ゾルゲが愛した銀座のバー、レストラン=情報提供求めます

 相変わらず、オーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房)を読んでおります。

 昭和8年(1933年)9月13日、ソ連赤軍第4部の諜報工作員、リヒアルト・ゾルゲは、前任地の上海での任務を終え、モスクワからベルリン、米国、カナダを経由して横浜港に上陸します。この時、「2年間の任務」の約束だったはずの諜報活動が、逮捕されるまで8年もの長期に渡ること(プラス3年間の巣鴨刑務所拘置)をゾルゲは知りません。

銀座電通ビル 1936年、日本電報通信社(電通)は聯合通信社と合併させられ、同盟通信社となった。戦前は、同盟通信の一部(本体は日比谷の市政会館)と外国の通信社・新聞社が入居 ドイツ紙特派員ゾルゲと、諜報団の一員アヴァス通信社(現AFP通信)のブーケリッチもこのビル内で働いていた

 独新聞社特派員を隠れ蓑にした東京でのおどろおどろしいスパイ活動は、既に何百冊もの本に書かれていますので、何か、変わった趣向はないかなあ、と思いながらこの本を読んでいました。そしたら、尾崎秀実を含めたゾルゲ諜報団は、バーやレストランに関して、かなり高級店を利用していることが分かりました。特に、ゾルゲに関しては、「酒」と「女」で情報収集に励んでいたことがモスクワ当局にでさえ知れ渡っていました。まさに、007ジェームズ・ボンドです。

 私は以前、この渓流斎ブログで「スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店『ケテル』と『ローマイヤ』」(2021年3月19日)を書いたことがあり、大変好評で、コメントまで頂いたことがありました。

銀座並木通りの対鶴ビルにあった「ローマイヤレストラン」の店頭に立つローマイヤさん(「ローマイヤレストラン」の公式ホームページから)※安心してください。お店の店長さんからブログ転載を許諾してもらいました!

 こんな感じで、マシューズ著「ゾルゲ伝」に出てくる東京・銀座の飲食店を探索しようかと思いましたら、残念ながら、90年もの歳月が経てば、もう跡形も痕跡すら残っていません。著者によると、1934年当時、銀座界隈には2000軒以上のバーがあったといいますが、ゾルゲの行きつけの飲食店等として、例えば、こんな店が出てきます。

 1、銀座のドイツ料理店「ローマイヤ」、ヘルムート・カイテル(ケテル?)が経営するドイツビアホール兼バー「ラインゴールド」

 2、銀座のバー「こうもり」

 3、1934年創業の「銀座ライオン」(今も当時の建物のままあります!ゾルゲはもっとこじんまりとした本格的なバーの方を好んだとか)

 4、有楽町の「ジャーマン・ベーカリー」

 5、ゾルゲとヴーケリッチが定期的に会うことになった銀座のレストラン「フロリダ・キッチン」

 6、最新のタンゴが演奏された「フロリダ・ダンスホール」「シルバー・スリッパー」

 7、無線技師マックス・クラウゼンと待ち合わせをした数寄屋橋のバー「ブルーリボン」

 最初の1番の「ローマイヤ」と「ケテル」については、先述した「スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店『ケテル』と『ローマイヤ』」(2021年3月19日)で取り上げていますので、御面倒でもこちらをご参照ください。「ラインゴールド」は、ゾルゲの最愛の日本人伴侶、石井(三宅)花子が、「アグネス」の名前でバイエルン風の衣装を着てホステスとして働いていたドイツビアホールで、マシューズ著「ゾルゲ伝」によると、経営者はドイツ人のヘルムート・「パパ」・カイテル(中国のドイツ植民地青島出身で、第一次大戦で日本軍の捕虜となり、日本人女性と結婚し、1924年に「ラインゴールド」を開業)です。カイテルとは恐らく、ケテルと同一人物で、彼はドイツ料理店「ケテル」とドイツバー「ラインゴールド」の2軒を経営していたと思われます。「ラインゴールド」の場所は西銀座5丁目となっているので、銀座5丁目5の「ケテル」とは少しだけ離れています。「ケテル」は、駐日ドイツ大使オットーと食事、「ローマイヤ」は、独大使館海軍アタッシェ、ヴェネッカーらと食事に、「ラインゴールド」は石井花子らを目当てに個人的に通ったと思われます。

 2番目のバー「こうもり」に関しては、そこでウエイトレスとして働いていたケイコがゾルゲに恋をし、それを知らないゾルゲは美しい欧州人女性を店に連れて来たことから、ケイコは絶望して自殺を決意をするも、ドイツ人の経営者に止められた逸話も残っています。

かつて「ケテル」があった所(銀座並木通り) 今は、高級ブラント「カルチェ」の店になっています

 もっと詳しい情報がないものか、とネットで検索していたら、世の中にはマニアの方がいるもので、「スパイ・ゾルゲが愛したカクテル」というタイトルで、洋酒評論家の石倉一雄さんという方が2011年11月から翌月にかけて、8回に渡って連載されている記事を発見しました。ゾルゲがどんな酒を呑んでいたのか「推測」する話が中心ですが、当然ながら通ったバーについての記述もあります。

 「こうもり」については、ドイツ語で「フレーデルマウス」と呼ばれ、隠れ家的バーで、無線技士クラウゼンと毎週落ち合う店を、7番の「ブルーリボン」からこの「フレーデルマウス」に変更したといいます。石倉一雄氏はとてつもない人で、この「フレーデルマウス」(ふくろう)に関しては、織田一麿のリトグラフ作品に「画集銀座第一輯/酒場フレーデルマウス」(1928年)という作品があり、東京国立近代美術館で見られると紹介しています。あのホステスのケイコさんの命を救った経営者はドイツ人のボルクと書いています。凄い人ですね。

 7番の数寄屋橋の「ブルーリボン」については、石倉氏は、日本バーテンダー協会の会誌「ドリンクス」の落合芳明編集次長の「『ブルーリボン』には一瓶30銭のビールを頼めば無料で食べられるサンドイッチがあった」という証言から「当時の一流バーの一軒だったと推すことができる」と書いております。

 また、6番の「シルバー・スリッパー」は、「外国特派員が頻繁に訪れていた」と書いていましたが、何処にあったかについては書かれていませんでした。

銀座8丁目に現在もある舶来品専門店「オサダ」。この辺りにゾルゲが利用した「フロリダ・キッチン」があったと思われます。銀座の同盟通信社の目と鼻の先です

 話は前後しますが、ゾルゲとヴーケリッチが会っていた5番のレストラン「フロリダ・キッチン」は、これまたネット検索すると、銀座8丁目5の輸入洋品店「オサダ」(今もあります!)の隣りにあったようです。

 調査研究に長けた石倉氏は、モスクワからゾルゲに送られて来た諜報活動費は、今のお金に換算すると月額300万円だったことを明らかにしています。まあ、それだけあれば、銀座の高級バーを豪遊できるわけですね。

 いずれにせよ、1~7番に挙げたゾルゲが愛した銀座の飲食店の場所は、一部を除き、はっきり確定できません。もし御存知の方がいらっしゃれば情報提供して頂くと大変有難いです。小生が早速、現地(跡地)に足を運んで写真を撮って来ます。

銀座8丁目にある輸入品専門店「オサダ」

このように(笑)。

「山本五十六長官機撃墜の真相」と「通訳者と戦争犯罪」=第52回諜報研究会

 最近、加齢のせいか、自宅の居間から書斎に行った際、「あれっ?何を取りにに来たのだろう?」と、綾小路きみまろさんの漫談みたいなおめでたい世界に私自身も段々入って来ましたが、10月7日(土)、早稲田大学で開催された第52回諜報研究会に参加して来ました。

