「斗南藩ー泣血の記ー」(東奥日報社)を読んで

  高校時代、クラスで一番の人気者の小島君が本を贈ってくれました。松田修一著「斗南藩ー泣血の記ー」(東奥日報社、2020年3月20日初版)という本です。彼は現在、青森県で医療関係の仕事に従事しています。関東出身だと思いますが、すっかり「東北人」になりきり、愛郷心も半端じゃありません。

 高校時代の彼は、休み時間になると、いつも周囲から可愛がられ、口を尖らして「やめろよ、やめろよ」と大声を出していたことから、「タコ」と綽名を付けられていました。森崎君が付けたと思います。

 そんな彼も今では大先生です。彼とは、(仕方なく始めた)フェイスブックで数十年ぶりにつながり、FBを通じて、小生のブログを彼は愛読してくれているらしく、今回も「本を差し上げます。何もブログにアップしてもらうつもりはありません。売り上げに貢献したいだけです」とのメッセージ付きで送ってくれました。彼はジャーナリストと同じように、いやそれ以上に日々のニュースや歴史に関心があるようです。青森県を代表する県紙東奥日報を応援する気持ちが大きいのです。

 彼がこの本を贈ってくれたのは、恐らく、私が2018年2月25日にこのブログで書いた「『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』は人類必読書ではないでせうか」を読んでくれたせいかもしれません。実は、私もこの本で初めて「斗南藩」の存在を知りました。

 幕末、「朝敵」「賊軍」となった会津藩は、23万石の会津の地を没収され、作物も碌に育たない北僻の陸奥の極寒地3万石の斗南藩に追放されるのです。会津藩士で、後に陸軍大将になる柴五郎について書かれた前掲の「ある明治人の記録」の中で、

「柴家は300石の家禄であったが、斗南では藩からわずかな米が支給されるだけで、到底足りない。…馬に食べさせる雑穀など食べられるものは何でも口にした。…塩漬けにした野良犬を20日間も食べ続けたこともあった。最初は喉を通らなかったが、父親から『武士は戦場で何でも食べるものだ。会津の武士が餓死したとなれば、薩長の下郎どもに笑われるぞ』と言われて我慢して口にした。住まいの小屋に畳はなく、板敷きに稾を積んで筵を敷いた。破れた障子には、米俵を縄で縛って風を防ぐ。陸奥湾から吹き付ける寒風で、炉辺でも食べ物は凍りつく。炉辺で稾に潜って寝るが、五郎は熱病にかかって40日も立つことができず、髪の毛が抜けて、一時はどうなるか分からない状態になった。…」

 とまで書いておりました。そこまで悲惨な生活を強いられたのでした。

 藩祖保科正之(二代将軍秀忠の嫡外子で、三代将軍家光の異母弟)以来、天皇に対する尊崇の念が篤かった会津藩が、何故に「朝敵」の汚名を着せられなければならなかったのかー。そんな不条理を少しでも解明して、名誉を回復したい、といった義憤が、東北人である著者にこの本を書かかせるきっかけになったようです。藩祖保科正之は、四代将軍家綱の「将軍補佐役」として幕政の中心に就き、特に、明暦の大火で江戸市中が灰燼に帰した際、江戸城天守を再建せず、町の復興を最優先したことで名を馳せた人物でもあります。

 歴史のほとんどは「勝者」側から描かれたものです。となると、この本は、「敗者」側から描かれた歴史ということになります。そして、歴史というものは、往々にして、敗者側から描かれた方が誇張や虚栄心から離れた真実に近いものが描かれるものです。

 2年前のブログにも書きましたが、これほど会津藩が賊軍の汚名を着せられたのは、藩主松平容保(かたもり)が京都守護職に就き、新撰組などを誕生させ、「池田屋事件」や禁門の変などで、長州藩士や浪士を数多く殺害したことが遠因だと言われています。長州藩士桂小五郎はその復讐心に燃えた急先鋒で、宿敵会津藩の抹殺を目論んでいたといわれます。

 となると、会津藩が京都守護職に就かなければ、これほど長州からの恨みを買わなかったことになりますが、本書では、若き藩主容保が、何度もかたくなに固辞していた京都守護職を「押し付けた」のは、越前藩主で、政事総裁として幕政に参加していた松平春嶽だったことを明かしています。

 会津藩主松平容保は、もともと美濃の高須藩主松平義建の六男(庶子)でした。高須藩は、御三家尾張藩の支藩だったということもあり、容保の兄慶勝は尾張藩主、茂徳(もちなが)は高須藩主、尾張藩主、一橋家当主、弟の定敬(さだあき)は桑名藩主となり、「高須四兄弟」と呼ばれました。特に、末弟定敬は、京都所司代に任命され、京都守護職の兄・容保とともに京都の治安維持役を任されます。これが後に、薩長土肥の志士たちから「会津、桑名憎し」との怨嗟につながるのです。

 桑名藩は、徳川家康譜代の重臣で、四天王の一人と呼ばれた本多忠勝が立藩したので、徳川政権に最も近い藩の一つだと知っていましたが、幕末になって、会津と桑名にこのような関係があったとは…。色々と勉強になりました。

 幕末は、日本史の中でも人気が高く関連書も多く出版されています。しかし、殆どが勝者側の勤王の志士が主人公で、会津、桑名など時代遅れの先見の明のない無学な田舎侍扱いです。

 本書を読めば、そうでなかったことがよく分かります(つづく)。

マツタケも人類も絶滅危惧種?

