傀儡国家の有象無象の複雑な人物相関図=平山周吉著「満洲国グランドホテル」

 ついに、ようやく平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社、2022年4月30日初版、3850円)を読み始めております。索引を入れて565ページの超大作。百科事典に見紛うばかりのボリュームです。

 この本の存在を知らしめて頂いたのは、満洲研究家の松岡將氏です。実は、本として出版される前に、ネット上で全編公開されていることを松岡氏から御教授を受けました(現在、閉鎖)。そこで、私も画面では読みにくいので、印刷して机に積読していたのですが、他に読む本が沢山あって、そちらになかなか手が回りませんでした。ついに書籍として発売されるということでしたので、コピーで読んでいたんではブログには書けない気がして購入することにしたのです。

 最初に「あとがき」から読んだら、松岡將さんが登場されていたので吃驚。ウェブ連載中にたびたび間違いを指摘されたそうで(笑)、著者からの感謝の言葉がありました。松岡氏は索引にも登場し、彼の著書「王道楽土・満洲国の『罪と罰』」等も引用されています。

 「あとがき」にも書かれていましたが、著者の平山周吉氏の高校時代(麻布学園)の恩師だった栗坪良樹氏(文芸評論家、元青山女子短大学長)が、松岡將氏の母方の従弟に当たるという御縁もあります。著者プロフィールで、平山氏は、「雑文家」と称し、本名も職歴も詳しく明かしていないので、「世界的に影響力のある」このブログでも詳しくは書けませんが(笑)、某一流出版社の文芸誌の編集長などを歴任されたそうで、「週刊ポスト」で書評も担当されています。

東銀座「創作和食 圭」週替わりランチ1500円

 振り返ってみれば、私の「満洲」についての関心は、松岡氏からの影響もありますが、知れば知るほど、関係者や有名人がボロボロ出てくる驚きがあり、大きな森か沼にはまってしまったような感じなのです。

 「ニキサンスケ」の東条英機、星野直樹、岸信介、松岡洋右、鮎川義介を筆頭に、吉田茂、大平正芳、椎名悦三郎、何と言っても「主義者殺し」から満映理事長に転身した甘粕正彦と張作霖爆殺事件の河本大作の「一ヒコ一サク」、731細菌部隊の石井四郎、満洲国通信社の阿片王・里見甫、「新幹線の父」十河信二、作家の長谷川濬、檀一雄、澤地久枝、評論家の石堂清倫、漫画家の赤塚不二夫やちばてつや、俳優の森繁久彌や宝田明、李香蘭、木暮美千代、歌手の加藤登紀子、指揮者の小澤征爾、岩波ホールの支配人だった高野悦子…と本当にキリがないほど出て来るわ、出て来るわ。

 もう出尽くしたんじゃないか、思っていた頃に、この「満洲国グランドホテル」に出合い、吃驚したと同時に感服しました。これでも、私もかなり満洲関係の本を読んできましたが、知らなかったことが多く、著者は本当に、よく調べ尽くしております。目次から拾ってみますと、「小林秀雄を満洲に呼んだ男・岡田益吉」「『満洲国のゲッベルス』武藤富男」「『満洲の廊下トンビ』小坂正則」「ダイヤモンド社の石山賢吉社長」「関東軍の岩畔豪雄参謀、陸軍大尉の分際で会社を65を設立す」「誇り高き『少年大陸浪人』内村剛介」…、このほか、笠智衆や原節子らも章が改められています。

躑躅

 キリがないので、最小限のご紹介に留めますが、小林秀雄を満洲に呼んだ岡田益吉とは、読売新聞~東京日日新聞の陸軍担当記者から、満洲国官吏に転じ、協和会弘報科長などを務めた人。東日記者時代は、永田鉄山参謀本部第二部長から、国際連盟脱退の決意を聞き、大スクープ。満洲時代は、「張作霖事件」の首謀者河本大作と昵懇となり、「張作霖の場合民間浪人を使ったので、機密が民政党の中野正剛らに漏れ、議会の問題になったので、今度(柳条湖事件)は現役軍人だけでやった。本庄繁軍司令官は翌年の3月、河本が本庄に告白するまで知らなかった」ことまで引き出します。

