「尾崎秀実が育った台湾の話」「ヴーケリッチの取り調べに当たった特高外事課主任警部の話」「ゾルゲのオペラの話」=第4回尾崎=ゾルゲ研究会

  11月9日(木)は会社を休んで、東京・霞ヶ関の愛知大学東京オフィスで開かれた「第4回尾崎=ゾルゲ研究会」に参加して来ました。

 ゾルゲ事件の中心人物である尾崎秀実が育った台湾の話、ヴーケリッチの取り調べに当たった当時の特高外事課主任警部の話、そしてゾルゲのオペラの話とメニューがかなり盛沢山で、正直、頭の整理が追い付かず、後で、配布して頂いた資料を読み返して何となく分かるといった感じでした(苦笑)。

第4回尾崎=ゾルゲ研究会

 最初に登壇されたのは、尾崎=ゾルゲ研究会事務局長の鈴木規夫愛知大学教授で、演題は「尾崎秀実における台湾」でした。事前に発表されたレジュメでは、「尾崎秀実は誰であったのか、その生育環境となった台湾というロケーションを巡って考える」ということで大いに期待したのですが、途中でオンラインの人からの雑音や、オンライン参加者の巨大な顔のアップや、「早口で、画面の文字が小さいのでよく読めませーん」などといった抗議がオンラインから何度も入ったりして、集中できず、内容を理解することが出来ませんでした。後から資料も読み返しましたが、同じで、やはりあまり理解できませんでした。

 講演の「むすびに」では、「尾崎たちの、この地上の『愛国』を超えた異なる次元の故郷を見出す魂は、聖ヴィクトリ・フーゴーの『故郷を甘美に思う者はまだ嘴の黄色い未熟者である。…』という精神的超越性と寛容を象徴するアフォリズムを想起させずにおかない。その出所は恐らくはさらに遡り、イブン・フィーナーの『空中人間』へも至るのであろうが、偏狭なナショナリズムからも逃れ、ディストピアへ迷い込まないためにも、尾崎たち『複雑な』コミュニストのユートピアへの道を再び探るべきなのではないか。」などと結論付けられていましたが、こちらの頭が悪いせいで、残念ながら理解できませんでした。もっと勉強して出直します。

愛知大東京霞ヶ関オフィス

 次の登壇者は、北海道新聞の大澤祥子記者で、演題は「曾祖父鈴木富来のゾルゲ事件捜査記録をみつけて」でした。道新の夏の企画に「記者がたどる戦争」があり、大澤記者は今春、埼玉県の祖父の自宅で、曾祖父の私家版の遺稿集(非売品)を見つけ、その中に「ゾルゲ事件捜査記録」が出てきて吃驚。曾祖父鈴木富来(1900~85年、85歳で死去)は戦時中、特高に在籍しゾルゲ事件に関係していることまで伝え聞いていなかったからでした。

 そこで、大澤記者は、このゾルゲ=尾崎研究会の代表でもある加藤哲郎一橋大学名誉教授に遺稿集の「鑑定」を依頼したところ、とてつもない歴史的価値がある資料だということが分かり、北海道新聞の今年8月11日から3回に渡って連載記事を出稿したのでした。

 「鈴木富来 遺稿集」は富来が亡くなった後の1986年に、富来の長男が編纂したものでした。鈴木富来は戦後、公安調査庁などで勤務していましたが、戦前は警視庁特高警察部外事課に勤務し、ゾルゲ事件では、同課欧米係の捜査主任警部として、中心人物の一人であるブランコ・ブーケリッチの捜査に当たった人でした。クロアチア出身のブーケリッチはパリ大学を卒業し、7カ国語に堪能で、ユーゴスラビアのポリティカ紙特派員として1933年に来日し、仏アヴァス通信の東京駐在記者も勤めながら諜報活動をし、41年に逮捕され、45年に網走刑務所に服役中に40歳で病死した人でした。その間、東京・水道橋の能楽堂で知り合った山崎淑子さんと再婚し、子息洋さんを授かっています。(最初の妻エディットとの間の長男ポールさんは今年10月に91歳で豪州で亡くなりました。)

 鈴木富来の曾孫に当たる大澤記者ら遺族にとって、一番気掛かりだったことは、悪名高い特高ゆえ、曾祖父がヴーケリッチを取り調べた際に拷問したのではないか、という疑惑でした。しかし、そのようなことはなかったという結論に達したことは、遺稿集を鑑定した加藤氏も断言しておりました。特高の中でも外事課は外国人被疑者を扱うため、日本人より極めて優遇し、遺稿集の20ページには「(当時の日本人留置者は1食30銭だったのに)食事は1日3食で5円の洋食。取調室にはストーブを焚かせた。上司の命令もあって自白の強要とか拷問とか行われた事実は全くなかった」という記述もあるほどです。(ただし、ブーケリッチの子息である山崎ブーケリッチ洋氏は現在、セルビアにお住まいで、大澤記者とのメールのやり取りの中で、極寒の網走で正座させられたりしたことは拷問と同じ、等と反論されたようです。)

 何よりも、遺稿集では「ゾルゲ諜報団事件発覚の端緒となったのは北林トモの検挙が事実である」とし、元日本共産党政治局員だった伊藤律が端緒になったという説は誤りで、「伊藤律は満鉄調査部で尾崎と同じ職場で働いていたことは事実だが、尾崎をスパイだと知っていた証拠はない」とまで書いています。「伊藤律ユダ説」は戦後長い間、尾崎秀実の実弟で評論家の尾崎秀樹や松本清張らによって主張されていましたが、近年になって「偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊」(1993年)の著書がある渡部富哉氏や伊藤律の子息である伊藤淳氏らの粘り強い調査で「冤罪」であることが証明されましたが、この1986年の非売品である遺稿集が、同年に世間に公表されていたら、伊藤律(1913~89年)が存命中に名誉回復されていたかもしれません。

新橋駅前 古本市

 最後に登壇されたのは、ベルリン在住の国際的ピアニスト、原田英代さんで、演題は「オペラゾルゲをめぐって」でした。私は不勉強で、ゾルゲのオペラがあることは知りませんでしたが、この作品は原田さんの義父に当たるオスカー・ゲイルフス(1933~81年)が8年かけて作曲し(台本はカザフスタンの詩人オルシャス・スレイメノフ)、1975年に初上演されたものでした。(資料では、ゲイルフスがハイルフォスになったり、ハイルフェスになったりしてますが、一応、ゲイルフスを採用します。)

 ゲイルフスは大変複雑な生涯を送った人で、いわゆるロシア・ドイツ人と呼ばれる民族の末裔としてソ連のオデッサ近郊で生まれ、1941年の独ソ戦を機に一家は西へ逃避しますが、途中でソ連兵に捕まり、シベリアに送られます。その後、一家はカザフスタンに亡命し、オスカー少年はアルマアタ音楽院で作曲を学ぶことが出来ます。その後、三つの交響曲、二つのピアノ協奏曲などを作曲しますが、1980年に東独に移住したことで、ソ連国内での彼の作品の上演、演奏は禁止されます。81年に西独に移住しましたが、そこでどうも不可解な交通事故で亡くなりました。KGBによる暗殺ではないかという噂が絶えないそうです。

