「ソ連侵攻の真実」を学びましょう=「歴史人」6月号

  今春は、ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」上下と「ホモ・デウス」上下、平山周吉著「満洲国グランドホテル」など超大作を読むのに掛かりっきりだっため、他の本や雑誌があまり読めず、積読状態になっています(笑)。

 例えば、雑誌の「歴史人」(ABCアーク)、「歴史道」(朝日新聞出版)なんかもう4~5冊も未読です(苦笑)。でも、考えてみれば、世界の文明国の中で、日本ほど、これだけ歴史雑誌が毎月のように定期的に出版されている国はないのでは? 日本人は真面目なんでしょうね。何歳になっても、歴史から教訓を学ぼうとしています。

 それに、悪い意味ではなく、「歴史修正」が進んでいて、私が、もう半世紀昔の高校生の頃に学んだ「歴史」とは随分変化しています。例えば、当時、645年は「大化の改新」としか習いませんでしたが、今では「乙巳の変」となり、鎌倉幕府成立も「1192年」(いいくに)だったのが、1185年(いいはこ)が定説になりそうです。歴史の教科書から「聖徳太子」や「坂本龍馬」の名前が消える? ということも話題になりました。歴史学習も、パソコンのソフトと同じように「更新」しなければならないということなのでしょう。

 そこで、本日は、「歴史人」6月号の「沖縄戦とソ連侵攻の真実」特集を取り上げることに致します。私自身、前半の「沖縄戦」についてはある程度知っておりましたが、後半の「ソ連侵攻の真実」については、不勉強で知らないことが多かったでした。

 雑誌ですから、タイムリーにも今、進行中のロシアによるウクライナ侵攻も取り上げております。井上寿一学習院大教授の記事などを引用しますと、1997年、ロシア・ウクライナ友好協力条約が成立し、ウクライナの領土保全・国境不可侵などをうたったというのに、ロシアは2014年にクリミア半島を併合し、今年2月24日にはウクライナ全土の侵略を開始し、民間人を大虐殺するなど戦争犯罪を犯しています。

 つまり、ロシアという国は国際条約や国際法を破っても、不法者や犯罪者意識がサラサラなく、ならず者国家だということです。条約の一方的破棄と侵略は、この国のまさに「お家芸」であり、「伝統」だとも言えます。プーチンは、尊敬するスターリンの顰に倣ったとも言われますが、そのスターリンがしたことは、1945年8月9日、日ソ中立条約(41年4月に締結され、少なくとも46年4月までは有効だった)を一方的に破棄し、まずは満洲国に侵攻し、対日参戦したことでした(ヤルタ会談での密約)。

「歴史人」6月号 「沖縄戦とソ連侵攻の真実」

 満洲に侵攻したソ連軍は150万兵とも言われ、この特集号で初めて、その侵攻する師団がどのルートで制圧していったかなどの詳細が分かりました。対する日本の関東軍は70万兵とは言われていましたが、既にその前年から、グアム、沖縄、フィリピンなどに精鋭部隊は根こそぎ取られ、「張り子の虎」に過ぎなかったといいます。

 終戦時155万人の日本人が満洲、関東州にいましたが、そのうち死亡者は17万6000人、その半分近い7万8500人が開拓団の犠牲者だと言われています。また、ソ連軍は約60万人の日本人をシベリアに抑留し、劣悪な環境と十分ではない食事の収容所や強制労働で5万~10万人が死亡したといいます。シベリア抑留は日本人だけかと思いきや、ハンガリー人50万人、ドイツ人は何と240万人も強制奴隷労働で使役したといいます。

 スターリンの悪行はこれだけではありません。8月11日から樺太侵攻を開始します。南樺太は、日露戦争で薄氷の勝利を収めた日本が1905年のポーツマス条約によって割譲された日本領土でした。ソ連軍は、兵力に劣る日本を圧倒し、17日、王子製紙と炭坑で栄えた樺太最大の恵須取(えすとる=人口4万人)を制圧、25日には南端の大泊に進駐し、樺太全島の占領を完了します。その後、疎開する民間人を乗せた小笠原丸、第二新興丸、泰東丸の3船が、北海道留萌沖で、ソ連軍潜水艦によって撃沈され、1700人以上の民間人が犠牲になります。これで、ロシアによる民間人虐殺はウクライナで始まったわけではなく、お家芸だったことが分かります。

 ちなみに、樺太の後に、ソ連軍によって占拠される国後、択捉、歯舞、色丹の「北方四島」は、幕末の1855年、日露和親条約で取り決められた日本領土でした(樺太は日露両国雑居地とした)。また、その後、明治になった1875年には、択捉島の隣りの得撫島(うるっぷとう)からカムチャッカ半島に近接する占守島(しゅむしゅとう)までの21島のことを「千島列島」と称し、ロシアは樺太を、日本は千島列島を交換して領有する条約が締結されました。(千島・樺太交換条約)

 スターリンの目論見は、樺太と千島列島の占領だけではありませんでした。北海道の釧路と留萌を結ぶラインの北半分を占拠するつもりだったのです。もし、それが実現していたら、日本も朝鮮半島やベルリンの二の舞になっていたところでした。

 それを阻止したのが、日本の最北端のカムチャッカ半島との国境近い占守島での激戦でした。占守島(しゅむしゅとう)とはいっても、私の世代では知らない人がほとんどです。が、私の親の世代は知っていました。ソ連軍が占守島に侵攻したのは、何と「終戦」が終わった8月18日でした。司馬遼太郎の戦車学校時代の上官だった池田末男連隊長(陸軍大佐)らの戦死もありましたが、第91師団歩兵第73旅団など日本軍守備隊は、札幌にいる第5方面軍司令官樋口季一郎中将の指揮で、死力を尽くして防衛して時間を稼ぎ、ソ連軍が足止めを食らっている隙に、米軍が北海道に進駐し、スターリンの北海道分割という野望は挫かれます。

 8月21日に休戦協定が締結されますが、占守島での日本軍の死傷者600~1000人に対して、ソ連軍は1500~4000人だったと言われます。

 北の大地では、8月15日は終戦でも何でもありませんでした。

 今ではこの史実を知る人は少ないのではないでしょうか?