 「満洲の廊下トンビ」小坂正則とは、岡山県立第一商業を出た後、渡満し、満洲では、秘密警察的存在だった警務司偵輯室員と報知新聞記者などの二足の草鞋を履き、同郷の土肥原賢二大佐(奉天特務機関長)や星野直樹・総務庁長(間もなく総務長官と改称)ら実力者の懐に飛び込み、その「廊下トンビ」の情報収集力が買われ、諜報員と記者の職を辞しても、複数の嘱託として「月収3000円」を得ていたという人物です。

 まあ、人間的な、あまりにも人間的な話です。とにかく、この本を読みさえすれば、複雑な満洲人脈の相関図がよく分かります。(この話は多分、つづく)

「お互いさま」と首相御用達の銀座高級マッサージ店

 今朝の通勤電車で、隣りに座っていた中年女性が、極端な神経過敏症で、電車が揺れて、ほんの少し、肩が触れただけでも飛び上がるようにして、こちらを避けておりました。

 私だけでなく、向こうの隣りの男性とも少しでも触れると、小さな声を出して飛び上がるので、こっちも気が気でありませんでした。

 不可抗力なので仕方がないのですが、こちらも、なるべく、なるべく、中年女に近づかないように一睡もしないで、弁慶のように目をかッと見開いて、立ち往生じゃなかった、座り往生して踏ん張っていたら、すっかり疲れてしまいました。

 やっと、最寄りの駅に着いたので、降りようとすると、代わって私の席に座ろうとしたのが、目の前に立っていた、私の体重の3倍以上はありそうな太った30代の男性でした。

 降りる直前に後ろを振り返ったら、中年女は、また、ぎゃあ~と声にはならない声をあげて、他の席に移動していました。初めて、顔を見ましたが、眉毛と皺の区別が分からないくらいに、バッテンの形でくっついて、目が異様に細く、線引きできる感じでした。長い髪の毛には白いものが目立ち、中年というより、もう初老でした。

 「御苦労さま」としか言いようがありません。それとも「ご愁傷さまでした」と言うべきだったか。いや、正確には「お互いさま」だと思うんですけどねえ。

東京・銀座「吟漁亭」イワシ定食ランチ1050円

 さて、岸田文雄さんが昨年10月に内閣総理大臣に就任して、半年以上過ぎました。「可もなく不可もなく」といった感じでしょうか。正直、前政権と違って、あまり批判できるところが少ない気がします。

 安倍政権は、モリカケ問題や、近畿財務局元職員赤木さんの自殺、桜を見る会や黒川東京高検検事長の定年延長問題(結局、黒川センセイは賭け麻雀で失脚)等々、休む間もないほどスキャンダルのオンパレードでしたが、岸田政権は、その轍を踏まないように慎重な姿勢を貫いている感じです。

 で、岸田政権に関して「何か面白い記事がないかな」と探したところ、やはりありませんでしたが、首相の一日が一覧になっている「首相動静」を見ると、5月8日(日)にこんな日程が載っていました。

 午後1時52分、公邸発。
 午後2時7分、東京・銀座のリラクセーションサロン「クイーンズウェイ銀座並木通り店」着。マッサージ。
 午後4時4分、同所発。
 午後4時15分、東京・鍛冶町の「ヘア モード キクチ神田日銀通り店」着。散髪。
 午後6時6分、同所発。
 午後6時16分、公邸着。


 この後、「9日午前0時2分、先進7カ国(G7)首脳テレビ会議開始。」がありますから、岸田首相は、日曜日ですが、G7を控えて、マッサージに行ったり、床屋さんに行ったりして、力が入っていたことが分かります。真面目な人なんでしょうね。

東京・銀座のリラクセーションサロン「クイーンズウェイ銀座並木通り店」

 そこで、私も会社から近いので、昼休みに、銀座3丁目にあるリラクセーションサロン「クイーンズウェイ銀座並木通り店」なる店舗に行ってみました。時間がないので、前を通っただけで、中には入りませんでしたが、さぞかし、当日は、目付きが鋭いおじさんたちが、数人、見張っていて物々しい雰囲気に包まれていたのではないかと想像されます。

