上総介の本当の意味とは?=「鎌倉殿の13人」の上総広常

  相変わらず、「歴史人」7月号の「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」特集を読んでいます。複雑な人物相関図なので、真面目にこの本を、他の本に掲載されている系図などを参照したりして読むと、読了するのに2~3週間は掛かる情報量があります。

 鎌倉幕府と中世史に興味が湧いたのは、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響です、と以前、このブログでも書きましたが、正直、ドラマは見ていてつまんないですね。戦記物の話なのに、三谷幸喜の脚本は、橋田壽賀子のファミリードラマみたいだからです。源平合戦のドラマなら、以前なら必ずといって良いぐらい出てきた、例えば、那須与一の扇の弓射だとか、熊谷直実と平敦盛との一騎打ちだとか、「見るべきほどのことは見つ」と壇ノ浦の戦いで最期の言葉を残した平知盛とか、奥州平泉の戦いでの弁慶の立ち往生などは、ワザとらしく、ことごとく故意に省略しおります。本人は、革新的に描いたつもりのようですが、画竜点睛を欠きますね。見たくもない親子、きょうだい間や御家人同士の嫉妬や憎しみ合いを重視している家族劇、心理劇を見せつけられている感じがします。

 そもそも三谷さんは合戦シーンを書くのが苦手なようです。6年前の「真田丸」でも重要な関ケ原の戦いの合戦場面が全く出て来ないので唖然としました。合戦シーンは人馬が多く登場し、ロケに莫大な費用が掛かります。となると、制作費が少なくて済む三谷さんは、「NHK泣かせ』ではなく、「NHK喜ばせ」です(笑)。だから、何度も大河ドラマの脚本家に指名されるんでしょうね。

 批評はこれぐらいにして、「歴史人」に戻りますと、87ページにこんな記述があります。

 (上総)広常は「介(すけ)」を称する地方官人で、受領(国司)からすれば使用人レベル。京にあっては院のそば近くにも寄れない卑小な存在。…

 と書かれていますが、何かの間違いではないかと思います。何故なら、上総国は、そのトップの長官職に当たる「守(かみ)」には皇族が任命されるからです。つまり、上総守は名誉職で、実際は次官に当たる上総介がトップだからです。ですから、「上総介が使用人レベル」という言い方はどうかなあ、と思うわけです。(それに、上総広常は2万騎の兵を引き連れて、頼朝に従った大豪族でした。)

 このような、トップに皇族が任命される国は、他に上野、常陸などがあり、「親王任国」と呼ばれます。皇族が実際に地方のトップとして任地に赴任する場合は少なく、実体は、その次官の上野介や常陸介がトップになるわけです。(古代より四等官は「守(かみ)」「介(すけ)」「掾(じょう)」「目(さかん)」の順です、)

 ですから、歴史上、忠臣蔵で有名な吉良上野介や幕末の小栗上野介は出てきても、何とか上総守や上野守や常陸守は見かけないわけです。

 上総介といえば、戦国時代の織田信長がこの上総介を称していました。実際、信長の織田家は、地方の領主からやっと尾張守護代にまで這い上がって来た「成り上がり者」に過ぎません。(その当時の尾張守護は斯波氏)。何故、信長が上総介と称したのかというと、尾張守護代より上総介の方が格上だと思ったからだという説があります。私もそう思います。

 と思ったら、ネット情報ですが、こんな記事が出てきました。 

 桓武平氏の祖である高望王が平姓を賜った直後、上総介に任官し、「坂東平氏」が始まります。高望王の長男国香、次男の良兼、また五男良文の孫で、「平忠常の乱」で知られる忠常も上総介を名乗っていました。ということで、坂東平氏にとって「上総介」とは、平氏一門の総領格を意味しました。(一部換骨奪胎)

 なるほど、そいうことでしたかあ。

 信長の本名は、「平朝臣織田上総介三郎信長」というのだそうです。織田家は平氏の末裔を自認しているので、坂東平氏のトップである棟梁の意味を込めて上総介を自称したということかもしれません。

 ちなみに、徳川家康は新田氏の末裔を自称したので、源氏です。新田氏は、源頼朝と同じ河内源氏の流れを汲み、鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞が最も有名です。

 以前、日本近世史の専門で2年前に亡くなった山本博文・東大史料編纂所教授の本を読んでいたら、江戸時代になると、大岡越前守とか吉良上野介とかいう役職は必ずしもその実態が伴うものではなく、「官職」として売買され、自分の好きな国の守や介を自称できたというのです。ただし、江戸城がある武蔵国の守や介は「畏れ多い」ということで自称も他称もできなかったようです。

 あ、そうそう、大老職も本来、老中を長年務めた人の名誉職だったようで、井伊氏の大老職も、田沼意次から買った、と山本博文の著書(何の本だったか失念)に書かれていました。

 いつの世も、「金次第」ということなのかもしれません。

 

中原親能と梶原景時を追撃した吉川友兼の子孫は戦国時代にどうなったのか?=「鎌倉殿の13人」

 相も変わらず、鎌倉幕府と中世史にはまっています。勿論、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響ではありますが、あまりにも知らないことが多過ぎました。

 近現代を知るには、やはり、幕末・明治維新にまで遡らないと本質が見えてこないし、幕末を知るには、戦国時代や関ケ原の戦いのことを知らなければ見えてこない。その戦国時代は、日本人に最も人気がある時代と言われていますが、これも、やはり、武家政権を初めて樹立した鎌倉幕府と中世史を知らなければ、さっぱり分からないーといった具合です。

 またまた、「いつも同じ」と批判されそうですが、「歴史人」最新号である7月号の「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」という便乗商法(笑)特集を読んでいたら、これまで、何を勉強してきたのか疑われるほど、知らないことばかり出てきました。

 例えば、その「鎌倉殿の13人」の一人、中原親能(なかはらのちかよし)です。北条時政・義時親子や大江広元、梶原景時らと比べると影が薄い、知る人ぞ知る玄人好みの人ですが、源平合戦では、源範頼軍の参謀役を果たし、平家滅亡後は、鎌倉で頼朝側近の公事奉行人となり、対朝廷外交を担った人でした。その親能の嫡男が大友能直で、その子孫が戦国時代の豊後と一時期九州六国の大名になった大友宗麟だというのです。へー、です。