 

43年ぶりに憧れのマドンナと再会できました

 人は半世紀近い年月を隔てても、再会して話が通じ合うようなことができるのかーといった哲学的命題を解明したいがばっかりに、大学を卒業して一度も会ったことがなかった女性と43年ぶりぐらいに東京・恵比寿のイタリア料理店で、感動の再会を果たしました。私の大嫌いで、もうあまりやっていないFacebookで御縁が繋がり、私がブログに神谷町のことを書いたことがきっかけで、再会することになりました。1時間半ばかし、積もるよもやま話をして参りました。

 御本人から、最初、「ブログには書かないで」と言われましたが、「いや、ブログは私の正業なので、遠回しに書かさせて頂きます」と無理やり、宣言してしまいました(笑)。ので、お名前は匿名で楸さんということにしておきましょう。楸さん?まず読めないでしょう?(笑) 「ひさぎ」さんと読みます。

 何しろ、この奇跡的な再会については、名古屋に住む旧友のK君や静岡県在住の山上君らに吹聴してしまい、彼らもその後どうなったのか、気になることでしょうから、彼らのためにも、御報告する義務がありました(笑)。

 結果は、good,better,best ? まあ、the bestでした。私一人だけが、昼間っからワインやハイボールを呑んで酔っ払って、言いたい放題、聴きたい放題でしたが、楸さんも、水で酔ったふりをして我慢して付き合ってくれました。何しろ、22歳だった若者が、浦島太郎さんのように、アッと言う間に、白髪のお爺さんですからねえ。後輩の楸さんも私とそれほど年齢は変わりませんが、半世紀近く会っていなかったので、お互いに、人生の「激動期」の情報が抜けています。結婚や出産(私はしてませんが)や、仕事や転勤、子どもや孫の話、病気の話、それに二人が共通に知っている友人知人の結婚、離婚、再婚、近況の話などを問わず語りしているうちに、これまたあっという間に時間が経ってしまいました。

 楸さんには、「遠回しに書く」と約束してしまったので、具体的な内容は茲では書けませんが、私が大学時代にお付き合いしていた椿さん(これも仮名)の近況ーとはいっても、楸さんが椿さんと直接会ったのは、10年近く前らしいのですが、ーを初めて教えてもらい、少し安心しました。「へー、そうだったのかあー」といった感慨です。これまた、楸さんとのお約束で具体的なことはブログに書けませんが…(笑)。

 楸さんは、頭が良く、性格も良く、しかも美人さんと三拍子揃っていましたから、男どものアイドル的存在で、友人のK君も狙っていました。私は当時、椿さんと熱烈な恋愛関係にあったため、楸さんにはアタックせず(笑)、遠くから見ていた感じでしたが、まさか、半世紀近く経って再会するとは夢にも思いませんでした。(だから、記憶違いばかりでした。)

 年も年ですから、お互いに同じことを聞いて、「あれっ?それ、さっき応えたのでは?」となり、古民家の縁側の日向ぼっこで、お爺さんとお婆さんが、昆布茶を飲みながら、会話しているような長閑な雰囲気になり、顔を見合わせて大笑いしてしまいました。

 何でもない会話でしたが、お互いに、紆余曲折の末、挫折やら苦悩やら病気やら人生の荒波を乗り越えて、生き延びて奇跡的な再会を果たすことができました。

 少し陳腐な表現ではありますが、やはり、「人生は捨てたもんじゃない。素晴らしい」と思いましたよ。

エリート群像と名もなき庶民の声=平山周吉著「満洲国グランドホテル」

 ついに、やっと平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社、2022年4月30日初版、3850円)を読了できました。565ページの大作ですから、2週間以上掛かりました。登場人物は、巻末の索引だけでも、ざっと950人。まさに、大河ドラマです。

 満洲と言えば、最初に出て来るのは、東条英機(関東軍参謀長)、星野直樹(満洲国総務長官)、岸信介(満洲国総務庁次長)、松岡洋右(満鉄総裁)、鮎川義介(日産コンツェルン⇒満洲重工業総裁)の「ニキ三スケ」です。それに加えて、何と言っても「大杉栄殺害事件」の首謀者から満映理事長にまで転身した甘粕正彦(昭和19年1月、甘粕は、芸文協会の邦楽部長藤山一雄に対して、「藤山さん、あれは私ではないよ」と呟くように言った。=41ページ)と張作霖爆殺事件の河本大作の「一ヒコ一サク」です。(この名称は、著者が「勝手に命名した」と「あとがき」に書いております。)

 とはいっても、この7人のうちに章を立てて取り上げられているのは、星野直樹と松岡洋右の二人だけです。勿論、残りの5人と満洲事変を起こした板垣征四郎と石原莞爾は、陰に陽に頻繁に「脇役」として登場し、完全に主役を食っている感じです。そんな彼らについては多くの紙数が費やされていましたが、731細菌部隊の石井四郎や満洲国通信社の阿片王・里見甫、作家の長谷川濬、漫画家の赤塚不二夫やちばてつや、俳優の森繁久彌や宝田明らはほとんど出てきませんでした。(著者は「あとがき」で、取り上げたかったが、残念ながら出来なかった人物として、「もう一人の男装の麗人」望月美那子、「満洲イデオローグ」評論家の橘樸=たちばな・しらき=、「満蒙開拓の父」加藤完治らも挙げています。)

 その代わりに多く取り上げられていたのが、小林秀雄や長与善郎、八木義徳、榛葉英治、島木赤彦といった文学者と「満洲の廊下トンビ」小坂正則(報知新聞新京支社長⇒満映嘱託など)、石橋湛山(東洋経済)、石山賢吉(ダイヤモンド社)、「朝日新聞の関東軍司令官」武内文彬(奉天通信局長)、「女優木暮美千代の夫」和田日出吉(時事新報⇒中外商業新報⇒満洲新聞社長。坂口安吾が振られた美人作家矢田津世子とも付き合っていた艶福家)といったジャーナリストたちです。彼らは、満洲関連の多くの文献を残しているせいかもしれません。

 著者も「あとがき」に書いているように、この本が主眼にした時代は「ニキ三スケ」の時代で、初期の満州事変や末期のソ連軍侵攻の悲劇にはそれほど触れられていません。従って、登場する中心人物は、「白紙に地図を書くように」これまでにない新しい国家をつくろうとする野心と理想に燃えたエリートたちで、筆者も「満洲国は関東軍と日系官僚が作った国家であったから、近代日本の二つの秀才集団である軍人と官僚は欠かせなかった」と振り返っています。軍人では、植田謙吉(関東軍司令官)、小磯国昭(関東軍参謀長)、岩畔豪雄(関東軍参謀)、官僚では、古海忠之(大蔵省⇒総務庁次長)、大達茂雄(内務省⇒国務院総務庁長)、「満洲国のゲッベルス」武藤富男(司法省⇒総務庁弘報処長)、「満洲の阿片行政の総元締め」難波経一(大蔵省⇒専売公署副署長)らに焦点が当てられ、意外な人物相関図や面白い逸話が披露されています。

 一つ一つご紹介できないので、是非、手に取ってお読み頂けれたらと存じます。好評なら、今度は「もう一人の男装の麗人」望月美那子や「満洲イデオローグ」評論家の橘樸らを取り上げた「続編」が出るかもしれません。

東京・銀座「わのわ」お刺身定食1000円

 ただ、本書に登場する人物は、ほとんど陸士―陸大を出た超エリート軍人か、東京帝大を出て高等文官試験に合格した超エリート官僚ばかりです。皆、新しい国をつくろうと燃えた人たちでしたが、その下には何百万、何千万人という漢人、満人、蒙人、鮮人(当時の名称)ら虐げられた人がいたことも忘れてはいけません。

