渓流斎ブログ、70万アクセス到達に感謝感激

 あれっ? いつの間にか、渓流斎ブログのアクセス数が70万を超えていました! これもこれも、皆様のお蔭です。有難う御座います。

 御案内の通り、《渓流斎日乗》は2005年3月に開始しました。最初は「gooブログ」でしたが、紆余曲折を経て、松長哲聖氏のお力添えで独立したのが、2017年9月15日のこと。それから5年ほどで70万アクセス到達ですから、我ながら大したもんです。こんな毒にはなっても薬にもならないブログを熱心にお読み頂いている皆さんには感謝に堪えません。

 今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。

手前がランチ寿司5万円~の「とも樹」、向こうがカケ蕎麦500円前後の「歌舞伎そば」(東銀座)

 さて、自分でも感じているのですが、最近の渓流斎ブログは元気ありませんね。天下国家を論じるわけでもなく、政治家とカルト教団との結びつきや、社会問題、経済格差を声高に糾弾するわけでもなく、ミニマリズムと言いますか、極めて、個人的な話題に終始しているように見受けられます。

 でも、ドメスティックなテーマが国際的になるように、個人的な話題でも、全人類に共通する話題になったりするものです。例えば、こんな話ー。

 我が家は2人暮らしなのですが、先日、電気料金の通知の案内がメールで来て、吃驚しました。先月、つまり、2022年8月の電気料金が1万3000円を超えていたのです。普段は5000円前後ですから2倍以上、どうしたものやら?

 恐らく、この夏は殺人的な暑さでしたから、冷房代が嵩んだということなのでしょう。普段(春・秋)は月の使用料は150kwh前後なのですが、夏は300Kwhを超えるので、その理由が分かりました。でも、昨年8月の電気料金を見たら、ほぼ同じくらいの使用料で8700円程度。1万円を超えていません。

 今年になって、電気代が高騰したことがこれで分かります。考えられるのは、今年2月からのウクライナ戦争の影響でしょう。天然ガスが不足し、高騰していると盛んにニュースでやっていました。国際問題が、小さな極東の庶民の家庭にまで影響を及ぼすという典型的な例ということです。

 それにしても、今秋は電気、ガス、ガソリンといったエネルギーだけでなく、食品、飲料、衣料に至るまで生活用品の値上げラッシュです。それでいて給料が上がらない。

 岸田首相を越えて、独裁者プーチン大統領を恨みたくなりますよ。

人間とはいったい何という怪物だろう=パスカル「パンセ」を読む

 ブレーズ・パスカル(1623~62年)の「パンセ」を再読しています。とは言っても、学生時代以来ですから、何十年かぶりです。

 哲学書ですから、難解です。年を取ったので、学生時代と比べ、読解力は上達したのではないかという妄想は誤解でした。今でも理解しづらい文章に多々、突き当たります。もっとも、パスカルは、ジャンセニウス(オランダの神学者ヤンセン)の教えを奉じる厳格なポール・ロワイヤル派の擁護に熱心だったキリスト教徒でした。そのポール・ロワイヤル派を弾圧し、教権と王権を笠に着ていたイエズス会(ジェズイット)に対する反駁の意味を込めて書き留めたのが「パンセ」でした。ということは、「パンセ」は哲学書というより、キリスト教弁証論であり、神学論争の最たるものです。極東に住む異教徒にとっては、道理で難解でした。

 パスカルは、39歳の若さで亡くなっているので、「パンセ」は、生前に出版されたわけではなく、バラバラの遺稿集でした。パスカルの死後、何種類もの版が発行されましたが、現在は、ユダヤ系フランス人哲学者のレオン・ブランシュヴィック(1869~1944年)がテーマごとに14章に編集した断章924から成る「ブランシュヴィック版」が最も読まれているというので、その翻訳書(前田陽一、由木康訳、中公文庫)を東京・神保町の東京堂で購入して来ました。

 1623年生まれのパスカルは、来年でちょうど生誕400年です。デカルトやガリレオらと同時代人で、日本で言えば江戸初期の人に当たります。同年に、後に老中になる小田原藩主の稲葉正則らが生まれています。また、この年に戦国武将の上杉景勝(米沢藩主)と黒田長政(福岡藩主)が亡くなっています。こう書くと、パスカルさんも身近な人に思えなくもないのですが、仏中部クレルモン(現クレルモン=フェラン市)の租税院副院長だった父エティエンヌらから直接英才教育を受けて、学校にも行かずに、「円錐曲線論」や「確率論」などの数学理論や、流体や圧力に関する物理学の「パスカルの原理」などを発表し、その超天才ぶりは、凡人からかけ離れた雲の上の人です。

