日仏会館でデプレシャン監督作品「あの頃エッフェル塔の下で」を観る

日仏会館

 昨年12月に見事厳しい審査を経て(?)、東京・恵比寿にある日仏会館の会員になることができました。そこで開催されるフランスに関する色んな講演会やセミナーやイベントに参加できます(非会員の方もbienvenu)。1月に「ジャポニスム」に関するセミナーがありましたが、仕事が遅くなり、キャンセルせざるを得なくなりました。

 昨晩は会員として初めて参加しました。(そう言えば、2015年1月に日仏会館で開催された「21世紀の資本」のトマ・ピケティの講演を取材したものです。ということは5年ぶりでしたか…早い、早すぎる)

ヘアーサロン・ヤマギシ 月曜休みでした

 その前日に、京洛先生から電話があり、明日、日仏会館に行く予定だと話したところ、「恵比寿ですか…そうですか…懐かしいですね。中華のちょろりに行ったらいいじゃないですか」と仰るではありませんか。

 えっ?何ですか?ちょろり?

「中華屋さんですよ。あたしはよく行きましたよ。恵比寿ビアガーデンの近くでもあります。そこで、よく炒飯と餃子にビールを注文したものですよ」

 いい話を聞きました。京都の京洛如来様は、まだ東京で調布菩薩だった頃、職場が恵比寿にあったことから、恵比寿は自分の庭みたいなものでした。

 「恵比寿駅近くにヤマギシという床屋がありましてね。社長はあの大野で修行した人で、あたしはよく行ったものです。今でも東京に行った時に予約して行きますよ。貴方も行ってみたらどうですか?『京都の京洛から話を聞いて来ました』と言ったら、喜びますよ」

 あれ?それ、もしかしたら、恵比寿商店会から宣伝料のマージンでももらっているんじゃないですかねえ(笑)。

 でも、私も、当日の夕飯はどうしようかと思っていたので、良い店を紹介してもらいました。

 中華「ちょろり」は、日仏会館の目と鼻の先にありました。夕方5時頃入ったら、お客さんはまだ誰もいなく、しばらく一人でした。大衆中華料理屋さんというか、大きなテーブルが7個ぐらいあって、30~40人で満杯になる感じでした。(帰りの夜9時過ぎに店の前を通ったら、超満員でした。夜中の3時までやっているようです)

 京洛先生のお薦め通り、炒飯と餃子とビールを注文。炒飯は、何か、和風で、昔懐かしい味。餃子は野菜がいっぱい入ってました。

 さて、肝心の日仏会館の催しは、「映画と文学」の6回目でした。アルノー・デプレシャン監督作品「あの頃エッフェル塔の下で」(2015年、123分)が上映された後、目白大学の杉原先生による、特に、映画のフラッシュバック技法とマルセル・プルーストとの関係について解説がありました。

アルノー・デプレシャン監督作品「あの頃エッフェル塔の下で」 左は、 ポール役のカンタン・ドルメール、右は エステル役のリー・ロワ・ルコリネ

5年前に日本でも公開されたこの映画は見逃していましたが、なかなか良かったですね。よほどの映画通じゃなきゃデプレシャン監督作品は知らないでしょうが、私も初めて観ました。1960年生まれのデプレシャン監督の青春時代を色濃く反映した作品で、私もほぼ同世代なので、心に染み入りました。満点です。

 デプレシャン監督は、ベルギー国境に近いフランス北東部の田舎町ノール県ルーベ出身で、パリに上京して仏国立高等映画学院で学んだようです。映画の原題はTrois souvenirs de ma jeunesse で、直訳すると「我が青春の三つの物語」となります。主人公のポール・デダリュスは人類学者で外交官ですが、タジキスタンかどこかの旧東側国の税関で捕まり、スパイ容疑で取り調べられるところから物語は始まります。その時、主人公が青春時代の三つの物語をフラッシュバックで思い出すという展開です。

 後で聞いた杉原先生の解説によると、主人公のポール・デダリュスとは、ジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」に登場する作家志望の青年スティーヴン・ディーダラスから拝借したもので、ユリシーズもこの映画も「帰還」がテーマになっているとか。

 主人公のポール(青年時代はカンタン・ドルメール、現在の壮年時代はマチュー・アマルリック)とエステル(リー・ロワ・ルコリネ)との淡い悲恋の物語といえば、それまでですが、恋する若い二人の心の揺れや不安が見事に描かれ、私も身に覚えがあるので懐かしくなりました(笑)。ポール役のドルメールも清々しく格好良かったですが、エステル役のルコリネは、男なら誰でも夢中になるほど魅力的で、強さと弱さを巧みに表現できて、なかなかの演技達者でした。

