43年ぶりに憧れのマドンナと再会できました

 人は半世紀近い年月を隔てても、再会して話が通じ合うようなことができるのかーといった哲学的命題を解明したいがばっかりに、大学を卒業して一度も会ったことがなかった女性と43年ぶりぐらいに東京・恵比寿のイタリア料理店で、感動の再会を果たしました。私の大嫌いで、もうあまりやっていないFacebookで御縁が繋がり、私がブログに神谷町のことを書いたことがきっかけで、再会することになりました。1時間半ばかし、積もるよもやま話をして参りました。

 御本人から、最初、「ブログには書かないで」と言われましたが、「いや、ブログは私の正業なので、遠回しに書かさせて頂きます」と無理やり、宣言してしまいました(笑)。ので、お名前は匿名で楸さんということにしておきましょう。楸さん?まず読めないでしょう?(笑) 「ひさぎ」さんと読みます。

 何しろ、この奇跡的な再会については、名古屋に住む旧友のK君や静岡県在住の山上君らに吹聴してしまい、彼らもその後どうなったのか、気になることでしょうから、彼らのためにも、御報告する義務がありました(笑)。

 結果は、good,better,best ? まあ、the bestでした。私一人だけが、昼間っからワインやハイボールを呑んで酔っ払って、言いたい放題、聴きたい放題でしたが、楸さんも、水で酔ったふりをして我慢して付き合ってくれました。何しろ、22歳だった若者が、浦島太郎さんのように、アッと言う間に、白髪のお爺さんですからねえ。後輩の楸さんも私とそれほど年齢は変わりませんが、半世紀近く会っていなかったので、お互いに、人生の「激動期」の情報が抜けています。結婚や出産(私はしてませんが)や、仕事や転勤、子どもや孫の話、病気の話、それに二人が共通に知っている友人知人の結婚、離婚、再婚、近況の話などを問わず語りしているうちに、これまたあっという間に時間が経ってしまいました。

 楸さんには、「遠回しに書く」と約束してしまったので、具体的な内容は茲では書けませんが、私が大学時代にお付き合いしていた椿さん(これも仮名)の近況ーとはいっても、楸さんが椿さんと直接会ったのは、10年近く前らしいのですが、ーを初めて教えてもらい、少し安心しました。「へー、そうだったのかあー」といった感慨です。これまた、楸さんとのお約束で具体的なことはブログに書けませんが…(笑)。

 楸さんは、頭が良く、性格も良く、しかも美人さんと三拍子揃っていましたから、男どものアイドル的存在で、友人のK君も狙っていました。私は当時、椿さんと熱烈な恋愛関係にあったため、楸さんにはアタックせず(笑)、遠くから見ていた感じでしたが、まさか、半世紀近く経って再会するとは夢にも思いませんでした。(だから、記憶違いばかりでした。)

 年も年ですから、お互いに同じことを聞いて、「あれっ?それ、さっき応えたのでは?」となり、古民家の縁側の日向ぼっこで、お爺さんとお婆さんが、昆布茶を飲みながら、会話しているような長閑な雰囲気になり、顔を見合わせて大笑いしてしまいました。

 何でもない会話でしたが、お互いに、紆余曲折の末、挫折やら苦悩やら病気やら人生の荒波を乗り越えて、生き延びて奇跡的な再会を果たすことができました。

 少し陳腐な表現ではありますが、やはり、「人生は捨てたもんじゃない。素晴らしい」と思いましたよ。

エリート群像と名もなき庶民の声=平山周吉著「満洲国グランドホテル」

 ついに、やっと平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社、2022年4月30日初版、3850円)を読了できました。565ページの大作ですから、2週間以上掛かりました。登場人物は、巻末の索引だけでも、ざっと950人。まさに、大河ドラマです。

 満洲と言えば、最初に出て来るのは、東条英機(関東軍参謀長)、星野直樹(満洲国総務長官)、岸信介(満洲国総務庁次長)、松岡洋右(満鉄総裁)、鮎川義介(日産コンツェルン⇒満洲重工業総裁)の「ニキ三スケ」です。それに加えて、何と言っても「大杉栄殺害事件」の首謀者から満映理事長にまで転身した甘粕正彦(昭和19年1月、甘粕は、芸文協会の邦楽部長藤山一雄に対して、「藤山さん、あれは私ではないよ」と呟くように言った。=41ページ)と張作霖爆殺事件の河本大作の「一ヒコ一サク」です。(この名称は、著者が「勝手に命名した」と「あとがき」に書いております。)

 とはいっても、この7人のうちに章を立てて取り上げられているのは、星野直樹と松岡洋右の二人だけです。勿論、残りの5人と満洲事変を起こした板垣征四郎と石原莞爾は、陰に陽に頻繁に「脇役」として登場し、完全に主役を食っている感じです。そんな彼らについては多くの紙数が費やされていましたが、731細菌部隊の石井四郎や満洲国通信社の阿片王・里見甫、作家の長谷川濬、漫画家の赤塚不二夫やちばてつや、俳優の森繁久彌や宝田明らはほとんど出てきませんでした。(著者は「あとがき」で、取り上げたかったが、残念ながら出来なかった人物として、「もう一人の男装の麗人」望月美那子、「満洲イデオローグ」評論家の橘樸=たちばな・しらき=、「満蒙開拓の父」加藤完治らも挙げています。)

 その代わりに多く取り上げられていたのが、小林秀雄や長与善郎、八木義徳、榛葉英治、島木赤彦といった文学者と「満洲の廊下トンビ」小坂正則(報知新聞新京支社長⇒満映嘱託など)、石橋湛山(東洋経済)、石山賢吉(ダイヤモンド社)、「朝日新聞の関東軍司令官」武内文彬(奉天通信局長)、「女優木暮美千代の夫」和田日出吉(時事新報⇒中外商業新報⇒満洲新聞社長。坂口安吾が振られた美人作家矢田津世子とも付き合っていた艶福家)といったジャーナリストたちです。彼らは、満洲関連の多くの文献を残しているせいかもしれません。

