弥勒如来はやって来ない=「眠れなくなるほど面白い宇宙の話」

 いつも渓流斎ブログをお読み頂きまして誠に有難う御座います。感謝申し上げます。

 ただし、本日は、相当暗い話になると思いますので、心臓の悪い方はこの先、お読みにならない方が良いかもしれません。

 ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」「ホモ・デウス」の影響に加え、2月24日に勃発したウクライナ戦争に感化されて、私もすっかりミザントロープ(人間嫌い)に陥ってしまいました。人間は残虐で、私利私欲の塊で、傍若無人で、自己保存のためには裏切りや策略や謀略や詐欺などやりたい放題。だから、偉人がどうした、政治家が何をした、革命だ、戦争だ、などといった人間の歴史(書記された伝承)や思想を学ぶことさえ馬鹿らしくなってきたのです。

 どうせ、人間の所業だろ? その人間って、サルの一種でとりわけ残虐で獰猛なんだろ? ズル賢さだけが異様に肥大した生物じゃないか、てな感じです。

 人間の歴史や思想なんか学ぶよりも、花崗岩や安山岩など石の種類や植物の名前をもっと覚えた方が健康的でいいのではないか?

 そこで気分を換えて読み始めたのが宇宙の本です。とはいえ、私自身は根っからの文科系人間ですから、難解な本は駄目です。何か手頃な初心者向けで最先端の学術成果が書かれた本がないか探したところ、渡部潤一国立天文台副台長監修の「眠れなくなるほど面白い宇宙の話」(日本文芸社、2018年3月30日初版、2022年4月14日第14刷、748円)という本が見つかりました。

 図解で分かりやすく書かれていますが、おっとろしいことも書かれています。今から25億年後、太陽が赤色巨星化して光量、熱量が増大して地球の気温は100度以上となり、「地球上の生物は全て絶滅してしまうと考えられる」と書かれているのです。勿論、人類も生物です。

 要するに、あと25億年で人類滅亡となるわけです。(ハラリ氏は、現生人類は、あと1000年持つかどうか、と書いてましたが)「永遠」とか「永久」といった言葉はありますが、実際、永遠とは無限ではなく、25億年という有限の時間しか残されていないということです。

シバザクラ

  19世紀のフランスの詩人アルチュール・ランボーが17歳の時に書いた「永遠」という詩があります。(この詩は、後に改編されて「地獄の季節」の「錯乱Ⅱ」に収録)

 Elle est retrouvée!  Quoi ? – L’Éternité.  C’est la mer allée Avec le soleil.

  見つかった! 何が?ー永遠が 太陽といざなった海さ (拙訳)

 永遠というものは、太陽と一緒に行ってしまう、というのはまさに天才ランボーの慧眼です。ただ、その永遠の期間が25億年とまでは、いくら天才でも知らなかったことでしょう。

 25億年なんてまだまだ先の話で、俺たちはとっくに死んでいるので関係ない、という考え方もあるでしょう。でも、138億年前にビッグバンで宇宙が誕生した後、天の川銀河の片隅に太陽系ができて(銀河は全宇宙に1000億個以上あるというので吃驚です。何しろ、冥王星は惑星だと習った古い世代なもので)、地球が生成されたのは、今から46億年前と言われています。つまり、残された時間は、地球が出来て今に至るまでの時間より半分近く短いのです。

東京・新橋「奈良県物産館」柿の葉寿司定食1100円

 私は仏像が好きで、といっては語弊がありますが、仏像を前にすると心が洗われます。特に好きな仏像は、京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像です。この弥勒菩薩(如来)は、釈迦が亡くなって56億7000万年後に兜率天から降りて、衆生を救済してくださると言われる大変有難い仏様です。しかし、25億年後に人類が滅亡してしまえば、弥勒菩薩の出番がない、というか、間に合わないということになりますね。

 「56億7000万年」という数字は、仏陀自身がお考えになったのかどうか分かりませんが、全く出鱈目な数字ではないとしたら、結局、人間は救済されない、ということなのでしょうか。となると、全く身も蓋もない話ですね。

 これは仏教の話なので、キリスト教徒やイスラム教徒なら救われる…といった話でもなさそうです。とにかく、人類滅亡が確実なら、何をしても無駄です。何も残らず、勿論、歴史書も文化財も教会も寺社仏閣も核ミサイルも溶けてなくなるわけですから。このブログも(笑)。

 それでも、人間は生き続けます。泣いたり、笑ったり、怒ったり、嘆いたりしながらも…。救済を求めて妄想ともいえる新しい宗教を生み出したり縋ったりします。

 「それでも、私はリンゴの木を植える」といった物語も生まれます。人間は物語と神話を信じて、共同幻想の中でしか生きていけないからです。

 人類滅亡となれば、権力者も有名人も富裕層も大将も会長も既得権益者も貴族も大地主も、楽をして働かないで給料を貰っている連中も同じようにいなくなります。いくら努力しても、運にもツキにも見放され、この世で奴隷状態の労働に強いられ、安賃金で、雨漏りのする風呂もない木賃宿で生活している庶民にとっては、それは「平等思想」であり、朗報なのかもしれません。

 ま、いずれにせよ、これらは人智を超えた自然科学の世界の話なので、変えようがありません。泣こうが、喚こうが、虚無主義に走ろうが、事態は全く変わらないということです。

 それでも我々は、自裁するわけにもいかず、お迎えが来るまで、毎日、泣いたり、笑ったり、怒ったり、嘆いたりしながら、生きるしかありません。

 はい、ここまで。次回は思い切りポジティブ思考の希望の物語でも書きますか?