 そして、何と言ってもプルースト。これでも、学生時代は岩崎力先生の講義に参加して少し齧りました。今でも「失われた時を求めて」 À la recherche du temps perdu の第1章「スワン家の方へ」(1913年) Du côté de chez Swann の最初に出てくる「長い間、私はまだ早い時間から床に就いた」の《 Longtemps, je me suis couché de bonne heure 》は今でも諳んじることができます。岩崎先生には、マルグレット・ユルスナールやヴァレリー・ラルボーらも教えてもらいましたが、名前を聞いただけで異様に懐かしい。何の役にも立ちませんが(笑)。

 デプレシャン監督には、「魂を救え!」(1992年)や「そして僕は恋をする」(1996年)、「クリスマス・ストーリー」(2008年)などがありますが、登場人物に関連性があり、一種のシリーズ物語になっているようです。バルザックに「人間喜劇」、エミール・ゾラには「ルーゴン・マッカール叢書」などがありますが、フランス人は作品は違っても、続きものになる、こういう関連シリーズ物語が好きなんですね。

 映画では、主人公は人類学者になる人ですから本をよく読み、レヴィ=ストロースの「悲しき熱帯」などを読んでいる場面も出てきました。私は、青春時代にフランスに首をつっこんでしまったので、この先、死ぬまで関わることでしょうから、日仏会館のイベントにはなるべく参加していくつもりです。お会いしたら声を掛けてください(笑)。

海上自衛隊幹部の風俗店経営は深刻な問題を孕んでいる

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ネット時代になり、これまでマスコミに独占されていた国家公務員の人事情報が、省庁のホームページを通して、一般人でも、いとも容易く見ることができるようになりました。一般人とはいっても、国民であり、納税者ですからね。

 例えば、 2月5日(水)に発表された令和2年2月4日付の「防 衛 省 発 令人事」としてこんなものがあります。

護衛艦隊司令部付を命ずる (横須賀海上訓練指導隊司令)     1等海佐 森田 哲哉

横須賀海上訓練指導隊司令事務取扱を命ずる (海上訓練指導隊群司令) 1等海佐 岩澤努

 これだけ見ても、さっぱり分かりませんね。プロのマスコミの防衛省担当記者も分かるはずありません。せめて、横須賀海上訓練指導隊のトップである「司令」だった森田1等海佐が、病気か何かで、「司令部付」に格下げ(?)になったことが、賢い優秀な記者なら読み取ることができます。もっと賢い記者なら、広報に取材することでしょう。

 でも、日々忙しい新聞記者の連中は取材しなかったようですね。その代わりに取材していたのが、6日(木)発売の週刊文春でした。「海上自衛隊幹部が女性向け風俗店を経営 自衛隊法に抵触か」との衝撃的な見出しで報道したのです。

 繰り返しになりますが、防衛省が、森田一等海佐の降格人事を発表したのは、5日のこと。ということは、翌6日に発売される文春砲に記事が出るという事実をつかんだ防衛省幹部が慌てふためいて発表したと予想されます。しかも、紙きれ一枚の人事発表では、さすがにマズイと後から不安に思ったのか、夜遅くになってやっと記者会見して、護衛艦「やまゆき」などの艦長を歴任した森田一佐が「デリバリーヘルスを営業していた疑いがあり、事実関係を調べている」「客に訓練内容を漏らした疑いもある 」とまで事細かく白状、いや、発表した次第です。

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 面妖だったのは、翌日の6日の首都圏の朝刊各紙。日頃、安倍政権に刃を向けていると伝えられている朝日新聞と東京新聞は、通信社電があったにもかかわらず、この記事を掲載しませんでした。それなのに、安倍政権の「機関紙」「御用新聞」とまで言われている読売新聞と産経新聞は、不都合な真実なのに、ちゃんと報道しているのです。(毎日は実名を書かず報道、日経は非掲載)

 この問題は、戦前なら軍機保護法違反容疑になるはずです。デリヘルの話だけが独り歩きしましたが、かなり深刻な問題が孕んでいるのです。

 NHKはじめ、テレビは大きく報じないので、もしかして、このニュースを知らない人がいるんじゃないかと思い、旧聞に属しますが、裏舞台も含めてあえて取り上げました。

 知らなかった人は手を挙げてほしいなあ…(笑)。

 

お経で自己反省=究極のミニマリストには驚き

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 最近、このブログで個人的なことばかり書いているので忸怩たる思いを感じております。

 今日やっと半月間かけて読了した松濤弘道著「お経の基本がわかる小事典」(PHP新書、2004年11月1日初版)は大変為になりました。お経は、梵語から漢訳されて日本に伝わったものだけで1692部あり、我が国で生まれたものを含めると3360部にもなるといいます。もちろん、お釈迦様お一人がこれほど膨大なお経を説いたわけではなく、弟子や後代の名僧が説いたものもあるわけです。

