見逃せません「創立150年記念特別展 国宝」=東京・上野の東京国立博物館

 東京・上野の東京国立博物館で開催中の「創立150年記念特別展 国宝」(12月11日まで)を観に行って参りました。

上野「東京国立博物館」

 未だコロナ禍のため、インターネットで、日時指定の「事前予約」でしか入れないので、申し込みサイトにアクセスしたところ、まず、土日の週末はあっという間に、既に完売、祝日も駄目。平日は、一応仕事に行っているので、仕方がないので、仕事が終わった金曜日の夜に予約し、その通り、行って参りました。(金、土は午後8時まで開館)

 随分、人気あるんですね。メディアはNHKと毎日新聞が主催なんですけど、大衆の情報収集能力は凄いものです(笑)。でも、庶民から言わせていただくと、観覧料一般2000円は高過ぎますよね。どなたかが新聞に投書してましたけど、東京国立博物館が所蔵する国宝を展示するわけですから、作品を運搬する運送料もそれ程かからない。第一、輸送で保険をかけることもない。どうしてそんなに高いのか?といった疑問は、私も同感してしまいました。

 「国宝展」の触れ込みは、「史上初 所蔵する国宝89件を全て展示」と「明治から令和までの東博150年の歩みを追体験」です。まず、前者の「国宝89件」は日本中の博物館の中で最大のコレクションです。(うち19件が刀剣)国宝は全国で1131件ありますが、東博でしか観られないのなら、この機会は逃せません(途中入れ替えあり)。

上野「東京国立博物館」金剛力士立像

 もう一つの「東博150年」ということは、「鉄道150年」と全く同じ明治5年に歴史が始まったということになります。薩長土肥の新政権が明治維新を起こしてわずか5年で鉄道を新橋~横浜間に敷設したことは驚愕的ですが、同じように、わずか5年で、身分の差がなく一般市民に美術工芸品を公開する「ハコ」をつくるという思想を現実化させたということも感心すべきだと思います。これは、初代館長を務めた元薩摩藩士で、幕末に英国留学して大英博物館などを体験した町田久成の功績が大きかったことでしょうが、町田一人だけでなく、当時の廃仏毀釈令によって仏像や仏具などが破壊されたり、海外に二束三文で売られたりした時代背景もあったかもしれません。同時に、幕末から明治にかけてパリやウイーンなどで開催された万国博覧会をきっかけにジャポニスムがブームになり、全国から日本文化の粋を集める博物館創設が喫緊の課題だったことでしょう。これも、背景には、欧米列強に負けないように、もっと好意的に言えば、欧米列強の植民地にならないよう「富国強兵」の国家主義思想があったかもしれません。

上野「東京国立博物館」金剛力士立像 12世紀・平安時代

 さて、「国宝展」です。事前にネット予約したのに、「平成館」の入り口付近で雲霞の如く人が並んでいるのには吃驚しました。そして、人が列をつくって並んでいるのに、「優先券」か「スポンサー招待券」でも持っているのか知りませんけど、脇からスイスイ入場する輩が何人も何人もいて、少し腹が立ちました。

 10分ぐらい並んでやっと入場できましたが、会場内も空いているとは言えず、とぐろを巻く程ではありませんでしたが、やっと二列目の遠くから拝見できる程度でした。小生は背が高いので何の苦も感じませんでしたが。

上野「東京国立博物館」 菱川師宣「見返り美人図」11月13日まで展示

 写真を使わせて頂いている「金剛力士立像」と「見返り美人」は撮影オッケーのものですから、盗み撮りしたものではありません(笑)。

 私は東博にはかつて何度も足を運んでおりますので、何点かの「国宝」は何度も拝見しておりますが、改めて感心したのは、法眼円伊筆「一遍聖絵 巻第七」(1299年)(※鎌倉時代なのに、ほとんど劣化せず色彩が鮮やかで描写も緻密でした)と渡辺崋山の「鷹見泉石像」(1837年)(※鷹見泉石は古河藩家老。以前、古河市の城下町址を散策したので懐かしい。渡辺崋山は、冤罪の「蛮社の獄」で切腹。「門下生3000人」と言われた儒者の佐藤一斎も、「南総里見八犬伝」の滝沢馬琴も崋山を擁護しなかったとドナルド・キーン著「渡辺崋山」に書かれていたことを思い出しました)でした。

 写楽の「三代目大谷鬼次の江戸兵衛」などは重要文化財に指定されていましたが、浮世絵では最も有名な北斎の「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」が国宝にも重文にも指定されていなかったことは意外でした。

三門とは? 禅宗の名僧とは?=「歴史道」23号「仏像と古寺を愉しむ」特集

  外国人観光客の受け入れ制限緩和や全国旅行支援とやらで、銀座の街は、今や、お上りさんと外国人が際立って目立つようになりました。

 今朝の東京の気温は大体16度ぐらいでしたが、どうみても還暦を越えていそうな髭をたくわえたコーカサス系の外国人男性が、半袖のTシャツ一枚という真夏のような恰好で、ニコニコしていたので吃驚しました。こっちは、寒くて、中にベストまで着込んでいましたからね。

◇◇◇

 さて、「歴史道」23号「仏像と古寺を愉しむ」特集を読了しました。この手のムックは、判型がA4判に近い大きさなので、電車の中で読むにはちょっと勇気がいります。電車の中で大きな本を広げて読んでいる人は、まず見たことがありません。いるとしたら私ぐらいなものです(笑)。でも、私も分別が付き過ぎたので、家の中で静かに読むことにしたら、結構読むのに時間が掛かってしまいました。

