極右政党が勢力拡大=いまだ統一されていない?東西ドイツ

スペイン・コルドバ メスキータ

今からちょうど29年前の1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊し、翌90年10月3日に東西ドイツが統一されました。

めでたし、めでたし。多くの日本人はそう思っておりました。

何しろ、ドイツ人は勤勉で、メルセデス、ポルシェ等自動車の基幹産業があり、経済基盤は磐石で、欧州経済を牽引する「EUの雄」であります。共通通貨ユーロを創設して、「マルク安」の恩恵を受け、ドイツの独り勝ちの様相さえ呈しておりました。

ところが、先月10月の地方選挙で、メルケル首相率いるキリスト教民主同盟(CDU)が大敗を喫し、メルケルさんは、今年12月の党首選に出馬せず、2021年の任期満了をもって首相の職を退くことを表明しました。

◇極右政党の伸長

同地方選では、中道派が有権者の支持を失う一方、「反移民」を訴える極右政党「ドイツのための選択肢(AfD)」や左派「緑の党」が支持を伸ばしました。

特に、旧東ドイツでは極右のAfDが伸長しました。何故なのか?11月7日付ニューヨークタイムズが「いまだ統一されていない東西ドイツ」(意訳:原題は、 A nation still at odds)というタイトルで、その理由になるような話題を取り上げてくれました。日本の新聞ではなかなか読めません。

◇フランク・デーメル氏、57歳、職なし、地位なし、妻もなし

焦点が当てられたのは、日本人の誰も知らないチェコ国境に近いエベルスバッハという小さな町です。日本人なら知っているドレスデンの南東に位置しています。主人公はフランク・デーメル氏、57歳。29年前に、共産党政権に対して自由と民主主義を求めて街角でデモ行進していた彼は、今では極右政党の応援のために同じ街角に立っています。

「あれから、およそ30年の歳月が流れ、確かに自由と民主主義は手にいれたが、彼は何もかも失っていた。仕事も地位も祖国も、そして妻もー。妻は西側に出稼ぎに行って、二度と帰って来なかったのだ」ーという壮絶な話からこの記事は始まります。

デーメル氏は、東ドイツ出身のメルケル首相(生まれはハンブルク)のことを「裏切り者」と糾弾します。同首相は2015年に「移民政策」に転換して、100万人以上の移民を受け入れます。デーメル氏は「望んでもいやしないのに、我々旧東独人は、旧西独人、移民に後塵を排して三等国民になってしまった」と嘆くのです。エベルスバッハの基幹産業だった繊維工業は斜陽となり、1989年以降、人口は半減します。多くの学校が閉鎖され、鉄道サービスも縮小されます。エベルスバッハはその後、隣のノイゲルスドルフと市町村合併せざるを得なくなりました。

◇自立心旺盛な旧東独女性

ベルリンの壁崩壊以後、旧東独の人口は全体で10%減少します。その3分の2は女性でした。共産党政権の政策により、女性が自立できるよう、より高い教育を受けさせたり、職業訓練をしたため、旧東独では女性の方が男性より自立心が旺盛だったのです。

◇結婚できない!

その結果、旧東独でどうなったかといいますと、特に若い女性が西側に移住し、結婚適齢期の若い男女比の格差が広がりました。15年の統計では、旧東独の20~40歳全体で、男性10人に対して女性は9人ですが、小さな村になればなるほど人口格差は広がります。ポーランド国境に近いヴァイスケイセルは、5人の男性に対して女性は3人。グラウビッツという村は、4人の男性に対して女性は1人しかいないというのです。嗚呼、これでは結婚もできませんね。

◇治安悪化が極右支持に?

しかも、最近では職がない外国の不良移民から市民が恐喝されたり、殺害されたりする事件も起きたりして治安も悪化しているというのです。それが、デーメル氏のような市民を極右政党支持に駆り立てている要因になっていることは間違いないでしょう。ベルリンの壁崩壊以降、ドイツは、バラ色の世界が広がるかと思っていたのに、これでは逆行です。

何処の国も大変なんですね。日本の近未来にならなければいいと危惧しているのは私だけでしょうか。

トリテキって何?

スペイン・コルドバ メスキータ

全くお恥ずかしい話ではありますが、もう40年も新聞・通信社のマスコミ業界に身を置いておきながら、いわゆる一つの業界専門用語の中で、つい最近まで知らない用語がありました。

トリテキという言葉です。「鳥の照り焼き」ではありません(笑)。どういう意味なのかは、出し惜しみして(笑)、後からお話することにして、もう時効になっている40年ぐらい昔のマスコミ体験談からご披露することにしましょう。

私がマスコミ業界に入ったのは1980年ですが、最初に配属されたところは、運動部でした。私が高校生の頃まで「王・長嶋」の全盛期でしたし、オリンピックぐらいは見ていたのですが、むしろ熱烈な音楽少年だったため、スポーツにあまり関心がありませんでした。配属先が運動部と聞かされて、会社を辞めようかと思いましたが、「何でも見てやろう」の精神で3年は我慢する覚悟を決めました。それが40年も続くのですから人生分からないものです。

最初の1年近くは、「電話取り」といって先輩記者が現場から電話で送ってくる原稿を、会社のデスクで筆記する仕事でした。今のネット社会では想像もつかない苦行でした。何しろアナログ時代です。FAXでさえ行き届いていない時代でした。

記事の中に漢字があると、「字解」といって、説明します。例えば、選手に吉田という人がいれば、「ワンマン吉田」(吉田茂首相から連想)、田中なら「デンチュウ田中」と「字解」するのです。それが、新人記者には最初はさっぱり分からないのです。「何?殿中? 忠臣蔵?殿中でござる?」と余計な頭が回転して、マゴマゴしてしまうと、先輩は「お前、誰だ?他の奴に変われ!」と大声で怒鳴られてしまうのです。

短い原稿ならいいのですが、長い原稿になると、受話器を付けた耳が痛くなってしまいます。

昔は、牧歌的な時代で、そんな汚い字で取った原稿を出稿部デスクが青ペンといって筆入れ(校正)して、それを整理部デスクが赤入れといって再校正して、手書きで加盟社に配信して、それを受け取った新聞社がまた、色々、長い記事を短くしたりして校正して、活字の職工さんがいちいち鉛の活字を拾って並べて印刷していたんですからね。今では考えられません。