 とはいえ、「パンセ」の中には凡人の胸にも突き刺さるような鋭い警句が散りばめられています。

 人間とはいったい何という怪物だろう。何という新奇なもの、何という妖怪、何という混沌、何という矛盾の主体、何という驚異であろう。あらゆるものの審判者であり、愚かなみみず。真理の保管者であり、不確実と誤謬との掃きだめ。宇宙の栄光であり、屑。誰がこのもつれを解いてくれるのだろう。(断章434)

 まさに、最近、私は個人的に、このような怪物のような常軌を逸した人間に会い、大変不愉快な思いをさせられたので、この警句は、私の経験を代弁してくれるような感覚になりました。嬉しい限りです。

 人間は、もし気が違っていないとしたら、別の違い方で気が違っていることになりかねないほどに、必然的に気が違っているものである。(断章414)

 パスカルの鋭い洞察力は、人間をここまで見極めてしまっています。

 400年も昔の人間でもこのような感慨に耽ってしまうんですね。

新富島「ウオゼン」日替わり定食950円

 「パンセ」と言えば、「人間は考える葦である」や「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界の歴史は変わっていただろう」といった文言があまりにも有名ですが、私が再読して、最も度肝を抜かれたのは以下の警句でした。

 好奇心は、虚栄に過ぎない。大抵の場合、人が知ろうとするのは、それを話すためでしかない。(断章152)

 かつてこの渓流斎ブログについて、友人から「衒学的だ」と批判されたことがあります。私自身は無知蒙昧を自覚し、単に知らなったことをブログに書き続けてきたつもりでしたが、パスカル氏からは「知的好奇心というものは虚栄心に過ぎず、他人に話したいだけなのだ」と喝破されてしまったようです。ブログなんかやらなければ良いということです。

 もう一つ、感服した警句は次の文章です。

 時は、苦しみや争いを癒す。何故なら人は変わるからである。もはや同じ人間ではない。侮辱した人も、侮辱された人も、もはや彼ら自身ではないのである。(断章122)

 これも個人的体験ですが、最近、長年親しくしていた友人から侮辱され、袂を分かたざるを得なくなってしまいました。パスカル先生に言わせれば、「彼は昔の彼ならず」ですか…。太宰治に同名タイトルの小説がありましたね。「人は変わり、もはや同じ人間ではない」という数学のような定理を発見した400年前の偉人は本当に凄いですね。まるで預言者です!

 いずれにせよ、「パンセ」には、「この世で生きる時間は一瞬に過ぎず、死の状態は永遠である(断章195)」、「我々の惨めなことを慰めてくれるただ一つのものは、気を紛らわすことである(断章171)」という思想が通奏低音のように鳴り響き、私も学生時代から随分影響を受けてきました。

先週末は悪夢でした=触らぬ神に祟りなし

先週末は、ロクなことがなかった、と書けば、そうなってしまいますが、「永遠の相の下」で見れば、貴重な体験をしたということになるのかもしれません。

 週末は疲れて、結構、昼寝をしてしまいます。それも、30分とか1時間といった「うたた寝」ではなく、2時間とか3時間とかしっかり熟睡します。それでいて夜は、また9時間ぐらい眠られますから、まるで眠狂四郎です(笑)。

 そして、最近はよく夢を見ます。大抵は、起きた時、内容は忘れてしまうのですが、時には、酷い悪夢の場合は、内容までしっかり覚えています。

五島列島 Copyright par Tamano Y  ※写真と本文は関係ありません

 先週末の悪夢は最悪でした。理路整然としているようで、夢ですから、現実離れした飛んでもないことが起こるのです。それでも有りそうなことです。内容はざっとこんな感じです。

 ある75歳の老人が、私のブログの愛読者だということで、メールでアプローチして来ました。どうやら、ある有名作家の秘書の評伝をゴーストライターとして書いてほしいらしいのです。有名作家は、秘書にデータ集めから、関係者の調査まで任せていますが、実は、執筆しているのも秘書だったというのです。老人は、その秘書に会って、取材してほしいので、今度、芦屋の豪邸に来てくれ、というのです。

 その老人は、幕末に、尾張藩、会津藩、桑名藩などの藩主を生んだ「高須四兄弟」で有名な高須藩の末裔を称し、祖父が神戸の貿易商で巨万の富を得て、六甲や八ヶ岳にも別荘があるというのです。まず、秘書に会わせる前に「品定め」したいので、神戸のコーヒーチェーン店に来てほしいというのです。お会いすると、その老人は3時間も一方的にしゃべくりまくり、しかも、お金に不自由したことはなく、悪い人間に巡り合ったこともなく、このチェーン店の創業者はマブダチなどと自慢話ばかりです。三浦和義さん御愛用のハンティングワールドをチラつかせ、流石に辟易しましたが、表情で表すことも出来ず、トイレに行くことを口実にやっと解放してもらいました。