 仏像の見方や、古寺巡礼に関する本はこれまで結構読んできましたが、やはり、奥が深いんですね。このムックで初めて知ることも多かったでした。

 例えば、お寺の本堂に入る前に大抵、三門(山門)がありますが、これは「空」「無相」「無願」の三解脱の象徴だといいます。「空」「無相」「無願」は仏教思想の根幹を成すものですから、もし御存知でなければ御自分で調べられたら良いと思います。

 私自身、自分なりにかなりの古寺名刹をお参りし、基礎的な仏教の知識や宗派や名僧について知っているつもりではありましたが、恥ずかしながら、このムックで私自身、多くのことを教えられました。

 まず、日本で初めて、国産独自の仏教宗派を開いたのは平安末期、法然(1133〜1212年)の浄土宗(1175年)だと思っておりましたが、史実はその半世紀以上前の良忍(1072〜1132年)の融通念佛宗(1124年、総本山=大阪市平野区の大念佛寺)でした。

 名僧については、特に禅宗関係で知らない人が多かったです。(以下、独自に調べたことも敷衍して書いております)

  臨済宗(達磨から6代を経た唐末の宗祖・臨済義玄が開いた)は、鎌倉時代に栄西が中国から持ち帰って開祖となり、京都に建仁寺などを建立したことは知っておりましたが、その後、様々な宗派に分かれて栄西派は衰えていったといいます。その後、室町時代になって、「応燈関」と呼ばれる3人の傑出した禅僧が現れ、復興し、現代までその隆盛がつながっているというのです。

 「応燈関」というのは、大応国師・南浦紹明(なんぽう・じょうみょう=1235~1309年)と大燈国師・宗峰妙超(しゅうほう・みょうちょう=1282~1337年)と無相大師・関山慧玄(かんざん・えげん=1277~1360年)の3人の名僧のことです。

 南浦紹明は、京都の大徳寺を開山した宗峰妙超の師です。その宗峰妙超は、花園上皇から自身の離宮を禅苑にするよう依頼されたのですが、病が重篤で、代わりに高弟の関山慧玄を推薦します。その関山が開山したのが京都の妙心寺です。

 臨済宗は現在15派に分かれており、全国に約6000の寺院がありますが、このうち約3500と半数以上が妙心寺派の寺院が占めるといいます。そして、京都の大本山妙心寺は、臨済宗系では最大規模の寺院だというのです。また、現代の臨済宗は、江戸中期の妙心寺派の白隠慧鶴(はくいん・えかく)の系統に連なるというのです。白隠といば、「禅画家」としてその名を最初に知ってしまったので、「えろうすんまへん」という気持ちです。

 つまり、白隠がいなかったら、今の臨済宗はなかったと言えるかもしれません。いわば中興の祖です。ということは、いくら宗祖や開祖が立派で偉大でも、その後を継ぐ弟子たちが大したことがなければ、その宗派は衰えてしまうということになりますね。

 また、曹洞宗についてですが、道元が中国の宋から持ち帰り宗祖となり、越前に大本山永平寺を開いたことは知っておりましたが、もう一人、大事な名僧がおりました。教団を全国展開した瑩山紹瑾(けいざん・じょうきん=1268~1325年)です。曹洞宗では道元は「高祖」、瑩山は「太祖」と呼ばれるようです。ですから、曹洞宗の場合、大本山は道元の開いた永平寺のほかに、もう一つ、瑩山が開いた總持寺があるというわけです。總持寺は当初(1321年)、能登(石川県輪島市)に建立されましたが、明治になって横浜市鶴見に移転します。

◇西瓜も蓮根も筍も隠元禅師のお蔭

 明治になって、新政府は廃仏毀釈を断行し、それでも容認した仏教・寺院は「13宗56派」あります。その13宗の中で最後に開宗したのが、江戸初期、1661年の黄檗宗です。こちらも禅宗系で開祖は中国・明から招へいした隠元隆琦(いんげん・りゅうき=1592~1673年)です。大本山萬福寺を京都の宇治に建立します。

 隠元禅師が、インゲン豆を日本にもたらしたことは知っておりましたが、このほかに、スイカやレンコン、タケノコまでもそうだったんですね。また、急須を使った煎茶文化も黄檗宗を通して広まったといいます。

 大変勉強になりました。

本当に懐かしいサン=サーンスと「アルルの女」

 本日の読売新聞を読んでいたら、空木慈園著「サン=サーンスをもう一度」という本の広告が目に入って来ました。大変失礼ながら、この本に興味を持ったわけではなく、「サン=サーンス」の名前です。本当に懐かしい。

 今でこそ、ほとんど聴かなくなりましたが、もう半世紀以上も昔の私が小学生時代、毎日のように聴いたものです。東京郊外の小学6年生。当時、私は、代表児童委員会委員長兼放送部の部長で、お昼に2、3人と一緒にレコードを掛ける「係り」を仰せつかっていました。この時、曲を紹介するDJ役もです。放送室に給食を運んで、曲の合間に食事しますが、当時は「特権」のような感じで嬉々として楽しんだものでした。

 曲は、演歌や流行歌やジャズやロックは御法度でした(笑)。やはり、子どもの情操教育に相応しいクラシックです。その中でも、ベートーヴェンやマーラーやシュトックハウゼンのようなちょっと肩肘を張って聴くような曲ではなく、レストランのBGMのような小品です。その代表が、サン=サーンスだったのです。

 「初めにお聞かせするレコードは、サン=サーンスの『白鳥』です」

 サン=サーンスと言えば、「白鳥」。この曲を何度掛けたことでしょうか。

 他に、覚えているのは、レハールのワルツ「金と銀」、そしてエルガーの「愛のあいさつ」(チェロ演奏)、ヨハン・シュトラウス「美しき青きドナウ」、グリーク「ペールギュント」組曲「朝」…。これらも毎日のように掛けていました。今では、YouTubeで検索すれば、簡単に聴くことができますね。今の小学生諸君は、どうしているのでしょうか? やはり、ダウンロードした曲をそのまま流したりしているのかなあ?