 「鎌倉の13人」の大江広元の子孫は、戦国時代の長州の毛利氏、そして、御家人島津氏は、戦国時代は薩摩から九州全土まで制圧したあの島津氏で、両氏とも幕末の表舞台で活躍することは知ってましたが、中原親能⇒大友宗麟は、全く知りませんでした。

 大友宗麟は、キリシタン大名でしたが、領民のために南蛮人による西洋医学を取り入れた病院を建てたりして福祉という先見の明があり、今でも大分県民に崇拝されている戦国大名です。

 そして、もう一人。文楽や歌舞伎でもよく題材に取り上げられる有名な梶原景時ですが、最期は無残です。まあ、言ってみれば「謀叛」の嫌疑をでっち上げられて、御家人衆に弾劾されて鎌倉を追放されます。(梶原景時は、頼朝に密告などして、周囲の御家人から嫌われたのも理由でしたが)鎌倉幕府内はまさに血で血を争う粛清の嵐で、まるで「ゴッドファーザー」のマフィアのような、それ以上の血生臭い抗争が頻発します。比企能員も畠山重忠も和田義盛も、そして何よりも二代将軍頼家も三代将軍の実朝まで暗殺されますから、剥き出しの権力闘争です。

 梶原景時も、2万騎の兵を引き連れて頼朝を支援した最も恩顧のあるはずの上総広常を、頼朝の命令で暗殺しておりますが、今度は自分の番です。駿河国狐崎(きつねざき=現静岡市清水区)で追撃を受け、地元の武士・吉川友兼と一騎打ちとなりますが、両者相打ちとなり、景時と嫡男景季らは背後の山に退きつつ戦いますが、最期は討たれてしまいます。(駿河国の守護は、北条時政だったので、時政が最初から梶原景時の追い落としを狙っていたという説があるようですが、恐らく、その通りではないでしょうか)

 梶原景時と相打ちとなった吉川友兼は亡くなりましたが、その子の朝経が加増されて、梶原氏の所領だった播磨国揖保郡福井荘の地頭に任ぜられます。この人こそが、戦国時代の吉川氏の祖先だというのです。吉川氏は、戦国武将毛利元就の長門周防統一によって、毛利氏に組み込まれますが、家は存続します。「三本の矢」で有名な元就の正室の三兄弟のうち、長男隆元は毛利氏を継ぎますが、次男元春は吉川氏、三男隆景は小早川氏と養子縁組という戦略で平定されるわけです。

 この次男の吉川元春。「きっかわ・もとはる」と読みます。そこで、「吉川」という名字は、関西では「きっかわ」、関東では「よしかわ」と読む人が多いとばかり思っていたのですが、きっかわ氏がもともと、駿河出身だったとは、驚くばかりでした。

古代律令制の崩壊と中世武家社会の誕生=荘園を通して考える

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響で、鎌倉幕府、延いては、中世史に興味を持つようになりました。NHKの影響力は恐ろしい。

 と思ったら、博報堂系列会社の調査(今年1、2月、15~69歳男女652人回答)によると、生活者の1日当たりのメディア接触時間の平均が、2006年の調査開始以来初めて、スマホがテレビを抜いたというのです。スマホは1日、146.9分、テレビは143.6分だったとか。テレビよりも、スマホの影響力の方が大きくなった、ということです。(6月15日付日経朝刊)詳細は分かりませんけど、若者は圧倒的にスマホで、高齢者は、まだまだテレビかもしれませんけど。

 いずれにせよ、テレビの影響で、鎌倉幕府を勉強し直したら、これが滅法面白い。中世は、日本史の中でも特異な時代で、思っていた以上に大変革期の時代でした。でも、源頼朝が鎌倉幕府を開いたとか、承久の乱で、天皇の権威が失墜して武家政権の時代が確立した、といった政治面の話だけでは満足できず、たまたま会社の近くの書店で立ち読みして面白そうだった武光誠著「荘園から読み解く中世という時代」(KAWADE夢新書、2022年1月30日初版)という本を購入しました。(この書店は、築地の東劇ビルにあった「リブロ東銀座店」でしたが、5月末で閉店してしまいました!こうした偶然的な本との出合いがなくなってしまい、誠に残念です)

 この「荘園」の本は、古代から中世にかけて、日本人の経済的基盤となった荘園について詳述したもので、荘園というキーワードで日本の歴史を読み解いていくと、表に出てきた紛争や戦乱、政権交代などの原因がよく分かるのです。所詮、人間というものは、経済(=石高や金)によって動く生き物だということなのでしょうね(笑)。

 まず、702年に大宝律令が施行され、朝廷(=天皇)に租庸調の税金を納める律令制度が始まります。が、743年に墾田永年私財法が制定されたことで、租税だけで済むようになり、貴族や寺社が原野を切り開いて「初期庄園」(平安時代半ばから荘園)を始めるようになります。

 この庄園で働いていた農民の中には、農作物を貯め込んで裕福になり、「富豪層」と呼ばれ、その多くが10世紀に最下級の武士になったと考えられるといいます。同時に中央の上流貴族(公卿=左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議)社会から排除された中流貴族が地方に移住し、朝廷とのつながりを保つために自領を荘園にします。また、上流貴族から「卑しいもののふ」と蔑まれていた桓武平氏、清和源氏などの軍事貴族も郡司に代わって村落の小領主を束ねるようになったといいます。一方、朝廷から任命された国司は、現地に赴任せず、地元の小領主らに租税を納めさせ、その領収書を受け取るだけだったことから、「受領」と呼ばれたりしました。