 老人はその場で、「では、今週末に芦屋の自宅に来てください」と口約束してくれましたので、品定めは合格したのかと思っていたら、翌日になって、急に「貴方の視野が狭いことが分かりました。私は高須藩の末裔です。私の自宅には選ばれた人間しか入れることはできません」と丁重な「お断り」のメールが届いて、そこで目が覚めたのでした。

五島列島 Copyright par Tamano Y ※写真と本文は関係ありません

 嫌な悪夢を見てしまったので、「お口直し」に久しぶりに映画を見に行くことにしました。そしたら、これが最悪だったのです。かなり手厳しく批判するので、この映画の名誉のためにタイトルは秘匿しますが、ハリウッド映画で、主演は往年の美男俳優で今年59歳になりながら、若さを保って頑張っています。しかも、日本人の作家が原作ということで、「これは応援しなければ」ということで、本当に久しぶりに映画館に足を運んだのでした。

 日本の新幹線の列車内を舞台に、主役の「運び屋」と、ヤクザに雇われた殺し屋との壮絶な抗争で、やたらと殺し合いが続き、日本国内なのにマシンガンがぶっ飛ばされ、あり得ない展開です。日本語の看板がやたらと出て来ますが、駅構内に「自動柵」もないし、これらは明らかに日本で撮影されたわけではなく、莫大な製作費を掛けて、大掛かりなセットを作って米国内か何処かで撮影されたものであることがすぐ分かりました。

 笑えないし、怒れない。こんな映画を見て喜ぶ人間がいるんだと思うと呆れてしまいました。全く、お金と時間を無駄にしてしまいました。59歳の初老俳優と日本人作家を応援したいがために見た行為が仇でした。

 いやはや、これからもう少し生き続けるには、嫌なことは忘れてしまうことが肝心です。そして、何よりも、触らぬ神に祟りなし。

松岡將氏と山本悦夫氏が神保町の書店に出店

 満洲研究家兼美術評論家の松岡將氏からメールを頂きました。な、な、な、何と、神田は神保町に「書店」を出店されたというのです。

  仏文学者の鹿島茂氏をプロデューサーに迎え、「本を愛する方でしたら、どなたでも出店可能」ということで、世間的に有名無名関係なく、入会金と月額使用料を支払えば、「パサージュ」と呼ばれる書店の本棚の販売スペースを借りられるというのです。(パリの屋根付き回廊商店街=パサージュをイメージしています)

 そして、何ともまたまた驚くべきことに、松岡將氏の上の本棚が、皆様御存知のガルーダ研究家の山本悦夫氏のスペースになっているというのです。これは大変だ!是非とも現地に行って確かめて見なければ・・・。ということで、本当に久しぶりに神保町に出掛けてきました。

神保町・中華「漢陽楼」

 年を取ると足腰が弱くなり、出掛けるのも億劫になってくるものです(苦笑)。しかし、思い立ったら吉日。今回、神保町を目指したのは、もう一つ理由が御座いまして、牧久氏の最新著書「転生 満洲国皇帝・愛新覚羅家と天皇家の昭和」(小学館)を読んで、周恩来の偉業に感激して、また是非とも、周恩来が日本留学時代によく通ったという神保町の中華料理店「漢陽楼」に行ってみたくなったかったからでした。

 個人的ながら、私は東京都内で一番好きな所を挙げろと言われれば、まず、お茶の水~神保町界隈を挙げます。大好きな街です。世界最大の「本の街」だからです。早速、御茶ノ水駅から歩いて、「漢陽楼」を目指しました。5~6年、いや7~8年ぶりぐらいでしたが、迷わず行けました。しかし、残念。定休日でした。毎週末と月曜日が休みのようです。

 仕方がないので、古書店街に入り、何処に行こうか思案しました。30年前は文藝記者でしたから、毎週1回は書店巡りをして、10冊近く書評用の本を買い込み、昼に、洋食屋の「南海」とか、「さぼうる」とか色々行ったものでした。でも、神保町と言えば、カレーか餃子というイメージが強いです。

 結局、入ったのが、昔からよく通っていた「ラドリオ」という喫茶店。喫茶店といっても、ビールや水割りぐらい呑める「休憩所」です。

「ラドリオ」チキンカレーとアイスコーヒー1000円

 私が入った直後に、「満員御礼」となり、後から来た人は行列をつくっていました。

 私はそこで、チキンカレー(サラダ付)とアイスコーヒーという遅い昼食を取りました。銀座と比べればやはり安いです(笑)。

神保町「パサージュ」

 食事が終わって直ぐ、「現場」に直行しました。「すずらん通り」ということで、ここは、地下鉄神保町駅から三省堂書店に行く道ということで、本当によく利用した通りですから迷子になるわけありません。でも、老舗餃子店が閉店したり、店が結構変わり、雰囲気も変わりました。30年前にすずらん通りを歩いていた人の中には亡くなった方もいらしゃるでしょうから(失礼!)。