 ゲイルフスの息子であるオスカーさん(原田英代さんの夫)は、幼少の頃、父親が「戦争反対のためにこのオペラを書いた」という言葉を鮮明に覚えているといいます。

華麗なる大学教授南博=第53回諜報研究会と早稲田大学20世紀メディア研究所第170回研究会との合同開催

 10月28日(土)、早稲田大学で開催された第53回諜報研究会に参加して来ました。早稲田大学20世紀メディア研究所(第170回研究会)との合同開催で、社会心理学者として著名な南博・一橋大学名誉教授(1914~2001年)がテーマでしたので、「あれっ?諜報研究なのかなあ…?」と思いつつ参加しました。後で何故、合同開催になったか分かりましたが。

 それは、諜報研究会を主催するインテリジェンス研究所の理事長を務める山本武利早稲田大学・一橋大学名誉教授の恩師が南博一橋大学教授だったからでした。そのため、今回の研究会の講師として登壇しました。でも、山本氏は、近現代史とメディア論が専門の歴史学者のイメージが強く、社会心理学とは程遠い感じがします。その理由も、山本氏の話を聞いて後で分かりました。

 それは、ちょっと書きにくい話ではありますが、山本武利氏が、一橋大学の南博ゼミの大学院生時代に、文芸評論家でもある谷沢永一・関西大学教授がある雑誌で「南博氏には実証的研究に欠ける」といった厳しく批判する論文が掲載されました。それを読んだ山本氏は、「その通りだなあ」と同意してしまったらしいのです。そのことを耳にした南博教授は、山本氏に対して冷ややかな態度を取るようになったといいます。「世界」「中央公論」「朝日新聞」などマスコミに引っ張りだこで大忙しの南教授には編著書が多くありますが、資料集めなどの「下請け」を大学院生に「仕事」として回すことが多かったのですが、それ以来、山本氏には全く声が掛からなくなったといいます。(ただし、山本氏は最後まで南博が設立した社会心理研究所には出入りしていたそうです。)

 そりゃそうでしょう。アカデミズムの世界はよく知りませんけど、親分が白と言えば、子分は、黒でも、へえー白です、と言わなければならない不条理な世界が組織というものです(苦笑)。教授の業績を否定する言説を肯定してしまっては、教授に反旗を翻すようなものです。それ以降、山本氏は、南教授の「正統な弟子」?ではなくなり、社会心理学とは違った独自の道を歩むことになったと思われます。これは、私が勝手に思っているだけではありますが。

 南博氏は、「進歩的文化人」と言われ、マルクス主義者ではありませんが、やや左翼がかった思想の持ち主だったと言われます。しかし、実生活は、お抱え運転手付きの高級車に乗り、多くの人気女優と浮名を流すなど、ブルジョア階級だったようです。それもそのはず、南博氏の御尊父は、赤坂で南胃腸病院を開業する医師で、癌研究会の理事長を務めるなど権威でした。(南胃腸病院はその後、築地のがん研究センターに)南博氏は真珠湾攻撃直前の1941年に米コーネル大学に留学するなどかなり裕福な家庭に育ったと言えます。妻は劇団青年座の女優東恵美子で、2人は「自由結婚」「別居結婚」とマスコミを賑わしました。

 研究会の前半では、鈴木貴宇・東邦大学准教授が「モダニズム研究から日本人論へ:南博と欧米における日本研究の動向」という演題で講演されました。実は、私は南博の著作は1冊も読んだことがないので、よく理解できなかったことを告白しておきます(苦笑)。南博のモダニズム研究や日本人論や社会心理学に関して、国内では、「(社会心理学の)中味がつまらなければつまらないほど」(見田宗介「近代日本の心情の歴史」)とか、「確かに日本人論のレファレンス・ブックを網羅的に列挙したのは申し分ないのだが、取り上げられた日本人論への著者のコメントがあまり見られない」(濱口恵俊による南博著「日本人論」の書評)などといった南博氏に対する批判が紹介されていましたが、同時に海外では南博の著作に影響を受けた米国人研究者が、2000年代初めに次々と日本のモダニズムに関する書籍(Miriam Silverberg “erotic grotesque nonsense” , Barbara Sato ” The new Japanese Woman” , Jordan Sand “House and home in modern Japan”)を出版していることも列挙しておりました。

 そう言えば、マスコミの寵児的学者だった南博教授の直弟子の一人に、後に作家、政治家になる一橋大生の石原慎太郎がおりました。石原氏の実弟は、言わずと知れた大スターの石原裕次郎です。そんな関係で南教授も芸能界に多くの友人知人を持ったのではないかと思われます。これも、私の勝手な想像ですけど。

 以上、勝手な憶測ばかり書いてしまいましたが、これでも書くのが大変で、かなり時間が掛かってしまいました。

世界史的に見ても稀有な超大物スパイ=オーウェン・マシューズ著「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」を読了しました

 「新資料が語るゾルゲ事件」シリーズ第2弾、オーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房、6270円)をやっと読み終わりました。途中で図書館で予約していた本が2冊も届いたので、途中何度か休止していたので、読了するまで25日間掛かりました(苦笑)。人名索引まで入れれば、540ページ以上ありますから熟読玩味すればそれぐらい掛かるでしょう。

 私は校正の仕事もしておりますので、どうも誤字脱字に関しては、小姑のように指摘したくなります。職業病だと思って、堪忍してください。何カ所かありましたが、特に気になったのは、129ページで「地政学雑誌」編集者の名前が、クルト・フォヴィンケルになっていますが、135ページ以降ではクルト・ヴォヴィンケルになっているのです。「フォ」と「ヴォ」の違いですが、日本語では別人になってしまいます。

 そう言えば、思い出すことがあります。私は映画監督のルキノ・ヴィスコンティが大好きなのですが、彼の代表作に「神々の黄昏」があります。楽聖ワーグナーのパトロンである狂王のバイエルン王の話です。その主人公の名前がタイトルになっていますが、当初は「ルードウィッヒ」でしたが、そのうち訂正されて「ルートヴィヒ」となりました。ドイツ語の Ludwigをどう発音するかですが、当初は英語読みしていたのかもしれません。やはり、現地語読みが正しいはずです。日本の映画配給会社にドイツ語が堪能な方は少ないかもしれませんが、頑張ってほしいものです。

 私は学生時代にフランス語を専攻した「仏語屋」なので、本書で335ページで気になる箇所がありました。ヴーケリッチが東京で勤務した通信社アヴァスがありますが、ここでは「ハヴァス」と誤記されているのです。アヴァス通信社は現在のAFP通信社に引き継がれた近代通信社では世界最古(1834年創業)と言われ、ここから英国のロイター通信(1851年創業)などが独立しています。アヴァス通信の創業者はCharles-Louis Havas で、フランス語のH(アッシュ)は発音しないので、Havasは「ハヴァス」ではなく、「アヴァス」と発音します。

