偽札、本物金貨、何でもあり=斎藤充功著「陸軍中野学校全史」

 既にこのブログで何回か取り上げさせて頂きましたが、最近はずっと斎藤充功著「陸軍中野学校全史」(論創社、2021年9月1日初版)の大著を読んでいます。

 この本は、1986年9月から「週刊時事」(時事通信社、休刊)に連載した「謀略戦・ドキュメント陸軍登戸研究所」をきっかけに中野学校について関心を持った著者の斎藤氏が、その後刊行した「陸軍中野学校 情報戦士たちの肖像」(平凡社新書、2006年)、「スパイアカデミー陸軍中野学校」(洋泉社、2015年)など「中野」関係本8冊のうち5冊の単行本を元に再編集して、627ページの一冊の大著としてまとめたものです。

 40年近い取材活動で、斎藤氏が中野関係者に会ったのは100人以上。参考文献も120点ほど掲載され、「陸軍中野学校破壊殺傷教程」など資料も充実していて、これ以上の本はないと思います。ただ、誤植が散見致しますので、次の版で改訂して頂ければと存じます。

 中野校友会がまとめた校史「陸軍中野学校」によると、昭和13年7月(当時は後方勤務要員養成所)から昭和20年8月までの7年間で、「中野学校」の卒業生の総数は2131人で、そのうち戦死者は289人(戦死率約13.6%)だったといいます。約40年前から取材を始めた斎藤氏が取材した中野の生存者は70歳代~90歳代でしたから、今ではほとんど鬼籍に入られた方々ばかりです。それだけに、この本に収録された「証言」は貴重です。中野学校は、いわゆるスパイ養成学校でしたから、「黙して語らず」という厳しい暗黙の掟があったようですが、死を意識して遺言のつもりで告白してくださった人たちも多かったように見受けられます。

築地「わのふ」

 何と言っても、「表の歴史」にはほとんど出て来ない証言が多いので、度肝を抜かされます。特に、本書の中盤の第4章では「14人の証言」が掲載されています。

 私が注目したのは、昭和19年卒の土屋四郎氏の証言でした。

 昭和20年8月15日、ポツダム宣言を受諾決定に抗議して、クーデター未遂の「8.15事件」がありました。首謀者の一人、畑中健二少佐は、近衛第1師団長森赳中将を拳銃で射殺しましたが、クーデターは未遂に終わったことから、自らも皇居前で自決します。

 この事件は、今年1月に亡くなった半藤一利氏によって「日本のいちばん長い日」のタイトルで描かれ、二度も映画化されました。私は1967年に公開された岡本喜八監督作品で、畑中少佐役を演じた黒沢年男に強烈な印象が残っています。森師団長(島田正吾)を暗殺した後、手が興奮して硬直してしまい、なかなか手からピストルが放れてくれないのです。白黒映画でしたが、鬼気迫るものがありました。

 そしたら、この中野学校を昭和19年に卒業し、学校内の実験隊(当時は群馬県富岡町に疎開していた)に配属されていた土屋四郎氏が「8月9日に…私は参謀本部に至急の連絡があると、実験隊長(村松辰雄中佐)に嘘の申告をして東京に向かったのです。その時、…リュックに拳銃4丁と実弾60発を詰めて上京したのです。拳銃は参謀本部勤務の先輩に渡すため、兵器庫から持ち出しました。兵器庫の管理責任者は私だったので、発覚しませんでした。…戦後、先輩たちに話を聞かされた時、あの時持ち出した拳銃は『8・15クーデター』事件と結びついていたことが分かったんです」と証言しているのです。

 畑中少佐がその拳銃を使用したのかどうかは分かりませんが、8.15事件に参加した誰かが使用したことは間違いないようです。中野学校出身者たちは、8月10日に東京の「駿台荘」に極秘で集まり、大激論の末、結局、クーデターには直接参加しないことを決めましたが、こんな形で関わっていたとは知りませんでした。

築地「わのふ」魚定食ランチ1000円

 この他、日中戦争の最盛期に、日本軍は中国経済を壊滅するために、陸軍登戸研究所で、国民党政府が発行していた法定通貨「法幣」の偽物を製造していたことを、昭和15年卒の久木田幸穂氏が証言しています。終戦時、国民党政府が発行した法幣残高は2569億元。登戸で製造された偽法幣は約40億元とされ、流通したのは25億元とみられます。しかし、法幣マーケットのハイパーインフレに飲み込まれ、「法幣市場の崩壊」という作戦は不調に終わったといいます。

◇丸福金貨と小野田少尉

 一方、大戦末期には、偽物ではなく、前線軍部の物資調達用に密かに本物の金貨が鋳造されたといいます。大蔵省や造幣局の記録には載っていませんが、「福」「禄」「寿」の3種類の金貨が作られ、特にフィリピン島向けには「福」が持ち込まれ、「丸福金貨」と呼ばれたといいます。直径3センチ、厚さ3ミリ、重さ31.22グラム。陸軍中野学校二俣分校出身の小野田寛郎少尉も、この丸福金貨や山下奉文・第14方面軍司令官の「隠し財宝」を守るために、29年間もルバング島に残留したという説もありましたが、著者はその核心の部分まで聞き出すことができなかったようです。

◇中野出身者は007ではなかった

 中野出身者で生還した人の中で、悲惨だったのが、昭和19年に卒業し、旧満洲の関東軍司令部に少尉として配属された佐藤正氏。諜報部員なので、「もしも」のとき用にコードネーム「A3」を付けられたといいます。「007」みたいですね。この暗号名の使用は緊急時以外禁止されていましたが、一度だけ使ったといいます。

 佐藤氏は、満洲全土で諜報活動をしていましたが、ある日、ハルビンで、支那服姿で、手なずけていたロシア人と接触してメモをしているところを、怪しい奴だと憲兵に見つかり、拘束されてしまいます。この時、相当ヤキを入れられ、右脚が不自由なのはその時の傷が元でした。

 「取り調べの憲兵には話しませんでしたが、隊長を呼んでもらい、私の身分照会を奉天に頼んだのです。その時、初めて『A3』を使いました。誤解が解けたとはいえ、あの時は拷問死を覚悟したほどでした」

 007映画みたいにはいかなかったわけですが、こちらの方が現実的で、真実そのものです。

 それでも、佐藤正氏は生還できたからよかったものの、中野出身の289人は戦死か自決しているのです。かと言えば、シベリアに抑留されることなく無傷で生還した人もいました。人間というものは、つくづく運命に作用されるものだと痛感しました。