 巻末年表を見ると、歴史的に、漢人が「化外の地」(中華文明が及んでいない野蛮な土地)として相手にもしていなかった満洲の地を最初に侵略したのはロシアで、1900年のことでした。満州に東清鉄道を敷設し、ハルビンなどの都市を建設していきます。それが、1904~5年の日露戦争での大日本帝国の勝利で、日本の満洲での権益が拡大していきます。

 昭和初期、金融恐慌などに襲われた日本にとって、満洲は理想の希望に溢れた開拓地で、「生命線」でもありました。一攫千金を狙った香具師もいたでしょうが、職や開拓地を求めて大陸に渡った日本人も多くいます。先日、名古屋で14年ぶりに会った旧友K君と話をしていて、一番驚き、一番印象に残った話は、私も面識のあったK君の御尊父が、16歳で満洲に渡り、満鉄に就職したことがあったという事実でした。16歳の少年でしたから、この本に出て来るような東京帝大出のエリートとは違って、「使い走り」程度の仕事しかさせてもらわなかったことでしょう。

 それでも、そこで、かなり、日本人による現地人に対する謂れのない暴行や差別や搾取を見過ぎて来たというのです。「それで、すっかり親父はミザントロープ(人間嫌い)になって日本に帰ってきた」と言うのです。

 K君の親父さんは、本に登場するような、つまり、字になるような有名人ではありませんでした。が、私自身は、身近な、よく知った人だったので、活字では分からない「真実」を目の当たりにした感じがしました。お蔭で、聞いたその日は、そのことが頭から離れず、ずっと、頭の中で反芻していました。

【参考】

 付 「傀儡国家の有象無象の複雑な人物相関図=平山周吉著『満洲国グランドホテル』」

 「細部に宿る意外な人脈相関図=平山周吉著『満洲国グランドホテル』」

値上げラッシュでランチも上がる?

 最近、何でもかんでも値上げです。小麦、ビール、お菓子、冷凍食品、缶詰…きゃあ、勘弁してくれい、といった感じです。

 お蔭で、4月の消費者物価指数は昨年同月比を2.1%を上回り、消費税率引き上げの影響を除くと、13年7か月ぶりの上昇率になったとか。さぞかし、日銀の黒田総裁も喜んでいると思いきや、今の物価上昇は、エネルギーや原材料の価格高騰が主要因で、日銀が目指す賃金上昇や需要増加といった経済の好循環を伴った安定的な物価上昇ではない、と否定的です。

 よく分かりませんが、原材料が値上がりしたら、製品の価格に跳ね返ってくるのは当たり前じゃないんでしょうか? 儲けが増えれば、社内留保はほどほどにして、社員に還元するのが真っ当ではないでしょうか? 食材やサラダ油等が値上がっているから、ランチも値上がったと思っていたのですが、それとも便乗値上げなんでしょうかねえ?

東京・新橋「香川・愛媛かおりひめ」海老天おろし全粒粉うどん(冷)1200円

 というのも、最近、東京・銀座界隈(日比谷、築地も含む)で1000円以下のランチを探すのが至難の業になってきたからです。昨年までは結構あったのですが、今春になって、ちょくちょく行くイタリアンのランチは、1100円から1300円に値上げ。会社の近くのお寿司屋さんなんか、一昨年までランチ握り980円で食べられましたが、昨年は1300円になり、今年は1600円になってしまいました。えーー!「ふるさとは遠きにありて思うもの…」?

 最近、小生のブログに関しても、「長い」「余計な、いらない情報」と不評をかこっているため、本日はこの辺で、あっけなく、打ち止めにします。

 でも、世の中、「情報過多」とは言っても、本当に、余計な、いらない情報ばかりです。そう思いませんか?

 

田中与四郎さんって誰のこと?=歴史上の人物の本名にはまってます

 最近、我ながら、勝手にはまっているのが、歴史上の人物の本名(幼名、俗名、諱)クイズです。

 きっかけは、田中与四郎さんです。大変、失礼ながら、現代人でも何処にでもいそうなありふれたお名前です。それが、あの茶人・千利休の本名(幼名、1522~91年)だと知った時は、大いに驚いたものです。千利休は、今年、生誕500年ということで、テレビや雑誌で取り上げられることが多いのですが、テレビの番組で初めて知りました。

 堺の商家(家業は倉庫業)生まれで、雅号は抛筌斎(ほうせんさい)、法名は千宗易。千利休という名前は、天正13年(1585年)の禁中茶会で、町人の身分では参内できないため正親町天皇から与えられた居士号だといいます。姓の千は、彼の祖父である田中千阿弥から由来するという説もあります。

 田中与四郎さんで味をしめたので、他にも探してみました。一番、記憶に残っていたのは、藤井元彦さんと藤井善信さんです。このお二人、どなたのことか分かりますか?将棋の棋士ではありません(笑)。ヒントは「歎異抄」です。最後の後序に出てきます。

 1207年、いわゆる承元の法難(建永の法難)で、後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然と親鸞ら門弟7人が流罪となった事件のことです。この時、法然上人(76)は、(当初、)土佐国の番田という所へ流罪となり、罪人としての名前が藤井元彦。親鸞聖人(35)は越後国へ流罪となり、罪人としての名前は藤井善信などと「歎異抄」には書かれています。

 今から800年以上前の藤井元彦も藤井善信も、全く、現代人としても通用する名前です。

築地「とん喜」カツカレー丼 1300円 お腹いっぱい

 この事件、真偽は不明ですが、後鳥羽院が寵愛する女官(鈴虫と松虫)と法然の門弟との密通事件が背景にあって、死罪という重い処分が下されたともいわれています。私怨が絡んでいたのかもしれません。私はすっかり忘れていましたが、法然、親鸞らに「島流し」の処分を下した後鳥羽院は、その14年後の1221年に承久の乱で、逆に、二代執権北条義時によって隠岐の島に流されてしまうんですよね。波乱万丈の人生でしたが、やはり、鎌倉時代は面白い!

 さて、これぐらいにして、皆様にもクイズを差し上げましょう。以下の本名の人は、普通は何という名前で知られているでしょうか?