東京・一ツ橋

  そう言えば、思い出しました。下校時刻になると、放送部員は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」のラルゴ(家路)を掛けるのも仕事でした。

 「下校時刻になりました。用のない生徒は早く家に帰りましょう」

 それでも、帰らない生徒に対しては、

 「運動場の鉄棒近くでおしゃべりしている生徒、早く家に帰りましょう」

 などと、偉そうに注意したものです。

 私の通った小学校は廃校となり、今では影も形もありません。こうして、思い出だけが残っています。

東京・一ツ橋

【追記】

 あんりまー。下校時に掛けた音楽を「ドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』のラルゴ(家路)」と書きましたが、大間違いでした。これは、中学校の時の下校音楽でした!

 では、小学校の時の下校音楽は何だったのか?思い出したら、メロディーが浮かんで来ました。でも、曲名が分かりません。そこで、小学校時代の同級生Gさんに聞いてみました。私が下手なピアノでメロディーを演奏して聴いてもらいました。しかしながら、彼女も思い出せません。

 最後の手段。スマホで「クラシック、フルート、名曲」で検索してみました。その通り、フルートの名曲だったからです。そしたら、何曲か候補が出てきましたが、そのリストの中で直ぐピンと来て、やっと思い出しました。

 ビゼーの「アルルの女」組曲の「メヌエット」でした。

 サン=サーンスよりもこっちの方が胸に沁み渡り、涙が出るほど懐かしくなりました。

 音楽は童心にかえらせてくれます。

先週末は悪夢でした=触らぬ神に祟りなし

先週末は、ロクなことがなかった、と書けば、そうなってしまいますが、「永遠の相の下」で見れば、貴重な体験をしたということになるのかもしれません。

 週末は疲れて、結構、昼寝をしてしまいます。それも、30分とか1時間といった「うたた寝」ではなく、2時間とか3時間とかしっかり熟睡します。それでいて夜は、また9時間ぐらい眠られますから、まるで眠狂四郎です(笑)。

 そして、最近はよく夢を見ます。大抵は、起きた時、内容は忘れてしまうのですが、時には、酷い悪夢の場合は、内容までしっかり覚えています。

五島列島 Copyright par Tamano Y  ※写真と本文は関係ありません

 先週末の悪夢は最悪でした。理路整然としているようで、夢ですから、現実離れした飛んでもないことが起こるのです。それでも有りそうなことです。内容はざっとこんな感じです。

 ある75歳の老人が、私のブログの愛読者だということで、メールでアプローチして来ました。どうやら、ある有名作家の秘書の評伝をゴーストライターとして書いてほしいらしいのです。有名作家は、秘書にデータ集めから、関係者の調査まで任せていますが、実は、執筆しているのも秘書だったというのです。老人は、その秘書に会って、取材してほしいので、今度、芦屋の豪邸に来てくれ、というのです。

 その老人は、幕末に、尾張藩、会津藩、桑名藩などの藩主を生んだ「高須四兄弟」で有名な高須藩の末裔を称し、祖父が神戸の貿易商で巨万の富を得て、六甲や八ヶ岳にも別荘があるというのです。まず、秘書に会わせる前に「品定め」したいので、神戸のコーヒーチェーン店に来てほしいというのです。お会いすると、その老人は3時間も一方的にしゃべくりまくり、しかも、お金に不自由したことはなく、悪い人間に巡り合ったこともなく、このチェーン店の創業者はマブダチなどと自慢話ばかりです。三浦和義さん御愛用のハンティングワールドをチラつかせ、流石に辟易しましたが、表情で表すことも出来ず、トイレに行くことを口実にやっと解放してもらいました。

 老人はその場で、「では、今週末に芦屋の自宅に来てください」と口約束してくれましたので、品定めは合格したのかと思っていたら、翌日になって、急に「貴方の視野が狭いことが分かりました。私は高須藩の末裔です。私の自宅には選ばれた人間しか入れることはできません」と丁重な「お断り」のメールが届いて、そこで目が覚めたのでした。

五島列島 Copyright par Tamano Y ※写真と本文は関係ありません

 嫌な悪夢を見てしまったので、「お口直し」に久しぶりに映画を見に行くことにしました。そしたら、これが最悪だったのです。かなり手厳しく批判するので、この映画の名誉のためにタイトルは秘匿しますが、ハリウッド映画で、主演は往年の美男俳優で今年59歳になりながら、若さを保って頑張っています。しかも、日本人の作家が原作ということで、「これは応援しなければ」ということで、本当に久しぶりに映画館に足を運んだのでした。

 日本の新幹線の列車内を舞台に、主役の「運び屋」と、ヤクザに雇われた殺し屋との壮絶な抗争で、やたらと殺し合いが続き、日本国内なのにマシンガンがぶっ飛ばされ、あり得ない展開です。日本語の看板がやたらと出て来ますが、駅構内に「自動柵」もないし、これらは明らかに日本で撮影されたわけではなく、莫大な製作費を掛けて、大掛かりなセットを作って米国内か何処かで撮影されたものであることがすぐ分かりました。

 笑えないし、怒れない。こんな映画を見て喜ぶ人間がいるんだと思うと呆れてしまいました。全く、お金と時間を無駄にしてしまいました。59歳の初老俳優と日本人作家を応援したいがために見た行為が仇でした。