 著者も「あとがき」に書いているように、この本が主眼にした時代は「ニキ三スケ」の時代で、初期の満州事変や末期のソ連軍侵攻の悲劇にはそれほど触れられていません。従って、登場する中心人物は、「白紙に地図を書くように」これまでにない新しい国家をつくろうとする野心と理想に燃えたエリートたちで、筆者も「満洲国は関東軍と日系官僚が作った国家であったから、近代日本の二つの秀才集団である軍人と官僚は欠かせなかった」と振り返っています。軍人では、植田謙吉(関東軍司令官)、小磯国昭(関東軍参謀長)、岩畔豪雄(関東軍参謀)、官僚では、古海忠之(大蔵省⇒総務庁次長)、大達茂雄(内務省⇒国務院総務庁長)、「満洲国のゲッベルス」武藤富男(司法省⇒総務庁弘報処長)、「満洲の阿片行政の総元締め」難波経一(大蔵省⇒専売公署副署長)らに焦点が当てられ、意外な人物相関図や面白い逸話が披露されています。

 一つ一つご紹介できないので、是非、手に取ってお読み頂けれたらと存じます。好評なら、今度は「もう一人の男装の麗人」望月美那子や「満洲イデオローグ」評論家の橘樸らを取り上げた「続編」が出るかもしれません。

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 ただ、本書に登場する人物は、ほとんど陸士―陸大を出た超エリート軍人か、東京帝大を出て高等文官試験に合格した超エリート官僚ばかりです。皆、新しい国をつくろうと燃えた人たちでしたが、その下には何百万、何千万人という漢人、満人、蒙人、鮮人(当時の名称)ら虐げられた人がいたことも忘れてはいけません。

 巻末年表を見ると、歴史的に、漢人が「化外の地」(中華文明が及んでいない野蛮な土地)として相手にもしていなかった満洲の地を最初に侵略したのはロシアで、1900年のことでした。満州に東清鉄道を敷設し、ハルビンなどの都市を建設していきます。それが、1904~5年の日露戦争での大日本帝国の勝利で、日本の満洲での権益が拡大していきます。

 昭和初期、金融恐慌などに襲われた日本にとって、満洲は理想の希望に溢れた開拓地で、「生命線」でもありました。一攫千金を狙った香具師もいたでしょうが、職や開拓地を求めて大陸に渡った日本人も多くいます。先日、名古屋で14年ぶりに会った旧友K君と話をしていて、一番驚き、一番印象に残った話は、私も面識のあったK君の御尊父が、16歳で満洲に渡り、満鉄に就職したことがあったという事実でした。16歳の少年でしたから、この本に出て来るような東京帝大出のエリートとは違って、「使い走り」程度の仕事しかさせてもらわなかったことでしょう。

 それでも、そこで、かなり、日本人による現地人に対する謂れのない暴行や差別や搾取を見過ぎて来たというのです。「それで、すっかり親父はミザントロープ(人間嫌い)になって日本に帰ってきた」と言うのです。

 K君の親父さんは、本に登場するような、つまり、字になるような有名人ではありませんでした。が、私自身は、身近な、よく知った人だったので、活字では分からない「真実」を目の当たりにした感じがしました。お蔭で、聞いたその日は、そのことが頭から離れず、ずっと、頭の中で反芻していました。

【参考】

 付 「傀儡国家の有象無象の複雑な人物相関図=平山周吉著『満洲国グランドホテル』」

 「細部に宿る意外な人脈相関図=平山周吉著『満洲国グランドホテル』」

田中与四郎さんって誰のこと?=歴史上の人物の本名にはまってます

 最近、我ながら、勝手にはまっているのが、歴史上の人物の本名(幼名、俗名、諱)クイズです。

 きっかけは、田中与四郎さんです。大変、失礼ながら、現代人でも何処にでもいそうなありふれたお名前です。それが、あの茶人・千利休の本名(幼名、1522~91年)だと知った時は、大いに驚いたものです。千利休は、今年、生誕500年ということで、テレビや雑誌で取り上げられることが多いのですが、テレビの番組で初めて知りました。

 堺の商家(家業は倉庫業)生まれで、雅号は抛筌斎(ほうせんさい)、法名は千宗易。千利休という名前は、天正13年(1585年)の禁中茶会で、町人の身分では参内できないため正親町天皇から与えられた居士号だといいます。姓の千は、彼の祖父である田中千阿弥から由来するという説もあります。

 田中与四郎さんで味をしめたので、他にも探してみました。一番、記憶に残っていたのは、藤井元彦さんと藤井善信さんです。このお二人、どなたのことか分かりますか?将棋の棋士ではありません(笑)。ヒントは「歎異抄」です。最後の後序に出てきます。

 1207年、いわゆる承元の法難(建永の法難)で、後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然と親鸞ら門弟7人が流罪となった事件のことです。この時、法然上人(76)は、(当初、)土佐国の番田という所へ流罪となり、罪人としての名前が藤井元彦。親鸞聖人(35)は越後国へ流罪となり、罪人としての名前は藤井善信などと「歎異抄」には書かれています。

 今から800年以上前の藤井元彦も藤井善信も、全く、現代人としても通用する名前です。

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 この事件、真偽は不明ですが、後鳥羽院が寵愛する女官(鈴虫と松虫)と法然の門弟との密通事件が背景にあって、死罪という重い処分が下されたともいわれています。私怨が絡んでいたのかもしれません。私はすっかり忘れていましたが、法然、親鸞らに「島流し」の処分を下した後鳥羽院は、その14年後の1221年に承久の乱で、逆に、二代執権北条義時によって隠岐の島に流されてしまうんですよね。波乱万丈の人生でしたが、やはり、鎌倉時代は面白い!

 さて、これぐらいにして、皆様にもクイズを差し上げましょう。以下の本名の人は、普通は何という名前で知られているでしょうか?

