日本メディアの黎明期は僧侶出身が多かった

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 昨日のこのブログで、大谷栄一著「日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈」を取り上げたところ、京都にお住まいの京洛先生から早速、反応のお便りがありました。

 …渓流斎ブログで取り上げておられる大谷栄一氏の本は面白そうですね。寺内大吉の影響がいかに大きいか、ということです。
 つまり、僧侶でもある寺内大吉にはジャーナリストの視点があり、学者や専門家にはそういうことは邪道で、文献と資料だけで十分だということです。自分の推論やひらめきは持たないのです。
 渓流斎さんは、「中外新報」という宗教専門紙を御存知ないでしょう。明治30年(1897年)創刊の老舗新聞です。司馬遼太郎が産経新聞記者時代に、小説「梟のいる都城」を連載し、後に「梟の城」として出版され、これが直木賞を受賞したので知る人もいるかもしれません。司馬遼太郎こと福田定一記者は、日本で唯一の宗教記者クラブである「京都宗教記者会」に所属していました。

 しかし、中外日報の創業者、真渓涙骨(またに・るいこつ)は謎の多い人物で、知る人は少ないでしょう。「万朝報」の黒岩涙香ではありませんよ(笑)。この人は、聖俗合わせて飲むような生き方で、やはりヤクザ=ジャーナリスト(笑)ですが、「中外新報」のホームページに、龍谷大教授の中西直樹氏が「『中外日報』創刊前夜の真渓涙骨 生誕150年に寄せて」と題して、この謎の人物に迫っています。

この中で、中西教授は「黎明期の日本ジャーナリズムを支えた新聞記者には僧侶が意外に多い」として、その代表として干河岸貫一(ひがし・かんいち=1847~1930)と安藤正純(1876~1955)を挙げています。この2人の活躍に真渓が憧れて「中外日報」を創刊したといいます。干河岸は、福島県の本願寺派大乗寺に生まれ、本願寺派訳文係として数冊の翻訳書の出版し、朝日新聞、東京日日新聞などで活躍します。朝日新聞の東京支局通信主任時代には、「大日本帝国憲法」全条文をスクープして大阪本社に打電しました。社内きっての速筆と評され、その後、仏教専門紙「奇日新報」を創刊します。

京都・龍谷山本願寺

  安藤正純は、浅草の真宗大谷派真龍寺の住職の子として生まれ、僧籍を持っていました。陸羯南の日本や朝日新聞などの記者として活躍した後、政界に進出し、立憲政友会の幹部となり、戦後は文部大臣となった人です。

  中外日報の創業者、真渓涙骨も福井県敦賀市の浄土真宗本願寺派興隆寺の住職の息子です。

 今と比べて、昔はマスコミ人のスケールが違いますね。幕末、明治は激動期であっても、メディアの黎明期で、同時に仏教や宗教の影響が大きく、新聞記者、ジャーナリストには在野精神が横溢していたわけです。テレビで顔を晒して政府擁護しかできない御用解説委員や、「スイス大使」を簡単に引き受けるような現代のマスコミ人とは大違いですよ。…

 なるほど、なるほど。真渓涙骨も干河岸貫一も安藤正純も、ジャーナリストの先輩として知りませんでした。日本のジャーナリズムも、仏教思想を抜きにして語れませんね。

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