 以前にも取り上げましたが、著者の松濤弘道(まつなみ・こうどう)氏(1933~2010)は、米ハーバード大学大学院で修士号を修め、栃木市の近龍寺の住職なども務めた方でした。 近龍寺は浄土宗ですが、松濤氏は学者でもあるので、宗派にとらわれず、オールラウンドに仏教思想全体に精通されているところが素晴らしいです。

 その松濤氏は、お釈迦様の考えに逸脱しなければ、現代人でもお経を説いてもいいと主張するので驚いてしまいました。私は未読ですが、評論家の草柳大蔵さんには「これが私のお経です」(海竜社、1993年刊)という本がありました。この本でも著者の松濤氏は御自分でつくった短いお経も披露されています。

 その中で、「いたずらにむさぼらず、おごらず、とらわれず…、人に対しては優しい目、和やかな顔、温かい言葉をもって接し、お互い、いたわり合うべし。たとえそうすることによって不利益を被ることもあらんとも」という文章に巡り合いました。目から鱗が落ちるようで、深く反省した次第です。たとえ相手がチンピラだろうと、そいつから金品を巻き上げられようと、人に対しては優しく接しなければいけませんね。

 さて、今日は、最近テレビで見た奇人・変人(失礼!)をご紹介します。

 先週、バラエティー番組を見ていたら、若い気象予報士の男性が登場し、究極のミニマリスト(最小限の家財道具しかないシンプル生活者)で、部屋には何もない、と言います。食事は外食なので、調理道具も皿や茶わん等もないように見受けられました。

 凄かったのは、冷蔵庫はありますが、中に入っているのは湿布ぐらいだというのです。司会者が「何で?」と聞くと、「身体の節々が痛くなるから」と答えるので、また司会者が「何で痛くなるの?」と聞くと、どうやら、布団を持っていなくて、フローリングの床の上で、そのままダウンコートを着て寝ているというのです。(ということは、ソファもないことでしょう)周囲から「布団ぐらい買えよ」とチャチャを入れられていましたが、これには驚くとともに大笑いしてしまいました。

 世の中にはこんな人もいるんだ。何もなくても、布団もなくても生きていられるんだ、と逆に勇気をもらいました。もしかして、仏教の精神を実践されている方なのかもしれません。

【後記】

 あっちゃー、吃驚です。本物かどうか分かりませんが、「京都の住職」さんから「チンピラや悪党や性根の腐った人間もひとしく弥陀の救済の対象です。『さんげ』は必要ですが。
『極楽浄土に来てほしくない』なんておっしゃると、カンダタと同じになっちゃいますよ。 」との「コメント」を頂いておりました。(今、発見)

 カンダタとは芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に登場する地獄に堕ちた泥棒さんのことですか?

 そ、そ、それだけは御勘弁ください。ま、真人間になりますから。

 

古代史の新発見が望まれる=東博で「出雲と大和」展

 新型コロナウイルスが猛威を奮う中、「よゐこは不特定多数の人が集まる所に行ってはいけません」と一国の総理大臣から通告されていたにも関わらず、上野の東京国立博物館に行って来ました。「出雲と大和」が開催されていたからです。

 週末なので混むはずでしたが、空いていたわけではありませんが、近くで見られました。けど、中国語が聞こえると(彼らは何処にいようが我が物顔で声がデカい!)、ドキッと緊張している自分を発見しました。

出品目録をざっと見ただけですが、出品111点中、国宝が23点、重要文化財75点という豪華絢爛さです。失礼、太古の発掘物ですから、絢爛さまではいかず、正直、余程、古代に関心があり、ある程度の知識がないとつまらないかもしれません。

 国宝「銅剣、銅鐸、銅矛」(出雲市荒神谷遺跡出土、弥生時代、前2〜前1世紀、文化庁蔵)や日本書記にも記された国宝「七支刀(しちしとう)」(古墳時代、4世紀、奈良・石神神宮像)など眼を見張るものが沢山ありました。でも、私自身は、ある程度の知識はあるつもりでしたが、はっきり言って難しかったですね。

 銅鐸一つ取っても、祭司用だと言われてますが、実際にどのように使われたのか諸説あります。

 また、考古学や古代学は、大半は文字がない時代ですから発掘された出土品から想像しなければなりません。専門家なら勾玉一つ見ただけで、色んなことが分かるでしょうが、悲しい哉、素人には限界があります。

 個人的には古代には48メートルの高さを誇ったと言われる出雲大社本殿の縮小版の模型が良かったですね。昨年は、実際に初めて出雲大社をお参りする機会に恵まれたので、感激も一入です。巨大本殿が存在したという証明になる鎌倉時代の宇豆柱(うづばしら)も展示されていました。

 出雲では博物館に立ち寄らなかったので、今回、初めて色んなお宝を見ることができました。

 3世紀になって大和に王権が成立し、巨大な前方後円墳がつくられます。しかし、多くの古墳は文化庁と宮内庁の管轄で、学者でさえ立ち入り禁止されているので、まだまだ未解明な所が多いのです。

◇国譲りで大和が出雲を征服したのか?

