2018年7月1日付「蔽之館~陸軍中野学校跡巡り」で書きましたインテリジェンス研究所の山本武利理事長ご推薦の参考文献を早速手に入れて読んでみました。
鳥居英晴著「日本陸軍の通信諜報戦ー北多摩通信所の傍受者たちー」(けやき出版)です。2011年3月14日初版なので、もう書店には置いてないだろうと思い、あまり好きでないアマゾンで探したところ、やはり中古本でしたが、見つかりました。
送料・手数料込みで2257円です。正直「ちと高いなあ」と思いましたが、どうしても知りたかったことがあったので、背に腹は代えられません(あ、表現が間違いかも?=笑)
3日ほどして、汚い手書きの字で郵便小包が自宅に届きました。「誰だろう?」送り主の名前を見ると「鳥居英晴」とありました。「うーん、どこかで聞いたことがあるなあ」と、思いつつ思い出せません。そのまま、夕食を摂ってくつろいだ後、先程の小包を開けると何と薄っぺらいブックレットが出てきたのです。
注文した本でした。「えーー、こんなんで2000円?」後を見たら、定価が980円(税別)でした。てっきり、浩瀚の専門書だと思っていたので、「やっぱり、ぼられたかなあ」とがっかりしてしまいました。
そして、驚いたことに送り主は、鳥居英晴さん。著者、ご本人だったのです。著者自身が、アマゾンと契約していたんでしょうか?
またまた、前置きが長くなりましたが、著者の名誉のために弁護しますと、中身を読みますと、値段だけの価値がありました。著者は、1949年生まれの元共同通信社記者で、2002年に退社、と略歴にありましたから、定年まで社に残らず、52,3歳で退職してフリーランスになったようです。そりゃ、取材費も出ないので大変だったことでしょう。
で、中身ですが、陸軍の北多摩通信所は、東京市北多摩郡久留米村(現東久留米市)にあったということで、かつて父が勤めていた東久留米市上の原の運輸省航空交通管制本部にあったのかと思いましたら、西武池袋線東久留米駅から小金井街道を南下して西武新宿線花小金井駅に行く途中の前沢を越えた滝山東交差点付近にあったというのです。当時の住所は、久留米村前沢1470番地。今は住宅街になっているようです。
ここに陸軍参謀本部が昭和8年(1933年)10月10日、北多摩通信所を隠密裏に完成させるのです。受信室には、高速度用の短波受信機が5台設置されていたなどと記録されていますが、昭和12年(1937年)7月7日に支那事変(日中戦争)が勃発すると、100人に増強されます。通信手の勤務は、日勤、前夜勤、後夜勤、明けの4交代制で、外国の電波を傍受した信号をいったん紙テープに記録し、それを読み取りながらタイプライターで打つのが任務でした。
通信は暗号ではない普通文のことを「平文」ということをこの書で知りました。昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の日に当直だった小泉重之(大正11年生まれ)の手記「流転の人生行路に思う」(平成12年)によると、米軍による対日戦争開始命令の電文は、暗号ではない平文だったといいます。
北多摩通信所は昭和18年8月1日、陸軍中央特種情報部(特情部)通信隊と改称され、松岡隆中佐(関東軍特種情報部)が隊長として着任します。松岡中佐は終戦の日、「傍受という仕事をしていたことが分かると戦犯になる恐れがあり、危ない。所属は明らかにしないこと。東京を離れ、山の中に隠れているように」と指示して姿を消したそうです。
これについて、先程の手記を残した小泉重之通信手は「先程まで所長であった男は臆面もなく我々を放置して早々にその姿を消してしまった。…職業軍人のこの無責任極まる恥さらし行為は誰にも咎められることもなく、旧官舎に居座ったまま生活を続ける図々しさであった」と批判してます。
インパール作戦を断行して兵士が餓死する最中、自分だけは早々と飛行機で逃げ帰った牟田口廉也の例を思い起こさせるものがあります。
戦局が悪化すると、特情部は、東京都杉並区高井戸の老人ホーム「浴風園」に疎開したり、国際電気通信社や逓信省の施設を借りて、兵庫県小野、埼玉県上福岡、同岩槻、北海道北広島、福岡県二日市(現筑紫野市)、千葉県白浜などにも受信所を設置します。
広島の原爆投下については、米軍は事前に予告していたことをこの書で初めて知りました。昭和20年5月、先に紹介した小泉通信手が二世の女性傍受員から「特殊爆弾によって広島を攻撃するから非戦闘員は至急退去せよ」といった警告をVOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)が放送したことを聞かされるのです。小泉は情報部に報告しますが、当時は原爆の「げ」の字も理解できるわけもなく、徒に混乱を招くばかりだろうから、周知することなく恐らく握りつぶされたのだろうと推測しています。
全体的に読みにくい箇所もありましたが、貴重な資料となる本でした。
私が子どもの頃(小学生から高校生にかけて)、よく行った「外人プール」と呼んでいたプールは、東久留米のすぐ隣の埼玉県新座市西堀の米軍施設大和田通信所内にありました。
私はその水深2メートル近い深いプールで、ガブガブ水を飲みながら、水泳を習得し、プールサイドでは、FEN(極東軍事放送)が流れ、ドアーズやクリームやジミ・ヘンドリックスらの曲を覚えました。よく考えれば、ベトナム戦争真っ只中だったんですね。
この大和田通信所は、もともと大日本帝国海軍の傍受施設だったことがこの本で初めて知りました。