(1)佐伯真魚(さえき・まお)

(2)坂本直柔(さかもと・なおなり)

(3)長谷川辰之助(はせがわ・たつのすけ)

(4)永井壮吉(ながい・そうきち)

(5)津島修治(つしま・しゅうじ)

(6)平岡公威(ひらおか・きみたけ)

 簡単過ぎましたね(笑)。

 私も筆名を3回も4回も変えてきましたが、あの葛飾北斎は生涯で30数回名前を変えてますからね。 されど名前、たかが名前ですか…。

(答えは下欄)すぐ見ちゃ駄目よお

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【答え】

(1)空海(2)坂本龍馬(3)二葉亭四迷(4)永井荷風(5)太宰治(6)三島由紀夫

細部に宿る意外な人脈相関図=平山周吉著「満洲国グランドホテル」

(つづき) 

 やはり、予想通り、平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社)にハマって、寝食を忘れるほど読んでおります。昭和時代の初めに中国東北部に13年半存在した今や幻の満洲国を舞台にした大河ドラマです。索引に登場する人物だけでも、953人に上ります。この中で、一番登場回数が多いのが、「満洲国をつくった」石原莞爾で56回、続いて、元大蔵官僚で、満洲国の行政トップである総務長官を務めた星野直樹(「ニキサンスケ」の一人、A級戦犯で終身刑となるも、1953年に釈放)の46回、そして昭和天皇の32回が続いています。

 私は、この本の初版を購入したのですが、発行は「2022年4月20日」になっておりました。それなのに、もう4月30日付の毎日新聞朝刊の書評で、この本が取り上げられています。前例のない異様な速さです。評者は、立花隆氏亡き後、今や天下無敵の「読書人」鹿島茂氏です。結構、辛口な方かと思いきや、この本に関してはかなりのべた褒めなのです。特に、「『ニキサンスケ』といった大物の下で、あるいは後継者として働いた実務官僚たちに焦点を当て、彼らの残した私的資料を解読することで満洲国の別のイメージを鮮明に蘇らせたこと」などを、この本の「功績」とし特筆しています。

 鹿島氏の書評をお読みになれば、誰でもこの本を読みたくなると思います。

 とにかく、約80年前の話が中心ですが、「人間的な、あまりにも人間的な」話のオンパレードです。「ずる賢い」という人間の本質など今と全く同じで変わりません。明があれば闇はあるし、多くの悪党がいれば、ほんの少しの善人もいます。ただ、今まで、満洲に関して、食わず嫌いで、毛嫌いして、植民地の先兵で、中国人を搾取した傀儡政権に過ぎなかったという負のイメージだけで凝り固まった人でも、この本を読めば、随分、印象が変わるのではないかと思います。

 私自身の「歴史観」は、この本の第33回に登場する哈爾濱学院出身で、シベリアに11年間も抑留されたロシア文学者の内村剛介氏の考え方に近いです。彼は昭和58年の雑誌「文藝春秋」誌上で激論を交わします。例えば、満鉄調査部事件で逮捕されたことがある評論家の石堂清倫氏の「満洲は日本の強権的な帝国主義だった」という意見に対して、内村氏は「日本人がすべて悪いという満洲史観には同意できません。昨日は勝者満鉄・関東軍に寄食し、今日は勝者連合軍にとりついて敗者日本を叩くというお利口さんぶりを私は見飽きました。そして心からそれを軽蔑する」と、日本人の変わり身の早さに呆れ果てています。

 そして、「明治11年(1878年)まで満洲におったのは清朝が認めない逃亡者の集団だった。満鉄が南満で治安を回復維持した後に、山東省と直隷省から中国人がどっと入って来る。それで中国人が増えるんであって、それ以前の段階でいうならあそこはノーマンズ・ランド(無主の地)。…あえて言うなら、満洲人と蒙古人と朝鮮人だけが満洲ネーティブとしてナショナルな権利を持っていると思います。(昭和以降はノーマンズ・ランドとは言えなくなったが)、ロシア人も漢民族も日本人も満洲への侵入者であるという点では同位に立つ」と持論を展開します。

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 また、同じ雑誌の同じ激論会で、14歳で吉林で敗戦を迎えた作家の澤地久枝氏が、満洲は「歴史の歪みの原点」で、「日本がよその国に行ってそこに傀儡国家を作ったということだけは否定できない」と糾弾すると、内村氏は「否定できますよ。第一、ソ連も満洲国に領事館を置いて事実上承認してるから、満洲国はソ連にとって傀儡国家ではない」とあっさりと反駁してみせます。そして、「それじゃ、澤地さんに聞きたいけど、歴史というものに決まった道があるのですか? 日本敗戦の事実から逆算して歴史はこうあるべきだという考え、それがあなたの中に初めからあるんじゃないですか?」と根本的な疑問を呈してみせます。

 長い孫引きになってしまいましたが、石堂氏や澤地氏の言っていることは、非の打ち所がないほどの正論です。でも、当時は、そして今でも少数派である内村剛介の反骨精神は、その洞察力の深さで彼らに上回り、実に痛快です。東京裁判で「事後法」による罰則が問題視されたように、人間というものは、後から何でも「後付け」して正当化しようとする動物だからです。内村氏は、その本質を見抜いてみせたのです。

 この本では、鹿島氏が指摘されているように、有名な大物の下で支えた多くの「無名」実務官僚らが登場します。「甘粕の義弟」星子敏雄や型破りの「大蔵官僚」の難波経一、満洲国教育司長などを務め、戦後、池田勇人首相のブレーンになり、世間で忘れられた頃に沢木耕太郎によって発掘された田村敏雄らです。私もよく知らなかったので、「嗚呼、この人とあの人は、そういうつながりがあったのか」と人物相関図が初めて分かりました。 

 難点を言えば、著者独特のクセのある書き方で、引用かっこの後に、初めてそれらしき人物の名前がやっと出てくることがあるので、途中で主語が誰なのか、この人は誰のことなのか分からなくなってくることがあります。が、それは多分私の読解力不足のせいなのかもしれません。

 著者は、マニアックなほど細部に拘って、百科事典のような満洲人脈図を描いております。細かいですが、女優原節子(本名会田昌江)の長兄会田武雄は、東京外語でフランス語を専攻し、弁護士になって満洲の奉天(現瀋陽市)に住んでいましたが、シベリアで戦病死されていたこともこの本で初めて知りました。こういった細部情報は、ネットで検索しても出てきません。ほとんど著者の平山氏が、国会図書館や神保町の古書店で集めた資料を基に書いているからです。そういう意味でも、この本は確かに足で書いた労作です。

傀儡国家の有象無象の複雑な人物相関図=平山周吉著「満洲国グランドホテル」

 ついに、ようやく平山周吉著「満洲国グランドホテル」(芸術新聞社、2022年4月30日初版、3850円)を読み始めております。索引を入れて565ページの超大作。百科事典に見紛うばかりのボリュームです。