 「インテリジェンス効果のミクロ、マクロの諸側面」をテーマにお二人の著名専門家が登壇されましたが、参加者が思っていたよりそれほど多くありませんでした。(オンラインで30人ほど参加されていたようでしたが)「こんな面白い講義を聴かないなんて勿体ないなあ」と個人的には思いました(苦笑)。

講義で熱演される原勝洋氏

 お一人目は、戦史研究家の原勝洋氏(81)で、演題は「山本五十六聯合艦隊司令長官機撃墜の真相/乱数表の使いまわし」でした。このタイトルで大体の内容が分かると思いますが、太平洋戦争最中の1943年4月、前線視察に向かった山本長官の搭乗機が撃墜されたのは、米軍が日本海軍の暗号電を解読し、しかもその真相は日本海軍が暗号の乱数表を使い回していたことを米軍が見破った結果によるものだったということを、原氏自身が米ワシントンの公文書館で機密資料を発掘して明らかにしたのでした。

 この件に関しては、時事通信社の宮坂一平記者が、原氏に直接、何度もインタビューし、記事が今年8月に全国に配信されましたので、お読みになった方もいらっしゃると思います。(上の北海道新聞の記事もそうです)

 私は、編集局長賞ものの大スクープだと思いましたが、会社は夏の恒例の戦争企画か、「暇ダネ」扱いしかしてくれなかったそうです。酷い会社ですねえ(苦笑)。

 ま、それはともかく、原氏の話は、「ウルトラ」と呼ばれる超機密文書を米公文書館で発掘した苦労話が主でしたので、会場に参加した私は、珍しく質問しました。最大の疑問は、「何で日本海軍は暗号の乱数表を使い回しにしたのか」ということだったからです。

 それに対して、原氏は「日本海軍はこんな複雑な乱数表は破られるわけがないと確信していたのでしょう。でも、米国にはIBM(コンピューター)がありますから、乱数表を変えたり、順番を変えたりすれば解読できるわけですよ。それなのに、日本の海軍軍令部は米国人は解読できるわけがないと思い込んでいた」と仰るのです。なるほど、真珠湾攻撃で勝利した海軍は傲慢になっていたことが分かります。山本長官が撃墜される1年前に、ミッドウェー海戦での大敗があり、これが後世の歴史家から見れば「勝負の分かれ目」になりました。このミッドウェー敗戦も、暗号が米軍に解読されていたためだったことに日本海軍は気が付かなかったのでしょうか? 失敗から教訓を学んで改善しない限り、必然的に負けるはずです。

 お二人目は、立教大学異文化コミュニケーション学部・大学院研究科特別専任教授の武田 珂代子氏で、演題は「英軍戦犯裁判での通訳被告人による諜報活動」でした。個人的ながら、私自身も通訳の仕事をしたりしているので、「もし、自分が戦時中に通訳をやっていたら、戦後、裁判にかけられて処刑されていただろうなあ」と、他人事ではなく、身近に感じながら興味深く拝聴しました。

 お話は、武田氏が今年6月に出版されたばかりの「通訳者と戦争犯罪」(みすず書房)を中心に話されました。その前に、武田氏の経歴がちょっと変わっておりまして、米西海岸のサンフランシスコとロサンゼルスのほぼ中間にあるモントレー国際大学(現ミドルベリー国際大学モントレー校)御出身ということでした。この大学院は、私自身も含めて日本人にはほとんど知られていませんが、米国では「CIA養成学校」と噂されるほど、出身者の多くがCIAに就職しているそうです。

 さて、武田氏によると、ナチス戦犯裁判では20人の戦時通訳者しか被告人にならなかったのに、対日BC級戦犯裁判では、100人以上の被告人が出たというのです。特に一番多かったのが、シンガポールや香港などで捕虜が虐待されたという英軍裁判で、起訴された通訳者は39人(うち台湾人18人)だったといいいます。内訳は、軍人3人で、軍属・民間人が36人。英語は勿論、福建語やマレー語、広東語できる台湾出身者が重宝されたようです。裁判で有罪になった通訳者は38人(台湾人17人)で、死刑になった人は10人(台湾人6人)だったといいます。

 なぜ、単なる通訳者なのに、死刑に処せられるほど罪が重くなるのかという理由について、武田氏は、捕虜の拷問に際しての通訳や虐待への参加などで、被害者から「可視化」されて覚えられてしまうことと、戦犯の共同責任を問われることなどを挙げておられました。

 このほか、通訳だと語学が出来るので同時にスパイだと疑われる場合がありますが、実際に通者兼諜報員だった人の例も武田氏は何人か例を挙げていました。その一人が日系二世のリチャード・サカキダという通訳者で、この人は、あの山下奉文大将が最後の司令官を務めたフィリピンの第14方面軍司令部で、通訳をしながら、フィリピン・ゲリラに情報を流していたスパイだったといいます。

 日本人では、通訳者を装ったスパイとして、日露戦争開戦時に諜報活動をし、最後はロシア軍に捕獲されて処刑された横川省三や沖禎介らを紹介していました。

 さて、個人的には武田氏の「通訳者と戦争犯罪」(みすず書房、4950円)はちょっと難しそうなので、その前に、2018年に出版された同氏の「太平洋戦争 日本語諜報戦」 (ちくま新書、880円)を先に読んでみようかな、と思っています。

 この日登壇された原勝洋氏も武田珂代子氏も非常に精力的な研究者で熱弁に圧倒されましたが、お二人とも非常に根が明るく楽しそうな方だったので、難しい内容の講義も楽しく拝聴できました。

ゾルゲは「陸軍中野学校」出身みたいだった?=「新資料が語るゾルゲ事件」シリーズ第2弾、オーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房)

 長年のこの渓流斎ブログの御愛読者の皆さまならよく御存知かと思いますが、私は、長年、「20世紀最大の国際スパイ事件」と呼ばれる「ゾルゲ事件」にはまってしまい、このブログでも散々書いて来ました。(そのほとんどの記事は、小生の不手際で消滅してしまいましたが)

 関連書籍もかなり読み込んできたので、偉そうですが、何でも知っているつもりになってしまいました。そのため、しばらくゾルゲ事件関係から離れていました。そしたら、解散した日露歴史研究センターを引き継ぐ格好で、加藤哲郎一橋大学名誉教授らが昨年、「尾崎=ゾルゲ研究会」を立ち上げ、ほぼ同時に、みすず書房から「新資料が語るゾルゲ事件」シリーズ全4巻の刊行が昨年10月から刊行開始されたこともあり、その潮流に巻き込まれる形で、またまた小生のゾルゲ事件に関する興味も再燃してしまったのでした。

浮間舟渡公園

 ちょっと余談ながら、私が最近、《渓流斎日乗》でゾルゲ事件に関してどんなことを書いていたかピックアップさせて頂きます。

①2018年4月22日 「解明されたゾルゲ事件の端緒ー日本共産党顧問真栄田(松本)三益の疑惑を追ってー」

②2019年11月12日 「新段階に入ったゾルゲ事件研究=思想検事『太田耐造関連文書』公開で」

③2020年7月27日 「『ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち』はお薦めです」

④2021年3月19日 「スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店『ケテル』と『ローマイヤ』」

⑤2022年3月20日 「『日ソ情報戦とゾルゲ研究の新展開』=第41回諜報研究会を傍聴して」

⑥2022年11月8日 「ゾルゲは今でも生きている?=『尾崎=ゾルゲ研究会設立第一回研究会』に参加して来ました」

⑦2023年1月12日 「動かぬ証拠、生々しい真実=アンドレイ・フェシュン編、名越健郎、名越陽子訳『新資料が語るゾルゲ事件1 ゾルゲ・ファイル 1941-1945  赤軍情報本部機密文書』」