肝心なことが抜けるテレビの歴史番組=内藤湖南、北条時頼…

 会社の同僚で歴史好きのAさんが「俺、凄いこと発見した」と鼻をピクピクと震わせました。

 どういうわけか、歴代の将軍(執権)は15代で終わってしまうというのです。そして、中でも初代、3代、5代、8代、15代がいずれも「名君」として呼ばれているという「法則」を発見したというのです。

 例えば、江戸時代は、初代徳川家康、三代家光、五代綱吉、八代吉宗、十五代慶喜です。「生類憐みの令」の綱吉が名君かというと、異論がある人がいるかもしれませんが、確かに1-3-5-8-15は画期的な、特に需要な将軍ばかりです。

 室町時代を見ると、初代足利尊氏、三代義満、五代義量、八代義政、十五代義昭です。金閣寺の義満、銀閣寺の義政と比べ、やはり五代義量となると知名度では劣りますが、まあ、いいでしょう(笑)。

ムスカリ

 では、鎌倉時代はどうでしょう。将軍源頼朝は別格ですが、実質支配権を握ったのは北条氏です。初代執権北条時政、三代泰時、五代時頼、八代時宗、十五代貞顕…あれっ?最後の執権は十五代貞顕ではありませんね。鎌倉が陥落した際に、貞顕の嫡男北条貞将が十六代守時の死を受けて、十七代執権に任じられたとする説があるようです。

 それに、今はNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響で、今では北条義時が最も注目されていますが、彼は二代執権です。

 三代泰時は御成敗式目を制定、八代時宗は元寇を撃退と、知名度は抜群ですが、いつも問題の(笑)五代目は如何でしょうか?北条時頼です。この人、やはり知る人ぞ知る通好みといった名君だったようで、先日、NHK-BSの「英雄たちの選択」で取り上げられていました。

 この「英雄たちの選択」は、かなり勉強にはなる番組なのですが、わざとだと思われますが、たまに肝心なことが抜けていたりします。例えば、先日は、東洋史学者の「内藤湖南」を特集していましたが、師範学校出の湖南を京都帝国大学教授にスカウトした彼の人生にとって最も重要な人物である狩野亨吉(安藤昌益の研究家、夏目漱石の親友で、京都帝大の初代学長)の「か」の字も出て来ないのです。幻滅しましたね。

チューリップ

 今回の北条時頼特集でも、農民たちには撫民政策を施し、私利私欲でしか動かない暴力集団である武士をまともな行政官として育成し、禅宗を篤く保護して建長寺(鎌倉五山第一位)を建立した時頼の功績はよく分かったのですが、やはり私としては肝心だと思われることが抜けていました。

 時頼は、赤痢にかかって執権職を義兄の長時に譲り、最明寺に出家します。しかし、実権は相変わらず時頼が握っていて、「最明寺の入道」と呼ばれていました。最明寺の入道といえば、思い出しました。日蓮が「立正安国論」を提出したのが、鎌倉幕府の最高権力者だった最明寺入道宛てだったからです。(佐藤賢一著「日蓮」)鎌倉仏教の代表の一人である日蓮と北条時頼は同時代人だったのです。

 なあんだ、番組の中で「最明寺入道」の一言説明があれば、日蓮のことも思い出し、北条時頼の理解力が深まったと思います。時頼は、台風で崩壊した高徳寺の木造の大仏を青銅に作り直した際の執権でもありました。鎌倉といえば大仏さまじゃありませんか。番組で鎌倉大仏のことが一言出てくれば、時頼の偉大さが深まったと思いました。

 何が言いたいのかと言いますと、テレビの歴史番組というのは、かなり恣意的だなあ、ということです。歴史番組に限らず、そもそも、テレビとは「枠組み」に沿って作られた恣意的なものだとも言えますが。

誰かウクライナ戦争を止める人はいないのか?

 私が子どもの頃、「サイゴン」だの「ダナン」だの「トンキン湾」だの、そして「ソンミ」といった、見たことも行ったことも聞いたこともない異国の地名を耳から自然と覚えてしまったものでした。

 ラジオやテレビで盛んにヴェトナム戦争を報道していたからでした。特に1968年3月16日、米軍兵により虐殺事件があったソンミ村は脳の奥深くに刻まれました。

 同じように、今の子どもたちは、「マリウポリ」や「ブチャ」「ボロジャンカ」というウクライナの地名が脳裏に刻まれることでしょう。

 そこでは民間人への非人道的な鬼畜が犯す大量殺戮と虐殺がロシア軍によって意図的に行われました。プーチン大統領は「下品でシニカルな挑発行為だ」などと頬かむりしていますが、生存者の証言や米国の衛星放送の写真などから、明らかに残虐行為が行われたことは事実です。

築地「肉と酒 はじめ」ハンバーグ定食980円

 テレビでは、無残にも殺害されたウクライナの一般市民の遺体が、分からないように「加工」されて放送されていますが、1960年代、70年代のヴェトナム戦争では、かなり衝撃的な残酷な写真や映像が子どもでも見られたものでした。当時はプレスコードが甘かったからかもしれません。

 南ヴェトナム政府軍の男が、若い男性を「スパイ」と決めつけて、群衆の前でピストルで「処刑」したり、地雷を踏んだと思われる「ベトコン」のバラバラになった遺体を米軍兵が持ち上げて見せたり、殺害したベトコン兵士を脚に紐を付けて戦車で引きずっていたり、とても正視に耐えないものばかりでしたが、それによって戦争のおぞましさと悲惨さが伝わってきました。

築地「和み」ランチ寿司1300円

 勿論、ウクライナの残虐写真を公開するべきだなどと言うつもりは全くありません。今はネット社会ですから、その気になれば見ることができます。下半身だけが裸にされた不自然な女性の遺体もありました。ロシア兵による、そのあまりにも残虐な行為が想像できます。殺害された彼女たちは、さぞかし、辛く、酷く屈辱的な地獄の苦しみを強いられたことでしょう。

 何よりも、悲しみより憎悪が沸き起こってきます。しかし、憎悪の連鎖は避けなければなりませんが。

 平和な国々では、高価な寿司やステーキをたらふく食べ、ビールを飲みながら、プロ野球やサッカー、ゴルフなどを観戦して楽しんでいるというのに、ウクライナの惨状と悲劇はあまりにも不公正で不条理です。

 たった一匹の誇大妄想の霊長類のせいなのに、国際社会は何故止められないのでしょうか?