 値段を見ると、色んなコースがありましたが、ベッドでのボディケア・マッサージは、1時間で、9900円(税込)とのことでした。「銀座料金」を考えれば、相場かなといった感じです。

 時の最高権力者が通うお店なので、混雑しているのかな、と思ったら、店の前で若い女性が呼び込みをしていたので意外な感じでした。

東京・銀座「みゆき館」モンブランセット 1650円

 ランチは取ったのですが、まだお腹が空いていて(笑)、何か甘いデザートが食べたくなったので、「クイーンズウェイ銀座並木通り店」の向かいにあった喫茶店「みゆき館」に入り、モンブランとコーヒーを注文しました。

 昼休み残り15分間でしたので、少しゆっくりしたかったのですが、慌てて食べて、完食しました(笑)。

 ここのモンブランはとても美味しいのですが、「銀座料金」なのでそうしょっちゅう味わえません。必然的に客層も高いはずなのに、近くのお姉さまたちは、大きな声で元カレがどうした、だの聞きたくもない下品な会話に終始していていたので、這う這うの体で退散しました。

 世の中、いらない情報が多過ぎると思いませんか? えっ!?何?このブログも!?

意外にも残虐だった天智天皇

 週末はゆっくり休んだというのに、未だに風邪が抜け切れていません。えっ?もしかして???と言われそうなので、今朝、健康診断の際に、熱を測って頂いたら、35.4度しかありませんでしたよ。食欲も味覚も嗅覚もあり、こんな冷血人間がコロナでもないですよね?

 まだ本調子といかないので、読書が進まず、購入した本や書籍が机の上に山積しております。特に雑誌が読めません。いつも定期購読している「歴史人」は、4月号「最新研究で、ここまでわかった!古代史の謎」特集号と、5月号の「決定!最強の城ランキング」と、6月号の「沖縄戦とソ連侵攻の真実」の3冊と「歴史道」Vol.20「古代天皇の謎と秘史」特集号とVol.21「伊能忠敬と江戸を往く」特集号の2冊、計5冊も未読です。

 この中で、やっと「歴史人」4月号「最新研究で、ここまでわかった!古代史の謎」特集号を読み終えるところです。いつもの通り、「歴史人」は情報量が満載というか、満杯で、とても全てを頭の中で整理できません。よく言えば、「玉石混交」ですが、悪く言えば節操がない(笑)。ただ、嬉しいことに、最新の学術研究の成果が出て来るので、感心します。逆に言えば、いまや歴史解釈がどんどん変化しているので、単行本や教科書では間に合わないのです。雑誌を刊行しなければならないほど、それだけ学説が更新されているということなのです。

 玉石混交の節操なし、というのは「邪馬台国論争」です。最初に、高島忠平・佐賀女短大元学長の「邪馬台国の真実」を読むと、「女王・卑弥呼が統治した3世紀の倭国は九州にあったとするしかない」「ヤマト王権は5世紀になっても、女王国のように一元的に統率・支配する独自の個人官僚機構を成立していなかった」「纏向(まきむく)遺跡の被葬者が卑弥呼のはずがない」と断定されているので、これで「邪馬台国=北九州説」決定、と私なんか思ってしまいました。

 ところが、次の武光誠・元明治学院大学教授の「女王卑弥呼の謎と実像」を読むと、「現在、考古学者の半数以上が邪馬台国大和説を支持。大和説と九州説の勢力比は、7対3程度になって来た」「邪馬台国=大和説なら卑弥呼に比定し得る女性は3人いる。一人は、仲哀天皇の妃の神功皇后。二人目は崇神天皇を支えた巫女の倭迹々日百襲姫命、三人目が垂仁天皇と景行天皇の時代の倭姫命であある」と断定するのです。

 ええい、どっちなんじゃあい!?