 今朝の朝刊各紙で、「マツタケが絶滅危惧種として初めて指定された」という記事を読み、何か、「偶然の一致」の既視感を味わいました。

 私自身、高級食材マツタケとは、「縁なき衆生」(誤用)ではありますが、絶滅してしまう、というニュアンスにビクッと反応してしまったのです。

 というのも、昨日の日経夕刊の記事で、生物学者の池田清彦氏が人類の滅亡を予想していたからです。池田氏によると、これまで地球上に存在した生物の99%は絶滅したといいます。実に99%ですよ!! ほとんど全部じゃないですか。絶滅種といえば、すぐアンモナイトとか恐竜とか思い浮かびます。人類も700万年前に誕生し多くの種類がいましたが、ほとんど絶滅し、我々ホモサピエンスは人類最後の一種だといいます。記事には書いていませんでしたが、絶滅した人類とは北京原人とかネアンデルタール人とかのことでしょう。いずれにせよ、池田氏は「我々ホモサピエンスが遠からず絶滅するのは自明だと思います」と発言しています。

 マツタケどころの話ではありませんね。

 人類が滅亡したらどうなるんでしょうか?

 人類が生み出したあらゆるものー理性も知性も、科学も、歴史も、文明も芸術もなくなるということでしょうか?なくなることはないでしょうね。せめて化石として残るでしょう。書物やDVDとして残っても、それを理解する人類がいなくなったらどうなるか?といった方が問題です。池田氏は、一部の金持ちが自分の脳のシステムをAIにコピーして、不老不死のAI人間が取って代わると「予言」していますが、それって、人類なんでしょうか?

 遠からず、人類滅亡の日、その時は、老若男女、富裕層も貧困層も区別なく、権力者も弱者も分け隔てなく一様に滅びて、財産も名誉も勲章も、そして名声も全く意味がなくなると私なんか思っています。それじゃあ、生きている意味あるの? と皆さんは訝しがることでしょう。

 人生は無意味と言えば無意味だし、宗教や哲学で意味付けしようとすれば、それもできる、としか言いようがありません。

 不安や恐怖に駆られるのも人間だし、死亡率100%と「達観」できるのも人間です。

 でも、絶滅ともなると、それすら越えてしまいますね。はっきり言って、人類もマツタケと同じように、「絶滅危惧種」に指定してもおかしくないでしょう。これだけパンデミックが蔓延り、地球環境が悪化すれば。(40億年以上前から生存しているウイルスは、コウモリでもハクビシンでも生物に取りつくわけですから、絶滅することなく不滅なんでしょうか?)

 別に皆さんを不安や恐怖に陥れる目的で、こんな一文を書いたわけではありません。これだけ壮大な話になると、小さな、細々(こまごま)とした日々の悩みなんか吹き飛びませんか?

 人智を遥かに超え、私なんか、微苦笑さえ浮かびます。厭世観や不条理観に浸っていても、意味もないし、報われることもないからです。

 「だけども問題は今日の雨 傘がない」(井上陽水)

仏像とお経で仏教思想に触れる

高徳院阿弥陀如来坐像

 残りの人生、お城とともに、寺社仏閣巡りをすることを楽しみにして生きています。足腰がしっかりしているうちにあちこち回りたいのですが、段々しっかりしなくなってきたのが残念です(苦笑)。

 ところで、仏像を鑑賞すると仏さまの思想がよく分かりますーというのは、誰もが間違いやすいパラドックスです。

 その逆で、お経に書かれた仏さまの教えを忠実に再現したのが仏像だというのが正しいのです。とはいえ、我々は、仏像を通して、仏教を知り、救いを求めてお参りすれば、自然と頭(こうべ)が下がり、心が洗われます。これは、理知的ではなく、どちらかと言えば不可知的です。

 いずれにせよ、仏像は仏典を忠実に再現したものですから、「お決まり」があることを知っておかなければなりません。それさえ会得すれば、鑑賞の際に深みが増します。

 仏像には、大きく分けて4種類あります。

(1)如来=真理を得て悟りを開いた存在(釈迦如来など)

(2)菩薩=悟りを求めて修行の身(観音菩薩など)

(3)明王=如来の教えに従わない者を救済(不動明王など)

(4)=仏教に帰依した神々、守護神(梵天、四天王など)

また、仏教寺院に安置される「三尊像」にもお決まりがあります。三尊像とは、中央に如来を配置し、左右に脇侍と呼ばれる菩薩で固めます。

 釈迦如来像の場合、「陀羅尼集経(だらにじっきょう)」に従って、脇侍として、左に文殊菩薩(騎獅)像、右に普賢菩薩(騎象)像を配置します。そして、眷属(けんぞく=主尊に従って教えを広める手助けをする)として、阿修羅などの八部衆が控えます。

 「華厳経」最終章「入法界品」にはこの文殊と普賢が登場します。善財童子が、「智慧第一」の文殊菩薩の勧めに従って、延べ53人、全53カ所の善知識(仏道へと導いてくれる指導者)を訪ね歩き、最後に出会った普賢菩薩によってようやく悟りを得る話です。江戸時代の東海道は、この物語に因んで「五十三次」つくられたといいます。

 薬師如来像は、左に日光菩薩、右に月光(がっこう)菩薩を脇侍として配します。眷属は、伐折羅(ばさら)などの十二神将です。

 浄土教の阿弥陀如来像は、左に観音菩薩、右に勢至菩薩が脇侍です。日本人に最も馴染みが深い観音さまは、阿弥陀如来の脇侍だったんですね。来迎図でも描かれます。観音さまは、六道にも対応して、如意輪観音菩薩=天道、准胝(じゅんでい)観音菩薩、もしくは不空羂索観音菩薩=人間道、十一面観音菩薩=修羅道、馬頭観音菩薩=畜生道、千手観音菩薩=餓鬼道、聖観音菩薩=地獄道に当たります。

 華厳思想から生まれた毘盧遮那如来像には、左に虚空蔵菩薩、右に如意輪観音菩薩が脇侍として控えています。東大寺大仏殿もそういう配置になっていますが、私は、そこまで知らずにお参りしていました。

 と、ここまで読まれても、字面だけではよく分からないでしょう。私の場合、たまたま本屋さんで、釈徹宗監修「お経と仏像でわかる仏教入門」(宝島新書、2020年6月24日初版)を見つけて購入し、大変重宝しています。仏像などカラー写真が豊富に掲載され、色々と勉強になります。例えばー。

 極楽浄土と言えば、西方にあることは知っていましたが、それは阿弥陀さまの世界で、東方には浄瑠璃浄土があり、ここには病を癒してくれる薬師如来がおわします。人形浄瑠璃の浄瑠璃は、この浄瑠璃浄土からとったのでしょうか?

