商業発展に注力した戦国武将・蒲生氏郷=近江商人や伊勢商人までも

Jardin de Karatsu Copyright par Y Tamano

 戦国時代の大名蒲生氏郷(がもう・うじさと、1556~95年)は、その知名度といい、人気度といい、残念ながらトップ10には入らない知る人ぞ知る武将なのですが、これがとんでもなく凄い戦国武将だったことを最近知りました。

 渋沢栄一が「日本近代資本主義の父」なら、蒲生氏郷は「日本の商業の父」と言えるかもしれません。

 私は会津贔屓ですから、蒲生氏郷といえば、織田信長、豊臣秀吉に仕え、会津若松城(福島県)を築城したキリシタン大名だという認識が大きかったのですが、もともとは、近江蒲生郡(滋賀県)の日野城主だったんですね。

 近江日野といえば、近江日野商人の所縁の地として有名です。

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 滋賀県日野町のHPによると、「近江商人」の中でも日野地方出身の商人は特に「日野商人」と呼ばれ、日野で造られた漢方医薬や上方の産物を天秤棒一本で地方へ行商して財をなしたといいます。他の近江商人と比べ出店数においては群を抜き、この形態は今の総合商社の始まりだとも言われています。近江商人の心得である「三方よし」(「売り手良し」「買い手良し」「世間良し」の三つの「良し」)は有名ですね。

 近江商人の流れを汲むと言われる現代の企業に、武田薬品工業や東レや伊藤忠商事、双日、西武グループ、高島屋などがあることは皆様ご案内の通りです。蒲生氏郷が移封された後、近江日野は衰退してしまい、新しく日野商人が独自で切り開いたという説もありますが、蒲生氏郷が近江日野に商業の種を蒔いたことは間違いないことでしょう。

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 信長の死後、羽柴秀吉の家臣となった蒲生氏郷は、小牧・長久手の戦いや九州征伐などで戦功をたて、天正16年(1588年)に伊勢・松ヶ島12万石に移封され松坂城を築城します。松ヶ島の「松」と秀吉の大坂の「坂」から字を取って「松坂」(後に松阪)と命名したのは蒲生氏郷です。この時、城下町に移住してきたのが、蒲生氏郷の地元の日野商人で、これが名高い「松阪商人」になったというのです。半ば強制的に移住させられた商人もいましたが、大半は、商業の発展に力を注いだ武将の蒲生氏郷を慕って移住してきたと言われています。

 松阪商人で最も有名な人物は三井グループの祖である三井高利です。高利の祖父である三井高安は、もともと近江の守護大名六角氏に仕える武士でしたが、織田信長との戦いに敗れて伊勢の地に逃れてきたといいます。蒲生氏郷が松阪に移封される20年も前のことですが、三井高安は越後守を名乗っていたため、「三井越後屋」(今の三越)の屋号が生まれたと言います。

 松坂城主蒲生氏郷は、楽市楽座を進め、街道を整備して商業発展に力を入れたといいます。伊勢商人の流れを汲む現代の企業には、イオンや伊藤ハムや岡三証券などがあります。

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 蒲生氏郷は、天正18年(1590年)の小田原征伐の後、陸奥会津42万石(後の検地加増で91万石)に移封されます。黒川城(城主伊達政宗は、小田原遅参などを理由に会津を没収され、米沢72万石に減封)を蒲生家の舞鶴の家紋ににちなんで「鶴ヶ城」と改名し、黒川の地名も出身地の近江日野の「若松の森」から会津「若松」と変更します。

 勿論、城下町には日野商人や松坂商人も移住させて商業発展に力を入れますが、どういうわけか、あまり「会津商人」は全国的に有名ではありませんね? でも、近江日野の漆器を、「会津塗」として名産にしたのが蒲生氏郷だと言われています。

 蒲生氏郷は1592年、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)の際、前線部隊が集結した肥前名護屋城(佐賀県唐津市)にまで参陣しますが、ここで病を得たのが遠因で、この3年後に伏見で39歳の若さで亡くなります。

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 蒲生氏郷が会津に移封されたのは、表向きは伊達政宗ら東北の有力大名を抑えるためという理由ですが、秀吉が氏郷の武勇と領地経営の才覚を恐れたためだとも言われ、毒殺されたのではないかという噂さえあります(病死説が有力)。

 現代の最優良企業である伊藤忠や武田薬品や三井財閥やイオンなどの祖が、蒲生氏郷が種を蒔いて発展させた近江商人や伊勢商人だったと思うと、改めて蒲生氏郷の偉大さを感じませんか?

キリシタン宣教師から見た「本能寺の変」

◇浅見雅一著「キリシタン教会と本能寺の変」

2月7日(日)放送予定のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」が最終回で、「本能寺の変」をやる、というので、慌てて、浅見雅一著「キリシタン教会と本能寺の変」(角川新書、2020年5月10日初版、990円)を購入し、3~4日かけて読破しました。

 この本は、「月刊文藝春秋」二月号で「鍵を握るのは『光秀の子』と『キリシタン』新説『本能寺の変』座談会」という記事の中で、歴史学者の本郷和人氏と作家の伊東潤氏がべた褒めしていたので、「こりゃあ、いつか読まなければいけないなあ」と「宿題」にしていたのでした。

 本書に収録されているルイス・フロイスがローマのイエズス会本部に送付した「信長の死について」という報告書が、ポルトガル語原典から初めて翻訳されたということで、大いに期待したのですが、正直、「めでたさも中くらいなり おらが春」(不正確な引用)というのが読後感でした。

◇クセが強すぎる

 偉そうに言って、大変申し訳ないのですが、著者本人の性格なのか、クセなのか、それとも、行数、ページ稼ぎなのか、同じことを何度も何度も繰り返す文章が多く、漫才師千鳥じゃありませんが、「クセが強すぎる」と叫びたくなりました。私が鬼の編集者だったら、繰り返し部分を大幅にカットしますね。

 目玉になっているポルトガル語原典初訳という「信長の死について」も、正直、翻訳がこなれていません。例えば、「二、三日後と思われる堺に赴くとき」(225ページ)、「明智の人々は大変急いで逃げたので」(246ページ)…といった箇所です。前者は日本語になっていないし、後者の「人々」は他にもよく出てきて、直訳だと思われますが、せめて、将兵とか部下とか意訳しても許されるのではないかと思われます。

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◇フロイスはスパイのよう

  最初から「注文」ばかり付けてしまいましたが、この本の価値を貶めるつもりは毛頭なく、よくぞ、新しい視点で本能寺の変を分析してくれた、と感謝したいぐらいです。

 本能寺の変は、天正10年6月2日(西暦1582年6月21日水曜日)未明に起きました。明智光秀は何故、主君織田信長に謀反を起こしたのか?日本史上最大の謎の一つ、と言われています。

 それが、同時代人のルイス・フロイスによるイエズス会本部への報告書を読むと、少しアウトラインが見えてきます。それ以上に、伴天連たちはよくぞここまで調べ上げたものだ、と感心するどころか驚愕してしまいます。フロイスは宣教師ですが、スパイみたいです。それもかなり優秀で有能なスパイです。「信長の死について」を読むと、昭和のゾルゲ事件のリヒャルト・ゾルゲを想起します。

 フロイスは、1564年に来日し、「日本史」の著者としても知られ、何度も信長に謁見していますが、本能寺の変があった時は、長崎県の口之津(南蛮貿易の港があり、キリスト教布教の拠点)にいて、事件を目撃したわけではありません。