 いくら、3対7と不利だろうが、私は3世紀という時代を鑑みて、何と言っても九州説を取ります。

 もう一つ、7~8年前だったか、「聖徳太子が教科書から消える?」と新聞などで話題になりましたが、最近ではやはり、謚(おくりな)である「聖徳太子」単独で登場することは少なくなり、せめて「聖徳太子(厩戸皇子=うまやとのみこ)」か、「厩戸皇子(聖徳太子)」の形で多く登場するようです。何故ならかつて言われていた「聖徳太子超人説」(生後4か月で話をすることができた。5歳で推古天皇の即位を予言した。11歳で30人以上の子どもが言うことを漏らさずに記憶した…)は、現代科学と照らし合わせて否定されつつあるというからです。

 最後に、私の世代では「大化の改新」としか習いませんでしたが、今では「乙巳の変」と呼ばれる645年の政権クーデターの話は考えさせられました。私の世代では、「蘇我入鹿=悪党権化の塊」「中大兄皇子(天智天皇)=善人・名君」のイメージで固まって、それで終わりでしたが、遠山美都男学習院大等非常勤講師の「蘇我氏は希代の悪人か、変革者か?」を読むと、蘇我入鹿が可哀想に思えてきました。

 入鹿が、厩戸皇子の後継者・山背大兄王(やましろおおえのみこ)を襲って一族を滅ぼしたのは、山背大兄王が用明天皇の系統だったためで、入鹿は、敏達天皇系統のリーダー的存在だった皇極天皇(女帝)の命令に従ったに過ぎなかったといいます。

 乙巳の変では、今度は入鹿が皇極天皇の目の前で、中大兄皇子によって殺害されますが、敏達天皇系統(敏達統)内での政権抗争に巻き込まれた結果でした。蘇我入鹿らは敏達統の古人大兄皇子を次期天皇に押していたのに対し、中大兄皇子らは、敏達統の軽皇子(かるのみこ=孝徳天皇)を押していたからです。となると、黒幕はこれまた皇極天皇で、入鹿なんぞは将棋の駒のように利用していたに過ぎなかったかもしれません。

 入鹿は殺される前に「私は無実です」と皇極天皇に訴えたといいますから、可哀想になったのです。

 中大兄皇子は天智天皇として即位しますが、これまた恐ろしい。まず、古人大兄皇子を謀反の疑いで処刑し、自陣に取り組んでいた蘇我倉(そがのくら)山田石川麻呂を自害に追い込み、傀儡に打ち立てた孝徳天皇を難波宮の置き去りし、孝徳天皇の皇子である有間皇子まで謀反の疑いで処刑してしまうのです。

 いやはや、熾烈な権力闘争とはいえ、天智天皇は、ここまで残虐な御方だったとは…、改めて、感慨に耽ってしまいました。

【追記】

 卑弥呼と対立した狗奴国の男王の名前は卑弥己呼(ひみここ)だったといいます。えっ!?です。誰が付けたのでしょう? 邪馬台国の「や」には、よこしまな「邪」の字が充てられているし、卑弥呼だって、「卑しい」という侮蔑言葉が盛り込まれています。これらは、中国大陸の歴史書「魏志倭人伝」などに登場することから、中国人がそう呼んだか、名付けたような気がしてなりません。いわゆる中華思想ですから、日本なんぞは「東夷」という遅れた蛮族に過ぎないという思想です。

「NHKスペシャル 見えた 何が 永遠が~立花隆 最後の旅~」は隔靴搔痒でした

 「やっちまったなあ」ーGWの後半は、風邪で丸々3日間、寝込んでしまいました。熱は1日で下がり、味覚や臭覚や聴覚や第六感や嗅覚まであり、今はかなり回復に向かっていますから、例の、あの、そのお、世界中で知れ渡っている流行り病ではないと思います。が、罹った5月3日はフラフラで、朝起きて、軽くパンとサラダを食べた後、直ぐに就寝。なかなか起き上がられず、13時半になってやっと、ズルズルと布団から這いだし、ヤクルト1本飲んでまた就寝。夕方は17時過ぎに起きて、御素麺を頂いてから、もう18時にはおやすみなさいでした。こんなことは数年ぶりだと思います。

 考えられる原因は、GW前半に、自分が老人だということを忘れて、連日のように1万5000歩近く歩き回って疲れが溜まり、免疫抵抗力が落ちてしまったこと。それでもまだGW後半が残っていて、何かあっても誰にも気兼ねなく休めるので、身体が油断していたことが挙げられます。