 この本の存在を知らしめて頂いたのは、満洲研究家の松岡將氏です。実は、本として出版される前に、ネット上で全編公開されていることを松岡氏から御教授を受けました(現在、閉鎖)。そこで、私も画面では読みにくいので、印刷して机に積読していたのですが、他に読む本が沢山あって、そちらになかなか手が回りませんでした。ついに書籍として発売されるということでしたので、コピーで読んでいたんではブログには書けない気がして購入することにしたのです。

 最初に「あとがき」から読んだら、松岡將さんが登場されていたので吃驚。ウェブ連載中にたびたび間違いを指摘されたそうで(笑)、著者からの感謝の言葉がありました。松岡氏は索引にも登場し、彼の著書「王道楽土・満洲国の『罪と罰』」等も引用されています。

 「あとがき」にも書かれていましたが、著者の平山周吉氏の高校時代(麻布学園)の恩師だった栗坪良樹氏(文芸評論家、元青山女子短大学長)が、松岡將氏の母方の従弟に当たるという御縁もあります。著者プロフィールで、平山氏は、「雑文家」と称し、本名も職歴も詳しく明かしていないので、「世界的に影響力のある」このブログでも詳しくは書けませんが(笑)、某一流出版社の文芸誌の編集長などを歴任されたそうで、「週刊ポスト」で書評も担当されています。

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 振り返ってみれば、私の「満洲」についての関心は、松岡氏からの影響もありますが、知れば知るほど、関係者や有名人がボロボロ出てくる驚きがあり、大きな森か沼にはまってしまったような感じなのです。

 「ニキサンスケ」の東条英機、星野直樹、岸信介、松岡洋右、鮎川義介を筆頭に、吉田茂、大平正芳、椎名悦三郎、何と言っても「主義者殺し」から満映理事長に転身した甘粕正彦と張作霖爆殺事件の河本大作の「一ヒコ一サク」、731細菌部隊の石井四郎、満洲国通信社の阿片王・里見甫、「新幹線の父」十河信二、作家の長谷川濬、檀一雄、澤地久枝、評論家の石堂清倫、漫画家の赤塚不二夫やちばてつや、俳優の森繁久彌や宝田明、李香蘭、木暮美千代、歌手の加藤登紀子、指揮者の小澤征爾、岩波ホールの支配人だった高野悦子…と本当にキリがないほど出て来るわ、出て来るわ。

 もう出尽くしたんじゃないか、思っていた頃に、この「満洲国グランドホテル」に出合い、吃驚したと同時に感服しました。これでも、私もかなり満洲関係の本を読んできましたが、知らなかったことが多く、著者は本当に、よく調べ尽くしております。目次から拾ってみますと、「小林秀雄を満洲に呼んだ男・岡田益吉」「『満洲国のゲッベルス』武藤富男」「『満洲の廊下トンビ』小坂正則」「ダイヤモンド社の石山賢吉社長」「関東軍の岩畔豪雄参謀、陸軍大尉の分際で会社を65を設立す」「誇り高き『少年大陸浪人』内村剛介」…、このほか、笠智衆や原節子らも章が改められています。

躑躅

 キリがないので、最小限のご紹介に留めますが、小林秀雄を満洲に呼んだ岡田益吉とは、読売新聞~東京日日新聞の陸軍担当記者から、満洲国官吏に転じ、協和会弘報科長などを務めた人。東日記者時代は、永田鉄山参謀本部第二部長から、国際連盟脱退の決意を聞き、大スクープ。満洲時代は、「張作霖事件」の首謀者河本大作と昵懇となり、「張作霖の場合民間浪人を使ったので、機密が民政党の中野正剛らに漏れ、議会の問題になったので、今度(柳条湖事件)は現役軍人だけでやった。本庄繁軍司令官は翌年の3月、河本が本庄に告白するまで知らなかった」ことまで引き出します。

 「満洲の廊下トンビ」小坂正則とは、岡山県立第一商業を出た後、渡満し、満洲では、秘密警察的存在だった警務司偵輯室員と報知新聞記者などの二足の草鞋を履き、同郷の土肥原賢二大佐(奉天特務機関長)や星野直樹・総務庁長(間もなく総務長官と改称)ら実力者の懐に飛び込み、その「廊下トンビ」の情報収集力が買われ、諜報員と記者の職を辞しても、複数の嘱託として「月収3000円」を得ていたという人物です。

 まあ、人間的な、あまりにも人間的な話です。とにかく、この本を読みさえすれば、複雑な満洲人脈の相関図がよく分かります。(この話は多分、つづく)

意外にも残虐だった天智天皇

 週末はゆっくり休んだというのに、未だに風邪が抜け切れていません。えっ?もしかして???と言われそうなので、今朝、健康診断の際に、熱を測って頂いたら、35.4度しかありませんでしたよ。食欲も味覚も嗅覚もあり、こんな冷血人間がコロナでもないですよね?

 まだ本調子といかないので、読書が進まず、購入した本や書籍が机の上に山積しております。特に雑誌が読めません。いつも定期購読している「歴史人」は、4月号「最新研究で、ここまでわかった!古代史の謎」特集号と、5月号の「決定!最強の城ランキング」と、6月号の「沖縄戦とソ連侵攻の真実」の3冊と「歴史道」Vol.20「古代天皇の謎と秘史」特集号とVol.21「伊能忠敬と江戸を往く」特集号の2冊、計5冊も未読です。

 この中で、やっと「歴史人」4月号「最新研究で、ここまでわかった!古代史の謎」特集号を読み終えるところです。いつもの通り、「歴史人」は情報量が満載というか、満杯で、とても全てを頭の中で整理できません。よく言えば、「玉石混交」ですが、悪く言えば節操がない(笑)。ただ、嬉しいことに、最新の学術研究の成果が出て来るので、感心します。逆に言えば、いまや歴史解釈がどんどん変化しているので、単行本や教科書では間に合わないのです。雑誌を刊行しなければならないほど、それだけ学説が更新されているということなのです。

 玉石混交の節操なし、というのは「邪馬台国論争」です。最初に、高島忠平・佐賀女短大元学長の「邪馬台国の真実」を読むと、「女王・卑弥呼が統治した3世紀の倭国は九州にあったとするしかない」「ヤマト王権は5世紀になっても、女王国のように一元的に統率・支配する独自の個人官僚機構を成立していなかった」「纏向(まきむく)遺跡の被葬者が卑弥呼のはずがない」と断定されているので、これで「邪馬台国=北九州説」決定、と私なんか思ってしまいました。

 ところが、次の武光誠・元明治学院大学教授の「女王卑弥呼の謎と実像」を読むと、「現在、考古学者の半数以上が邪馬台国大和説を支持。大和説と九州説の勢力比は、7対3程度になって来た」「邪馬台国=大和説なら卑弥呼に比定し得る女性は3人いる。一人は、仲哀天皇の妃の神功皇后。二人目は崇神天皇を支えた巫女の倭迹々日百襲姫命、三人目が垂仁天皇と景行天皇の時代の倭姫命であある」と断定するのです。

 ええい、どっちなんじゃあい!?