 しかし、「信長の死について」(1582年11月5日付、イエズス会総長宛書簡)をまとめて書き上げたのはフロイスでした。元になったのは、本能寺に近い京都の修道院にいたカリオン司祭と、安土にいたダルメイダ修道士の書簡、それに美濃にいたセスペデス司祭の書簡などで、そのまま引用したり、参照したりしています。勿論、最終的にはフロイスの見方が挿入されているので、今の週刊誌でいえば、アンカーマンの役割を果たしていたと言ってもいいでしょう。

 ポルトガル語で書かれた報告書なので、日本人や、まして秀吉や家康ら大名の目に触れても分からないので、何ら気兼ねなく自由率直に、本人たちが事実だと思ったことが書かれていた、という著者の指摘はその通りなのでしょう。ただ、それが真実だったかと言えば断定できないと思われます。記述したことが、単なる噂話だったかもしれないし、また、情報ソースであるキリシタン大名・高山右近に直接取材して書かれたと推測される事柄もあるからです。

 例えば、本能寺の変の後、「天下分け目」の戦となった山崎の戦いでは、「中国大返し」で急いで都に帰って来て、疲労困憊する羽柴秀吉軍が到達する前に、高山右近などが既に、明智軍と相まみえて勝敗を決したかのように報告されているのです。これは、高山右近が自分の手柄を大きく見せたいがために、オーバーに司祭たちに話したのかもしれませんし、事実だったのかもしれません。

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◇光秀は暴君だったのか? 

 報告書では、信長は、キリシタン宣教師たちを庇護し、安土城下や京都市内にも教会を建てることを容認したり、土地を与えたりしたので、信長に対しては非常に好意的に描かれ、晩年になって自己を神格化して傲慢になった信長を批判しつつ、その死については、やや、ですが、惜しんでいます。

 その一方で、明智光秀については、「生来低い身分で卑賎の家系の人物」とか「彼は、皆から嫌われ、裏切りを好み、処罰には残忍であり、暴君であり…」などとローマの本部に報告しています。これは、フロイスの見方ではないかと思われます。ただし、光秀は、本能寺の変の後の2日後に、安土に到着し、信長の屋敷と城を占拠し、信長が15年から20年かけて獲得した金銀財宝を、光秀は自分の武将たちに分配しただけでなく、京の内裏にも2万数千クルザード、禅宗の京都五山の寺院にもそれぞれ7000クルザード(ポルトガルの通貨単位、1両=7クルザードと推定)を贈ったことなども、フロイスは、そのまま引用してわざわざ書いています。こうした記述を読むと、逆に、私なんかは、光秀は、信長のような吝嗇ではなく、ひたすら私利私欲だけに走る暴君ではなかったように見えます。

 著者の浅見氏は、本能寺の変のキーパースンの一人として、オルガンティーノ司祭を挙げています。オルガンティーノは、本能寺の変について書き残すことはありませんでしたが、変の後、わざわざ生命の危険を冒して、光秀の子息の十五郎に会いに坂本城にまで行っています。また。光秀の娘玉が、盟友細川藤孝の嫡男忠興と結婚した後、キリシタンになって細川ガラシャと名乗りますが、その玉に洗礼を授けたのがオルガンティーノだったと言われています。光秀との接点もあったらしく、本能寺の変の真相を知っている可能性もあるようなのです。

 こうして、日本という狭い空間で起きた大事件が、ほぼ同時期に、ローマに報告されるなど、世界史的視野で語られていたという事実には本当に驚嘆しました。フロイスの報告書を読むと、非常に臨場感があり、今から439年前に起きたことが、つい最近に起きた事件のようにさえ思えてきます。

「本能寺の変」の謎が解明した?

 古代史に回帰したと思ったら、もう戦国時代に戻ってしまいました(笑)。

 また、例の週刊朝日ムック「歴史道」最新号が「本能寺の変」を特集していたので、迷わず買ってしまったのです。

 この本の発売日が1月6日。その2日前の1月4日の朝日新聞の朝刊一面に大スクープが掲載されました。何と、「明智光秀は、本能寺に行っていなかった?」という衝撃的な新事実が発見されたのです。明智光秀が最も信頼していた家臣の斎藤利三(としみつ、1534~82年、春日局の父、山崎の戦いの後、捕縛され処刑、絵師海北友松の親友)と明智秀満(左馬助、1536~82年)率いる先発隊2000余騎が本能寺を襲撃し、光秀本人は、本能寺から南約8キロの鳥羽に控えていたというのです。

 えっ? それなら、「敵は本能寺にあり!」と、軍配を寺に向けて突進した明智光秀の姿は、講談のつくり話だったんですか? 講談師、見てきたような嘘を言う、とは昔から言われてきました(笑)。

 「明智光秀が本能寺に行かなかった」と証言したのは、実際に本能寺の変に参戦した斎藤利三の三男利宗(としむね、1567~1647年、当時数えで16歳)だったということですから、かなり信憑性があります。(加賀藩の兵学者関屋政春著「乙夜之書物(いつやのかきもの)」上巻(1669年)の中で、斎藤利宗が甥で加賀藩士の井上清左衛門に語ったというもの)

 この「歴史道」では、本能寺の変に関する歴史的史料を「一次史料」「二次史料」と区別して列挙していますが、勿論、この「乙夜之書物」は、雑誌の締め切りの関係で入っていません。が、後世に書かれた「二次史料」とはいえ、信憑性は高いでしょう。斎藤利宗が、江戸の平和な時代になって甥に嘘や出鱈目を語って何の得になるのでしょうか。

 織田信長に関する評伝で最も有名な歴史的史料は、太田牛一著「信長公記」ですが、これは後世になって一次史料を参考にして書かれたもので、二次史料に分類されていました。一次史料で重要なものの一つに、光秀と深い親交のあった吉田神社の祀官だった吉田兼見が残した「兼見卿記(かねみきょうき)」があり、そこに光秀本人が本能寺を急襲したように書かれていたため、後世に影響を与えたようです。

 しかし、吉田兼見自身が本能寺近くに行って見たわけではなく、あくまでも伝聞で書いたといいます。となると、実際に本能寺の変に参戦した人物である斎藤利宗の証言の方が真実ではないでしょうか?

 この本でも、小和田泰経氏は「たかだか1町(約109メートル)四方の寺院を取り囲むのに大軍は必要ない。(明智光秀は)全軍(1万3000~2万兵)で本能寺を攻めたのではなく、残りは七口と称される京都の出入り口を押さえていたのであろう」と書いてあるので、光秀本人が「現場」に行かなかったことは、十分あり得る話なのです。

本能寺跡

 光秀は、直接、主君信長に手を掛けたくなくて本能寺に行かなかったとしたら、彼の性格が伺えます。この本では、本能寺の変を起こした光秀の動機について、「怨恨説」「黒幕説」「野望説」など色々書かれていますが、私は、一つじゃない「複合説」を取ります。信長の古くからの重臣である宿老の佐久間信盛が追放され、滝川一益は伊勢長島(三重県桑名市)から上野厩橋(群馬県前橋市)に国替えさせられるなど、信長は世代交代を始めた。光秀も、せっかく坂本城、丹波亀山城を苦労して治めることができたのに、次は俺の番か、と危機感を持ったこと。四国長宗我部元親との交渉役を外されたこと。それに、中国毛利軍と戦っていた羽柴秀吉の与力(配下、つまり格下げ)になることを命令されたことなどから、将来を悲観して、中国地方に向かわず、変を起こす4日前(1582年5月28日、本能寺の変は6月2日早朝、当時陰暦で5月は30日まで)に急に決断して、緻密な完璧主義者の性格の光秀には似合わず、無計画に性急に、そして杜撰に事を進めていったのではないかと思います。