 56億7000万年後の未来に現れる弥勒如来は、兜率天浄土におられ、智慧を具現化し、物事に動じず迷いに打ち勝つ強い心を授けるといわれる阿閦(あしゅく)如来妙喜浄土におられるということです。浄土とは清浄国土、または清浄仏土の略で、ほかに、霊山浄土や十方浄土、天竺浄土、そして観音菩薩が降臨する補陀落(ふだらく)浄土などもありますが、浄土といえば、だんだん阿弥陀如来の西方浄土のことを指すようになったといいます。

 さて、私自身は、恐らく特定の教団の信徒や門徒や信者にはならないと思いますが、実は、寺社仏閣巡りをしながら、どの教団宗派が自分と阿吽の呼吸が合うか調べることも楽しみにしているのです。そのせいか、仏像や仏画を鑑賞するのも大好きです。西洋美術を鑑賞する際も、キリスト教の知識がないとさっぱり分からなかったので、そのために聖書をよく読んだものでした。

 仏教は何も、特定の信者のためだけにあるわけではなく、万人に開かれているはずです。私自身も煩悩具足の凡夫ですから、個人として、今後も寺院を参拝したり、仏教書に目を通すことは続けていきたいと思っています。

鎌倉大仏さま~鎌倉長谷観音 誓願記

 7月2日、鎌倉・ジタン館での「加藤力之輔展」を辞してから、梅雨の晴れ間に恵まれていたので、久しぶりに鎌倉大仏さまを拝顔することに致しました。

 10年ぶりぐらいですが、もう何度目でしょうか…。10回ぐらいはお参りしていると思います。(拝観料300円)

小学校5年生 秋の遠足 小生は前から3列目にいます。前列に吟さんもいますね。

 初めて行ったのが、もう半世紀以上昔の小学校5年生の10月の遠足の時でした。子どもですから、ここが高徳院(大異山高徳院清浄泉寺)という名前の寺院だということを知らず。長じてからも、この高徳院が法然上人(1133 ~ 1212 年)を開祖とする浄土宗の寺院だということも知らずに過ごしてきました。

国宝です

 そして、肝心の鎌倉大仏とは、阿弥陀如来坐像だったということも、恥ずかしながら、つい先年になって知りました。大仏は、大仏という大きな枠組みでしか意識していなかったのです。ですから、当然のことながら、毘盧遮那如来も釈迦如来も阿弥陀如来も阿閦如来も薬師如来も、区別がついておらず、意識もしていませんでした。

 それでは駄目ですから、仏像の見方やお経の基本などを俄か勉強し、しっかりと実体を意識して、鎌倉大仏さまを改めてお参りしたかったのです。

 鎌倉大仏は、阿弥陀如来に特徴的な両手の印相が、瞑想を示す禅定印(ぜんじょういん)になっています。

 しかも、九品往生印の中でも「上品上生」にみえます。

 写真をご覧になればお分かりのように、平日のコロナ禍ということもあって、観光客の数がめっきり減り、本当に少なかったでした。(それでも、日本人より外国人の方が多い気がしました)

 説明文にあるように、この鎌倉大仏は、源頼朝の侍女だったといわれる稲多野局が発起し、僧浄光が勧進して造った、とあります。しかも、「零細な民間の金銭を集積して成ったもので、国家や王侯が資金を出して作ったものではない」とわざわざ断り書きまで添えています。

 そうでしたか。貧困の中、なけなしのお金を寄付する人も多かったことでしょう。当時の庶民の人々の信仰の深さが思い寄せられます。

 自分では絵葉書にしたいぐらい良い写真が撮れた、と勝手に思ってます(笑)。

 以前は大仏さまの胎内に入ることができましたが、またまたコロナ禍で閉鎖されていました。

 鎌倉時代の創建当初は、奈良の大仏さまと同じように寺院の建物内に安置されていたそうですが、台風で何度か吹き飛ばされ、以後、建物は再建されていません。

 吹きさらしで、しかも、海の潮風で大仏さまが傷まないか心配です。あと、1000年、2000年と持つでしょうか?

長谷寺

 鎌倉大仏には、江ノ電の長谷駅で降りて行ったのですが、何度も行っていたはずなのに、道が分からず少し困ってしまいました。多くの人が歩いているので、付いて行った感じです(笑)。方向音痴で地図の読めない男ですから、困ったものです。

 長谷駅から高徳院へ行く途中、長谷観音で有名な長谷寺があったので、帰りに立ち寄りました。生まれて初めての参拝です。400円。

この寺も浄土宗でした。御本尊さまは十一面観音菩薩です。像高9.18メートルで、国内最大級の木造観音だということです。

 観音堂の隣りが「観音ミュージアム」になっていて、そのまま入ろうとしたら、「そちらは入館券が必要です」と係の人に怒られてしまいました。失礼致しました。300円。

 私以外、誰一人も入館する人はいませんでしたが、ここの「観音三十三応現身立像」は圧巻でした。法華経の第二十五章「観世音菩薩普門品(ふもんぼん)」(「観音経」)によると、観音菩薩はさまざまな人々を救うために、三十三身に化身するといいます。聖者の仏身、天界の梵王身、八部身の迦楼羅身などです。ヒンドゥー教と習合したバラエティーに富んだ化身が見られます。(こうして、事前に勉強しておけば、参拝し甲斐があるというものです)

