「江戸・東京の被差別部落の歴史」を読んで

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

沖浦和光著「天皇の国・賤民の国」のことを会社の同僚の川本君に話したら、彼は浦本誉至史著「江戸・東京の被差別部落の歴史」(明石書店・2003年11月10日初版)を貸してくれました。彼がこのような問題に興味があったとは知りませんでした。

 著者の浦本氏は、「連続大量差別はがき事件―被害者としての誇りをかけた闘い―」 ( 解放出版社 、2011年3月10日初版)という本も上梓された方で、謂れもない差別に苦しんだ人でもありました。この事件とは、2003年5月から1年半にわたって、東京を中心に全国の被差別部落出身者や団体に差別文言をつらねた匿名のはがきや手紙や、注文してもいない高額商品が代引きで大量に送りつけられたりしたもので、逮捕された犯人は都内に住む34歳の青年でした。浦本氏個人に対する恨みではなく、「就職難のストレスから、部落差別の意図を持って一連の犯行を行った」と自供したといいます 。 これに対して、浦本氏は「無知が差別を生む」と、講演で全国を駆け巡っているといいます。

 世の中には実にさまざまな考えを持っている人がおり、彼らの個人的信条については尊重しなければなりませんが、中には根も葉もないデマを信じて被害者妄想に駆られて、法を犯す行為を厭わない悪質な人間もおります。刃(やいば)は弱者に対して向けられます。このような不特定少数向けのブログに対してでさえも、誤解や誤読や思い込みで、犯罪行為に走るような人間が世の中に少なからずいるので、困ったものです。

 その上で強調したいのは、この本は名著だと思います。著者は、内藤清成「天正日記」や「弾左衛門由緒書」「武江年表」など当時の文献を渉猟し、アカデミズムの学者以上によく調べ、よく研究し、私もこの本で沢山のことを教えてもらいました。

 差別問題は、古代からありましたが、制度として固められたのは近世に入った徳川幕府からでしょう。特定の職業(死んだ牛馬の処理、革製品の製造、街の警護や刑場の管理、祭礼の清め役など)を押し付け、 統治しやすいように特定の場所に住まわせ、リーダーを認めてトップダウン方式で支配してきました。幕府が穢多と呼称し、自分たちは「長吏」と自称した頭は、代々弾左衛門の名前を襲名してきました。この中で、四代目弾左衛門集久(ちかひさ、在籍1669~1709年)は歌舞伎の市川團十郎家の十八番「助六」の敵役の髭の意休(意久)のモデルだったという説があります。「助六」は、歌舞伎の興行権を巡る訴訟争い(勝扇子事件)から着想を得て、全く新しくつくられた世話物(作者不詳)で、正徳3年(1713年)、江戸木挽町(今の東銀座)の山村座で二世團十郎によって初演されました。 山村座は、翌年の正徳4年(1714)に江島生島事件で廃絶されていますから、歌舞伎通にとっては感慨深い逸話です。

 家康が関東江戸に入府した天正18年(1590年)、弾左衛門とその配下は、それまで居住していた日本橋尼店(あまだな、現室町、日本銀行がある所)から上野の鳥越に移住させられます。これは、日本橋にあった刑場が鳥越などに移転したことと関係があると思われます。同様に、正保2(1645 )年 には、鳥越から、浅草新町に再び、移住させられますが、これも、刑場が鳥越から品川の鈴ヶ森と北浅草の小塚原に移転したことも関係しているのでしょう。 蝋燭や行灯の芯である「灯心」の独占製造販売権も持った弾左衛門の浅草新町の屋敷(役所も兼ねていた)の敷地は740坪もあり、旗本か、小さな大名クラスの規模だったようです。

 長吏頭・弾左衛門の下に4人の非人頭がいたとも書かれています(93~94ページ)。浅草の車善七、品川の松右衛門、深川の善三郎、代々木の九兵衛です(こちらも代々襲名)。浅草と品川には「溜」と呼ばれる囚人の看護や身寄りのない病人や少年の世話をする施設があり、それを管理していたのが、それぞれ車善七と松右衛門でした。非人たちは、町や堀川などの清掃、刑場での労役などのほか、鑑札を発行してもらって、「物貰い」をすることも生業だったといいます。物貰いは、他の町人らには許されていませんでした。

 また、非人頭は、乞胸(ごうむね)や願人(がんにん)(下層僧侶)と呼ばれる大道芸人を支配していたといいます。史料によると、乞胸の稼業は、綾取( 竹に綱をつけ、まりなどを投げ上げては受け止める曲芸 )、猿若(顔を染めて芝居をする芸)、江戸万歳、辻放下(つじほうか=手玉芸)、操(あやつり)、浄瑠璃、説教、物真似、仕方能、物読、講釈、辻勧進(芸のない者や女や子どもたちが往来に出て銭を乞う)などでした。願人の代表芸は、「住吉踊り」でした。

 乞胸は、被差別民ながら、平民だったといわれ、町人が、無宿となって非人になったりする場合も多く、明確な規定などもなかったようです。要するに、支配者階級が、都合の良いように利用し、決めつけた制度に過ぎず、驚くことに、弾左衛門と配下らは、関ヶ原の戦いや、幕末の長州征伐にまで参戦させられた史料までもが残っていました。

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