「731部隊の真実」エリート医学者の繋がり

ラオコーン

お盆が過ぎますと、急にテレビの世界から戦争ものの番組が消えてしまいます。

我が同胞は、喉元過ぎれば、熱さ忘れるのです。

そこで、13日夜に放送されたNHKスペシャル「731部隊の真実~エリート医学者と人体実験~」を本日取り上げることにします。

私は、この731部隊については、森村誠一著「悪魔の飽食」で初めて知りました。出版された当時(1982年頃)は、あまりにもの残忍さに、「でっち上げのフィクション」という批判もあったりしましたが、この番組では実際に衛生兵として、マルタと呼ばれた中国人捕虜を処理したという元部隊の生々しい証言が明らかにされ、歴史的事実として向きあわざるを得ない、と納得させられます。

関東軍731石井細菌部隊については、米国側に全ての実験資料を手渡して尋問に応じる条件で、司法取引と呼ばれる手口で「無罪放免」となり、極東国際軍事裁判では取り上げられませんでした。

お陰で、真相が闇の中に葬られてしまったわけです。しかし、番組では、ハバロフスクでロシア人から尋問された軍医らの証言がテープとして残されていたことを発見し、それを公開しておりました。

人体実験で犠牲になった捕虜は3000人。チブスなどの細菌を注射されて病状を記録され、治癒すると別の実験に使われる。つまり、死ぬまで人体実験されるという証言には、本当に戦慄を覚えました。

タイトルに「エリート医学者」とあるように、731部隊に参加した軍医は、博士号を持った超エリートの医学者でした。部隊長の石井四郎が京大医学部出身として有名ですが、他に京大からは、細菌学の権威田部井和(たべい・かなう=戦後、京大教授)、凍傷の権威吉村寿人(同)ら11人が名を連ねました。

彼らの背後には戸田正三京大医学部長(戦後、金沢医大学長)がおり、軍部から大学運営予算が欲しいばかりに、強行に教え子を送り込んだといいます。

731部隊には東大医学部からも6人の学者が加わりましたが、それは、長与又郎東大総長と石井四郎と接点があり、番組では、長与が石井から要請されたのではないかと推測していました。

私は、この東大総長の長与又郎の名前を聞いて本当に吃驚仰天してしまいました。彼は、肥前大村藩漢方医から明治医学界の重鎮となった長与専斎の8人きょうだいの三男なのですから。

作家夏目漱石を解剖した医者としても有名です。

長与専斎は、華麗なる一族です。長男長与称吉(医者)の妻は後藤象二郎の娘で、次女は犬養毅の三男犬養健と結婚。孫は犬養康彦・元共同通信社長と先日亡くなった評論家の犬養道子。

四男岩永裕吉は、同盟通信社初代社長。

五男長与善郎は白樺派の有名作家。

石井細菌部隊が設立されたのは昭和11年だといいます。この年は、2.26事件が起きた年ですが、同盟通信社ができた年でもあります。聯合通信社が電報通信社を吸収合併する形で国策通信社として設立されました。

石井部隊に東大医学部出身者6人を送り込んだ長与又郎東大総長の実弟岩永裕吉は、今の目黒雅叙園に駅前一等地を売却して、その資金を元に聯合通信社をつくりました。

長与一族は、目黒白金辺りの広大な土地を所有していたと言われます。

石井部隊の話が、長与一族の話になってしまいました。

目黒と岩永裕吉

 渓流と滝が混在して Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

さて、お約束通り、記憶回復発掘プロジェクトの連載を始めなければなりませんね。第一弾は「目黒と岩永裕吉」でした。

しかし、どうしても、思い出せないことが出てきました(失笑)。ミッシングリングです。そもそも、この目黒に興味を持ったのは、10年ほど前に仕事で知り合った女性Aさんがきっかけでした。今ではAさんとは音信不通で、連絡先も分からないので、確かめようもないのですが、そのAさんが、といいますか、A家はもともと(とはいえ明治以降ですが)、目黒に住んでいて、目黒駅周辺から白金辺りの土地はほとんどA家筋が所有していたというのです。

そこで、色々と調べたり、文献を漁ったりしましたら、世間でネームヴァリューでは恐らく一番知られている人物として、白樺派の作家、長与善郎が出てきました。

しかし、世間ではあまり知られていませんが、もっと遥かに凄いのは、日本の医学の礎をつくった善郎の父である長与専斎です。肥前大村藩の代々漢方医を務める家系に天保年間に生まれ、大坂の緒方洪庵の適塾で、福沢諭吉の次の塾頭に抜擢された秀才肌で、その後、文部省医務局長、内務省衛生局長などを歴任します。(英語のhygieneの訳語を「衛生」にしたのはこの専斎と言われます)