 パサージュは、中国専門の有名な「内山書店」の隣りの隣りにありました。

松岡將氏出店の「本棚」

 そして、店内に入り、ざっと見たところ、100か200ぐらいの本棚がありました。(島田雅彦や米原万理、井上ひさしらの本棚もあるようです。)しかし、どういうわけか、自分でも信じられませんが、店員さんに聞く前に、一瞬で、松岡將氏の出店「本棚」を発見してしまったのです。しかも、目立たない一番下の本棚だったというのに…。何か見えないものに引き寄せられる感じでした。(写真撮影は自由でした)

上の棚が山本悦夫氏、下の棚が松岡將氏

 確かに、松岡將氏の本棚の上が山本悦夫氏の本棚になっていました。

山本悦夫氏の出店本棚(1)

 山本氏は、もう一つ、左横にスペースを確保されていました。これは、現場に行かなければ分かりませんでしたね。

山本悦夫氏の出店本棚(2)。渓流斎ブログでもご紹介した「ホーニドハウス」も並んでいます

 それにしても、凄い偶然です。

 でも、あれっ? 松岡將氏と山本悦夫氏と接点があったのでしょうか? 恐らく、以前、10年ぐらい昔、「おつな寿司セミナー」(解散)に松岡氏を無料講師として講演して頂いた際に、山本氏も聴衆として参加されていて、会場でお互いに名刺交換でもされたのではないか、と推測しています。

 それにしても、繰り返すようですが、凄い偶然ですよ。皆さんも、機会があれば、神保町に出掛けて、確かめてみてください。その際、是非、ご購入を(笑)。

銀座、ちょっと気になるスポット(7)=行列店

 「銀座、ちょっと気になるスポット」と題して連載してきましたが、もうネタが尽きた感じになってきてしまいました(笑)。

東銀座・喫茶「YOU」

 これまで、ほとんど名所旧跡ばかり取り上げてきたので、今回は、初めて、飲食店にすることにしました。名店とか、穴場とかいった店ではなく、とにかく、行列が並んでいる人気店ということで、3店だけご紹介しようと思います。

 別に店を選ぶ特段の基準はありません。ただ、「並んでいる店」というだけなので、宣伝ではありません「笑)。

銀座・喫茶「YOU」

 最初に取り上げるのが、歌舞伎座の横と言いますか、南側にある「YOU」という喫茶店です。ふんわりしたオムライスが有名で、恐らく、雑誌やテレビで大きく取り上げられ、評判が評判を呼んだ店だと思われます。

 私は、6,7年前に一度入ったことがありますが、当時は、ここまで人が並ぶようなことはありませんでした。私も雑誌を見て、オムライスに挑戦したのです。

 ふんわりしたオムライスの卵は、雑誌に載っていた写真通りでした。そのまま食べようとしたら、お隣りの大変親切な御姐さんが「いや、卵はまず、ナイフで上から半分に切って、その切れ目を引っ繰り返して食べるんですよ」と「作法」を教えてくれました。

 いやあ、胃袋に入ったら同じですから、別にそのまま齧りついてもよかったんですが、おあ姐さんが、あまりにも熱心に薦めるので、そうして食した記憶があります。

東銀座・ラーメン「八五」

 次の店は、ラーメン店です。「八五」という名前です。「銀座で最高峰のラーメン」ということで、いつも行列です。私の場合、昼休みは午後12時半からにしているのですが、この店の前に到着する12時40分頃ともなると、最低でも15人は並んでいます。(多いと30人の時も)カウンター6席しかないらしいので、しょうがないですね(行列は写真に写っていません)。

 並んでいては昼休みが終わってしまうので、私はこの店では一度も食したことはありません。この店が出来たのは多分5,6年前ぐらいで、10年も経っていないと思います。

 特製醤油スープ、チャーシュー入りの特製中華そば(1400円)が一番人気のようですが、ネットの感想文も「べた褒め」ばかりです。時間的に余裕がある方でしたら、挑戦してみる価値があるかもしれません。

東銀座・炭火焼き干物食堂「越後屋八十吉」

 3軒目は、また歌舞伎座の横の通りを歩いて、晴海通りに出て、晴海方面に少し行ったところにある炭火焼き干物食堂「越後屋八十吉」です。

 ここは、数年前に何度か行ったことがありますが、以前は行列になるほどではありませんでした。焼き魚定食で1000円以内のものもあり、値段が手頃ということで人気になったのか? ーでも、恐らく、雑誌やテレビで取り上げられたからでしょう。

 テレビや雑誌は影響力絶大ですからね。ちなみに、この渓流斎ブログは影響力なしですが、もしかして、このブログを見て、「一度行ってみよう」という奇特な方もいらっしゃるかもしれません。でも、忠告しておきます。少なくとも1時間は並びまっせえ。