 考えてみれば、本能寺の変は、わずか439年前の出来事です。古代史と比べれば、つい最近のことです。これからも、信頼できる史料が出てくれば、どんどん謎も解明していくのではないでしょうか。

【追記】

 本能寺の変の第一次史料「兼見卿記」を書いた吉田神社の祀官吉田兼見(兼和)は単なる神官ではなく、公家であり、朝廷(正親町天皇)と光秀との仲介役だったんですね。光秀は、本能寺の変の後、大津に向かい、粟田口で吉田兼見と対面しているといいます。それどころか、変から5日後の1582年6月7日、吉田兼見は、光秀が占拠した信長の居城安土城に派遣され、光秀を信長に代わる権力者として認める朝廷の意向を光秀に伝えたといいます。

 これだけ、光秀に直接会っているなら、吉田兼見は本能寺の変の真相を本人から聞いていたはずなのに、具体的に書かなかったのは、光秀から口止めされていたのか? 態と書かなかったのか? やはり、謎は深まるばかり…。

邪馬台国は何処にあったのか?=「永遠に謎」でもいいのでは?

 富岳 Copyright par Duc de Mtsuoqua

  年末年始は、コロナ禍で自宅待機を半ば強制され、朝から酒を呑んでいるので活字が頭に入らず、となると、テレビを見ることになります。しかし、現代人なのに最先端の流行ものに興味を持てず、というか、全く付いていけず(苦笑)、恒例の紅白歌合戦も5分見てギブアップしてしまいました。

 以前はよく見ていたお笑い番組も、流行の笑いに付いていけず、むしろ、馬鹿らしさと空虚さと怒りを感じてしまう始末でした。いけませんね。

 でも、その代わり、大収穫がありました。正月の夜にNHKで放送された「邪馬台国サミット2021」です。女王・卑弥呼の都「邪馬台国」の所在地を巡り、江戸時代から続く「九州説」と「近畿説」の大論争で、侃侃諤諤の議論はひじょーに面白かったでした。恐らく、多くの方もご覧になったかと思いますが、御覧になっていなかった皆さんは、「九州と近畿、どっちなんだあ」とせっかちに身を乗り出すと思われます。(戦前は、東京帝大の白鳥庫吉教授の「九州説」と京都帝大の内藤湖南教授の「近畿説」が有名ですが、エジプト説もあったりして吃驚しました)

 結論を先に言いますと、有力な「九州説」も「近畿説」も決定的な「証拠」に欠けて、まだ「分からない」というのが正解でした。でも、九州説では、例えば、佐賀県神埼市・吉野ケ里町で発掘された有名な吉野ケ里遺跡には、「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記された楼観(ろうかん)跡と推定される物見やぐらや大壕などがあったことから、北九州に邪馬台国があったという有力説になってます。(近畿には物見やぐらや大壕などの古代遺跡がない!ただし、吉野ケ里は邪馬台国に先立つ50~100年前の大集落だったらしいので、ここが邪馬台国跡ではないようです)

 近畿説は、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡が有力のようでした。纏向遺跡内の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないか、とも言われていますが、古墳は宮内庁が管理して学術調査もできないので、まだ決定的証拠が見つかっていません。纏向遺跡には柱跡からかなり大きな宮殿のような巨大建築物が見つかり、ここで卑弥呼が「鬼道」(呪術)を使っていたのではないかと推測されていますが、魏志倭人伝の記述にあるような物見やぐら大壕などは発掘されていません。少なくとも、これだけ広大な宮殿跡は、初期天皇である大王の都跡、もしくは、出雲や吉備などの地方豪族の集合体の王都ではないかという説には私は惹かれました。(卑弥呼は、天照大神だった、卑弥呼は神功皇后だった、という説もあります)

 しかし、私もその御著書を愛読している倉本一宏・国際日本文化研究センター教授は「(正史である)『日本書紀』に邪馬台国も卑弥呼も出て来ない。天皇家とは別の政権だからではないか。となると近畿というより九州ではないか」といった趣旨の発言をしておられましたが、私もどちらかと言えば、分が悪い「九州説」派です。(魏志倭人伝には、「倭人は鉄の矢じりを使っている」と書かれていて、これまで福岡で1740点、熊本で1891点の鉄の矢じりが発掘されていますが、大阪では153点、奈良では13点しか出土していないそうです。おっ!九州説、有利か?)

番組はきこしめながら見たので、このムックで捕捉しました。最新研究成果の書かれた良書です。

 話は脱線しますが、纏向遺跡も箸墓古墳も1970年代から発掘が始まり、その成果は20世紀末から21世紀になって徐々に明らかになったということですから、私の世代の学生時代は全く習いませんでした。古代史は日進月歩、新たな発掘で書き換えられているということですね。

 近畿説を取る福永伸哉・大阪大学文学部研究科教授は「自虐的九州説」と一刀両断しておられました。同教授は、魏志倭人伝に邪馬台国には7万戸あったということは人口は30万人いたことになる。しかし、927年の「延喜式」によると、筑後の人口は7万3300人、肥前は8万1400人しかいない。とても、九州とは思えない、といった論陣を張っておられました。

 これに対して、中国古代史が専門の渡辺義浩・早稲田大学文学学術院教授は「中国の場合、人口などの数字は正確ではありません」と説明していました。さすが「白髪三千丈」と、数字は桁違いにオーバーに言うお国柄です。こちらの分が高いようです。もっとも、渡辺教授は、邪馬台国が九州にあろうが、近畿にあろうが、どっちでもいい、三国志に興味があっても、そんなもん興味ない、というスタンスだったので笑ってしまいました。

 渡辺教授によると、邪馬台国の第一次資料である陳寿著「魏志倭人伝」は、日本人のために書かれたものではないことをもっと注目すべきだと強調していました。魏呉蜀の三国が覇権を争っていた時代に、天下国家を取るために、自国に都合の良いように脚色した部分もあり、全面的に信用できないといいます。だから、魏志倭人伝に書いた通りに邪馬台国の場所を探して辿っていくと九州の南の海の中になければならなくなってしまいます。

 これは、他の本で読んだのですが、卑弥呼に「卑しい」を使い、、邪馬台国に「邪(よこしま)」の文字を当てたこと自体が、明らかに中国側から見た倭人に対する蔑称です。(日本では、卑弥呼は、姫子と呼んでいたという説もあり)

 邪馬台国は何処にあったのか?-は確かに「古代のロマン」として好奇心をくすぐられます。でも、なぜ、明智光秀が、主君織田信長を裏切って本能寺の変を起こしたのか、諸説あって理由が定かでないように、「よく分からない」「ミステリー」が、日本史の魅力にもなっているのではないでしょうか。

 また、新たな発掘調査で真相が明らかになるかもしれませんが、「永遠に謎」でも私は構わないと思ってます(笑)。

 【後記】

 写説に書いた通り、きこしめながら、番組を見ていたので、書いた数字は正確ではないかもしれません。もし、事実誤認がありましたら、訂正致します。また、番組と同じぐらい週刊朝日ムック「歴史道」(「古代史の謎を解き明かす!」特集号)を参照しました。