⑧2023年1月18日 「ゾルゲと尾崎は何故、異国ソ連のために諜報活動をしたのか?=フェシュン編『ゾルゲ・ファイル 1941-1945 赤軍情報本部機密文書』」

⑨2023年10月1日 「使い捨てにされたスパイ・ゾルゲ?=尾崎=ゾルゲ研究会の第3回研究会「オーウェン・マシューズ『ゾルゲ伝』をめぐって」

 皆さまにおかれましては、わざわざ再読して頂き、誠に有難う御座います。

浮間舟渡

 我ながら、結構書いていたんですね。そして今、「新資料が語るゾルゲ事件」シリーズ第2弾、オーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房、6270円)をやっと読み始めています。この本、今年の5月10日に初版が出ておりますが、初版、じゃなかった諸般の事情で出版されてから5カ月遅れで読み始めております。

 いやあ、実に面白いですね。著者はジャーナリストですが、まるで推理作家のように文章がうまいのです(翻訳のせい?)。(例えば、100ページに出てくる「少なくとも1ダースほどの別名で知られていた、このピク(本名エフゲニー・コジェフニコフ)は不謹慎な冒険者が多いこの街で、詭計を働く一人滑稽歌劇(オペラ・ブッファ)で既に名を馳せていた。」といったような凝った書き方)

浮間舟渡

 先程、私はゾルゲ事件に関しては何でも知っているつもり、などと偉そうに書きましたが、加齢とともに記憶力も急降下し、失語症か何かのように固有名詞が出て来なくなりました。脳細胞は一日、10万個消滅するらしいですから、忘れてしまったことが多いのです。そのため、この本は随分新鮮な気持ちで読むことができます。また、この本を読んで、自分が間違って覚えていたことも分かりました。

 決定的な間違いは、私は、ゾルゲが所属していた「赤軍第4部」という諜報機関は、かの悪名高いKGBにつながる、と思い込んでいたのでした。スパイと言えば、世界中の誰もが知っているKGBですからね。(勿論、プーチン露大統領の出身)著者のマシューズ氏は、ソ連の諜報機関について、かなり念入りに調べ上げているので大変な勉強になりました。

 簡略すると、まず、冷戦時代に活躍したKGBは、戦時中(1934~46年)はNKVD(内務人民委員会)と呼ばれ、その前は秘密警察GPU(国家政治保安部)という組織でした。NKVDやGPUは、ゾルゲ事件関係の本には必ず出てきます。これらはもともと、レーニンがロシア革命を成し遂げた直後に、全ロシア臨時委員会(チェカ)として発足されました。

 次に、コミンテルン(共産主義インターナショナル、1919~43年)の中に諜報機関OMS(国際連絡部)が設立されます。ゾルゲはドイツ人ですから、当初はこのOMSに所属していました。

 最終的にゾルゲが所属して上海、東京で活動したのはGRU(赤軍参謀本部情報総局)傘下の労働者・農民赤軍参謀本部第4部(赤軍第4部)でした。ゾルゲは、この組織を設立したヤン・カルロヴィッチ・ベルジン(1889~1938年、48歳で粛清処刑)からスカウトされたわけです。

 私は、このソ連の三つの諜報機関の「親玉」は誰なのか、と考えてみたら、まずKGBは「警察」、OMSは「共産党」、赤軍第4部は「軍部」だということにハタと気が付きました。つまり、大日本帝国の組織に当てはめれば、KGBは「特高」、赤軍第4部は「陸軍中野学校」に当たるのではないかと思ったのです。OMSは、朝日新聞を下野した緒方竹虎も総裁を務めた内閣の「情報局」に当たるかもしれません。当たらずと雖も遠からずでしょう。

 ゾルゲは「陸軍中野学校」出身かと思うと、急に身近に感じでしまいますよね(笑)。もっとも、同じく死刑になった盟友尾崎秀実は、ゾルゲはコミンテルンのスパイだと最後まで信じ込んでいたようですから、尾崎は、ゾルゲが「情報局」の人間だと思い込んだことになります。この違いは大きいですね。尾崎は軍人嫌いでしたから、もし、ゾルゲが「陸軍中野学校」だと知ったら、あれほどまで情熱的にゾルゲに情報を提供しなかったかもしれない、と私なんか思ってしまいました。

 

 

使い捨てにされたスパイ・ゾルゲ?=尾崎=ゾルゲ研究会の第3回研究会「オーウェン・マシューズ『ゾルゲ伝』をめぐって」

 9月30日(土)、尾崎=ゾルゲ研究会(加藤哲郎代表、鈴木規夫事務局長)の第3回研究会「オーウェン・マシューズ『ゾルゲ伝』をめぐって——21世紀尾崎=ゾルゲ研究の光景——」に参加して来ました。

 今年5月に出版された「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みずず書房、翻訳者は加藤哲郎、鈴木規夫両氏)の著者でロンドン在住のオーウェン・マシューズ氏をZOOM会議のリモートでお招きして、5人の代表する日本人の研究者からの質問を交えて討論が展開される画期的なセミナーでしたが、回線の不具合でハウリングしたりして、前半はほとんど聞き取ることが出来ず、内容が理解できなかったのが残念でした。

尾崎=ゾルゲ研究会第3回研究会 モニター画面は、「ゾルゲ伝」著者オーウェン・マシューズ氏、右端は同研究会の加藤哲郎代表、その隣は鈴木規夫事務局長

 しかも、セミナーには大抵、簡単なレジュメなどが配布されるものですが、この研究会ではそれがなく、また発言者の早口のスピーチだけではメモがとても追い付けなかったため、梗概についての引用は、不正確になるかもしれないものはやめておきました。

 その前に、研究会が行われた会場には驚きました。東京国際教育会館という所でしたが、最初の案内では、地下鉄茗荷谷駅に近い拓殖大学文京キャンパスと書かれていたので、そこに行ったら、守衛さんが「ここではなく、ここを出て左を直進した所にあります」というのです。途中で分からなくなり、歩いていた小学生の女の子3人がいたので、「3人だったら、変なおじさんに間違われなくて済むかぁ」ということで道を聞いたら、彼女たちも分からず、何となく右方向に直進したところ、目の前にありました(笑)。

 どう見ても、大正か昭和初期に建てられた立派な歴史的建造物です。この東京国際教育会館とは、この会場を提供して頂いた拓殖大学教授で、「ゾルゲ・ファイル(1941-1945)」(みすず書房)の翻訳者でもある名越健郎氏の話などによると、もともと東方文化学院東京研究所(東大東洋文化研究所)で、何と清朝末期の1900年に起こった義和団事件の賠償金で、1933年に建てられたものだというのです(後で、東大安田講堂などを設計した内田祥三の設計だと分かりました)。(他にも賠償金で京大人文科学研究所も銀閣寺近くに建設されたといいます)。義和団事件のことに触れると長くなるので、もし御存知なければ、独自で調べてください(笑)。東方文化学院は戦前、中国からの留学生も受け入れていたようです。

拓殖大学文京キャンパス 国際教育会館

 戦後、外務省と東大の共同管理となり、外務省の研修所としても使われていましたが、その後、近くにキャンパスがある拓殖大学が今から20年ほど前に購入したそうです(金額を聞きましたけど秘密にしておきます)。

 先の義和団事件で賠償金を得たのは日本だけでなく、例えば、米国もそうで、米国は、自国に賠償金を使うのではなく、そのお金で中国に精華大学を創立したというのです。精華大学と言えば、中国国家主席の習近平氏の出身校です。先日、英国の教育専門誌タイムズ・ハイヤー・エデュケーションが「世界の大学ランキング 2024」を発表しました。この精華大学は名門北京大学の14位を抑えて、世界12位(アジア首位)にランクされました。ちなみに、日本の東大は29位でした。習近平さんは米国がつくった大学を出たわけですから、もう少し、米国と仲良くしても良さそうです。