 

 

そして誰もいなくなった

  最近の政局を眺めるにつけ、話題は不統一協会のことばかりです。そこで、「双六(すごろく)言葉遊び」をー。

北海道 ファーム富田 Copyright par Tamano Y

 不統一協会 ⇒国政選挙応援、集票マシーン ⇒タレント候補も当選 ⇒地味党圧勝、政権運営 ⇒協会寄りの見返り政策立案 ⇒教育勅語と讒謗律を復活 ⇒集団結婚式と少数派排除 ⇒先祖の祟り ⇒高額印鑑、骨壺販売容認 ⇒洗脳献金 ⇒党費と選挙費用丸抱え ⇒集票選挙参謀 ⇒地味党圧勝、政権運営  ⇒協会寄りの見返り政策立案 ⇒組織名称変更と宗教法人を断然認可 ⇒献金破産と家庭崩壊 ⇒三代に渡る協会功労者の国葬開催へ ⇒「やらなきゃ馬鹿だ」とお二階さん ⇒内閣改造で不統一協会関係者多数入閣 ⇒内閣支持率低下 ⇒首相、コロナ感染もテレワーク ⇒不統一協会、被害者顔 ⇒協会と地味党はズブズブの関係 ⇒表裏一体 ⇒不統一協会機関紙、野党議員にも謝礼取材 ⇒政界全体汚染 ⇒国民の政治離れ ⇒「支持政党なし」が激増 ⇒そして誰もいなくなった

「自己肯定感が上がる人と付き合う」べきです

「歴史道」(朝日新聞出版)の最新号、第22巻「第二次世界大戦の真実」特集を読んでいます。

 第二次世界大戦は、1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻したことで開始された、と歴史の教科書で習います。しかし、どうもそれだけでは「真実」は解明されないようです。

 同誌を読んでいると、この独軍がポーランド侵攻する1週間前の8月23日に締結された「独ソ不可侵条約」が戦争の元だということが分かってきます。これは、ドイツとソ連が結託して、ポーランドを分割しようという秘密条約だったからです。案の定、ソ連は、ドイツ侵攻の約2週間後の9月17日にポーランドに侵攻し、ドイツと協定した分割線までハゲタカのように獲物を食い尽くしています。(独ソ不可侵条約は1941年6月22日にドイツが一方的に破棄し、独ソ戦が開始されます。)

 ということは、第二次世界大戦を始めた張本人はドイツのヒトラー一人だけというのは、大間違いで、ソ連のスターリンも一枚絡んでいた、というのが史実になります。日本では戦後民主主義教育によって、ソ連や社会主義が美化されて理想の国家のような幻想を抱かされた時期がありましたが、シベリア抑留の例を見ても、ソ連・ロシアはとんでもない国だと認識するべきだというのが普通の日本人の感覚です。21世紀になって、ロシアはウクライナに侵攻し、相も変らぬ蛮行を行ったので、すっかり「理想国家」の化けの皮が剥げてしまいましたから、今やロシアを擁護・美化する日本人は少なくなったと言えます。

北海道十勝 Copyright par Tamano Y

 世界史上、最大最悪のヒールを一人挙げろ、と言われれば、恐らく多くの人はナチスのヒトラーを挙げることでしょう。この本でも多くのことがヒトラーのことでページが割かれています。でも、自分自身が年を取ってみると、意外にもヒトラーは随分若かったことに気付き、驚かされます。1945年5月のベルリン陥落でヒトラーが自決したのは56歳。まだ、56歳と言いたいぐらい若かったんですね。何しろ、1933年1月、ヒトラーが首相の指名を受けたのは43歳の時でした。日本の岸田文雄首相が総理大臣に指名されたのが64歳ですから、如何に若いか分かります。ヒトラー絶頂期のベルリン五輪が開催された1936年8月の時点で、まだ47歳だったんですか…。レニ・リーフェンシュタールが残した映像を見ても60歳ぐらいに見えます。

 そう言えば、第二次世界大戦の米国の英雄ルーズベルト大統領はかなり高齢に見えましたが、病死したのは63歳だったんですね。日本を見ると、自決した近衛文麿は54歳、処刑された山下奉文は60歳、東条英機さえ63歳の「若さ」でした。

 高齢者になって見ると、こんな若者が戦争を指導してきたのか、という驚きの感慨です。

北海道 白髪の滝 Copyright par Tamano Y

 何が言いたいのかと言いますと、善悪の話は置いといて、子どもの頃にお爺さんに見えた歴史上の人物の年齢を超えると、どうも無力感というか自己嫌悪と自己否定に襲われてしまうのです。中原中也のように「お前は一体何をしてきたのだ」という思いに駆られてしまうのです。