 いわゆる摂関政治は、藤原道長、頼通親子でピークを迎え、頼通は日本最大の荘園の領主となります。しかし、この頼通とその弟の教通(のりみち)が皇室に送り込んだ后に、皇女しか生まれなかったことから、天皇の外戚として権勢を振るっていた藤原氏による摂関政治は崩壊します。この機会を逃さなかった後三条天皇は、息子の白河天皇に譲位して、自らは上皇として院政を敷こうとします。つまり、摂関家という母方から、上皇という父方によって、天皇の権威と影響力を取り戻そうとしたというのです。いやあ、この著者の武光氏の解説は、目から鱗が落ちるように、院政がスッと理解できました。後三条上皇は院政を始める直前に病没してしまいますが、この後三条天皇から日本の中世が開始するという学説が今は最も支持されているようです。

 院政を始めた白河上皇は、院領荘園の設置に取り掛かります。この時、源義家や平正盛・忠盛親子らは、警備を務める北面の武士の一員として白河院に接近し、その院の引き立てによって国司(受領)となり、財力をつけたことから、荘園は、武士台頭の経済的基盤になったわけです。そして、彼らの子孫である平清盛や源頼朝が、天皇や上皇を差し置いて、政権を握るようになります。

 承久の乱で、天皇らの荘園も没収されて、関東の御家人に分配されたので、鎌倉武士が獲得した領地を荘園とは呼ばないと思いますが(いや、御家人たちは、戦利品で獲得した荘園を所領地とした、という言い方の方が正しいので)、この荘園制度は、細々ながらも鎌倉、室町、戦国時代と引き継がれ、豊臣秀吉による「太閤検地」で終焉を迎えました。この古代から長い歴史のある荘園制度を終わらせた秀吉は、所領を守るために武装化した農民から「刀狩り」もしたわけですから、やはり、革命的な凄い人物だと改めて思いました。

【追記】2022・6・16

 鎌倉時代初めまで、京都の朝廷が最新の技術と学問と文化を独占していたといいます。それが、地方にまで技術や文化が浸透していったのは、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗など鎌倉新仏教の僧侶のお蔭だった、と著者の武光氏が書かれていたことを追記するのを忘れておりました。

 これまでの旧仏教(南都六宗)は、あくまでも、天皇皇族や貴族のための宗教で、国家鎮護が目的でした。それを、南無阿弥陀仏と唱えるだけで、苦行をしなくても、庶民でも救われるという革命思想を唱えたのが法然でした。地方に布教した僧侶たちは、読み書き、算盤まで庶民に伝えたのではないでしょうか。

 日本にお茶を伝えたのが、臨済宗の開祖栄西だといいますから、それに伴う生け花やわびさびなど現代にまで伝わる日本文化を広めたのも新仏教の僧侶だったわけです。

 

苗字の語源が分かった!=天下の大権威に盾突くとは…

 先週出たばかりの本郷和人著「日本史を疑え」(文春新書、924円、2022年5月20日初版)を読み始めたら止まらなくなりました。

 著者は、東京大学史料編纂所教授です。史料編纂所といえば、日本の国家の歴史研究では最高峰です。その教授といえば、オーソリティーの中のオーソリティー。著者は1960年生まれでもう還暦は過ぎていますから、天下無敵で誰に何の気兼ねもなく学説を開陳する権力を持っている、と言えるでしょう。

 著者はテレビ番組にもよく出演されているので、その顔を拝見した方も多いことでしょう。大江健三郎を真似して?黒い丸眼鏡をかけています。自信満々そうです。だからこそ、本の帯にも著者の顔写真が大々的に登場するものだと思われます。私自身は、高田純次さんから「テキトー男二代目」を拝命してもらいたいほど、中途半端な人間なので、そんな「二代目テキトー男」による暴言として聞いてほしいのですが、天下の日本一のオーソリティー様が、これだけ顔を晒して、恥ずかしくないのかなあ、という独り言です。

 タレントさんだったら、できるだけ顔を露出して、有名になることによって「信用」という詐欺のような虚業を大衆から獲得して、CMに出演して莫大な出演料を稼ぐ目的があるでしょうが、象牙の塔の住人の方々がそこまでする必要があるのかなあ、と思った次第。

 「別に好きでやってるわけではない。版元に言われたから」と抗弁されるかもしれませんけど、ごめんなさい。先ほどの言辞はあっさり撤回します。お好きにしてくださいな。著者とは面識もありませんし、恨みも何も全くありませんからね。でも、私は嫌ですね。よく知っている友人にも顔は晒したくないので、Facebookを見るのもやめたぐらいですから。(特に、Facebookで「いいね!」を期待する自分の浅ましさに嫌気がさした!!)

 この本は確かに面白いですが、最初は小言と言いますか、天下の著者に対して反対意見を述べたいと思います。菅原道真のことです。著者は「菅原道真は実力で出世した(文章博士から右大臣)、いわば最後の人」と手放しの称賛で、あくまでも「被害者」のような書き方です。が、本のタイトル通り、「日本史を疑え」に則していけば、道真は、かなり政治的野心があった人で、自分の娘衍子(えんし)を宇多天皇の女御とし、さらに、娘寧子(ねいし)を、宇多天皇の第三皇子である斉世親王に嫁がせるなどして、天皇の外戚として地位を獲得しようとしことには全く触れていません。ただ、敵対する藤原時平らの陰謀で左遷させられた「可哀想な人」といった書き方です。(渓流斎ブログ 「菅原道真は善人ではなかったのか?=歴史に学ぶ」

 東京大学史料編纂所教授ならこの史実を知らないわけがなく、「日本史を疑え」なら、学問の神様の功績だけ強調するだけでなく、斜に構えた視座も必要ではないかと思った次第。

 これで擱筆してしまうと、著者に大変失礼なので、弁護しますが、道真の項目以外は全面的に感服して拝読させて頂きました。特に一つだけ挙げさせて頂きますと、162ページの「名字に『の』が入らなくなった理由」です。蘇我馬子も藤原道長も平清盛も源頼朝も、間に「の」が入るのは、蘇我も藤原も平も源も、天皇が与えた「氏」だから、ということは以前、歴史好きの同僚から教えてもらい知っておりました。でも、何で鎌倉時代以降になると、「の」がなくなったことについては、全く気にも留めておりませんでした。