 やはり、小姑のように細かくて失礼しました。

 内容については、英国人の父とロシア人の母を持つオックスフォード出身の英国人ジャーナリストが書いた現在手に入るゾルゲ伝の最高の出来と言えそうですが、日本人の研究者から見ると少し物足りない感も無きにしも非ずです。ロシアの公文書館での資料分析はなかなか日本人は出来ませんが、最近の日本では、みすず書房の「現代史資料 ゾルゲ事件」全4巻(小尾俊人編集)の「定番」に加え、思想検事・大田耐造が遺した「ゾルゲ事件史料集成」全10巻(不二出版)なども公開されるようになり、事件に関する「新発見」も表れているからです。

 ゾル事件に関して、日本人は、やはり、満洲やノモンハン事件、対ソ戦戦略、対米戦争について一番関心がありますが、欧州のジャーナリストの手になると、当然のことながら「独ソ戦争」の話に重点が置かれている感じがしました。これは、ヒトラー率いるナチス・ドイツが、独ソ不可侵条約を締結しているにもかかわらず、「バルバロッサ作戦」と極秘に計画されたソ連侵攻(41年6月22日)ですが、オット駐日ドイツ大使に深く食い込んだ「ジャーナリスト」ゾルゲが見事にスクープするのです。もっとも疑心暗鬼の塊の「粛清王」スターリンからは信用されませんでしたけど。

 でも、この独ソ戦争は、世界史的に見れば特筆に値するほど壮絶で悲惨な戦争でした。何しろ、ドイツ軍の戦死者は約350万人、ソ連軍約2700万人で合わせて約3000万人もの死者を出しています。特にソ連の戦死者は人口の約16%。ロシア人が「大祖国戦争」と呼ぶのも無理もありません。

 この独ソ戦の最中に、大日本帝国軍が北進してシベリアに攻め込んだりしたら、歴史にイフはありませんが、恐らくソ連は崩壊していたことでしょう。それほど、日本軍が「北進するか南進するか」はソ連赤軍第4部のスパイ・ゾルゲにとって最大の関心事でした。これも、近衛内閣嘱託で政権の中枢にいた元朝日新聞上海特派員の尾崎秀実によって「南進情報」が齎され、ソ連軍にとってドイツ戦だけに集中できる多大な貢献をしたわけです。

 ゾルゲは確かに、ソ連赤軍第4部の情報将校ではありましたが、ドイツ新聞「フランクフルター・ツァイトゥング」等の契約特派員とナチス党員を隠れ蓑に、ドイツ大使館に「特別席」が用意されるほど食い込みました。この本を読むと、ナチス親衛隊上級大将だったシェレンベルクやドイツ国家秘密警察ゲシュタポのマイジンガー大佐らはスパイではないかという疑いつつも、ゾルゲをドイツ大使館から追い出すことなく、銀座での飲み仲間になったりしています。さらには、何なのか具体的には書かれていませんでしたが、ゾルゲはソ連や日本の機密情報をシェレンベルクらに伝えたりしています。

 となると、ゾルゲはソ連のスパイではありますが、本人が好むと好まざるとにかかわらず、結果的にはドイツと日本を含めた三重スパイだったと私は思いました。何故なら、私も経験がありますが、ジャーナリストとして相手に取材する際、どうしても相手が話したがらない情報を聞き出したい時は、こちらが持っている極秘の情報を小出しにして教えて引き出すことが取材の要諦でもあるからです。だから、国際諜報団の一員であるヴーケリッチも尾崎秀実も宮城与徳らにも同じようなことが言えます。

 著者は最後に「ゾルゲは欠点だらけの人物だが、勇敢で聡明で、執拗なまでに非の打ち所なきスパイであった」と結論付けています。私もこの見解に賛同するからこそ、「三重スパイ説」は、疑いないと思っています。それが彼を貶めることはなく、世界史的に見ても稀有な、今後も出現することはない超大物スパイだったという威信は汚れないと思っています。

船着場は古代、「戸」と呼ばれていた=吉見俊哉著「敗者としての東京」

 待ちに待った吉見俊哉著「敗者としての東京」(筑摩選書、2023年2月15日初版)を読んでいます。「待ちに待った」というのはどういう意味なのかお分かりですよね?(笑)2週間以内に返却しないといけないので、目下半分ほど読み進んでいたオーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房)は休止しております。そんなこと、いちいちお断りする必要はないかもしれませんが(笑)。

 I read promiscuously.

 「敗者としての東京」は実に面白い、と太鼓判を押しておきます。これでも、東京~江戸に関する地層(武蔵野台地など)に関して、ある程度知っているつもりでしたが、本書で初めて知る事も沢山ありました。もっとも、この本は、かなり先行研究からの引用が多く、また、私が以前読んだ文献とは異にする見解を取り入れたりしていますが、大変読み応えがあります。

 以下は私が知らなかったことを列挙していきます。

東銀座「宝珠稲荷神社」

 ・古代、朝鮮半島からの渡来人たちは東京湾内にも入って来た。船を停めるのに適した場所は船着場から湊となり、それらは一般に「戸」と呼ばれた。実際東京湾岸から利根川にかけて、松戸青砥(かつては青戸)、花川戸(浅草)などがあるが、渡来人が湊として利用していたと考えられる。また、今の杉並区の高井戸や清瀬市の清戸なども川の船着場だったと考えられる。

 ・最初に渡来人が関東進出の拠点としたのは、浅草の浅草寺で、浅草観音は628年創建と伝わる。このほか、多摩川流域の狛江の狛は「高麗」と推測され、埼玉県新座市は「新羅」から由来すると言われる。

 ・埼玉県高麗郡(日高市、飯能市、鶴ヶ島市の全域と、狭山市、川越市、入間市、毛呂山町の一部)は高麗神社高麗川などがある。戦乱を逃れて渡来した高句麗人が716年に武蔵国に集められて出来た。(この項は、この本には書かれていません)

 ・荒川の「荒」は、古代朝鮮半島の東南部にあった「安羅(あら)国」の安羅に由来するという説もある。

銀座「マトリキッチン」

 ・鎌倉時代、江戸前島(今の東京日本橋から銀座辺りの島)に開かれた港は江戸湊と言われ、浅草とともに交易の中継地として栄えていた。西国から様々な商品が運び込まれ、利根川上流で採掘された鉱物資源や飼育された馬が江戸湊から西国に売られていった。この要衝を秩父平氏の中心をなした江戸氏が支配していた。しかし、源頼朝は江戸氏の勢力を削ぐために、現在の兵庫県尼崎で水運業をしていた矢野氏を連れてきて、江戸前島から浅草にかけての一帯を支配させた。この矢野氏は摂津国池田の多田荘を根拠地にした清和源氏の流れを汲む多田源氏。多田荘には多田銀銅山があり、そこで採掘された鉱物を鍛冶屋が武器や貴金属にしていた。川筋では牛馬が飼育され、皮革の加工も盛んで、造船も行っていたという。