 あれっ? 尾崎=ゾルゲ研究会の話は何処に行ってしまったのでしょうか?ーブログ記者の力量が問われますが、今回は諸般の事情で詳細に書けませんので、堪忍してください。それより、オーウェン・マシューズ氏が「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」An Impeccable Spy: Richard Sorge, Stalin’s Master Agent を2019年に本国英国で出版したお蔭で、英国で多くの人にスパイ・ゾルゲの存在が知れ渡ったことを今回初めて知りました。ゾルゲはドイツ人の父親とロシア人の母親との間に生まれ、ソ連のスパイとして中国・上海と日本・東京で活動した人でした。ということは、情報公開が進まない中国は別格にして、当然、日本語とドイツ語とロシア語、または米ウィロビー報告などの文献が多いので、英国では研究者か、通好みの人以外はゾルゲは知られていなかったのでしょう。

 「ゾルゲ伝」の著者のマシューズ氏は、訳者解説などによると、1971年、英国人の父とロシア人の母との間にロンドンで生まれ、ロシア語にも堪能。名門オクスフォード大学卒業後、ジャーナリストになった人です。祖父や大叔父がスターリンの粛清期を体験したことから、殊更、ロシア近代史関係には興味があり、ニューズウィーク誌のモスクワ特派員を務めたこともあります。ゾルゲ研究の取材で何度も来日したことがあるようです。

 マシューズ氏は、この本を書くきっかけなどについて、「とにかくゾルゲは面白く興味深い人物だ。ドイツ人だが、(母親が)ロシア人でもあり、日本のことを大好きで、世界中の色んな人やモノとつながっている。彼は、大日本帝国など古い世界が崩壊する寸前の世界に生きていたが、1932年に来日した時は、将来日本と米国が戦争することなど予想もつかなかったのではないか。1930年代初めのソ連のインテリジェンスの状況は最も悲惨で、世界中に発信能力があった優秀なゾルゲを使い捨てにしたのではないか」などと話していました。(私の意訳も入ってます!)

青柳いづみこ著「パリの音楽サロンーペルエポックから狂乱の時代まで」を読んで興奮しています

 個人的なお話ながら、私の大学の卒論のテーマが「印象派」だったため、どうしても19世紀から20世紀にかけてのフランス文化からの桎梏から抜けきれません。

 卒論は「二人のクロード」というタイトルで、美術界の印象派を代表するクロード・モネと音楽界を代表するクロード・ドビュッシーの二人にスポットライトを当てて、何故、印象派なるものが当時席捲したのか、その時代的背景や思想等も含めて分析したつもりなのですが、今から読み返せば、まるで小学生以下の作文です。

 今、青柳いづみこ著「パリの音楽サロンーペルエポックから狂乱の時代まで」(岩波新書、2023年7月20日初版)を読んでいますが、この本を読むと、改めてその思いを強くしました。著者は、ドビュッシー演奏では第一人者の世界的なピアニストですが、講談社エッセイ賞を受賞するなど文にも秀でたいわゆる両刀使いの才人です。実に本当によく文献を調べ尽くしておられます。

 時代は、ナポレオン三世の第二帝政から普仏戦争での敗北~パリ・コミューンを経て、第三共和政に移行した激動期です。この時代なら、フランス語を少しは齧ったことがある人なら誰でも、画家のモネと音楽家のドビュッシー以外なら、ヴェルレーヌやランボー、ボードレール、マラルメといった詩人を挙げることでしょう。もしくは、フロベールやゾラといった小説家か。そんな時代でもいわゆるブルジョワ階級の貴族が健在で、特に暇を持て余した?公爵夫人、伯爵夫人たちが自宅を開放して、芸術家(の卵も)を招いて夜な夜な怪しげなパーティーを開き、そんなサロンから巣立って世界的にも有名になった詩人、音楽家、画家、小説家は数多に及ぶといった史実は、さすがに私でも知っておりましたが、誰が具体的にどんなサロンに参加して、参加した人たち同士はどんなつながりがあったのか?ーつまり複雑な人物相関図までは知りませんでした、と告白しておきます。

 著者は、数多いるサロンの主宰者の中で、まずニナ・ド・ヴィヤール夫人(1843~84年)を取り上げております。勿論、恥ずかしながら、私自身すっかり忘れておりましたが、この方、「フィガロ」紙の記者エクトール・ド・カイヤス伯爵と結婚し、夫の金利と父親の資産で何不自由のない生活を送っていましたが、ほどなく別居してサロンを開きました。彼女を慕って集まったのが、反体制ジャーナリストや詩人、画家、音楽家らの芸術家です。彼女自身も詩人で、バッハ、ベートーヴェンらを得意とするピアニストでもありました。

 彼女の男性遍歴は「公然の秘密」で、ステファヌ・マラルメが夢中になり、ヴィリエ・ド・リラダンは生涯の友、アナトール・フランスは愛人でした。この3人は、特に有名ですが、他に親しい関係があった人物に医師で画家で科学者のシャルル・クロ、シャンソン作曲家のシャルル・ド・シヴリー、画家のフラン・ラミ、ジャーナリストで作家のエドモン・バジールらがいます。この他、サロンに参加した人の名前が多く出て来ますが、私が知っているのは、詩人のポール・ヴェルレーヌとヴェルレーヌとランボーの共通の友人だった知る人ぞ知る詩人のジェルマン・ヌーヴォーと、小説家のギイ・ド・モーパッサンぐらいでした。また、エドワール・マネが彼女をモデルに「団扇と婦人」という絵を描いています。(ヴィヤール夫人は1884年、41歳の若さで精神科病院で死去します。)

 さて、この中で、長年、名前は知っていても「人物相関図」がなかなか分からなった人物がこの本を手掛かりにやっと分かりました。鍵を握っていたのが、サロンに頻繁に通って、ヴィヤール夫人とも昵懇だったシャンソン作曲家のシャルル・ド・シヴリーでした。このシヴリーとサロンで知り合ったのか、その前からの友人だったのか分かりませんが、有名な詩人ポール・ヴェルレーヌがいます。ヴェルレーヌは、このシヴリーの妹マチルドと結婚します。そして、新婚早々の二人の家庭生活をめちゃくちゃにして破壊したのが、シャルルヴィルの田舎からパリに出て来たばかりの17歳の少年アルチュール・ランボーだというのは、皆さん、御案内の通りです。

Asoukayama

 ここまではよく知られていることですが、何とドビュッシーが登場します。9歳のドビュッシーにピアノを教えてパリ音楽院に合格するほどまで手ほどきをしたのがモーテ夫人で、彼女は一説にはショパンの門下生と言われていますが、シャルル・ド・シヴリーの母親だったのです。経緯はこうなります。

 普仏戦争の末期、ドビュッシーの父親は志願して国民軍に入隊しますが、国民軍は敗北して、サトリ―の監獄に収監されます。同時にシャルル・ド・シヴリーもパリ・コミューンに巻き込まれて同じサトリー監獄に送り込まれます。ここで二人は知り合い、ドビュッシーの父親は音感の良い自分の息子の音楽の教育について、シヴリーに相談します。それなら自分の母親はピアノ教師だから、どうか、と提案したようです。こうして、9歳のドビュッシーが、モーテ夫人の下を訪れたのは1871年秋のことでした。詩人ランボーがパリに上京し、ヴェルレーヌ宅、つまりは、モーテ夫人宅に居候したのが1871年9月中旬で、乱暴狼藉を働いたかどで追い出されたのが1カ月後の10月中旬か下旬だったといいます。となると、ドビュッシーがランボーに会ったか見た可能性は微妙ですが、ゼロではない気がします。ランボーは1891年に37歳の若さで亡くなり、ドビュッシーは20世紀初頭に活躍した印象があったので、2人が同時代人で、パリ市内の何処かですれ違っていたかもしれない、と思うとちょっと興奮しますね。

