33社全部回ったけどまだ足りない!=明治の銀座「新聞街」めぐり(5)完

 斬新企画「明治の銀座『新聞街』めぐり」は、今回、第5回で、めでたく完結にしたいと存じます。江戸東京博物館(東京・両国)に展示されていた「東京で刊行された主な新聞」のパネルに掲載されていた明治に創刊された新聞社、33社を全て回りました。

 歩きましたねえ。実は、タネを明かしますと、昼休みの1時間の範囲内で取材をしたので、ランチ時間以外の実質30分間で取材を強行致しました。となると、当然、パネルに掲載されていた地図とにらめっこしながらの駆け足取材です。恐らく、妙な怪しい人間に見られたことでしょう。

銀座・資生堂パーラー

 最終回は、銀座7丁目と8丁目の間を南北に走る「花椿通り」近辺にあった残された新聞社を回りました。

 花椿は化粧品会社の「資生堂」のマークですから、この会社にちなんで付けられた通り名だと思われますが、諸説あるようです。資生堂は化粧品だけでなく、高級レストラン「資生堂パーラー」も有名です。あたしも、「銀座ランチ」企画で一度、ここで2860円のオムライスを体験致しました。

 その資生堂パーラーは、もともと「資生堂薬局店」と言ったらしく、ここで明治35年に日本で初めてソーダ水やアイスクリーム等を製造販売したと記録に残っています。

銀座7丁目 ヤマハ=㉛日本たいむす(1885年9月~12月以降)

 まず、出発点は、銀座7丁目の信楽通りにあるヤマハ・ビルの裏側です。パネル地図によると、ここに、㉛日本たいむす(1885年9月~12月以降) があったようです。

 実は、この新聞、3カ月しか続かなかったようですし、実体についてはよく分かりませんでした。

銀座7丁目 ヤマハ、日新堂=⑮いろは新聞(1879年12月あづま新聞~1884年11月勉強新聞)

 花椿通りを北に銀座通りに出て、ほんの少し、京橋方面を歩くと、銀座7丁目のヤマハ・ビル(正面)と高級時計販売の「日新堂」があります。この辺りに、明治には、⑮いろは新聞(1879年12月~1884年11月)がありました。

 この新聞は、前回の「今日新聞」(都新聞~東京新聞)の中で取り上げた仮名垣魯文が1879年12月に創刊したもので、前身は「安都満(あづま)新聞」。花柳界のゴシップ記事を中心とした庶民向けの娯楽新聞と言われました。1884年、「勉強新聞」に改題されますが、ほどなく終刊しました。

銀座8丁目の新築ビル(7丁目のモンブラン銀座ビルの向かい)=⑤仮名読新聞(1875年11月~1877年3月)

 銀座通りを新橋方面に向かって、花椿通りを横断すると、銀座7丁目のモンブラン(万年筆)銀座ビルの向かいの銀座8丁目に、現在、新築ビルが建設中です。あれっ?以前、何のビルだったか、思い出せません。日本人はすぐ古いビルを壊してしまうので、明治の人が見たら吃驚することでしょう。欧州では200年、300年も昔の建造物を今でも現役として使っているのですから、それとはえらい違いです。とにかく、ここには、⑤仮名読新聞(1875年11月~1877年3月) 社がありました。

 この新聞も仮名垣魯文が1875年11月に創刊したもので、この後に、先程のいろは新聞を創刊しますから、順番が逆でしたね(苦笑)。ニュースよりも、戯文、読物や劇評などが中心だったようです。

 仮名読新聞からいろは新聞まで歩いて数十秒。仮名垣魯文は、目と鼻の先で引っ越したわけですか。

銀座8丁目 ア・テストーニ銀座ブティック=⑦問答新聞(1876年6月~1882年11月)、㉕内外政党事情(1882年10月~1883年2月)

 銀座通りの歩道をもう少し、新橋方面に向かって歩くと、 銀座8丁目にイタリアの高級ブランド「ア・テストーニ」銀座ブティックが入居したビルがありますが、ここには⑦問答新聞(1876年6月~1882年11月)と㉕内外政党事情(1882年10月~1883年2月) がありました。

 問答新聞は、私も初めて聞く名前で、よく分かりませんが、江戸東京博物館のパネルの説明とは違って、国立国会図書館所蔵では、同紙は、明治9年(1876年)6月に四通社から創刊され、明治12年(1879年)9月に、376号で廃刊したようです。

  国会図書館デジタルコレクションを見ると、内外政党事情は、明治15年7月、中村義三編著で自由出版から発行され、日本と海外の政党について詳述した雑誌で、どう見ても新聞には見えませんね。

銀座8丁目 河北ビル、第3一越ビル=⑫真砂新聞(1878年7月~9月)

 再び、銀座7丁目交差点に戻って、花椿通りを北上することにします。残りはわずか3社です。

  東西を走る並木通りに近い銀座8丁目にある河北ビルと第3一越ビル辺りにあったのが、⑫真砂新聞(1878年7月~9月)です。 写真の喫茶店「プロント」には昔よく入ったものでしたが、明治時代、ここが新聞社だったとは!