 いくら、3対7と不利だろうが、私は3世紀という時代を鑑みて、何と言っても九州説を取ります。

 もう一つ、7~8年前だったか、「聖徳太子が教科書から消える?」と新聞などで話題になりましたが、最近ではやはり、謚(おくりな)である「聖徳太子」単独で登場することは少なくなり、せめて「聖徳太子(厩戸皇子=うまやとのみこ)」か、「厩戸皇子(聖徳太子)」の形で多く登場するようです。何故ならかつて言われていた「聖徳太子超人説」(生後4か月で話をすることができた。5歳で推古天皇の即位を予言した。11歳で30人以上の子どもが言うことを漏らさずに記憶した…)は、現代科学と照らし合わせて否定されつつあるというからです。

 最後に、私の世代では「大化の改新」としか習いませんでしたが、今では「乙巳の変」と呼ばれる645年の政権クーデターの話は考えさせられました。私の世代では、「蘇我入鹿=悪党権化の塊」「中大兄皇子(天智天皇)=善人・名君」のイメージで固まって、それで終わりでしたが、遠山美都男学習院大等非常勤講師の「蘇我氏は希代の悪人か、変革者か?」を読むと、蘇我入鹿が可哀想に思えてきました。

 入鹿が、厩戸皇子の後継者・山背大兄王(やましろおおえのみこ)を襲って一族を滅ぼしたのは、山背大兄王が用明天皇の系統だったためで、入鹿は、敏達天皇系統のリーダー的存在だった皇極天皇(女帝)の命令に従ったに過ぎなかったといいます。

 乙巳の変では、今度は入鹿が皇極天皇の目の前で、中大兄皇子によって殺害されますが、敏達天皇系統(敏達統)内での政権抗争に巻き込まれた結果でした。蘇我入鹿らは敏達統の古人大兄皇子を次期天皇に押していたのに対し、中大兄皇子らは、敏達統の軽皇子(かるのみこ=孝徳天皇)を押していたからです。となると、黒幕はこれまた皇極天皇で、入鹿なんぞは将棋の駒のように利用していたに過ぎなかったかもしれません。

 入鹿は殺される前に「私は無実です」と皇極天皇に訴えたといいますから、可哀想になったのです。

 中大兄皇子は天智天皇として即位しますが、これまた恐ろしい。まず、古人大兄皇子を謀反の疑いで処刑し、自陣に取り組んでいた蘇我倉(そがのくら)山田石川麻呂を自害に追い込み、傀儡に打ち立てた孝徳天皇を難波宮の置き去りし、孝徳天皇の皇子である有間皇子まで謀反の疑いで処刑してしまうのです。

 いやはや、熾烈な権力闘争とはいえ、天智天皇は、ここまで残虐な御方だったとは…、改めて、感慨に耽ってしまいました。

【追記】

 卑弥呼と対立した狗奴国の男王の名前は卑弥己呼(ひみここ)だったといいます。えっ!?です。誰が付けたのでしょう? 邪馬台国の「や」には、よこしまな「邪」の字が充てられているし、卑弥呼だって、「卑しい」という侮蔑言葉が盛り込まれています。これらは、中国大陸の歴史書「魏志倭人伝」などに登場することから、中国人がそう呼んだか、名付けたような気がしてなりません。いわゆる中華思想ですから、日本なんぞは「東夷」という遅れた蛮族に過ぎないという思想です。

「NHKスペシャル 見えた 何が 永遠が~立花隆 最後の旅~」は隔靴搔痒でした

 「やっちまったなあ」ーGWの後半は、風邪で丸々3日間、寝込んでしまいました。熱は1日で下がり、味覚や臭覚や聴覚や第六感や嗅覚まであり、今はかなり回復に向かっていますから、例の、あの、そのお、世界中で知れ渡っている流行り病ではないと思います。が、罹った5月3日はフラフラで、朝起きて、軽くパンとサラダを食べた後、直ぐに就寝。なかなか起き上がられず、13時半になってやっと、ズルズルと布団から這いだし、ヤクルト1本飲んでまた就寝。夕方は17時過ぎに起きて、御素麺を頂いてから、もう18時にはおやすみなさいでした。こんなことは数年ぶりだと思います。

 考えられる原因は、GW前半に、自分が老人だということを忘れて、連日のように1万5000歩近く歩き回って疲れが溜まり、免疫抵抗力が落ちてしまったこと。それでもまだGW後半が残っていて、何かあっても誰にも気兼ねなく休めるので、身体が油断していたことが挙げられます。

 結局、本も1ページも読むことが出来ず、本当に何もできませんでしたが、良い休養が取れたと思い込めば、貴重な時間を有効に使えたことになります。モノは考えようです。この間、酒も煙草ものまず、髭も剃らず、博打もせず、誠に品行方正でした。

東京・新富町「448 リベルマン」ポークジンジャー1500円 「448」は「洋食屋」と読むらしい。それなら、渓流斎は「4871」と書いて、「心配ない」と呼んでもらいます。登録商標申請中(笑)。

 さて、寝込んでしまったお蔭で、先週の話になってしまいます。4月30日に放送された「NHKスペシャル 見えた 何が 永遠が~立花隆 最後の旅~」は大いに期待したのですが、どなたかの意向が反映したのか?、一番肝心なことが分からず、隔靴掻痒の感のままで終わってしまいました。