(1)佐伯真魚(さえき・まお)

(2)坂本直柔(さかもと・なおなり)

(3)長谷川辰之助(はせがわ・たつのすけ)

(4)永井壮吉(ながい・そうきち)

(5)津島修治(つしま・しゅうじ)

(6)平岡公威(ひらおか・きみたけ)

 簡単過ぎましたね(笑)。

 私も筆名を3回も4回も変えてきましたが、あの葛飾北斎は生涯で30数回名前を変えてますからね。 されど名前、たかが名前ですか…。

(答えは下欄)すぐ見ちゃ駄目よお

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【答え】

(1)空海(2)坂本龍馬(3)二葉亭四迷(4)永井荷風(5)太宰治(6)三島由紀夫

Facebookは怖い、国際ロマンス事件はもっと怖い

 昨日の私のFacebookに見知らぬ外国籍の若い女性から「いいね!」を頂きましたが、常軌を逸している感じで、無暗やたらに10連発の「いいね!」です。写真を見ると、スタイル抜群で大変魅力的な女性です。でも、どうも私のブログを読んでいるとは思えず、一体、何が目的なんでしょうかねえ、と思ってしまい、半ば、ゾッとして来ました。Facebookは怖い!もうFacebookはこれを最後にしたい。

 というのも、新聞で、「国際ロマンス事件」の話を読んだばかりだったからでした。噂では聞いたことがありますが、実際に引っかかる人がいるとは信じられませんでした。被害者は著名な(とはいえ私は知りませんでしたが)女流漫画家で、犯人は、ハリウッド俳優を名乗るマーク某。女流漫画家は彼に何と7500万円も送金してしまい、後で詐欺だったと分かっても後悔先に立たず。最初、750万円かと思ったら、7500万円もですよ!山口県阿武町で起きた4630万円の誤送金事件より遥かに大きい。(んな、話か?!!)

 その女流漫画家は古希を過ぎておられますが、結婚した相手から大変なDV被害を受けた上、浮気されて他に子供まで作られ、漫画で稼いだお金はほとんど使われ、やっと離婚はできましたが、散々な目に遭った経験があったようです。(今年1月に「週刊女性」誌で初めて公表)

 女流漫画家さんは、人生の酸いも甘いも知り、分別もあるはずなのですが、人の弱みや良心に付け込まれるとコロッと騙されてしまうんですね。いやあ、国際的に活動する詐欺師の手口は、凄まじい。マインドコントロールしてしまうのですから。

 私も最近、詐欺師からではありませんが、信頼していた人から間接的に金銭を要求されたことがありました。(銀行口座振り込みや現金書留ではなく、茶封筒にそのまま現金を入れるように具体的な指示まで)考えてしまいますよね? 相談の当事者は私自身ではなく、病を患っている私の友人だったので、その友人にこの話をしたところ、金銭は支払わず、相談は断念することに決めました。

 このことを、その信頼していた人に折り返し伝えると、それまで毎日のようにLINEやメールで連絡があったというのに、こちからメールしても、一切、無視か黙殺されるようになりました。何かあったのでしょうか?不思議ですねえ。

東京・銀座「ムンバイ」ダブルカレー1100円

 英語で詐欺師のことを、con man とか con artist とか言ったりします。 conとは、 confidence(信用)の略です。つまり、人の信用や信頼を利用して騙す「信用ビジネス」ということなのでしょう。そう言えば、ホームレスなどに生活保護を受けさせて搾取する「生活保護ビジネス」もあれば、人の不幸に付け込んで、高額な壺やお守りを買わさせたりする「不幸ビジネス」もあります。

 人の悩みは尽きません。国際ロマンス事件で騙された女流漫画家も孤独や不安に付け込まれたということなのでしょうか。

 しかし、孤独や不安でもいいじゃないですか。孤独や不安解消のために、アルゴリズムやAIや占い師や霊媒師や透視家や預言者や宗教家や国際ロマンサーに付け込まれて、莫大な金銭を詐取されるよりマシです。

 信頼する人から「君は程度が低い!とても付き合えないと言って、次々と貴兄の傍から去っていくのがよく分かります。」と蔑まされようが、大いに七転八倒して、孤独や不安は耐えるしかないのです。

 一番良いのは、努力して、悟りを開いて悩まないことです。苦しまないことです。心配しないことです。「サピエンス全史」のハラリ氏に言わせれば、人生には目的も意義も生き甲斐すらありませんが、そんな世迷言は捨てて、「人生とは幸せになることだ」という目標を心に決めて、せっかくこの世に生を受けたからには、自分の人生を大いに楽しむことです。

 それしかない。

 人間、悩んで迷うのは当たり前。それを他人やAIに丸投げしてしまっては、自分の人生ではなくなってしまいます。

 

世知がらい世の中になったものだ=デジタル・ネイティブ世代に告ぐ

  最近、新聞を読んでいて面白かったのは、コロナが収束の方向に向かったことから、大学では、オンライン授業から対面授業に切り替わり、学生さんから「教授の講義が遅すぎてイライラする」といった声が出た、というコラムです。

 今どきの学生さんは、オンライで講義を受ける際、1.5倍とか倍速で聴講するそうなのです。そりゃあ、生の普通の速さで聴けば、遅く感じるのは当たり前ですよ(笑)。

 何でそんなことをしているのかと言いますと、今の若い人は、「コスパ」より「タムパ」を重視しているからなんだそうです。コスパとは「コスト・パフォーマンス(費用対効果)」のことで、私でも知っています。でも、タムパは、私も初めて聞く言葉でしたが、「タイム・パフォーマンス(時間対効果)」のことなんだそうです。コスパを重視したのは、主に「ゆとり世代」と言わるれる世代(1987年~2004年生まれ)です。その一方で、2年程前から「タムパ、タムパ」と言い出しのが、ゆとり世代の一つ下の「Z世代」(1990年半ば~2010年代生まれ)だといいます。これも、トレンド評論家たちが勝手に言っているだけですが。

銀座・日本料理「すが家」広島鯛茶漬け1600円

 確かに、Z世代ともなると、「デジタル・ネイティブ」と言いますか、物心ついた時には、既にネットやデジタル機器に囲まれていた世代です。思うに、情報量が半端じゃないのでしょう。特に、動画ともなると、ラジオのように何かしながら見ることができるわけがなく、多くの情報を消化するには、ほぼ必然的に「飛ばして」ていくということになるのでしょう。

 私のような絶滅危惧種の化石世代では、ドアーズとかクリームとかCCRとか流行っていましたが、海外のロックスターの動く姿を見ることが出来るのは稀の稀でした。たまに、NHKが「ヤング・ミュージック・ショー」などで放送してくれましたが、大抵は、ラジオかレコードでの「音声」のみです。あとは、「ミュージックライフ」などの雑誌の写真を見て、演奏を想像するだけです。情報がない分、想像するしかないのです。

銀座・日本料理「すが家」広島鯛茶漬けの抹茶1600円

 でも、私は、今の若い人たちを羨ましい、なんて全く思いませんね。我々の世代は、それなりに牧歌的時代でしたが、今の若い人の方が追い立てられていて、むしろ、可哀想に思えてきます。

 特に若い頃は流行に敏感ですから、流行に遅れれば、疎外感を味わったり、「置いてきぼり」感を味わったりします。そんな時代背景があるのか、今、話題になっているのが「ファスト映画」です。長編映画を10分ほどに短縮して、動画サイトにアップされた編集映画のことですが、勿論、著作権法違反ですから、昨日は、東宝や日活など13社が、投稿者を相手取り、損害賠償5億円を求める訴訟を東京地裁に起こしたことがニュースになりました。