 ・この矢野氏は矢野弾左衛門と呼ばれる家系となり、浅草に巨大な屋敷を構えて、代々、皮革業者や芸能民ら被差別民の総元締めになった。(弾左衛門は幕末まで13代続いた=この項目は、この本には書かれていません。詳細は、部落解放同盟東京都連合会のホームページをご参照ください)

 長くなるので、本日はこの辺りで止めておきます。著者の吉見氏は「序章」の中で、「富と人口が集中し、世界最大規模を誇る都市東京は、少なくとも3度占領されてきた。1590年の家康、1868年の薩長連合軍、1945年の米軍によってである」と書いております。「1868年の新政府軍」と書かずに「薩長連合軍」と書き、「1945年の進駐軍」とは書かずに「米軍」と書くところは私も共鳴します(笑)。江戸の街は、徳川家康がつくった、と言われているのに、わざわざ、占領者として「1590年の家康」と著者が挙げたのは、江戸は、家康の前に後北条氏が治め、それなりの交易や神社仏閣などの文化もあり、古代には秩父平氏の江戸氏が治めていた時代もあり、何も、徳川家康が初めて江戸を文明化したわけではないことを意味しているんじゃないかと私は捉えました。

 【追記】

 途中、後半の第7章辺りから、著者吉見俊哉東大教授の個人的なファミリーヒストリーとなり、あれれ?と拍子抜けしてしまいました。私もこの渓流斎ブログで取り上げたことがありますが、あの有名な闇の帝王・安藤昇さんは、著者の吉見氏の親戚だということで、「ヤクザ安藤昇とその周辺」に関して、かなりのページ数を費やしておりました。親戚というのは、安藤昇さんは、吉見教授の祖母の妹山田知恵の長男だということです。

明智光秀の私怨だったのか?=日本史最大のミステリー「本能寺の変」

 日本史最大のミステリーの一つは「本能寺の変」ではないでしょうか。天正10年(1582年)6月、明智光秀が織田信長を急襲した下剋上事件です。

 光秀は重臣として「後入り」なのに、家臣団の中では最初の城持ち(坂本城)になった出世頭なのに、何故、信長を裏切ったのか? 関白太政大臣も務めた近衛前久黒幕説、羽柴秀吉黒幕説、長宗我部元親黒幕説…等々色んな黒幕説や、安土城での徳川家康の接待で粗相があったとして、信長から家臣たちの面前で叱責されて恥をかかされた恨み説などがありますが、真相は不明です。また、信長の遺体が京都・本能寺の現場から見つからなかったということがミステリーに一層の拍車をかけています。

 そんな中、10月11日付の毎日新聞朝刊の紙面で、感染症が専門の早川智日大医学部教授が、「悲劇的な最期を遂げた織田信長」というタイトルで寄稿されており、その中で「信長も降伏を申し入れて来た丹波の波多野兄弟を安土城に招いて斬殺するなど、やっていることはあまり変わりない。このとき、波多野家の城内で降伏交渉の人質になっていた明智光秀の母親が報復として殺害されており、本能寺の変の原因の一つという説もある。」と書かれていたので吃驚です。

 勿論、こちらの不勉強ではありますが、そんな話聞いたこともありませんでした。となると、色んな説がありましたが、光秀が打倒信長を決意したのは、信長の狂気のサディズムにより、結果的に母親が殺されてしまったという怨恨で、その報復に他ならないではありませんか。黒幕なんかいません。私怨です。これで決まり。でも、これまで歴史学者は何をやっていたんでしょうか?今の歴史学者だけでなく、江戸時代、明治から昭和にかけて歴史学者なら知らないはずありません。何故、この「私怨説」が定着しなかったのでしょうか?

 感染症専門の医学部の教授が知っているのに現代の歴史学者が知らないとしたらおかしな話です。

1956年創業の銀座「デリー」ターリー1200円 量多かったす。本文と全く関係ないやんけ!

 そんなわだかまりを持って、ここ数日間、過ごしていたら、たまたま、ネット上で、歴史と文化の研究所代表の渡辺大門さん(文学博士)という方が「【戦国こぼれ話】織田信長が明智光秀の母を見殺しにして、八上城の波多野氏を磔刑したのは真っ赤な嘘」と題する記事を発見しました。投稿されたのは、2年も前の2021年10月17日付です。それによると、明智光秀は波多野氏に自分の母親を人質として送り込む必要はないし、そんな事実は一次史料では確認できない、と結論づけているのです。

 渡辺氏によると、光秀の母親が殺害されたという逸話が載っている文献は、本能寺の変から100年も経った遠山信春著「総見記」(1685年頃)で、史料的に問題が多いとされる小瀬甫庵の「信長記」を元に増補・考証し、脚色や創作が随所に加えられているといいます。

 あれれれ? 光秀の母親人質殺害事件はなかったということですか? だから「なかった」ことは史実として定着し、一般人には知れ渡ることはなかったということなのでしょうか?

 何だか割り切れませんが、少なくとも、早川智日大医学部教授も毎日新聞の編集記者もデスクも、渡辺大門氏の2年前の記事を読んでいなかったことはほぼ確実です。もし、読んでいても敢えて書いたとしたら、まだ、歴史学会では、「光秀の母親、人質殺害」は一つの説として残っているということなのでしょうか?

 何だか分からない。これだから歴史は曖昧で、よく分からないですねえ。

 

念願の「銀座ライオン」で歓談=ゾルゲやマッカーサーまで利用した

 10月13日(金)、やっと念願の「銀座ライオン」に行くことが出来ました。当初は9月に行く予定でしたが、台風接近を理由に延期になっておりました。参加したのは小生のほか、会社の同僚のY君とM君でした。一人でビアホールに行ってもしょうがないですからね(笑)。

 当初は、この銀座ライオンが、戦前の昭和9年(1934年)、大日本麦酒(現サッポロビール)本社ビルとして菅原栄蔵の設計で創建され、戦災を逃れて、歴史的建造物(現存する日本最古のビアホール)として現在も残っている姿を見たかったことと、内部に装飾された大塚喜蔵製作のステンドグラスを是非とも観たいというのが目的でした。

1934年創業、菅原栄蔵設計「銀座ライオン」 大塚喜蔵製作のステンドグラス「豊穣と収穫」

 そしたら、その後、色々と調べていったら、あのスパイ・ゾルゲもこの銀座ライオンを利用していたことが分かり、急に身近に感じてしまいました。ゾルゲは、こじんまりとしたバーの方を好んで、広いビアホールはあまり自分の趣味ではなかったようでしたが、ゾルゲが来日したのは1933年9月13日のことです(その後、8年間、東京で諜報活動)。銀座ライオンはその翌年の34年4月8日に開業しますから、ゾルゲは出来立てホヤホヤのビアホールを楽しんだことになります。