 観音三十三応現身立像は、室町時代につくられたようですが、長谷寺によると、三十三身が全てそろった立像は全国でも珍しい、ということですから、機会が御座いましたら、皆さんもお参りされたらいいと思います。

時宗総本山遊行寺(藤澤山清浄光寺)お参り記

 柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)に巡り合って以来、日本の仏教、中でも浄土思想にかなり興味を持つようになりました。(日蓮は「真言亡国」「禅天魔」「念仏無間」「律国賊」と痛烈に批判しましたが…)

 若い頃に表面的に触れていた仏教は、かなり理解が浅く、それどころか、誤解している面が多々ありました。曰く、「浄土教は単に極楽浄土への往生を願い、来世だけが大事で、現世はどうでもいい…」、曰く、「浄土思想も踊り念仏も、いたって前近代的で、現在ではもはや通用しない…」云々。

 そんな誤解を吹き飛ばしてくれたのが、柳宗悦著「南無阿弥陀仏」でした。特に、法然(浄土宗)~親鸞(浄土真宗)~一遍(時宗)に至る一連の浄土教の変遷、発展、止揚、変容には目を見張るものがありました。

 著者の柳宗悦は、中でも、当時(終戦後間もない頃)軽視され過ぎていた一遍上人(1239~89年)に焦点を当て、再評価し、名誉を復活させたい意気込みを感じました。一遍は「捨聖(すてひじり)」の異名を持ち、臨終間際には、所持していた全ての経典を寺僧に譲るか、焼き捨ててしまいました。上人は「多くの学僧が色々と立ておかれた教えがございますが、全て色んな疑念に対する仮初めの教えである。念仏行者はこのような教えも捨ててしまって念仏すべきである」とまで言ってます。(ですから、本人は教団を設立する意思はなく、時衆→時宗教団をつくったのは二祖真教上人=1237~1319年=でした)

 私の古い友人に、財産を捨て、家族を捨て、友人を捨て、名誉を捨て、全てを捨てて「捨聖」のような生活を送っている人がいるので、個人的に尚更、一遍上人に惹かれます。

 本を読んで、いつか、一遍上人が開いた(ことになっている)時宗の総本山遊行寺に行ってみたいと思っていました。遊行寺のある神奈川県の藤沢市は、自宅から遠方なので、いつになることやら、と思っていましたが、先日、意外と早く、その夢を実現することができました。

遊行寺本堂

総本山だけになかなか立派な寺院でした。

本堂内にはかろうじで靴を脱いで中に入れました。無人でしたが、監視カメラが見張っていたと思います。御本尊は、金色に輝く立派な阿弥陀如来さまでした。写真を撮りたかったのですが、もちろん、控えました。

一遍上人像

 本堂前に一遍上人像があります。時宗の宗祖ではありますが、この寺を創建したわけではないことは先に書いた通りです。

 一遍上人は、全国各地を遊行し、出会った人々に「南無阿弥陀佛」と書いた念仏札を配り歩いて定住していなかったからです。(その活動は、算(ふだ)を賦(くば)り、結縁することから賦算(ふさん)と呼ばれました)

 ということで、この総本山遊行寺は、正式名称は藤澤山(とうたくざん)清浄光寺(しょうじょうこうじ)といいます。創建したのは、1325年、四祖の呑海上人でした。

 上の写真の説明文にある通り、この呑海上人の実兄が地頭の俣野景平で、この広大な敷地を寄進したとあります。景平は死後、俣野大権現として境内で祀られています。

 藤沢は、東海道五十三次の宿場町としても栄え、歌川広重の浮世絵などに描かれています。ですから、藤沢は近世の宿場町から名前を取ったものとばかり思っていましたら、既に中世鎌倉時代から遊行寺の門前町として大いに栄え、藤沢山から取って、藤沢の地名になったというのです。

 勉強になりました。

 本堂の裏手の長生院に「小栗判官の墓」があるというので足を運んでみました。

 小栗判官は、歌舞伎の演目「當世流小栗判官」にもなった実在の人物で、私も20年近く昔に、先代市川猿之助主演で舞台を見たことがあるので、馴染み深かったからです。

 小栗判官と照手姫伝説の「史実」に関しては、上の写真の看板に書かれていますので、お読みください。

上の写真の「中雀門」はなかなか風格がありました。

 説明では、幕末に紀伊大納言の徳川治宝による寄進とありますが、徳川家の葵の御紋ではなく、菊の御紋の方が目立ちますね。

 ◇「国宝 一遍上人聖絵」買えず、非常に残念

 今回、時宗総本山遊行寺をお参りしたもう一つの目的は、境内で販売している「国宝 一遍上人聖絵」の図録(2000円)を購入することでした。しかしながら、残念。この中雀門の奥にある寺務所にも行きましたが、「新型コロナの感染防止」を理由に閉まっておりました。「お守り札も御朱印もお手渡ししません」と掲示されていたので、大声を出して呼んでも無理なのでしょう。残念でした。

 この寺務所だけでなく、境内にある「遊行寺宝物館」も新型コロナのため、まだ依然として休館でした。「新型コロナを世界で一番怖がっているのはお坊さんですよ」と言う人がおりましたが、その通りですね。広い境内では、たったのお一人も僧侶に遭遇することはありませんでした。

【追記】

一遍上人語録に以下のものがあります。

 念仏の行者は智恵をも愚痴をも捨て、善悪の境界をもすて、貴賤高下の道理をもすて、地獄をおそるる心をもすて、極楽を願ふ心をもすて、又諸宗の悟りをもすて、一切の事をすてて申す念仏こそ、弥陀超世の本願に尤もかなひ候へ。(消息法語5)

