気賀駅
8月26日は、女城主直虎さまの御命日ということで、静岡県浜松市の気賀に設営された「大河ドラマ館」を視察してきました。
ドラマでは、気賀は大型船が乗り入れることができる大きな港街のイメージでしたか、実際行ってみると、何の変哲もない田舎町(失礼!)で、恐らく、500年前ならもっと活気があったことでしょうが、すっかり寂れておりました。
気賀関所
そんな寂れた街に、巡業公演の見世物小屋風のものを突如出現させ、地元自治体が一生懸命に観光資源としてアピールしようと努力されてました。
全国津々浦々、どこの地方自治体も「大河ドラマ」をやってほしい、とNHKに嘆願に行くそうですが、なるほど、よく分かりました。地域活性化と景気対策なんでしょうね。
浜松市は、このドラマ館の横に、かつてあった「気賀関所」まで「復元」するなど涙ぐましい努力をされておりました。
しかし、意外にも、地元の人で、大河ドラマ「女城主直虎」を見ていない人が多いので、気が抜けてしまいましたが…。
入り鉄砲に出女
となると、当然、彦根城主の井伊家がこの浜松市郊外の井伊谷の出身だという史実さえ知らなかった人もいて、私なんかも「そういうもんかなあ」と少々驚いてしまいました。
浜松城
御案内の通り、井伊家が世に出るきっかけとなったのが、女城主直虎の後継の虎松こと井伊直政が徳川家康に仕え、関ケ原の戦いで、「徳川四天王」の名に連ねるほどの戦功を挙げたからでした。
これにより、直政は、西軍大将石田三成の領地だった近江国18万石を与えられ、直政は戦の傷が元で亡くなってしまいますが、その子直継の代に直政の遺志として彦根城が築かれるわけです。
江戸時代、井伊家は、譜代大名として多くの大老を輩出していくのは御存知の通りです。
徳川家康像
浜松市には「出世城」の異名を持つ浜松城で知られています。
家康が29歳から45歳まで居城したと言われてます。当時は、三方原の戦いで武田信玄に敗れたものの、今川家を滅亡させて、三河の小国から遠江一国を支配する大名に出世し、豊臣秀吉に仕え、「天下取り」まであと一歩の所まで登り詰めておりました。
私は、昔は、「狸爺い」と揶揄された権謀術策の塊の家康が大嫌いでしたが、彼が子供の頃に今川家の人質になって散々苦労していた話や、江戸幕府を開いた彼の業績を知れば知るほど、やはり、戦国大名の中ではずば抜けて凄い、尊敬できる人物だったと考え方も変わりました。