徳川家康

「人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し、いそぐべからず。不自由を常と思えば不足なし。心にのぞみおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基。怒は敵と思え。勝つ事ばかり知って負くる事を知らざれば、害、その身に至る。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり。」

徳川家康(1542-1616)江戸幕府の創始者。三河国岡崎城主松平広忠の子。1600年の関ヶ原役で石田三成らの西軍を破り、天下統一。03年、征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開く。05年、将軍職を秀忠に譲り、07年、駿府に移り、大御所と呼ばれる。死後、久能山に葬られたが、翌17年に日光山に改葬。東照大権現の号を勅諡される。

【釈義】あまりにも有名な徳川初代将軍の遺訓。慶長三年(一六〇三年)正月十五日の日付があるので、家康、御年六十一歳。三年前に天下分け目の関ヶ原の合戦で勝利を収め、この年の二月に征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開くことから、この頃は悠悠自適、余裕綽綽といったところか。それにしても何と素晴らしい人生訓なのだろう。正直の話、私は、若い頃は家康が大嫌いだった。権謀術数に長け、「狸親父」の異名通り、権力を獲得するためには手段を選ばぬ冷血漢の印象が強かったせいかもしれない。

しかし、家康は決して順風満帆の人生を送ったわけではなかった。時は戦国時代。幼少から、織田信秀、今川義元の人質となり、長じても連戦連勝どころか、何度も九死に一生を得た。関ヶ原の戦いでも、小早川秀秋らの内通がなければ勝てていたかどうか。後世の人間にとって、歴史上の人物は最初からその人の運命を与えられていたものと錯覚しがちだが、家康も五里霧中の中で神仏に縋りながら、必死で生き抜いてきたのだろう。それが、こういった金言となって自然と口から出てきたはずだ。

【結局】人間は、失敗からしか自らの教訓を引き出すことができない。他人の成功からは嫉妬を、自分の成功からは慢心と油断を学び取ることしかできないのだ。残念ながら、これは人間の性(さが)だ。