 地獄を怖れる心を捨て、極楽浄土を願う心も捨て、仏教の悟りも捨て、とにかく智慧も愚痴も一切の事を捨てろ、とまで言ってます。超過激な究極の思想ではないでしょうか。

銀行、利息、会計の語源が分かる「会計の世界史」

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 今、ちょっと面白い本を読んでいます。田中靖浩著「会計の世界史」(日本経済新聞出版 )という本です。2018年9月26日初版ですから、手元に届くまで2年近く掛かりました。Vous savez ce que je voudrais dire? それだけ大人気でベストセラーになった本です。

 現役の公認会計士が書いた本ですが、難しい数式が出てくるわけではなく、逸話が豊富で、著者は美術に相当関心あるらしく、ダビンチ、レンブラントら泰西名画の巨匠が登場します。しかも、会計と少し関係があるのです。もし、この本を高校生の時に読んでいたら、私もその後、公認会計士を目指していたかもしれません。(中世~近世欧州の「公証人」は、今の会計士と弁護士を合わせたような地位の高い職業だったとか)

 それだけ面白い本なのですが、哀しいかな、明らかな間違いが散見します。不勉強なこんな私がすぐ簡単に見つけてしまうのですから、著者だけでなく編集者、校正者は何をやっているんでしょうか?教養度が落ちているのかと心配になります。

 例えば、83ページで出てくる「レオナルド・ダ・ヴィンチはフランス・パリの地でそっと人生の幕を閉じました。」という部分。そんなわけないでしょう。ダビンチが亡くなったのは、フランス中西部ロワール地方のアンボワーズです。晩年、仏国王フランソワ1世から招かれて与えられたクロ・リュセ城で、です。イタリア人(当時国家はありませんでしたが)のダビンチの代表作「モナリザ」がイタリアではなく、パリのルーブル美術館にあるのはそのためです。

 もう一つは398ページ。「ポールとジョージが2人交代でメイン・ボーカルを務め」というのはビートルズ・ファンでなくともあきれた大間違い。当然、「ジョン(レノン)とポール(マッカートニー)が2人交代でメイン・ボーカルを務め」でしょう。常識過ぎて、こんな間違いがあると本書全体の信用を落としかねません。

それに「世界史」と銘打ちながら、おおよその年号が、わざとなのかあまり出てきません。せめて、何世紀かぐらい明記すべきです。

 などと色々とケチを付けましたが(笑)、この本は、「会計」をキーワードに人間ドラマと歴史が満載です。

 ◇簿記はイタリアで誕生した

 例えば、銀行のBankは、14世紀初頭(と本文には書いてませんが)、イタリア・ヴェネツィアの机Banco(バンコ)から始まったといいます。銀行員とは、「机の上で客とカネのやり取りする者」ということだったのです。カトリック教会が絶対的権威を持っていた時代で、当時、カネを貸した銀行は客からウーズラと呼ばれる金利を取ることは禁止されていました。唯一許されていたのがユダヤ人で、当時の状況はシェークスピアの「ベニスの商人」などに活写されます。

 その後、ヴェネツィアの銀行は、融資に当たってウーズラは取れないが、金利ではない「失われたチャンスの補償」という苦し紛れの名目で、実際は金利を取ることにしました。この「補償」をウーズラと区別して「インタレッセ」と呼び、現在の利息interest の語源になったといいます。

 また、1602年(と本書には書かれていませんが)、新興国オランダは世界初の株式会社といわれる東インド会社を設立します。これまで、ほとんど身内や親戚などから資金を集めて事業を行っていた商人は、この後から見知らぬ(ストレンジャー)株主から資金を集めることになります。彼らに対しては、「正しい計算と分配」について最低限の説明責任を果たさなければなりません。この説明報告 account for が、会計 accountingの語源になったといいます。

 さらに、18世紀半ばに始まった(これも書いてない)英国の産業革命。その原動力となった蒸気機関は、石炭を採掘する際に坑道に溢れた地下水を排出するポンプを動かすために発明されたのだそうです。知りませんでしたね。その蒸気機関から機関車がジョージ・スティーヴンソンらによって発明され、世界で初めて鉄道で蒸気機関車が走ったのは、その130年後にビートルズを生むことになる貿易港都市リヴァプールと新興工業都市マンチェスター間でした。同時に世界初の鉄道死亡事故(禁止されたにも関わらず、給水・給炭で停車していた機関車から元商務相が勝手に下車して線路上で轢かれて死亡)が起きたといいます。これも初めて知る逸話でした。

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 まだ半分しか読んでいませんが、よく調べて書かれています。よく売れているということですから間違いを訂正するなど改訂版を出せば、後世に読み継がれると思います。

茨城県笠間市の稲田禅房西念寺=親鸞聖人をたずねて

 コロナ感染者が一向に減らないのに、19日から県境封鎖の関所も全面解除され、全国で行動の自由を得ることができましたので、好きな城郭と寺社仏閣巡りを再開することにしました。

 色々と行きたい所があるのですが、差し迫って優先したかったのが、親鸞聖人(1173~1262年)が「教行信証」を執筆し、関東布教の拠点とした茨城県笠間市の稲田禅房西念寺でした。このかつて「稲田草庵」と呼ばれた地に、親鸞聖人と家族は20年(1214~35年、数え年42歳から63歳にかけて)も住んでいたそうです。浄土真宗別格本山です。はい、実は今、「教行信証」を読んでいるのです。

西念寺 この写真が一番有名でしょう

 私は無鉄砲ですから、あまり事前に計画を立てるのが苦手です。笠間市と言えば、笠間焼で有名ですから、ついでに色々と見て回ろうかと、スマホで時刻表などを調べたら、何と自宅から電車と歩きで往復5時間も掛かることが分かり、笠間焼巡りは諦めて、「西念寺」一本に絞ることにしました。