 また、GHQのマッカーサー元帥も好んで、銀座ライオンに通っていたようです。これまた、よく調べてみると、米軍は、もともと、戦後占領政策を見込んで空爆をしていたらしく、銀座7丁目のライオンは戦後、米兵の慰安施設として使うためにわざと爆撃を避けたという説があり、「なあんだ」と思ってしまいました。

 爆撃を避けたのは、他に、銀座では三越や松屋百貨店、和光などですが、これらは軍隊内の食料や日用品を購入する「PX」として使うためでした。また、銀座の隣りの明石町の聖路加病院は、占領期にに米軍の病院として使うために残しました。さらには、GHQの本部として使うために、日比谷の第一生命本社ビルも爆撃せずに残したことは、皆さんも御存知の通りです。

 大日本帝国の帝都に関する情報は、米軍によって丸裸にされていて、「日本の家屋は紙と木で出来ているので焼夷弾もあれば焼き尽くせる」とのカーティス・ルメイ将軍の指揮の下、赤子の手をひねるように、10万人もの無辜の民が火の海で殺戮されたことを学校の教科書で習うことはない日本人はほとんど知りません。

 また、このルメイに対して、日本政府(佐藤栄作内閣)が1964年に、勲一等旭日大綬章を授与しています。航空自衛隊の育成に功があったという理由らしいですが、本来なら、被害者が加害者の戦争犯罪人に勲章を授与することなどあり得ないはずです。「永久敗戦国」の哀しみがあります。

新富町「松し満」エビフライ定食1000円 本文と関係ないやんけ

 ということで、ビアホールでの3人の話題は、米軍占領政策から鎌倉時代の御家人の話、芸能界や差別の話、米軍による暗号解読で山本五十六長官が撃墜された話など多岐に及び、久しぶりに大いに歓談することが出来ました。

【追記】2023年10月16日

 聖路加病院は、1938年5月14日、ゾルゲが東京・米大使館近くで過度の飲酒によるバイク事故を起こして重傷を負った時に、運び込まれた病院でもありました。「スパイ・ゾルゲ 東京」で本が書けそうですねえ(笑)。

ゾルゲが愛した銀座のバー、レストラン=情報提供求めます

 相変わらず、オーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房)を読んでおります。

 昭和8年(1933年)9月13日、ソ連赤軍第4部の諜報工作員、リヒアルト・ゾルゲは、前任地の上海での任務を終え、モスクワからベルリン、米国、カナダを経由して横浜港に上陸します。この時、「2年間の任務」の約束だったはずの諜報活動が、逮捕されるまで8年もの長期に渡ること(プラス3年間の巣鴨刑務所拘置)をゾルゲは知りません。

銀座電通ビル 1936年、日本電報通信社(電通)は聯合通信社と合併させられ、同盟通信社となった。戦前は、同盟通信の一部(本体は日比谷の市政会館)と外国の通信社・新聞社が入居 ドイツ紙特派員ゾルゲと、諜報団の一員アヴァス通信社(現AFP通信)のブーケリッチもこのビル内で働いていた

 独新聞社特派員を隠れ蓑にした東京でのおどろおどろしいスパイ活動は、既に何百冊もの本に書かれていますので、何か、変わった趣向はないかなあ、と思いながらこの本を読んでいました。そしたら、尾崎秀実を含めたゾルゲ諜報団は、バーやレストランに関して、かなり高級店を利用していることが分かりました。特に、ゾルゲに関しては、「酒」と「女」で情報収集に励んでいたことがモスクワ当局にでさえ知れ渡っていました。まさに、007ジェームズ・ボンドです。

 私は以前、この渓流斎ブログで「スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店『ケテル』と『ローマイヤ』」(2021年3月19日)を書いたことがあり、大変好評で、コメントまで頂いたことがありました。

銀座並木通りの対鶴ビルにあった「ローマイヤレストラン」の店頭に立つローマイヤさん(「ローマイヤレストラン」の公式ホームページから)※安心してください。お店の店長さんからブログ転載を許諾してもらいました!

 こんな感じで、マシューズ著「ゾルゲ伝」に出てくる東京・銀座の飲食店を探索しようかと思いましたら、残念ながら、90年もの歳月が経てば、もう跡形も痕跡すら残っていません。著者によると、1934年当時、銀座界隈には2000軒以上のバーがあったといいますが、ゾルゲの行きつけの飲食店等として、例えば、こんな店が出てきます。

 1、銀座のドイツ料理店「ローマイヤ」、ヘルムート・カイテル(ケテル?)が経営するドイツビアホール兼バー「ラインゴールド」

 2、銀座のバー「こうもり」

 3、1934年創業の「銀座ライオン」(今も当時の建物のままあります!ゾルゲはもっとこじんまりとした本格的なバーの方を好んだとか)

 4、有楽町の「ジャーマン・ベーカリー」

 5、ゾルゲとヴーケリッチが定期的に会うことになった銀座のレストラン「フロリダ・キッチン」

 6、最新のタンゴが演奏された「フロリダ・ダンスホール」「シルバー・スリッパー」

 7、無線技師マックス・クラウゼンと待ち合わせをした数寄屋橋のバー「ブルーリボン」

 最初の1番の「ローマイヤ」と「ケテル」については、先述した「スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店『ケテル』と『ローマイヤ』」(2021年3月19日)で取り上げていますので、御面倒でもこちらをご参照ください。「ラインゴールド」は、ゾルゲの最愛の日本人伴侶、石井(三宅)花子が、「アグネス」の名前でバイエルン風の衣装を着てホステスとして働いていたドイツビアホールで、マシューズ著「ゾルゲ伝」によると、経営者はドイツ人のヘルムート・「パパ」・カイテル(中国のドイツ植民地青島出身で、第一次大戦で日本軍の捕虜となり、日本人女性と結婚し、1924年に「ラインゴールド」を開業)です。カイテルとは恐らく、ケテルと同一人物で、彼はドイツ料理店「ケテル」とドイツバー「ラインゴールド」の2軒を経営していたと思われます。「ラインゴールド」の場所は西銀座5丁目となっているので、銀座5丁目5の「ケテル」とは少しだけ離れています。「ケテル」は、駐日ドイツ大使オットーと食事、「ローマイヤ」は、独大使館海軍アタッシェ、ヴェネッカーらと食事に、「ラインゴールド」は石井花子らを目当てに個人的に通ったと思われます。

 2番目のバー「こうもり」に関しては、そこでウエイトレスとして働いていたケイコがゾルゲに恋をし、それを知らないゾルゲは美しい欧州人女性を店に連れて来たことから、ケイコは絶望して自殺を決意をするも、ドイツ人の経営者に止められた逸話も残っています。