さっきの字解の話に戻りますと、例えば「肇」という字を電話では「ハナ肇の肇」と字解しますと、当時の人なら、クレージーキャッツのハナ肇だということですぐ分かりました。しかし、今の若い人には通用しないでしょうね。これだけ流行や時流の変化が激変する毎日ですから、かつての常識は非常識になってしまうという典型例です。

トリテキについてはもう少しお待ちを(笑)。

スペイン・コルドバ メスキータ

昔のことを思い出したので、少しそのお話をー。私が最初に配属された記者クラブは、東京・原宿にある岸記念体育会館内にあった体協記者クラブでした。体協とは日本体育協会の略称で、当時の日本のアマチュアスポーツ団体の総本山で、その傘下に日本オリンピック委員会(JOC)や陸上や水泳など各競技団体の連盟や協会の事務所がありました。そこの2階に記者クラブがあり、一般紙からスポーツ紙、海外を含む通信社などの担当記者が詰めていたのです。

この記者クラブで多くの先輩猛者記者と遭遇しました。嫌な奴も多かったのですが、わざわざダーティーヒーローを取り上げる必要もないので、特に印象的だった人を挙げるとすると日刊スポーツの中出水勲さんという記者でした。

記者クラブには別室にマージャン台やソファがあり、時間をつぶしたり、記者同士が団欒する場所があったのですが、中出水さんは大抵、二日酔いの様子でいつもソファに寝そべってました。クラブ内には、選手や監督、事務局の人が記者会見するテーブルと椅子のスペースもあり、ちょくちょく会見があったのに、中出水さんが会見に参加する姿を見たことがありませんでした。

それなのに、翌日の日刊スポーツを読むと、ちゃんと彼の署名入りで、記事が出ているのです。しかも、他のライバル紙より格調高い文章で簡潔です。これには手品を見ているようで、吃驚してしまいました。

中出水さんは明大山岳部出身で、あの冒険家植村直巳さんと同期で一緒に下宿していた仲だったことは後で知りました。植村さんが行方不明となり結局捜索も打ち切られたときは、さすがの中出水さんもうっすらと男泣きされておりました。

スペイン・コルドバ メスキータ

もう一人忘れられない人は、毎日新聞の森記者でした。この人、抜群の記憶力の持ち主で、試合後のインタビューで一切メモも取らないのです。これには魂消ました。しかも、例の電話による原稿送りも「勧進帳」といって原稿を書かずに頭の中で組み立てたものを、そらんじて送稿していたのです。

翌日の紙面を見ると、立派な記事でライバル紙よりもむしろ良い出来なので、新人記者だった私は、もう腰が抜けるほど驚いたものです。

このほか、力道山が暴力団組員に刺されたときに現場の赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クオーター」で、力道山と同席していたスポーツニッポン新聞の寺田記者らもおりましたが、これ以上続けると、キリがないので、最初のトリテキに戻ります。やっと!

スペイン・コルドバ メスキータ

トリテキとは、どうやら「テキストを取る」から来た新聞業界の隠語でした。今、テレビで記者会見の様子を見ると記者たちの前にはパソコンがあって、記者たちは発言者の顔を見ずに、一斉に、一言ももらさないように発言の一言一句をキーボードに叩いている姿を見かけることがあるでしょう。

これがトリテキです。昔は、全て手でメモ書きしておりました。トリテキはどうやら、新聞社の中でも主に政治部で使われた用語のようです。何故なら、政治家の発言は政策やら外交やら株式・為替市場やらなどに多大な影響力を持つので、後から「言った」「言わない」と揉め事が起きないように、発言を正確にメモしなければならないからです。

そして、政治部記事の場合は、一人の記者が書くことが少なく、出先の記者から様々なニュースソースを集めて、社内にいるデスクらがリライトすることが多いこともあります。

これがスポーツ選手なんかの場合、口が重い選手もいたりするわけですから、後で記者が忖度して談話としてまとめてしまうケースが往々にして見られたのでした(笑)。

私はその後、政治部の経験がなかったから、トリテキを知らなかったのでした。

話題を全く変えます(笑)。

《渓流斎日乗》11月4日付「加藤画伯と鎌倉でスペイン談義」で書いた通り、江ノ電の「鎌倉高校前駅」に行ったのですが、見たこともない多くの中国系と見られる若者が駅周辺と踏み切り付近でカメラを構えて騒然としておりました。

「何があったのか?」と不思議でしたが、言葉が分からないので、話が通じません。お決まりの観光客で、江ノ電と湘南海岸がブームになっているのか、と勝手に自分で忖度しておりました。

それが、さっき理由が分かったのです。ここは、人気漫画「スラムダンク」の「聖地」で、この漫画は台湾でも大人気で、多くの熱狂的な台湾人が巡礼に訪れているというのです。私は、この漫画はバスケットを扱ったものという程度しか知らず、読んだこともないのですが、どうやら、踏み切りが特に聖地になっているというのです。

興味のない部外者にとっては、何の変哲も魅力もない(笑)ただの踏み切りでしたので、ただただ驚くばかりでした。

「カタロニア讃歌」はノンフィクション文学の金字塔

近未来小説「1984年」やスターリン批判を暗喩した「動物農場」などで知られる英作家ジョージ・オーウェル(1903~50、本名エリック・アーサー・ブレア、享年46)がスペイン内戦(1936~39)に参加してその内幕を描いた「カタロニア讃歌」(1938年初版、鈴木隆、山内明訳、現代思潮社)を大変遅ればせながら、今頃読んでおります。

「何で今さら?」と訝しがる皆様も多数おられることでしょうが、たまたま私はオーウェルの熱心な読者ではなかったため、この歳になるまで読んでいなかった、と正直に告白しておきます(でも、これから彼の代表作は読んでいくつもりです)。

何で、読もうかと思い立ったのは、以前にもこのブログに書きましたが、今年9月に初めてスペイン旅行を体験したからでした。スペイン旅行に行く前に読むべきだったかなあ、と思いましたが、やはり、帰国して読んだ方がよかったという結論に達しました。何故なら、この本に出てくるバルセロナもサラゴサもマドリードも、実際に行って、その土地の大地を踏み、その土地の空気を吸ったため、地理感覚ができたので、ビルバオやバレンシアや色々と他に出てくる地名も読んだだけで身近に見当がつくからです。