 戦争犯罪が認められれば、独裁者は裁判で絞首刑か毒殺刑が待っています。となると、自分だけは安全地帯に隠れて、自己保存意識だけは肥大した独裁者は「勝つ」まで戦争を続けることでしょう。「長期戦になるのではないか」という実に嫌な観測さえ流れています。

 もう、これ以上の犠牲者はこりごりです。

超人類プーチンとスマホ奴隷の私

きのうの続き)

  データ至上主義が進化し、電車の車掌も、医者も弁護士も新聞記者もいらなくなり、アルゴリズムやAIが取って代わっていくという事態は、SFの世界ではなく現実味を帯びてきたという話でした。

 例えば、精神科医。患者は生身の人間の医者に診断してもらうのではなく、人間味のない機械、つまり、アルゴリズムとAIを塔載したコンピューターに診断してもらった方を好む傾向が出てきたというのです。

 それはある程度理解できます。人間は時に間違います。それよりも、何十億人の患者のデータが保存され、それらの対処法や、いかなる薬物を投与したら良いかといった事例が網羅されていたら、人間より遥かに優秀です。しかも、患者としては、こっ恥ずかしい話を生身の人間に話さなくても済みます。(ただし、重症の場合は、人間のお医者さんを個人的にはお勧めします)

 昔だったら、告解を引き受けていた教会の神父や牧師が、精神科医の役目を果たしていました。その代わり、免罪符を発行してもらうための大金を納めなくてはなりませんでした(ルターは免罪符を糾弾しましたが)。

 ユヴァル・ノア・ハラリ著「ホモ・デウス」(河出書房新社)では、シンギュラリティSingularity(人工知能AIが人類の知能を超える転換点)がいつ頃になるか、までは書いていませんでしたが、人類の仕事がAIに奪われ、一部の特権階級のみが生き残り、大半は「不要階級」(私の造語)として淘汰されるという夢物語の実現性はゼロではない、と思われます。

  また、神や仏や霊魂を信じている日本人は、寺社(寺院と神社)にお布施や初穂料等を納めますが、もし、宗教が、人類が思いついた妄想で、下等庶民を支配するツールかイデオロギーに過ぎないとしたら、寺社の存在意義すらなくなっていきます。

 生化学者に言わせれば、種としての人類の存在意義も生きる意味も目的もないということですから、これからの大半の人類は、何のために生きるべきなのでしょうか? 

銀座「とんかつ 不二」ミックス定食(13時以降、限定15食)

 ところで、2022年2月24日のロシア軍によるウクライナ侵攻で、すっかり私の人生観、世界観が変わってしまったことはこのブログで何度も書いております。

 ウクライナ戦争というより、ウクライナ大虐殺が日々繰り返されている現状を見ると、とても、映画館や博物館に行く気になれません。人間の空想や妄想がつくったフィクションも駄目です。現実が虚構を超えてしまっているからです。

 ロシアのプーチン大統領が起こした蛮行は、19世紀的、20世紀的でアナクロニズムの極致かと思っていましたが、人間、いつになっても戦争をして殺戮と強姦と略奪を好む動物(けだもの)に過ぎず、もしかして、プーチンはその最先端の人類なのかもしれません。

 彼は、夜はゆっくり眠っていることでしょう。恐らく、良心の呵責も後悔も自責の念も全くないことでしょう。むしろ、正義の使者として自分の行為に正当性があり、アレキサンドロス大王やナポレオンと並ぶ英雄だと思っていることでしょう。80%のロシア国民の支持を得ていますから。

 それこそ、ハラリ氏が思い描くような「超人」の考え方があります。知性や記憶等の分野はアルゴリズムやAIに負けても、人間には、「最後の砦」として情念や意識や感情が残っています。しかし、変わった超人類ともなると、そんな情念や同情やら、惻隠の情やら、憐憫の情やら…難しい言葉を使いましたが、要するに他人に対して、気の毒だとか、可哀想だ、などと思う気持ちが欠けているというか、超越してしまっているのでしょう。

 プーチンは、強姦されたり、後ろ手に縛られて拷問されたりして虐殺されたウクライナ首都キーウ近郊のブチャの市民を気の毒だとか可哀想だとか思わないのでしょう。もし、そう思うのだとしたら、即座に戦争をやめるはずです。むしろ、虐殺したロシア軍兵士の勇気を讃えて勲章を授与し、夜は満足そうに寝入ることでしょう。プーチンとは、憐憫の情などの思考回路がなくなった21世紀最先端の人類だとみなせば、この訳の分からない戦争の本質を理解できます。(「虐殺はなかった。フェイクニュースだ」と嘘を付き続けるラブロフ外相やロシアのネベンジャ国連大使らも同罪で同様の思考回路なのでしょう。)

 独裁者としては、人間的感情などというものは無駄で邪魔なのでしょう。そう言えば、プーチンはスマホは持たない、という未確認情報があります。彼は、KGBで鍛えられて人間を信用せず、データも信じない、まさに最先端の超人ということになりますね。

 毎分毎秒、ニュースやメールをチェックしたり、アプリを更新したりして、「スマホ奴隷」(私の造語)になりさがった旧人類の私とはえらい違いです。

SFが現実を追い越した?=ハラリ著「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」

 遅ればせながら、ユヴァル・ノア・ハラリ著で、2016年初版の「サピエンス全史」上下巻と2018年初版の「ホモ・デウス」上下巻(ともに柴田裕之訳、河出書房新社)全4巻をやっと読破できました。1カ月ぐらい掛かったでしょうか。目下、10冊ぐらい並行して本を読んでいましたので、ハラリ本4冊を集中して読みましたが、それでも、これだけ時間が掛かりました。

 まずは圧倒されました。現生人類の必読書であることは確かです。私も、これまでの半世紀以上の読書遍歴の中で、5000冊以上の本は読んだと思いますが、その中のベスト10以内に入る書物でした。

 歴史書であるでしょうが、科学書としても、遺伝子工学書としても、経済学書としても、宗教書としても、哲学書としても、心理学書としても読めます。昔流行った言葉で言えば、多くの専門分野にまたがったinterdisciplinary(学際的)な本です。

 思考視野が広いので、他の書物が些末過ぎて、幼く見えてしまうほどです。

 「サピエンス全史」上下巻だけでなく、「ホモ・デウス」上下巻も併せて通読しなければ意味がない、といいますか、勿体ない、と言っておきます。この4冊で1100ページを超えますから、まず、私自身が一言で要約することは不可能です。「是非、読んでください」と薦めておきながら、中には「つまらなかった」と言う人もいるかもしれませんし、「人間は猿から進化したわけではない。神がつくりたもうたものだ」と怒り出す人もいるかもしれません。

 米国のピュー研究所が2019年10月から20年3月にかけて世界20カ国の18歳以上の成人を対象に実施した調査によると、進化論を支持する割合は、日本が88%、ドイツが81%、英国が73%なのに対して、約30%の宗教的原理主義者が占める米国では64%に留まっています(しかも、過半数を超えたのは最近のこと)。そのうち、リベラルな民主党支持者は、進化論支持派が83%だった一方、保守的な共和党支持者は34%だったといいます。つまり、共和党支持者の大半は、いまだにダーウィンの進化論を信じていないということになります。

