50代の若さで逝った勘三郎丈と三津五郎丈

 皆さま御案内の通り、私こと、ポルトガル、ニュージーランド、インド…とせめてランチぐらいで世界旅行したいと、東京・銀座の専門料理店を彷徨い歩いてまいりました。

 でも、今日は、日本浪漫派のように日本に回帰したくなり、ランチは異国料理ではなく、和食にすることにしました。

 向かったのは、東銀座・木挽町にある「割烹 きむら」です。いつぞやも、この店のことをこの渓流斎ブログに書いたことがありましたが、例の私の「シュトルム・ウント・ドラング」(疾風怒濤)の時期に当たり、今ではその記事は消えてしまったようです。

 ということで、同じような記事書くことになりますが、この店の敷地には、もともと、「六代目」の住まいがありました。六代目というのは歌舞伎役者として初めて文化勲章を受章した六代目尾上菊五郎(1885~1949年)のことです。六代目というだけで梨園の世界では通用し、歌舞伎の神さまのような伝説の持ち主です。国立劇場のロビーにある平櫛田中作の「鏡獅子」像のモデルが六代目菊五郎だといえば、お分かりになるかもしれません。

 私も勿論、昭和24年に亡くなった六代目の舞台を見たことはないのですが、親しくさせて頂いた演劇評論家で舞踊作家の萩原雪夫先生(1915~2006年)から何回も六代目の話を伺い、近しく感じてしまっていたのでした。萩原先生はよく言ってました。「僕は六代目を見てしまったから、演劇記者になったんですよ」「終戦直後、新橋~鎌倉の東海道線でよく御一緒したことがあります」「掛け声の『音羽屋』は『おとわや』じゃなくて、『お、たーわー』と言うのが通ですよ」等々。(六代目の雄姿は、今では小津安二郎監督作品「鏡獅子」などユーチューブで見られます)

 その六代目が、下谷二長町(台東区台東)の市村座から昭和2年に松竹に移籍して歌舞伎座に出演するようになった経緯などを書いた自伝的芸本「藝」(改造社)がありますが、私はその本を読んで、六代目が住んでいた木挽町の場所をやっと探り当てたのでした。1階が和食店のビルになっていました。そのビルの何階かに「中村勘三郎後援会事務所」のようなものがあったので、十八世勘三郎(1955~2012年)は、六代目の孫に当たることから間違いないと思ったのでした。

 その日は、店に入って食事して、旦那さんに確かめたら、裏が取れました(笑)。

 さて、本日のランチは、和食のはずが、特別に「牛ヒレステーキ」を注文しました。1700円。我ながら気張りました(笑)。

 勘定を済ませた後、女将さんに六代目の話をしたところ、「まあ、随分、よく御存知なんですねえ」と驚いておりました。ま、そりゃ、そうでしょう。私は、怪しいもんですから(笑)。

 でも、女将さんは打ち解けて、すっかり内輪話をしてくれました。

 「(お店は、十八世)勘三郎さんが亡くなって、(姉で新劇女優の)波乃久里子さんが(ビルの)オーナーでしたけど、手放されて、今のオーナーさんはファンドなんですよ」とまで教えてくれました。

 そして、「昔は良かったですねえ。(十世)三津五郎さんが(歌舞伎座の幕間に)ちょくちょく顔を出して、遊びに来てくれましたよ。本当に良い人でしたねえ」とまで女将さんは言うのです。嗚呼…、私がよく知るのは、三津五郎丈が(五世)坂東八十助(1956~2015年)を名乗っていた時代ですが、腰が低く、何かのパーティーで会うと、遠くからでも私を見つけて挨拶してくださるような人でした。三津五郎丈のお名前を聞いただけで、懐かしくて涙が出そうになりました。

 勘三郎丈は57歳で、三津五郎丈も59歳の若さで亡くなってしまいましたからね。歌舞伎の世界では、「五〇、六〇(歳)は洟垂れ小僧」と言われるぐらいですから、まだまだこれからでした。志半ばでさぞかし無念だったろうなあ、と思うと胸が詰まってしまったわけです。

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