 私が口癖のように言っている「何が報道されたのかというよりも、何が報道されなかったのかの方が重要」ということの典型でした。

 昨年4月30日に80歳で亡くなったジャーナリストの立花隆さんは、死の間近になって、秘書を務めていた実妹菊入直代さんに対して、「墓も戒名もいらない。遺体はごみとして捨ててほしい。集めた膨大な書籍は一冊残らず古本屋で売ってほしい」と言い残していたそうです。

 この番組では、「立花隆番」として17年間、一緒に教養番組をつくって来たNHKの某ディレクターが、立花氏と出会ってから亡くなるまでを回想する形で進行します。「猫ビル」の愛称があった東京都文京区にある立花氏の書斎兼書庫には5万冊を超える膨大な書籍が棚に埋まっていたのに、最新映像となると、その棚には一冊の本もなく、棚だけが寂しそうにしていました。

 その映像を見てショックにならなかったのは、その2週間以上前に新聞で、立花氏が「自身の名前を冠した文庫や記念館などの設立は絶対にしてほしくない」「立花隆が持っていた本ということではなく、本の内容に興味を持った人の手に渡ってほしい」などと言い残していたという記事を読んでいたからです。さすが、ですね。母校に自分の名前を冠した記念文庫を設立した人気作家さんとは違うなあと思ってしまいました。

 ただ、古本屋さんが何処なのか、その記事には書かれていなかったので、NHKに期待したのですが、番組でも明かされませんでした。恐らく、「古本屋が特定されれば、殺到されて困る」と、誰かの意向が働いたのでしょう。私だって、正直、立花隆の蔵書なら欲しいぐらいですから(笑)。でも、多分、神保町の古本屋に違いないでしょう。彼は毎週のように通っていたといますから。…暇を見つけていつかまた「神保町巡り」をしたいと思ってます。

 もう一つ、この番組でフラストレーションになったのは、彼の墓所が明かされなかったことでした。結局、「樹木葬」となったようで、その場所も特定されて、映像として映し出されましたが、最後まで場所までは明かされませんでした。私は掃苔趣味があるので、場所が分かれば一度はお参りしたいと思っていたのに…。

 あと一つだけ。この番組のタイトルに使われている「見えた 何が 永遠が」は、私も何度かこのブログで取り上げたことがあるフランスの象徴派詩人アルチュール・ランボーの作のはずなのに、ランボーの「ラ」の字を出て来ないのはどうしてだったのかな?

 まあ、テレビという超マスメディアの影響力は大きいので、個人情報保護に細心の注意を払うことを最優先したのでしょう。

「448 リベルマン」から歩いて5,6分にある「新富座跡」の看板=現京橋税務署

 番組内では、色々な「立花隆語録」が出てきましたが、印象に残ったものだけ引用させて頂きます。(ただし、換骨奪胎です)

 ・霊魂はない。人間死んだら無に帰る。

 ・人間は死すべき動物である。どこかで死を受け入れるスイッチを切り替えるしかない。(以上は立花隆の死生観です。でも、死後、天国に行くか煉獄に行くか、西方の極楽浄土か東方の浄瑠璃世界に行くか、それとも地獄に行くのか、といったことを信じている人はその信仰を続けていいと私は思っています。)

 ・知的営みは地下で繋がっている。人間の知識の体系も繋がっている。しかし、知識が細分化し過ぎて、専門家は断片化した知識しか知らない。専門家は総合的なことを知らない。(メディアに頻繁に出演されるコメンテーターと呼ばれる専門家の皆さんにも当てはまるかもしれません。)

 ・記録された歴史などというのは、記録されなかった現実の総体と比べたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に吞み込まれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑み込まれてある。(「エーゲ 永遠回帰の海」)

・「すべてを進化の相の下に見よ」

大発見!!長三洲 真筆の極秘文書か?=宮さんお手柄ー「なんでも鑑定団」出演のお薦め

 皆さん御存知の宮さんから私に無理難題を押し付けて来られました(笑)。御尊父の遺品である厚手の和紙に書かれた文書を読み解いてほしい、と仰るのです。

 「読めない字も多く、歴史に弱い私では何も分かりません。渓流斎さんならどんな内容が書かれているか読み解いてくれるのではないかと、勝手ながらお問い合わせすることにしました。取り敢えず、文字を読み解いて文書内容を教えていただければありがたいです。古文書鑑定家になったつもりでご対応してください。(他の人に相談も可)忙しいのに変なお願いでご迷惑かと思います、無視していただいても構いません。」

 確かに私は歴史好きではありますが、残念ながら漢籍の素養はありません。「古文書鑑定家になったつもり」と言われても、荷が重過ぎますよお(苦笑)。

 でも、見てみると、上の写真の通り、大変達筆で、読みやすい。意味も全く分からないことでもない。最初の「明治十年之役」とは、西南戦争のことでしょう。続いて警視兵の中から選抜して「抜刀隊」と称する百人の部隊を編成して、西郷隆盛軍と戦ったのか? 一段落目の最後と末尾に出てくる「靖国祠」とは「靖国神社」のことでしょう。恐らく、抜刀隊の戦死者を靖国神社にお祀りした、という内容ではないか?(秀才の友人に目下、解読を依頼しております)

 それにしても、明治末か大正生まれの宮さんの御尊父が明治10年の西南戦争で戦っていたことはあり得ず、少なくともご祖父か、曽祖父が書かれた文書なのでしょう。それで、プライバシーながら、宮さんの御尊父のことやこの文書の入手経路などを伺ってみました。

 そしたら、この文書は、大分県出身のご祖父が生前、大分の古物商で手に入れたものを息子である宮さんの御尊父ら兄弟に形見分けされていたものの一対だった、ということが分かりました。

 となると、この作者は一体誰なのでしょう?

 よく見ると、最後に「三洲長炗」と署名が書かれています。えっ!?もしかして、もしかして、長三洲(1833~1895)のこと? 長三洲といえば、高野長英大村益次郎と並ぶ広瀬淡窓(1782~1856年)の愛弟子です。

 そこで調べて見たら吃驚。長三洲の本名は長炗(ちょう・ひかる)、三洲と号していたのです。天保4年(1833年)、豊後国(大分県)日田郡馬原村の儒家、長梅外の第三子として生まれたということですから、彼の書が大分県内の古物商に流れ、宮さんのご祖父が購入したということは辻褄が合います。

 これは本物ではないか??