市街戦になったバルセロナ中心部のカタルーニャ広場やランブラス通りは、一人で1時間半ほどぶらついたので懐かしくなりました。もっとも、もしこの本を先に読んでいたら、同書に出てくるコンティネンタル・ホテルやファルコン・ホテル、それに治安部隊が占拠したカフェ・モカ(跡)を探す「歴史散歩」をしていたのではないかと思います。

それはともかく、スペイン内戦では、ジョージ・オーウェルのように、多くの外国人が「外人部隊」として参戦しました。米作家アーネスト・ヘミングウエイ、仏作家アンドレ・マルローらもそうです。また、人民戦線側で戦ったスペインの詩人ガルシア・ロルカは戦死しております。

「カタロニア讃歌」は、オーウェルの従軍記であり、ノンフィクション文学の金字塔でしょう。歴史資料としても価値があり、後世まで読み継がれることでしょう。何しろ、非常に文学的水準が高い文章です。これが、34歳前後で執筆されたかと思うと、やはり彼は天才だったんですね。(世界的にも1930年代のジャーナリストの書く文章は大変水準が高い。スパイ・ゾルゲの「本職」だった独紙特派員として書いた「二・二六事件」を分析した記事などはとても日本人には書けない硬質な分析。同じ諜報団だった仏通信社特派員のブーケリッチの記事を読んでも内容の深さに圧倒されます)

スペイン・コルドバ

オーウェルは1936年12月末、「新聞記事でも書くつもり」で英国からスペインに渡り、POUM(マルクス主義統一労働者党)の反ファシスト市民軍の兵士として、アラゴン前線に参戦します。最前線で3カ月半。37年4月末に休暇でバルセロナに戻り、同年5月の市街戦に巻き込まれます。この後、再びアラゴン前線に戻りますが、そこで負傷し、6月にバルセロナに戻ると、POUMの弾圧事件が起こり、オーウェルらは命からがらスペインから脱出します。

と書きますと、わずか半年程度の内戦体験に過ぎないと思う方が多いかもしれませんが、その微に入り細に入る戦場と市街戦の描写は、臨場感と緊迫感と弛緩にも溢れ、まるで同じような体験をしているような感覚に陥ります。

アラゴン戦線に投入されながら、驚くことに、オーウェルら兵士には最初は武器や弾薬さえ支給されないのです。3日目になってやっと支給されます。それが、1896年の日付の入ったドイツ製のモーゼル銃だったのです。オーウェルは「40年以上も前のものだ」と嘆くのです。

しかし、笑ってはいけません。日本だって、第2次世界大戦中に兵士に配給された武器は「三八式歩兵銃」だったのですから。三八式は改良版とはいえ、日露戦争の頃のものですから、40年前の武器を使っていたことになります。

歴史的結果として、反乱軍だったフランコ将軍率いるファシスト派が、ドイツとイタリアの支援を受けて、外国人有志やソ連などの支援を受けた人民戦線政府を打倒して、フランコ独裁体制が1975年まで続きます。

スペイン・コルドバ

人民戦線側が敗北した最大の理由は、共和国政府内での対立と内部分裂、いやそれ以上に内部での権力抗争が大きかったからでしょう。この本では、オーウエルが所属したPOUMのほか、PSUC(カタロニア統一社会党)、FAI(イベリア・アナーキスト連盟)、CNT(労働国民連合)、UGT(労働者総同盟)などの思想や運動方針の違いなどがかなり詳しく説明されております。

21世紀の人間が冷静に観ると考えられませんが、コミュニズムもアナーキズムもイデオロギーが万能の力を持っており、当時は共産主義が輝かしい平等社会を築いてくれるものという幻想があったのかもしれません。でも内部闘争により、POUMはトロツキストして迫害追放されます。市民らも戦いにうんざりして、革命運動から心が離れていきます。

この本では、「カタロニア人は常々、アンダルシア人のことを未開人種として見下していた」などどオーウェルの観察眼の鋭い描写が、ここかしこに出てきます。この本を読んでいると、まるで1930年代のスペインにいるようです。

お笑いロバート秋山竜次さんも関係していた満洲物語

哈爾濱学院跡

満洲(現中国東北地方)と聞くと、どうも気になります。

縁も所縁もないわけではなく、個人的にはただ一つ、唐津の伯父(母親の実兄)が、一兵卒として赤紙で徴兵された所でした。

伯父は、行き先も目的も告げられることなく、何処とも分からない所に連れて行かれた場所は、中国大陸の戦場。弾丸が飛び交う中、奇跡的に命を保ったものの、戦後はシベリアに抑留され、終戦後1年か2年経ってからやっと日本に帰国できたという話を聞いたことがあります。

私が子どもの頃に、伯父が自宅に遊びに来た時に聞いただけなので、詳しいことは聞いていません。シベリアに抑留されたということは、戦場は、ソ連軍が侵攻した満洲だったのでは、と想像するだけです。近現代史に興味を持ち、もっと詳しく話を聞くべきだと思った時は、既に亡くなっていて、後の祭りでした。

伯父は歌が好きで、うまかったので、「東京行進曲」などを歌って抑留された戦友たちを慰めていたといった話だけは聞いたことがあります。

◇戦後活躍した満洲関係者

その程度の私と満洲との御縁なのですが、戦後活躍した人たちの中で、結構、満洲にいた人が多かったことが後々になって分かります。

赤塚不二夫、ちばてつや、森田拳次といった漫画家、アナウンサーから俳優に転身した森繁久弥、甘粕正彦理事長の満映から東映に移った内田吐夢監督や李香蘭ら映画人、指揮者の小澤征爾(奉天生まれ。父開作は協和会創設者)、安倍首相の祖父岸信介、東条英機らニキサンスケ、このほか、哈爾濱生まれの加藤登紀子、タレントの松島トモ子も奉天生まれ…いや、もうキリがないのでやめておきますが、皆様も御存知の松岡さんのご尊父松岡二十世や哈爾濱学院出身のロシア文学者内村剛介も忘れずに付け加えておきます。

