自分に正直であれ

多摩美術大学教授で洋画家でもあるT氏が、美術評論家のN氏を前にして、こう言いました。
普段は無口のT氏ですが、酒席で酔いが回ったのか、つい、本音が出てしまいました。

「現代アートとか、現代美術とか、名前を付けるのはあなたたちの仕事かもしれないが、我々は自分に正直であればそれでいいんです。何かを表現したくて、それが作品になるわけで、その評価まで気にしていては何もできません。あるがままの自分に正直になるしかないのです。だから、結果はどうでもいいのです。自分自身は、芸術家だろうが、美術家だろうが、画家だろうが、アーティストだろうが、自分で名乗りたい名前を名乗ればそれでいいのです。他人から名前を付けてもらうことはないのです。どうせ、評論家は責任を取らないでしょう?そう、評論家は責任を取らないのです」

いつも威張っているN氏は、この時ばかりは、ぐうの音も出ませんでした。

小泉淳作美術館 中札内村

今日は、北海道河西郡中札内村にある『中札内美術村』内の「小泉淳作美術館」に行ってきました。

2002年に、京都・建仁寺法堂の天井画「双龍図」を完成した「アトリエ」が、中札内村で廃校になった小学校の体育館だったことから、ここに小泉画伯の美術館ができたようです。天井画は、縦20m、横30mぐらいある巨大な墨絵です。制作の模様は、2002年にNHKの「日曜美術館」で放送され、館内でもそのビデオが流れていました。

美術館には、その下絵の50号ぐらいの大きさと100号ぐらいの大きさの2点が飾っていましたが、それだけでも随分と迫力がありました。2匹の大きな龍が絡むようにして大空を飛翔している図です。2匹はいわゆる「阿吽」の像です。こういう極めて難しい画材を、墨だけで描いているのですから、本当に涙が出るくらい感動してしまいました。

略歴によると、画伯は1924年生まれで、最初は慶応大学文学部に入学したのですが、絵の道、捨てがたく、東京美術学校(東京芸大)に入り直しているのです。最初は、ルオーの影響で、絵の具を厚く塗りたくった洋画でしたが、日本画に転じ、世に認められたのは何と50歳を過ぎてからです。1977年、53歳の時、「奥伊豆風景」が山種美術館賞を受賞します。

それでも、どこの画壇やグループにも所属せず、フリーで孤高として画業を続けてきたところが素晴らしい。誰でもできないことです。若い時は、絵だけでは食っていけず、工芸やデザインの仕事もしていたようです。70歳の時、奥さんに先立たれ、娘さんも嫁いでいたので、現在、鎌倉で一人暮らしです。エッセー集「アトリエの風景」(講談社)を読むと、絵だけではなく、文才にも恵まれていることが分かります。

いつか、画伯にお会いしたいなあ。そして、京都の建仁寺に行って、本物の「双龍図」を見に行きたいと思います。

有名は無名に勝てない

大正から昭和にかけて活躍した陶芸家、河井寛次郎(1890-1966年)の言葉です。

1921年、第1回創作陶磁展覧会で「陶界の一角に突如彗星が出現した」と絶賛された寛次郎は、次第に自分の作風に疑問を感じて一時、陶芸界から離れたことがありました。その後、1926年に柳宗悦、濱田庄司らとともに「日本民藝美術館」を設立し、無名の庶民が作った陶器に着目し、一気に民芸運動にのめりこんでいくのです。

寛次郎の素晴らしさは、アンドレ・マルローをはじめ、世界の錚錚たる知識人に賞賛されたにもかかわらず、人間国宝や文化勲章など一切の名誉を拒絶したことです。

そんじょそこらの並大抵の人間ではなかなかできるものではありません。