 長三洲は幕末、尊王攘夷の志士となり、戊辰戦争では参謀として戦い、長州の桂小五郎の知遇を得て、維新後、木戸孝允となった桂小五郎の引きで、新政府に出仕しています。

 広瀬淡窓の門下ですから漢詩人としての名声は高く、明治になって、「漢学の長三洲、洋学の福沢諭吉」と言われたのです。

 しかも、長三洲の門下生には伊藤博文、山縣有朋ら元勲をはじめ、信じられないくらい多くの逸才を輩出しているのです。

 これは凄いお宝じゃ、あーりませんか!「無理難題を押し付られた」なんて言ってすみませんでした。大変なお宝が宮さんのお蔵に眠っていたのですね。

作者不明 どなたか分かりますか?

 もう一つ、宮さんの御尊父の遺品の中に、別にご祖父から受け継がれた作者不明の水墨画もありました。うーん、この作者は誰なんでしょう?

 そこで、「テレビの『なんでも鑑定団』に出演されたら如何ですか?長三洲なら高額が出るかもしれませんし、恥をかくことはありませんよ」と薦めてみました。すると、御返事は「そ、そ、そ、そこまでやるつもりはありません。」とのこと。

 いやいや、駄目ですよ、宮さん。しっかり,、真贋を鑑定してもらい、内容も解読してもらい、その価値を確かめる手段はそれしかありませんよ!

和紙裏面文字

 もしかして、テレビ東京か、制作プロダクションのネクサスの関係者がこの記事をお読みくださって、宮さんにアプローチするかもしれません。

  「漢学の長三洲、洋学の福沢諭吉」なんて、まさにテレビ向きのキャッチフレーズで、「絵」になるじゃありませんか(笑)。

 宮さん、勇気を出して! 私も大いに期待しております。

【追記】

 ネット情報ですが、長三洲は、「明治書家の第一人者で、水墨画や篆刻の腕前も一流」だったとありました。もしかしたら、例の作者不明の水墨画も長三洲作の可能性がありますね。

ホモ・サピエンスが繁栄したのは「集団脳」のお蔭=ネアンデルタール人は何故滅亡したのか?

 2月24日のロシア軍による残虐で想像を超えた凄惨なウクライナ侵攻以来、人類の歴史に関してはすっかり興醒めしてしまいましたが、それではいけませんね。逆にもっと人類に関して勉強して知識を増やさなければいけません。

 そんな時、タイムリーな番組が放送されました。NHKスペシャル「ヒューマン・エイジ 人間の時代 プロローグ さらなる繁栄か破滅か」です。再放送も予定され、今後数年間に渡ってシリーズ化されるようです。「火星進出まで実現する技術を生み出す一方、戦争や環境破壊で地球の未来をも危うくしている人間。その先にあるのはさらなる繁栄か?破滅か? MC鈴木亮平と壮大な謎に迫る!」といった内容です。俳優の鈴木さんは、東京外語大英米語科卒で英語はペラペラ。インテリ俳優さんです。司会進行もしっかりしていました。

 今回、私が注目したのは、同じヒト属でありながら、現生人類であるホモ・サピエンスは生き残って繁栄したのに、何故、ネアンデルタール人は滅亡したのか?ということでした。30万年前に誕生したホモ・サピエンスは今や、火星移住まで目指す技術革新を遂げています。その一方で、ネアンデルタール人は4万年前に滅亡してしまいます。

 これについて、米ハーバード大学人類進化生物学のジョセフ・ヘンリック教授が「集団脳がヒトを動物より賢くさせた」という説を唱え、非常に納得しました。ヘンリック教授は世界各国の狩猟、漁猟民族を訪ねて、その集団の大きさ(人口)を観察し、人が多ければ多いほど、狩猟や漁労の道具が増えていることに注目します。

 ネアンデルタール人は数人の家族という小規模な集団で生活していました。一方のホモ・サピエンスは150人ぐらいの集団で暮らしていたといいます。小集団のネアンデルタール人は、道具も親から子、そして孫に伝わる過程でほとんど改良せず、同じ道具のままなのに、ホモ・サピエンスの場合は、「集団脳」が働き、技術革新され、さまざまな道具が生み出されてきたというのです。

 ヘンリック教授は「個人が賢いわけでもなく、一握りの偉大な天才のお蔭でもない。何世代にも渡って技術が累積するから高度な技術革新が生まれる。そのためには大きな集団が不可欠。大きな集団によってコミュニケーション技術も発達し、集団脳も働く」といった趣旨の発言をしていました。天才でもない煩悩凡夫の私は特に納得してしまったわけです。

 火星に行くロケットも、1980年代に発明された3Dプリンターがインターネット時代になってパテントが解禁され、世界各国からの「集団脳」が集積して飛躍的に技術的に進歩し、それによって、火星ロケットに相応しい軽量で部品が少ないエンジンが開発されていったというのです。

 番組では、人類の歴史上、過去250以上の文明が滅亡したので、その原因の分析と解明をするプロジェクトを進めていくとしています。滅亡した文明の中には、世界最古のシュメール(文字や戦車を発明)文明やローマ帝国、マヤ、アステカ文明などが含まれます。あれだけの栄華を誇った文明も必ず滅びるとしたら、現代の欧米やウクライナ侵攻しているロシアもいずれ滅亡するということなのかもしれません。

 自己中で強欲傲慢な人間嫌いになっても、結局、人類への関心は捨てられません。

「仏友会」で講師を務めました=役得もいっぱいありました

 24日(日)は、東京・大手町のサンケイプラザで開催された大学の同窓会「仏友会」総会での講師に呼ばれまして、90分間ほど講演をしてきました。

 仏友会とは、仏教を愛する同好会ではなく、東京外国語大学でフランス語を専攻した卒業生・中退生の親睦団体で、昭和初期からある伝統のある団体です。同じ外語大でも他の言語にはないようですが、フランス語は結束が固く、立派なHPもあります。かつての出身者に無政府主義者の大杉栄、作家の石川淳、詩人の中原中也、菱山修三らがおります。

 フランス語以外では、外語大出身者には、作家の二葉亭四迷(露語)や永井荷風(清語)、童話作家の新実南吉(英語)らもおりますが、おっと忘れるところでした、島田雅彦先生(ロシア語)もいらっしゃいますが、学生時代に、東京大学出身の某教授が「外語出身者にはロクな奴がいない。皆、二流ばっかじゃないか」と暴言を吐いておりました。余計なお世話ですよねえ(笑)。大杉栄、永井荷風、中原中也といえば、皆、反骨精神の持ち主で、超一流の歴史に残る人物です。体制べったりで、のうのうと暮らす輩とは違いますよ。