 ところで、今朝(1月4日付)朝日新聞によると、本能寺の変の際、明智光秀が直接、本能寺を急襲したのではなく、家臣の斎藤利三(としみつ=春日局の父)に任せて、自分は京都市南部の鳥羽にいた、という説には驚きました。これだから歴史は面白いのです。

名こそ惜けれ=戦国武将の死生観

最近、どうも個人的な関心が「戦国時代」づいています。日本の歴史の中で、戦国時代を知らなければ、江戸時代のことが分からないし、江戸時代のことを知らなければ、現代も分からない、とこじつけみたいな話ですが、戦国時代のことを知ると、何か、日本史の舞台裏と政略結婚による人脈が分かるような気がして、爽快な気分になれるのです。

 ということで、また「歴史人」(KKベストセラーズ)1月号を買ってしまいました。「戦国武将の死生観」を特集していたからです。いつも死と隣り合わせで生きてきた戦国武将の遺言状や辞世の句などが載っていますが、不運にも討ち死にしたり、処刑されたりする武将がいる一方、当時としては恐るべき長生きした武将もいたりするので、大変興味深かったです。

 最初に「戦国大名 長寿ランキング」を御紹介すると、1位が真田信之の93歳、2位が島津義弘の85歳、3位が尼子経久と宇喜多秀家の84歳、5位が細川忠興の83歳…となっています。各武将、色んな逸話がありますが、1位の真田信之は、有名な真田幸村のお兄さんです。関ケ原では、真田昌幸・信繁(幸村)親子が西軍についたのに対して、信之は徳川方の東軍について、戦後、父昌幸の上田城を与えられ、元の沼田城主と合わせて6万8000石の大名になった人です。当時としては信じられないほど長寿である数えの93歳まで生きましたが、30代から病気がちの人だったらしいですね。

 真田藩は元和8年に上田から松代に移封されますが、幕末にこの藩から佐久間象山を輩出します。

 3位の宇喜多秀家は84歳で亡くなりますが、後半の約50年間は八丈島で過ごし、そこで亡くなっています。備前・美作の大名で、豊臣秀吉の五大老にまで昇り詰め、関ケ原の戦いでは西軍に属して敗退し、島流しになったわけです。前田利家の娘を娶ったことから、島流しの間は、密かに前田藩からの援助があったと言われています。勿論、皆さん御存知の話ですが。

 また、「戦国武将の滅びの美学ランキング」で、1位を獲得したのは松永久秀です。以前なら、主君三好氏に反逆し、将軍足利義輝を殺害し、東大寺大仏殿を焼き打ちした極悪非道の、下克上の典型的な悪人のイメージがありましたが、最近では、随分見直されてきたようです。将軍義輝暗殺事件の際は、久秀は大和の国におり、直接関与せず、大仏殿の焼失は三好方の放火だったいう説が有力になってきたからです。

 久秀の最期は、天下一と称された「平蜘蛛の茶釜」とともに信貴山城で、織田軍に抵抗して爆死したと言われますが、茶器、刀剣、書画などの目利きという一流の文化人でもありました。いつか、彼が築城した多聞城趾に行きたくなりました。

 戦国時代の「天下分け目」の最大の合戦は、関ケ原の戦いですが、盟友石田三成に殉じて自害した大谷吉継の逸話が印象的です。西軍に属していた小早川秀秋らの裏切りで、吉継軍は壊滅しますが、吉継は自害するときに「(小早川秀秋は)人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん」と秀秋の陣に向かって叫び、切腹したといいます。

 小早川秀秋は、秀吉の正室ねね(北政所、高台院)の兄木下家定の息子、つまり甥に当たる人物で、毛利元就の三兄弟の三男小早川隆景に後嗣がいなかったため、その養子になった人でした。秀秋は関ケ原の戦いの2年後に21歳の若さで急死したので、「大谷刑部の祟り」と噂されたのでした。

 勿論、皆さま御存知の話でしたが、この本にはまだまだ沢山色んな話が出てきます。山崎の戦いで秀吉軍に敗れた明智光秀が、近江の坂本城に戻ろうと逃げた際に残った従者に溝尾茂朝(みぞお・しげとも)や進士貞連(しんじ・さだつら)らの名前が出てきて、随分、マニアックながら、私なんか「武士は死して名を残す、というが凄いなあ」と思ってしまいました。

 あまりにも戦国武将の逸話を読み過ぎると、「中学時代の友達だった南部君は、南部藩主の末裔だったのかなあ?」とか、「古田って、あの古田織部の子孫かな?」「立花さんは、立花宗茂の子孫かなあ?」なぞと、勘繰りたくなってしまいました(笑)。

 豊臣秀吉の一族は、大坂の陣で滅亡したことになってますが、織田信長の一族は現代にも子孫は続いてます。何しろ信長には11人(12人説も)男子がいました。信長の嫡男信忠は、本能寺の変の際に討ち死にしましたが、信長の弟の長益(有楽斎)や二男信雄らの子孫は生き残り丹波柏原藩主などになりました。

 そう言えば、元フィギュアスケート選手の織田信成さんは直系の子孫ともいわれています。

 当然の話ながら、遠い遥かな戦国時代が現代と繋がっています。

【追記】

 19日のNHKの番組で、「関ヶ原の戦い」の新発見をやってました。空撮による最新技術で赤色立体地図を作成したところ、本丸が一辺260メートルもある巨大な山城「玉城」が山中(地名)に発見されたのです。恐らく、ここが西軍の本陣の陣城で、豊臣秀頼か総大将の毛利輝元の数万の部隊を配置する目論見だったらしいことが分かりました。文献に出てこないのは、勝った徳川側からしか関ヶ原の戦いが描かれていないからでした。

 当時、8歳の秀頼は、母親の淀殿と秀吉の正室の北政所の庇護下にあり、淀殿も北政所も必ずしも西軍や石田三成側に立っていたわけではなかったようでした。だから、寝返った小早川秀秋も、調略を進めていた東軍の黒田長政も、北政所から養育され、北政所だけに忠誠心があったため、小早川が寝返ったのは、北政所の意向に沿ったことが真相のようでした。新説です。

毛利輝元は、関ケ原の戦いのどさくさに紛れて、九州、四国に領土拡大を図り、大坂城から一歩も動かず。南宮山に陣取った輝元の養子の毛利秀元も、徳川軍勢を見過ごすなど最初から西軍のために戦う気がないような怪しい動きばかりしていました。

 毛利と島津義弘が真面目に戦い、淀殿と北政所が西軍に協力的だったら、必ず西軍が勝っていた戦いでした。

 これだから歴史は面白い。

哀れ、明智光秀の最期=ムック「戦国争乱」

 コロナ禍で、結局、休日は「我慢の三連休」になってしまいました。ひたすら、家に閉じこもって勉強をしていました。何の勉強ですかって? フリーランスの個人事業主として必須の簿記関係です。訳が分からなくなって、ここ数カ月、何度も何度も匙を投げ出したくなりました。まさか、この年まで受験生のような勉強をさせられるとは夢にも思っていませんでした。今でもよく分からず、フラストレーションが溜まります。

 そんな勉強の合間、気分転換に読んでいるのが、中央公論新社のムック「戦国争乱」です。今、個人的にも戦国時代への関心、興味が深まっているので、この本は異様に面白いですね。信長、秀吉、家康を中心に「桶狭間の戦い」から「大坂の陣」までの代表的な18の合戦と60人の武将を徹底的に分析しています。何と言っても、戦国時代を日本史の狭いジャンルに閉じ込めることなく、世界史的視野で位置付けているところが、この本の醍醐味です。