 「ファスト映画」は犯罪ですが、それだけ、「結末を早く、もっと多く知りたい」という需要があるということなのでしょう。映画だけでなく、結末が肝心の推理小説まで、早く「最後」を知りたがり、「あらすじ」がよく読まれているらしいのですが、そこまでいけば本末転倒ですね。

1930年創業・銀座・洋食「つばめグリル」つばめ風ハンブルグステーキとトマトサラダ1925円

 旅だって、目的地だけが全てではなく、途中で遭遇する景観や人々も興趣の一つのはずです。

 私もどちらかと言えば、人生の時間が限られていますから、「コスト・パフォーマンス(費用対効果)」より「タイム・パフォーマンス(時間対効果)」の方を重視するタイプです。いつも「時間が勿体ない」と思い、起きている間は、本を読んだり、ピアノを弾いたり、ジャズギターを聴いたり、何かしていないと気が済みません。

 それにしても、今のデジタル・ネイティブ世代は異様です。随分と、せわしない、世知がらい世の中になったものです。

熱田神宮と「自宅高級料亭化」計画=名古屋珍道中(下)

(昨日のつづき)

 5月15日(日)~16日(月)の名古屋珍道中の続きです。二日目、16日のお話です。ホテルでは一応よく眠れたのですが、疲れが全く取れていません。それにまだ風邪が治りきっていないので、元気もありません。チェックアウトの11時まで、そのまま寝ていようかなあ、と思ったぐらいです。

 でも意を決して出掛けました。朝のバイキング、ちょっと欲に駆られて食べ過ぎて、少し腹ごなししなければいかんかなあ、と思ったからでした。目指すは、熱田神宮です。昨晩は、旧友のK君から、乗るべき名鉄線の在り処などを丁寧に教わっていたのですが、それでも、名古屋は複雑で、右往左往状態でした。駅員さんに聞いたのですが、「4番線や」というだけで、何行きに乗ったらいいのか、さっぱり分かりません。それに、特急やら準急やらあって、止まるかどうか分からないので、各駅の普通列車が来るまで暫く待ちました。

名鉄・神宮前駅 「チカンやめますか」「仕事やめますか」…そんなにいるのかなあ

 スマホで「名古屋~熱田神宮」と検索したら、何と東京から熱田神宮へのルートが出てきました。何で? しかも、降りる駅名は「神宮前」です。熱田神宮の「あ」の字も出てきません。もう破れかぶれになって、電車に乗り込み、その「神宮前」で降り、案内看板に「熱田神宮」と初めて「熱田」を見つけたので、その方向に降りて、ようやく辿り着きました。

 案外広い神宮でした。「日本の三大神宮」かと思ったら、日本書記によると、三大神宮とは「伊勢神宮」「出雲大神宮」「石上神宮」(奈良県天理市)を指すようですね。三種の神器の一つ「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」を所蔵するこの熱田神宮は三大神宮の中に入っていません。延喜式神名帳には記された日本三大神宮でも、「伊勢神宮」「鹿島神宮」「香取神宮」となり、熱田神宮は入っていません。ただ、「伊勢神宮」「熱田神宮」「明治神宮」を日本三大神宮とする説もあるようです。

熱田神宮 本宮

 とにかく、本宮にお参りし、本宮横の売店、なんて言っちゃ怒られますね。調べたら、「本宮授与所」というらしいのですが、そこで「お守り」を購入致しました。これでも私は、強欲な人間ですから、買うものは決まってます。お金も地位も名誉も、そんなもんは吹けば飛ぶような将棋の駒みたいなもんです。何と言っても、この世で一番欲しいものは…?そう、私は「健康長寿」のお守りを迷わず購入しました(笑)。一千円也。

熱田神宮 樹齢1000年以上の大楠(空海上人、御手植えと伝わる御神木(直径7.7メートル、高さ20メートル)

 帰りの途中に、「剣の宝庫 草薙館」と「宝物館」(共通券800円)にも立ち寄りました。でも、そこの入口の受付の女性とはちょっとした言い合いになりました。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、壇ノ浦の戦いで、「三種の神器」は安徳天皇とともに海中に沈んでしまった、とやっていたので、「こちらの草薙神剣は本物ですか? 本物は壇ノ浦に沈んでしまったのではないですか?」と受付の人に聞いたら、「いえ、あちらは形代(複製?)でしたから、本物の神剣は非公開ですけど、ちゃんとこちらで所蔵しております。何なら、神職を呼びますかあぁぁーー!?」と反駁されてしまいました。

 別に口論しに来たわけではないので、「じゃあ、NHKは間違ってたんですね。別に神職さんをお呼びしなくて結構ですよ」と言ってそそくさと退散しました。女性は、実に怖い形相でしたからあー。

名古屋「御器所亭」 八海酒造のライディーンビール「ピルスナー」と串焼き・名古屋コーチンのキモとハツ

  ちょっとお参りしただけで、もう(少し)フラフラでしたので、そのまま旧友K君が住む1Kの「大豪邸」に行くことにしました。学生時代は、ちょくちょく酔っ払ったまま、彼の下宿(上板橋、千石、田園調布、雪が谷大塚)に泊まらせてもらったものでしたが、今回の彼の塒(ねぐら)では、狭くてとてもお爺さん二人で泊まれないということで、ホテルを取ったわけです。

 彼の「豪邸」は、名古屋から市営地下鉄桜通線の「御器所」駅から歩いたところにありました。「御器所」と書いて、「ごきそ」と読みます。まず、読めませんね(他にこの路線には高岳=たかおか=とか徳重=とくしげ=とか難読駅があります)。でも、ここは熱田神宮に奉納する器をつくっていた工房があった所だったことから付けられた由緒ある地名でした。今回、熱田神宮とは御縁がありました。

名古屋「御器所亭」 伊賀の銘酒「瀧自慢」 こりゃうめえ

 K君からは、「遅くても13時まで来てください」という話でしたが、もうクタクタで、織田信秀が北野天満宮から菅原道真像か何かを勧進した「桜天神社」にお参りすることも薦められましたが、気力がないので、早めに着いてしまいました。時計を見ると午前11時前でした。何しろ初めて行く所です。今は、Googleマップという便利なものがあるので、住所とスマホを頼りにやっと、彼のアジトを発見することができました。が、表札がない! しかも、彼はスマホを紛失しているので、連絡の取りようがない! 恐る恐るピンポンすると、反応がない! どないなっとるんねん???

名古屋「御器所亭」 愛知県設楽町の関谷醸造「一念不動」 これは格別、こんな旨い酒が世の中にあったとは!