 いやはや、これからもう少し生き続けるには、嫌なことは忘れてしまうことが肝心です。そして、何よりも、触らぬ神に祟りなし。

戦後ジャズブームに日本敗戦と米軍占領が欠かせない

 NHKの回し者ではありませんが、今夏のテレビの戦記物特集は、やはり、NHKが量質ともに圧倒して見応え十分でした。特に8月6日放送の「侍従長が見た 昭和天皇と戦争」(元海軍大将の百武三郎侍従長の「側近録」)と8月15日放送の「ビルマ 絶望の戦場」(牟田口廉也司令官によるインパール作戦失敗と敵前逃亡。ビルマ戦線での戦死者総計16万5000人。幹部連中のみ夜ごと芸者を揚げての宴会三昧。木村兵太郎ビルマ方面軍司令官の兵士置き去り敵前逃亡。商社日綿ラングーン支店長に「あとは宜しく」)は圧巻でした。

 それに比べ民放は…。タレントを露出して有名にして、有名を「信用」と錯覚・洗脳させ、CMに出演させてモノを売って稼ぐ「電波貸し」ビジネスに忙しく、視聴率の取れない戦記物なんぞ、やるだけ無駄といった感じでした。

東銀座「エッセンス」 アジフライ定食1200円+アイスコーヒー=1300円

 NHKはラヂオも充実していて、今、スマホアプリ「らじる★らじる」の「聴き逃しサービス」で、カルチャーラジオ 日曜カルチャー「クレイジーキャッツの音楽史」(全4回)にハマっています。お話は、音楽評論家の佐藤利明さん。この方、1963年生まれということですから、60年代のクレイジ―キャッツの全盛期をほとんど知らないはずなのに、今は音源も映画DVDもYouTubeもありますから、「遅れて来た青年」として追体験し、異様な執念でクレイジーキャッツの全てを調べあげています。(生前のメンバーにもインタビューしています)

 私は、50年代生まれですから、クレイジーキャッツ全盛期のど真ん中で、「シャボン玉ホリデー」や映画「無責任男」シリーズで育ったようなものです。それでも、佐藤さんの話を聞いていると、知らなかったことばかりで、「さすが音楽評論家」と感心したものです。

 クレイジーキャッツは、コミックバンドではありますが、もともとは正真正銘のジャズマンです。しかも、メンバーは大卒のインテリが多く、中には東京芸術大学(安田伸、64歳没)や早稲田大政経学部(桜井センリ、86歳没)出身者もいます。植木等は三重県の寺の住職の子息(父徹誠は、真宗大谷派僧侶で、戦時中、戦争反対を訴え、何度も投獄された)で東洋大卒。普段の人柄は、ニコリともしない超真面目人間だったというのは有名です。

 クレイジーキャッツは当初、キューバン・キャッツとして、1955年4月、萩原哲晶(ひろあき)とデューク・セプテットのハナ肇(工学院土木科中退、63歳没)と犬塚弘(徳川家康直参の旗本の家柄。文化学院卒、現在93歳)が中心になって結成されますが、メンバーの入れ替えを経て、1957年までにフランキー堺とシティースリッカーズの谷敬(後に谷啓、中大中退、78歳没)と植木正(等、80歳没)らも加わり、1960年には石橋エーターロー(青木繁の孫、福田蘭童の子息、東洋音楽学校卒、66歳没)が結核療養で代役となった桜井センリを加え、7人のメンバーが固定します。

 クレイジーキャッツの最大のヒット曲は「スーダラ節」ですが、作詞が青島幸男(早大卒、74歳没)、作曲がクラリネット奏者だった萩原哲晶(東京音楽学校、後の東京芸大出身、58歳没)。この名コンビが、クレイジーキャッツの名曲を生みだします。ミュージシャンの大瀧詠一が「クレイジーキャッツは日本のビートルズだ」と評したらしいですが、ロックとコミック音楽とジャンルは違っても1960年代を代表するミュージシャンとしては共通したものがあります。となると、青島幸男=萩原哲晶はレノン=マッカートニーみたいなものと言えるかもしれません。(「無責任一代男」「ハイそれまでよ」「ゴマスリ行進曲」などはこのコンビ。萩原哲晶は、前田武彦作詞で「エイトマンの唄」まで作曲していたとは!)

 佐藤利明さんの「クレイジーキャッツの音楽史」が何で面白いのかと言いますと、単なる音楽史に留まらず、戦後文化史になっているからです。何で、戦後になって、日本にジャズブームが起きたのか? 一言で言えば、日本が戦争で負け、米軍に占領されたからです。米軍は兵士の慰問のため、北海道から沖縄まで、駐留米軍基地に娯楽施設を作りました。そこでジャズを演奏すると、高額なギャラが貰えるということで、若者が楽器を習得して殺到します。その中で、メキメキと腕をあげてプロになる若者も出ます。クレイジーキャッツはその代表かもしれませんが、テナーサックスの松本英彦、原信夫とシャープ&フラットや萩原哲晶とデューク・オクテットなど米軍基地にお世話にならなかったバンドはありません。アイドルグループ「ジャニーズ」をつくったジャニ―喜多川もそうですし、後に裏方のプラダクションに回って「ナベプロ」を創業する渡辺晋(とシックス・ジョーンズ)らもそうです。

 その渡辺晋がナベプロをつくったきっかけは、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効されたため、日本駐留の米軍基地が縮小されたためでした。同時に娯楽施設も封鎖され、日本人のジャズマンも基地での仕事を失うようになったからだというのです。

 この話を聞いて、「なるほどなあ」と思いました。日本の戦後音楽史には、敗戦と占領期の米軍進駐とジャズが欠かせなかったという話には、実に、目から鱗が落ちるような思いでした。日本は戦時中は、敵性音楽は禁止していましたからね。もし、日本が勝っていたら、浪花節と都々逸と軍艦マーチの世界だったかもしれません。