 今年6~7月に放送された「NHKスペシャル 戦国~激動の世界と日本~」で、私も初めて知ったのですが、スペインの国王フェリペ二世は、宣教師を「先兵」に使って、日本をメキシコやフィリピンなどと同じように植民地化することを企んでいたといいます。この点について、この本でも詳しく触れられていて、清水克行明大教授によると、日本でのイエズス会の目的は二つあって、一つは純粋なキリスト教の布教。もう一つは、軍事大国日本を先兵にして中国・明の植民地化にあったといいます。イエズス会の創設者の一人イグナティウス・デ・ロヨラは、元々軍人でしたからね。本当は、日本を最初に植民地にする予定だったのが、自前で何万丁も火縄銃をつくってしまう世界最大級の軍事大国だった日本を攻め落とすことができないことを宣教師たちには早々に分かったようで、究極の目的の中国植民地化に切り替えたのでしょう。

 純粋な布教を目指したのは、宣教師ザビエル、巡察師バリニャーノ、司祭オルガンティーノらでした。彼らは、中国植民地化で政治利用を図った日本布教長のカブラル、日本準管区両長コエリョ、司祭フロイスらとの間で確執があったといいます。

 また、昨日22日のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」でもやってましたが、あの歴史的な織田信長による「比叡山焼き討ち」についても詳しく解説してくれています。テレビでも、主人公の明智光秀は、比叡山焼き討ちは、信長の命令で不本意にも仕方なく参戦したように描かれていましたが、この本では違っていました。光秀は積極的に参戦したというのです。

 近年、明智光秀が大津市の土豪和田秀純に送った書状(1571年9月2日付)が見つかり、光秀は内応を約束した秀純には前日の戦勝を報告する一方、敵対する仰木村の民は皆殺しにすると記していたといいます。

 光秀はこの時期、足利将軍家と織田家の両方に仕え、どっちつかずの状態だっため、比叡山焼き討ちに積極的に参戦して、織田家臣として手柄を立てたかったのではないかと推測されています。実際、光秀は信長からその武功を認められ、焼き討ちした坂本の領地を与えられます。

 私も、実際、「明智光秀ゆかりの地」を訪ねて、今月初めに坂本城跡や光秀の菩提寺である西教寺に行ってきたばかりなので、文字だけで想像力が湧きました。

 本能寺の変の後の天下分け目の「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍に敗れた明智光秀は、大津の坂本城に逃げ帰る途中の京都市伏見区小栗栖の「明智藪」で、落ち武者狩りの農民によって殺害されます。秀吉は、確保した光秀の首を本能寺の焼け跡に晒し、次いで首と遺骸をつないで粟田口で大罪人を示す磔にしたと、この本に書かれていました。

 この部分を引用することはやや逡巡はしましたが、冷酷な戦国時代の実相だと思われ、敢えて引用しました。明日にも露のようにそこはかとなく消えてしまう命のやり取りをしていた戦国武将と比べれば、今のような平和な時代に生まれた現代日本人の悩みなど本当に取るに足らないものなのかもしれませんね。何度も書きますが、戦国時代に生まれなくてよかった。

伊達政宗の祖先は茨城県人だった=「歴史人」11月号「戦国武将の国盗り変遷マップ」

 「歴史人」11月号(KKベストセラーズ)「戦国武将の国盗り変遷マップ」特集をやっと読了しました。

 不勉強のせいか、知らなかったことばかりです。特に、東北地方の戦国時代の武将は、伊達政宗と上杉景勝と最上義光ぐらいしか知りませんでしたが、まさに群雄割拠で、他にも有象無象の大名がのし上がっては消える弱肉強食の時代だったんですね。

 知っていたはずの伊達政宗にしても、仙台の青葉城の印象が強すぎて、伊達氏は元々の東北人かと思っていましたら、常陸国伊佐庄中村(茨城県筑西市)出身で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の関東御家人として、奥州藤原氏征伐に参戦し、武功として伊達郡を与えられたため、伊達氏を称したというのです。本姓は「中村」だったといいます。伊達者が絢爛豪華な数寄者の代名詞になっているぐらいですから、他の苗字だとピンときませんね(笑)。

 もう一人、「福島」の地名をつくった木村吉清という人物がおります。この人、元々、丹波亀山の足軽か雑兵出身だったといわれ、俄か大名の典型です。信長に謀反を起こした荒木村重に仕え、彼が失脚した後、明智光秀の家臣となり、本能寺の変にも参戦したといいます。山崎の合戦では羽柴秀吉につき、その戦功により5000石を与えられた、と、サラリとこの本に書かれています。でも、よくよく考えてみれば、本能寺の変から山崎の合戦までわずか11日です。こんな短時間で光秀を見限って寝返ったということになりますが、まさに戦国時代だからこそあり得る話なのかもしれません。もしかして、彼は、相当な忍びの間者を擁していて、秀吉の「中国大返し」のことも、細川幽斎・忠興親子が光秀を見捨てたという情報も得ていたのかもしれません。

 木村吉清は、秀吉による「奥州仕置き」で遠征し、「抜群の功があった」としてその60倍も加増されて東北の大大名になりますが、家臣団は浪人・無頼者出身が多く、暴政を敷いたため、地元の葛西氏や大崎氏の残党も加わった一揆で失脚します。一揆の背後で、伊達政宗が糸を引いていたとも言われています。その後、吉清は、嫡男清久とともに、蒲生家の与力として遇されて、信夫郡杉目5万石を与えられ、吉清は、この杉目の地を福島と改名したといいます。

 ちなみに、吉清の嫡男木村清久は、最期まで秀吉の恩を忘れなかったのか、大坂の夏の陣で討死しています。

 ◇尼子の悲劇

 このほか、中国地方で毛利元就・輝元に滅ぼされた出雲地方の大名だった「尼子の悲劇」があります。尼子義久・勝久に仕えた重臣で「尼子三傑」の一人、山中鹿介(やまなか・しかのすけ)は、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話が有名ですが、今では知る人は少ないでしょう。

 また、戦前の修身などの教科書では、楠木正成・正行父子が訣別する「桜井の別れ」が必ず取り上げられ、知らない人はいなかったと思われますが、「忠君愛国」思想を教育するのにちょうどよかったのかもしれません。このように、歴史の常識というのは、解釈の面で、時代によって変わっていくものだということを思い返し、この本を興味深く拝読致しました。

 それにしても、戦国史ですから、人間の本性が剥き出しです。疑心暗鬼から、離合集散あり、裏切り、寝返り、下剋上ありの何でもあり、しかも殺戮の仕方があまりにも残酷で、つくづくこの時代に生まれなくてよかった、と改めて天に感謝しております。

明智光秀ゆかりの地を訪ねて(下)=本能寺跡~勝竜寺城~明智藪~関ケ原合戦地跡

関ケ原古戦場で甲冑姿で身を包む若武者たち

2020年11月8日(日) 「明智光秀ゆかりの地を訪ねて」の三日目、最終日です。よくぞ茲までついてきて下さいました。読む方は大変でしょうが、書く方はもっと大変なのです(笑)。