 彼の自宅に押し掛けたのは、彼はちょっとしたセミプロの板前さんで、「自宅高級料亭化」計画を実施してくれたからです。何しろ懐石料理なんて大得意。そんじょそこらの料亭が吃驚するぐらいの料理を出してくれるのです。もしかして、今頃、食材の買い出しに出掛けたんだろうなあ、と予測が付きました。そこで、近くに喫茶店でもあれば時間を潰せるので、探したのですが、見つかりません。再び、彼のアジトに戻って、敷石の上に座って休んでいたら、15分ほどで、やはり、大きな荷物を下げて彼は戻って来てくれました。

 最初は「何か、手伝ってくれ」という話でしたが、すぐに「邪魔だからあっちに行ってくれ」ということになり、私も目の前に用意してくれたお酒を手酌で昼間からグイグイいくことにしました。

名古屋「御器所亭」 関谷醸造「一念不動」と活き車海老刺身 その前に伊勢湾産の栄螺壺焼き 実に合う!

 そのお酒は、何日も前から事前に用意していてくれたらしく、「八海山」で有名な八海酒造のライディーンビール「ピルスナー」、伊賀の銘酒「瀧自慢」、そして、愛知県設楽町の関谷醸造「一念不動」と生まれて初めて呑む酒ばかりでした。東京の田舎なんかじゃとても呑めない最高級のお酒ばかりでした。癖がなく「浄水」のようにグイグイ呑めてしまうのです。

名古屋「御器所亭」 伊賀の銘酒「瀧自慢」と、本場中の本場、その手は桑名のハマグリのしゃぶしゃぶ

 料理も、最高級、名古屋コーチンのキモとハツの串焼き、まだピョンピョン生きていた車海老の刺身、その手は桑名のハマグリのしゃぶしゃぶ、鰹とカンパチの刺身とその握り寿司、そして、締めは蚕豆、車海老入り卵雑炊と至れり尽くせり。ただ、病身の彼もついに力尽きて、予定していた自家製イチゴ添えアイスクリームと天麩羅はお預けとなりました。

 K君とは14年ぶりの再会で、積もる話がたくさんあったはずでした。でも、いったん、顔を合わせると、心で語ることが多く、また「美味い、旨い」と、呑んだり食べたりすることが忙しくなり、そんな煩わしい話をするのも馬鹿らしくなりました。

名古屋「御器所亭」 鰹とカンパチ刺身 キュウリの塩麹浅漬け。鰹とカンパチは後で握り寿司の御提供

 昔、名探偵ホームズの英語の副読本の中で、ホームズと友人のワトソンが顔を合せた時、お互いほとんどしゃべることがなく、確か、Old friends do not talk.(旧友というものは、お互いあまり喋らないものだ。)といった言葉が出てきたと思います。まあ、それに近いです。

 そのため、二人の共通の友人で、昨年亡くなったY君の思い出話とか、それに纏わる酷い不条理な話とか、野暮な話はやめることにしました。

 その代わり、萬古焼とか川喜田半泥子とか北大路魯山人の話をしました。萬古焼は、今の三重県四日市市と菰野町に窯元があるそうです。半泥子は、百五銀行の頭取も務めた実業家ながら、50歳過ぎて陶芸を始め、「東の魯山人、西の半泥子」と呼ばれた人です。半泥子は、今の三重県立津高校出身で、K君の同郷の先輩に当たりますが、「魯山人となんか比べものにならん」と一刀両断でした。

 確かに、魯山人は陶芸家、料理家、書家、美食家として超一流というか、怪物でしたからね。人間的にお付き合いはしたくないですが、一度、彼の作った陶器(約百万円)で酒を呑んだり、食事したりしたいもんです。

名古屋「御器所亭」 ハマグリの出し汁に北海道産高級米と車海老と蚕豆と卵入り雑炊 

 実は、K君は4月に倒れて救急車で運ばれ、1週間入院し、5月も救急車を呼ぶなど健康問題を抱えていました。「俺はいつも人と会うとき、これが最期ですね、と言って会ってる」というので、私も「変なこと言うんじゃないよ。俺はまだ、オヌシの天麩羅とアイスクリームを喰ってないんだからな。次は絶対、天麩羅とアイスクリームを喰わせてくれよ。大枚払うから。もうここの場所も覚えたから大丈夫」と檄を飛ばしておきました。

 これは勿論、冗談ではなく、本心でした。

【追記】2022年5月19日

 K君のスマホ、やはり、中村公園で見つかったそうです。よかった、よかった。届けてくださった名古屋市民の皆様、有難う御座いました。

 

旧友を訪ねて 43年ぶり再会も=名古屋珍道中(上)

 5月15日(日)~16日(月)、一泊二日で、名古屋に住む大学時代の旧友K君のお見舞いも兼ねて、小旅行を敢行しました。1日目だけは、大学時代の後輩で、今や有名私立大学の教授にあらせらる山上君もお住まいの浜松から飛び入り参加してくださり、実に充実した日々を過ごすことができました。

 とはいえ、最初からかなりのトラブル続きで、まるで我々の人生を象徴しているかのようでした(苦笑)。何しろ、山上君とは大学卒業以来一度も会ったことがなく、42年か43年ぶりの再会。K君とも、彼は記憶力抜群で、最後に二人で会ったのが、東京・銀座で、2008年12月31日以来だといいいますから、14年ぶりぐらいです。

 三人の共通点は、同じ大学の音楽倶楽部仲間ということです。それでも、43年ぶりともなると、昔の面影も何もなく、浦島太郎さんが玉手箱を開けて、「あっと言う間に、お爺さん~」ですから、果たしてうまく再会できるのやら…。

 待ち合わせ場所は、新幹線出口(太閤通口)を降りた「銀の時計」前ということでしたが、「いない!」。K君に電話しても出ない。それじゃあということで、山上君に電話しても出ない!どないなっとるんねん???もしかして、反対側の出口(桜通口)かな?と思って、右往左往して銀の時計に戻ったら、いたいた。「あれっ?電話したのに」と二人を責めると、「あれ?え?」と悪びれた様子もない。お爺さんは耳が遠いので電話が鳴っても気が付かないことが判明しました。これがトラブルの第一弾、先が思いやられます。

名古屋・豊国神社

 この後、私の宿泊するホテルに荷物を預けて、タクシーで向かったところは中村公園です。ここは天下の豊臣秀吉の生誕地であり、豊国神社が建立されていました。

名古屋・豊臣秀吉生誕地

 豊臣秀吉は、名古屋生まれだったのです。看板にある通り、「秀吉は1536年、木下弥右衛門の子として生まれた」とあります。この木下弥右衛門がどんな人物だったのか、諸説ありますが、単なるドン百姓(差別用語)ではなく、中村の長(おさ)だったという説があります。つまり、村長さん、恐らく大地主か庄屋クラスでしょう。秀吉は、最底辺のどん底から這いあがって立身出世した歴史上最大の人物とされますが、もともとある程度裕福な特権階級だったんじゃないかと思います。哀しいかな、無産階級では教育も受けられませんし、ゼロだと何も生まれませんから。

太閤秀吉功路 最終地点の碑除幕式(名古屋・中村公園)