有名人でこれだけ沢山いるわけですから、満蒙開拓団などで満洲に渡り、ソ連侵攻で亡くなった無名の人々は数知れずということになります。

満洲関係者については、ある程度、知っているつもりでしたが、最近になって知った人も出てきました。

◇「スターリン死去」をスクープした人

ノンフィクション作家野村進氏のご尊父さんです。この方、通信社の記者として1953年の「スターリン死去」をスクープした人でした。東京外国語大学の学生時代に学徒動員で満洲に渡り、ソ連軍の侵攻でシベリア抑留。なまじっかロシア語ができたことからスパイと疑われ、4年半も抑留され、凄惨な拷問に遭っていたことを、野村氏が10月29日付日経夕刊のコラムに書いておられました。

◇満洲第3世代

もう1人は、お笑いトリオ・ロバートの秋山竜次さん。10月29日にNHKで放送された番組「ファミリーヒストリー」で初めて明かされたところによりますと、この方は「満洲第3世代」で、父方の祖父秋山松次さんが、北九州門司で、ある事件があったことがきっかけで妻と長女を連れて満洲に渡っていました。

炭鉱で働き、50人も雇うほど羽振りの良い生活でしたが、松次さんは昭和19年に突然、帰国することを決意します。その理由がソ連が満州に侵攻することを予測したからだというのです。松次さんがどういう情報網を持っていたのか分かりませんが、凄い機転と言いますか、カンが働く人だったんですね。残っていたら、ほぼ間違いなく、戦死か抑留死した可能性が高く、そうなっていたら、お笑いトリオ・ロバートの秋山竜次さんもこの世に存在しなかったわけですから。(母方の祖父は台湾に関係していたり、父親が若い頃、東映の大部屋俳優で梅宮辰夫と「共演」したことがあったり、不思議な縁がつながっていて、大変面白い番組でした)

邪馬台国の久留米・八女説、鎌倉幕府成立、咸宜園、吉田ドクトリン…は「日本史の論点」で学びました

アルハンブラ宮殿の天井画(イスラムは偶像崇拝を禁止しているのに、このような具象画があるのは極めて珍しいとか)

中公新書編集部編「日本史の論点 邪馬台国から象徴天皇まで」(中央公論新社、2018年8月25日初版)も、スペイン旅行の際に持って行った本でしたが、なかなか面白くて、往復の飛行機内では、かかっている映画で面白い作品が少なかったので、専ら読書に耽っておりました。

第1章の古代が倉本一宏・国際日本文化研究センター教授から始まり、中世は今谷明・帝京大学特任教授、近世が大石学・東京学芸大学教授、近代は清水唯一朗・慶大教授、現代が宮城大蔵・上智大教授と、「今一番旬」と言ったら語弊があるかもしれませんが、最先端の歴史家を執筆陣に迎え、最新の「学説」を伝授してくれます。

歴史は時代を映す鏡ですから、その時代によって変化するものです。最近では、学校の教科書から聖徳太子や坂本龍馬の名前が消えると話題になったり、鎌倉幕府の成立が、これまでは、「いい国つくろう」の1192年(源頼朝の征夷大将軍就任)だったのが、壇ノ浦の戦いで平家が滅び、頼朝が守護・地頭を置く文治勅許を獲得した1185年が、現在学界では圧倒的な支持を得ていることなど初めて知り、勉強になりました。

「日本史の論点」ですから、各時代で、長年論争になってきた「課題」が取り上げられています。

例えば、畿内説と九州説との間で論争が続いてきた「邪馬台国はどこにあったのか」。古代の倉本一宏氏は、纏向(まきむく)遺跡発掘により畿内説が学界では優勢になっているのものの、同氏はあえて九州説を取っていました。邪馬台国の邪馬台は「やまたい」ではなく、「やまと」と読むことが適切だとして、福岡県の久留米市と八女市とみやま市近辺が筑紫の中心だったと考え、この地域で灌漑集落遺跡が発見されれば、そここそが邪馬台国の可能性が高い、という説を立てておられました。

ちなみに、小生の先祖は、久留米藩出身なので、遺跡が見つかればいいなあと応援しております。

古代史専門の倉本氏はこうも力説します。「武家が中央の政治に影響力を持ち、政治の中心に座ったりすると、日本の歴史は途端に暴力的になってしまった。…もちろん、『古代的なもの』『京都的なもの』「貴族的なもの」がいいことばかりではないことは、重々承知してはいるけれども、苦痛を長引かせるために鈍刀で首を斬ったり、…降伏してきた女性や子供を皆殺しにしてしまう発想は、儒教倫理を表看板にしている古代国家ではあり得ないものであった」と。

これは、「古代=京都=公家=軟弱・ひ弱=陋習=ネガティブ」「中世以降=武士=実力=身分差別なく能力主義で這い上がれる=ポジティブ」といった固定されたイメージを覆してくれるものでした。

他にも色々取り上げたいのですが、あと2点ほど。まずは、近世を執筆した大石氏によると、江戸時代は義務教育はなかったが、人々は知識に対して貪欲で主体的に勉強したといいます。その一例として、大分県日田市(天領)にあった「咸宜園(かんぎえん)」を挙げております。

これは、1817年(文化14年)、儒学者の広瀬淡窓(たんそう)が設立したもので、全国から生徒が集まり、1897年(明治30年)に閉鎖されるまでの80年間で、5000人近くの人が学んだといいます。生徒たちは何年間もここに下宿して勉強し、長州の大村益次郎も学んだ一人だったそうです。

◇吉田ドクトリン

話は飛びますが、永井陽之助(東工大教授)や高坂正尭(京大教授)らの説を引用して「現代」を執筆した宮城氏によると、戦後の吉田茂路線(ドクトリン)とは、「軽武装」と「経済」を重視する政治的なリアリズムだったといいます。

そして、1951年のサンフランシスコ講和会議に池田勇人蔵相の秘書官として随行した宮澤喜一(後の首相)は、54年に吉田が首相の座を追われて鳩山一郎政権が成立すると、危機感を持ったといいます。56年には「暴露本」のような「東京ーワシントンの密談」(中公文庫)まで出版します。その理由について、宮澤は、五百旗頭真氏らのインタビューで、GHQによって追放されていた鳩山や岸信介といった「戦前派」が復活して、彼らの信条通りの政治が実現すれば、明らかに戦前に遡ってしまい、せっかく、吉田茂や池田勇人と一緒になってつくった戦後の一時代が終わったと思ったからだといいます。