Asoukayama

 もう一人だけ、取り上げたいのは、サロン主宰者のヴィヤール夫人の愛人だったシャルル・クロです。この忘れられた天才、もしくは歴史から抹殺された天才の偉業は、この本では「第2章 シャルル・クロ」と章立てされて詳細されています。サロンには医者であるアンリとともに、パリ大学の医学部学生時代から参加し、詩人であり、画家であり、科学者でもあった人です。ヴェルレーヌとは親友で、ランボーが上京した際、最初に面倒を見たのがシャルル・クロだったというのに、ヴェルレーヌは「呪われた詩人」のラインアップの中にクロの名前を無視して入れませんでした。いわゆるヴェルレーヌ=ランボー事件でのわだかまりが、ヴェルレーヌにはあったようでした。

 他に、科学者としてのクロの不幸はまだあります。1867年末、フランスの科学アカデミーに「色彩、形体、運動の記録と再生の修法」という論文を送り、カラー写真に関する「三色写真法」に発展しましたが、わずが2日の差で他人に先を越されてしまいます。

 また、1877年4月、現在のレコードとほぼ変わらないディスク式の「パレオフォン」と名付けた蓄音機の原理の論文を科学アカデミーに送付し、この時点で米国のエジソンに半年先んじていましたが、特許を取るのはエジソンの「フォノグラム」の方が先でした。

 実についていない人、と言わざるを得ませんね。

名倉有一氏の「恒石重嗣年譜」とモーツァルトの曲、何だっけ?

 在野の近現代史研究家で、NPO法人インテリジェンス研究所特別研究員の名倉有一氏から「恒石重嗣年譜」の資料が、メール添付で小生にも送られて来ました。579ページという膨大な資料で、おっ魂消ました。

 恒石重嗣(つねいし・しげつぐ、1909~96年)という人は、太平洋戦争中、陸軍参謀本部参謀(宣伝主任)兼報道部員として敵の戦意喪失を目的としてラジオの宣伝放送「ゼロ・アワー」「日の丸アワー」等を担当した元陸軍中佐です。謀略放送ということで、戦後、戦犯容疑でGHQに2年間で23回も出頭したといいます。東京ローズ裁判のからみや、捕虜を強制的に謀略放送に使った容疑だったようです。その後、出身地の高知市に戻り、不動産業などで生計を立てていたようです。陸士44期ということで、あの瀬島龍三と同期ですね。

 もし、御興味が御座いましたら、インテリジェンス研究所のホームページにも掲載されておりますので、そちらをご参照ください。

 恒石重嗣と同じ1909年生まれの文学者には大岡昇平、中島敦、花田清輝、長谷川四郎、太宰治、松本清張、まど・みちお、飯沢匡らがおり、多士済々です。

 さて、先日、CDプレーヤーを買い換えた話をこのブログに書きました。しばらく聴けなかったCDがやっと聴けるということで、喜び勇んでかけようとしましたが、曲名が分かりません。

 モーツァルトの曲です。「ジャガジャガジャガ ジャガジャガジャガジャ ジャッジャ チャラララッチャチャ」というメロディだけは鮮明に思い浮かぶのに、何の曲かさっぱり出てきません。でも、最初は高を括っておりました。ディヴェルティメントの何番かではないか、という薄っすらとした確信があったからでした。そこで、持っているCDの中の全てのディヴェルティメントを聴いてみました。が、どれも違う? ディヴェルティメント15番変ロ長調でもありませんでした。

 おっかしいなあ?それなら「管楽器のための協奏曲」かな?ということで、フルート協奏曲やホルン協奏曲やオーボエ協奏曲など手当たり次第に聴いてみましたが、どれも違います。モーツァルトはわずか35年の生涯でしたが、作品は厖大です。K626と言われていますが、ジャンルも交響曲、室内楽から宗教曲、オペラまで作曲しています。まさに大天才です。

 そっかあ、もしかして、私の頭の中でグルグルと回っている「ジャガジャガジャガ ジャガジャガジャガジャ ジャッジャ チャラララッチャチャ」という旋律は交響曲39番だったかなあ?ということで聴いてみましたが、これも違いました。ああ、もう分からん、ということで奥歯に物が挟まった感覚でしたが、この日は諦めました。

 それが、一日経った本日、「もしかして、ヴァイオリン協奏曲かもしれない」と急に思い当たり、これまた持っているCDを手当たり次第に聴いてみましたら、やっと見つかりました。「ヴァイオリン協奏曲第4番ニ長調」の第1楽章アレグロでした。

 私が文字で示した「ジャガジャガジャガ ジャガジャガジャガジャ ジャッジャ チャラララッチャチャ」というメロディが出てきますよ(笑)。

 この曲を聴くと凄く元気が出ます。

【追記】2023年9月10日(日)

 渓流斎ブログの愛読者であるYさんから連絡があり、思い出せない曲があったら、グーグルの「鼻歌検索」があるので、試してみては如何ですか?と教えてもらいました。早速、チャレンジしてみましたが、あまりにも鼻歌が下手くそで音痴なのか、うまく行きませんでした。

 でも、iPhoneを使って、CDで曲をかけながら「この曲何?」と聞いたところ、曲名だけでなく、交響楽団名からヴァイオリン奏者まで提示し、そのCDが買えるサイトまで辿り着けるようになっていたのです。これには吃驚。

🎬「福田村事件」は★★★★★

 昨日書いた渓流斎ブログ「100年前の関東大震災直後に起きた不都合な真実」の最後の方で、映画「福田村事件」(森達也監督)のことを書いたので、本日早速、観に行って参りました。言い出しっぺが、観なければ話になりませんからね。この映画は色んなことが複雑に絡んでいて、後からボディーブローのように効いてくる作品でした。今年一番の名作と言っておきます。

 その前に、実は、当初は、観るつもりはなかったのです。生意気ですが、最優先事項ではなかったのでした。特に、今年はつまらないハリウッド映画に遭遇して、劇場に足を運ぶのが億劫になっておりました。それが昨日、たまたまブログを書いた後、友人のY君からメールが来て、「僕は明日『福田村事件』を観に行くつもり」とあったのです。私もブログで朝鮮人虐殺事件のことを書いたばかりだったので、「これも何かの啓示かな」と思ったのでした。

 そして、何よりも、昨日書いたことは、小池都知事を始め、国粋主義者の皆さんの逆鱗に触れる話かもしれませんが、大手マスコミである読売、産経、日経が、大震災後の不穏な空気の中で、朝鮮人虐殺がまるでなかったかのように「報道しなかった事実」には愕然としてしまいました。そこで、この事実を多くの人に読んでもらいたいと思い、やめていたFacebookに昨日の記事だけを何年かぶりに投稿したのでした。そしたら、即、反応がありまして、色んな副産物を得ることが出来ました。それは後で書きます。

映画がはねて、今話題沸騰の池袋「フォー・ティエン」へ。店前は長い行列で22分待ちました。

 映画は、関東大震災が起きて5日後の1923年9月6日、千葉県東葛飾郡福田村(現野田市)で実際に起きた自警団による、朝鮮人だと誤認した日本人虐殺事件を題材にしています。殺害されたのは、讃岐(香川県)から来た薬売りの行商団15人のうち、幼児や妊婦を含む9人です。行商団の人たちは、被差別部落出身で、二重に差別されているような感じでした。この史実は、100年近くも闇に葬られていましたが、1979年から遺族らによる現地調査が始まり、1980年代から徐々に新聞等で報道されるようになったといいます。

 それでも、多くの人には知られず、そういう私もこの映画を観るまで、この事件について全く知りませんでした。

池袋「フォー・ティエン」牛肉のフォー950円 非常に期待していたのですが、小生の馴染みの銀座のフォーの方が美味しいかな?