 たまたま、公園内で、「太閤秀吉功路 最終地点の碑」の除幕式を地元の名士を集めてやっておりました。

 何の碑かと思ったら、秀吉の馬印「せんなり瓢箪」でした。

名古屋・秀吉清正公園

 中村公園内に他に何かあるか探してみました。

名古屋・中村公園内「初代中村勘三郎(1598~1658年)生誕地記念碑」

 ありました、ありました。「初代中村勘三郎(1598~1658年)生誕地記念碑」です。えっ?歌舞伎役者で、中村座の座頭だった勘三郎はここで生まれたんですか。

 看板などの情報によると、中村勘三郎は、豊臣秀吉の三大老中の一人、中村一氏の末弟・中村右近の孫だと言われてます。兄の狂言師・中村勘次郎らと大蔵流狂言を学び、舞踊「猿若」を創作したといいます。 元和8年(1622年)江戸に行き、寛永元年(1624年)、猿若勘三郎を名乗り、同年江戸の中橋南地(現東京・京橋)に「猿若座」(のちの「中村座」)を建てて、その座元(支配人)となった人です。

 秀吉と勘三郎が同郷人だったとは。

 公園内には「秀吉清正記念館」もあったのでちょっと覗いてきました(無料)。清正とは、後に肥後52万石の大大名になる加藤清正のことで、清正もここ中村生まれです(1562年)。父親は、刀鍛冶・加藤清忠だったようです。

 尾張出身の戦国武将は、ほかに、織田信長、森蘭丸、前田利家、柴田勝家、池田輝政、福島正則、蜂須賀小六、山内一豊…と錚々たる武将を輩出してます。

 名古屋の人は、今回の小旅行で、あまり親切な人がいませんでしたが、著名な戦国武将が生まれるくらい生存競争が激しい土地柄なのかしら?

 ただし、地元の人の話では、中村公園がある中村区は土地が低く、名古屋駅の西側は、亀島や津島といった地名があるように古代中世は陸続きではなかったようです。

 逆に名古屋駅の東側の東山などは、地名の通り、「山の手」で現代も高級住宅街が多いということでした。

名古屋城

 次に向かったのが、名古屋城です。中村公園から「メ―グル」と呼ばれる「なごや観光ルートバス」に乗りました。

名古屋城

 メ―グルは1乗車210円ですが、一日乗車券(500円)を買うととても便利です。名古屋城に入城するには普通は一般500円ですが、メ―グルカードを見せると、割引で400円。この後、入った徳川美術館と庭園徳川園も通常は一般1550円ですが、やはり、メ―グルを提示すると1350円で済みました。メ―グルは2回(420円分)しか乗りませんでしたが、入場券で300円分割引を受けたので、十分に元が取れたのです(笑)。

 タクシーの運転手さんは「名古屋には観光するところがない」とぼやいてましたが、名古屋観光するなら、メ―グルはお勧めです。ただし、本数が少ないのでご注意。

名古屋城 石垣ファンにはたまらない
名古屋城 石垣フェチにはたまらない

 名古屋城の天守は現在、工事中で中に入れないことは知っていたので、お目当ては「本丸御殿」でした。3期にわたる工事で、2018年から全面的に公開されるようになりました。

名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿

  期待通り、見応え十分でした。バチカンのシスティーナ礼拝堂に匹敵するぐらいです。日本美術の粋が集まっています。

 本当に圧倒されました。

名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿・上洛殿(三代将軍家光をお迎えするために増築)
名古屋城 本丸御殿
名古屋城 本丸御殿

 残念ながら、「本物」は、昭和20年の米軍による空襲で焼失してしまいました。名古屋城は、昭和11年に指定された「国宝第1号」ですからね。米軍は、それを知って、爆撃したに違いありません。米国人は野蛮な文化破壊者ですよ。ロシア人を批判する資格があるのかしら?と、つい興奮してしまいます。

 本丸御殿は、復元ですが、世界に誇れます。感嘆感服致しました。今回、これを見るだけで名古屋に来た甲斐がありました。

元祖てんむす千寿と愛知の地酒「関谷酒造」の「蓬莱泉」ワンカップ こりゃうめえ

 あ、その前にランチは、K君が3人分用意してくれました。天むすの元祖「千寿」と愛知の地酒「関谷酒造」の「蓬莱泉」ワンカップです。これが旨いの何の…。これまた、名古屋に足を運んだ甲斐がありました(笑)。

名古屋・徳川美術館と庭園「徳川園」

 次に向かったのが徳川美術館と庭園「徳川園」です。大変、大変失礼ながら、口から泡を吹いて驚くような見たことがないようなお宝は展示されていませんでした。(尾張)徳川家代々の本当の秘宝は、蔵にあるんでしょうね(笑)。

名古屋・庭園「徳川園」大曽根の瀧

  徳川美術館では、どういうわけか、春季特別展が開催されていて、安藤広重の「東海道五十三次」と「木曽海道六拾九次」の全作品が展示されていました。山上君は静岡県出身で、「東海道五十三次」で描かれた蒲原(本当は雪は降らない)や三島や見附や舞浜などは馴染みの深い地元の名所なので、食い入るように見つめておりました。

名古屋のシンボル・テレビ塔

 次に向かったのが、現代の一番、名古屋らしい所ということで、久屋大通り公園にあるテレビ塔です。

 久屋大通り公園は、何となく、札幌の大通公園に似たイメージがありましたが、すっかり変わってしまい、公園の両脇は、超高級ブティックやレストランが並び、随分、敷居が高くなりました。

名古屋「御園座」懐かしい!

 そうそう大変なことが起きました。今回起きたトラブルの究極の極致です。K君が、スマホを無くしたことに気が付いたのです。恐らく、午前中に出掛けた秀吉生誕地の中村公園内で置き忘れたのではないか、ということで、公園事務所や近くの交番に電話しましたが、まだ届け出はありませんでした(いまだ探索中)。

 普通だったら、パニックになるのに、K君は肚が座っているというか、あまり動揺しません。仏教的諦念に近いんです。でも、早く見つかることを願っています。

 今回一緒に合流してくれた山上君は、夕方の新幹線で帰るというので、地下鉄の「栄」駅で別れました。一緒にお酒でも飲もうと思っていたのに本当に残念でした。

名古屋の居酒屋「大甚本店」閉まってたあ

 今回の小旅行は「トラブル続き」だった、と書いた通り、最悪だったのは、本日のハイライトだった「夜のお楽しみ」が日曜日だったせいなのか、予定していたお店が全て閉まっていたことでした。まず、K君が学生時代から通っていた、名古屋一の老舗居酒屋「大甚本店」(創業明治40年、伏見)が閉まっていました。そして、御園座近くの「大甚中店」も閉まっていました。

名古屋・伏見 バー「バーンズ」

 しかも、K君が1カ月も前から考え抜いてくれていた「二次会」用の老舗著名バー「バーンズ」までこの日は「貸し切り」で中に入れませんでした。

 どないなっとるんねん??? 