MImoza

 今から約600万年前にチンパンジーから分かれ、サルの一種である取るに足りない、か弱い霊長類だったホモ・サピエンス(何と、「賢いヒト」という意味)が、今から7万年前に、長い進化の末の突然変異で認知革命を起こして、東アフリカのサバンナ地帯から舟をつくったりして、世界中に飛び散ります。日本列島にホモ・サピエンスである現生人類が到達したのは今から3万5000年前に過ぎません。恐竜時代は、今から約2億3000万年前~6600万年前に繁栄しました。日本列島が地殻変動でユーラシア大陸から離れて独立したのは2000万年前のことですから、つい最近のことです(笑)。

 今から約1万1000年前に中東で農業革命が起き、約5000年前には書字と貨幣が生まれ、エジプトや中国などで巨大な権力が集中した王国や皇帝国が出来ます。そして、1492年ごろから科学革命が起き、18世紀からの産業革命を経て、神中心の世界から、人間至上主義に移行していきますが、その近代社会は現在まで続いているというのが「サピエンス全史」までの話。「ホモ・デウス(神の意味)」では、不死と至福と神のような力の獲得を目指して、ホモ・サピエンスである現生人類は明らかに「超人」を目指していきます。その一方、その流れに出遅れた者たちは「無用者階級」として取り残され、搾取されるか、滅亡していくのではないか、といった趣旨の話が展開されていきます。

王子・飛鳥山

 超人誕生というのは、そうなることが確実ではなく、また、予言でもなく、歴史から学んだ「可能性」の一つだとハラリ氏は言うので、私としては余計に信用したくなります。何故、そういうことが起き得るのか? 著者は「ホモ・デウス」の中で事細かく説明しています。

 例えば、第一次世界大戦で手足を失ったり負傷した元兵士のために始まった整形外科が、今では健康で五体満足なのに、見た目を良くするための施術として進歩している。ベートーヴェンの交響曲、リストの超技巧ピアノ演奏…人類のほんの一部の大天才しかなし得なかった作曲や演奏が、今やいとも安易に出来て、人を感動させ、涙を流させるような名曲をコンピューターが作曲してしまう。(涙を流した聴衆は、それがコンピューターが作ったものだと種明かしされると、猛烈に怒り出す!)

 今や、チェスの世界チャンピオンも、将棋も囲碁もコンピューターの「知性」に敵わない。それどころか、AI(人工知能)は、運転手なしでバスやタクシーを自動運転したり、好みの服や書籍まで、過去のアルゴリズム(問題を解く処理手順)と照り合わせて、ネット通販のアマゾンなどは私たちに「こんなのいかがですか?」と選んだりしてくれる。

 生物学者たちは、人間とはアルゴリズムに過ぎないとまで言い出して来たのです。(そうそう、クローンや遺伝子組み換え食品は、今後どこまで突き進んでいってしまうのでしょうか?)

 著者は、現代は、人間至上主義からデータ至上主義に移行した時代ではないかといいます。「データ主義者たちは言う。もはや人間は厖大なデータの流れに対処できず、そのためデータを洗練して情報にすることができない。ましてや知識や知恵にすることなど望むべくもない。従って、データ処理という作業は電子工学的なアルゴリズムに任せるべきだ。このアルゴリズムの処理能力は、人間の脳の処理能力より遥かに優れているのだから。」(下巻210ページ)

 つまり、現代という世界は、グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップルといった、データ処理が得意な巨大IT企業GAFAなどが仕切って、支配しているというわけです。そう言われてみれば、我々は、タダで自分たちの個人情報と位置情報をGAFAにせっせと提供して、その代わりに、政党選びや、意思決定権や、趣味趣向の選択権まで彼らに委ねられ(ということは奪われ)、AIやアルゴリズムの奴隷と化してしまっているわけです。

 その事実を本人たちが全く気が付いていないというところが、背筋が凍るほど恐ろしい現実です。

築地「新喜楽」、かつての大隈重信邸

 「最後の砦」として人間に残されたものは、コンピューターやAIなどが持ち得ようがない意識や情動や感情になりますが、それらも、疑ってみれば、アルゴリズムに支配されかねません。

 そう言えば、私の会社の社内では、若い人を見ても、中年、壮年を見ても、ロクに挨拶も出来ず、他人との接触を極力避け、無感動で無表情な人間が確かにかなり増えてきたことを感じます。以前、「草食系男子」だの「恋愛で傷つきたくない」などといった若者の現象が流行語になったりしましたが、それらの次元を遥かに超えています。最初から話をしようとせず、関わろうとしないのです。それでいて、仕事をしていますから、彼らは人間ではなく、まるで情動のないコンピューターのように見えます。(実際、定型パターンが決まっている新聞の株式記事や運動記事などはAIが書き始めました。)

 富裕層たちは超人を目指して、今や最大の関心事の一つが不老不死のアンチエイジングです。それらに効果的といわれる、10日分で約3万円もする大変高価なNMN(ニコチンアミド・モノ・ヌクレオチド)の錠剤が、日本でも飛ぶように売れているといいます。

 こうなっては、今から6年前の2016年に「ホモ・デウス」の中で唱えたハラリ氏のデータ至上主義説は、もはや夢物語でもSFでもなく、現実に進行していると思わざるを得なくなります。

 

失望しても絶望はしない!=86年ぶりに新関脇優勝した若隆景と毛利元就3兄弟

 3月末は毎年忙しいです。

 3月末といえば年度末です。そう、大量の人事異動の季節でもあります。となると、私は、これでも、まだ仕事をしているので、霞ヶ関の人事異動情報が殺到して、とても忙しくなり、ブログなんか書いている暇がありません(笑)。

 おまけにお花見の季節です。ウイル・スミスに平手打ちされても、桜見だけは欠かせません。

 とはいえ、このブログは私の「安否確認」サイトにもなっているので、暫く間が空くと皆様に御心配をお掛けすることになりますので、本日はお茶を濁すことに致します。

 何と言っても、2月24日のロシア軍によるウクライナ侵攻で、すっかり人生観、世界観が変わってしまいました。皆さんも同じでしょう。プーチンの戦争は、19世紀的、帝国主義的、領土拡大主義です。人間なんて、誇大妄想だらけで、これっぽちも進歩していません。

