被害者意識 

最近、見知らぬ多くの方から「コメント」を寄せられるようになりました。
一人一人にお答えできませんが、本当に有難う御座います。「もう少し、続けてみろ」という励ましと勝手に受け止めさせて戴きます。

しかし、先日、ある信頼する人から面と向かって「渓流斎さんのブログは、被害者意識で書かれていますね」と核心を衝かれてしまいました。

まさに、その通りだったからです。前回の「脱脂粉乳」にしても、楽天によるTBS株買収の話にしても、視点は「被害者」です。このブログ全体が、確かに被害者の意識が通奏低音のように流れているようです。自分で書いていて、他人事になってしまうのは、自分でも意識していなかったからです。深層心理というか、潜在意識で書いていたのでしょう。

「どうしたらいいのですか?」と私は尋ねました。すると、Hさんは「被害者も加害者もいない、ということを理解することです。被害者意識を感じたら、それをすぐ手放すことです」とアドバイスしてくれました。

まあ、本当に難しい問題です。

前にも書きましたが、私が影響を受けた夏目漱石にも太宰治にも「被害者意識」が120%流れています。彼らの影響から脱しなければなりません。

もちろん、今後、加害者や強者や権力者の眼で書くつもりはありませんが、被害者意識が被害妄想にならないように、自重して書き続けたいと思います。

“被害者意識 ” への3件の返信

  1. 私は私と言えた時。。。
    今朝 ぼ~っとしていたら こんな言葉が浮かびました。
    「私は私といえた時、全ては変わる」
     
     本屋さんに並べられるタイトルのようですが、 これは 確かではと思うことを 最近味わいました。
     
     この世の中 「比べる」ということから
     あらゆることの価値基準を 決めているように思えます。 その心が 勝った負けたとなり、あの人より優れているとか劣っているとか、今を楽しむ、違いを楽しむよりも 苦しみや嫉妬に変わってきたようにかんじます。
     私も その物差しをしっかり 握って生きてきました。
     母が以前口にした言葉を思い出します。 「ばあちゃんにお姉ちゃんのようになりなさい。といわれ本当にいやだった」と。。
     
     そのお姉ちゃんは 綺麗でおしとやかで
     勉強もでき 怒ったことのない人だったようだ。でも 33歳で 癌でなくなった。
     昔ばあちゃんがいっていた。
     私がその亡くなった人(愛子おばちゃん)に似ていると。綺麗とかそう言う意味ではなく 似ているのだと。
     母の気持ちを思う。
     癒されない母の心は 同じことを無意識に 繰り返す。 
     「こうなりなさい。」「こうでなければ」 「そのままではだめだ」となっていく。
     子供の心理は「そのままの自分は価値がない」
     「そのままでは拒絶される」と恐れを抱く。「生きていく力はまだないから、見捨てられることは死、根源的恐怖となって、 そうなろうと努力する」「愛し 愛されるために」大人になりあらゆる関係が 「何かになろうとする」 他が求める何かに。
      全てがそう選択するわけではないだろう。。。
     その人の人生の学び、役割によって
     その捉え方は 変わるでしょうが、
     私は そうだったようだ。
     渓流斎さんは太宰治かもしれませんが、私は ガンジーや マザーテレサ、仏陀、キリストまでに及ぶ、聖者的な役割の方達に強く惹かれた。
     「それこそ 真の奉仕。価値ある人生だと」
     笑ってしまうのですが、本当になろうと努力してきたようなのです。
     でも 根底には 無価値感、罪悪感が潜んでいたように 思え、
     その為の 保証行為だったのです。
    つまりは「やってもやっても報われない」
     疲れきるだけ、 偽善なのです。
     
     それを 気づかせてくれたきっかけは、
     今ある恋愛。
     心の底から 湧き上がる感情がありました。
     「私は私だ!!!」と。。
     今ならはっきりとわかるのです。
     どんな状況も 全て調度良い、必要で与えられていると。
     
     それからというもの、不思議なのです。
     
     自分の中の真実が見え始めたというか、
     自分の中の本物に出会えたような感じというか。。。
     幻想が打ち破られたような でもとても
     すっきりしていて 安心の中にいるようなのです。
     そう! 自分と一つになった感覚!
       だから 他に求める気持ちも
       愛する人が側にいなくなる不安も
       誰かのようになりたい気持ちも
       消えてしまって 「今ここ」
       この自分の中にいて 平安である。というか
      もう、どこにいこうとすることも、
      努力することも 必要ない。
     「自分は自分であること、それが大事、
       それこそ かけがえないことなのだと。」
     何度も何度も 言葉では耳にしてきたのです。
     敬愛する僧侶セアロに、始めていわれた言葉が そうでした。「 あなたはあなただ。自分以外になろうとするな! 今が最高なんだ!」と。
     あれから 4年かかり やっと 自分にそういってあげられる。
     