 結局、本も1ページも読むことが出来ず、本当に何もできませんでしたが、良い休養が取れたと思い込めば、貴重な時間を有効に使えたことになります。モノは考えようです。この間、酒も煙草ものまず、髭も剃らず、博打もせず、誠に品行方正でした。

東京・新富町「448 リベルマン」ポークジンジャー1500円 「448」は「洋食屋」と読むらしい。それなら、渓流斎は「4871」と書いて、「心配ない」と呼んでもらいます。登録商標申請中(笑)。

 さて、寝込んでしまったお蔭で、先週の話になってしまいます。4月30日に放送された「NHKスペシャル 見えた 何が 永遠が~立花隆 最後の旅~」は大いに期待したのですが、どなたかの意向が反映したのか?、一番肝心なことが分からず、隔靴掻痒の感のままで終わってしまいました。

 私が口癖のように言っている「何が報道されたのかというよりも、何が報道されなかったのかの方が重要」ということの典型でした。

 昨年4月30日に80歳で亡くなったジャーナリストの立花隆さんは、死の間近になって、秘書を務めていた実妹菊入直代さんに対して、「墓も戒名もいらない。遺体はごみとして捨ててほしい。集めた膨大な書籍は一冊残らず古本屋で売ってほしい」と言い残していたそうです。

 この番組では、「立花隆番」として17年間、一緒に教養番組をつくって来たNHKの某ディレクターが、立花氏と出会ってから亡くなるまでを回想する形で進行します。「猫ビル」の愛称があった東京都文京区にある立花氏の書斎兼書庫には5万冊を超える膨大な書籍が棚に埋まっていたのに、最新映像となると、その棚には一冊の本もなく、棚だけが寂しそうにしていました。

 その映像を見てショックにならなかったのは、その2週間以上前に新聞で、立花氏が「自身の名前を冠した文庫や記念館などの設立は絶対にしてほしくない」「立花隆が持っていた本ということではなく、本の内容に興味を持った人の手に渡ってほしい」などと言い残していたという記事を読んでいたからです。さすが、ですね。母校に自分の名前を冠した記念文庫を設立した人気作家さんとは違うなあと思ってしまいました。

 ただ、古本屋さんが何処なのか、その記事には書かれていなかったので、NHKに期待したのですが、番組でも明かされませんでした。恐らく、「古本屋が特定されれば、殺到されて困る」と、誰かの意向が働いたのでしょう。私だって、正直、立花隆の蔵書なら欲しいぐらいですから(笑)。でも、多分、神保町の古本屋に違いないでしょう。彼は毎週のように通っていたといますから。…暇を見つけていつかまた「神保町巡り」をしたいと思ってます。

 もう一つ、この番組でフラストレーションになったのは、彼の墓所が明かされなかったことでした。結局、「樹木葬」となったようで、その場所も特定されて、映像として映し出されましたが、最後まで場所までは明かされませんでした。私は掃苔趣味があるので、場所が分かれば一度はお参りしたいと思っていたのに…。

 あと一つだけ。この番組のタイトルに使われている「見えた 何が 永遠が」は、私も何度かこのブログで取り上げたことがあるフランスの象徴派詩人アルチュール・ランボーの作のはずなのに、ランボーの「ラ」の字を出て来ないのはどうしてだったのかな?

 まあ、テレビという超マスメディアの影響力は大きいので、個人情報保護に細心の注意を払うことを最優先したのでしょう。

「448 リベルマン」から歩いて5,6分にある「新富座跡」の看板=現京橋税務署

 番組内では、色々な「立花隆語録」が出てきましたが、印象に残ったものだけ引用させて頂きます。(ただし、換骨奪胎です)

 ・霊魂はない。人間死んだら無に帰る。

 ・人間は死すべき動物である。どこかで死を受け入れるスイッチを切り替えるしかない。(以上は立花隆の死生観です。でも、死後、天国に行くか煉獄に行くか、西方の極楽浄土か東方の浄瑠璃世界に行くか、それとも地獄に行くのか、といったことを信じている人はその信仰を続けていいと私は思っています。)