 北条時政も北条義時も千葉常胤も上総広常も足利尊氏も「の」が入りません。それは、北条も千葉も上総も足利も、天皇から与えられた「氏」ではなく、「苗字」だからだというのです。そして、この苗字とは、それぞれの「家」が本拠を置く土地=財産から由来しているというのです。北条も千葉も上総も足利もいわば地名です。三浦義澄も三浦半島を本拠地としていました。

 土地に根差した「苗字」ということで、「苗」を使っていたんですね。これで初めて苗字の語源が分かりました。

 以上、最初はイチャモンをつけましたけど、それは日本の国家の大権威さまに立ち向かうドン・キホーテのような心境だった、と御理解賜れば幸甚です。

【参考】

 ・「貴族」という用語は正確ではない。正一位~従三位=「貴」(「公卿」とも)、正四位~従五位=「通貴」(貴に通じる)。正一位~従五位までが「殿上人」。正六位以下=「地下人(じげにん)」(平氏も源氏も当初は地下人だった)

肝心なことが抜けるテレビの歴史番組=内藤湖南、北条時頼…

 会社の同僚で歴史好きのAさんが「俺、凄いこと発見した」と鼻をピクピクと震わせました。

 どういうわけか、歴代の将軍(執権)は15代で終わってしまうというのです。そして、中でも初代、3代、5代、8代、15代がいずれも「名君」として呼ばれているという「法則」を発見したというのです。

 例えば、江戸時代は、初代徳川家康、三代家光、五代綱吉、八代吉宗、十五代慶喜です。「生類憐みの令」の綱吉が名君かというと、異論がある人がいるかもしれませんが、確かに1-3-5-8-15は画期的な、特に需要な将軍ばかりです。

 室町時代を見ると、初代足利尊氏、三代義満、五代義量、八代義政、十五代義昭です。金閣寺の義満、銀閣寺の義政と比べ、やはり五代義量となると知名度では劣りますが、まあ、いいでしょう(笑)。

ムスカリ

 では、鎌倉時代はどうでしょう。将軍源頼朝は別格ですが、実質支配権を握ったのは北条氏です。初代執権北条時政、三代泰時、五代時頼、八代時宗、十五代貞顕…あれっ?最後の執権は十五代貞顕ではありませんね。鎌倉が陥落した際に、貞顕の嫡男北条貞将が十六代守時の死を受けて、十七代執権に任じられたとする説があるようです。

 それに、今はNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響で、今では北条義時が最も注目されていますが、彼は二代執権です。

 三代泰時は御成敗式目を制定、八代時宗は元寇を撃退と、知名度は抜群ですが、いつも問題の(笑)五代目は如何でしょうか?北条時頼です。この人、やはり知る人ぞ知る通好みといった名君だったようで、先日、NHK-BSの「英雄たちの選択」で取り上げられていました。

 この「英雄たちの選択」は、かなり勉強にはなる番組なのですが、わざとだと思われますが、たまに肝心なことが抜けていたりします。例えば、先日は、東洋史学者の「内藤湖南」を特集していましたが、師範学校出の湖南を京都帝国大学教授にスカウトした彼の人生にとって最も重要な人物である狩野亨吉(安藤昌益の研究家、夏目漱石の親友で、京都帝大の初代学長)の「か」の字も出て来ないのです。幻滅しましたね。

チューリップ

 今回の北条時頼特集でも、農民たちには撫民政策を施し、私利私欲でしか動かない暴力集団である武士をまともな行政官として育成し、禅宗を篤く保護して建長寺(鎌倉五山第一位)を建立した時頼の功績はよく分かったのですが、やはり私としては肝心だと思われることが抜けていました。

 時頼は、赤痢にかかって執権職を義兄の長時に譲り、最明寺に出家します。しかし、実権は相変わらず時頼が握っていて、「最明寺の入道」と呼ばれていました。最明寺の入道といえば、思い出しました。日蓮が「立正安国論」を提出したのが、鎌倉幕府の最高権力者だった最明寺入道宛てだったからです。(佐藤賢一著「日蓮」)鎌倉仏教の代表の一人である日蓮と北条時頼は同時代人だったのです。

 なあんだ、番組の中で「最明寺入道」の一言説明があれば、日蓮のことも思い出し、北条時頼の理解力が深まったと思います。時頼は、台風で崩壊した高徳寺の木造の大仏を青銅に作り直した際の執権でもありました。鎌倉といえば大仏さまじゃありませんか。番組で鎌倉大仏のことが一言出てくれば、時頼の偉大さが深まったと思いました。

 何が言いたいのかと言いますと、テレビの歴史番組というのは、かなり恣意的だなあ、ということです。歴史番組に限らず、そもそも、テレビとは「枠組み」に沿って作られた恣意的なものだとも言えますが。

勝ち馬に乗って武力だけが頼みの世界=細川重男著「頼朝の武士団」を読了して

  細川重男著「頼朝の武士団」(朝日新書、2021年11月30日初版)を読了しました。

 当初、一昨日の渓流斎ブログ「鎌倉幕府は暗殺と粛清が横行した時代だった?」に【追記】として添え書きしようかと思ったのですが、少し長くなってしまうかもしれませんので、章を改めることに致しました。

 この本の前半の3分の2ほどは、2012年に洋泉社歴史新書yの1冊として刊行され、絶版となっていたのを改めて、朝日新書として後半3分の1ほどを書き加えて9年ぶりに再発行したものでした。前回も書きましたが、前半はちょっと人を喰ったような書き方でしたが、後半は、そういった筆致は改められて結構真っ当に学術的に書かれています。版元が変わるとこうも違うのでしょうか?