 京都市西院のホテルを朝8時半にバスで出発し、10分ほどで「本能寺の跡」(京都市中京区山田町油小路通)に到着しました。

 御池通りを挟んで、京都市役所の真向かいにある本能寺(京都市中京区寺町通御池通下ル)には、私も中学校の修学旅行以来、何度も訪れていますが、ここは初めてです。

 でも、こちらの方が、実際に「本能寺の変」があった本物なのです。

 2005年に出版され、時の小泉首相も感動したということでベストセラーになった加藤廣著「信長の枷」でも詳述されていましたが、ここから西へ歩いて4~5分のところに南蛮寺という伴天連の寺があり、本能寺から南蛮寺に行くことができる秘密の抜け穴があったといわれます。

 この抜け穴は、本能寺の変の時、塞がれていて、信長は脱出できなかったといいます。そして、この秘密の抜け穴の在り処を知っていたのは、羽柴秀吉と徳川家康ぐらいだったことから、本能寺の変の黒幕説として、秀吉と家康の名前も挙がっているのです。(ほかに、光秀怨恨による単独説、四国の長曾我部元親黒幕説、将軍足利義昭黒幕説、朝廷黒幕説などあり、何冊も本が書けます)

 この本能寺は、変の後に、秀吉らによって今の京都市役所向かいの地に移転・再建され、南蛮寺は、秀吉の伴天連追放令で廃寺となります。

 今、「本能寺の跡」地には介護の「デイケアセンター」が建っておりました。碑の本能寺の「能」のつくりは、ヒ(火)が二つではなく、「火よ去れ」という意味を込めて、「去」になっています。

 本物の「本能寺跡」(京都市中京区山田町油小路通)を後にして、現在ある「本能寺」(京都市中京区寺町通御池通下ル)に移動しました(バスで10分ほど)。法華宗大本山です。中学生の頃は、無邪気にも、ここで「本能寺の変」があったと思っていました。

  境内には「信長公廟」がありますが、本能寺の変後、信長の遺骸は見つかっていません。だから、小説などで、信長は、抜け道を通って逃れた、などといった話が描かれるのです。

 本能寺からバスで40分ほど掛けて南西に向かったのは勝竜寺城跡(京都府長岡京市勝竜寺)です。「明智光秀 最期の城」と言われています。

 備中高松城で毛利軍と戦っていた羽柴秀吉は、1582年(天正10年)6月2日の本能寺の変の報せてを受けて、急遽、毛利軍と和睦して「中国大返し」で京に戻ります。これを受けて、光秀は6月13日に摂津国と山城国の境に位置する天王山の麓の山崎での合戦に挑みましたが、兵力に劣り、敗退します。信頼する盟友細川藤孝(幽斎)や筒井順敬らの積極的な支援を得ることができなかったことが光秀にとっての痛恨の極みでした。(明智光秀は「三日天下」と習ったことがありましたが、実際は「十一日天下」でしたね)

 残りの手勢とともに、この勝竜寺城に戻った光秀は、密かに裏門が逃れ、再起を懸けて、自分の城である坂本城(滋賀県大津市)に戻ろうとします。しかし、後からもう一度出てきますが、その途中の明智藪(京都市伏見区小栗栖)で、落ち武者狩りの農民らによって殺害されてしまいます。

 勝竜寺城は1571年(元亀2年)、織田信長の命を受けた細川藤孝が、それまであった臨時的な砦を本格的な城郭につくり替えたものです。

 1578年(天正8年)、細川藤孝の嫡男忠興と、明智光秀の娘玉(細川ガラシャ)との婚礼がこの城で行われたということで、二人の像も城内にありました。

 幽斎と号して文化人でもあった細川藤孝は、この城で、茶会や連歌会、能、囲碁会などを催したと言われます。

 また、これまでの中世の城とは一線を画し、天守や石垣、瓦葺などは後世の城郭づくりに関して、諸国の大名に大きな影響を与えたといいます。

 話は遡りますが、光秀が本能寺の変を起こす一週間ほど前の5月28日、丹波亀山城近くの愛宕神社での連歌会に参加し、

 ときは今 あめが下知る 五月かな

 という意味深な歌を詠みます。

「とき」とは光秀出身の美濃守護土岐氏のこと、「あめが下知る」とは天下に命じる、と解釈する人もいます。しかし、これから自分が謀反を起こすことを連歌会で示唆するわけがなく、こじつけに過ぎないという識者もおります。

 ところで、石垣といえば、大津市坂本の石工集団・穴太衆が有名です。穴太衆と書いて「あのうしゅう」と読みます。もし、御存知なら貴方もかなりのお城通です。粋ですね。

 穴太衆が手掛けた石垣は、安土城、彦根城、竹田城、姫路城などがありますが、現在も、その子孫が「粟田建設」(大津市坂本)として存続しているといいますから驚きです。中国や米国など海外でも石垣づくりや修復を手掛けているそうです。

勝龍寺本堂

 ついでに、勝竜寺城から歩いて数分のところにあり、お城の名前の発祥ともなった勝龍寺にもお参りしました。

 806年(大同元年)、空海(弘法大師)が開基したといわれる真言宗の古刹でした。山崎の合戦(もしくは天王山の戦い)で、この辺りは多くの戦死者が出ていたわけですから、彼らのご冥福をお祈り致しました。

 勝竜寺城(京都府長岡京市勝竜寺)から明智藪(京都市伏見区小栗栖)と呼ばれる明智光秀最期の地を訪れました。バスで1時間ぐらいでしたから、馬なら2~3時間ぐらいだったかもしれません。

 光秀が無念の最期を遂げたのがこの辺りだったと言われます。

 ここは、京都市地下鉄東西線「醍醐駅」から住宅街の狭い道を通って、歩いて20分ぐらい掛かると思います。醍醐といえば、豊臣秀吉が全盛期で最晩年の1598年(慶長3年)4月に豪勢な花見会を開いた醍醐寺があります。何か不思議な縁ですね。

日蓮本宗 本経寺

 実は「明智藪」を450年近くも管理してきたのが、この近くの本経寺さんでした。日蓮本宗で1506年に創建されました。上の写真の通り、境内には「明智日向守光秀公」の供養塔がありました。

 主君信長の逆臣とはいえ、明智光秀は「ゆかりの地」では大変尊崇されていることがよく分かりました。

 でも、光秀の暗殺者たちは、どうやって情報をつかんだんでしょうか?インターネットやスマホがない時代です。当時は、文(ふみ)と立札と口コミぐらいしかないはずですが、情報伝播の素早さには驚くばかり。秀吉軍も光秀軍もお互い間者(スパイ)を養成して相手の動きを探っていたことは確かでしょうが、現代人以上に優秀だったのかもしれません。とにかく命懸けですから。

「明智藪」からバスで1時間ほど、山科から近江へ東を走り、最後の目的地、美濃の「関ケ原合戦地跡地」(岐阜県不破郡関ケ原町)に到着しました。一度は訪れてみたいと思ってましたが、やっと実現しました。

 光秀公暗殺から18年後の1600年10月21日(慶長5年9月15日)、徳川家康軍(東軍)と石田三成軍(西軍)が激突した「天下分け目」の戦場です。

 東軍8万、西軍10万(諸説あり)。わずか半日で決着がついたと言われてますが、もっともっとだだっ広い原野を想像していました。

石田三成陣跡
三成の軍師島左近の陣地跡
家康が敵の大将の首実検をした所

 関ケ原の合戦については、多くの書物が書かれ、ドラマや映画にもなっているので、御説明はいらないかと存じます。

 上の写真の「あらまし」をお読みください。

 歴史にイフはありませんが、「もし西軍の小早川秀秋が裏切らなければ…」「もし西軍の島津義久が薩摩に敵前逃亡せず、最後まで戦っていたら…」などと考えたくなります。

 でも、石田三成が天下を取った政権は想像もつきませんね。三成は、家康のように狡猾ではないので、秀頼公を奉じて豊臣政権を長く続けさせたかもしれません。

 そうなると、首都は大坂で、大坂城が日本の中心。日本の植民地化を狙うスペインや交易で国威発揚を狙うオランダ、幕末に米国の黒船が襲来したらどう対処いたのでしょうか。うーむ、創造力がないのか、やはり、徳川江戸幕府しか想像できませんね。