 並行してユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」の両書を読んでいましたから、余計にその思いを強くしました。自由も平等も人権も平和も神も宗教も、現生人類が考えた妄想か虚構、もしくは共同主観的ということになります。(ハラリ氏は「ホモ・デウス」の中で、「聖書」でさえ、「多くの虚構と神話と誤りに満ちた書物」=上巻215ページ=とまで言って糾弾しています。)

MInuma-tanbo 2022

 ところで、日曜日、大相撲の千秋楽で三つ巴になった優勝争いは、新関脇の若隆景が、大激戦を制して初優勝を遂げました。新関脇の優勝は、1場所11日制だった1936年5月場所のあの双葉山以来86年ぶりだということで、歴史的瞬間に立ち合ったような気分になりました。大袈裟ですけど、1936年といえば、「2.26事件」があった年ですからね。

 福島県出身の若隆景(27)は、祖父が元小結・若葉山。双葉山に弟子入り入門を許されて角界入りした力士でしたから何か縁を感じます。父が元幕下の若信夫。その息子たち、兄弟3人が、そろって角界入りを果たしました。長兄は幕下の若隆元(30)、次兄は前頭9枚目の若元春(28)、若隆景は三男になります。三世代かけて、そのDNAが受け継がれて、やっと幕内優勝を遂げたということになります。

 この3兄弟の四股名は、毛利元就の3兄弟から取ったといいます。つまり、あの「三本の矢」で有名な毛利隆元、吉川元春、小早川隆景です。戦国時代ファンとしてはたまらない、と言いますか、覚えやすいですね(笑)。

 ただ、小早川隆景の養子になった小早川秀秋(豊臣秀吉の正室ねねの甥)は、1600年の関ヶ原の戦いで、東軍の徳川家康方に寝返って、「裏切者」の汚名を歴史に残してしまいました。でも、大相撲とは全く関係ない話ですから、せめて若隆景はこれから大関、横綱と昇進して大活躍してもらいたいものです。

MInuma-tanbo 2022

 以上のことは相撲ファンにとっては常識の話でしたが、敢えて書くことにしました。知らない人は知らないでしょうから(笑)。

MInuma-tanbo2022

◇ブログを書くという恥ずべき行為

 実は、私は、ここ数日、ブログを書いて、世間の皆様に公にするような行為が浅ましいと、思うようになっておりました。

 しかし、侵略主義というパンドラの箱を開けてしまったプーチンの蛮行のおかげで、北の若大将がミサイルを狂ったように撃ち始め、大陸の皇帝は、数年以内に南の小さな島を侵略しようと目論んでいるようです。いずれも、「ロシアがやったんだから、我々がやってもいいじゃないか」といった論理で。

 そんな「プーチン後の世界」となり、刹那的でも人生を謳歌するしかない、と思い直しするようになりました。いつ何時、何が起きるか、これから先、分かったためしがありません。相撲でも観戦して、沢山の本を読んで、ブログでも書いて、ピアノでも弾いて、大いに人生を楽しむしかないじゃありませんか。

 人間に対して失望しても、絶望してはいけないというのが私のスタンスです。たとえ、人間は妄想の中で生きている動物だとしても、生きている限り、希望はあるはずですから。

恵雅堂出版の中古本に100万円超の値が=「悲しみの収穫 ウクライナ大飢饉」

 3月17日付の渓流斎ブログ「チャイコフスキーはもともとチャイカさんだったとは」を書いたところ、この記事にも登場する恵雅堂出版のM氏から早速、ではなくて、1週間近く経った忘れた頃にメールを頂きました(笑)。

 同出版社が運営する東京・高田馬場のロシア料理店「チャイカ」は、ロシアによるウクライナ侵攻にも関わらず、嫌がらせを受けることなく、頑張って順調に営業成績を伸ばしている、とのことでした。これで一安心しました。

ハルビン学院 Copyright par Keigado-syuppan

 3月17日と同じことを書きますが、このお店は、恵雅堂出版を創業した麻田平蔵氏が、満洲(現中国東北部)ハルビンにあったロシア語専門の大学校「哈爾濱学院」出身ということで、学生時代に現地で食べたロシア料理が忘れられず、日本でもその味を再現しようと、1972年に開店したと聞いています。

この恵雅堂出版というのは、知る人ぞ知る出版社で、私も御縁のある出版社でした。ーということは何度もこのブログに書いたことがあるのですが、恐らく、私自身の手違いでそれらの記事は消滅してしまったと思われますので、くどいようですが、同じようなことをもう一度書きます。

 私と恵雅堂出版との御縁は、同社から上梓された陶山幾朗編著「内村剛介ロングインタビュー ―生き急ぎ、感じせくー 私の二十世紀 」(2008年7月1日初版)の感想文をこの渓流斎ブログに書いたことがきっかけでした。

 と思ったら、実はそれを遡る遥か昔から御縁があったのです。同社は1950年に恵雅堂として創業されました(確か、社名は創業者の麻田平蔵氏の奥さんとお嬢さんのお名前から取った)。今でこそ、多くのロシア関係の書籍を出版しておりますが、最初は写真家淵上白陽(1889~1960年)の写真集の出版と東京都内の学校の卒業アルバムを手掛けることから始められたようです(現在も)。というので、その話を聞いて、自宅の奥に眠っていた、もう40年近い昔の私の東京郊外の小学校と中学校の卒業アルバムを見てみたら、何と恵雅堂出版の製作だったのです(クレジットあり)。しかも、中学卒業アルバムの巻末には当時に起きた「世界の出来事」が付いており、そのニュース写真は時事通信社のものを使っていたのです。

 他にもこの出版社と私は色々なつながりがありましたが、長くなるので割愛します(笑)。でも、その度に、私は「不思議な御縁で繋がっているものだなあ」と思ったものです。

 昔話を割愛したのは、今回書きたかったことがあったからです。この恵雅堂出版から出版された「悲しみの収穫」という本が、何と、今や、ネット通販の中古市場で85万円以上の値が付いているというのです。検索してみたら、151万5151円の高額の値を付けた出品者もいました(3月23日現在)。