 前半は、源頼朝の生い立ちから薨去まで。書き加えられた後半は、頼朝薨去から承久の乱を経て伊賀氏の変の結末に至るまで描かれ、著者の言うところの頼朝の武士団の「完全版」となっています。前半も後半と同じようにあまり羽目を外さずに記述されていれば、これから800年は読み継がれる名著になっていたでしょうから、惜しまれます。

 それでも、非常に面白く、勉強になりました。

 私は学生時代に「平家物語」は、途中で挫折してしまったのですが、一番印象深かったのは、熊谷直実の逸話です。一ノ谷の戦いで、平敦盛を討ち取りますが、息子ほどの年齢の若武者の命を奪ったことで無常観を感じて、出家する動機となり、法然上人に弟子入りする話はあまりにも有名です。この話はその後、能や人形浄瑠璃、歌舞伎でも題材として取り上げられました。

 私は、この熊谷直実の軍団は数千規模の大きなものだと思っていたのですが、熊谷氏は直実と子息直実と家臣(旗差し)のたった3人しかいなかったんですね。「平家物語」巻九「一二之懸」にあるらしいのですが、忘れておりました(笑)。

 何と言っても、頼朝の御家人のトップ3といえば、相模の三浦氏(義澄、義村)、下総の千葉氏(常胤)、下野の小山氏(政光)だといいます。総勢2万騎と日本一の軍団を誇った上総広常は、頼朝が脅威を感じて、恩人だったはずなのに、結局、梶原景時に暗殺させています。(当時は、文字通り、多くの家臣も「鞍替え」して裏切ったりして、皆、疑心暗鬼で、親分・子分との間の抗争は激しかったことでしょう。)

 このビッグ3の三浦、千葉、小山、それに足利、新田、比企などは現在でも残っている地名ですが、どうやらこれらの苗字は、所領、つまり地名から来ているようです。でも、鶏が先か、卵が先か、どちらか分かりませんが、恐らく、地名から苗字になったということなのでしょう。他に、渋谷重国、江戸重長、葛西清重、海老名秀貞、河越重頼ら地名のような東国武将が登場しますが、こちらも所領名と関係がありそうです。

鎌倉 畠山重忠邸跡

◇源氏政権は平氏がつくった?

 この本の巻末の系図は大いに参考になりました。よく見ると、鎌倉幕府を成立させて源氏再興に貢献した北条氏も、三浦氏も、鎌倉党の梶原氏も、秩父党の畠山氏も、上総氏も千葉氏も、ほとんど皆、桓武平氏の流れを汲んでいるのです。

 あれっ?という感じです。天下を取った平清盛は、桓武平氏の中の「伊勢平氏」という一分派で、この分派が権力を独占したため、他の分派が反旗を翻したように見えます。前回にも書きましたが、源氏と平家との間の策略的な婚姻関係があり、源氏だろうが、平氏だろうが、各々お家のために、勝ち馬に乗ることが先決だったのでしょう。こういうことは現代人もやってますよね?(爆笑)。

 よく、鎌倉時代は、暗殺と粛清が横行し、言葉が通じない野蛮な世界というレッテルが貼られますが、当時は憲法もなく、法律も形骸化された、いわば無法地帯で、武力だけが頼みの世界でしたから、本能の赴くまま、太く短く生きるしかなかったのかもしれません。

 著者も書いている通り、頼朝の挙兵に参加した坂東武士たちは、一か八かの大博打に賭けたというのは、真実でしょう。

鎌倉幕府は暗殺と粛清が横行した時代だった?= 細川重男著「頼朝の武士団」

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の便乗商法に洗脳されて、「歴史人」2月号「鎌倉殿と北条義時の真実」特集と「歴史道」19号(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)を読破しましたが、どうしても、これだけでは少し物足りなかったので、細川重男著「頼朝の武士団」(朝日新書、2021年11月30日初版)を購入し、読んでみました。

 著者の細川氏は、立正大学で博士号を取得され、現在、國學院大學で非常勤講師をされている方だと略歴に書かれていますが、随分、人を食ったような書き方をされています。御本人はウケを狙って、劇画チックに書かれているようですが、一応、学術書気分で読み始めた読者からみれば、滑りますね(笑)。鎌倉時代の話なのに、例証としてマフィアやキャバクラ嬢やAKB48などが登場したり、大胆にも「今様(当時のポップス)」「白拍子(アイドル歌手)」などと解説?されたりしておられます。

 勿論、それらは一部の話で、「猶子(ゆうし=財産相続権の無い養子。子供待遇)」「衆徒(しゅと=いわゆる僧兵だが、僧兵は江戸時代の言葉)」などと極めて真面目に説明はされていますが…。

 何で、1962年生まれの著者は、こんな斜に構えたような書き方しかできないのか? この本の224ページに著者はわざわざこんなことを書かれております。

 卒業した大学を「弱小私大」「三流大学」と嘲笑われ、研究者として実力とは無関係に、卒業した大学を理由に、「一流大学」とやらを出たヤツらから見下され、ハラワタが千切れそうなほど悔しい思いを、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、…して来た私には(以下略)

 どうやら、私のように、著者は性格が捻くれてしまったようですが、それは読者にとって預かり知らぬことで、特に、知らなくてもよかったこと。ブログならともかく、せっかく素晴らしい著作なのにその評価を酷く、酷く、酷く、酷く、酷く、…貶めてしまった結果になってしまいました。

東銀座「大海」とり天カレー950円

と、多少、文句を書き連ねてしまいましたが、非常に勉強になる本でした。恐らく、「鎌倉殿の13人」の脚本を書かれている三谷幸喜さんが最も参考にした本だと思われるからです。内容は、鎌倉時代の正史と言われる「吾妻鏡」を時系列にほぼ正確に追って記述しております。

 ですから、私が「歴史人」と「歴史道」でせっかく覚えた鎌倉殿の13人の一人、安達盛長は本当は小野田盛長だったことや、二階堂行政も中原親能も藤原姓を名乗ったりしていたことなどをこの本で知りました。

 何と言っても、巻末に「系図」が付いているので、人物関係がすっきりと分かります。当時は、高貴の身分の子どもは実の親ではなく、乳母(めのと)によって養育され、乳母の子供たちは乳母子(めのとこ)とか乳兄弟(ちきょうだい)などと呼ばれ、成長すると最も信頼する家臣になることが分かりました。(源頼朝には比企尼、寒河尼、山内尼、三善康信の伯母の4人の乳母がいた。例えば、小野田盛長と比企能員は、頼朝とは比企尼つながり、八田知家、小山政光らとは寒河尼つながり、など)

