読売新聞は虎ノ門から銀座1丁目に移転=明治の銀座「新聞街」めぐり(4)

 斬新企画「明治の銀座『新聞街』めぐり」の第4弾です。ほんの一部ですが、斯界から大好評を得ておりますので、皆様からの情報提供や、間違いの御指摘等頂けましたら幸いです。

 えっ? それとも、そろそろ飽きてきましたか? 勘弁してください。あと、2,3回ほどで、江戸東京博物館(東京・両国)に展示されていたパネルの「東京で刊行された主な新聞」33社を全て廻ることができるのですから。

銀座4丁目弥生ビル=㉚今日新聞

  明治に㉒「日の出新聞」があった銀座4丁目の衣料品店「GAP」が入居しているビルの前の並木通りを京橋方面に進むと、同じ 銀座4丁目の角に弥生ビルがあり、ここに㉚「今日(こんにち)新聞」 (1884年9月~1888年11月) があったことがパネルの地図で分かります。

 この今日新聞、実は継承する新聞が現在でも残っているのです。まずはこの新聞は、1884年9月、小西義敬が創刊した夕刊紙で、「安愚楽鍋」などの戯作で知られ、もともと「横浜毎日新聞」や自ら創刊した「仮名読み新聞」「いろは新聞」などで活躍した仮名垣魯文主筆に迎えた新聞でした。これが、1888年に「みやこ新聞」に改題されて朝刊紙となり、その翌年、「都新聞」と再改題されます。

 都新聞は、黒岩涙香を主筆に迎え、その後、1919年には、商店の小僧から身を起こした福田英助が買収し、芝居や演劇、そして証券、商況欄などに紙面を割き、花柳界の広告を載せるなど独特の編集方針で部数を伸ばし、東京の有力紙になりました。(東京帝大生だった津島修治=太宰治が、都新聞の入社試験に落ちたほどです)

 しかし、先の大戦中の1942年10月1日の新聞統合で、徳富蘇峰が創刊した「国民新聞」と合併させられ、「東京新聞」となるのです。この新聞は戦後まで続きましたが、経営が悪化し、1960年代、名古屋の中日新聞に経営権が譲渡されます。戦前、国民新聞が中日新聞の前身である新愛知新聞にテコ入れを受けていたという縁がありました。というわけで、現在、東京新聞は中日新聞東京本社発行として続いているのです。

 東京新聞が今でも文楽や歌舞伎など古典芸能の報道に力を入れているのは、都新聞からの伝統の継承だと思われます。

銀座4丁目 銀座三和ビル=⑩東京毎夕新聞(1877年11月~1878年11月)真砂新聞へ

 ㉚今日新聞社跡から松屋通りを南下し、銀座通りを渡ったところにある銀座4丁目の三菱UFJ銀行(銀座三和ビル)には、⑩「東京毎夕新聞」(1877年11月~1878年11月)社がありました。

  この新聞は1877年11月に、高畠藍泉が創刊した日本最初の夕刊紙でしたが、経営不振のため,翌年6月、譲渡されて朝刊紙となり、「真砂新聞」、さらに「東京真砂新聞」と改題されましたが、ほどなくして廃刊したようです。

銀座3丁目 銀座オーミビル=㉓自由新聞(1882年6月~1885年3月)

 松屋通りを2ブロック南下して、銀座三原通りを左折したところにあるのが、銀座3丁目 銀座オーミビルで、ここにはかつて、㉓「自由新聞」(1882年6月~1885年3月)社がありました。

 自由新聞は、1882年6月に創刊された自由党の日刊機関紙で、板垣退助を総理とし,馬場辰猪、中江兆民、末広鉄腸、田口卯吉らを社説担当して、改進党系の『東京横浜毎日新聞』『郵便報知新聞』などに対抗して論争した、これまた明治期の重要新聞です。紆余曲折の末、1895年まで存続したようです。末期は、自由党とは無関係になり、幸徳秋水も在籍したといいます。

銀座1丁目 奥野ビル=⑬東京新聞(1878年11月東京さきがけ~1880年5月)

 銀座三原通りをさらに京橋方面に向かって歩くと、銀座1丁目にとりわけ目立つ古いビルがあります。珍しく戦災の被害を免れた奥野ビルです。1932年に竣工された時、「銀座アパートメント」と呼ばれ、さぞかし当時は近代的なビルだったことでしょう。今ではもう築90年近く建ちますが、現役で、ギャラリーやアンティークショップなどが入居しています。明治時代、この辺りに、⑬東京新聞(1878年11月東京さきがけ~1880年5月) があったようです。

 これは、都新聞の流れを汲む東京新聞とは違うようですが、この新聞に関しては、まだ調べ尽くしておらず、よく分かりません。江戸東京博物館のパネルでは、「東京さきがけ新聞」として創刊されたようですが、これもまだ調査中です。(東京魁新聞社なら大正時代も続いていたようですが、この新聞と同じか?)

銀座2丁目メルサGINZA=⑪憂国議事新聞(1878年4月~10月以降)

 気を取り直して、北上して銀座通りに戻ると、 銀座2丁目にメルサGINZAがあります。「銀座ランチ」めぐりで、メルサに入居している台湾料理の「金魚」に入ったことをこのブログに書いたことがあります。明治時代、ここには⑪憂国議事新聞(1878年4月~10月以降)がありました。

 この新聞は、熊本県天草市出身の改進的平民民権主義者・宇良田玄彰(1841~1903年)が明治11年に創刊した政治新聞です。

 と書きながら、不勉強で初めて知りました。ネット上に詳細なサイト「自由民権家 宇良田玄彰 顕彰碑」がありましたので、御興味のある方は、そちらを拝読されたし。

銀座1丁目 千歳興産京橋三菱ビル=③読売新聞(1874年11月~健在)

 さあ、今回最後に登場するトリは、やはり、天下の③読売新聞(1874年11月~健在)です。 銀座通りを京橋方面に向かい、銀座1丁目の千歳興産京橋三菱ビル がその跡地です。いつぞや、このブログでも取り上げたことがありますので、今回はさらっと。

 読売新聞社の社史によると、読売新聞は1874年(明治7年)11月2日、東京・虎ノ門で創刊され、ここ銀座1丁目に社屋が移転されたのは、1877年(明治10年)5月のようです。1923年(大正12年)8月に東京・京橋区西紺屋町(現銀座3丁目、かつて銀座プランタン、今はユニクロが入っているビルと隣りのマロニエゲート銀座ビル。それらの屋上近辺の壁に「読売新聞」のロゴがあるので、土地と建物はいまだに所有しているようです)に移転するまでここに本社を構えていたことになります。

 明治中期には坪内逍遥、尾崎紅葉ら文豪が入社して健筆を振るい、特に、尾崎紅葉の「金色夜叉」の連載で部数を伸ばしたと言われますが、読売の若い記者は知らないかもしれませんね(笑)。

 その後、読売は、関東大震災で壊滅的な被害を受けて経営難に陥りますが、「虎の門事件」の責任を取って警視庁警務部長を退職した正力松太郎が、後藤新平の援助で読売を買収し、急成長していく話は、このブログで何度も書いたことと思います。