名古屋・串カツ屋

 仕方がないので、伏見駅の近くにあった串カツ屋さん「串かつでんがな」に飛び込みで入り、この後、名古屋駅にタクシーで向かいました。

名古屋ミッドランドスクエア42階「スカイプロムナード」800円のはずが

 K君が「どうしても見てもらいたい」ということで、駅前に聳え立つ超高層ビル「ミッドランドスクエア」の42階「スカイプロムナード」に連れて行ってくれました。(名古屋には超高層ビルは、駅前にある3棟ぐらいしかありません)

名古屋ミッドランドスクエア「スカイプロムナード」360度の視界で、名古屋城も見えます

  ここは入場料が800円ですが、K君の「身体障害者手帳」を提示すると、その付き添いまでロハで入場できたのです。

 周囲は若いカップルばかりで、お爺さんの二人連れは、何となく異様な雰囲気でした。

 でも、今回、山上君と再会したのは43年ぶりのこと。ということは、43年前は彼ら若いカップルはまだこの世に生まれてもいなかったに違いありません。感慨深いものがあります。

 2日目の16日(月)の話は次回に続きます。

細部に宿る意外な人脈相関図=平山周吉著「満洲国グランドホテル」

(つづき) 

 やはり、予想通り、平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社)にハマって、寝食を忘れるほど読んでおります。昭和時代の初めに中国東北部に13年半存在した今や幻の満洲国を舞台にした大河ドラマです。索引に登場する人物だけでも、953人に上ります。この中で、一番登場回数が多いのが、「満洲国をつくった」石原莞爾で56回、続いて、元大蔵官僚で、満洲国の行政トップである総務長官を務めた星野直樹(「ニキサンスケ」の一人、A級戦犯で終身刑となるも、1953年に釈放)の46回、そして昭和天皇の32回が続いています。

 私は、この本の初版を購入したのですが、発行は「2022年4月20日」になっておりました。それなのに、もう4月30日付の毎日新聞朝刊の書評で、この本が取り上げられています。前例のない異様な速さです。評者は、立花隆氏亡き後、今や天下無敵の「読書人」鹿島茂氏です。結構、辛口な方かと思いきや、この本に関してはかなりのべた褒めなのです。特に、「『ニキサンスケ』といった大物の下で、あるいは後継者として働いた実務官僚たちに焦点を当て、彼らの残した私的資料を解読することで満洲国の別のイメージを鮮明に蘇らせたこと」などを、この本の「功績」とし特筆しています。

 鹿島氏の書評をお読みになれば、誰でもこの本を読みたくなると思います。

 とにかく、約80年前の話が中心ですが、「人間的な、あまりにも人間的な」話のオンパレードです。「ずる賢い」という人間の本質など今と全く同じで変わりません。明があれば闇はあるし、多くの悪党がいれば、ほんの少しの善人もいます。ただ、今まで、満洲に関して、食わず嫌いで、毛嫌いして、植民地の先兵で、中国人を搾取した傀儡政権に過ぎなかったという負のイメージだけで凝り固まった人でも、この本を読めば、随分、印象が変わるのではないかと思います。

 私自身の「歴史観」は、この本の第33回に登場する哈爾濱学院出身で、シベリアに11年間も抑留されたロシア文学者の内村剛介氏の考え方に近いです。彼は昭和58年の雑誌「文藝春秋」誌上で激論を交わします。例えば、満鉄調査部事件で逮捕されたことがある評論家の石堂清倫氏の「満洲は日本の強権的な帝国主義だった」という意見に対して、内村氏は「日本人がすべて悪いという満洲史観には同意できません。昨日は勝者満鉄・関東軍に寄食し、今日は勝者連合軍にとりついて敗者日本を叩くというお利口さんぶりを私は見飽きました。そして心からそれを軽蔑する」と、日本人の変わり身の早さに呆れ果てています。

 そして、「明治11年(1878年)まで満洲におったのは清朝が認めない逃亡者の集団だった。満鉄が南満で治安を回復維持した後に、山東省と直隷省から中国人がどっと入って来る。それで中国人が増えるんであって、それ以前の段階でいうならあそこはノーマンズ・ランド(無主の地)。…あえて言うなら、満洲人と蒙古人と朝鮮人だけが満洲ネーティブとしてナショナルな権利を持っていると思います。(昭和以降はノーマンズ・ランドとは言えなくなったが)、ロシア人も漢民族も日本人も満洲への侵入者であるという点では同位に立つ」と持論を展開します。

銀座「大海」ミックスフライ定食950円

 また、同じ雑誌の同じ激論会で、14歳で吉林で敗戦を迎えた作家の澤地久枝氏が、満洲は「歴史の歪みの原点」で、「日本がよその国に行ってそこに傀儡国家を作ったということだけは否定できない」と糾弾すると、内村氏は「否定できますよ。第一、ソ連も満洲国に領事館を置いて事実上承認してるから、満洲国はソ連にとって傀儡国家ではない」とあっさりと反駁してみせます。そして、「それじゃ、澤地さんに聞きたいけど、歴史というものに決まった道があるのですか? 日本敗戦の事実から逆算して歴史はこうあるべきだという考え、それがあなたの中に初めからあるんじゃないですか?」と根本的な疑問を呈してみせます。

 長い孫引きになってしまいましたが、石堂氏や澤地氏の言っていることは、非の打ち所がないほどの正論です。でも、当時は、そして今でも少数派である内村剛介の反骨精神は、その洞察力の深さで彼らに上回り、実に痛快です。東京裁判で「事後法」による罰則が問題視されたように、人間というものは、後から何でも「後付け」して正当化しようとする動物だからです。内村氏は、その本質を見抜いてみせたのです。

 この本では、鹿島氏が指摘されているように、有名な大物の下で支えた多くの「無名」実務官僚らが登場します。「甘粕の義弟」星子敏雄や型破りの「大蔵官僚」の難波経一、満洲国教育司長などを務め、戦後、池田勇人首相のブレーンになり、世間で忘れられた頃に沢木耕太郎によって発掘された田村敏雄らです。私もよく知らなかったので、「嗚呼、この人とあの人は、そういうつながりがあったのか」と人物相関図が初めて分かりました。 

 難点を言えば、著者独特のクセのある書き方で、引用かっこの後に、初めてそれらしき人物の名前がやっと出てくることがあるので、途中で主語が誰なのか、この人は誰のことなのか分からなくなってくることがあります。が、それは多分私の読解力不足のせいなのかもしれません。

 著者は、マニアックなほど細部に拘って、百科事典のような満洲人脈図を描いております。細かいですが、女優原節子(本名会田昌江)の長兄会田武雄は、東京外語でフランス語を専攻し、弁護士になって満洲の奉天(現瀋陽市)に住んでいましたが、シベリアで戦病死されていたこともこの本で初めて知りました。こういった細部情報は、ネットで検索しても出てきません。ほとんど著者の平山氏が、国会図書館や神保町の古書店で集めた資料を基に書いているからです。そういう意味でも、この本は確かに足で書いた労作です。