香川・愛媛郷土料理・新橋「かおりひめ」の「あられ丼とミニうどん」ランチ1100円⇒月曜日は1000円

 てなことで、そんな反骨精神が買われたのか、今回、私が講師に選ばれてしまいました。最初、「大変優秀な先輩諸氏がいらしゃるというのに、何であたしが?」と思いましたが、振り返ってみれば、マスコミの記者として、普通の人ではとても会えない有名人に数多お会いして、インタビューしております。松本清張、司馬遼太郎、東山魁夷といった大御所を始め、吉永小百合や三田佳子ら大女優にもお会いしています。それに、レコード大賞の審査員を経験したお蔭で、芸能界と裏社会との濃密な関係など大衆の夢を壊してしまうような話を沢山、見聞してきました。そこで、「仕方なく始まった僕のジャーナリスト生活=通信社記者42年」という演題で、講演を引き受けることにしたのです。

 依頼があったのは昨年末か今年初めで、講演のレジュメ(要旨)をつくっていったら、次々と色んなことを思い出し、最初、A4判で1枚だったレジュメが10回ぐらい書き直したり捕捉したりして、7枚に膨れ上がってしまいました。

 当然ながら、90分という時間制限の中、全部話し切れず、半分ぐらいで尻切れトンボになってしまったのは、返す返すも残念でした。

厚労省医政局経済課の厳選なる抽選で、アベノマスク(100枚)が当選しました。税金無駄遣い防止に貢献致しました

 講演内容の詳細はここでは書けません。何しろ、レジュメの頭記に「※取扱注意! 無断転載禁、門外不出でお願いします」」と書いたぐらいですから、世界中に愛読者がいて衆人監視されている有名な?渓流斎ブログに書けるわけがありません(爆笑)。

 しかし、「情報」というものについてはいつもいつも考えさせられます。ナチス・ドイツの宣伝相だった・ゲッベルスの有名な「嘘も百回言えば真実となる」という言葉がありますが、(ゲッベルスではなく、ヒトラー説など諸説有り)、フェイクニュースも真実になってしまうのが、今のウクライナに侵攻したロシアのプーチン大統領やラブロフ外相らの言説に、まさに現れています。言論統制、マスコミ統制が功を制して、あれだけウクライナ市民を大虐殺したというのに、プーチン大統領の支持率が83%という信じらない数字が出ています。

 今の日本がロシアを批判するのは簡単ですが、日本も戦時中は、ロシアと同じように言論統制して、撃墜してもいない戦闘機や軍艦を撃墜したと主張する大本営発表を国民(当時は臣民)に信じ込ませていたではありませんか。

チューリップ

 今の資本主義が蔓延る日本の場合は、広告主の天下です。歌手や俳優やお笑いのタレントをとにかくマスコミで露出させて、その露出によって有名にし、その有名タレントを使ってCMに出演させ、「人気こそが信頼だ」と大衆をだまくらかして、欲しくもない商品を売りまくって経済を回しているという構図をもっと喋りたかったのですが、時間切れでそこまで話せませんでした。

 それより、講師をやったお蔭で、講演会が終わった懇親会で、色んな情報が入って来たことは役得でした。

 例えば、同盟通信社の初代社長の岩永裕吉の父親が大村藩出身の衛生医師長与専斎で、岩永の次兄の長与又郎は、夏目漱石の解剖に従事し、東京帝大の総長まで務めた人、実弟の長与善郎は白樺派の作家…といった話をしたところ、懇親会で「実は、私、長与善郎の縁戚に当たる者です」と仰る方が現れたので驚いてしまいました。

 悪口を言わなくてよかった…(笑)。講演会では「皆、良い人です」と言っておけば間違いありませんね。

 もう一人おりました。講演で、朝日新聞の芸能担当記者が、あまりにも生意気だったので業界から総スカンを食らい、あの美空ひばり(1937~89年、行年52歳)の訃報を特オチした(各紙が一面で報道しているというのに、朝日新聞だけがニュースを知らされず落としてしまった)伝説の事件の話をしたところ、懇親会で、田中先輩が近寄って来て、「あの特オチ記者、篠崎だろ?俺の高校の同級生だよ」と仰るので魂げてしまいました。

 「高校は県立千葉高校だけど、あいつはなあ、高校の時から、将来、東大に行って、朝日新聞に入る、と宣言していたんだよ」というのでこれまた吃驚です。講師をやらなければ、分からなかった情報でした。

 「特オチ記者」の汚名を背負った篠崎弘氏とは、私自身面識はありませんが、「伝説の記者」として業界では超有名人でした。その後、朝日新聞を退社せざるを得なくなり、現在は音楽評論家をされています。

 ただ、篠崎氏の肩を持つとしたら、恐らく、彼は「業界の掟」を破ったのではないかと思われます。業界の掟とは「ギブアンドテイク」の世界です。業界が売り出したい無名のタレントを取り上げて書いてもらう、その代わりに、大物俳優が結婚、離婚したり、亡くなったりしたら、その情報をいち早くお伝えします、という「暗黙の了解」事項です。(今はネット社会なので、過去の話ですが)

 恐らく、篠崎氏は、つまらないタレントや興味のないアーチストらのインタビューを断り続けていたのでしょう。それが、「あいつは生意気だ」ということになり、業界が結束して干したというのが真相ではないかと思われます。勿論、彼も天下の朝日新聞という大看板で踏ん反りかえっていたかもしれませんが。

吉田林檎氏の句集「スカラ座」(ふらんす堂)

 コロナ禍にも関わらず、今年米寿を迎えた最高齢の渡辺先輩をはじめ、会場にまでわざわざ足を運んでくださる奇特な方が沢山いらして、本当に有難い、と感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 最後の写真ですが、仏友会の幹事を務める吉田さんが出版された句集「スカラ座」で、献本として頂いてしまいました。これも、今回講師を務めたからこそです。御一人お一人の名前は書けませんが、事前準備から当日、会場での椅子の移動まで手掛けて頂いた幹事の皆様方には御礼申し上げます。