「戦国最強家臣団の真実」を特集している「歴史道」別冊SPECIAL(週刊朝日ムック、2021年12月発行)は薄い雑誌ですが、内容は百科事典みたいな本で、情報量が多く、全て頭に入れることは諦めて、必要な項目はその時にまた参照することにして、一応読了しました。
「織田家」「武田家」「徳川家」「豊臣家」から「黒田家」の家臣団まで11家の家臣団が取り上げられているほか、合戦の陣形や戦術から調略まで、何かあらゆることが詰まっている感じです。
考えてみれば、何故、家臣団のことを知るべきなのか、答えは単純ですね。例えば、「織田信長による比叡山焼き討ち」と歴史の教科書で習っても、実際に比叡山延暦寺に火を付けたりしたのは信長ではなく、その家臣団です。実戦部隊は主に、明智光秀軍だったと言われ、光秀はその戦功により、坂本城の一国一城の主となり家臣団の出世頭になったことは皆さんご案内の通りです。
この本で取り上げられた家臣団の中で一番印象に残ったのは武田家です。百戦錬磨と言われた武田信玄亡き後、跡目を継いだ武田勝頼は、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れてからは(この時、信玄の「四天王」と言われた内藤昌豊、山縣昌景、馬場信春が討死)転落の一途です。徳川家康軍に攻められていた高天神城に援軍を送れなかったことをきっかけに、家臣団中枢の御親類衆まで離反し、織田方の滝川一益隊に包囲されて最期に自決した田野(現山梨県甲州市)まで勝頼に従って残っていた家臣団はわずか43人だったといいます。
家康との三方ヶ原の戦いの時の武田家が最盛期だったと言われますが、その時の家臣団は5万人はいたそうです。それがたったの43人に減少してしまったという史実は、武田家にせよ、戦国時代は、大名一人の独裁ではなく、多くの国衆などの家臣による合議制だったということが分かります。国衆の家臣も一国一城の領主でもあったわけですから、自分たちの領地を安堵してくれる頭目の神輿を担いでいるだけということになります。(武田軍団が無敵を誇ったのは、地元甲斐には肥沃な土地がないため、命懸けで他国に攻め入って領地を広げるしかなかったからという説が有力)
武田勝頼は、最後に御親類衆である穴山信君(のぶただ、梅雪)や譜代・家老衆の小山田信茂らにも離反(裏切り)されますが、勝頼は、信玄の四男で母方の諏訪大祝(おおほうり)家の血が濃く(勝頼は、若い頃は諏訪四郎と名乗っていた)、名門「甲斐源氏」の正当な継承者ではないと見られたことも背景にあったようです。
国衆にしても、自分の家の存続のために汲々としなければならないので、戦国時代は、離反や裏切りは当たり前だったことでしょう。明智光秀も主君織田信長を裏切った下克上の極悪非道人扱いをされましたが、光秀自身さえ、盟友で娘(お玉、細川ガラシャ)の嫁ぎ先であった細川家(藤孝・忠興親子)に出陣を要請しても裏切られています。
裏切りや離反や寝返りや内応といったことは、現代感覚では「卑怯」の一言で済むかもしれませんが、当時は、生き抜くための手段の一つに過ぎなかった、と私は最近思うようになりました。まあ、現代人でも平気で裏切ったり、寝返ったりする人が多いですからねえ(爆笑)。
話は全く変わって、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いの際、島津義弘による「敵中(前方)突破」は有名ですが、この捨て身の戦術「捨てガマリ」(殿様の退却を援護するために、殿軍=しんがりぐん=が反転して追撃してくる敵を迎撃)のおかげで、1500人いた家臣団のうち薩摩まで生還できたのはわずか80人だったいいます。
裏切りや寝返りや離反が多いという時代に、島津家臣団は、殿様のためにあっさり自分の生命を投げ出すとは…。島津家臣団の結束の堅さには目を見張りました。
いやはや、壮絶な話でした。
最後に私も仕事柄、興味がある「戦わずに勝つことを目指した『調略・諜報・外交』の頭脳戦略」の中の「間諜」は勉強になりました。いわゆる忍びの者のことですが、大名によって色々と呼び方に違いがあることを初めて知りました。
伊賀や甲賀の忍者はあまりにも有名ですが、武田信玄お抱えの忍者は「透波(すっぱ)」と言ったそうですね。これが、人の秘密などを暴いて明るみに出す「すっぱ抜く」の語源になったそうです。この他、伊達政宗が組織した忍者集団を「黒脛巾組(くろはばきぐみ)」、北条氏に仕えた忍者は風魔と呼ばれ、頭目は風魔小太郎として知られています。私も子どもの頃に読んだ忍者漫画の中に風魔小太郎が登場していました。架空ではなく実在人物だったとは!
このほか、福井藩に仕えた義経流や、安芸の福島正則に仕えた外聞(とどき)、加賀前田藩の偸組(ぬすみぐみ)などの忍者がいました。
何しろ、京都の天皇家に仕えた忍びもおり、村雲党(流)と言われたそうです。忍びの者は隠密とも言われますから、村雲党を御存知の方はよほどの通でしょうね。