 この本は、副題に「ウクライナ大飢饉」とあるように、1932~33年、人工的にウクライナで発生させた飢饉によって400万人以上が死亡したといわれる「ホロドモール」のことが書かれているようです。

 この本の編集にも携わった恵雅堂出版のM氏によると、この本は2007年4月に、本体価格5000円で発行されたといいます。しかし、2013年には品切れとなり、重版も未定ということから、「希少価値」となり、今の「ウクライナ戦争」のご時世になって価格が急騰したとみられます。

 日本人の知的好奇心の旺盛さには称賛されるべきものがありますが、ちょっと価格が異常ですね。それに、版元の恵雅堂出版は既に手元から離れたわけですから、いくら中古市場で値が上がろうと、同社には一銭も入りませんからね。

 売上の一部がウクライナ支援の義援金に回ることを願うばかりです。

我々は飢餓と疫病と戦争を首尾よく抑え込めなかった=ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」

 ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」上下巻(河出書房新社)をやっと読了しましたが、すぐさま、同じ著者の「ホモ・デウス」上巻(河出書房新社)を読み始めています。この本は未読でしたので、あまりにも「サピエンス全史」が面白かったので、途中で、本屋さんに駆け足で買いに行ったのでした。

 何しろ、ハラリ氏は若くして、歴史書から哲学書、経済学書、宗教書、最新科学書に至るまで浩瀚の古今東西の書籍を読破し、それら全てが頭にインプットされていますから、歴史的法則まで導き出し、予知能力まであるのではないかと思わされたのです。となると、彼の著作は全て読まなければいけないじゃないですか…。

 しかし、慌ててこの「ホモ・デウス」を読み始めると、「あれっ?」と思ってしまいました。この本の初版は2018年9月30日です。(そして、私が先日買った本は2018年10月10日発行での第10刷でした。)となると、著者が執筆した時点で、まだ全世界で新型コロナ(COVID‑19)のパンデミックが始まっていませんし、ロシア・プーチン大統領によるウクライナ戦争(2022年2月24日)も開始されていません。

 それらを割り引いて考えなければならないのですが、(そして、何よりも「事後法」で裁いた東京裁判の判事のような真似はしたくないのですが)、この本の数ページ読むと、こんな文章が出てきます。

 この数十年というもの、私たちは飢餓と疫病と戦争を首尾よく抑え込んできた。もちろん、この三つの問題がすっかり解決されたわけではないものの、理解も制御も不可能な自然な脅威ではなくなり、対処可能な課題に変わった。私たちはもう、これら三つから救ってくるように神や聖人に祈る必要はなくなった。飢饉や疫病や戦争を防ぐにはどうするべきかを、私たちは十分承知しており、たいていうまく防ぐことができる。(10ページ)

 あららら、これでは駄目ですね。著者に予知能力はなかった、と言わざるを得なくなります。まさに、今、ウクライナ南東部のマリウポリでは既に3000人以上が亡くなり、30万人以上といわれる避難市民が、食物も水もない薄暗い地下で飢餓に苦しみ、しかも、いまだにオミクロンのコロナは猛威を振るっています。早く戦争が終わるように、神に祈るしかありません。

 つまり、飢餓と疫病と戦争がハラリ氏が主張するほど、「理解も制御も不可能な自然な脅威ではない」ということを、もはや言えなくなってしまったのです。プーチン大統領の個人的な誇大妄想によるものだ、と説明してくれない限り、まずこの戦争は理解不可能です。21世紀になっても人類は相も変わらず同じ過ちを繰り返すとしか言うしかありません。

 とはいえ、私は、この本を閉じて読むのをやめたわけではありません。本文中で列挙されている「歴史的事実」が現代を生きる我々の教訓になるからです。著者のハラリ氏はこんな数字を列挙します。

・フランスでは、1692年から94年にかけて、全人口の15%に当たる約280万人が餓死した。それを尻目に、太陽王ルイ14世はベルサイユ宮殿で愛妾たちと戯れていた。

・1918年のスペイン風邪の世界的大流行で5000万人から1億人が亡くなったが、14~18年の第一次世界大戦での死者、負傷者、行方不明者の合計は4000万人だった。

・1967年にはまだ天然痘に1500万人が感染し、200万人が亡くなっていたが、2014年には、天然痘に感染した人も亡くなった人も皆無になった。

・2010年に肥満とその関連病で約300万人が亡くなったのに対して、テロリストによって殺害された人は世界で7697人で、そのほとんどが開発途上国の人だった。欧米人にとってアルカイダより、コカ・コーラの方がはるかに深刻な脅威なのだ。

・2012年、世界で約5600万人が亡くなり、そのうち人間の暴力が原因の死者は62万人だった(戦争による死者が12万人、犯罪の犠牲者が50万人)。一方、自殺者は80万人、糖尿病で亡くなった人は150万を数えた。今や砂糖の方が火薬より危険というわけだ。

 この最後の「今や」とは、著者のハラリ氏がこの本を執筆していた2017年か18年現在ということです。ウクライナ戦争を目撃している2022年3月の我々現代人は、いくら数字や統計を見せつけられても、「砂糖の方が火薬より危険だ」と言われてもピンとこないでしょう。

 「ホモ・デウス」の話はこれぐらいにして、最後に「サピエンス全史」を読了した感想文を追加しておきます。この本では、「いやに日本のことが出てくるなあ」と思ったら、「訳者あとがき」を読むと、訳者の柴田裕之氏がわざわざ、著者のハラリ氏に問い合わせて、日本関連のことを付け足してもらっていたんですね。

 だから、今から7万年前にアフリカ大陸を旅立った現生人類(ホモ・サピエンス)が日本列島に到達したのは、今から(わずか!)3万5000年前だったとか、インドや中国などアジアの大半は欧米の植民地になったというのに、日本がそうならなかったのは、日本が欧米列強のテクノロジーを積極的に取り入れて、産業革命を成し遂げたことを特記したりしていたんですね。

 この本は非常に面白い本でしたが、最後は結局、哲学的な幸福論になっている感じでした。

 ハラリ氏は「純粋に科学的視点から言えば、人生にはまったく何の意味がない。…現代人が人生に見出す人間至上主義的意義や国民主義的意義、資本主義的意義も、それに人権も自由も平等思想もまた妄想だ」と身も蓋もない絶望的な事実を突きつけておきながら、「苦しみの真の根源は、束の間の感情を果てしなく、空しく求め続けることだ。…真の幸福とは私たちの内なる感情とは無関係なので、内なる感情の追求をやめることだ」とブッダの教えまで引用して、読者を解脱の方向に導いてくれているかのようにも読めます。