かつて「ケテル」があった所(銀座並木通り) 今は、高級ブラント「カルチェ」の店になっています

 もっと詳しい情報がないものか、とネットで検索していたら、世の中にはマニアの方がいるもので、「スパイ・ゾルゲが愛したカクテル」というタイトルで、洋酒評論家の石倉一雄さんという方が2011年11月から翌月にかけて、8回に渡って連載されている記事を発見しました。ゾルゲがどんな酒を呑んでいたのか「推測」する話が中心ですが、当然ながら通ったバーについての記述もあります。

 「こうもり」については、ドイツ語で「フレーデルマウス」と呼ばれ、隠れ家的バーで、無線技士クラウゼンと毎週落ち合う店を、7番の「ブルーリボン」からこの「フレーデルマウス」に変更したといいます。石倉一雄氏はとてつもない人で、この「フレーデルマウス」(ふくろう)に関しては、織田一麿のリトグラフ作品に「画集銀座第一輯/酒場フレーデルマウス」(1928年)という作品があり、東京国立近代美術館で見られると紹介しています。あのホステスのケイコさんの命を救った経営者はドイツ人のボルクと書いています。凄い人ですね。

 7番の数寄屋橋の「ブルーリボン」については、石倉氏は、日本バーテンダー協会の会誌「ドリンクス」の落合芳明編集次長の「『ブルーリボン』には一瓶30銭のビールを頼めば無料で食べられるサンドイッチがあった」という証言から「当時の一流バーの一軒だったと推すことができる」と書いております。

 また、6番の「シルバー・スリッパー」は、「外国特派員が頻繁に訪れていた」と書いていましたが、何処にあったかについては書かれていませんでした。

銀座8丁目に現在もある舶来品専門店「オサダ」。この辺りにゾルゲが利用した「フロリダ・キッチン」があったと思われます。銀座の同盟通信社の目と鼻の先です

 話は前後しますが、ゾルゲとヴーケリッチが会っていた5番のレストラン「フロリダ・キッチン」は、これまたネット検索すると、銀座8丁目5の輸入洋品店「オサダ」(今もあります!)の隣りにあったようです。

 調査研究に長けた石倉氏は、モスクワからゾルゲに送られて来た諜報活動費は、今のお金に換算すると月額300万円だったことを明らかにしています。まあ、それだけあれば、銀座の高級バーを豪遊できるわけですね。

 いずれにせよ、1~7番に挙げたゾルゲが愛した銀座の飲食店の場所は、一部を除き、はっきり確定できません。もし御存知の方がいらっしゃれば情報提供して頂くと大変有難いです。小生が早速、現地(跡地)に足を運んで写真を撮って来ます。

銀座8丁目にある輸入品専門店「オサダ」

このように(笑)。

「山本五十六長官機撃墜の真相」と「通訳者と戦争犯罪」=第52回諜報研究会

 最近、加齢のせいか、自宅の居間から書斎に行った際、「あれっ?何を取りにに来たのだろう?」と、綾小路きみまろさんの漫談みたいなおめでたい世界に私自身も段々入って来ましたが、10月7日(土)、早稲田大学で開催された第52回諜報研究会に参加して来ました。

 「インテリジェンス効果のミクロ、マクロの諸側面」をテーマにお二人の著名専門家が登壇されましたが、参加者が思っていたよりそれほど多くありませんでした。(オンラインで30人ほど参加されていたようでしたが)「こんな面白い講義を聴かないなんて勿体ないなあ」と個人的には思いました(苦笑)。

講義で熱演される原勝洋氏

 お一人目は、戦史研究家の原勝洋氏(81)で、演題は「山本五十六聯合艦隊司令長官機撃墜の真相/乱数表の使いまわし」でした。このタイトルで大体の内容が分かると思いますが、太平洋戦争最中の1943年4月、前線視察に向かった山本長官の搭乗機が撃墜されたのは、米軍が日本海軍の暗号電を解読し、しかもその真相は日本海軍が暗号の乱数表を使い回していたことを米軍が見破った結果によるものだったということを、原氏自身が米ワシントンの公文書館で機密資料を発掘して明らかにしたのでした。

 この件に関しては、時事通信社の宮坂一平記者が、原氏に直接、何度もインタビューし、記事が今年8月に全国に配信されましたので、お読みになった方もいらっしゃると思います。(上の北海道新聞の記事もそうです)

 私は、編集局長賞ものの大スクープだと思いましたが、会社は夏の恒例の戦争企画か、「暇ダネ」扱いしかしてくれなかったそうです。酷い会社ですねえ(苦笑)。

 ま、それはともかく、原氏の話は、「ウルトラ」と呼ばれる超機密文書を米公文書館で発掘した苦労話が主でしたので、会場に参加した私は、珍しく質問しました。最大の疑問は、「何で日本海軍は暗号の乱数表を使い回しにしたのか」ということだったからです。

 それに対して、原氏は「日本海軍はこんな複雑な乱数表は破られるわけがないと確信していたのでしょう。でも、米国にはIBM(コンピューター)がありますから、乱数表を変えたり、順番を変えたりすれば解読できるわけですよ。それなのに、日本の海軍軍令部は米国人は解読できるわけがないと思い込んでいた」と仰るのです。なるほど、真珠湾攻撃で勝利した海軍は傲慢になっていたことが分かります。山本長官が撃墜される1年前に、ミッドウェー海戦での大敗があり、これが後世の歴史家から見れば「勝負の分かれ目」になりました。このミッドウェー敗戦も、暗号が米軍に解読されていたためだったことに日本海軍は気が付かなかったのでしょうか? 失敗から教訓を学んで改善しない限り、必然的に負けるはずです。

 お二人目は、立教大学異文化コミュニケーション学部・大学院研究科特別専任教授の武田 珂代子氏で、演題は「英軍戦犯裁判での通訳被告人による諜報活動」でした。個人的ながら、私自身も通訳の仕事をしたりしているので、「もし、自分が戦時中に通訳をやっていたら、戦後、裁判にかけられて処刑されていただろうなあ」と、他人事ではなく、身近に感じながら興味深く拝聴しました。

 お話は、武田氏が今年6月に出版されたばかりの「通訳者と戦争犯罪」(みすず書房)を中心に話されました。その前に、武田氏の経歴がちょっと変わっておりまして、米西海岸のサンフランシスコとロサンゼルスのほぼ中間にあるモントレー国際大学(現ミドルベリー国際大学モントレー校)御出身ということでした。この大学院は、私自身も含めて日本人にはほとんど知られていませんが、米国では「CIA養成学校」と噂されるほど、出身者の多くがCIAに就職しているそうです。

 さて、武田氏によると、ナチス戦犯裁判では20人の戦時通訳者しか被告人にならなかったのに、対日BC級戦犯裁判では、100人以上の被告人が出たというのです。特に一番多かったのが、シンガポールや香港などで捕虜が虐待されたという英軍裁判で、起訴された通訳者は39人(うち台湾人18人)だったといいいます。内訳は、軍人3人で、軍属・民間人が36人。英語は勿論、福建語やマレー語、広東語できる台湾出身者が重宝されたようです。裁判で有罪になった通訳者は38人(台湾人17人)で、死刑になった人は10人(台湾人6人)だったといいます。