ゴヤの「サバサ・ガルシア夫人」がお気に入り=「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 三十六肖像」改訂普及版

 

 個人的にやっと自信を回復しつつあります。長いトンネルを抜けた感じです。

 この渓流斎ブログにまつわり、友人関係で悩んでいたのですが、些末な些細なことで、ブログも友人も私の人生のほんの一部だということを悟ることができ、スッと抜ける感じがしました。

このブログをたまに(笑)、読んでくださる都内にお住まいのNさんからは「もう一人の自分をつくられることが必要ではないですか」との助言も頂きました。

 そもそも、私自身、このブログで何か悪事を働いたとでも言うのでしょうか? カルト教団のように高額な寄付を強制したり、面会を強要したりしたわけでもない。自分の意見を述べただけで、言論の自由は憲法が保障してくれます。もっと自信を持っていい、と思い直したのです。

 とにかく落ち込んでいたのですが、その間、ジョン・レノンのアルバム「心の壁、愛の橋」(1974年発表)の中のNobody loves you という曲の歌詞を真面目に聴いて驚いてしまいました。

 Nobody loves you when you’re down and out

Nobody sees you when you’re on cloud nine

…

 Nobody loves you when you’re old and grey

Nobody needs you when you’re upside down

 と歌っているのです。意訳すれば、こんな感じでしょうか。

 人は、君が有頂天になっている時、関心すら示さないのに

 人は、君が落ち込んでいるのを見ると離れていくんだよ

 誰も、君が年を取って白髪になると露骨に嫌悪し

 君が動転していようものなら、なおさら必要とされないんだよ

 この時、ジョン・レノンは33歳という若造なのに、既に人生を達観しています。まるで、あと7年の生命しか残されていないことを予知しているみたいです。人は、自分の都合で、落ち込んでいる人間や弱者から離れていこうとする性(さが)があることをジョンは、自分の経験から見抜いたのです。

 私は、これまで真面目に、誠実に、律儀に友人たちと付き合ってきたのに、彼らが離れていったのは、彼らのせいであり、自分が誠実過ぎたからだと思うようになりました。

 逆に、これから、グレてやりますよ(笑)。鬼になりますよ。

 さて、この渓流斎ブログで度々、登場して頂いている松岡將氏が、またまた本を出版されました。「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 三十六肖像」改訂普及版(同時代社、2022年8月9日初版、1980円)です。

 6月30日に、「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景」(5280円)の「改訂普及版」(同時代社、2750円)を出されたばかりですので、かなりのハイスピードといいますか、底知れぬバイタリティーです。

 改訂普及版は、原本と中身はほとんど変わっていないので「書き下ろし」とまでは言えませんが、写真はほぼ全部入れ替わっています。これについては、ワシントン・ナショナル・ギャラリーが方針を変更して、サイト内の作品がパブリック・ドメインと判断されたものは、その「デジタル・イメージ」をダウンロードしても良く、一般利用が可能になったからだというのです。

 ということで、原本では、著者が直々にワシントン・ギャラリーで撮影した額縁付きの写真でしたが、今回はその額縁がなくなったデジタル・イメージに置き換わっております。

 著者も「あとがき」で、「額縁から抜け出してその肖像画そのままになった方が、『人』としての親しみをより強く感じさせられるような気がしてきている」と書かれております。

 また、判型がA4判からA5判と小型化したので、携行しやすくなりました。

 この36人の肖像画のうち、個人的に、再読して、迷いながら、たった1点だけ選んでみましたら、54~55ページ、スペインのフランシスコ・デ・ゴヤ作「サバサ・ガルシア夫人」(1806~11年)に決定しました。

 そしたら、あら吃驚。この本の表紙絵になっておりました。この作品を表紙に選んだ著者と感性が少し似ていたのかもしれませんね(笑)。

ザ・ビートルズBlu-ray「ゲットバック」セッション感想

 1週間の病気療養生活で、本は読めないし、寝てばかりいられなかったので、ちょうど購入したばかりのBlu-ray3枚組「ザ・ビートルズ:Get Back」(ウォルト・ディズニー・ジャパン、7月13日発売、1万6500円)を時間を分散して見ていました。

 1969年1月2日から31日にかけて収録された「ゲットバック」セッションで、約60時間の映像と約150時間の音声を、新たに7時間47分間のDVD3枚組に編集したものです。既に昨年、ネットで配信されて話題になりました。

 私はネットの有料会員ではないので、DVD化されればいつか買うつもりでしたが、私のようなビートルズ・フリークから言わせてもらえれば、やはり、Blu-ray3枚組1万6500円は高過ぎるし、長過ぎる。普通の人なら、映画「レット・イット・ビー」で有名になったルーフトップ・コンサートが入った3枚目(2時間18分)だけで十分だと思います(バラ売りしないでしょうが)。

 会社の同僚の勧めで、DVDセット(1万3200円)ではなく、より画質が鮮明なBlu-rayセットを選んだので、53年以上昔の映像なのに昨日撮影したばかりのような驚くべき鮮やさです。デジタル・リマスター技術の進歩のおかげでしょうが、驚嘆するしかありません。

 今更説明するまでもありませんが、「ゲットバック」セッションは当初、レコーディングの様子やライブ演奏を収録してテレビ番組のために撮影されたものでした。ライブ演奏会場は当初、古代劇場だったり、テレビスタジオだったりしましたが、中止になり、結局、ロンドンのアップル社の屋上になりました。4人は激しく意見をぶつけ合い「空中分解」となり、ジョージが途中で「脱退宣言」してスタジオに顔を出さなくなったりします。