     3日前 夢をみました。
     僧侶セアロがでてきて 私は追いかけます。
     「セアロ 私に必要な言葉をいってください!」そう頼みました。
     セアロはいいます。
     「ここが大事、 誇りに思っているみたいだしな。」と
     
     目が覚めて 生まれた土地を愛しているから そういう夢をみたのかとも思いましたが、 「ここ」というのは 「自分」ということでもあったようです。
     「私は私を大事に何よりも愛し 誇りに思っている。 私であること。 それが 全てと繋がるのだ」
     
      「平安」
       私が 心から求めてきたもの。
       あっと言う間に38年が過ぎた。
       逃げた時もあった。
      「苦しみを信じる」
      そう愛する人がいった。とても心に響いたから、「逃げない」と誓った。
        
    そして 今日があるのは 愛があったから。
      恐れる私を 何度も包んでくれる愛があったから。。。
       沢山の人に 導かれ助けられてきた、
    そして 最後は彼のそのままの存在が背中を押してくれた。
      きっと これが真のパートナーシップ、
      全ての人と出来うるもの。
      自分の真実から逃げずに 愛を持って
      全てを与える覚悟をすること。
      それは そのままの自分であること。
      それが 光となり 人々を照らすのだ。
       そう 私は 信じる。
       
     
     
          
       

  2. 追伸
    太宰治は 太宰治だけの人生、
     
     あなたはあなただけの人生を生きてください。
     何かになろうとする人生から、脱してください。
      あなたはあなたであることだけに
       専念すればいいのです。
     そうすれば あなたなりの輝きで 人びとを 照らします。きっと!!!
     あれ、なんだか 似たようなことお友達
     いってなかったかしら???
       

  3. 理解
    今日 友達と「許し」はどうしたらできるのだろうかと 話し合っていました。
     全ての ネガティブな観念は 全ての体験を許すこと以外ないように思えるのですが、人類永遠のテーマのようであります。

     
     で話し合いの中 一つの結論は 「理解すること」ではないかと。。 
     私の身近な人に 自分と似てる方がいるのです。 悲しみや怒り 恨みなどの感情を感じないように 生きてきたようで 一見クールに見える人がおり、どこか そらす癖があいます。
     今朝その方のことを 考えていて ふと
      どんな人にも 全て「そうなる理由」がある。 と 思えたのです。心を守る為に 壁をつくる、感じないようブロックするのは子供のうちは特に 自然なことであり 自分もそうすることである意味守ってきました。 人はいろんな方法で 傷つかない方法を 生み出します。多重人格などもその一つですが そのパターンが大人になっても 人との親密感を恐れる、孤立感、分離感を作り出すなど 破壊的行為へも繋がっていくと感んじます。
      でも見えない心理は、「愛」するがゆえ、愛しあいたい。から 全てそこから始まっているのではないでしょうか?
     愛するがゆえに、悲しみ、憎み、拒絶を恐れて自ら 遠ざかる、
     あるがままを愛されない体験から 自らを愛せず 自己否定からの行動にはしり被害者的現象をも生み出していくような。。。
     あげればきりがないのです。
     そんなあらゆる 恐れが犯罪に繋がっていくのではないでしょうか。。。。。

     ある本には「許し」は訪れるものと書かれていました。
     きっと そうなのだろうかとも 思います。
     許さないことは苦しみだと 心(胸)は知っている。
     苦しみはきっといつか手放したくなるのではないでしょうか? 
      
     
     私は先日ある方に対し 理解してほしくて 言葉を沢山投げかけてしまいましたが、間違っていたと気づかされました。
     理解を望むのも要求であり ある種のコントロールです。
     言葉の暴力を沢山 耳にされてきた人に強い言葉で 望んではいけなかったのでした。
     それこそ自分が経験してきたコントロールと聞く耳もたない。状況を作ります。
     でも 同時に 自分の母の気持ちも理解出来たようです。 子供を思うあまり 強い言葉になってしまうことが コントロールされているように感じたり まさしく、愛するがゆえ。。
     目の前に 苦しんでいる方がいたら 理解してあげてくださいね。  異常と思えるような行動でも
     そうならざる負えないその方なりの理由が
    必ず あると思うのです。
     理解は愛の行為です。
     そしてまず ご自身にしてあげてくださいね。
      そして 身近な家族にしてあげてくださいね。
     それこそ ジョン・レノンの平和活動ですね。。自らが心の中で自分と 戦争していて 世の中の平和を望むのは大きな勘違い。
     
     渓流斎さんは すでに選択されたようですね。
     被害者でも加害者でもなく
     「自分自身」であることを。。。。
      これからを 楽しみにしております。
                 合掌
     
      
      
     
     
      
      
       

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