鎌倉五山第三位 寿福寺

 この本を購入したのは、頼朝の家臣団や御家人のことをもっと知りたかったからでした。生き残った彼らは、後の室町、戦国、江戸時代(いや、現代)まで活躍するからです。

 源頼朝は、清和天皇の流れを汲む「清和源氏」の一派である「河内源氏」の系統であることはよく知られています。それ以外はほとんど滅んでしまいますが、摂津源氏の流れから美濃源氏が生まれ、そこから室町時代の守護になる土岐氏が出てきます。河内源氏から常陸の佐竹氏(江戸時代に出羽・久保田藩に移封され、現在、秋田県知事を輩出!)、それに甲斐源氏である武田氏(勿論、戦国時代の武田信玄が有名)が出てきます。

浄土宗 東光山英勝寺

 以前、私が昨年、鎌倉を取材旅行した際、太田道灌ゆかりの英勝寺がもともと源義朝(頼朝の父で、平治の乱で敗退し家臣によって殺害される)の屋敷跡だったことを知り驚いたことを書きました。

 頼朝が鎌倉に幕府を開いたのは、父祖の地だったからでしたが、それはいつ頃だったのか、この本に回答がありました。河内源氏の祖は平忠常の乱を平定した源頼信ですが、その嫡男の頼義(前九年の役を平定)が、その義父に当たる平直方から鎌倉の領地を拝領したというのです。(頼朝にとって頼義は四代前の祖先に当たる)

 平直方は桓武平氏です。源平合戦になる前は、結構、源氏と平家の姻戚関係は濃厚だったんですね。何と言っても、北条時政も北条義時もこの平直方の子孫なのです。時政は平直方の曾孫と結構近い。

 石橋山の合戦で頼朝軍を敗退させた大庭景親は、伊勢平氏の「東国ノ御後見」でしたが、景親の兄の大庭景義は源義朝の家臣で保元・平治の乱にも参戦し、そのまま頼朝の家臣として仕えてますから、親子、兄弟の間で、源氏と平氏と別れて戦った例が数多あったことでしょう。

 石橋山の合戦で敗れて安房に敗走した頼朝に対して、2万騎もの兵を引き連れて参戦した上総広常は、後に頼朝の命で梶原景時によって暗殺され、その梶原景時も北条義時らによって滅亡され、この他、頼朝の御家人だった和田義盛も、畠山重忠も、比企能員も、三浦義村の嫡男泰村もほとんど粛清されていきます。スターリンも真っ青です。

 何と言っても、河内源氏も三代将軍実朝の暗殺で滅んでしまうわけですから、いやはや、著者が引用するマフィアも吃驚です。平氏滅亡の殊勲者である源義経も、兄の頼朝の命で殺害されたわけですし、鎌倉幕府は、暗殺とテロと暴力と陰謀が蔓延った世界だったというのは大袈裟ではないかもしれません。

「承久の乱」は「承久革命」なのでは?=「歴史道」の「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」を読んで

 「歴史道」19号(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)をやっと読み終わりました。やはり、2週間ぐらいかかったでしょうか。

 でも、実に面白かった。鎌倉時代のことをもっともっと知りたいと思いました。800年続く武家社会(私説)の礎が築かれた時代ですからね。渓流斎ブログ2022年1月24日付「源平の位階はもともと六位の下級だった、と男系の跡目争い=山城の起源とオランダ語通詞」でも書きましたが、その前に読んだ「歴史人」2月号(ABCアーク)「鎌倉殿と北条義時の真実」特集と切り口が違うので、まるで違う本を読んでいる感じでした。(当たり前でしょうけど)

 両誌とも、目下放送中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の便乗商法であることは間違いないのですが(笑)、私もそのお蔭で「鎌倉殿の13人」の補足知識を得ることが出来ました。まず、第一にこの「歴史道」の中で、濱田浩一郎氏によると、「鎌倉殿の13人」とは、以前は二代将軍源頼家が直接訴訟に判決を下すことを停止され、有力御家人13人の合議制による決裁に委ねられたとされて来ましたが、現在この見解は有力視されず、頼家への訴訟の取次を有力御家人13人に限定したに過ぎず、13人の宿老が一堂に会して合議した例は、文献等から確認されないといいます。つまり、「13人の合議制」なるものの実体はないというのです。へー、そうでしたか。

築地「わのふ」魚御膳定食1000円

 平安時代末期から鎌倉初期にかけて、保元・平治の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)、そして何よりも承久の乱と戦乱・内乱が続き、おまけに飢饉、疫病、後に元寇といった国難もあり、この時代は、相当庶民が疲弊した大災難の時代だったと思います。そのために、法然、親鸞、一遍、栄西、道元、日蓮らが新興宗教を起こし、民衆が縋ったのか、もしくは、あまりにも民衆が救いを求めるので、新仏教が生まれたのではないかと私は思っています。

 この時代の歴史資料の代表的なものとして、「平家物語」「吾妻鏡」がありますが、「平家物語」は、平清盛ら平氏に対してあまりよく思っていない書き方で、「吾妻鏡」は鎌倉時代の正史とはいえ、北条氏に都合の良い書き方がされているといいます。そのお蔭で、「平氏でなければ人にはあらず」に代表される言葉のように、確かに、私自身も平氏に対して悪い印象を植え付けられてきた感じがします。でも、「平氏=悪」「源氏=善」ではなく、互いに権力を争ったに過ぎないと考えるようになりました。(平清盛による開明的な経済政策は特筆に値します)

 また、「吾妻鏡」では、当初、源頼朝の乳母系として北条氏より遥かに所領も多く、権勢を誇っていた比企氏に関する履歴や記述が少ないのは、北条氏を有力御家人に見せるために、後から削除されたのではないかという疑惑もあるといいます。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 さらに、北条氏は、平貞盛の子孫と言われます。北条頼政の義父で、北条義時の祖父に当たる伊東祐親が300騎を動員できた時に、北条氏はわずか30騎に過ぎない豪族でしたが、北条政子が源頼朝の妻になることで一気にのし上がります。その後、比企能員や梶原景時、和田義盛ら有力御家人らを次々と滅ぼし、ついには、承久の乱で勝利を収めて、武家政権を確立した北条義時は、「陸奥守平義時」と称しました。つまり、鎌倉時代は源氏はわずか三代で滅んだので、平氏政権でもあったと言えることでしょう。

