ヤルタ会談が分かれ目

黒河市内を黒竜江へ Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 いつも、いつも、「獅子身中の虫」様からコメントを頂きますと、ドキッと心臓が一瞬止まり、身仕舞いを糺してしまいまする。

 そうですか。御意見賜り、誠に有難う御座いました。

 まさか、ロラン・バルトにまで言及されるとは思いも寄らず、さすが、氏の読書量と教養の深さの甚大なることが拝察されました。

黒河市内を黒竜江へ Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 やはり、昨日書いた「ヤルタ協定」が気になっています。

 1945年2月4日から11日にかけて8日間、忘れっぽい現代人が既に忘れているあのウクライナ半島の南端の黒海を臨むリゾート地ヤルタで行われました。

 まだ、枢軸国の雄、ドイツ帝国も、大日本帝国も降伏しておりません。(イタリアは1943年9月に無条件降伏)

 そんなまだ「時期尚早」の時期に、既に、第2次世界大戦後の世界の構築が米英ソの3人の首脳によって話し合われたのです。

 参加した米大統領ローズベルト(1882~1945)は63歳。英首相チャーチル(1874~1965)は70歳。そして、ソ連首相スターリン(1878~1953)は66歳です。

対岸のブラゴベシチェンスクが見える Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

 スターリン君は「憎いのは日本だ。40年前の露日戦争で勝手に奪われた樺太の南半分を返してもらいたい。ついでに、千島列島もくれなきゃ、やだよ」と言ったに違いありません。事実そうなりました。

 「そのかわり」と、その2カ月後に死が迫っていることを知らないローズベルト君は「日ソ中立条約なんか、さっさと反故にして、対日参戦してもらわなきゃ困るよ」と言ったに違いありません。70歳の最高齢のチャーチル君も口を揃えたのかもしれません。

 1945年8月9日。事実そうなりました。

 驚くべきことに、この会談では、特にポーランドとドイツの戦後処理と連合国同盟(国際連合は誤訳!)の設立。その連合国の英米仏ソと中華民国(決して中華人民共和国ではない!!)の5カ国が、拒否権を有することまで決定したのです。

 これらは、「ヤルタ密約」として、日本はおろか、世界中誰にも知らされることなく、「戦勝国の利」として取り決められました。

 日本にとっては、敗戦の半年以上も前に趨勢が決定されていたのです。それなのに、何も知らない青年将校が、ポツダム宣言受諾の玉音放送の録音盤を奪取しようとクーデターを試みた歴史的事実は、彼らが当時の文武両道の超知的エリートだったはずなのに、後世の人間から見ても、どうも、時代錯誤的、自大野郎的、情報収集力の根本的欠如を痛感せざるを得ません。

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