 最後のコーナーの年譜を見ていたら、大陸との交流が盛んだった出雲の勢力というか文明圏は弥生時代初期からあり、その一方で、後から大和政権は成立して、「国譲り」で大和が出雲を併合したのは明白に思えました。

 「古事記」は、敗れた出雲の側の立場を描き、出雲のことはあまり触れていない「日本書記」は、大和の側から叙述したものだということをある学者さんは言ってましたが、そう考えると分かりやすいですね。

 いずれにせよ、古墳が考古学者に公開されて、新史実が発見されれば、素晴らしいと思っております。

 この後、遅ればせの新年会が根津駅近くの「駅馬車」という店であるので、地下鉄で行こうとしたら、博物館のチケットの裏を見たら地図が載っていて、歩いて行けそうな距離だと分かり、徒歩で行きました。

 そしたら、参加した赤坂さんも東博を見て歩いて根津まで来たという小生と同じコースだったので笑ってしまいました。

 新年会では赤坂さんは、ピントが外れた唐変木なことばかり発言するので皆の笑い者、いや人気者でした(笑)。

京都・相国寺の承天閣美術館で「茶の湯・禅と数寄」展が開催中=宗旦狐の逸話も面白い

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おはようございます。京洛先生です。

 ワタシが勧めた「藝術新潮」2月号を購入され一読されて、「軽薄だ!」と厳しいご指摘ですが(笑)、世の中、すべてが軽佻浮薄です。貴人のように物事をナンデモ真正面から真面目に受け止める人は、生きにくいご時世です。もっと、生半可にいい加減にならないとノイローゼ、不眠症に陥りますよ(笑)。

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 ところで、中国・武漢の「急性肺炎」で、中国をあてにしている業界、企業は大慌てですね。株価も下降線に入りました。恐らくすぐ解決できることではなく、今夏の東京オリンピックも影響を受けると思いますね。特にその対応が「人の集まる場所に行かない方がいい!」ということでは、「景気」の落ち込みは半端じゃないですよ。「東京五輪後に不況がやって来る」と予測するエコノミスト、評論家はいましたが、これでは「東京五輪前に不況がやって来る」と言うことになりますね。

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 消費増税で消費が減速し、デパート、コンビニなどの業界では既に売り上げが大きく落ち込み始めているのですから、尋常じゃありません。

 1月28日(火)には、武漢に行ったこともない奈良在住の運転手が、武漢から来たツアー観光客を乗せて運転し、新型肺炎に感染したという事が分かり大騒ぎになっています。

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 京都、大阪、東京と中国人観光客が多いところは、日本国内での感染にこれまで以上に神経をとがらせことになります。

 洛中も新年になり、中国人観光客がめっきり減りました。その分、静かになり、煩くない分、地元住民は、ほっと一息つきますが、これから、新型肺炎の感染騒ぎを考えると憂鬱になりますね。

京都・相国寺 Copyright par Kyoraque-sensei  

 そんな世間の動きとは別に、以前、南青山の東京別院に渓流斎さんが参禅に行かれた京都五山の一つ「相国寺」に1月29日(水)の昼下がりぶらっと出かけてきました。
 同寺の境内にある承天閣美術館で「茶の湯・禅と数寄」展が開催中(3月29日まで)で、それを覗いてきたわけです。

 この展覧会は、昨年10月~12月は「Ⅰ期」、新年1月11日から「Ⅱ期」と、二回に分けての長期の開催です。Ⅱ期は、無学祖元の国宝「墨跡」(鎌倉時代、相国寺蔵)、明の永楽帝が足利義満におくった国宝「明永楽帝勅書」(室町時代、相国寺蔵)など、展示数は少ないですが、“禅と茶”、“権力者と茶”、“数寄者と茶”の関係がよく分かる品々が並び、充実した展覧会でした。

京都・相国寺 Copyright par Kyoraque-sensei  

しかも、平日なので来館者も、少なくゆったり見られるのは好いですね。

 展示品の写真撮影は不可ですが、相国寺の境内は御覧の通り、静寂で南天が咲いていたり、梅の枝には早くも梅の蕾が膨らみはじめ季節感を味わいました。

相国寺 宗旦稲荷 Copyright par Kyoraque-sensei  

 同寺の専門道場そばの“宗旦狐”を祀る「宗旦稲荷社」にも参って来ました。ここで伝承されている「宗旦狐」の謂れについてはリンクを貼っておきます。

 逸話は面白いでしょう。

 以上

若者言葉は「分かりみが深い」

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 私は乱読家ですから(笑)、出典は全く忘れましたが、大昔に読んだ中野重治のエッセイの中で、若者言葉の乱れを批判する文章がありました。それは、「電話を掛ける」が普通なのに、最近の若い人は「電話を入れる」などと言う。いかがなものか、といった内容でした。