同じ自民党でも、昔は、中選挙区だったせいか、派閥があり、同じ保守でも思想信条がハト派からタカ派まで両極端な政治家が同居したいたことが分かります。

言うまでもないことですが、今の安倍晋三首相は、「戦前派」の岸信介元首相の孫に当たります。安倍首相が「戦後レジームからの脱却」を目指して憲法改正を主張するのは、遺伝子のせいなのかもしれません。

まだまだ、書きたいのですが、この辺で。

 スペイン・アルハンブラ宮殿

東方社と原善一郎について御教授賜りました

一昨日6日に開催されたインテリジェンス研究所(山本武利理事長)主催の午後の講演会では、新たにお二人の研究者の発表がありました。

◇東方社研究のこれまでとこれから

お一人は、京都外国語大学非常勤講師・政治経済研究所主任研究員の井上祐子氏による「東方社研究のこれまでとこれから―井上編著『秘蔵写真200枚でたどるアジア・太平洋戦争―東方社が写した日本と大東亜共栄圏―』の紹介を兼ねて―」というお話でした。

タイトルが異様に長いのですが(笑)、井上氏が今年7月にみずき書林から出版された同名書の紹介を兼ねた東方社研究発表でした。同書の内容紹介として「戦時下の日本とはどういう場だったのか。そして大東亜共栄圏のもとで各国の人びとはどのように暮らしていたのか―。陽の目を見ることなく眠っていた写真2万点のなかから200点を精選し、詳細な解説とともに紹介」とあります。

私は不勉強で東方社を知りませんでしたが、かろうじて、戦時中に戦意高揚のプロパガンダのために発行された写真雑誌「FRONT」は知っておりました。東方社は、この「FRONT」などを発行していた陸軍参謀本部傘下の写真工房だったのです。

東方社で活躍し、戦後、特に有名になったカメラマンとして、木村伊兵衛、濱谷浩、菊池俊吉らがいますが、理事として、ヴァレリー研究家でフランス文学者の中島健蔵がかかわっていたとは知りませんでしたね。(彼の経歴ではあまり触れられていません)もちろん、評論家の林達夫が第3代理事長で、岩波書店社主の岩波茂雄に資金面で援助してほしい旨の書簡まで送っていたことも知りませんでした。

井上氏の編著書は労作です。2万点のネガから200点を精選したということですが、キャプションがないので、本当に大変だったと苦労話を披歴しておりました。写真に写っている背景の看板や標識などから、場所や時代を特定したり、写っている人物が分からないので、戦時中の新聞を何時間もかけて照合してやっと特定するという作業をやってきたそうです。

講演会後の懇親会で、井上氏本人に伺ったところ、膨大なネガは、旧所蔵者の遺族の皆さんだけでは、維持・管理が難しいため、政経研で受け入れることになったそうです。

歴史的に貴重な遺産がこうして陽の目をみたのは、井上氏らの功績でしょう。

◇原善一郎とは何者か?

もう一人は、大阪音楽大学音楽学部教授の井口淳子氏で、講演タイトルは「戦時上海の文化工作―上海音楽協会と原善一郎(オーケストラ・マネージャー)」でした。

井口氏によると、上海音楽協会とは、 1942年6月、外務省、興亜院、陸海軍の監督の下、上海在住の民間人によって設立された文化工作を目的とした財団法人で、その中核は、上海交響楽団による公演活動でした。戦時中、日本国内では、「敵性音楽」演奏は禁止されていたと思いますが、外地ではかなり頻繁に公演会が催されていたようです。

私は全く存じ上げませんでしたが、原善一郎(1900〜51)という人は、同年10月頃からこの上海音楽協会の主事(オーケストラ・マネジャー)になった人で、戦後は音楽プロモーターとしても活躍します。

原は、経歴が大変変わった人で、長野県の貧しい農家に生まれ、旧制中学校を中退せざるを得なくなり、横浜の貿易会社松浦商会に入社します。同商会の哈爾浜(ハルビン)支店に派遣されたことが、彼のその後の人生を大きく変えます。哈爾浜学院でロシア語を習得したお蔭で、その語学力が認められて、1925年、山田耕筰と近衛文麿による「日露交歓交響管弦楽演奏会」のマネジャーに抜擢されます。翌26年から35年にかけて、新交響楽団のマネジャーを務める一方、上海在住のユダヤ系ラトヴィア人音楽プロモーター、ストロークの片腕となり、海外演奏家のマネジメントやラジオ放送出演などを協力したりします。

42年から上述通り、上海音楽協会の主事を務め、上海交響楽団プロデュース。その後、ハルビン交響楽団(朝比奈隆指揮)にも関わります。戦後は、その朝比奈に請われて、関西交響楽団の専務理事を務めることになります。

1951年、世界的なバイオリニスト、メニューヒンの日本公演を興行主ストロークとともに、東奔西走しているうちに過労のため朝日新聞社内で心臓発作を起こし、そのまま帰らぬ人となりました。享年50。以上、これらは井口教授の調査によるものです。

敗戦後の哈爾浜学院

皆様御案内の通り、私は個人的に、哈爾浜学院には思い入れがありますので、関係者にこの「原善一郎」について、学院の卒業者名簿に当たってもらったところ、本科の正規生として「該当者なし」ということでした。ただ、哈爾浜学院には、本科以外に、軍部や外務省、満鉄などから派遣された特修科(専攻科)生がおり、こちらは故意なのか、名簿を残さなかったか、散逸したか、なので、原善一郎はそちらに所属していた可能性があるようです。

なぜなら、原善一郎は「参謀本部の嘱託として宣伝の仕事をしていた」という土居明夫(元陸軍中将)の証言があるからです。

最後に、井口教授は「戦争がなかったら、原善一郎は山田耕筰や近衛秀麿らと知り合っていなかったことでしょう。音楽マネジメントには『記録は残さない』という不文律があるため、詳細について残っていない。まだまだ原善一郎に関しては謎が多い」と結んでおりました。

私も文化記者時代の25年ほど前に、東京のホテルオークラで朝比奈隆にインタビューしたことがありましたが、上海やハルビンの話も原善一郎の話も全く耳にしませんでした。

いずれにせよ、お二人の意欲的な研究には頭が下がる思いで拝聴しました。

📖中島健蔵「昭和時代」(岩波新書、1957年)

📖多川精一「戦争のグラフィズムー回想の『FRONT』-」(平凡社、1988年)