 当初は、「ゲットバック」アルバムとして、春にも発売する予定でしたが(私は、当時中学生で、「ミュージックライフ」誌に、ニューアルバム「ゲットバック」の広告が掲載されていた事を覚えています)、「お蔵入り」となり、夏に、ビートルズとしては最期のレコーディングとなった「アビイ・ロード」の方が先に秋に発売され、お蔵入りになっていた「ゲットバック」は翌70年に映画「レット・イット・ビー」のサントラ盤(フィル・スペクターによるアレンジ)として発売され、同年4月にビートルズ解散(ポール脱退)も発表されます。

 話が前後した、随分マニアックな話でした。

 ということで、このセッションではビートルズの初期のカバー曲や新曲が完成する前のラフな状態や試行錯誤が伺えるわけです。アルバム「レット・イット・ビー」収録曲は勿論、「アビイ・ロード」に収録される「オー!ダーリン」や「マックスウェルズ・シルバー・ハンマー」のほか、後に各自ソロになってアルバムに収めることになる「テディ・ボーイ」「バック・シート」(ポール)、「ギミー・サムシング・トゥルース」(ジョン)、「オールシングズ・マスト・パス」(ジョージ)までありました。これらは大体、3年後の1971年に発表される曲でしたから、随分早い段階で試作品が出来ていたことを初めて知りました。

 もう一つ驚いたことは、この作品を撮ったマイケル・リンゼイ=ホッグ監督が大御所かと思っていたら、メチャクチャ若いのです。BBCのポップス番組「レディ・ステディ・ゴー」のディレクターだったことから抜擢されたらしいのですが、1942年生まれということでポールと同い年。当時、まだ26歳です。(髭を生やしたポールは、40歳過ぎに見えます。)

 もっとも、有名なプロデューサー、ジョージ・マーチンも1926年生まれですから、この時、まだ42歳です。実に若かったんですね。

 また、空中分解しかけたところで、辛うじて「繋ぎ役」となったオルガン奏者のビリー・プレストンは1946年生まれですから、当時まだ22歳です!(リトル・リチャードのバックで弾いていたビリーがビートルズと初めて会ったのが16歳だったとは!2006年、59歳で病死されたことは返す返すも残念です)

 扨て、やっと感想文です(笑)。これは、病身で見るべきではありませんね。気分が落ち込みます。映画「レット・イット・ビー」が公開された時、中学生だった私は、東京・新宿の武蔵野館で朝から晩まで4回も見続けた覚えがあります。当時は入れ替え制度がなく、席も「指定席」以外自由だったからです。その後も何十回もこの映画は観ているので、内容は知り過ぎてはいるのですが、ここまで酷いとは思いませんでした。

 特に、今の時代では考えられないくらい彼らもスタッフも四六時中、煙草を吸いっぱなし!神聖な職場だというのに女(とはいっても恋人や配偶者)を連れ込み、特にジョンは遅刻魔で前半はほとんどやる気なし。ポールの独裁的な態度は強引で、ジョージがついにキレて行方をくらます始末です。呆れた事に、ワインやアルコールを飲みながらのレコーディング。会話も実に下品で野卑なのです。「ゲットバック」の歌詞に出て来る「カリフォルニア・グラス」が「カリフォルニアの大麻」のことだったとは!

 あの大天才モーツァルトに嫉妬したと言われるサリエリだったら、こんな感想を述べるかもしれません。

 「奴らは何て、下品で野卑なのでしょう。それなのに、奴らが生み出すメロディといったら天使から遣わされたような天衣無縫の旋律。あんな下ネタ好きで、酒や煙草はのみ放題。隠れてラリッているに違いない。不良少年がそのまま大人になったようで、社会の常識に染まろうとはしない。そんな野卑で下品な人間が天上の音楽を紡ぎ出すとは、神は如何にも不公平に人間を作りたもうたことか」

 それでも最後の「ルーフトップ・コンサート」は圧巻で、全ての悪や災いを帳消しにしてくれる感じです。ビートルズの音楽は鮮明な映像とともに、これから100年後も1000年後も人類の歴史が続く限り、繰り返し聴かれることでしょう。

奇跡のような音楽セッション=ジョージさんのお導きで

 昨日は、またまた奇跡のようなことが起きました。この渓流斎ブログにかなりの頻度でコメントをお寄せ頂いている小澤譲二氏(以下ジョージさん)からお誘い頂き、初対面ながら彼の友人の自宅で行われた音楽セッションを見学して来ました。

 まずあり得ませんよね?(笑)。

 いくらブログにコメントをお寄せくださる方でも、書かれていることが真実かどうか確かめようがありません。ですから、いくら招待されたからと言っても、ノコノコとついて行くのも大胆不敵、というかマヌケです。

JR高輪ゲートウェイ駅

 でも、このジョージさんは、毎回、コメントでかなり御自分のプライベートなことを微に入り細に入りご報告くださり、そのせいか、全員が簡単に読むことが出来るブログの「コメント欄」にアップするのは憚れました。それでも、大変正直そうな方に見え、大変な音楽好きなセミプロで、一時期、一世を風靡したゴダイゴのタケカワユキヒデさんとも御関係があるというので、これも何かの御縁、ということで、出向くことにしたのです。

 人生、縁と運ですからね。

 ジョージさんの御祖父は、横浜の貿易商として来日した英国人でした。小学校から高校まで横浜のインターナショナル・スクールに通い、大学はICU(国際基督教大学)です。ICUと言えば、私の小中学校時代の友人の三由君の母校でもあり、授業は英語だったと聞いたことがあります。かなりレベルの高い大学です。

