海城学園 「創立125周年記念誌」出版記念会

ワシントンD.C. Copyright par Duc MatsuokaSousumu kaqua

我が母校、東京・新大久保にある海城学園創立125周年の記念誌出版会が東麻布で催されるということで、12日の夜参加して参りました。ちょっと想像もしていなかった衝撃なことも起こり、人間、長生きはするもんだ、と思いましたよ(笑)。

昨日は、「応仁の乱」の山名宗全の子孫に当たる明治24年(1891年)生まれの山名義鶴さんのことを書きましたが、驚くべきシンクロニシティで、海城学園の前身が創立されたのも明治24年でした!

創立者は、佐賀鍋島藩士で維新後、海軍少佐などを歴任した古賀喜三郎です。海軍に優秀な人材を送り込もうと、海軍兵学校を目指す「海軍予備門」として生まれました。ちなみに、創立者古賀の女婿が江頭安太郎海軍中将で、この江頭の孫が文芸評論家の江藤淳(本名江頭淳夫)で、江藤は学園の理事になったこともあります。

また、江頭中将の曽孫に当たるのが皇太子妃雅子さまになります。

海軍予備門は、今、霞ヶ関の厚生労働省がある所にありました。その隣が府立一中(現都立日比谷高校)という時代です。

つまり、霞ヶ関の官庁街などと威張っておりますが、比較的新しくできたものだということが分かります。

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母校は明治24年創立ですから、昨年の2016年が125周年です。その記念誌は、海原会(海城学園卒業生の会)のメディア会が中心になって、3年がかりでOBからの証言を集めたり、座談会を催したりして、方々から寄附金を掻き集めて、今春、やっと完成にこぎつけたわけです。

この本には、私も卒業生の一人として執筆し、歴史的証言が盛り沢山で、装丁もしっかりしていますが、書店では販売されていません。

海原会 (←こちらをクリック)に若干残っているようですので、一部1000円ですが、是非お求め下さい。と、宣伝しておきます(笑)。

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さて、その出版記念会です。場所は、あのスパイ、ゾルゲが住んでいたロシア大使館裏手の東麻布でした。住宅街の一角のような四辻沿いにやっとお目当の「ピリピリ」というカレー店を見つけることができました。(後から分かったのですが、この店は海城OBの伊藤さんという方がやっているお店でした)

15人も入れば満杯になってしまう小さなお店で、窓ガラスを通して外から中の様子が丸見えです。

出入り口が分からず、中の様子を見たところ、超ミニスカートの女性がいるじゃありませんか。あれっ?会場間違えたのかな?それとも、誰か自分の奥さんか家族を連れてきたのかもしれない。意を決して入ったら、やっと一人、松長事務局長の顔が見えて安心したわけです。

小生、一昨年大病で入院したおかげで、会合に参加するのも3年ぶりぐらいでしたから、出席者の方々は、記念誌出版会代表の小西さん以外は殆ど知りませんでした。

で、先程のミニスカートの女性はOBの方でした。海城学園は、男子校なので、あれっ?と思いましたが、…つまり、その…そういうことでした。私より一世代若い方で、スマホのゲームソフト製作者でシナリオライターさんのようでした。

もう一人、後からいらっしゃった方で、小生の四年先輩に当たる川田さんという人もなかなかでした。一見、堅気には見えない服装です。金魚をあしらった派手なアロハシャツのようなものをお召しになっておりました。

名刺を頂くと「金魚銀座 座主(CEO)」とありました。もともと三菱財閥系の超超一流企業にお勤めになっていたのですが、転勤を命じられ、飼っていた金魚が死んでしまうので、その会社を辞めてしまった風流人でした。

川田さんは全国の金魚市に顔を出して、情報収集したり、金魚の飼い方を指導したり、講演活動をしたりしているようですが、その金魚は、販売しているわけではないので、どうやって生計を立てておられるのか、最後まで謎で不思議な人でした。

この方、大変失礼ながら高校時代の不良精神が三つ子の魂のようにお持ちになっており、この川田先輩より5歳年長の先輩と「おい、表に出ろ!」「上等じゃねえか」と大喧嘩寸前までいき、東映のヤクザ映画より迫力があって面白いものを見させて頂きやんした。

恐らく海原メディア会は、私を含めて超破天荒な方々の集まりのようでした。

 海原会の会長は有名なフリーアナウンサーの徳光さんでメディア会にも顔を出しております。そして、メディア会には何と言っても、モハメッド・アリとアントニオ猪木の異業種格闘技などを仕掛けたプロモーターの康芳夫大先輩がおります。

 今年1月には、メディア会の会長だった田所さんが50歳そこそこの若さで急逝され、記念誌の完成を見られなかったことが本当に残念でした。田所さんは、日刊競馬の記者を務め、メディア会には私財をなげうって、会の運営と発展のために努力されていた方でした。

 いずれにせよ、どこに出しても恥ずかしくない立派な記念誌をボランティアで作り上げた皆々様方、本当に御苦労さまでした。

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