  真砂新聞は、前回取り上げた我が国初の夕刊紙⑩「東京毎夕新聞」(高畠藍泉主宰)の創刊半年後に経営者が代わって改題し、朝刊となった新聞でしたね。この後、東京真砂新聞と再び改題して、まもなく廃刊した、と前回書きましたが、この後、さらに、「みやこ新聞」(都新聞とは別会社)と改題し、読売新聞創刊時の初代編集長だった鈴木田正雄(1845~1905年)も入社しました。この人に関しては、第1回の「足の踏み場もないほど新聞社だらけ」の⑯「鈴木田新聞」で取り上げました。

銀座8丁目プラーザ銀座ビル=㉗同盟改進新聞(1882年11月~12月以降)

 花椿通りをさらに北上して、東西を走る広い西銀座(外堀)通りに差し掛かったところに、銀座8丁目のプラーザ銀座ビルがあります。なあんだ。柳宗悦らが中心になって起こした民藝運動の作品を販売している「たくみ」の隣りだったんですね。ここには、㉗同盟改進新聞(1882年11月~12月以降) があったといいます。

 同盟改進新聞は、よく分かりませんが、名前から言って改進党系の新聞だったのではないかと思われます。後に「万朝報」を創刊する黒岩涙香が1883年に主筆となってジャーナリストとしてスタートした新聞のようです。

銀座8丁目 ニッタビル=⑱明治日報(1881年4月~1885年11月)

 おお、やっと最後の新聞社に辿り着きました。

 花椿通りを北に行くとコリドー街に突き当たりますが、その銀座8丁目のニッタビル辺りに、⑱明治日報(1881年4月~1885年11月) がありました。パネルの地図が少しアバウトなので、これは推測ですが。

 明治日報は、明治14年に忠愛社から発行され、西田長寿著「明治時代の新聞と雑誌」(至文堂、1961年)によると、政府から資金援助を受け、「頑固な保守主義的立場をとった新聞」だったようです。

 以上、やったー、終わったー!と言いたいところですが、気になったのは、 江戸東京博物館(東京・両国)のパネル「東京で刊行された主な新聞」に載っていなかった明治に銀座で発行された新聞社です。

 例えば、先ほどの黒岩涙香が明治25年に創刊した「万朝報」です。確か、銀座・並木通りにあった映画館「並木座」(1953~1998年)があったところに、社屋があったという話を聞いたことがありますが、ウラは取れず仕舞いです。

 あと、徳富蘇峰が明治23年に創刊した「国民新聞」がパネルに掲載されていないのはどうしてなんでしょうかねえ?文明開化の明治初期に創刊されたわけではないから、という理由でしょうか?とにかく、日露戦争の講和条約に不平不満を抱いた群衆による日比谷焼き討ち事件がありましたが、その際に、国民新聞社も襲撃された歴史的跡地なのですが。

 恐らく、リクルート銀座8丁目ビル辺りにあったものと思われますが、どなたか詳しい方からコメントで御教授頂くと嬉しいです。

◇忘れちゃいけない報知新聞

 おっと、忘れるところでした。郵便報知新聞は何でパネルに載っていないんでしょうか?明治5年(1872年)、1円切手にも採用された前島密(ひそか)が、秘書の小西義敬を社主として創刊させた政論新聞です。明治5年ですから、文明開化の初期のはずです。1881年に矢野龍渓が小西から譲渡されて社主となり、改進党系の新聞となりますが、それを前後として、私の好きな栗本鋤雲や、犬養毅、尾崎行雄らも在社した明治の新聞には欠かせない重要新聞なのですが。

 郵便報知新聞は1895年、三木善八が買収して「報知新聞」と改題し、政論紙から大衆紙に転身。明治末には東京で第1位の発行部数を誇りますが、昭和に入り経営不振となります。1930年には講談社の野間清治が買収しますが、状況は好転せず、1942年には、読売新聞が、当時社長だったあの三木武吉から買収合併します。報知新聞のブランドは、東京では名高かったので、当初は3年ほど「読売報知新聞」の題字で発行していました。(戦後は、読売系のスポーツ紙として報知新聞は復活)

 そう言えば、報知新聞の本社は、有楽町のビックカメラ(その前はそごうデパート)にありました。そこには今でも「よみうりホール」があり、土地建物は読売不動産の所有となっています。ということは、郵便報知新聞は、明治5年に創業した時の本社もここにあったのかもしれません。有楽町は、正確に言うと銀座ではないので、それで、江戸東京博物館のパネルに郵便報知新聞が登場しなかったのかもしれません。これもまた、皆様の御教授をお待ちしています。