 そんな時、新聞(日経 8月23日付朝刊)を読んでいたら、加藤俊徳著「脳の名医が教えるすごい自己肯定感」(クロスメディア・パブリッシング、1628円)という本の広告が目に飛び込んで来ました。この広告を読むと、「自尊感情」を高める脳の習慣として、

・1日「ほめ言葉」でしめる

・「朝散歩」を毎日する

・自己肯定感が上がる人と付き合う

 …などということが書かれていました。

 あれっ?この広告を読んだだけで、この本全部を読んでしまった気になってしまいました(笑)。そう言えば、私は、ほんの1人か2人ですが、私のことを否定するような人でも付き合ってきました。いけない、いけない。駄目ですねえ。しっかり、そんな交友関係は清算して、これからは「自己肯定感が上がる人と付き合う」べきですね(笑)。

 これは私だけではなく、皆さんにも同じことが言えるんじゃないでしょうか?

戦後ジャズブームに日本敗戦と米軍占領が欠かせない

 NHKの回し者ではありませんが、今夏のテレビの戦記物特集は、やはり、NHKが量質ともに圧倒して見応え十分でした。特に8月6日放送の「侍従長が見た 昭和天皇と戦争」(元海軍大将の百武三郎侍従長の「側近録」)と8月15日放送の「ビルマ 絶望の戦場」(牟田口廉也司令官によるインパール作戦失敗と敵前逃亡。ビルマ戦線での戦死者総計16万5000人。幹部連中のみ夜ごと芸者を揚げての宴会三昧。木村兵太郎ビルマ方面軍司令官の兵士置き去り敵前逃亡。商社日綿ラングーン支店長に「あとは宜しく」)は圧巻でした。

 それに比べ民放は…。タレントを露出して有名にして、有名を「信用」と錯覚・洗脳させ、CMに出演させてモノを売って稼ぐ「電波貸し」ビジネスに忙しく、視聴率の取れない戦記物なんぞ、やるだけ無駄といった感じでした。

東銀座「エッセンス」 アジフライ定食1200円+アイスコーヒー=1300円

 NHKはラヂオも充実していて、今、スマホアプリ「らじる★らじる」の「聴き逃しサービス」で、カルチャーラジオ 日曜カルチャー「クレイジーキャッツの音楽史」(全4回)にハマっています。お話は、音楽評論家の佐藤利明さん。この方、1963年生まれということですから、60年代のクレイジ―キャッツの全盛期をほとんど知らないはずなのに、今は音源も映画DVDもYouTubeもありますから、「遅れて来た青年」として追体験し、異様な執念でクレイジーキャッツの全てを調べあげています。(生前のメンバーにもインタビューしています)

 私は、50年代生まれですから、クレイジーキャッツ全盛期のど真ん中で、「シャボン玉ホリデー」や映画「無責任男」シリーズで育ったようなものです。それでも、佐藤さんの話を聞いていると、知らなかったことばかりで、「さすが音楽評論家」と感心したものです。

 クレイジーキャッツは、コミックバンドではありますが、もともとは正真正銘のジャズマンです。しかも、メンバーは大卒のインテリが多く、中には東京芸術大学(安田伸、64歳没)や早稲田大政経学部(桜井センリ、86歳没)出身者もいます。植木等は三重県の寺の住職の子息(父徹誠は、真宗大谷派僧侶で、戦時中、戦争反対を訴え、何度も投獄された)で東洋大卒。普段の人柄は、ニコリともしない超真面目人間だったというのは有名です。

 クレイジーキャッツは当初、キューバン・キャッツとして、1955年4月、萩原哲晶(ひろあき)とデューク・セプテットのハナ肇(工学院土木科中退、63歳没)と犬塚弘(徳川家康直参の旗本の家柄。文化学院卒、現在93歳)が中心になって結成されますが、メンバーの入れ替えを経て、1957年までにフランキー堺とシティースリッカーズの谷敬(後に谷啓、中大中退、78歳没)と植木正(等、80歳没)らも加わり、1960年には石橋エーターロー(青木繁の孫、福田蘭童の子息、東洋音楽学校卒、66歳没)が結核療養で代役となった桜井センリを加え、7人のメンバーが固定します。

 クレイジーキャッツの最大のヒット曲は「スーダラ節」ですが、作詞が青島幸男(早大卒、74歳没)、作曲がクラリネット奏者だった萩原哲晶(東京音楽学校、後の東京芸大出身、58歳没)。この名コンビが、クレイジーキャッツの名曲を生みだします。ミュージシャンの大瀧詠一が「クレイジーキャッツは日本のビートルズだ」と評したらしいですが、ロックとコミック音楽とジャンルは違っても1960年代を代表するミュージシャンとしては共通したものがあります。となると、青島幸男=萩原哲晶はレノン=マッカートニーみたいなものと言えるかもしれません。(「無責任一代男」「ハイそれまでよ」「ゴマスリ行進曲」などはこのコンビ。萩原哲晶は、前田武彦作詞で「エイトマンの唄」まで作曲していたとは!)