西念寺

 電車はかなり空いていました。乗り換え駅では、「全面解除されましたが、慎重に行動してください」とのアナウンスもあり、まだ多くの人は警戒しているようでした。

 栃木県の小山駅から水戸線に乗り換えて、最寄り駅の「稲田」に到着。駅長さん1人しかしない小さな駅で、下車したのは私一人でした。駅前に商店街のない簡素な町で、心寂しくなりました。観光案内では駅から歩いて15分でしたが、狭い住宅地に紛れ込んでしまい、境内に着くのに25分ほど掛かってしまいました。

 参拝者は数人おりましたが、間もなく帰り、しばらくは、私一人が境内を散策しました。親鸞聖人の聖地ですから、もっと門徒衆が押しかけているのかと思っていたので、拍子抜けしてしまいました。

 上の写真は、修験者弁円が、親鸞聖人の命を狙おうと襲いますが、逆に、回心して親鸞の弟子明法房になったと言い伝えられる場所です。

西念寺の本堂

 上の写真は本堂ですが、中に入れました。薄暗い中、誰もおりませんでしたが、記帳してきました。例えは、間違っていると思いますが、どこかカトリック教会の祭壇のようなきらびやかな金色に輝く仏壇で、まぶしいほどでした。御本尊様は阿弥陀仏だと思われますが、中に隠れている感じで分かりませんでした。

 本堂内の写真撮影は控えました。

 案内掲示板はなかったのですが、恐らくは親鸞聖人のお姿かと思われます。ここに滞在していたのは40歳代から60歳代初めですから、年齢的に合った像に見えます。

 本堂を向かって右側が山道になっていて、親鸞聖人にとっては若い頃に20年間も修行した比叡山を彷彿とさせたようです。

 この看板がその説明文。

 越後に流罪となった親鸞聖人の関東布教の拠点として、健保2年(1214年)、この稲田草庵の地を提供したのが、常陸国稲田の領主だった宇都宮(稲田九郎)頼重で、彼も親鸞に師事して、頼重房教養という法名を称したという墓標記です。この教養は、親鸞の消息「末燈鈔」第九通の「教名」(けうやう)という説もあります。

 上の看板の説明にあるように、天正・慶長年間に庇護者の宇都宮氏が断絶し、西念寺は荒廃してしまいます。

 その荒廃ぶりを嘆き、聖地を復興したのが、笠間城主松平康重の家老石川信昌だったことが書かれています。知りませんでした。

太子堂
親鸞聖人御頂骨堂

 親鸞聖人は京都で入滅されますが、ここの稲田禅房二世救念の願いにより、聖人の御頂骨を分与され、この地に分骨したお堂を建てたことが書かれています。

 もちろん、お堂の敷地内には入れません。

 西念寺を辞すると、ほど近くに林照寺があります。これは、浄土真宗の単立寺院で鎌倉時代に誠信房によって開基されたといいます。

 親鸞による関東布教で、多くの弟子が育ち、下野、常陸、下総にはかなり多くの真宗系の寺があります。いつか、寺巡りをしたいと思ってます。

 JR水戸線稲田駅近くに戻り、ランチをしたお蕎麦屋さん「のざわ」です。実は、食事ができるお店は、近辺にこの1軒しか見当たらず、当然のことながら、昼時は満員。20分ぐらい外で待ちました。

 天ざると地酒「稲里」1合で1936円也。昼間からお酒とは!煩悩具足の凡夫、悪人です。

稲田神社

 電車は1時間に1本しか通っておらず、55分も待ち時間ができたので、また国道50号沿いに、西念寺の方角に戻り、途中で見かけた稲田神社をお参りすることにしました。

 創建は1200余年といい、式内大社ですから由緒ある神社でした。

 御祭神は、スサノオの妻である奇稲田姫命(クシイナダヒメノミコト)。稲田という地名は稲田姫から取られたのでしょうか?

 かなり急勾配の階段でした。

 またして、誰もいない本殿で、コロナの早期収束をお祈り致しました。

 神社の横は結構広い、あまり整備されてはいない運動広場のようなものがあり、その前に、この「忠魂碑」がありました。弾丸の形から、日清・日露戦争の戦没者の慰霊のように見えますが、詳細は分かりません。

 以上、久しぶりの小旅行でした。ほんの少しだけ親鸞聖人を身近に感じることができました。「教行信証」を読むに当たり、西念寺を思い出すことにします。

思想検事がいた時代なら渓流斎はアウト

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

《渓流斎日乗》なる詭激(きげき)思想を孕(はら)む危険分子は、機宜(きぎ)を逸せず禍(か)を未然に防遏(ぼうあつ)するの要ありー。

 先月、満洲研究家の松岡先生とLINEでやり取りしていた際、2人の共通の知人である荻野富士夫・小樽商科大学教授(現在名誉教授)の書かれた「思想検事」(岩波新書・2000年9月20日)は、小生だけが未読だったので、私は「いつか読まなければならないと思ってます」と返事をしておきました。もう20年も昔の本です。今では古典的名著になっているのか、立花隆著「天皇と東大」の膨大な参考文献の1冊としても挙げられていました。

 20年前の本ですから、古書で探すしかありません。やっとネットで見つけたら、送料を入れたら当時の定価(660円)の2倍の値段になってしまいました。そうまでもしても、手に入れたかった本でした。(A社では最高1万2800円もの値が付いていました!)