 なぜ、単なる通訳者なのに、死刑に処せられるほど罪が重くなるのかという理由について、武田氏は、捕虜の拷問に際しての通訳や虐待への参加などで、被害者から「可視化」されて覚えられてしまうことと、戦犯の共同責任を問われることなどを挙げておられました。

 このほか、通訳だと語学が出来るので同時にスパイだと疑われる場合がありますが、実際に通者兼諜報員だった人の例も武田氏は何人か例を挙げていました。その一人が日系二世のリチャード・サカキダという通訳者で、この人は、あの山下奉文大将が最後の司令官を務めたフィリピンの第14方面軍司令部で、通訳をしながら、フィリピン・ゲリラに情報を流していたスパイだったといいます。

 日本人では、通訳者を装ったスパイとして、日露戦争開戦時に諜報活動をし、最後はロシア軍に捕獲されて処刑された横川省三や沖禎介らを紹介していました。

 さて、個人的には武田氏の「通訳者と戦争犯罪」(みすず書房、4950円)はちょっと難しそうなので、その前に、2018年に出版された同氏の「太平洋戦争 日本語諜報戦」 (ちくま新書、880円)を先に読んでみようかな、と思っています。

 この日登壇された原勝洋氏も武田珂代子氏も非常に精力的な研究者で熱弁に圧倒されましたが、お二人とも非常に根が明るく楽しそうな方だったので、難しい内容の講義も楽しく拝聴できました。

ゾルゲは「陸軍中野学校」出身みたいだった?=「新資料が語るゾルゲ事件」シリーズ第2弾、オーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房)

 長年のこの渓流斎ブログの御愛読者の皆さまならよく御存知かと思いますが、私は、長年、「20世紀最大の国際スパイ事件」と呼ばれる「ゾルゲ事件」にはまってしまい、このブログでも散々書いて来ました。(そのほとんどの記事は、小生の不手際で消滅してしまいましたが)

 関連書籍もかなり読み込んできたので、偉そうですが、何でも知っているつもりになってしまいました。そのため、しばらくゾルゲ事件関係から離れていました。そしたら、解散した日露歴史研究センターを引き継ぐ格好で、加藤哲郎一橋大学名誉教授らが昨年、「尾崎=ゾルゲ研究会」を立ち上げ、ほぼ同時に、みすず書房から「新資料が語るゾルゲ事件」シリーズ全4巻の刊行が昨年10月から刊行開始されたこともあり、その潮流に巻き込まれる形で、またまた小生のゾルゲ事件に関する興味も再燃してしまったのでした。

浮間舟渡公園

 ちょっと余談ながら、私が最近、《渓流斎日乗》でゾルゲ事件に関してどんなことを書いていたかピックアップさせて頂きます。

①2018年4月22日 「解明されたゾルゲ事件の端緒ー日本共産党顧問真栄田(松本)三益の疑惑を追ってー」

②2019年11月12日 「新段階に入ったゾルゲ事件研究=思想検事『太田耐造関連文書』公開で」

③2020年7月27日 「『ゾルゲを助けた医者 安田徳太郎と〈悪人〉たち』はお薦めです」

④2021年3月19日 「スパイ・ゾルゲも歩いていた銀座=ドイツ料理店『ケテル』と『ローマイヤ』」

⑤2022年3月20日 「『日ソ情報戦とゾルゲ研究の新展開』=第41回諜報研究会を傍聴して」

⑥2022年11月8日 「ゾルゲは今でも生きている?=『尾崎=ゾルゲ研究会設立第一回研究会』に参加して来ました」

⑦2023年1月12日 「動かぬ証拠、生々しい真実=アンドレイ・フェシュン編、名越健郎、名越陽子訳『新資料が語るゾルゲ事件1 ゾルゲ・ファイル 1941-1945  赤軍情報本部機密文書』」

⑧2023年1月18日 「ゾルゲと尾崎は何故、異国ソ連のために諜報活動をしたのか?=フェシュン編『ゾルゲ・ファイル 1941-1945 赤軍情報本部機密文書』」

⑨2023年10月1日 「使い捨てにされたスパイ・ゾルゲ?=尾崎=ゾルゲ研究会の第3回研究会「オーウェン・マシューズ『ゾルゲ伝』をめぐって」

 皆さまにおかれましては、わざわざ再読して頂き、誠に有難う御座います。

浮間舟渡

 我ながら、結構書いていたんですね。そして今、「新資料が語るゾルゲ事件」シリーズ第2弾、オーウェン・マシューズ著、鈴木規夫・加藤哲郎訳「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みすず書房、6270円)をやっと読み始めています。この本、今年の5月10日に初版が出ておりますが、初版、じゃなかった諸般の事情で出版されてから5カ月遅れで読み始めております。

 いやあ、実に面白いですね。著者はジャーナリストですが、まるで推理作家のように文章がうまいのです(翻訳のせい?)。(例えば、100ページに出てくる「少なくとも1ダースほどの別名で知られていた、このピク(本名エフゲニー・コジェフニコフ)は不謹慎な冒険者が多いこの街で、詭計を働く一人滑稽歌劇(オペラ・ブッファ)で既に名を馳せていた。」といったような凝った書き方)

浮間舟渡

 先程、私はゾルゲ事件に関しては何でも知っているつもり、などと偉そうに書きましたが、加齢とともに記憶力も急降下し、失語症か何かのように固有名詞が出て来なくなりました。脳細胞は一日、10万個消滅するらしいですから、忘れてしまったことが多いのです。そのため、この本は随分新鮮な気持ちで読むことができます。また、この本を読んで、自分が間違って覚えていたことも分かりました。

 決定的な間違いは、私は、ゾルゲが所属していた「赤軍第4部」という諜報機関は、かの悪名高いKGBにつながる、と思い込んでいたのでした。スパイと言えば、世界中の誰もが知っているKGBですからね。(勿論、プーチン露大統領の出身)著者のマシューズ氏は、ソ連の諜報機関について、かなり念入りに調べ上げているので大変な勉強になりました。

 簡略すると、まず、冷戦時代に活躍したKGBは、戦時中(1934~46年)はNKVD(内務人民委員会)と呼ばれ、その前は秘密警察GPU(国家政治保安部)という組織でした。NKVDやGPUは、ゾルゲ事件関係の本には必ず出てきます。これらはもともと、レーニンがロシア革命を成し遂げた直後に、全ロシア臨時委員会(チェカ)として発足されました。

 次に、コミンテルン(共産主義インターナショナル、1919~43年)の中に諜報機関OMS(国際連絡部)が設立されます。ゾルゲはドイツ人ですから、当初はこのOMSに所属していました。

 最終的にゾルゲが所属して上海、東京で活動したのはGRU(赤軍参謀本部情報総局)傘下の労働者・農民赤軍参謀本部第4部(赤軍第4部)でした。ゾルゲは、この組織を設立したヤン・カルロヴィッチ・ベルジン(1889~1938年、48歳で粛清処刑)からスカウトされたわけです。