 「電話を入れる」が、そんなに明治生まれの人間には気になるものなのか、妙に印象に残ったので、半世紀ぐらい経った今でも、よく覚えているのです。

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 しかし、21世紀にもなると、それどころの話じゃありませんね。もう「若者言葉の乱れ」なぞとは、誰も批判したりしません。特に、SNSとやらで、中高年にとっては、やたらと難解な想像もつかない言葉を若者たちは生み出してくれてます。

 了解を「りょ」ではなく、今や「り」だけ(笑)。「お疲れさまでした」と書けばいいのに、「おつ」だけです。でも、「ディスる」(悪く言う)は、もう中高年でも使われるようになりましたが…。

 最近驚いたのは、「分かりみが深い」という表現です。若者たちの間では、もう4、5年前から使われていて、今頃になって気付くのは遅すぎると思いますが、婉曲表現に近いようです。分かるようで、分からないような、微妙な響きです。

 若者言葉が世間で定着するかどうかは、使われる頻度で決まることでしょうね。もう10年ぐらい前に流行った「チョベリグ」や「チョベリバ」なんてもう誰も使わないでしょうね。えっ?流行ったのは、1990年代で、もう30年前の話?あたし、まだ生まれてない?…嗚呼、もう勘弁してください。

 若者言葉が注目されるのは、そこに商品価値があるからだ、と中高年の天邪鬼は分析しています。ずばり、カネになるからです。資本主義の性(さが)ですなあ。

 私も若い頃、「ナウいヤングが集うゴーゴー喫茶」なという宣伝文句に惹かれて、繁華街を彷徨したものでした。でも、若者言葉は、手垢がつくとすぐ廃れてしまいます。今や「アヴェック」なんて死語ですからね。

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 それにしても、日本語は「外来語」が多いせいか、英語やフランス語などと比べても驚くほど語彙も多く(フランス語には「安い」という単語さえないんですよ!)、変化も激しいですね。これまた随分前に、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」などを新訳した亀山郁夫氏(当時東京外国大学学長)にインタビューした時に、彼から「ロシア語はほとんど変わらず、ドストエフスキー時代の19世紀の言葉が今でも使われている」といった話を聞いて本当に吃驚したことがあります。

 日本語とはえらい違いですね。大した魂げた。

真理に目覚めた仏陀=仏像の世界は大変奥が深い話

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一昨日から松濤弘道著「日本の仏様を知る事典」(日本文芸社、1988年4月30日初版)を読んでおりますが、教えられることが多く、大変勉強になります。

 ちょっと古い本ですが、会社の資料室にあったのを見つけ、自分用として読みたかったので、ネットで購入したのでした。「自分用」というのは、著者には大変申し訳ないのですが、本文に赤線を引いたり、書き込みしたりしてしまうことです。それほど格闘しながら読ませて頂いている、ということでお許し願いたいところです。

 著者の松濤弘道(まつなみ・こうどう)氏は1933年、栃木県生まれで、大正大学から米ハーバード大学大学院で修士号を取得され、栃木市の浄土宗近龍寺の住職などを務めておられましたが、2010年に77歳でお浄土へ往生されたようです。

近龍寺のHPによると、松濤氏には、日本語で55冊、英語で30冊、他にも中国語、フランス語、ポルトガル語等、多数の著作があったそうです。また、近龍寺には、栃木出身の作家山本有三のお墓があるらしく、私も昔、「路傍の石」や「真実一路」など愛読させて頂きましたので、いつか、この寺を訪れたいと思います。

  「日本の仏様を知る事典」は、特に、「如来」「菩薩」「明王」「天」など階級別に仏像について詳しく書かれていますが、仏教とは何か、といった基本的なことにも折に触れて解説してくれます。

 多くの人が誤解しているようですが、仏教とは、キリスト教などと違って、絶対的な神を信仰する宗教ではなく、修行によって自分自身も、真理に目覚める仏陀(覚者)になることを目指すことでした。松濤氏によると、仏陀とは、宇宙を創造した神でもなく、人間を裁く審判神でもなく、超越的な権力や力を備えた至上神ではない、といいます。

 仏教とは、釈迦という一人の人間が、説いた教えです。(王子の身分でありながら、妻子も捨てて29歳で出家し、6年間の修行の末、仏陀となり、80歳で入滅)釈迦が悟ったことは、すべての生物は自己の存在や自我意識に執着し、無明(執着の根源)から他者を差別し、他者の犠牲のもとに生き延びている、ということでした。そこで、釈迦は、他人を害することなしに生存するには、各自の特異性を認め、生命の同一存在(一如=いちにょ)を追体験することだと考えたといいます。もし、一如の生活に則れば、他者と喜びを分かち合い、他者の苦しみはわが苦しみとして受け入れ、人の幸せも自分の幸せとして感じ、気づくことができるだろう、といいます。