 先程、やっと読了したところですが、明治末からアジア太平洋戦争中にかけて、検察権力が肥大化していく様子が手に取るように分かりました。昭和初期の異様な軍部の台頭と軌を一にするかのような司法省の増長ぶりです。いや、逆に言えば、軍部だけが突出していたわけではなく、司法も行政も立法も、そして庶民の隣組や自警団に至るまで一緒になって挙国一致で国体護持の戦時体制を築き挙げてきたということになります。国家総動員法や大政翼賛会など政治面だけみていてはこの時代は分かりません。最終的には司法の検事、判事が臣民を支配していたことが分かります。その最たるものが「思想検事」で「皇国史観」にも染まり、それが判断基準でした。

 検察や裁判官は神さまではありません。権力当局者は、かなり自分で匙加減ができる恣意的なものだったことが分かります。これは過去の終わった話ではなく、現代への警鐘として捉えるべきでしょう。

「黒川高検検事長事件」が起きたばかりの現代ですから、検察の歴史を知らなければなりません。

 でも、正直、この本は決して読み易い本ではありません。ある程度の歴史的時代背景や、大逆事件、森戸事件、三・一五事件、四・一六事件、小林多喜二虐殺事件、ゾルゲ事件、それに横浜事件などについての予備知識がない人は、読み進む上で難儀するかもしれません。なぜなら、この本は、それら事件の内容については詳しく触れず、司法省内の機構改革や思想検察を創設する上で中心になった小山松吉、塩野季彦、平田勲、池田克、太田耐造、井本台吉ら主要人物について多く紙数が費やされているからです。

 読み易くないというもう一つの要因は、本書で度々引用されている「思想研究資料」「思想実務家合同議事録」など戦前の司法省の公文書では、現在では全く使われないかなり難しい漢語が使われているせいなのかもしれません。しかし、慣れ親しむと、私なんか読んでいて心地良くなり、この記事に最初に書いたような「創作語」がスラスラ作れるようになりました(笑)。

 「思想検察」の萌芽とも言うべき「思想部」が司法省刑事部内にできたのは1927(昭和2)年6月のこと(池田克書記官以下4人の属官)でした。泣く子も黙る特高こと特別高等課が警視庁に設置されたのが1911(明治44)年8月ですから、16年も遅れています。それが、1937年に思想部が発展的解消して刑事局5課(共産主義、労働運動など左翼と海軍を担当)となり、38年に刑事局6課(国家主義などの右翼と類似宗教、陸軍を担当)が新設されると、検察は、裁判官にまで影響力を行使して「思想判事」として養成し、捜査権を持つ特高警察に対しては優位性を発揮しようと目論見ます。司法省対内務省警保局との戦いです。これは、まるで、陸軍と警察との大規模な対立を引き起こした「ゴーストップ事件」(1933年)を思い起こさせます。

 司法省刑事局6課が担当する類似宗教とは、今で言う新興宗教のことです。これまで、不敬罪などで大本教などを弾圧してきましたが、治安維持法を改正して、国体に反するような反戦思想などを持つ新興宗教に対しても、思想検察が堂々と踏み込むことができるようになったのです。キリスト教系の宗教団体や今の創価学会などもありましたが、ひとのみち教や灯台社なども「安寧秩序を乱す詭激思想」として関係者は起訴されました。あまり聞き慣れないひとのみち教は、今のPL教団、灯台社は、今のエホバの証人でした。

新橋の料亭「花蝶」

 先程、戦前の思想検事をつくった主要人物を挙げましたが、塩野季彦については、山本祐司著「東京地検特捜部」(角川文庫)に出てきたあの思想・公安検察の派閥のドンとして暗躍した人物です。そして最後に書いた井本台吉は戦前、思想課長などを歴任し、戦後は、検事総長にまで昇り詰めた人で、1968年の日通事件の際の「花蝶事件」の主役だった人物でしたね。

 中でも「中興の祖」というべきか、思想検察の完成者とも言うべき人物は太田耐造でしょう。彼は、刑事局6課長として1941年3月の治安維持法の大改正(条文数を7条から65条へ大幅増加)を主導した立役者でした。

 太田耐造は、20世紀最大のスパイ事件といわれるゾルゲ事件に関する膨大な資料も保存していて、国立国会図書館憲政資料室に所蔵されるほど昭和史を語る上で欠かせない人物です。現在、荻野・小樽商科大学名誉教授教授も推薦している「ゾルゲ事件史料集成――太田耐造関係文書」(加藤哲郎一橋大名誉教授編集・解説)も不二出版から刊行中です。

 思想検事は戦後、GHQにより公職追放となりますが、間もなく、「公安検事」として復活します。

《渓流斎日乗》なる詭激思想を孕む危険分子は、機宜を逸せず禍を未然に防遏するの要ありー。

 扨て扨て、このブログは書き続けられるのでしょうか?

数字の魔力に幻惑されないようにしたい

WST National Gallery Copyright par Cuc de Matsuoqua

 世の中、「数字のマジック」というのか、数字とか統計に関して、素人から見るとさっぱり理解できないことがあります。

 例えば、日経平均は、昨日の1日に約3カ月ぶりに2万2000円台を回復しました。我が国でも、これだけ、コロナ禍の影響で、失業者が増大し、倒産する会社も増えているというのに何でなんでしょうか? 専門家は「国家安全法をめぐり、香港に地政学リスクができて、国際金融都市として役割が香港より東京に注目度が増したから」と、したり顔で説明してくれますが、それでもよく分かりませんね。

 今はコロナ一色で、世界各国の感染者・死者数が発表され、WHOよりジョンズ・ホプキンス大学の集計の方が信頼されているようですが、それでも、これらの数字の発表元をどこまで信用したらいいのか分かりません。

 例えば、6月2日午前10時現在、世界の感染者数が620万人、死者数が37万人を超える中、ブラジルの感染者が52万人を超え(死者は約3万人)、米国に次ぐ第2位になったと注目されています。「ブラジルでは毎日2万5000人の感染者が増えている」といった報道もありましたが、となると、ブラジルでは、毎日、少なくとも10万人以上の人がPCR検査を受けているのでしょうか? 日本でさえ、PCR検査は数千人程度、1万2000人が目標なんて言ってるぐらいですから、ブラジル政府は、日本政府以上の検査能力があるということなのでしょうか。

 感染者数が41万人超と世界第3位のロシアですが、死者数が約4800人とは他の欧州諸国と比べてもあまりにも少ない気がします。英国は感染者約28万人で、死者約2万9000人、スペインは約24万人で約2万7000人、イタリアは約23万人で約3万3000人ですからね。ロシアだけ、統計のやり方が違うのでしょうか。

