実家に行く途中にある西武池袋線「秋津」駅近くにある本屋さんに立ち寄ったら、偶然、ある本を見つけて、すっかりハマってしまいました。こんなこと、ネットでは味わえないことです。
だから、私は、出来るだけ本屋さんがアマゾンの影響でつぶれないように、暇さえあれば、何処でも本屋さんに行くことにしています。
偶然見つけた本は「ゆかいな仏教」(三笠書房)という文庫本です。2022年10月5日が「第一刷」となっているので、随分さばを読んでいます(購入したのは9月17日=笑)。10年程前に出た単行本の文庫化らしいので、既にお読みになった方も多いかもしれません。
でも、これが、めっちゃ面白い。社会学者の橋爪大三郎さんと大澤真幸さんとの対談をまとめたものなので、とても分かりやすい。お二人とも、仏教徒でもキリスト教徒でもない第三者のような感じで、宗教学が専門でもないので、社会学者として純粋に学問的、哲学思想的にアプローチしているように見受けられます。特に橋爪氏はほぼ断定的に語っているので、関連書籍は数百冊どころか数千冊、いや数万冊は読破している感じです。
とにかく、私自身が何十年も疑問に思っていた「仏教とヒンドゥー教との関係」「仏教とキリスト教とユダヤ教との違い」「何故、仏教はインドで下火になったのか?」「カーストとは何か?」「そもそも仏教は何を目指しているのか?」といったことを明解に答えてくれるので、まさに目から鱗が落ちるといいますが、目が見開かされます。
まず、仏教とは何か? 紀元前5世紀ごろ、実在したゴータマ・シッダールタ(釈尊)という王子が29歳で出家し、艱難辛苦の修行を経て、6年後の35歳で覚りを開いたことを端に発する運動のことで、釈迦が何を覚って仏陀になったのか、お釈迦様にしか分からない。言葉では言い表せない。でも、誰でも覚りを開いて涅槃(ニルヴァーナ)の境地に入ることが出来る(一切衆生悉有仏性=いっさいしゅじょうしつうぶっしょう=生きとし生けるものはすべて生まれながらにして仏となりうる素質を持つ)。たとえ覚りを開くことができる人は、何十億年に一人の確率であっても、それを信じるというのが、大雑把に言って仏教という宗教だといいます。
橋爪氏は言います。
「仏陀というのは人間なんです。あくまでも。人間が、人間のまま、仏になる。これを成仏という。…このことに集中している仏教は、神に関心がない。神なんかなくてもいいと思っている。人間は、神の力を借りず、自分の力で完璧になれると思っている。こういう信念なんです。」(47ページ)
へー、そうでしたか。…橋爪氏はこんなことも言います。
「仏教の場合、…覚るのは自己努力(世界をどう認識するかという問題)だから、覚っていない人間に第三者が覚らせることはできない。原理的にできない。」(205ページ)「仏教にもよく探せば、『阿弥陀仏が来迎して救ってくれる』という考え方がありますけれど、これは浄土系のかなり特別な考え方で、仏教には、仏が主体的に人間を救うという考え方は、もともとないのです」(207ページ)「仏教には救済という考え方はないが、(キリスト教など)一神教には、救いというものがある。一神教では、神が救済する主体。人間が救済される存在。救うか救わないかは、神の一存で決まる。」(209ページ)
あらまあ、仏教に救済という考え方がもともとなかったというのはショックですね。浄土系が特殊というのも衝撃的です。日本(の仏教)では、浄土系の観音様信仰が根強く、救い求めるから仏教が宗教だと思っておりましたから。
私自身、仏教について、嫌だなあ、と言いますか、とても付いていけないなあと思ったことは、仏教が「人生とは苦なり」ということを見つけたことです。生老病死、愛別離苦、怨憎会苦といった四苦八苦のことです。身も蓋もないではありませんか。しかし、橋爪氏の手にかかるとこうなります。
「仏教にいう苦は、自分の人生が思い通りにならない、ということに等しい」(88ページ)「自分の人生が思い通りにならないのは何故なのか。一つの結論は、人生についてあらかじめこうであると考えているから、そうなるわけです。むしろ、人生は、客観的な法則によって、なるようになっているだけ。だとすれば、あらかじめこうであるべきだというふうな甘い期待というか、幻想というか、そんなものを端的に持たないようにすれば、百%掛け値なしに、人生をあるがままに享受できる。全てをプラスと受け取ることができる。こういうことを言っているだけ。だからむしろ、ポジティブな考えだと思うんです。」(89ページ)
橋爪氏はこの考えをさらに進め、仏教の言う「苦」についても一刀両断です。
「苦の場合、人間はそれを自分で取り除くことがきる。取り除くというか、問題はものの見方なのです。苦には実体がない。苦を苦と思わなければいい。ともかく、苦を自分で取り除くことが出来る。苦から自由になれる、と認識しているのが正しい」(94ページ)
どうですか?この本を読むと勇気が湧くのは私だけではないと思います。
登場する橋爪氏は1948年生まれ、大澤氏は1958年生まれ。10歳年下の大澤氏が橋爪氏に質問する形で対談は進みますが、大澤氏は、プラトンやカントやマックス・ウエーバーまで導入して比較し、先輩の橋爪氏よりさらに深い教養があるように見え、橋爪氏が一言しか答えないのに、何十倍もの量で質問するところが面白いです。いずれにせよ、当然のことながら、学者さまの学識の深さには圧倒されるばかりです。
【追記】
二人が2012年に対談して出版した「ふしぎなキリスト教」(講談社現代新書)も昨日、慌てて、家の近くの本屋さん(とは言ってもバスで15分)に走って買いに行きました。