 ジョージさんの自己紹介によると、小学校から大学のICUまでクラスメートだったジョニー野村さんと大学でバンドを結成し、その際、ヴォーカルに同じ大学の奈良橋陽子さんを迎えたといいます。後にジョニーさんと奈良橋さんは結婚します。この二人は、業界では知る人ぞ知る有名人で、ジョニーさんは、音楽プロデューサー、奈良橋さんは、ハリウッド映画のキャスティング・プロデューサーなどとして活躍します。

 二人は、大学時代のESSで、後に俳優になる中村雅俊さん(慶応大学)やタケカワユキヒデさん(東京外国語大学)らと知り合います。そこで、ジョニーさんは、旧友でゴールデンカップスで活躍していたミッキー吉野さんをタケカワさんに紹介して、あのゴダイゴ結成に繋がったといいます。ゴダイゴは「銀河鉄道999」や「ガンダーラ」などヒット作を連発します。

 また、奈良橋さんの方は、トム・クルーズ主演の映画「ラスト・サムライ」(2003年)のActing Producerとして渡辺謙らを抜擢して大ヒットさせます。

 奈良橋さんは現在も演出家、劇作家、作詞家などとしてご活躍されていますが、ジョニー野村さんは、昨年(2021年)、惜しくもセブ島の自宅で亡くなりました。行年75歳。

 ゴダイゴのタケカワさんは、私の大学の先輩で、しかも、私も在籍した同じ音楽クラブの先輩だったという浅からぬ御縁がありました。もっとも、大学のキャンパスでは一度もお会いしたことがなく、見るのはテレビのブラウン管を通してでした。彼は、外語大に行かずに、ICUばかり通っていたことが分かりました(笑)。

気温35度という炎天下のため、都心なのに、人影もまばら

 さて、ジョージさんとは2020年に出来たばかりで、私も生まれて初めて降りるJR高輪ゲートウェイ駅の改札で待ち合わせしました。初対面のジョージさんは意外と小柄な方だったので驚きました(とはいえ、170センチはあると思いますが)この時、ジョージさんのICUの同級生で、C&Wバンドのプロ(キーボード)になった西村さんと、横浜のインターナショナル・スクール出身でヴォーカルのメアリーさんを紹介されました。

 西村さんは以前、吉祥寺に住んでいた時、近くにゴダイゴのタケカワさんも住んでいて、あの名曲「ガンダーラ」を、ミッキー吉野さんらと一緒に作曲している途中経過の場面に遭遇していたエピソードを後で伺い、これまた吃驚しました。

 音楽セッションをやる会場は、ジョージさんの古くからの友人の営ちゃんの自宅マンションの一室でした。もう50年近く住んでいるということでしたが、地下鉄泉岳寺駅から数分ですから、かなりの高級マンションでした。営ちゃんは、立教大学出身で、学生時代にテレビの「エレキ合戦」に出演して決勝まで進んだとかいう伝説の持ち主でした。

JR高輪ゲートウェイ駅

 マンションには、もう一人、営ちゃんの立教大学の後輩で一緒にバンドをやっていたメンバーの一人で、サックス奏者の全ちゃんもいらっしゃいました。これで全員ですが、初対面の方ばかり一気に5人ですから、こんがらがってしまいました。普通の人だったら臆するところでしょうが、私は人と会うのが仕事でしたから、辛うじて大丈夫でした。

 皆さん、私より年長の70歳代でしたから、ジョージさんのギター、西村さんのキーボードのセッションでやる曲は、ポール・アンカとかフランク・シナトラとか、エディット・ピアフとか、ディーン・マーチンとか、かなり古いのです。私の青春時代の音楽は背伸びしても1960年代の洋楽ポップスですが、先輩方の青春音楽は1950年代でした(笑)。でも、名曲ばかりで、「若造」の私でよく知っている曲で、昼間からビールを飲みながら、一緒に口ずさむことができました。

 2時間ぐらいでお暇しましたが、やはり、奇跡のような出来事でした。

 ※肖像権がありますので、渓流斎ブログではあまり顔写真はありません。

「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景」の「改定普及版」が出ました

 スマホ中毒の私でしたが、FacebookなどのSNSを控えたお蔭で、中毒から立ち直りつつあります(笑)。

 要するに、ご贔屓筋からの「いいね!」などが気になり、電車の中でも、歩いていても、寝ても醒めてもスマホをいじっている悪循環が続いていたようです。いい年をして、「餓鬼かあ~?」と叫びたくなります。

 アプリの「サウンド」も「表示」もオフにしましたので、何の通知も来なくなり、気にならなくなりました。これが本来の姿だと思えば良いのです。

銀座・イタリアン「エッセンス」Aランチ(コーヒー)1100円

 思い返せば、私が初めてパソコンを買ってインターネットを始めたのは1995年のことでした。当時は、まだダイヤル式接続で、ブラウザはネットスケープナビゲーターを使い、動画は夢のまた夢で、画像が1分ぐらいかけて出て来ると大喜びでした。メールなんかも1週間に1回チェックする程度でした。牧歌的時代でしたねえ。

 今では車内を見回すと、90%の人がスマホと睨めっこしている時代になりました。スマホ中毒から解放されると、やはり、最先端の人類があんなものに振り回されて気の毒に見えるようになりました。

 さて、昨日、拙宅に版元から本が届きました。著者は、皆様御存知の松岡將氏でした。「えっ?また新刊出されたの?」と吃驚したら、表紙は見たことがありました。2年前に出された「ワシントン・ナショナル・ギャラリー 参百景」(5280円)の「改定普及版」(同時代社、2022年6月30日初版、2750円)でした。