 私は、このソ連の三つの諜報機関の「親玉」は誰なのか、と考えてみたら、まずKGBは「警察」、OMSは「共産党」、赤軍第4部は「軍部」だということにハタと気が付きました。つまり、大日本帝国の組織に当てはめれば、KGBは「特高」、赤軍第4部は「陸軍中野学校」に当たるのではないかと思ったのです。OMSは、朝日新聞を下野した緒方竹虎も総裁を務めた内閣の「情報局」に当たるかもしれません。当たらずと雖も遠からずでしょう。

 ゾルゲは「陸軍中野学校」出身かと思うと、急に身近に感じでしまいますよね(笑)。もっとも、同じく死刑になった盟友尾崎秀実は、ゾルゲはコミンテルンのスパイだと最後まで信じ込んでいたようですから、尾崎は、ゾルゲが「情報局」の人間だと思い込んだことになります。この違いは大きいですね。尾崎は軍人嫌いでしたから、もし、ゾルゲが「陸軍中野学校」だと知ったら、あれほどまで情熱的にゾルゲに情報を提供しなかったかもしれない、と私なんか思ってしまいました。

 

 

使い捨てにされたスパイ・ゾルゲ?=尾崎=ゾルゲ研究会の第3回研究会「オーウェン・マシューズ『ゾルゲ伝』をめぐって」

 9月30日(土)、尾崎=ゾルゲ研究会(加藤哲郎代表、鈴木規夫事務局長)の第3回研究会「オーウェン・マシューズ『ゾルゲ伝』をめぐって——21世紀尾崎=ゾルゲ研究の光景——」に参加して来ました。

 今年5月に出版された「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」(みずず書房、翻訳者は加藤哲郎、鈴木規夫両氏)の著者でロンドン在住のオーウェン・マシューズ氏をZOOM会議のリモートでお招きして、5人の代表する日本人の研究者からの質問を交えて討論が展開される画期的なセミナーでしたが、回線の不具合でハウリングしたりして、前半はほとんど聞き取ることが出来ず、内容が理解できなかったのが残念でした。

尾崎=ゾルゲ研究会第3回研究会 モニター画面は、「ゾルゲ伝」著者オーウェン・マシューズ氏、右端は同研究会の加藤哲郎代表、その隣は鈴木規夫事務局長

 しかも、セミナーには大抵、簡単なレジュメなどが配布されるものですが、この研究会ではそれがなく、また発言者の早口のスピーチだけではメモがとても追い付けなかったため、梗概についての引用は、不正確になるかもしれないものはやめておきました。

 その前に、研究会が行われた会場には驚きました。東京国際教育会館という所でしたが、最初の案内では、地下鉄茗荷谷駅に近い拓殖大学文京キャンパスと書かれていたので、そこに行ったら、守衛さんが「ここではなく、ここを出て左を直進した所にあります」というのです。途中で分からなくなり、歩いていた小学生の女の子3人がいたので、「3人だったら、変なおじさんに間違われなくて済むかぁ」ということで道を聞いたら、彼女たちも分からず、何となく右方向に直進したところ、目の前にありました(笑)。

 どう見ても、大正か昭和初期に建てられた立派な歴史的建造物です。この東京国際教育会館とは、この会場を提供して頂いた拓殖大学教授で、「ゾルゲ・ファイル(1941-1945)」(みすず書房)の翻訳者でもある名越健郎氏の話などによると、もともと東方文化学院東京研究所(東大東洋文化研究所)で、何と清朝末期の1900年に起こった義和団事件の賠償金で、1933年に建てられたものだというのです(後で、東大安田講堂などを設計した内田祥三の設計だと分かりました)。(他にも賠償金で京大人文科学研究所も銀閣寺近くに建設されたといいます)。義和団事件のことに触れると長くなるので、もし御存知なければ、独自で調べてください(笑)。東方文化学院は戦前、中国からの留学生も受け入れていたようです。

拓殖大学文京キャンパス 国際教育会館

 戦後、外務省と東大の共同管理となり、外務省の研修所としても使われていましたが、その後、近くにキャンパスがある拓殖大学が今から20年ほど前に購入したそうです(金額を聞きましたけど秘密にしておきます)。

 先の義和団事件で賠償金を得たのは日本だけでなく、例えば、米国もそうで、米国は、自国に賠償金を使うのではなく、そのお金で中国に精華大学を創立したというのです。精華大学と言えば、中国国家主席の習近平氏の出身校です。先日、英国の教育専門誌タイムズ・ハイヤー・エデュケーションが「世界の大学ランキング 2024」を発表しました。この精華大学は名門北京大学の14位を抑えて、世界12位(アジア首位)にランクされました。ちなみに、日本の東大は29位でした。習近平さんは米国がつくった大学を出たわけですから、もう少し、米国と仲良くしても良さそうです。

 あれっ? 尾崎=ゾルゲ研究会の話は何処に行ってしまったのでしょうか?ーブログ記者の力量が問われますが、今回は諸般の事情で詳細に書けませんので、堪忍してください。それより、オーウェン・マシューズ氏が「ゾルゲ伝 スターリンのマスター・エージェント」An Impeccable Spy: Richard Sorge, Stalin’s Master Agent を2019年に本国英国で出版したお蔭で、英国で多くの人にスパイ・ゾルゲの存在が知れ渡ったことを今回初めて知りました。ゾルゲはドイツ人の父親とロシア人の母親との間に生まれ、ソ連のスパイとして中国・上海と日本・東京で活動した人でした。ということは、情報公開が進まない中国は別格にして、当然、日本語とドイツ語とロシア語、または米ウィロビー報告などの文献が多いので、英国では研究者か、通好みの人以外はゾルゲは知られていなかったのでしょう。

 「ゾルゲ伝」の著者のマシューズ氏は、訳者解説などによると、1971年、英国人の父とロシア人の母との間にロンドンで生まれ、ロシア語にも堪能。名門オクスフォード大学卒業後、ジャーナリストになった人です。祖父や大叔父がスターリンの粛清期を体験したことから、殊更、ロシア近代史関係には興味があり、ニューズウィーク誌のモスクワ特派員を務めたこともあります。ゾルゲ研究の取材で何度も来日したことがあるようです。

 マシューズ氏は、この本を書くきっかけなどについて、「とにかくゾルゲは面白く興味深い人物だ。ドイツ人だが、(母親が)ロシア人でもあり、日本のことを大好きで、世界中の色んな人やモノとつながっている。彼は、大日本帝国など古い世界が崩壊する寸前の世界に生きていたが、1932年に来日した時は、将来日本と米国が戦争することなど予想もつかなかったのではないか。1930年代初めのソ連のインテリジェンスの状況は最も悲惨で、世界中に発信能力があった優秀なゾルゲを使い捨てにしたのではないか」などと話していました。(私の意訳も入ってます!)