📖岩野裕一「王道楽土の交響楽ー満洲知られざる音楽史」(音楽之友社、1999年)

「文化学院」は参謀本部の謀略放送拠点として接収されていた

10月なのに、秋の気配がなく、30度を超える真夏日が続いてます。

 昨日は、インテリジェンス研究所(山本武利理事長)と早大20世紀メディア研究所共催によるインテリジェンス見学ツアーに公認記者(笑)として潜入し、その後のセミナーと懇親会にも参加してきました。

どなたでも参加できるのに、参加者は25人ほどで年配者が多かったです。

見学場所は、東京・御茶ノ水にあった「駿河台技術研究所」(偽装用の表看板)です。陸軍参謀本部が昭和18年から敗戦まで、連合国の捕虜や日系人から抜擢した人を使って、米兵らに厭戦、反戦運動を盛り上げる謀略工作として、英語のラジオ放送番組(ニュースやドラマなど)を制作した拠点(駿河台分室)でした。

「東京ローズ」が活動した場所と言えば分かりやすいかもしれません。(インテリジェンス研究所の則松久夫理事の論考によると、東京ローズは日系二世のアイバ・戸栗・ダキノ(1916〜2006)が最も有名ですが、東京ローズは、他にも複数いたようです)

駿河台分室は、もともと、文化学院の校舎を、陸軍が接収したのでした。駿河台の明治大学本校舎の閑静な裏手にありますが、こんな所にあるとは思いませんでした。文化学院は、和歌山県新宮市出身の教育者で、建築家、画家、詩人でもある西村伊作らが、大正10年(1921年)に創立したもので、与謝野鉄幹・晶子夫妻や芥川龍之介、佐藤春夫、山田耕筰、有島生馬ら当時の一流の文化人を講師に招聘し、1923年の関東大震災で校舎は焼失しましたが、昭和12年に西村伊作設計の独特のアーチを持った新校舎が再建されました。(個人的ながら、切羽詰まって2000年に熊野古道を巡礼し、熊野本宮大社などをお参りして、新宮に出て、市内にあった「西村伊作記念館」に入り、初めて彼の業績を知りました)

昭和18年に、自由主義者の西村伊作は不敬罪で逮捕され、文化学院は閉校となり、校舎を陸軍が接収したわけです。

戦後、復興した文化学院は、杉本苑子、山東昭子、十朱幸代、前田美波里、寺尾聡といった作家や俳優らを卒業生として輩出してます。(戦前、あの入江たか子も入学してました)

米軍の爆撃の難を逃れた文化学院の駿河台校舎では、昭和30年代は、同じ駿河台で戦災に遭った仏語学学校「アテネ・フランセ」(1913年創立)が仮校舎として同居していたそうです。

今現在は、面白いことに、衛星放送のBS11(ビックカメラの出資会社)の本社として使われておりました。参謀本部のような謀略放送はしてませんが(笑)、放送局として再利用しているとは、奇遇というか、何かの因縁を感じでしまいました。

惜しむらくは、ニュースにもなりましたが、2014年に両国にキャンパスを移転した文化学院は、今年18年3月で、本当に閉校してしまいました。ネット上では「駿河台の土地が乗っ取られた」などと色々と書かれておりますが、今回は、趣旨が違うので、これ以上は追及しません。

所長室などがあった2階

見学ツアーの案内人で、午後の講演会「参謀本部の謀略放送」の講師も務めた名倉有一氏によると、この駿河台技術研究所の所長は、藤村信雄・外務省アメリカ局1課長でしたが、駿河台分室そのものをつくったキーパーソンは、参謀本部第2部第8課(参八)の恒石重嗣(つねいし・しげつぐ)少佐(1909〜96、享年86)で、当時32歳。高知県出身で、陸士44期生。あの瀬島龍三と同期でした。

市井の現代史研究家である名倉氏は、30年前の1988年と恒石氏が亡くなる直前の96年に本人にインタビューしており、その一部をセミナーで公開しておりました。名倉氏の努力には頭が下がります。

名倉氏は、駿河台分室で勤務していた元外務省嘱託の池田徳眞(いけだ・のりざね)著「日の丸アワー」(中公新書)を読んで感動して、謀略放送の研究に没頭し、関連書「駿河台分室物語」まで出版されております。詳細は、同書に譲りますが、恒石少佐らが工作した女性アナウンサー「東京ローズ」は、かなり効果があったようで、戦後、GHQに付随して来日した記者らは血眼で東京ローズを探したそうです。

秘密組織ですから、駿河台分室に精密な放送設備があったかどうかは不明で、謀略放送は主に、スタッフが内幸町の放送会館(現在のNHK)(場所は、今の日比谷シティ辺り)に移動して、そこから太平洋諸島から米西海岸辺りにまで届く電波で放送したようです。

つまり、NHKは、戦前のラジオ放送から国家機関の一翼として、時の政府や政権の宣撫活動に協力的だったことが分かります。今でも変わらないのは、歴史が証明しています。

ちなみに、恒石少佐は昭和20年に中佐に昇格し、同年6月に四国の第55兵站参謀に赴任、後任の実質的責任者は、スパイを養成する陸軍中野学校出身の一二三(ひふみ)九兵衛少佐でした。

「駿河台分室」見学の後、我々は、近くの「山の上ホテル」にまで移動しました。(途中に外務省の官舎がありました。勿論、標識も何もありませんが、事情通の人が教えてくれました)

山の上ホテルは戦前は、帝国海軍が接収した官舎だったそうです。戦後は、GHQが、Hill Top Hotelと名称を変えて(翻訳して?)そのまま接収して、女性将校用に使われたそうです。

知りませんでしたね。

ただ、戦後は、売れっ子作家が締め切りに追われて使う「カンヅメ・ホテル」ということは知ってました(出版社も近いので)。もう随分昔ですが、ここで学生時代の友人が結婚式を挙げたので、参列したことがあります。その後、宿泊ではなくて、ホテル内のバーには結構足を運びましたが(笑)。

GHQの女性将校の宿舎は、この山の上ホテルから、神保町の駿河台下に行く道路を挟んだ所にある旧主婦の友社本社ビル(現日大カザルスホールなどのお茶の水スクエア)もそうだったようです。主婦の友社ビルは大正14年(1925年)、あの著名なヴォリーズ建築事務所が建設した名建築です。

このように、米軍は、戦後の占領計画を練った上で、病院やホテルを残すなどして空爆を行っていたことが分かります。つまり、東京に残っている戦前の建物は、何らかの形で米軍が占領期に再利用する計画だったというわけです。

近現代史を知り、知識が増えると、見慣れた同じ景色が一変するから不思議でした。

クールベ「世界の起源」のモデルをついに発見!

