皇居
【存在が意識を規定する】
日本人横綱稀勢の里。昨日が初日だった大阪場所では危なげない横綱相撲。やはり、存在が意識を規定する?
皇居
BS11の「尾上松也の古地図で謎解き!ニッポン探求」。
先週放送された「第72回 桶狭間の戦い なぜ敗れた?今川義元の実像」は実に面白かったですね。
今川義元と言えば、戦国武将とは名ばかりで、公家趣味が高じて、白粉まで顔に塗って軟弱な、そして愚鈍なイメージがありました。
何しろ、圧倒的有利と言われた桶狭間の戦いで、織田信長に敗れて、信長の引き立て役となり、愚かな弱者というイメージが定着してしまいました。
しかし、それに異議を唱えたのが、この番組のゲストの小和田哲男静岡大学名誉教授でした。
今川義元は、実は「海道一の弓取り」と言われ、最強の呼び声も高い戦国大名だったというのです。
しかも、今川家の五男として生まれながら、その4人の兄を乗り越え、抑えて今川家の家督を継ぐくらいですから、相当な強者(つわもの)だったのです。
義元はもともと、家督争いを避けるために、幼少期に仏門に入ります。そこで、「戦国一の軍師」と言われた大原雪斎に非凡な才能を見出され、武道だけでなく、兵法などの学問も叩き込まれるのです。
そんな義元がなぜ桶狭間の戦いで敗れたのか? 2万5000人の今川軍に対し、織田軍はわずか3000人。そこにはやはり、義元の慢心と油断があったからなのです。
まともに戦えば、信長が勝てるわけがありません。それでもなぜ信長が勝利を収めたのかと言えば、それは、小和田氏によると、信長の巧みな情報戦略による勝利だったというのです。
信長は、他の武将には目もくれず、義元の首級を取ることだけに集中します。そのために、間者を放ち、ありとあらゆる諜報活動を展開します。
そして、今川義元は、わずか5000人で桶狭間(現名古屋市)の山頂に本陣を張っているという情報をつかみます。残りの2万騎は、1万人ずつ別個に行動して、他の出城を攻撃していました。
5000人対3000人なら、万が一でも勝てないことはありません。信長は、桶狭間から見える所にわざと本陣を張り、幟旗をはためかせて全陣がいるように見せかけ、そこには1000人だけ残し、残りの2000人で雨の中を奇襲攻撃をかけ、大将の義元だけを目指して、結局、勝利を収めるのです。
皇居
この番組の進行役の歌舞伎俳優尾上松也は現在、大河ドラマ「おんな城主 直虎」で今川義元の嫡男氏真(うじざね)役を演じてます。
桶狭間の戦いで敗れた今川家は、そのまま滅亡したものと思っていたら、今川氏真は江戸時代まで生き延びるんですね。
小和田名誉教授は、その理由ついて、今川義元の人質だった松平元康(後の徳川家康)が、氏真とは幼馴染だったため、情状酌量で助命したのではないかというのです。
これで、今川義元観も、徳川家康観もすっかり変わってしまいましたね。
いやあ、久し振りに面白い番組を見たものです。