 以上、3回にわたって「明智光秀ゆかりの地を訪ねて」を報告してきました。歴史物語とも旅行記とも随筆とも、何にも当てはまらない中途半端なリポートでしたが、最後までお読み頂き、誠に有難う御座いました。

関係者や御協力者の皆様にはこの場を借りて、改めて感謝申し上げます。

明智光秀ゆかりの地を訪ねて(中)=西教寺~坂本城跡~丹波亀山城~福知山城

福知山城

 2020年11月7日(土)、光秀ゆかりの地行脚二日目です。

 まず、大津市坂本にある西教寺をお参りしました。明智光秀一族の菩提寺です。

 日本最大の湖、琵琶湖の南部の「ほとり」にありますが、前夜泊まった北部・長浜市の「対岸」にあり、バスで1時間半も掛かりました。

 この大津市坂本は、琵琶湖のほとりであると同時に、比叡山の「麓」でもあります。織田信長は1570年、敵対する比叡山延暦寺の焼き討ちを断行します。家臣である明智光秀は不本意ながらも参戦し、この西教寺も延焼させたといわれます。その後、信長により坂本の地を与えられた光秀は、いち早く、この西教寺を再興するのです。

西教寺総門 坂本城大手門を移築したものと伝わる

 いやあ、思いのほか広い境内でした。聖徳太子が恩師である高句麗の僧慧慈、慧聡のために創建したと伝えられる古刹です。

 さすが全国に400余りの末寺を持つ天台真盛宗の総本山だけあります。

 この唐門の軒に、何と麒麟の彫刻が見られます。明智光秀が主人公のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」はフィクションですが、当時も、架空の動物ながら麒麟の存在を知られていたのかもしれません。

 西教寺境内にある明智光秀一族の墓です。

 我々はこの日の翌日に、光秀が殺害された「明智藪」(京都市伏見区小栗栖)を訪れましたが、光秀の遺骸はここまで運ばれたということなのでしょう。この寺は、先に亡くなった光秀の最愛の妻煕子(ひろこ)さんと実家の妻木家(美濃守護土岐氏の家臣)の墓もありました。

  光秀の墓と比べると煕子さんの墓はとてもこじんまりとしていました。戦国時代は、妻の葬儀に夫は参列しないという風習がありましたが、光秀は旧習を破って参列したと言われています。

 「煕子」という名前は、三浦綾子の小説「細川ガラシャ夫人」で広く知られるようになりましたが、それ以前は「お牧(槙)の方」の名前で通っていたようです。享年も46や36など諸説あります。

 西教寺の本堂です。本堂内には立派な阿弥陀如来坐像(重要文化財)が鎮座されておりました。

 境内の庭園も素晴らしく、一度は訪れたい寺院だと思います。何しろ総本山ですからね。渓流斎のお墨付きです。 

坂本城 本丸跡

 西教寺の後、坂本城に向かいました。この地を信長より下賜された明智光秀が1571年(元亀2年)に築城しましたた。宣教師ルイス・フロイスの著書「日本史」では、「安土城に次ぐ天下第二の城」と評されたらしいのですが、今は全く面影なし。

 石垣も今では琵琶湖の奥底に沈み、よほどの干潮でない限り、見られないそうです。上の写真を見ても、ここに本丸があったことなど誰も想像できないでしょう。看板すらありません。

 なぜなら、ここは今ではタッチパネルなどを製造するITメーカー、キーエンス(大阪市東淀川区)の保養所になっているからです。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が放送される来年2月ぐらいまで、特別許可として私有地を観光客向けに公開してくれているのです。

 ということは、来年2月以降は、関係者以外立ち入り禁止になります。団体ツアーに参加してよかったと思いました。

 キーエンスは「日本一給与が高い」という一流企業ですが、勤務時間も長いという噂がありますね(笑)。

 坂本城の本丸ではなく、二の丸辺りが城址公園になっていました。

 城址公園にはこのように明智光秀の銅像があります(これからも出てきますが、他の城址公園にも結構、明智光秀像がありました)。

 坂本城を築城した頃の光秀は43歳。それぐらいの年齢の頃の像なのでしょう。

上の写真は、坂本城の三の丸あたりにあった碑です。

 ご興味のある方は、説明文もお読みください。

 また、大河ドラマの幟が立ってますね。NHK畏るべし。

 お昼は、びわ湖楽園ホテルの湖国御膳(滋賀県の郷土料理)でした。鮎、近江牛…料理長さんらしき方がメニューを紹介してくださいました。

 鴨肉が美味しかった。関東で食べる鴨は結構堅いですが、こちらはすごく柔らかくてハムのようでした。ご飯もおかわりしてしまいました。

 昼食会場のびわ湖楽園ホテルから西へ50分ほどで、丹波亀山城(京都府亀岡市荒塚町)に到着しました。

 明智光秀が1577年(天正5 年)頃、丹波攻略の拠点とするために築城しました。明治維新後、廃城となり、すかり荒廃してしまい、所有者も転々としたことから、大正期に新興宗教の大本教の教祖出口王仁三郎(でぐち・おにさぶろう=1871~1948)が購入し、大本教の教団本部となって現在に至っています。

 城址公園内には、またこうして明智光秀像がありました。こちらは、逆算すると、光秀49歳ぐらいの時の像と思われます。

 上の写真が、現在の大本教の教団本部です。かつて丹波亀山城の本丸があったところです。

 教団本部の中には書店もあり、出口王仁三郎の主著「霊界物語」全81巻もありました。いつか読んでみたいと思っています。

 というのも、元毎日新聞記者の早瀬圭一氏が書いた「大本襲撃」(2007年初版・毎日新聞社)を読んで感動したからでした。

 こうして、神聖なる教団の敷地を、物見遊山の一般客にも開放してくださることも凄いと思っております。

 ですから、私自身が大本教に入信することはありませんが、全く偏見はありません。

 上の写真の説明文にある通り、出口王仁三郎が大正末にこの地を購入した時、城址の痕跡すらほとんど残っていなかったようです。

 教団信者がそろって、汗水たらして、石を積み重ねて、当時の有り様を復元したようです。

 しかし、大正末から昭和初めにかけて、大本教は二度も時の政府官憲から襲撃され、徹底的に破壊されます。せっかく積み上げた石垣もです。宗教弾圧です。

 上の写真を見ると、石垣は苔むして、明智光秀が築城した450年前の頃のものに見えますが、実は、二度も大本教団本部が破壊されたため、戦後まもなくに復旧復興されたものです。

 それを考えると、あまりにも凄い。出口王仁三郎の明智光秀が築城した亀山城を是が非でも復元したいという執念が伝わってくるようです。

 ちなみに、丹波亀山城のある亀岡市の亀岡駅は、JR山陰本線の快速で京都駅までわずか20分。通勤圏になっているそうです。

 また、この近くの湯の花温泉には、ジョン・レノンと小野洋子夫妻がお忍びで訪れたらしいですね(笑)。

 丹波亀山城を後にして北西に向かったのは、この日最後の予定の福知山城(京都府福知山市)です。バスで1時間5分ほどの距離でした。

 福知山城は天正7(1579)年、丹波を平定した明智光秀が築城しました。明治維新後、廃城となり、石垣と銅門番所だけが残っていましたが、1986年に市民の瓦1枚運動などで三層四階の天守閣が復元されました。内部は明智光秀に関する資料や福知山地方の歴史や文化財を紹介したパネルなどがありました。

 財団法人日本城郭協会による「続 日本の名城100」にも選出されています。スタンプの台帳も家から持ってきたのに、浮かれていたのか、バスの車内に台帳を置いたまますっかり忘れてしまいました。嗚呼、残念!!