 このように、釈迦が悟ったことを簡略して、大きく二つだとすると、「智慧」と「慈悲」がそれに当たります。それゆえに、仏像にこの二者の概念が付きまといます。例えば、釈迦三尊像の場合、真ん中に釈迦如来を据え、脇侍(わきじ)として文殊菩薩と普賢菩薩を配し、それぞれ、智慧と慈悲を象徴しています。阿弥陀三尊の場合、中央の阿弥陀如来の脇侍には観音菩薩(慈悲)と勢至菩薩(智慧)を配します。密教の大日如来の場合、金剛界が智慧、胎蔵界が慈悲を表します。

 仏を分かりやすく整理すると、世界の真実そのものを人格化した毘盧遮那如来(奈良の大仏など)や大日如来を「宇宙仏」、釈迦如来のように世の真実を体得したものを「人間仏」、仏の徳性の働きを象徴する阿弥陀如来や弥勒如来を「理想仏」と分ける考え方もあるそうです。また、鎌倉時代には「過去仏」として釈迦、「現代仏」として阿弥陀、「未来仏」として弥勒の三世仏が盛んにつくられたといいます。弥勒如来は、釈迦の死後、56億7000万年後の未来に現れて、衆生を救済してくれる仏で、天理教や大本教に影響を与えました。(その弥勒如来が現れるまでに、地獄に堕ちた人でも救済してくれるのが地蔵菩薩です)

自宅の御本尊である36年前に鎌倉の仏具店で購入した仏様。当時20万円ぐらい。てっきり釈迦如来像かと思ったら、阿弥陀如来像でした。(本文参照)

 この本では色々と教えられましたが、釈迦如来像と阿弥陀如来像の区別の仕方が初めて分かりました(苦笑)。右手を上げて、中指を曲げているのが釈迦で、両手で印を結んでいるのが阿弥陀だといいます。東南アジアに広がった小乗仏教は仏像といえば、ほとんど釈迦如来像ですが、大乗仏教となると、さまざまになります。特に日本では、本地垂迹説で、色々な仏像がつくられ、釈迦如来像は天平期の頃がピークで、それ以降は、浄土教の影響からか阿弥陀如来像が主に占めたそうです。

 この本については、またいつか取り上げたいと思いますが、今日最後に特記したいのが阿閦如来です。「あしゅくにょらい」と読みます。 阿閦とは無瞋恚(むしんい)と同じ意味で、すべての誘惑に打ち勝ち、永遠に怒りや恨みを抱かないと誓って、東方世界に妙喜浄土をたてた仏だといいます。以前、このブログでも書きましたが、瞋恚とは、仏教用語の十悪(殺生・偸盗・邪婬・妄語・綺語・両舌・悪口・貪欲・瞋恚・邪見)の一つでしたね。私自身、最近、この瞋恚(自分の心に逆らうものを怒り恨むこと)に取りつかれていたので、この阿閦如来さまに縋るしかありません。奈良の西大寺にも鎮座されているそうなので、西大寺先生に写真を送ってもらいたいものです。

奈良・春日大社「国宝殿」で「最古の日本刀の世界 安綱・古伯耆展」

Copyright par Siadaiji-sensei

ご無沙汰しております。奈良に居ります、御存知「西大寺先生」です。

 奈良通信員として拝命していますが、本業が多忙で渓流斎ブログに出稿せず誠に申し訳ありません。令和二年の新年になり、第一弾の出稿です。

 奈良の美術展と言えば、国立奈良博物館の「正倉院展」があまりにも有名ですが、県内にはあまりにも多くの国宝、文化財があり、しかも、お寺、神社そのものが歴史遺産であり、美術展を見に行くというより、歴史遺産自体が自然体の「美術展」でもあります。ですから、奈良では東京のように博物館、美術館に「美術展」を見に出かける必要もそれほどないわけですね。

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そんな奈良ですが、新年3月1日まで春日大社「国宝殿」で開かれている「最古の日本刀の世界 安綱・古伯耆展」は見ごたえがありますよ。

 平安時代に伯耆(ほうき)の国(今の鳥取県中・西部)にいた安綱(やすな)の一門の刀は武家社会は勿論、神にも捧げられましたが、その後、この刀匠の流れは途絶え、作品もほんのわずかしか残っていません。現存の安綱の作品はほとんどが「国宝」「重要文化財」になっています。

