「宗教は大衆の阿片である」と言ったのはマルクスだったか…。
ここ数カ月、私自身は、宗教関係の書籍にはまっておりましたが、先日読了した松長有慶著「密教」(岩波新書)で、宗教書は一区切りにするつもりでした。そこで、今は、ダーウィンの「種の起源」を読んでおりますが、どうも心の片隅にぽっかり穴が開いたような気分で、もっと宗教書(特に仏教書、中でも禅関係)を読みたいなあ、と思ったりしております。
一区切り付けるつもりだったのに、です。そこで、「宗教は阿片である」という言葉が浮かんできたわけです。
人間はもともと裸で自分の意思に関わらず、この世に生まれてきたので、誰にも「不安」と「恐怖」は付き物です。700万年前に人類が誕生した頃のように、常に猛獣の捕食者によって襲われる「恐怖」はなくなりましたが、独裁者による戦争や地震、噴火、洪水などの天災、それに感染症、さらには最近頻発している強盗殺人の「恐怖」は21世紀になってもあります。また、生きている限り、「不安」に関しては、どうしてもなくなりません。だからこそ、日本人は、古代から神仏に縋ってきたのだと思います。どんな辺鄙な田舎に行っても、必ずと言っていいぐらい、寺社仏閣があります。そこまで豪勢ではなくても、ほんの小さな祠(ほこら)やお地蔵様や不動明王像ぐらいはあります。
科学が進歩して色々な自然現象が解明されても、霊魂や神の存在などエビデンスで証明されないのに、いまだに人類は、目に見えない何かを信じるように出来ているのかもしれません。
さて、話はガラリと変わりますが、会社の同僚のAさんから、急に脈絡もなく、「僕は漫画が読めないんですよ」と言われ、一瞬、ポカンとしてしまいました。漫画・アニメと言えば、今や日本の最大輸出産業のはずです。漫画を読んだことがない日本人なんていないはずです。アニメの聖地を訪れるために来日する外国人観光客も増えているとも聞きます。
漫画が読めないって、どうゆうこと?
よくよく話を聞くと、彼は子ども時代に漫画を読まなかったから、だと言うのです。だから、大人になっても漫画が読めないというのです。でも、子どもの時に「読まなかった」というより、「読めなかった」「読みたくても読むことが出来なかった」というのが正確です。貧困家庭だったからです。彼の父親は物心付く前に病死されていて母子家庭で育ったというのです。彼とは随分長い職場での仕事付き合いですが、初めて聞きました。子ども時代は狭い薄暗い長屋で福祉の援助を受けて生活し、着る物は同じ長屋の近所の人たちのお下がりです。当然、お小遣いもなく、漫画なんか買ってもらえるわけがありません。
私は、中学生の頃まで漫画は結構読んでいましたが、高校生からほとんど読まなくなりました。そのうち、大人になると、活字の本はスラスラ読めますが、漫画は読むのが大変になりました。絵と「吹き出し」を交互に読む行為がはっきり言って面倒臭くてたまらないのです。それで、彼の言っている「漫画が読めない」ということが私には理解できました。
つまり、子どもの時に漫画を読む習慣を身に付けないと、大人になってからでは「しんどい」のです。私自身は中学時代まで漫画を読んでいたので、今でも無理をすれば何とか読めますが、もし、小学生の時に読んでいなかったら、恐らく、今は読めないと思います。
それにしても、彼が漫画が読めないほど大変な家庭に育ったことを全く知りませんでした。他にも大変な逸話を聞きましたが、もう茲では書かないことにします。
その点、自分は、それほど裕福ではなくても両親が揃った中流家庭で育ち、大学まで行かせてもらいました。それが当たり前だと思っていた若き頃の自分を改めて恥じ入るばかりです。それと同時に、会社の現役時代は、左遷と塩漬けの連続で、人から足をすくわれたり、今でも多くの人から裏切られたりしたので、「自分は何て不幸な人生なんだ」とずっと思い続けて来ました。でも、彼に対して大変失礼ではありますが、自分は、随分マシな、いや相当幸せな人生だったことに気付かされたのです。
ある意味で、漫画が読めることは一種の才能であり、幸福なことです。そして、自分の幸福は、ささやかだと気が付かないものです。
生きていて、十のうち、二つか三つ幸運だったことがあれば、その人の人生は幸福なのです。プロ野球選手でさえ、打率3割も打てれば首位打者になれるくらいですから。