 先述した「副産物」というのは、Facebookで投稿したところ、色々な方からコメントまで頂いたことでした。その中で、読売新聞出身のSさん(著名な方なので敢えて名前は秘します)から驚きべき内容のコメントを頂いたのです。以下、御本人に事前承諾の上、掲載しますとー。

 映画は、封印されてきた事実をベースにしています。福田村は今の千葉県野田市で、私が住んでいる柏市を含めた東葛地域に当たります。映画が依拠した「福田村事件 関東大震災・知られざる悲劇」の著書である辻野弥生さん(82)は、私も参加している「東葛出版懇話会」の仲間です。懇話会は6月、森達也監督を定例会の講師に招き、映画『福田村事件』の話をしてもらいました。もちろん辻野さんもスピーチしました。

 福田村事件の加害者として検挙されたのは、福田村の自警団員4人と、隣村の田中村の自警団員4人で、その後、恩赦で全員釈放されたといいます。この田中村は現在の柏市ですから、同市にお住まいになっているSさんとは大いに関りがあったわけです。

 Sさんは、読売新聞文化部の放送担当記者出身で、現在放送評論家です。昨日のブログで私が読売新聞の悪口めいたことを書いたので、低姿勢でお詫びしたところー。

 「悪口」ではなく、事実を指摘されたわけですよね。 Y紙についていえば、きのうの夕刊の映画評欄で女性記者が絶賛していました。新聞記者時代も今もそうですが、私は「文化(部)は政治(部)の風下に立たない」と自分に言い聞かせています。

 との返事を頂きました。同じ読売社内でも、違う考え方をする「抵抗勢力」がいらっしゃるということで安心しました。

 あれっ? 映画の話でしたよね? まあ、とにかく御覧になってください。ドキュメンタリー作家の森達也がメガホンを採りましたが、フィクションも取り入れてます。荒井晴彦、佐伯俊道、井上淳一の3人ものベテラン脚本家が恐らく侃侃諤諤と協議して練り上げた台詞と、正確な衣装考証で色鮮やかな大正時代のファッションまで蘇らせ、100年前にタイムスリップしたようです。

 主演は井浦新、田中麗奈、永山瑛太の3人ですが、過去のスキャンダルで謹慎処分が続いていたピエール瀧や東出昌大、昨年、参院選に当選しながら病気で辞職した水道橋博士も出演していて、いい味を出しておりました。特に、ピエール瀧は、地元紙「千葉日日」の編集部長の役で、若い女性記者(木竜麻生)が真実を書くことを主張しても、「不逞鮮人の仕業だと書き直せ」などと当局の意向に沿った発言しかしないので、まさに「はまり役」でした(苦笑)。

 そう、当時は、ネットどころか、テレビもラジオもなく、メディアと言えば新聞だけ。その報道が大衆に与えた影響はかなり大きかったはずです。その新聞が、内務省の発表通り「朝鮮人が暴動を起こそうとしているので、自警団をつくって守るように」との通達をそのまま掲載すれば、民衆はその通り、実行するはずです。加害者も、むしろ正義感に駆られて自分たちの村を守るべきだと立ち上がったのかもしれません。

 これらは100年前の大昔に起きたことなので、現代に起きるわけがない、と考えるのは間違いです。今は、むしろ、SNSなどでフェイクニュースや偽情報が横行しています。

 私も映画の帰り、某駅前で、某政党の政治家が、外国人排斥のアジ演説をしているのに遭遇しました。不安と恐怖に駆られると何をしでかすか分からない群集心理に洗脳される日本人のエートス(心因性)は、100年前とちっとも変っていないのです。

【追記】

 差別用語は当時のまま表記しました。

 

「歴史は繰り返す」のか、「霊が霊を呼ぶ」のか?=倉本一宏ほか著「新説戦乱の日本史」

 倉本一宏ほか著「新説戦乱の日本史」(SB新書、2021年8月15日初版)なる本が、小生の書斎で、どういうわけか見放されて積読状態になっていたのを発見し、読んでおります(もうすぐ読了します)。

 これが、実に、実に面白い。どうして、積読で忘れ去られていたのかしら? 思い起こせば、この本は、確か、月刊誌「歴史人」読者プレゼントの当選品だったのです! 駄目ですねえ。身銭を切って買った本を優先して読んでいたら後回しになってしまいました。

 この本、繰り返しますが、本当に面白いです。かつての定説を覆してくれるからです。一つだけ、例を挙げますと、長南政義氏が執筆した「新説 日露戦争」です。日露戦争史といえば、これまで、谷寿夫著「機密 日露戦史」という史料を用いた研究が主でした。この本は、第三軍司令官乃木希典に批判的だった長岡外史の史料を使って書かれたので、当然、乃木将軍に関しては批判的です。しかし、その後、第三軍関係者の日記などが発見され、研究が進み、乃木希典に対する評価も(良い方向に)変化したというのです。

 有名な司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」も、谷寿夫の「機密 日露戦史」を基づいて書かれたので、乃木大将に対しては批判的です。旅順攻囲戦でも、「馬鹿の一つ覚えのような戦法で」無謀な肉弾戦を何度も繰り返した、と描かれ、「坂の上の雲」を読んだ私も、乃木将軍に対しては「無能」のレッテルを貼ってしまったほどです。

 しかし、そうではなく、近年の研究では、第三軍は、攻撃失敗の度にその失敗の教訓を適切に学び、戦略を変えて、次の攻撃方法を改良していったことが明らかになったというのです。また、第三軍が第一回総攻撃を東北正面からにしたのは、決して無謀ではなく、「極めて妥当だった」と、この「新説 日露戦争」の執筆者・長南政義氏は評価しているのです。

 また、勝負の分かれ目となった二〇三高地を、大本営と海軍の要請によって、攻撃目標に変更したのは、「司馬遼太郎の小説「殉死」の影響で、児玉源太郎が下したという印象が強いかもしれませんが、実際に決断したのは乃木希典でした。」と長南政義氏は、やんわりと「司馬史観」を否定しています。他にも司馬批判めいた箇所があり、あくまでも、小説は物語であり、フィクションであり、お話に過ぎず、実際の歴史とは違いますよ、といった達観した大人の態度でした。「講釈師、見て来たよう嘘を言う」との格言がある通り、所詮、小説と歴史は同じ舞台では闘えませんからね。

 でも、神格化された司馬先生もこの本では形無しでした。

大聖寺 copyright par TY

 ところで、日本史上、もし、たった一つだけ、代表的な合戦を選ぶとしたら、1600年の天下分け目の「関ヶ原の戦い」が一番多いのではないかと思います。それでは、日本史上最大の事件を選ぶとすれば、殆どの人は悩みますが、少なくともベストスリー以内に「本能寺の変」が入ると私は勝手に思っています。本能寺の変の後、明智光秀は、中国大返しの羽柴秀吉による速攻で、「山崎の戦い」(1582年)で敗れ、いわゆる「三日天下」で滅亡します。

 関ケ原の戦いが行われたのは、現在の岐阜県不破郡関ケ原町で、古代から関所が設けられた要所で、ここを境に東を関東、西を関西と称するようになりました。古代では不破道(ふわのみち)と呼ばれていました。そして、山崎の戦いが行われたのは、天王山の麓で、現在の京都府乙訓郡大山崎町です。古代は山前(やまさき)と呼ばれていました。