 明治になって廃城になっても石垣は残ったということで、光秀時代の石垣です。

 この写真の右上に模様のついた変な直方体の石が見えます。これは何と、墓石から転用されたらしいのです。

 領民をあまり苦しめたくないという明智光秀の配慮で、近場にある、利用できるものは何でも利用しようといった作為の現れのようです。

 主君織田信長を暗殺した逆賊のイメージが強かった明智光秀ですが、地子銭の免除や治水事業など善政を行い、領民たちには優しかった面があり、福知山では今でも光秀を慕う「福知山音頭」が歌い継がれているという話です。

 そこで思い出したのが、「忠臣蔵」では悪役の吉良上野介です。この高家旗本吉良義央は、「悪の権化」のように描かれています。私はもう30年近い昔、彼が治めた吉良町(現愛知県西尾市)を取材で訪れたことがありますが、地元では、灌漑用水を整えたりした領民思いの領主だった、と言い伝えられ、今でも尊敬されていました。

 歴史の解釈って多面的に複層していて、分からないものですよ。一方的、皮相的に見てはいけないという教訓です。

明智光秀ゆかりの地を訪ねて(上)=桶狭間古戦場~織田信長公居館跡~岐阜城~長浜城

岐阜城

 「机上の空論」といいますか、あまり本ばかり読んで知ったつもりになるのも如何なものか、と思い直し、城巡りの現地取材に飛び出しました。

 ちょうど、今年はNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、主人公の明智光秀が脚光を浴び、再評価されていることもあり、それに便乗した団体ツアーに単独で潜り込むことに致しました。

 えっ?こんな東京では新型コロナの感染者290人前後も続出して、第2波襲来、第3波襲来と言われている最悪の時期に? 国賊ものですねえ。

 いえ、違います。むしろ国粋愛国主義者ですよ(笑)。我が日本国政府が強引に推し進めている「Go to トラベル」キャンペーンに身銭を切って参加したのですから。二泊三日の旅行でしたから、1泊に付き1万4000円の支援が頂けることから2泊で2万8000円(その分、旅費代割引かれて8万4000円に)。これに、現地(滋賀県、京都府など)で使える地域共通クーポン計1万2000円分も貰えましたから、合計4万円もの国家予算を拝受しての大名旅行でした。企画した旅行代理店は、非常に気を遣って、参加者には毎朝、健康チェックシートを提出させて検温し、バスに乗るたびにアルコール消毒を義務化しておりました。

 団体ツアーの参加者は18人。一人参加は男女各4人でした。小学校2年生ぐらいのお子様が参加していることには吃驚しました。平日ですから、学校を休んだのかしら? 「長篠の戦い」がどうしただの、と子供らしくない老成したことを漏れ聞いてしまい、怖くなって敬ってずっと遠くに離れておりましたから、どういうお子さんなのか不明ですが。

 それよりもっと驚いたのは、91歳の男性が参加していたことです。「昭和4年2月生まれ。若い頃は、水泳の選手で、古橋広之進と一緒に泳いだことがあるよ。クレージーキャッツの犬塚弘とは同級生だよ」。どこまで真実か分かりませんが、年齢的にはぴったりです。足腰がしっかりしていて、普通に歩いていたので、80歳ぐらいかと思ってました。

2020年11月6日(金)第1日

 最初に訪れたのが、桶狭間の戦いの古戦場です。

 今は住宅街に囲まれた記念公園になってますが、意外にも拍子抜けするほど小さいので吃驚しました(驚いてばかりですねえ)。

 桶狭間の戦いは、明智光秀の主君織田信長が1560年、この地で駿河・遠江・三河の守護今川義元の大軍を破り、天下に名を轟かせた歴史的合戦です。 義元殿、打ち死に。

 当時の信長26歳。小国・尾張の守護代の家臣から成り上がったまだ無名の若造で、対する今川義元は名門中の名門の駿府の守護職である大大名。格式が違います。信長の軍勢は今川の10分の1の2000ぐらいだったと言われますが、奇襲作戦が成功します。合戦当日は雷雨があり、今川軍は刀剣武器を雷から避ける目的で他に収容していたため、戦闘準備に手間取り、それが敗因の一つになったとも言われています。いずれにせよ、今川は、田舎侍の織田の「大うつけ」を甘くみていたことは確かでしょう。

桶狭間で勝った信長は、天下覇者の有力候補として全国デビューしたわけです。

 次に訪れたのが、織田信長公居館跡。岐阜城がある金華山の麓にあります。

 2年ほど前に、この地を訪れたことがありますが、見違えるほど変わっておりました。居館跡らしく整備されておりました。

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」効果なんでしょうね。恐るべし。

大河ドラマ館も見物しました。

ミニチュアの三重塔や居館の庭園なども再現されていました。

 こんな門兵がいる立派な?居館への門など2年前はありませんでしたからね。

 NHKの威力は大したものです(笑)。再び、恐るべし。

 ロープウェイを使って金華山頂上付近にある岐阜城へ。

 元の名前は稲葉山城。信長の舅である斎藤利政(道三)が1539年に本格的な城づくりを始めます。詳細については、上の写真の看板にある説明書をお読みください。

岐阜城 1956年復元

 1567年、信長は、美濃攻略で、稲葉山城を攻め落とし、本拠地を小牧山城からこの地に移転します。その際、古代中国の周王朝の文王が岐山によって天下平定した故事にちなんで、城と町(井ノ口)の名前を岐阜と改名するのです。

 1日目の滞在先は、滋賀県長浜市内のホテル。夕食のメニューは高級料亭並みで、今まで参加した団体ツアーで出た食事の中でも、最高級の部類でした。ビール中瓶907円は、クーポン券で(笑)。

長浜城 1983年復元

 ホテルの目の前が長浜城がある豊公園になっていて、ツアーのコースになっていなかったので、夜、一人で散歩がてら行ってみました。公園内は、足元もおぼつかないくらい真っ暗闇で、人もほとんどいなく、お化けが出て来るような薄気味悪さを感じましたが、7分ほどで辿り着けました。

 長浜城は1573年、浅井長政攻めで戦功のあった羽柴(豊臣)秀吉が信長からこの地を拝領し、築城したものです。1582年の本能寺の変の後は、柴田勝家一族の領地となり、翌年の賤ケ岳の戦いの後は、秀吉の子飼いの山内一豊が入城します。

 山内一豊は妻の方が有名ですが、(笑)小田原征伐の後、掛川城主となり、関ケ原の戦いでは東軍徳川方に与し、戦功により初代土佐藩主となります。

 幕末には第十五代藩主山内容堂が活躍するのは皆様ご案内の通り。