大型連休の最終日(5月7日)、ちょっと必要に迫られて、東久留米の実家に久しぶりに行って来ました。
この日は時間的に余裕があったので、昔住んでいた上の原の団地街に寄って来ました。ここも10年ぶりぐらいでしょうか。懐かしい、非常に懐かしい。異様に懐かしい。とは言っても、私が東久留米に棲んでいたのは1963年から84までの21年間です。最初に来た時から60年も経ってしまったので、すっかり様変わりしてしまいました。仕方ないですよね。半世紀以上の年月が経ってしまったわけですから。当時、ニューファミリーを引き連れてこのニュータウンに全国から集まって来た人たちの殆どが、30歳代の働き盛りでした。60年も経てばほとんどの大人たちは鬼籍に入り、子どもたちは老人になってしまいました。かつて、この東久留米市上の原の広大な敷地には、公務員住宅と日本住宅公団の団地が66棟ぐらいありましたが、今では殆ど取り壊されてなくなってしまいました。高層マンションに様変わりした団地も何戸かありますが、昔の面影は全くありません。
何と言っても私が卒業した母校東久留米第四小学校は2012年3月末で閉校してしまいましたからね。(ジャニーズのTOKIOの国分太一さんも同校出身で、後輩に当たります)
ただし、天文台のある東中学校はかろうじて残っております!
先程、東久留米市の上の原の広大な敷地に66棟の団地があったことを書きましたが、何と、もともとこの広大な敷地は、戦時中、外国無線を傍受する帝国海軍の「大和田通信隊」基地だったというので、大変驚いてしまいました。
上の写真が東久留米市教育委員会が設置した看板です。設置場所は、西友ストアーの近くにある狭い運動公園前で、私も子どもの頃、ここで、よく草野球をしたものでした。公園の近くには団地集会所がありました。また、この今ある西友ストアーは大きく再建されたもので、昔は、団地商店街というその中の一画にありました。この西友ストアーの家電売り場にあったカレーテレビ(確か、家には白黒テレビしかなかった!)で、私は、アポロ11号に乗船した人類初の月着陸をカラー生中継で見たのでした。1969年7月20日のことで、この日は日曜日だったので、学校を休んだわけではありません(笑)。
おっと、「海軍大和田通信隊跡」の話でした。看板には「東京都北多摩郡清瀬村下清戸、同久留米村神山に及ぶ本隊、清瀬村中清戸の副受信所の3町村にまたがる広大な面積を有し、(中略)戦後、久留米村の用地の大部分は国有地となり、昭和37年(1962)に日本住宅公団の大規模な『東久留米団地』が建設されました。また、久留米村の通信施設の一部は米軍の「大和田通信所」の基地となり、その後、昭和38年から昭和52年まで運輸省航空交通管制本部として利用されました。…」と書いてあるではありませんか!
大戦時の通信傍受研究の大家である名倉有一さんがこの看板を見れば、恐らく、嬉しくて涎が出ることでしょうが(笑)、私自身は、自分の個人史の中にドンピシャリと当てはまるので武者震いしてしまいました。私の亡くなった父親は運輸省の航空管制官で、36歳の時に、埼玉県のジョンソン基地勤務からこの東久留米(当時は東京都北多摩郡久留米町)の地にやって来たわけでした。昭和38年から昭和51年ぐらいまで、この運輸省航空交通管制本部で勤務しておりました(航空管制本部は所沢に移転。父もこの後、釧路空港、所沢、成田空港…など転勤ばかりでしたが)
そして、上に書かれている米軍の大和田通信所(埼玉県新座市)は、現在もいまだに米軍によって運用されて健在のようですが、私が子どもの頃、この敷地内に「外人プール」があり、米軍関係者だけでなく、我が家を含む日本人の公務員の子弟も利用できました。(入場券は木の札で、その木札を海水パンツに身に付けました!)深さが2メートルぐらいもある25メートルプールで、私は何度もプールの水を飲みながら、ここで泳ぎをマスターしました(小学校にプールがなかった!)。覚えているのは、プールサイドではいつも米軍用のラジオFEN(現AFN)が掛かっていて、ここでクリームの「ホワイトルーム」やドアーズの「ハートに火をつけて」などの最新ヒット曲を耳にして、洋楽ロックがすっかり好きになってしまったことです。
大和田通信所も運輸省航空管制本部も東久留米団地も、もともとは海軍の広大な通信基地跡だったとは!…これで全部繋がり、何故、我々が外人プールを利用できたのかも、全ての謎が解けました。
さて、60年も経てば、かつて走り回って、住み慣れた土地も「異国」です。今の東久留米市上の原は、天然温泉が湧き出たということで、随分な賑わい様です。
バスの東久留米団地駅終点近くで、コロシアムのような異様な建物があったので、何かと思ったら、それが、例の噂の天然温泉でした。かつては、同級生が住んでいた47号棟とか48号棟などの団地があった前の林の公園があった辺りだと思われます。数歩歩けば埼玉県新座市との県境です。そんなこと、今の人たちは何も知らないだろうなあ、としみじみとした思いで辺りを散策しました。
団地の南大通り商店街も歩きましたが、玩具屋さんの「グリム」とか、喫茶店の「白樺」とかお店の殆どがなくなってしまい、悲しくなりましたが、団地の先の埼玉県新座市にあった「西堀商店街」の床屋さん「バーバー(ヘアサロン)くるめ」はまだ健在だったので驚いてしまいました。恐らく、後を継いだ二代目か三代目でしょう。この商店街には山崎パン店があり、同級生の高橋君の実家でしたけど、今は跡形もなく消えて住宅になっていました。彼はどうしているのかなあ?
そう言えば、東久留米駅前から東久留米団地西友ストアー前まで西武バスに乗ったら、料金は180円でした。昔は、つまり昭和38年頃は、駅から団地までのバス代は、大人が10円、子供が5円だったことをはっきり覚えています。ということは、60年間で物価は18倍になったということになります。当時、映画も池袋の文芸座なら100円で見られましたが、今の新文芸座は1700円ですか…17倍ですね。…大体合ってますね(笑)。
東久留米でわたしがいちばんに連想するのは『めぞん一刻』。
東京で出てきて、まだ作品の面影が残るうちに駅の周りなど歩いてみればよかったと、いまさらながら思います。
東久留米といっても広いのでしょうけど。
なべ仙人さま
コメント有難う御座います。東久留米と言えば、何と言っても、巨匠手塚治虫先生が晩年にお住まいになった所です。駅前に(確か)「ブラックジャック」の銅像があり、東久留米市のマンホールにも採用されちょります。手塚治虫作品のアニメを製作する「虫プロ スタジオ」は、隣りの埼玉県新座市の平林寺近くにあり、今でも稼働しているようです。世代が違うので知らないと思いますが、小生が子どもの頃、「マッハGo Go Go」というアニメが流行り、その製作会社である「竜の子プロダクション」か、もしくはその下請け製作会社が東久留米にありました。余ったセルロースをタダで貰ったことがありましたが、失くしてしまいました。