 この関ケ原と山崎、古代では不破道と山前ー何が言いたいのかといいますと、倉本一宏氏が執筆した「新説 壬申の乱」を読むと、吃驚です。この不破道と山前が壬申の乱(672年)の重要な舞台になった所だったのです。不破道は、大海人皇子(後の天武天皇)が封鎖を命じて、壬申の乱の戦いを優位に進める端緒となりました。そして、山前は、壬申の乱で敗れた大友皇子が自害した場所だったのです。

 何で同じような場所で合戦やら事件が起きるのか?ー「歴史は繰り返す」と言うべきなのか、怖い話、「霊が霊を呼ぶ」のか、何とも言えない因縁を感じましたね。

「1930-40年代の宣伝写真」と「戦前期日本の戦争とポスター」=久しぶりの「見学ツアー」の第51回諜報研究会

 6月17日(土)に開催された 第51回諜報研究会(インテリジェンス研究所主催)の第1部は久しぶりの「見学ツアー」ということで喜び勇んで参加して来ました。ツアー参加は、個人的にはコロナ禍前の2018年5月に開催された東京都千代田区の近衛歩兵連隊跡(現:北の丸公園)等見学会以来5年ぶりでした。時間が経つのは早いものです。

 今回は、東京・半蔵門駅近くにある日本カメラ財団フォトサロンで開催中の「日本の断面 1938-1944 内閣情報部の宣伝写真」展(無料)の見学でした。

 1937年9月に日中戦争が起きると、内閣情報部が発足し、写真による国策の広報・宣撫活動として翌1938年2月に政府広報誌「写真週報」が創刊されました。フォトサロンでは、その「写真週報」の表紙で使われた写真や、本文に掲載された国内での勤労奉仕、学徒動員、スポーツ大会などの写真が展示されていました。(国策宣伝なので、ヤラセ写真が多かったようです)

 対内外写真宣伝の官庁代行機関として1938年に設立された写真協会が遺したネガフィルムを再度焼き付けた写真が展示されていましたが、ピントが極めて精巧で、まるで昨日撮影されたような見事なプロの巧みな技術を感じさせる写真ばかりで驚くばかりでした。それもそのはず、撮影者は木村伊兵衛、土門拳といった現在でも名を残す超一流のカメラマンが採用されていたのです。しかも、1枚の表紙写真のために、何十カットも色んなアングルから撮影され、照明も色んな角度から当てたりしていました。(1942年12月2日号の表紙を飾った有名な東条英機の写真を撮影したのは、同盟通信カメラマンの内山林之助でした)

 このほか、展示写真の中で、同盟通信社(現:時事通信社、電通、共同通信)の社会部長、編集局次長を歴任し、戦後、東京タイムズを創立した岡村二一の肖像写真もあり、私も初めて見たので「へ~」と思ってしまいました。

 見学会の後、日本カメラ財団調査研究部長の白山眞理氏が解説してくれましたが、白山氏は午後の講演会でも再度登場しますので後述致します。

 この後、私はフォトサロンに隣接する日本カメラ博物館に足を運び、開催中の「一眼レフカメラ展」を観て来ました。(フォトサロンで100円割引券があり200円)

 見学ツアーには20人ぐらいの人が参加しておりましたが、どういうわけか、博物館にまで来た人は私ぐらいでした。もっとも、参加者の人とは面識がほとんどないので分かりませんが、その時間帯の見学者は私以外一人だけでした。

地下に入居している日本カメラ博物館のビルに出版社の「宝島社」ありました。ここにあったとは!

 ここは、カメラ好きの人ならたまらないと思います。明治時代の頃のアンティークから21世紀の現代まで、ないものがないといっていいくらいの一眼レフカメラが、ほぼ全て勢揃いしていました。私が目を見張ったのは、1937年製の超小型のミュゼットというカメラで、長さが5~6センチです。絶対にスパイ用だと思われます。1937年製なら、あのスパイ・ゾルゲも購入しそうです。でも、別に「スパイ用カメラ」のコーナーがあって、そこにはライターやタバコケースや拳銃型の中にカメラが仕込まれている007のようなカメラが30種類ぐらい展示されていました。

元英国大使館の敷地の一部が返還され、今は皇居外苑半蔵門園地に

 まだ時間があったので、カメラ博物館にほど近い所に「国民公園 皇居外苑半蔵門園地」なるものがあったので、覗いてみました。「国民公園」なんて、初めてです。

駐日英国大使館跡地

 公園内に看板があり、ここはもともと駐日英国大使館の敷地でしたが、一部返還されて公園になったようです。公園の隣は、今でも英国大使館がありますから、敷地があまりにも広大だったので、「2015年に敷地の5分の1が日本政府に返還された」と看板に書かれています。気温30度を超える炎天下だったので、早足で5分ぐらいで公園を1周しました。その程度の広さです。

半蔵門「朝霞」刀削麺と炒飯セット980円

 昼時になったので、どうしようか、と半蔵門駅周辺を散策したところ、意外にも中華料理店ばかり目に付きました。その中で、「刀削麺」なるものを売り物にしている「朝霞」という店に入りました。その刀削麺は、私自身、生まれて初めて食べましたが、何でしょうかね、この麺? ラーメンというより、武田信玄公で有名な甲府の「ほうとう」みたいな感じ(味)でした。豆腐とキャベツとキノコとサヤインゲンなどが入り、麺も太いうどんみたいです。「えっ?これ、中華なの?」と思ってしまいました。

早大 大隈重信像

 お腹を満たしたので、地下鉄半蔵門線と東西線を乗り継いで、早稲田大学に向かいました。ここで、第二部の講演会が開催されるからです。

早大 演劇博物餡

 またここでも、時間が余ったので、初めて早大演劇博物館を覗いてみました。室町時代の能、江戸時代の文楽、歌舞伎から現代演劇に至るまで関連資料が展示されていました。内容も充実していて、かつて私も演劇記者もやったことがありますから、「もっと、早くここに来ていればよかった」と思いました。

 午後2時から始まった第二部の講演会の最初の登壇者は、先程の日本カメラ財団調査研究部長の白山眞理氏で、演題は「1930ー40年代の宣伝写真 ―国策、写真家、ストックフォト―」でした。

 先程の「写真週報」や鉄道省などの写真ネガフィルムは戦後、紆余曲折の末、日本交通公社(JTB)に委託され、その後、国立公文書館で保管されましたが、ネガフィルムは可燃性があることから、2014年日本写真保存センターが設立されてそこで保管されるようになったといいます。しかし、9万点あるネガのほとんどがいまだ整理がついていないといった話をされていました。

 予算や人材の不足が理由と思われますが、貴重な文化遺産ですから、次世代に残すことが望ましいです。大企業や富裕層の皆さんにも関心を持ってもらいたいものです。

 続いて登壇されたのは、青梅市立美術館学芸員の田島奈都子氏で、演題は「戦前期日本の戦争とポスター」でした。

 戦前のプロパガンダだけでなくビールの広告など、明治から昭和にかけてのポスターの研究では、日本で第一人者と言われる田島氏だけあって、個人的には見るものが初めてのポスターばかりでした。スライドで紹介されたポスターの量と質には本当に圧倒されました。戦時中の宣伝ポスターですから、やはり、「志願兵募集」や「軍事記念祝日」などが多いのですが、田島氏によると、何と言っても一番多いのは戦時国債の募集や貯金などの呼びかけのポスターだといいます。

 ポスターの図案は公募されるものが多く、採用された1等賞は500円もの高額金だったそうです。ただし、支払いは国債だったので、やがて敗戦後はそれらは、ただの紙切れになってしまいますが。。。