 佐藤利明さんの「クレイジーキャッツの音楽史」が何で面白いのかと言いますと、単なる音楽史に留まらず、戦後文化史になっているからです。何で、戦後になって、日本にジャズブームが起きたのか? 一言で言えば、日本が戦争で負け、米軍に占領されたからです。米軍は兵士の慰問のため、北海道から沖縄まで、駐留米軍基地に娯楽施設を作りました。そこでジャズを演奏すると、高額なギャラが貰えるということで、若者が楽器を習得して殺到します。その中で、メキメキと腕をあげてプロになる若者も出ます。クレイジーキャッツはその代表かもしれませんが、テナーサックスの松本英彦、原信夫とシャープ&フラットや萩原哲晶とデューク・オクテットなど米軍基地にお世話にならなかったバンドはありません。アイドルグループ「ジャニーズ」をつくったジャニ―喜多川もそうですし、後に裏方のプラダクションに回って「ナベプロ」を創業する渡辺晋(とシックス・ジョーンズ)らもそうです。

 その渡辺晋がナベプロをつくったきっかけは、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効されたため、日本駐留の米軍基地が縮小されたためでした。同時に娯楽施設も封鎖され、日本人のジャズマンも基地での仕事を失うようになったからだというのです。

 この話を聞いて、「なるほどなあ」と思いました。日本の戦後音楽史には、敗戦と占領期の米軍進駐とジャズが欠かせなかったという話には、実に、目から鱗が落ちるような思いでした。日本は戦時中は、敵性音楽は禁止していましたからね。もし、日本が勝っていたら、浪花節と都々逸と軍艦マーチの世界だったかもしれません。

銀座、ちょっと気になるスポット(6)=新橋停車場跡と幻の凱旋門

 銀座、と銘打ちながら、またまた銀座からちょっと離れた新橋のスポットです。でも、私の銀座にある会社から歩いていける距離にありますからいいじゃないですか(笑)。

旧新橋停車場 開業150年

 明治5年に開業した新橋停車場跡です。昔はこんな立派な「復元建物」はなかったのですが、2003年に、こんな豪勢な駅舎が「復活」しました。

 明治にこの新橋停車場が開業したお蔭で、銀座への表玄関となり、横浜居留の外国人たちも次々と「文明開化」のシンボル・銀座に繰り出したということですから、ここも「気になる銀座のスポット」として十分通用することでしょう。

 不勉強な私は、40歳ぐらいまで日本最初の鉄道駅である新橋駅は、今のJR新橋駅だとばかり思っていたのですが、明治の新橋駅はそこから東へ650メートル程離れた、地名で言うと汐留にありました。今の汐留は、日本テレビや電通や共同通信などのマスコミの豪奢な高層ビルが林立しています。(電通本社ビルは3000億円で不動産会社に売却されたようですが)

新橋停車場 開業150年

 今年は、ちょうど鉄道開業150年ということで、この駅舎の跡に出来た「旧新橋停車場」内の「鉄道歴史展示室」で企画展が開催されています。主催は東日本鉄道文化財団ですから、JR東日本関連の建造物だったということが分かりました。

新橋停車場 開業150年

 何と言っても、驚くべきことは、日本最初の鉄道である新橋~横浜間(約29キロ)が開通したのは明治5年9月という事実です。明治維新からたった5年しか経っていないじゃありませんか! 欧米列強からの植民地化がよっぽど脅威だったのか、日本は「文明開化」「富国強兵」「脱亜入欧」をスローガンに、次々と西洋文明を取り入れます。

 この幕末~維新を経て、明治の時代に生きた人たちは余程バイタリティーがあったのか、「失われた30年」の現代人とは異質にさえ感じてしまいます。

 さて、この旧新橋停車場を今回、気になるスポットに選んだのは、またまたですが、「歴史人」9月号「連合艦隊の真実」特集を読んでいたからです。

 この中で、日露戦争で連合艦隊司令長官だった東郷平八郎が、ロシアとの日本海海戦で大勝利を収め、帰国した際、恐らく、鉄道で横浜からこの新橋停車場に降り立ちます。

 その新橋停車場広場の前に、間口は58尺(約18メートル)、奥行きは26尺(約8メートル)、軒の高さ42尺(約13メートル)。地面から最頂部までの高さは60尺(約18メートル)の「戦役記念陸海軍歓迎凱旋門」が建てられ、東郷大将以下軍人が戦勝パレードをし、大群衆が詰めかけたというのです。