 再読したくなる本でした。

 

「日ソ情報戦とゾルゲ研究の新展開」=第41回諜報研究会を傍聴して

 3月19日(土)、第41回諜報研究会(NPOインテリジェンス研究所主催、早稲田大学20世紀メディア研究所共催)にオンラインで参加しました。テーマが「日ソ情報戦とゾルゲ研究の新展開―現在のロシア・ウクライナ侵略の背景分析の手がかりとして」ということで、大いに期待したのですが、こちらの機器のせいなのか、時折、画面が何度もフリーズして音声が聞き取れなかったり、チャットで質問しても届かなかったのか、無視、いや、見落としされたりして、途中で投げやりになって内容に集中できなくなり、ブログに書くのもやめようかなあ、と思ったぐらいでした(苦笑)。

 ZOOM会議はこれまで何度か参加したことがありますが、フリーズしたのは初めてです。まあ、気を取り直して感想文を書いてみたいと思います。

 お二人のロシア専門家が登壇されました。最初は、名越健郎拓殖大学教授で、タイトルは、「1941年のリヒャルト・ゾルゲ」でした。名越氏は、小生の大学と会社の先輩で、大学教授に華麗なる転身をされた方ですので、大変よく存じ上げております。…ので、御立派になられた。「でかしゃった、でかしゃった」(「伽羅先代萩」)といった気分です…。現在進行中のウクライナ戦争のおかげで、今やテレビや週刊誌に引っ張りだこです。モスクワ特派員としてならした方なので、他のコメンテーターと比べてかなり説得力ある分析をされています。

 ゾルゲ事件に関しては、私自身も、15年以上どっぷりつかって、50冊近くは関連書を読破したと思います(でも、恐らく500冊ぐらいは出ているのでほんのわずかです)。この渓流斎ブログにもゾルゲに関してはかなり書きなぐりました。が、残念なことに、それらのブログ記事は私自身の手違いでほぼ消滅してしまいました。ちょうど、元朝日新聞モスクワ支局長の白井久也氏と社会運動資料センター代表の渡部富哉氏が創設し、私もその幹事会に参加していたゾルゲ研究会の「日露歴史研究センター」も解散してしまい、最近では関心も薄れてきました。(決定的な理由は、ゾルゲ事件に関して、当初と考え方が変わったためです。)

 それが、名越教授によると、日本での関心低下に反比例するようにロシアではゾルゲの人気が高まっているというのです。本日のブログ記事の表紙写真にある通り、モスクワ北西にゾルゲ(という名称が付いた)駅(左上)ができたり、ウラジオストックにもゾルゲ像(右下)が建立されたりしたというのです。

 また、今や、バイデン米大統領から「人殺しの悪党」呼ばわりされているロシアのプーチン大統領は、2年前のタス通信とのインタビューで「高校生の時、ゾルゲみたいなスパイになりたかった」と告白しており、ロシア国内では愛国主義教育の一環としてゾルゲが大祖国戦争を救った英雄として教えられているようです。

 ロシア国内では、GRU(ロシア連邦軍参謀本部情報総局)公文書館や国防省中央公文書館などが情報公開したおかげで、ここ数年、ゾルゲ関係で新発見があり、多くの書籍が出版されています。その中の1冊、アンドレイ・フェシュン(NHKモスクワ支局の元助手で、名越氏も面識がある方だといいます!)編著「ゾルゲ事件資料集 1930~45」(電報、手紙、モスクワの指示など650本の文書公開)の中の1941年分を名越教授は目下翻訳中で、年内にもみすず書房から出版される予定だといいます(私の聞き間違えかもしれませんが)。ゾルゲは独紙特派員を装いながら、実は、赤軍のGRUから派遣されたスパイで、東京に8年滞在しましたが、ゾルゲの2大スクープといわれる「独ソ開戦予告」と「日本の南進に関する電報」は1941年のことで、名越教授が「それ以前は助走期間のようだった」と仰ったことには納得します。

 フェシュン氏の本の中で面白かったことは、「ゾルゲの会計報告」です。1940年11月の支出が4180円で、尾崎秀実に200円、宮城與徳に420円、川合貞吉に90円支払っていたといいます。当時の大学卒業初任給が70円といいますから、200円なら今の60万円ぐらいのようです。情報提供料で月額60万円は凄い(笑)。これで、尾崎は上野の「カフェ菊屋」(現「黒船亭」)など高級料理店に行けてたんですね(笑)。もっとも、モスクワ当局は、41年1月に「情報の質が低いので2000円に削減する」と通告してきたので、ゾルゲは「月3200円が必要」と反発したそうです。

 もう一つ、GRUはゾルゲ機関以外に5人の非合法工作員を東京に送り込んでおり、そのうちの一人、イリアダは在日独大使館で働く女性で、ウクライナ西部のリヴォフ(現在、戦争難民で溢れている)でスパイにスカウトされ、日本の上流階級にも溶け込んでいたといいます。

 在日独大使館のオットー大使と昵懇だったゾルゲとイリアダとは面識があったでしょうが、当然ながら、スパイ同士横の繋がりは御法度で、お互いに諜報員だとは知らなかったと思われます。GRUとは「犬猿の仲」だったロシアの保安機関NKVD(内務人民委員部)も非合法の工作員を送り込んでおり、その一人でコードネーム「エコノミスト」で知られる人物は、天羽英二外務次官ではないかという説がありますが、天羽は1930年、モスクワ赴任中、ハニートラップに掛かり、スパイを強要されたいう理由には、思わず、「あまりにも人間的な!」と思ってしまいました。

 続いて、登壇されたのは、富田武成蹊大学名誉教授で、テーマは「日ソ戦争におけるソ連の情報(諜報・防諜)活動」でした。

 大変勉強になるお話でしたが、読めないロシア語が沢山出て来た上、最初に書いた通り、ちょっといじけてしまったのと、加齢による疲れで、内容が頭に入って来なくなってしまい、申し訳ないことをしたものです。(オンラインは嫌いです)