 もう一つ、田島氏から教えられたことは、その一方で、高名な画家がポスターの原画を描いていたという事実です。私は、美術記者もやっておりましたから、藤田嗣治や宮本三郎はさすがに知っておりましたが、横山大観や竹内栖鳳、川端龍子や猪熊弦一郎(私も取材したことがありますが、戦後は三越百貨店の包装紙をデザインして有名になった人です。)まで描いていたとは知りませんでしたね。そうそう、漫画家の岡本一平や清水崑まで原画を描いていました。このように戦争に協力したりすると、小説家や詩人、歌人らは戦後になって「戦犯」として糾弾され、藤田嗣治も糾弾されて渡仏し、二度と日本に帰国しなかったこともありました。他の画家たちも糾弾されたのか気になりました。

 さて、ポスターは、用が済んだら、廃棄されるのが普通だったことでしょう。こうして、多くの歴史的価値がある貴重なポスターを収集された田島氏の努力には頭が下がるばかりでした。

🎬小津作品を観たくなります=平山周吉著「小津安二郎」

 今、話題になっている平山周吉著「小津安二郎」(新潮社)を読んでいます。同時並行で他の本も沢山読んでいますので、乱読です。

 巨匠小津安二郎(1903~63年)に関しては、様々な多くの書籍がこれまで出版され、いわば出尽くされた感じでしたが、それでもなお、この本では今までとは違った視点で描かれている(山中貞雄監督との関係や、円覚寺の墓石にかかれた「無」の揮毫は本人の遺志ではなかったことなど)ということで、多くの書評でも取り上げられ、脚光を浴びています。また、今年はちょうど小津没後60年の節目の年ということもあります。

 没後60年が何故、節目の年かと言いますと、小津監督自身、今ではとても若い60歳で亡くなっているからです。晩年の写真を見ると、80歳ぐらいに見えますが、まだ60歳だったとは驚きです。あれから60年経ったということで、今年は小津生誕120年ということにもなります。

 著者の平山周吉氏は、いつぞやこの渓流斎ブログで何度も取り上げたあの「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社)の著者でもあります。文芸誌の編集長も務めた経歴の持ち主で、古今東西の古書を渉猟して調査研究する手法は、この本でも遺憾なく発揮されています。

 でも、正直言わせてもらいますと、異様にマニアックで、重箱の隅の隅まで突っついている感じがなきにしもあらずで、逆に言えば、マニアックだからこそ出版物として通用するといった感想を抱いてしまいました。

 とは言っても、私は小津安二郎が嫌いなわけではありません。彼がこよなく愛して通った東京・上野のとんかつ屋「蓬莱屋」には今でも通っているぐらいですからね(笑)。世界の映画人やファン投票で、代表作「東京物語」が何度も世界第1位に輝き、私も「東京物語」だけは、10回ぐらいはテレビやビデオで見ています。1953年公開ですから、劇場では見ていませんが。。。(遺作となった小津作品は「秋刀魚の味」ですら1962年公開ですから、小津作品を封切で映画館にまで足を運んで観たのは戦前生まれか、私の親の世代ぐらいではないでしょうか。)

 でも、この本を読んでみて、私自身は、小津作品をほとんど観ていないことが分かり、観ていないと何が書かれているのか分からないので、慌ててDVDを購入して観たりしています。

 早速、観たのは、1949年度のキネマ旬報の1位に輝いた「晩春」と、遺作になった62年の「秋刀魚の味」です。そしたら、あれ?です。何という既視感!

 男やもめの初老の父と年頃の娘がいて、老父は娘が行き遅れ(差別用語で、行かず後家)にならないか心配しています。娘はお父さん大好きで、いつまでも身の回りの世話をしてあげたい。老父は、痛し痒しで、それでは困る。結局、周囲からの縁談を進めて、最後は娘のいなくなった家で、老父は寂しく感慨深気な表情でラストシーンとなる。。。

 「晩春」「秋刀魚の味」ともに、この老父(とはいっても56~57歳)役が笠智衆。行き遅れになりそうな娘(とはいっても、まだ24歳)役は、「晩春」では原節子、「秋刀魚の味」では岩下志麻です。両作品とも、結婚相手は最後まで登場せず、名前だけ。自宅での花嫁衣裳姿は出てきますが、式や披露宴の場面はなし。うーん、同じようなストーリーといいますか、「晩春」から13年目にして、ワンパターンと言いますか、歌舞伎の様式美のような同じ物語が展開されます。それで、デジャヴュ(既視感)を味わってしまったわけです。

 特に老父役の笠智衆(もう40代から老人役を演じていた!)は、意識しているのか、あの独特のゆったりとした台詞の棒読み状態の中で、いぶし銀のような深い、深い味わいを醸し出しています。(「そおかあ、そうじゃったかなあ~」は夢にまで出てきます。)

 小津作品のほとんどがホームドラマと言えば、ホームドラマです。特別な悪人は登場せず(嫌な奴は登場します=笑)、露骨な煽情的な場面もなく、何処の家庭でも抱えそうな身近な問題をテーマにしています。どちらかと言えば、お涙頂戴劇か? 共同脚本を担当した野田高梧の台詞回しは、至って自然で、フィクションではなく、いかにも現実に有り得そうな錯覚に観る者を陥れますが、実生活では、最後まで独身を貫いて家庭を持たなかった小津が、何故ここまでホームドラマに拘ったのか不思議です。この本はまだ半分しか読んでいないので、最後の方に出てくるかもしれませんが、原節子との噂の真相も書いていることでしょう。

  ああ見えてファッション好きで、全く同じ色と柄の服を何着も揃えているとか、酒好きで知られ、行きつけの店は今でも「聖地」になっているとか。 ーこのように、小津安二郎という人が映画監督の枠を超えて、人間的に魅力があったからこそ、世界中の人から愛され、特にヴィム・ヴェンダース監督を始め、超一流のプロの映画人にも愛されたのではないかと私は思っています。日本的な、あまりにも日本人的な小津作品が、海外に通じるのも、人間の感情の機微に普遍性があるからでしょう。

 ところで、「秋刀魚の味」で、どこの場面でも秋刀魚が登場せず、少なくとも、何のキーポイントにもなっていないので、何でだろうと思って、この本の当該箇所を読んでみましたら、著者の平山氏は「『秋刀魚の味』は鱧(はも)と軍艦マーチの映画だ」なぞと書いておられました。恐らく、そう言われても、「秋刀魚の味」を御覧になっていない方は、よく分からないかもしれませんけど、確かにそうでした。そして、「秋刀魚の歌」で一躍有名になった詩人の佐藤春夫とその親友の谷崎潤一郎について触れ、文学少年だった小津安二郎は、二人の作品を全集などで読んでいるはずで、かなりの影響を受けていることも書いておりました。

 先ほど、この本について、「異様にマニアックだ」などと失礼なことを書いてしまいましたが、このように、ここまで各作品の細部について、解明してくれれば、確かに、「小津安二郎伝 完全版」と呼んでも相応しい本かもしれません。

 【追記】

 (1)著者の平山周吉の名前は、小津安二郎の代表作「東京物語」で笠智衆が演じた主役の平山周吉から取られたといいます。それだけでも、筆者は熱烈な小津ファンだということが分かります。

 (2)「秋刀魚の味」では、やたらとサッポロビールとサントリーのトリスバーが出てきます。「提携(タイアップ)商品広告」と断定してもいいでしょう。「ローアングル撮影」など小津安二郎を神格化するファンが多いですが、私は神格化まではしたくありませんね。ただ、小津作品は、歴史的遺産になることは確かです。映画を観ていて、パソコンやスマホどころかテレビもなかった時代。冷蔵庫も電話も普通の家庭にはなかった時代を思い出させます。文化人類学的価値もありますよ。