友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買ひ来て妻としたしむ(「一握の砂」)
有名な石川啄木の短歌です。私は短詩型に関しては、それほど得意ではないため、下の句は「われ泣きぬれて蟹とたはむる」と思っていました。いや、嘘です。冗談ですが…。
友がみなわれよりえらく見ゆる日よ われ泣きぬれて蟹とたはむる
の方が、当時の啄木さんの心情にピッタリくるような感じがするからです。とはいえ、大間違いなので、よゐこの皆さんは真似しないでください(笑)。
啄木は幼い頃から苦労の連続で、病弱のこともあり、借金を抱えて職を転々とし、満26歳の若さで病没したことは皆様、御案内の通りです。自分ばかり、損な役割を担わされているというのに、周囲の友人たちは、どんどん出世したり、有名になったりする。そんな不条理な境遇をじっと我慢して、奥さんに花を買って、少しでも生活を楽しもうとする啄木の心情が読み取れます。
さて、この偉く見える友人とは、具体的に誰のことを指すのか? 親友の金田一京助(言語学者)ら色んな説がありますが、この他、名門盛岡中学(現岩手県立盛岡一高)時代の先輩である及川古志郎(後の海軍大臣、海軍大将)や「銭形平次」で有名作家となる野村胡堂もその一人ではないか、とも言われています。
そして、考えてみれば、私自身も「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ」を最近経験しました。
一人は、銀座の有名な音楽ホールのHさんです。もう30年以上昔、私が一介の音楽記者だった頃、取材でお世話になった方で、Hさんも当時は一介の広報担当の方でした。妹さんがタカラジェンヌとかで話が弾んで結構、親しくなりました。そしたら、驚いたことに、現在、その銀座の音楽ホールの支配人にまで昇り詰めていたのです。銀座商店街の広報誌「銀座百点」で知りました。
もう一人は、目下、毎日、新聞に出ないことがないほど話題になっている某有名芸能プロダクションのSさんです。この方も、私が芸能記者だった30年以上昔、取材でお世話になった方で、Sさんは当時、取材窓口になる広報担当でした。失礼ながら、会長さんの使い走りをやらされている感じでした。というか、会長がマスコミに晒されないよう防波堤になっている感じでした。Sさんとはすっかり仲が良くなり、今でも年賀状を交換しているほどですが、これまた驚いたことに、目下、副社長になられていたのです。これもまた、雑誌の新聞広告で知りました。副社長といっても、実質上のトップです。Sさんのオッケーが出ないと、どんなテレビ局もCMもタレントは出演できないという噂を後で聞きました。
お二人とも親しい友人というより、知人に近いのですが、かつて親しくさせて頂いて、身近で、ため口を叩いていた人が、現在は、見上げるほど偉くなられて、近づきがたい存在になってしまったことは確かです。
やはり、「友が皆、我より偉く見ゆる日よ 我泣き濡れて蟹とたわむる」と声を大にして言いたい!
わたしの妻は高卒ながらちゃんと(東京)新聞を読み選挙の投票を欠かさない善良な市民ですが、曾祖父が『一握の砂』の序文を書いていることが自慢です。岩波文庫版でしたか、帰ったらもう一度取り出して初めからかみしめるように読んでみたいです。
拝復 なべ仙人さま
えっ?えっ? ホンマでっか?
と慣れない関西弁を使いたくなります。
啄木の「一握の砂」の序文を書いたのは、あの有名な東京朝日新聞社会部長を務めた渋川玄耳ではありませんか?
奥方様は、そのひ孫に当たるというのですか?
まあ、大した魂消たです。
夏目漱石が家に来ていて、漱石も啄木もひいじいちゃんの世話で朝日に入社したのだとか。いま何が残っているわけでもないので、言い伝えのようなものです。
拝復 なべ仙人さま
石川啄木を朝日に入社させたのは、渋川玄耳ですが、夏目漱石を入社させたのは東京朝日新聞主筆の池辺三山です。
朝日新聞社は、大正9年(1920年)まで入社試験がなく、コネ入社だったといいます。
渓流斎
藪野椋十翁のひ孫は甲状腺に病変を見いだされ、女性にはまあありふれたものらしく、結果「良性」との見立てでありましたが、去る金曜から落ち着かず、何も書けなくなっておりました。健康に感謝。わたしは減量に邁進します。
【解説】 藪野椋十とは、朝日新聞社会部長を務め、石川啄木を採用した渋川玄耳翁のことですね。今のご時世、知っている日本人はいかばくか?
藪野椋十翁のひ孫とは、なべ仙人様の北政所に当たる方でしょうか?
「良性」ということで宜しゅうございました。
お大事になさってください。
謹之祐