 その承久の乱の後、後鳥羽(隠岐島)、順徳(佐渡島)、土御門(土佐→阿波)の3人もの上皇が流罪となり、追放されました。この時、義時と六波羅探題は、皇位継承まで介入し、上皇の荘園まで剥奪し、その権威を有名無実化することに成功しました。ということは、大袈裟に言えば「承久の乱」は、1000年続いた大和朝廷=天皇王権を覆して、武家政権を打ち立てた「承久革命」と言った方が実態に近いのではないでしょうか?

 最後に、もっと知りたいと思ったことは、鎌倉幕府の御家人たちのことです。「鎌倉殿の13人」でさえ、「生年不詳」の御家人が多いので、致し方ないのですが、少なくとも、その後の室町、戦国、江戸時代に活躍する祖先に当たる人たちの話ですから関心があります。例えば、武田信義(戦国武将武田信玄の祖先で甲斐武田氏の始祖)、大江広元(長州毛利氏の始祖)、島津忠久(薩摩島津氏の始祖)、足利俊綱(足利尊氏の祖先)らはあまりにも有名なので分かりますが、千葉常胤、三浦義澄、宇都宮朝綱、小山朝光、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越(川越)重頼、江戸重長は21世紀の現在でも地名として残っているので、土地と名前との関係(あるのかないのか)にも興味があります。えっ?自分で調べなさい、ってか?

源平の位階はもともと六位の下級だった、と男系の跡目争い=山城の起源とオランダ語通詞

「歴史人」2月号(ABCアーク)「鎌倉殿と北条義時の真実」特集をやっと読了しました。2週間以上かかったでしょうか。でも、お蔭様で、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する13人の御家人の名前と経歴、それに時代背景を覚えてしまいました。こんなに賢くなってどうするの?といった感じです(笑)。

 「便乗商法」というより、「便乗学法」ですね。大河ドラマがなければ、これほど北条義時に関心を持つことはなかったでしょう。1月21日付の渓流斎ブログ「承久の乱は、その後800年続く武家政権の革命なのでは?」でも書きましたが、北条義時は800年の武家政権の礎を築いた人であり(私の説)、日本史上では「逆賊」のイメージを払拭して、その功績をもっと見直されなければいけいないと思いました。

 そして、今は「歴史道」19号(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)を読んでいます。同じ鎌倉幕府を扱いながら、切り口が全く違うので、この本からも新たな知識が吹きこまれます。

 特に驚いたのは、源氏も平家も、位階はもともと六位という極めて低い下級職だったという事実です。警護や軍事を担当し、貴族の周辺に「さぶろふ」から侍と言われたり、武士と言われたりしましたが、「清和源氏」「桓武平氏」と言われるように、本来の始祖は天皇の子息でしたから、もっと位階は高いと思っていました。五位以上が貴族です。位階については、渓流斎ブログ2021年12月15日付「『従三位』と『正六位』の違いは何か?=位階(叙位)について考える」を再読されて思い出してほしいものです。21世紀の現在も叙位叙勲が続けられていますが、六位とは、小中学校の校長先生らに授与される位階です。

 それが、地方で反乱(天慶の乱、前九年の役、後三年の役など)があると、彼らは鎮守府将軍などに任命され、戦功があると、恩賞で四位まで昇任されたりしました。

 その後の出世頭は何と言っても平清盛です。保元・平治の乱を制した清盛は永暦元年(1160年)、三位の参議となり武士として初めて公卿となります。そしてその7年後はついに太政大臣という公卿のトップに立ち、一位を獲得するのです。(織田信長は正二位・右大臣、豊臣秀吉は従一位・関白太政大臣、徳川家康は従一位・征夷大将軍・太政大臣でした)

 平安末期の院政時代、もしくは武家の台頭から中世が開始したという説が有力ですが、それ以前の古代は、天皇の外戚を利用して権力を握った葛城氏、蘇我氏、藤原氏などのように、「女系」が為政者でした。それが、中世になって武家が政権を握ると、一転して「男系」となります。そのため、親と子や兄と弟、伯父(叔父)と甥との間で、跡目争いという血生臭い権力闘争が起きる、といったことが書かれていましたが、妙に納得してしまいました。

ジョン・スメドレー(創業1784年)のカーディガン3万4,000円

 話は変わりますが、山城の元祖は、鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ一人、楠木正成の千早・赤坂城だという説があります。何で、不便な高い山に城なんかを築かなければならなかったのかという理由は、鎌倉幕府の坂東武者が騎馬による攻撃を得意としていたためです。馬が登って来られないように、わざわざ山城を築いたというのです。

 承久の乱から100年余。鎌倉幕府の滅亡は、元寇による疲弊で、恩賞ももらえなかった御家人たちの不満が高まったことが理由に挙げられますが、このように鎌倉幕府が戦力的にも戦略的にも時代遅れになったこともあったのでしょうね。

三菱食品!?ローソンは三菱グループでした! 何で本文と全く関係ない写真なんだ!関係ある写真は著作権の関係で使いないためです。

 もう一つ、備忘録として書き残したいことがあります。NHKの「歴史探偵」という番組の中で、長崎のオランダ語通詞(通訳)の話が出てきましたが、彼らは当時の最先端の科学者でもあって、「引力」「遠心力」「分子」「動力」「弾力」「物質」「加速」「真空」「楕円」「惑星」「鎖国」などの翻訳語を考え、生み出した人たちだったというのです。

 これには吃驚。てっきり、福沢諭吉か西周か柳河春三か中江兆民ら幕末の語学の天才が考えたものだと思っていました。

 恐らく、恐らくですが、これら、科学用語も、「経済」「自由」などと同じように、本家本元の中国でも逆輸入されたと思われます。

 

承久の乱は、その後800年続く武家政権の革命なのでは?

