「源平藤橘」以外にも伝統ある名前が=名字の歴史

 「歴史人」(ABCアーク)2月号の特集「名字と家紋の真実」は大変読み応えがあり、端から端までゆっくり読んでいたら1カ月以上も掛かってしまいました。

ある程度は知っているつもりでしたが、まさに知らなかったことばかりでした。名前に歴史あり、です。

 この本ではあまりにも多くことが書かれているので、大雑把なことしかこのブログでは書けないことを御勘弁ください。

 まず、古代には氏姓制度があり、地位身分を表す「姓」(かばね=真人、朝臣など)、血筋を表す「氏」(うじ=阿倍、紀、橘、源などの「皇別」と、藤原、大伴、弓削などの「神別」、渡来人の子孫である秦、丹波、武生、高麗などの「諸蕃」)と、職業などで所属する「部」(べ=服部<機織り>、久米<軍事的役割>、犬養<番犬で守衛>)などがありました。

松浦佐用姫 Copyright par Y Tamano

 平安時代になると摂関政治の藤原氏が絶大なる権力を握り、京都の中央政府(という言い方はありませんけど)では有り余ってしまい、地方の国司とか後の守護とかになって荘園領主となり、名前を変えます。

 加藤=加賀の藤原

 伊藤=伊勢の藤原

 後藤=備後、もしくは肥後の藤原

 近藤=近江の藤原

 遠藤=遠江の藤原

まあ、この辺は初級です。日本で一番多い「佐藤」は左衛門尉(左衛門府の判官で検非違使を兼ねたりした)の藤原です。意外と難しい。

  私が知らなかったのは、尾藤と工藤と武藤でした。

 尾藤は尾張の藤原。 なあんだ、でした。

 工藤は、宮殿の造営に関わる「木工助(もくのすけ)」の藤原。現代は、青森県に多い名前です。

 武藤は、武者所の藤原、もしくは武蔵国の藤原でした。

 あ、もう一つ、斎藤は、斎宮(伊勢神宮に奉仕した斎王の御所)の藤原でした。こちらは中級ですね。

 「藤」が入らない藤原氏の末裔には、皆川(下野国皆川荘の藤原)、薬師寺(下野河内郡薬師寺の藤原)、宇佐美(伊豆の荘園で栄えた工藤氏の末裔)、狩野(遠藤氏から分かれた) などがあります。これは全く知らなかった!

 奈良平安から栄えた、もしくは生き残った貴族に藤原氏の他に、「源平藤橘」といって、武士化した源氏と平氏、橘氏があります。このほか、天神様こと菅原道真の子孫には、菅原以外では、今の首相の菅(すが)や元首相の菅(かん)や唐橋、高辻などがあります。

Turtle Copyright par Y Tamano

 戦国時代ともなると、武将たちは大抵、武家の棟梁である源氏か平氏の子孫を名乗ります。例えば、織田信長は、平清盛の末裔と言われ、徳川家康は、清和源氏の新田氏の末裔で、三河に定着した親氏(ちかうじ)から松平姓を名乗り、その九代目の家康が徳川に改めたといいます。

 意外と知られていないのは、毛利(元就)氏です。鎌倉時代の幕府政所初代別当だった大江広元の子孫と言われています。

 長州藩毛利氏が出たので、薩摩藩島津氏の話も付け加えなければいけませんね。一説には、初代島津忠久は、鎌倉幕府の御家人で、源頼朝から薩摩の地頭に任じられたことで島津姓を称したいいます。彼は、渡来人の秦氏の流れを汲む子孫貴族・惟宗広言(これむね の ひろこと)と言われる一方、源頼朝の落胤とする説もあるようです。

 この他、著名武将である伊達(政宗)氏、斎藤(道三)氏、蒲生(氏郷)氏はそれぞれ藤原氏、楠木(正成)氏は橘氏、武田(信玄)氏は常陸那賀郡の武田郡から甲斐に移った甲斐源氏の末裔といわれております。

 あと、名字とは全く関係ないのですが、織田・徳川連合軍が鉄砲部隊を使って武田勝頼の騎馬隊を撃破した「長篠の戦い」は有名ですが、この合戦で、武田の家臣で真田幸村(信繁)の伯父に当たる真田家の嫡男の信綱と次男の昌輝が戦死していたんですね。そのため、幸村の父である三男の昌幸が真田家の当主になったわけです。嫡男信綱が長篠の戦いで討ち死にしないで生き延びていれば、真田幸村がこれほど歴史上有名になっていなかったかもしれません。

 他にも色んなことが書かれていますが、ここでは書き切れないので、ご興味のある方はこの本をご参照ください。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください