「古事記」を読む(2) 第55刷

山紫水明 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur
 (つづき)

 池澤先生は、地名にも拘りを持ちます。

 「木」は今の「紀伊」であり、「科野」は「信濃」、「三野」は「美濃」、「針間」は「播磨」、「稲羽」は「因幡」、「多遅麻」は「但馬」「近淡海」は「近江」といった説明も細かいです。

 初代神武天皇の正室の名前は、富登多多良伊須須岐比売命(ホト・タタラ・イススキ・ヒメのミコト)で、「ホトに矢を立てられてあわてた女」という意味だそうです。ホトの意味は、ここでは書けないので、143ページの註をご参照下さい。池澤先生も「大らかなものだ」と注釈しておられます。

 それにしても、凄まじい王位を巡る権力闘争です。「壬申の乱」の例を出すまでもなく、親兄弟、叔父甥などの見境なく戦い、少しでも謀反の疑いがあると簡単に死刑か殺害してしまいます。殺し方も実に残酷だったりします。

 皇位継承のための後継者づくりも凄い、の一言です。現代人なら誰でも驚いてしまう、腹違いの兄と妹、叔父と姪、弟と嫂などの夫婦の契りが数多く見られます。

 あまり知らなかったことは、皇后も子供もいなかった天皇(第二十二代清寧天皇)や三十歳代(第二十三代顕宗天皇)や四十歳代で崩御した天皇(第二十六代継体天皇)もおられたことです。神からますます人間らしくなってきたということです。

山紫水明 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 もう一つ、多くの学者が提唱しているように、日本の神は、西洋のエホバのような全知全能ではなく、あまりにも人間的な面が多いことです。例えば、天皇家の始祖となる天照大御神の力は絶対ではなく、しばしば素戔嗚尊(スサノオノミコト)の横暴に悩まされたり、天の岩屋戸に隠れたりします。また、アマテラスは、孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を使って、直接地上を治めればいいのに、わざわざ、出雲にいた大国主神(オオクニヌシのカミ)から国を譲らせて、やっと迂回して統治します。

 これらは、恐らく、地方の豪族が強すぎて、恐らく、当初は、出雲の豪族の方が、天皇家より強豪だったいう史実を反映しているのではないか、と推察ができます。

 神武天皇の東征から代々の天皇は、倭朝廷の統一を図りますが、その間に、大伴氏や物部氏や蘇我氏や中臣氏や忌部氏や多くの地方豪族を従わせることに成功していったということなのでしょう。そのためには、朝鮮半島から土木や工芸に秀でた秦(はた)氏や、文字や財政に明るかった漢の直(あやのあたえ)といった新技術を持った「今来の才伎」(いまきのてひと)と呼ばれる渡来人を積極的に朝廷中枢に活用して、他の豪族を抑えていったものと思われます。彼らの名前が「古事記」の中にもしばしば登場します。

 また、天皇は、頻繁に「豊楽の宴」(とよあかりのうたげ)を開きます。そこで、暗殺事件が起きたり、陰謀が諮られたりする場面が古事記の中で登場します。豊のトヨは美称で、楽のアカリは、酒を呑んで顔が赤くなる意味があります。極めて現代的ですね。

 戦前は、国家神道に基づいて、天皇家は「万世一系」と教育されましたが、実際は、多くの学者が指摘するように、親から子に万世一系に世襲されるのではなく、弟から兄に継承されたり、叔母や娘に継承される例もあります。

 また、ある学者の中には、紀元前660年頃の初代神武天皇から第九代の開化天皇までは「神話の世界」で実在したかどうか、立証できず、第十代の崇神天皇(紀元前九二年頃)が初代天皇ではないか、という説を唱える人もいます。さらに、第十六代仁徳天皇の流れを汲む第二十五代武烈天皇で、一旦、王家の血統は途絶え、越前の三国から迎えられた豪族が第二十六代継体天皇として、即位したと言われます。

 もっとも、継体天皇は四十三歳で崩御しますが、武烈天皇の姉と結婚したので、その皇子は、仁徳天皇の血をひく「万世一系」と言えなくもないことになりますが。

 第三十三代の推古天皇の父は、第二十九代欽明天皇で、母は蘇我稲目の娘堅塩媛だったため、弟の第三十二代崇峻天皇が蘇我稲目の息子馬子に暗殺されたことによって、日本で初の、東洋で初(という説も)の女帝として即位します。

 「古事記」は、この推古天皇のことまで書かれていますが、この女帝の記述があっけないほど短い。勿論、崇峻天皇が暗殺されたことも明記されていませんし、推古天皇の摂政となった聖徳太子も出てきません。

蘇我氏は、大化の改新で蘇我蝦夷,入鹿親子は倒されて本家は滅亡したものの、蘇我の分家は存続しており、分家に遠慮して、書かなかったのではないか、という説もあります。

いずれにせよ、天皇家は、古代にこれだけ権力闘争で身内で殺し合いをしたので、平安以降は藤原家などに政治を任せて、専ら、有職故実や芸能に入り込んでいってしまったのではないか、という説は、やはり説得力があります。

古代史学の泰斗、上田正昭京大名誉教授の最期の著作「古代の日本と東アジアの新研究」(藤原書店)によりますと、「天皇制」という用語が初めて登場したのは、昭和6年(1931年)、コミンテルン(世界各国の共産党の国際組織)の「三一年テーゼ」草案だったそうです。そして、これに絶対君主制という概念規定を充てたのが、昭和7年の「三二年テーゼ」だったそうです。

ということは、武家社会になって、天皇家は、ほとんど政(まつりごと)に関わらず(勿論、承久の変や南北朝の動乱など例外があります)、「天皇制」という言葉自体もなく、明治維新になって、天皇家は、時の薩長革命政権によって祭り上げられて、政治的に利用されたのではないかという学説には、私も特に注目しております。

パソコンが調子悪くて、前に書いた文字が消えたりして(ナンタルチヤ!)、何度も書き直したりして、これを書くのに16時間もかかりました。実に疲れた!

もう、嫌だ!

“「古事記」を読む(2) 第55刷” への1件の返信

  1. 16時間お疲れ様でした
     よくこれだけ、読みかつ、調べて書かれましたね。凄いですね。「天皇制」の語源もよく調べられました。着物姿で、チャラチャラして、新宿矢来町の本屋から、紙の無駄使いのような駄文を書いている、安物の呉服屋のイメージキャラクターみたないな、オバサンなんかは、こんなこと知らないでしょうね。しかし、あんな無知、無教養な人間の本を読む人がいるのですから、世の中、右を向いても、左を向いても真っ暗闇です。まあ、拳銃の取集・愛好家で、これまたお金に汚い東京都知事をなんと400万人もの有権者が”清き一票”を投じたのですから、当たり前かもしれませんがね。「人を見る目」がないこの世ですから、もっと酷いことが起こるのは間違いありません。パソコン入力に16時間かかって、疲れていてはだめですよ。もっと、過酷なことが待ち構えていますからね。以上

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