 日本は、1日午前0時、厚労省発表によると、感染者数1万6884人で、死者892人。欧米と比べて少ないのは何故なのか、まだ分からないようです。世界最大の米国の感染者約179万人(死者約10万5000人)の多くが黒人やヒスパニック系の貧困層だと言われていますから、白人が新型コロナに罹りやすいということにはならないようです。そして、アジア人だからといって罹りにくいという結論は導かれないようです。

WST National Gallery Copyright par Cuc de Matsuoqua

 ここ数日、北九州市での感染数が増加して「2次感染か」と注目されていますが、北九州市でのPCR検査が拡大したから、といった報道を耳にしました。新型コロナは症状が軽い人も多いと言われているので、検査したら陽性だったという人がゴロゴロ出てくるかもしれません。今後、唾液だけで簡単に分かる検査も普及するようですから、尚更です。

 100年前のスペイン風邪でも、死者数が2500万人とする報告があったり、いやいや1億人以上だったという報告もあり、恐らく、結論は出ないでしょう。ロシアの場合、死者数が少ないのは、合併症で亡くなった場合、死因をコロナに入れなかったせいかもしれません。あくまでも推測ですが…。

 新型コロナは、全世界に感染拡大しているというのに、北朝鮮とトルクメニスタンだけは、感染者がゼロだといいます。「国際世論」は「本当かなあ…」と疑っていますが、統計上は、ゼロとして歴史に残るかもしれません。

 ともかく、数字には自分の都合の良いように引用したり、解釈できる「魔力」を持っています。数字だけを見て盲信することは避けたいと思っています。

 緊急事態宣言が全国で解除され、今週に入り、通勤電車もバスも随分、混むようになりました。私自身、メディアが盛んに喧伝している「新しい生活様式」なるものは、信じていません。また、同じ轍を踏むことでしょう。

「古典に学べ」「移動の自由を尊重せよ」

 正直、このコロナ禍の御時世、テレビは見るに堪えられない下らない番組ばかりやっていますが、たまたま見たNHK-BS「コロナ新時代への提言」には引き込まれてしまいました。私が見たのは30日(土)の再放送なので、既に御覧になった方も多いかもしれません。

 人類学者の山極寿一・京都大学総長、歴史学者の飯島渉・青山学院大学教授、哲学者の國分功一郎・東京大学准教授の3人が別々にリモートでインタビュー出演し、それぞれの専門の立場から発言していました。個別に撮影されたのは、4月下旬から5月初めにかけてなのですが、全く古びておらず、「これからアフリカや南米に感染が拡大することでしょう」といった「予言」もズバリ当たったりして、久しぶりに知的興奮を味わいました。

 しっかり、メモでも取っておけば、正確に番組内容を再現できたかもしれませんが、そのまま見てしまったので、覚えている印象的なことをー。

フィンランドの「カルフ」靴、また買っちゃいました。宣伝ではありません!

 まず、ヒトとウイルスとの関わりについて、歴史学者の飯島教授は、1万年前に遡ることができる、と言います。この時、農業が開始され、地球自然の生態系が破壊され、ウイルスが地表に出て、人間に感染する。同時に野生動物を飼いならし家畜化したため、動物から人間にウイルスが感染するようになったといいます。分かりやすいですね。

 となると、今後も人間が、地球の自然破壊をし続け、温暖化になれば、例えば、北極や南極の氷が解け、深海から今まで見たこと聞いたこともなかった微生物やウイルスが出てくるに違いない、と人類学者の山際教授も指摘していました。

哲学者アガンベンの主張「死者の権利」と「移動の自由」

 私がこの番組で一番感銘を受けたのは、哲学者の國分准教授の話でした。國分氏は、イタリアの哲学者ジョルジョ・アガンベンの発言を引用します。アガンベンは、政府が感染拡大防止策として都市封鎖をしましたが、感染で亡くなった人の家族の葬儀もできず、死に目にも会えない状況を批判し、ネット上の炎上のような物議を醸したといいます。それでも、アガンベンはひるまず、「死者の権利」と「移動の自由」を主張します。

 國分氏の解説によると、「死者の権利」とは、彼らの生前の言動を尊重し、亡くなった人の尊厳を取り戻すべきだということです。つまり、過去に学ぶということで、書物等を通して歴史を学び直すということです。そうでなければ、現代という表面的な薄っぺらな現象だけで、皮相的思想になってしまう、と危ぶむのです。そうですね。これは、ストンと腑に落ち納得しました。自戒を込めて言いますが、我々は、くだらないテレビばかり見ないで、古典から学ぶべきです。

 もう一つの「移動の自由」というのは、最初に聞いてピンと来なかったのですが、自由の中で最も重要視されなければならないのが移動の自由だというのです。國分氏は、ベルリンの壁崩壊などの東欧革命は、移動の自由を制限された若者たちの異議申し立てが大きかったといいます。犯罪を犯した人に対する刑の最高は死刑で、最も軽いのは罰金ですが、あとは、懲役刑で牢屋に拘束されます。つまり、移動の自由を禁じられるということです。となると、一般の人でも、移動の自由が禁じられることは、刑罰に近いというわけです。

 東独出身のメルケル首相は、自分の体験として、その苦痛が分かりきっているからこそ、ドイツ国民に対して、「人間に対する移動の自由を制限することはやってはいけないことだが、生命に関わることで、この事態では致し方ないので、国民の理解を得たい」と正直に演説したため、共感され、結果的に欧州の中でも、ドイツは被害を最低限に抑え込むことにつながったといいます。

 哲学者アガンベンが主張する「古典に学べ」と「移動の自由を尊重しろ」というこの二つを聞いて、私もこのブログを書かずにはいられませんでした。