 「歴史人」2月号「鎌倉殿と北条義時の真実」特集を読んでいますと、新発見と言いますか、「えっ?そんな風に歴史的解釈が変わってしまったの?!」と驚くことばかりです。

 まず、私の世代は、鎌倉幕府の成立が1192年(建久3年)、と初めて小学生時代に習い、「いい国つくろう、鎌倉幕府」と覚えたものでした。それが、今では1185年(文治元年)説が有力となり、学校では「鎌倉幕府成立は1185年」と教えているそうなのです。

 1192年は源頼朝が征夷大将軍に任命された年で、1185年は守護・地頭が設置された年ということで、頼朝政権はこれによって幕府としての経済的基盤を確立したことになり、こっちの方が良いのではないか、となったらしいのです。

 「頼朝政権が 経済的基盤を確立した 」とは言っても、実際には東国のみで、西国は後白河法皇か、法皇の息のかかった公卿や武士が支配していて、「鎌倉・京都連立政権」というのが実体だったといいます。(一時期は、木曽義仲の支配領域もあり、「三頭政治」が実体だった。)

鎌倉五山第三位 寿福寺

 もう一つ、驚いたのは、その設置された守護・地頭のことですが、当然、大名になるぐらいですから守護の方が断然、格段に地頭より上だと思っていたのですが、守護とは名誉職みたいなもので、収入がゼロだったというのです。領地から収益を得られるのは地頭であって、守護は地頭職を兼ねて初めて収入を得ることができたというのです。…知りませんでしたね。

 そして、ハイライトとなるのは「承久の乱」です。今から800年前の承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の北条義時討伐の兵を挙げ、逆に幕府に鎮圧された事件です。私の世代は「承久の変」と習い、そう覚えていましたが、今は「乱」の方が一般的になったようです。でも、良く調べると、これは「乱」どころではない。「革命」に近いのではないか、これからは「承久革命」と呼んでもいいのではないか、と私自身は考えるようになりました。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 乱後、後鳥羽院は隠岐、順徳院は佐渡、土御門院は土佐と三上皇が配流され、朝廷方の所領は没収されて坂東武士たちに報償として与えられました(これで鎌倉政権の全国統一)。また、朝廷監視のため六波羅探題が置かれ、皇位継承まで鎌倉の意向で決定され、伊豆の小さな土豪に過ぎなかった北条氏の絶対的権威が確立されます。ということは、身分の低い土豪出身の北条氏が朝廷(ヤマト王権=天皇家)から政権を簒奪したわけですから、これを革命と言わずに何と言おう?

 しかも、この承久革命によって、その後、室町、戦国、安土桃山、江戸と、天皇家は事実上、政治から遠ざけられ、武家政権が800年近く続くわけですから…。えっ?800年は長過ぎる? いえいえ、富国強兵の明治からアジア太平洋戦争で惨敗する昭和20年までも、「武家政権」は続いていたと解釈できるのではないでしょうか。何しろ、首相の東条英機は軍人(武官)であり、陸軍大臣も兼ねていましたから、そう考えれば、実質「武家政権」ですよ。

 となると、承久の乱は、日本史上、これまで以上、重要性がある画期的な出来事であることをもっと強調するべきではないでしょうか。

鎌倉五山第一位 建長寺 山門

 これまで、承久の乱といえば、二代執権北条義時が権力奪取のため、一方的に悪行を成した「逆賊」のイメージが強かったのですが、後鳥羽上皇が、自分が寵愛する伊賀局こと亀菊に与えた「摂津国長江と倉橋の両荘園の地頭職を改補(解任)せよ」と院宣したのが、両者の亀裂のきっかけになりました。両荘園の地頭とは北条義時その人だったからです。鎌倉幕府の経済的基盤が侵されたことになります。

 しかも、後鳥羽院は、暗殺された三代将軍源実朝の後継者(四代将軍)として、自分の子息である頼仁(よりひと)親王か、もしくは雅成(まさなり)親王を立てることを口約束しながら、結局反故にしてしまいます。

 明らかに権力闘争であり、これでは義時の気持ちも分からないではありません。頼朝の未亡人で義時の姉である「尼将軍」こと北条政子の有名な「演説」で、坂東武士たちは立ち上がり、鎌倉方の圧勝に終わりますが、これは、まさに東西分かれて互いに死力を尽くした「内戦」と言っても間違いないでしょう。鎌倉方の東軍(幕府軍)の代表は、北条時房(義時の実弟)と泰時(義時嫡男で後の三代執権)、後鳥羽院方の西軍(官軍)の代表は藤原秀康と三浦胤義(鎌倉の有力御家人三浦義村の実弟)ですが、正直、私自身は不勉強で、両軍のその他大勢の武将たちの名前はこの本で初めて認識しました。乱後、上皇らは島流しに遭っても、西軍の武将たちはことごとく捕縛・処刑され、京中は略奪の嵐で、上皇方の宿舎は放火され、人馬の屍体で道が塞がったといいます。

 やはり、革命ですね。

 確かに、800年も昔に起きた過去の出来事と言って済ませばそれまでですが、承久の乱が後世に残した影響は驚くほど大きいので、現代人としても知っておくべきことが多々あります。

【追記】

・「吾妻鏡」によると、北条義時(1163~1224年、行年61歳)は「攪乱」のため急死しますが、詳細が書かれていない。後妻の伊賀の方が自分の息子の政村を次期執権にしたいがために、毒殺したのではないかという説があります。伊賀の方の兄伊賀光宗は政所執事(長官)、娘婿の一条実雅は、時の将軍九条頼経の親戚、また政村の乳母親は、有力御家人の三浦義村だったので、彼らが結束すれば、泰時を倒して執権の座を獲得することは不可能ではなかった。

・三代執権北条泰時が制定した「御成敗式目」。初めて口語ながら読みましたが、第12条に「争いの元である悪口は禁止。重大な悪口は流罪、軽いものでも入牢。」とあり、感心してしまいました。