 2年で普及版を出されるとは、よっぽど評判で版を重ねていたのでしょう。確かに、「アングルのバイオリン」ながら、著者の写真撮影技術はプロ級でした。

 2年前の底本と今回の改定普及版と何処が違うのかと言いますと、まず大きさです。底本は大型のA4判のハードカバーでしたが、普及版は持ち運びも出来るソフトカバーのA5判です。

 中身のギャラリーの絵画の写真も、底本では額縁付きが多かったのですが、今回は額縁なしの画像です。これは、ワシントン・ナショナル・ギャラリーの方針変更で、作品の中で、「パブリック・ドメイン」と明示されていたら、その作品の当該画像をダウンロードして一般利用が可能になったからだといいます。(著者の「あとがき」より)

 確かに、美術作品の場合、著作権はかなり厳しいです。個人が撮影した絵画の画像でも、新聞記事や出版物に掲載する際には著作権料が発生します。特に、MやPやFはうるさいことは、昔、美術記者だった私も経験上知っています(苦笑)。

 でも、ワシントン・ナショナル・ギャラリーがこうして「方針」を変更してくれたお蔭で、掲載写真がスッキリした感じになりました。

 恐らく、私自身はこの先、ギャラリーのある米ワシントンDCに行く機会が巡って来ないと思われますので、ワシントンに行ったつもりになって、この本を読みながら脳内で館内を散策しようと思っています。

 ついでに、スマホ中毒からも脱却するとしますか。

「和田義盛の乱」、三浦義村裏切りの真相

 「歴史人」7月号(「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」特集)をやっと読了しました。戦国時代の豊後の大名大友宗麟の御先祖さまが、「鎌倉殿の13人」の中原親能だったとか、梶原景時を追撃した駿河の武士・吉川友兼が、戦国時代の吉川氏の御先祖さまだったとか、教えられることが多く、色々と勉強になりました。

 でも、誤植や間違いが多過ぎました。私が発見しただけでも7カ所はありました。特に酷かったのは、「8代執権・時宗の祖・一遍もまた武士層に心の支えを与えていた」と105ページに書かれていることです。時宗(じしゅう)の開祖一遍上人が、8代執権北条時宗(ときむね)の祖になってしまっています! 明らかに筆者の記憶違いなのでしょうが、校正の段階で気付くはずです。編集長も目を通していないのではないでしょうか?

 名前の漢字の間違いも結構見受けられましたし、商品価値を貶めてしまうことになります。繰り返しになりますが、これらは校正の段階で直せるはずです。もう優秀な人材が出版界に入ってこなくなってしまったということなのでしょうか?

 あまり批判しても、しょうがないので、最終的にはこの本(雑誌)を買って良かった、と私は思っていることを強調しておきます。本当に色んなことを教えてもらいました。

 最後に一つだけ、取り上げてみますと、「和田義盛の乱」のことです。侍所の別当(長官)も務めた最有力御家人の一人である和田義盛は、三浦義明の孫であり、三浦一族です。乱を起こす直前に、一族の三浦義村からの支援を得るために起請文まで交わしたというのに、結局、最終的に三浦義村は裏切って、北条義時側に付きます。とても不可解で、さっぱり理由が分からなかったのですが、この本には、考えられる真相が列挙されていて、それを読んで初めて納得できました。

 まず、三浦義村にとって、和田義盛は、父方の従兄弟に当たりますが、北条義時は、母方の従兄弟でもあったのです。義村が、義盛よりも義時側に付いたのは、三浦一族の中で、義村がトップに立ちたかったからで、侍所別当など大出世している和田義盛は目の上のたん瘤だったというわけです。そういうことだったら、理解できますね。

 鎌倉幕府の初期は、血と血で争う権力闘争で、親子だろうが、兄弟だろうが、従兄弟だろうが関係ありません。むしろ、幕府御家人の幹部連中は、ほとんど全て、政略結構で姻戚関係を結んでいますから、義父だったり、義兄弟だったり、乳母子同士だったりします。

 「古今著聞集」巻十五「闘諍」の中に、寝返った三浦義村が千葉胤綱(千葉常胤の曾孫)から「三浦の犬は友を食らう」(三浦は同族を裏切った)と詰め寄られた話が出てきます。

 それを言ったら、始まりません。初代将軍源頼朝は、平氏滅亡の最大の功労者で、異母弟でもある源義経と源範頼まで自害・暗殺に追い詰めています。

 二代将軍頼家も三代将軍実朝も暗殺され、有力御家人だった「坂東武者」比企能員も、畠山重忠も、梶原景時も北条時政の陰謀で誅殺され、そして、時代は下って、三浦泰村(義村の次男)も五代執権北条時頼によって一族が滅亡され(宝治合戦)、北条氏に対抗できる御家人がいなくなり、北条家の独裁政権が確立します。(ちなみに、時頼は、鎌倉大仏をつくり、蘭渓道隆を招いて鎌倉五山第一位の建長寺を創建した人です。)

 鎌倉幕府の初期は、いつ何時、寝首をかかれてもおかしくないマフィアの抗争みたいな時代です。戦乱と疫病と飢饉で明日のの命も知れず、元寇という国難も起きました。貴族や武士だけでなく、民衆も何か精神的に縋りたいものが欲しいことはよく分かります。だからこそ、浄土宗、禅宗、日蓮宗など鎌倉新仏教が生まれ、彼らに支持され発展したのでしょう。

 運慶、快慶ら仏師が活躍した「写実主義」の時代でもあり、彼らの仏像や作品は今でも感動します。でも、命がいくつもあっても足らない鎌倉時代に生まれなくてよかった、と私なんかつくづく思ってしまいます。