アルハンブラ宮殿

ギュスターヴ・クールベ(1819〜77)は、19世紀フランスを代表する写実主義の画家です。代表作「オルナンの埋葬」「画家のアトリエ」などはよく知られています。詩人ボードレールの肖像画も残しています。

私自身は、大学の卒論に「印象派」(モネとドビュッシー)を選んだくらいですから、フランス史の中では、19世紀の文化や、革命を挟んだ帝政、王政復古、共和制、帝政、共和制とコロコロ変わる政治体制などにも関心があり、今でも興味を持ち続けております。

さて、クールベですが、パリのオルセー美術館に行かれると、クールベ・コーナーがありますが、そこに、ほぼ等身大の女性のgenitalsのクローズアップが展示されていて、まず大抵の人は度肝を抜かされます。タイトルの「世界の起源」(46×55センチ)とは言い得て妙で、よく名付けたものです(笑)。顔は描かれていません。局部だけです。

あまりにもリアル過ぎて「これ、ゲージュツなの?」と東洋から来たおじさんは圧倒されますが、これを見る前に、2人の若い裸婦がベッドで絡むようにまどろんでいる姿を描いた有名な、あの官能的な、想像以上に巨大な「眠り」(135×200センチ、プティ・パレ美術館)を事前に見ていれば、そのドギマギ感は少し薄れるかもしれませんが(笑)。

勿論、19世紀のサロンでは、このgenitals作品は大スキャンダルとなり、すぐさま隠匿され、オルセー美術館で一般公開されるようになったのは、つい最近の1995年からでした。その前は、著名な精神科医のジャック・ラカン(1901~81)がオークションで落札して何年間も、秘蔵していたようです。

「世界の起源」は検索すればその画像が出てきますが(18歳未満お断り。ここでは載せられません!)、そのモデルは誰なのか150年以上も不明で、一時はクールベお気に入りのモデル、ジョアンナ・ヒファーナン説もありましたが、謎に包まれていました。

それが、このほど、ついにその「正体」が分かったというのです。歴史家のクロード・ショップ氏が、仏国立図書館の司書部長で美術史家のシルビー・オーブナ氏の手を借りて、小説家のアレクサンドル・デュマと閨秀作家ジョルジュ・サンド(ショパンとの関係は有名)との往復書簡に注釈を付ける作業をしているうちに、そのモデルの名前が出てきて、偶然にも発見したというのです。

写真左がモデルのコンスタンス・ケニオー、右が画家クールベ

10月2日付のニューヨーク・タイムズ紙によると、そのモデルは、コンスタンス・ケニオー(Constance Quéniaux 1832~1908)という人物でした。パリ郊外で私生児として生まれ、オペラ座バレー団の踊り子として活躍した後、膝の故障で引退し、その後、高級娼婦になります。今ではすっかり忘れ去られましたが、当時は、あの楽聖ワーグナーと並び称されたオペラ作曲家のダニエル・フランソワ・エスプリ・オーベール(1782~1871)(現在は、パリ高速地下鉄オーベール駅にその名を残しています)の愛人となり、晩年はロワイヤル通りの豪邸に住み、彼女の死後は、その財産目録がオークションにかけられるほど裕福な後半生を送った人でした。

彼女がモデルになったのは1866年で、34歳ごろだったことが分かります。クールベは47歳でした。(依頼主は、当時コンスタンスを愛人にしていた元オスマントルコの外交官で超お金持ちのハリル・ベイ)その後、クールベは1870年のパリ・コミューンに参加してスイスに亡命せざるを得なくなり、不遇のうちに亡命先で57歳で亡くなります。

コンスタンスは、オペラ座の踊り子としてはかなり才能があったらしく、1854年の新聞の批評欄でも「優美で気品がある」と褒められています。詩人で批評家のテオフィル・ゴーティエも注目したようでした。

時は、日本で言えば、幕末の話です。現代人の感覚では、娼婦から愛人という遍歴は、眉をひそめるかもしれませんが、150年前は、田舎出の、しかも、私生児として生まれた女の子が、社交界にデビューするなり、それなりの地位に昇る手段の一つだったのかもしれません。富裕層は、劇場などに出かけては踊り子や女優らを自分の愛人にする時代でした。

 クールベも依頼主のベイの2人とも不遇のうちに亡くなりました。でも、コンスタンスの場合は、美貌と才覚に恵まれたおかげか、「成功者」として穏やかな晩年を過ごしたようでした。享年75。

松岡將著「在満少国民望郷紀行ーひたむきに満洲の大地に生きて」は浩瀚な労作でした

もし、私が「松岡総裁」と親しみを込めて呼んでいる松岡將氏と、面識を得ることがなかったならば、これほど、日本近現代史の「汚点」と言われた満洲問題について興味を持つこともなく、かつて満洲と呼ばれた現中国東北地方を実際に旅したりすることはなかったことでしょう。

松岡総裁という呼称は、日本の首席全権代表として国際連盟を脱退して有名な松岡洋石が、南満州鉄道(満鉄)総裁を務めたことがあったことから、私が勝手に(笑)、その名前にちなんで付けたものですが、松岡氏の御尊父は、松岡二十世(まつおか・はたよ)という戦前の労働問題専門の知識人でした。ゾルゲ事件で処刑された元朝日新聞記者の尾崎秀実と東京帝大法学部~大学院で同級生で、北海道で農民運動に挺身して治安維持法で逮捕され、その後、家族とともに満洲に渡り、敗戦後はシベリアに抑留されて帰らぬ人となった人でした。私も個人的に興味がある甘粕正彦が理事長を務めた満洲映画にも携わったことがある人で、それらの経緯については、松岡將氏の「松岡二十世とその時代」(日本経済評論社)に詳しく書かれております。