 ・知的営みは地下で繋がっている。人間の知識の体系も繋がっている。しかし、知識が細分化し過ぎて、専門家は断片化した知識しか知らない。専門家は総合的なことを知らない。(メディアに頻繁に出演されるコメンテーターと呼ばれる専門家の皆さんにも当てはまるかもしれません。)

 ・記録された歴史などというのは、記録されなかった現実の総体と比べたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に吞み込まれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑み込まれてある。(「エーゲ 永遠回帰の海」)

・「すべてを進化の相の下に見よ」

六本木で葛飾北斎展を見て、神谷町で想い出に浸る

 連休の合間、5月2日は月曜日で、本来ならお仕事なのですが、有休を取得して東京・六本木のサントリー美術館まで足を運び、「大英博物館 北斎 ―国内の肉筆画の名品とともに―」展(1700円也)を観に行って来ました。

東京ミッドタウン(六本木)ガレリア

 平日だから空いているんだろう、という考えは甘かった。結構、暇人が多く、入るのだけでも長い行列で15分ぐらい待たされ、会場では展示物をそんなに間近に観たいのか、これまた、整然と一列になっての大行列です。私は公称180センチと背が高いし、後ろからでも十分観られるので、そんな律儀な日本人の列の後ろから、自分のペースで気に入ったものだけゆっくり眺めることにしたので、少しだけストレスが緩和されました。

東京ミッドタウン(六本木)

 当初は、出掛けるつもりは全くなかったのですが、テレビの歴史番組で葛飾北斎(1760~1849年)特集を見たら、急に、目下開催中の展覧会に行きたくなってしまったのです。

 番組では、勝川春朗をはじめ、北斎、宗理、為一(いいつ)、画狂老人、卍など30数回も画号を変え(弟子に売ったり、タダであげたりしたとか)、90年の生涯で何と93回も引っ越しした、といった逸話をやってました。引っ越しが多かったのは、掃除が嫌いで、今で言う「ゴミ屋敷」状態になってしまったので逃げるように引っ越ししたようです。

為朝図 葛飾北斎 一幅 江戸時代 文化8年(1811) 大英博物館 1881,1210,0.1747 © The Trustees of the British Museum(撮影:渓流斎)

 絵手本を3900点以上掲載した「北斎漫画」を出版したのは55歳の時。代表作の「冨嶽三十六景」のシリーズを書き始めたのが72歳というのですから驚きです。(数え年)

 晩年は、信州・小布施の豪商高井鴻山の招きで、江戸から240キロの道程を4度も通い、「男浪図」「女浪図」や「八方睨み鳳凰図」(岩松院蔵)などを完成しています。1849年、浅草の遍照院の仮住まいで、数えで90歳で亡くなりますが(墓所は元浅草の誓教寺)、直前に「あと5年長生き出来たら本物の画工になれただろう」と叫んだという、飽くことがない探求心は有名です。

 番組ではやっていませんでしたが、これだけの大天才なのに北斎の出自ははっきりしていません。江戸・本所割下水で川村某(職業不詳)の子として生まれたと言われ、幼名を時太郎、後年鉄蔵と改め。4、5歳の頃、一時、幕府御用鏡師中島伊勢の養子となったといわれます。詳細は不明ですが、本名は中島鉄蔵さんということでしょうか。天賦の才能があったとはいえ、かなりの稀に見る努力家だったのでしょう。

 実は、これでも、私自身は、「太田浮世絵美術館」や「すみだ北斎美術館」の常設展をはじめ、各地で開催された「北斎展」にはかなり足を運び、北斎の作品はかなり観ている方だと思っていました。今回のサントリー美術館での北斎展は大英博物館所蔵品ということでしたので、それほど期待していなかったのですが、開けてみたら吃驚ですよ。日本国内所蔵の作品より、量質とも遥かに充実していて、海外が日本を凌駕しているのです。これは、北斎作品の膨大なコレクターだった外科医ウィリアム・アンダーソン(William Anderson、1842~1900年)や小説家アーサー・モリソン(Arthur Morrison、1863~1945年)らとジャポニスムの流行のお蔭です。

冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏 葛飾北斎 横大判錦絵 江戸時代 天保元~4年(1830~33)頃 大英博物館 2008,3008.1.JA © The Trustees of the British Museum 肉眼で見えるはずがない5000分の1秒の速さでシャッターを切った時に見える画像だそうです。やはり、北斎は天才だ!(撮影:渓流斎)

 さすが、ゴッホやマネ、モネらフランスの印象派の画家たちに多大な影響を与えたジャポニスムを代表する「世界の北斎」だけあります。少し大袈裟かもしれませんが、北斎は、ダビンチやミケランジェロらと肩を並べるのではないでしょうか。

 この北斎展は、確かに一見の価値があります。特に、北斎は風景画で有名ですが、「花鳥」作品には目を見張るものがありました。何故なら、花と鳥に限って、北斎は、伊藤若冲のように「細密画」のように描いているからです。

 人物画となると、役者絵ではなくて風景画の中に登場する人物は、細密画ではなく、目と鼻と口だけで省略したようにあっさり描いています。「どうしてなのかなあ?」と思いながら私は観察していました。この花鳥画と人物画の違いー。人物はいい加減に描くのに、花鳥は綿密に描くのは何故か?ーもしかしたら、これは、北斎の研究家でさえ今まで気が付かなかった私の新説かもしれない、とニヤニヤしながら観ておりました(笑)。

東京・六本木 brassrie “Va-tout”  魚ランチ1200円

 さて、広い東京ミッドタウン内のサントリー美術館(そう言えば、初訪問かな?赤坂のサントリー美術館は何度も行きましたが)を出て、目指すはランチです。既に、六本木駅近くの「シシリア」に決めておりました。あの森まゆみ著「昭和・東京・食べある記」(朝日新書)に出ていた「四角いピザ」と「きゅうりのグリーンサラダ」を食べるためです。

 そしたら、アッジャパー、本日は青天なりではなく、本日は閉店なりでした。

 仕方がないので、当てもなく、東京タワーが前方に見える道(319号線)を真っすぐ10分近く歩いたら、ブラッスリーが見つかり、そこでランチすることにしました。仕方ない、なんて言っちゃ駄目でしたね。白身魚のソテーでしたが、写真の通り、銀座並みの価格で、量が少なくて参りました(苦笑)。店員さんは凄く感じ良かったですけど。

今最も日本で注目されている東京・狸穴の在日ロシア大使館

 店を出て、そのまま、真っ直ぐ、東京タワー方面を歩いて行ったら、警察官の数が多くなり、何事かと思ったら、今現在、日本では最も注目されている狸穴の在日ロシア大使館がありました。ここに出たんですね。

在日ロシア大使館前は、数人のデモと物々しい警戒

 ロシア大使館や、その向かいの外務省外交史料館には何度か取材で来たことがあるので、場所は知ってました。六本木駅からだと20分ぐらいでしょうか。私は、この辺りまでは、いつも神谷町駅から歩いてきたので、飯坂交差点を左折して神谷町に向かいました。

 そう、神谷町は私にとって、とても感慨深い場所なのです。もう半世紀近い昔、学生時代に付き合っていた彼女が住んでいたので、よく遊びに行き、お金がないので、この近くの東京タワーの芝公園でよくデートしたものでした。

 神谷町は、彼女の祖母の家で、千葉県に両親ら家族と住んでいた彼女は、都内の大学に通うため、おばあちゃんの家に下宿していたのでした。おばあちゃんの趣味は詩吟でよくうなっていました。

実に懐かしい東京・日比谷線「神谷町駅」

 もう時効の話なので、神谷町に来たついでに、その彼女のおばあちゃんの家を探してみました。この辺りはもう昔の面影はなく、すっかり変わってしまいました。再開発されて高層マンションやビルが立ち並ぶようになりました。駅から5、6分だったので忘れるわけないのですが、いくら探しても見当たりませんでした。恐らく、現在、高層ビルを建築中のあの辺りがそうだったかもしれません。

 半世紀近く年月が経てば仕方ないでしょう。淡い青春時代の思い出が蘇ってきました。でも、あまり後ろ向きだと駄目ですね。北斎先生を見習って、もう少し頑張りますか。何しろ、「富嶽三十六景」は、70歳代初めの傑作なんですから!