そしてまた、専斎の息子たちも凄い。長男稱吉も医師で、男爵。二男程三は実業界に進み、日本輸出絹連合会組長。三男又郎は病理学者で東京帝国大学総長(夏目漱石の主治医)、男爵。四男は母方の岩永家に養子に行った裕吉で、同盟通信社の初代社長。そして、白樺派の作家善郎は五男というわけです。

瑠璃色に澄み渡る池 Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

前述しましたように、長与家筋は、目黒周辺の土地をほとんど所有していたらしく、四男岩永裕吉は、省線目黒駅に近い超一等地を目黒雅叙園に売却して、その資金で、米国のAP通信社を手本にした国際通信社「聯合」を創設しました。この文献出典は忘れましたが(笑)。

「目黒と岩永裕吉」に興味を持ったきっかけはAさんだったと先に申し述べましたが、Aさんは、苗字が長与でも岩永でもありませんでした。

むしろ、「祖母から5・15事件で暗殺された元首相の犬養毅の血筋を引く、と聞いたことがあります」と、Aさんは、はっきり言うのでした。「祖母はもの凄くプライドが高くて、戦前の祖父も男爵か何かの爵位を持っていたらしく、病院の待合室でも公共施設でもどこでも、『下々の者たちと一緒にいたくない』と言って、プイと帰ってしまうことが多かった」と逸話を明かしてくれました。

そのAさんの言う、長与家と犬養家とのつながりが分からなくて、「ミッシングリング」だったのですが、何てことはない。今では簡単に調べられるのですね。

つまり、こういうことです。
至る所に渓流が Copyright Par Duc Matsuocha gouverneur

長与専斎の長男稱吉の妻は、幕末土佐藩士で有名な後藤象二郎の娘延子。(後藤象二郎の娘早苗子は、三菱財閥の岩崎弥之助と結婚しており、岩崎家とのつながりも深い)この夫妻の長女美代子は駐米大使斎藤博と結婚。次女仲子は、犬養毅の息子健(ゾルゲ事件の尾崎秀実と親友で連座して起訴されるも無罪。戦後、法相となり造船疑獄事件で指揮権を発動した)と結婚していたのですね。(健と仲子との間の長女が評論家犬養道子、長男が元共同通信社社長犬養康彦)

また、長与専斎の娘保子は松方正義の長男巌と結婚しております。

このように、長与家筋なんて、薄く書いてしまいましたが、後藤家、犬養家、松方家、斎藤家、岩崎家など華麗なる一族と姻戚関係があり、これらの一族が、明治政府から目黒村一帯の国有地の払い下げを受けた可能性は十分ありますが、あくまでも推測で、証拠となる文献に行きあたっておりません。単に、長与一族は大村出身で、もともと目黒に住んでいたわけではないという理由からに過ぎませんが…。

落語の世界では、目黒といえば、サンマですが、遠い昔、グルメの調布先生に連れて行ってもらった目黒駅に近いとんかつ屋「とんき」の味が忘れられませんねえ。ほんの少し値が張りますが、ピカイチでした。とんかつの発祥地上野の御三家と勝負できます。

北門新報

小樽へは、全く予備知識も持たず、下調べもせず、素のまま、行ってしまいました。

ちょっと、後悔してます。

しかも、せっかく、史跡看板に詳しく書いてあったのに、メモも取らなかったので、ほとんど忘れてしまいました。

上の建物は、「金子元三郎商店」だったところで、現在は、土産物屋になっています。
金子は、漁業加工物から銀行業、不動産まで手広くやった事業家で、30歳にして小樽区長となり、のちに衆議院議員にもなっています。

彼は、明治24年、小樽で初めての日刊新聞「北門新報」を創刊したということでも歴史に名前を残しています。

東京から自由民権運動家の中江兆民を主筆と迎えますが、兆民はわずか1年で辞めています。その辺りの経緯については、いつか調べてみようかと思っています。

この建物は、北門新報の印刷所として使われたようです。

北門新報は、後年、札幌に進出し、北海道毎日新聞、北海道時事と合併して、北海タイムスとなり、現在の北海道新聞の礎となりました。


小樽運河