さて、松岡氏(昭和10年2月生まれ)自身は、日本の最高学府を卒業して霞が関の官僚となり、退官して老境に入ってからも拘り続けたのは、国民学校一年生の6歳から11歳までの5年間、「在満少国民」として過ごした満洲のことでした。それなりに家族団らんもあり、平穏な暮らしが一変したのは、1945年8月9日、日ソ中立条約を破棄したソ連軍による侵攻でした。松岡氏は、ソ連軍の蛮行を目の当たりにし、父親が行方不明で、命からがら大陸が引き揚げるという壮絶な筆舌に尽くしがたい体験をしただけに、忘れよと言われても一生忘れることはできないことでしょう。

その後、松岡氏は退官して時間的に余裕ができるようになってから、旧満州の地を何度も訪れ、数千枚もの写真を収めてきました。例えば、かつてのお城のような形をした日本の関東軍司令部の庁舎が、そのまま壊されずに現代でも中国共産党吉林省委員会として使われたりしています。そこで、現在と昔を比較した「今昔物語」としてセンチメンタル・ジャーニーを写真入りでまとめたものが、「在満少国民望郷紀行ーひたむきに満洲の大地に生きて」(同時代社、2018年9月30日初版、3000円+税)というタイトルでこのほど出版されました。

この企画については、私自身は以前から、スライドショーとして拝見したり、お話を伺ったり、事前にゲラまでお送り頂いたりしておりましたが、実際に出来上がった本を見て吃驚です。262ページの横変型のB5判というのでしょうか。しかも、百科事典のような重さです(笑)。

これなら、皆様に購入して頂くのが一番ですが、全国の自治体の図書館や、中・高・大学の付属図書館でも取り揃えてもらい、後世に伝えてほしい一冊です。

大連~奉天(瀋陽)~新京(長春)~哈爾浜。私も中国新幹線「和諧」号に乗って2014年7月17~23日にかけて旅行をしたことがあるので、写真を見て大変懐かしい気分になりました。何と言っても、中国が凄いところは、あれほど、「偽満洲」と全面的に否定しておきながら、かつての日本のヤマトホテルは現在でもホテルに、旧満州中央銀行は、中国人民銀行吉林省支店にするなど、そのまま再利用していることです。韓国が、近代建築の粋を集めた旧朝鮮総督府を破壊してしまったのとは正反対です。

以前(5年前の2013年)、松岡氏が「松岡二十世とその時代」を出版された時に、あまりにも多くの史料が引用されていたことから、私は不用意にも「随分たくさんの資料を持ち帰ることができたんですね」と感想を述べたところ、氏から「着の身着のまま、裸一貫でかろうじて帰国できたのですから、そんな資料なんかあるわけありません。一から、いや、ゼロから集めたのです」と真顔で反駁されたことがありました。

国家と歴史に翻弄された引揚者の苦労を知らない、書物でしか知らない戦後世代の甘さを痛感し、恥じ入ったものでした。

松岡氏は敗戦直後、新京(長春)に留まらざるを得なかった際に、市内で銃撃戦に遭遇したり、ソ連兵による暴行を見聞したりしたらしいのですが、この本ではあまり深く触れておりません。

松岡氏は、この本を通じて、満洲の「負の遺産」以外のものを伝えたかったのではないかと私は思いました。そして、ただひたすら「ひたむきに満洲の大地に生きた」この記録が、後世に伝えるべき「歴史の証言」となっており、特に、こんな時代があったことさえ知らない多くの若者には、この本を手に取って読んでほしいとも思いました。

イエメン難民が済州島に押し寄せ、韓国で難民法見直し署名が殺到

はるか遠く中東のイエメンでは、2015年から、またまた内戦が続いています。1990年に南北イエメンが統一された後の94年にも内戦がありましたから、色んな複雑な要素が絡んでいて一言では説明できません。

今回、3年以上続いている内戦は、イスラム教スンニ派が主導するサウジアラビア中心のアラブ連合軍が支える暫定政権と、イランの後押しを受けるイスラム教シーア派の武装組織フーシ派が対立する構図で、要するに、イランとサウジの「代理戦争」とみられているという報道がありましたが、これが一番分かりやすいです。

小生のようなフランスかぶれにとって、イエメンという土地は、仏象徴派詩人アルチュール・ランボーが20歳で筆を折った後、貿易商というより武器商人として拠点にしたイエメンのアデンという港町が非常に印象深くインプットされております。(アデン発のランボーの手紙が多く残っています)

いずれにせよ、その現代のイエメンでは、日本ではほとんど全くといっていいくらい報道されていませんが、内戦という名の残酷な殺戮が毎日のように行われ、多くの難民が国外に逃亡しています。

はるか遠くの中東の話なので、日本や東アジアは関係ないと思っている人が多いでしょうが、今、そのイエメン難民が韓国の済州島に押し寄せて、問題になっているというのです。

このことについては、小学館系のネットメディアNEWSポストセブンに9月4日付で寄稿したノンフィクション作家前川仁之氏の現地取材記事「済州島にイエメン難民続々、反対派韓国人『ニセ難民』と批判」に詳しいので、ご興味のある方は、リンクを貼らせて頂きましたので、クリックしてお読みください。

何で、遠くアラビア半島の南端に位置するイエメンの難民が、はるばる済州島にまでやってきたのかー? 前川氏はこう書いております。

済州島では2002年以来、観光促進のため諸外国からの旅行者に対し、30日間までノービザで滞在できる制度をとっている。そこへ持ってきて昨年12月、マレーシアのクアラルンプールと済州島をつなぐLCCの直行便が就航したのである。内戦状態のイエメンから、近隣諸国を経てマレーシアまで逃げて来ていた人々はそこでの滞在期限に追われ、今度は直行便に乗って済州島までやって来る。こんな具合にして今年の1月から5月までに560名以上のイエメン人が来島し、難民申請を出したのだった。」

東南アジアのインドネシアは世界最大のイスラム国であり、隣国のマレーシアは、イスラム教を国教と定めています。つまり、アフリカもアラビア半島も東南アジアも、イスラム・ネットワークでつながっているわけです。

そして、格安航空で済州島に逃れてきたイエメン難民に対して、韓国国内では「難民法の見直しを求める市民のネット署名が、1カ月で70万人を超えた」というのがこの記事の趣旨です。

現在、日本でも移民・難民問題がクローズアップされる一方、「観光公害」まで叫ばれておりますから、この韓国のケースは、日本の近未来であり、幕末の「鎖国か」「開国か」に匹敵するぐらいの決断を迫られているのかもしれません。