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 今回はその国宝に指定された春日大社所蔵の「金地螺鈿毛抜形太刀」や、あの源頼綱が酒呑童子を斬った刀と言われる、やはり安綱作の国宝「童子切」(国立東京博物館所蔵)、重要文化財で「大平記」にも記されていて渡辺綱が鬼退治に使ったと言われる「鬼切丸」(髭切)(北野天満宮所蔵)が並び、日本の刀の歴史がよく分かります。

 会場はそれほど広くなく、展示数も厳選され、ゆったり、時間をかけて展示品が見られるのは好いですね。特に伯耆の国が、たたら、砂鉄がとれることから古代から刀作りが盛んで、この展覧会でも、安綱の作品だけでなく古伯耆の太刀も展示されています。

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 また、お城巡りを趣味にされている渓流斎山人ですが、徳川家を中心にした全国の諸大名が「家宝」にしていた太刀、名刀はいずれも、平安期から時の権力者のもとを迂余転変してきたことも分かりやすく説明がされていました。「へえ!足利、信長、秀吉、各大名家にこうして伝わったのか」「名刀には歴史の逸話がある!」と、貴人もご覧になれば関心、興味が倍加するでしょう。

 刀は歴史好きには堪えられない面白さがあると思いますよ。茶器とは別の奥深さが秘められています。単なる「武器」だけでなく「祭事や儀礼用」の意味、価値も持っているということです。春日大社「国宝殿」は同大社の本殿傍にあり、上の写真のように、境内の鹿も入口付近にやって来て、都心の美術館では味わえない雰囲気が漂います。

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この展覧会も館内の写真撮影は禁止でしたが、ただ、一点だけ国宝のレプリカは撮影OKでした。あまり上手く撮れませんでしたが、悪しからずご了承ください。

 3月1日まで開催しているので、奈良に行かれる機会があれば覗かれると良いでしょう。入場料は800円ですが事前に金券ショップのガラスケースを覗けばさらに格安のチケットが売られていると思いますよ(笑)。

 西大寺先生より

◇◇◇◇◇

 いやあ、有難いですね。いつもながら、ネタ切れになりますと、特派員リポートが送稿されます。紙面を埋めなければならない新聞社や雑誌社のデスクの気持ちがよく分かります(笑)。

 お城と並んで、今、刀剣もブームです。特に若い女性が全国の品評会にまで回っており、「刀剣女子」と呼ばれているとか。

 日本刀は武器ですが、美術工芸品でもありますね。戦場では、刀の威力はそれほど発揮せず、殺傷力では(1)弓矢(後に鉄砲)(2)薙刀(後に槍)(3)投石(4)刀ーの順らしいですね。何故、刀より投石による戦死者の方が多かったのか、というと、農民が合戦に駆り出されて、高価な刀剣は買うことができないか、刀の使い方ができなかったというのが有力な説です。刀狩りで、農民は刀剣を奪われていましたしね。

究極の文化財、美術品を公開へ=京都・東寺で真言宗の最高の儀式「後七日御修法」

京都・東寺 Copyright par Kyoraque-sensei

 ブログを書き続けて幾星霜か。ちょっと、書くネタに尽きて困ったときに、いつも天から救いの手が伸びてきます。

 今回も、京都にお住まいの京洛先生から特派員リポートが送られてきました。

京都・東寺 Copyright par Kyoraque-sensei

おはようございます。京洛先生です。

 七草粥も終わり、渓流斎さんも、正月休みから、帝都のオフイスに精勤されていると思います。8日(水)は、渓流斎さんもご存知の、御社とも関わりの深い大手代理店OBで長老のNさんが上洛されました。

 いつも正月休み明けの観光客が少ないこの時期に奥様とこちらにみえますが、今回は今週末まで滞在されています。そこで「何処に御案内しようか」と考えた末、今回は、いつも渓流斎ブログに紹介、写真掲載してもらっている「東寺」での真言宗の最高の儀式「後七日御修法(ごひちにちみしほ)」にお連れすることに致しました。

8日は、その最初の日に当たり、儀式が行われる東寺境内の国宝「灌頂院」の前までご一緒しました。

京都・東寺 Copyright par Kyoraque-sensei

 渓流斎さんは、昨年、高野山の「金剛峯寺」に出かけられ、念願の宿坊に泊まられ、大感激され、以後、ますます、仏教の関連書籍などを読破されていますね(笑)。

 後七日御修法はこのブログでは何度も紹介されておりますが、その高野山の金剛峰寺をはじめ、「真言宗」各派、十八本山の山主、高僧が集まり、8日から来週14日(火)まで7日間、灌頂院で五穀豊穣、国家安泰、世界平和の祈願法要をするわけです。

 弘法大師空海が平安時代の835年から京都の御所で始めたもので、明治初期、数年、途絶えましたが、その後は、御所から東寺に場所を移して行われてきています。

京都・東寺 Copyright par Kyoraque-sensei

 初日の8日は、宮内庁から勅使が天皇陛下の「御衣(ぎょい)」が届けられました。

  いつもながら、お坊さんの頭が綺麗でしょう(笑)