「歴史人」9月号 「連合艦隊の真実」特集の東郷平八郎司令長官 下写真が新橋の凱旋門

 旧新橋停車場は、実は何度も行っていたので、それほど「気になるスポット」ではなかったのですが(笑)、この新橋停車場広場前にあった凱旋門がどこにあったのか、確かめたくて行ってみたのです。何か「記念碑」でもないかどうか、広場があった辺りを探したのですが、見つかりませんでした。停車場内の「鉄道歴史展示室」の受付にいた50歳ぐらいの男性にも聞きましたが、「凱旋門? 分かりませんねえ。知りません。広場の前は、昔は川が流れていたんじゃないでしょうか」と仰るのです。

 江戸切絵図で確かめてみたら、新橋停車場の前の広場の先は、川ではなく、江戸城のお堀がありました。明治になっても堀にはそのまま水が流れていたのでしょう。

 残念ながら、凱旋門跡の記念碑は見つかりませんでしたが、その代わりに、立派な「芝地区旧町名由来」の案内板がありました。

 それによると、江戸城のお堀は、明治には汐留川と呼ばれていたようです。凱旋門のことが何も書かれていないことが残念です。

 凱旋門は新橋だけではなく、日比谷や上野や浅草や麻布といった東京市内のほか、千葉県木更津などにも建てられたようですが、それぞれ史跡として記念碑があるのかどうか、少なくとも私は知りません。

 そう言えば、秋葉原の万世橋停車場前には、日露戦争で殉死した広瀬武夫中佐(「杉野は何処~♪」のあの旅順口攻防の広瀬中佐)の銅像がありましたが、GHQの命令により撤去されたようです。

 新橋の凱旋門も、もし残っていたとしたら、パリの凱旋門のように日本の「観光資源」になっていたのかもしれません。

 でも、凱旋門を残そうものなら、日本の軍国主義復活を危惧するマッカーサーが許しはしなかった、ということだったのでしょう。そう、勘繰りたくなりました。

4回目のワクチンと1カ月遅れの誕生会

 昨日木曜日は、ちぃっと休みを取って、4回目のワクチンを拙宅近くのクリニックで受けて来ました。

 問診票に「1カ月以内に病気になりましたか?」との御下問があったので、正直に「胃腸炎か食当たりになりました」と書いておいたら、女医先生が「もう治りましたか?治ったら、まあいいでしょう」と言いながら、あっという間に終わってしまいました。痛くも痒くもありませんでした(笑)。

 お蔭様で熱も出ませんでしたが、夜寝る頃にちょっと打ったところが腫れている感じで少し痛く、寝返りをうつのをやめておきました。

 1,2回のワクチンがモデルナ、3,4回目はファイザーでしたが、米ファイザー社の社長さんは、4回接種しながら、コロナになったことが新聞の記事に出ていました。ファイザーの社長ですから、恐らく、ファイザーのワクチンだと思われますが、4回も打って罹ってしまうなんて、いやはや、何をか況やです。ファイザー社は大いに儲け過ぎたので、その副反応だったかもしれません(失礼、言い過ぎでした!)

浦和宿「満寿家」 うな重(特上)きも吸いもの、お新香付き 5100円

 せっかく休みを取ったので、夜は、私の1カ月遅れの誕生会を家族が開いてくれました。ちょうど1カ月前の誕生日の頃は胃腸炎か食当たりで、5日間ものたうち回っていたので、延期せざるを得なかったのでした。

 場所は、中山道浦和宿にある江戸時代から有名な鰻の老舗「満寿家」(明治21年創業)です。ここ数年、すっかり鰻は高騰してしまい高嶺の花です。目の玉が飛び出るほど高かったでした。誕生会は家族が開いてくれましたが、勘定払いは、私の役目です(苦笑)。

 でも、半月前に予約したら、「満寿家」はとてもいい個室を取ってくれました。1階の角部屋で、灯篭のある小さなお庭に囲まれ、どこかの旅館のように雰囲気があります。しかも、トイレまで付いているので、外に出ることなく、まさに家族水入らずで楽しめました。二人の幼い孫も来てくれて、チョロチョロしますから、本当に助かりました。

 ワクチンを打ったばかりなのに、米国人の女婿と一緒にビールや冷酒を呑みながら、先に台湾を訪問して物議を醸したペロシ米下院議長(最初、プロウシと発音するので誰のことかと思ったら、プロウシかプロシが正しいようです。何で日本のマスコミの外信部はペロシと訳したんでしょうかねえ?)の旦那さんの話やシビアな米国政治と、庶民に対する所得税引き上げ(ウクライナ軍事支援金の捻出のためらしく、バイデン大統領の支持率低下の要因になった)の話などで盛り上がりました。

 泊まりのない旅館に来たと思えば、随分安上がりで済んだのではないかと思い直しました。