想に興味を持たずに生涯を終えたと思います。
特に、浄土宗に関しては、根本的に誤解しておりました。自らの不勉強を晒して告白しますと、浄土宗とは、只管「南無阿弥陀仏」を唱えて、極楽浄土に往生することを願う宗教とばかり思っておりました。成仏することが目的の宗教です。柄の悪い言い方をすれば、俗世間や現実の生活よりもあの世の方が大切ではないかと誤解しておりました。
私が一時期、仏教思想から離れたのは、仏教は現実世界を苦界(穢土)とみなし、四苦八苦と煩悩にあふれ、これを克服するには、苦行と修行を経て、悟りの境地に達しなければならないし、解脱もできないという思想でした。
私は弱い人間ですし、お酒も飲み、肉食します。千日回峰行など苦しい修行に耐えることはできません。日々の生活の中で、腹を立てることが多く、悟りを開くことなど無理です。それに、凡夫である在家の人間としては、仙人のように霞を喰って生きていくわけにはいかず、仕事をしなければなりません。あの世よりも生きている間の現実の生活の方が大切です。
人生が苦であるのなら、そのまま抱えて、極楽浄土に行けなくても結構です、という生意気な態度でした。そもそも、「人生とは苦なり」と断言する仏教は、いかにもしんどい。
そのような疑問を抱えて、今夏、村上住職にお会いしたところ、「浄土宗にも現世利益がありますよ」とポツリと仰るではありませんか。その時、意味が分かりませんでしたが、後に、村上住職から「どうか法然上人の『選択本願念仏集』をお読みください。いきなり原文にぶち当たると大変かと存じますから、解説付きの現代語訳からお始めになるよう衷心からお勧め申し上げます。…どうかご精進ください」というメールを頂き、これに刺激を受けて、ここ1カ月間近く、少しずつ関連書籍も読んでいくうちに、ほんの少しだけ理解できるようになったのです。
まず、現世利益(げんぜりやく)は、「げんせいのりえき」と読むと、何かお金儲けのことばかりに思えますが、仏教の場合は、何よりも、魂の救済と心の穏やかさを得るということが分かりました。勿論、「商売繁盛」やら「出世願望」やら「子宝に恵まれますように」といった現世利益もありますが、宗教ですから、お金では買えない「心の平安」が一番の現世利益になります。(と、私は得心しました)「安心立命(あんじんりゅうみょう)」です。
浄土宗の場合、その上で(つまり、現世利益を肯定した上で)、心から「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて、浄土への往生を願うという宗教でした。たった6文字ですから、千日回峰行のような「難行」ではなく、「易行」です。それでも、阿弥陀如来は、どんな凡夫・悪人でも最後まで見捨てずにお救い(済度)してくださるというのです。
宣化天皇3年(538年)、日本に仏教が伝来してから600年以上は、仏教は皇室と貴族のためのものでした。それが平安末期になって、庶民にまで開放したのが法然坊源空上人でした。まさに、身分格差と男女の枠を乗り越えた革命的でコペルニクス的展開でした。
では、なぜ、法然(1133~1212年)が、仏教を超えて日本思想史上最も偉大な思想家・哲学者といわれるのか。浄土教は、何も法然が考案したわけではなく、法然が選択した三部経( 「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経 」 )などの経典として我が国に伝わり、空也を始め、「往生要集」を著した恵心僧都源信や融通念仏宗の開祖良忍らの先達がいました。なぜ、 天台宗の比叡山で修行をしていた法然が自ら宗派として独立せざるを得なかったのか?
法然とその弟子最長老の信空没後、浄土宗は色々な分派に分かれたが、なぜ、弁長の鎮西派と証空の西山派が現在も残る二大宗派になったのか?
法然の忠実な弟子だった親鸞は、自ら浄土真宗という新教団をつくる意志があったのかどうか?
時宗の開祖一遍上人は、浄土宗の流れを汲む。となると、鎮西派と西山派と時宗の違いは何か?
そもそも、南無阿弥陀仏とは何か、どういう意味なのか?
ーそんな愚問に取りつかれていたところ、先日、偶然にも、本屋さんで、それらの疑問にほとんど全て答えてくれる本に出合ったのです。昭和30年(1955年)に発行された柳宗悦著「南無阿弥陀仏」という本(岩波文庫)です。
柳宗悦といえば、民藝運動を推進した美術史研究家、美術評論家じゃありませんか。何で、美術専門家の彼が宗教書を?
(つづく)