 

京都・東寺 Copyright par Kyoraque-sensei

法要では、御衣を前に7日間にわたり、護摩を焚いて大法要が行われますが、8日は、今年の大阿闍梨(おおあじゃり、導師)である「仁和寺」の瀬川大秀門跡をはじめ、真言宗の長老、門跡らが朱傘をかざされ、上の写真のような行列が続きました。いつもながら全国の真言宗の僧侶、檀信徒の方がこの様子を見ようと、大勢来ておられました。

 Nさんは「いやあ、凄いものですね。京都、奈良など大伽藍の高僧が一堂に集まるのですからね。こういう希少な機会に出くわせるとはワタシも感激です。軽薄な観光客もいませんし、数珠を持って、『南無大師遍照金剛』と念仏を唱えて、手を合わされている檀信徒のご婦人方の着物も、いずれも高価な立派なもの、とお見受けしました。やはり、お金が出来ても、最後は精神世界に惹かれるのですね」と、日ごろお目にかかれない光景、様子をじっくり眺めておられました。

京都・東寺 Copyright par Kyoraque-sensei

  「後七日御修法」は14日(火)に終わり、同日午後12時頃から、2時間に限って、「法要」後の灌頂院(通常は非公開)内が公開されます。法要後の堂内には香がたかれた匂いが漂い、重要文化財の曼荼羅もまだ架けられていて、”究極の文化財、美術品公開”とも言える機会です。ご興味のある方は見に行かれることですね。

 以上

煩悩に取りつかれたカルロス・ゴーン被告

 日本時間の8日午後10時のカルロス・ゴーン被告の記者会見は予想通りでしたね。自分の言いたい放題で、肝心なことは秘匿して、自己正当化と自己保身と自己主張に終始しました。弁護士でもある日本政府の森雅子法相が夜中の1時近くに臨時記者会見して「(ゴーン被告の)出国は犯罪行為に該当し得る。それを正当化するために、国内外に向けてわが国の法制度について誤った事実を喧伝するのは到底看過できない」と批判したことは大いに賛同します。日頃、日本政府に対して、厳しい批判を書き連ねている渓流斎も、諸手を挙げて賛同致します。

 記者会見場には、ゴーン被告の「お気に入り」のメディアしか入場できず、日本のマスコミはほとんどシャットアウト。唯一許されたのが、朝日新聞と小学館とテレビ東京だったらしいですが、その選別の仕方には思わず笑ってしまいました。選ばれなかった読売新聞は、「米CNNの中継映像などによると」といった報道の仕方で、聊か格好悪かったですねえ。

 それにしても、ゴーン被告が、映画まがいの犯罪的逃避行をしながら、全く悪びれることなく、世界中が注目する公の席に登場できた自信の根拠は焉んぞあらんや、と感嘆してしまいました。

 たまたまですが、先程、阿満利麿・現代語訳の法然「選択本願念仏集」(角川ソフィア文庫、平成19年5月25日初版)をやっと読破することができました。途中で難解な仏教用語を調べながら読んでいたので、1カ月以上掛かりました。最初は、無謀にも、法然房源空上人の原文をそのまま読んでみましたが、理解できずに挫折。現代語訳に辿り着き、やっと少しは理解できました。

色んな専門家が現代語訳を出版されていますが、最初にこの阿満氏の訳文にしてよかったでした。初心者でも大変分かりやすかったからです。阿満氏は巻末に他の雑誌に寄稿したエッセイ「なぜ他力なのか」も収録しています。その中で、煩悩について書かれた箇所があり、法然と親鸞は、煩悩を以下の3種類として捉えていたといいます。

(1)欲が深いこと(従って怒りやすく、妬み、嫉むこともしばしば)

(2)生への執着心(生きたい、死にたくないという拘り)

(3)自己正当化に熱心な精神(自己と他人を区別し、自己の優越を誇る)

 もちろん、これら3者を全否定してしまっては、生への原動力もなくなり、資本主義社会は成り立っていかなくなります。とはいえ、煩悩にとらわれた存在が凡夫であるということを自覚し、そんな凡夫でも、精励刻苦、修行し、智慧と慈悲の心を身に着け、菩提心を起こせば、煩悩から解脱した浄土の世界に行くことができるという宗教が浄土教思想であり、仏教だというのです。

 ゴーン被告は、(3)の自己正当化の煩悩に取りつかれていますが、仏教徒ではないので、聞く耳を持たず、逃亡を続けることでしょう。まさに、資本主義社会の権化ですからね。しかし、彼はまだ65歳。果たして、このまま、心の平穏(peace of mind)を得て往生できるのでしょうか。老婆心ながら御同情申し上げます。