 とにかく、ソ連・ロシアの組織はすぐ名称を変えてしまうので、あまりにも複雑で難し過ぎます。諜報機関なら、KGBならあまりにも有名で、それに統一してくれれば分かりやすいのですが、ソ連が崩壊してロシアになった今は、FSB(ロシア連邦保安庁 )というようです。と思ったら、FSBは防諜の方で、対外諜報はSVR(ロシア対外情報庁)なんですね。

 いずれにせよ、ゾルゲが活動したソ連時代、ゾルゲは赤軍情報機関のGRUに所属していました。赤軍情報機関の防諜本部の方はスメルシ(スパイに死を)と呼ばれ、満洲(現中国東北部)に工作員を送り込んで、早いうちから「戦犯リスト」を作成していたようです。(だから、8月9日にソ連が満洲に侵攻した際、スムーズに日本兵を捕獲してシベリアに送り込むことができたのです)。日本は当時、「対ソ静謐」政策(日ソ中立条約を結んだ同盟国として、諜報活動も何もしない弱腰外交。ヤルタ会談等の存在も知らず、大戦末期は近衛元首相を派遣して和平工作までソ連にお願いしようとしたオメデタさぶり!)を取っていましたから、その狡猾さは雲泥の差で、既に情報戦では、日本はソ連に大敗北していたわけです。

 富田氏によると、ソ連の諜報・防諜機関はほかに、警察組織も兼ねる内務省系の内務人民委員会(NKVD)と1943年までコミンテルンの国際連絡部OMC、それに現在でも「公然の秘密」として存在する大公使館の駐在武官がいるといいます。

 KGBから党書記長、大統領に昇り詰めたアンドロポフ、プーチンの存在があるように、ソ連・ロシアは諜報機関の幹部が国家の最高責任者になるわけで、いかにソ連・ロシアは「情報戦」を重視しているかがよく分かりました。

【追記】

 ありゃまー、吃驚仰天。

 これを書いた後、主催のインテリジェンス研究所のS事務局長からメールがあり、小生がチャットで質問していたこと、それを司会者の方が見落としていたことを覚えてくださっていて、わざわざ、名越教授に直接問い合わせて頂きました。

 小生の質問は「ゾルゲが二重スパイだったという信憑性はどれくらいありますか」といったものでした。

 これに対して、名越教授から個人宛にお答え頂きました。どうも有難う御座いました。

 それにしても、何かあるとすぐに捻くれてしまう(笑)私の性格を見抜いたS事務局長、先見の明があり、恐るべし!

 

非生産的活動の象徴ピラミッドこそ後世に利益を齎したのでは?=スミス「国富論」とハラリ「サピエンス全史」

 読みかけのアダム・スミスの「国富論」を中断して、ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」(河出書房新社)を読んでおりますが、下巻の134ページ辺りから、このアダム・スミスの「国富論」が出てきて、「おー」と思ってしまいました(笑)。

 何と言っても、解説が分かりやすい! 「国富論」は超難解で、どちらかと言えば、つまらない本だと思っていたのですが(失礼!)、それは我々現代人が、当たり前(アプリオリ)だと思っていることが、実は、スミスの時代では非常に画期的で革命的思想だということをハラリ氏が解説してくれて、目から鱗が落ちたのです。

 スミスが「国富論」の中で主張した最も画期的なものは、「自分の利益を増やしたいという人間の利己的衝動が(国家)全体の豊かさの基本になる」といったものです。これは、資本主義社会の思想にまみれた現代人にとっては至極当たり前の話です。しかし、スミスの時代の近世以前の古代の王も中世の貴族もそんな考え方をしたことがなかった、と言うのです。

 まず、中世まで「経済成長」という思想が信じられなかった。古代の王も中世の貴族も、明日も、将来も行方知らずで、全体のパイは限られているので、他国に攻め入って分捕ることしか考えられない。そして、戦利品や余剰収穫物で得た利益をどうするかというと、ピラミッドを建築したり、豪勢な晩餐会を開いたり、大聖堂や大邸宅を建てたり、馬上試合を行ったりして、「非生産的活動」ばかりに従事していた。つまり、領地の生産性を高めたり、小麦の収穫を高める品種を改良したり、新しい市場を開拓したりして、利益を再投資しようとする人はほとんどいなかったというのです。

 それが、大航海時代や植民地獲得時代を経たスミスの近世の時代になると、利益を再投資して、全体のパイを広げて裕福になろうという思想が生まれる。(そう、アダム・スミスによって!)しかも、借金をして将来に返還する「信用」(クレジット)という思想も広く伝播したおかげで、起業や事業拡大ができるようになり、中世では考えられないような「経済成長」が近世に起きた。

 現代のような資本主義が度を過ぎて発展した時代ともなると、現代の王侯貴族に相当する今の資本家たちは、絶えず、株価や原油の先物価格等に目を配って、利益を再投資することしか考えない。非生産的活動に費やす割合は極めて低い、というわけです。

 そうですね。確かに、現代のCEOは絶えず、株主の顔色を伺いながら、M&A(合併・買収)など常に再投資に勤しんでいかなければなりません。非生産的活動といえば、50億円支払って宇宙ロケットに乗って宇宙旅行することしか思いつかない…。(しかも、それは個人の愉しみで終わり、後世に何も残らない。)

 勿論、ハラリ氏はそこまで書いてはいませんが、確かにそうだなあ、と頷けることばかりです。「サピエンス全史」は、人類学書であり、歴史書であり、科学の本であり、経済学書としても読めます。しかも、分かりやすく書かれているので、大変良い本に巡り合ったことを感謝したくなります。

築地「蜂の子」Cランチ(オムライス)1050円

 ただ、私自身はただでは転ばない(笑)ので、ハラリ氏の論考を全面的に盲信しながらこの本を読んでいるわけではありません。これは著者の意図ではないと思いますが、古代の王や中世の貴族らが非生産的活動しか従事してこなかったことについて、著者の書き方が少し批判的に感じたのです。

 しかし、彼らの非生産的活動の象徴であるエジプトのピラミッドやパリやミラノやケルンやバルセロナなどの大聖堂は、現代では「観光資源」となり、世界中の観光客(異教徒でも!)を呼び寄せて、後世の人に莫大な利益を齎しているではありませんか。

 とはいえ、もうアダム・スミスの「国富論」はつまらない、なんて言えません(苦笑)。それどころか、ニュートンの「プリンキピア」やダーウィンの「種の起源」も読まなくてはいけませんね。