檀家制度を廃止した曹洞宗・見性院

 東京の今の気温は32度。それは許せるとしても、湿度が63%。外を歩くと汗が止まらず、とろけてしまいそうです。

◇こんな暑さでオリンピック?

こんな暑さの中、ちょうど来年の今頃、東京オリムピックなんかやるんですかねえ?富裕層向けに635万円の五輪チケットが8月下旬から売り出されるそうですが、ご苦労さまのことです。

 第一、不労所得で欲太りしたIOC貴族と、チャンス到来を喜ぶアディダス、ナイキといった多国籍スポーツメーカーの殿上人は、日本がどれだけ暑くて湿気が多いのか、知る由もありません。知っているとしても、所詮、自分たちが走ったり、投げたり、蹴ったりするわけでもなく、単なる興行として商売(ビジネス)をするだけですから、高額スポンサーとして冷房の良く効いた貴賓席にいらっしゃることでしょう。古代ローマ帝国の貴族たちがコロッセオで剣闘士が闘うのを高みの見物するような気分なんでしょうか。

 日本のメディアは新聞もテレビもラジオも、みんな五輪スポンサーですから、一言も批判しません。いや、グルですね。

 ◇皆さんのクリックのおかげでドメイン代が出ました

 こんなに暑いので、ここ数日間、暑気払いが続いてます。一昨日は、この《渓流斎日乗》ブログの技術面でお世話になっているIT会社のM社長と東京・池袋の焼き鳥店「雲吉」で一献傾けました。(皆様がこのブログの宣伝バナーをクリックしてくださったおかげで、ドメイン代等は賄うことができるようでした!)

 「雲吉」は、M社長の奥さんの妹の旦那さんが経営している店で、味が良いのかもう20年以上続いているそうです。飲食業界というのは傍から見ているよりかなり厳しく、経済誌「ダイヤモンド」をいつぞや読んでいたら、新規開店した飲食店の9割が3年以内につぶれてしまうと書いてありましたね。

 場所は、池袋駅東口から歩いて10分ぐらいでしょうか(3分とか書いてましたが、人混みで歩けません)。もう40年以上も昔の話ですが、池袋をフラフラしていましたが、新栄堂書店がつぶれ、キンカ堂(地下食堂)がつぶれ、すっかり変わってしまい、全く別の街になってしまい、道に迷いました。「雲吉」の近くに西武本社が所沢から池袋に移転してきたおかげで、安定したお客さんが来るようになったようです。まあまあの価格なのですか、客層の質は高いです(Mさん、宣伝しておきましたよ=笑)。

 M社長は仕事で仏教界というか、葬儀社界というか、墓石界というか、そういった業界に通じていて、裏話もたくさんありました。

高野山奥之院 島津家供養塔

 今回、裏話ではなく、現代の仏教界の改革者として、多くのメディアにも登場している僧侶として、埼玉県熊谷市にある曹洞宗見性院の橋本英樹住職の話を初めて聞きました。

 見性院は江戸時代から400年以上続く寺ですが、何と2012年に檀家制度を廃止してしまったというのです。400軒近くあった檀家とはいったん白紙に戻して、「随縁会」という会員組織にし、名称も檀家から「信徒」に変更し、葬儀代、戒名代、布施等すべて「ガラス張り」にして「明朗会計」にしたというのです。

橋本氏は駒沢大学大学院を修了し、曹洞宗の大本山永平寺で修行し、25歳で見性院の副住職になった時の月収がわずか10万円だったといいます。それが、42歳で父の跡を継いで住職となって「改革」に乗り出したところ、今では経営規模は4倍に増えたといいます。

 もちろん、宗派や国籍等に拘らず、遺骨を郵送で受け付ける「お坊さん便」を始めるなど急激な改革から、旧檀家の中から反発する声も多く、曹洞宗総本山の総持寺に訴える旧檀家もいるそうです。

 それでも橋本住職はひるみません。M社長も「僕は闘う宗教家を応援してます。檀家とか言っても、どうせナアナアでやっていただけで、仏教なんて本当に信じてないでしょう。葬儀は金が掛かります。散骨したって、かなりの金額を取られますよ。その点、3万円でお骨を郵送パックで受け付けるなんて、現代的なあまりにも現代的なですよ」と擁護するのです。

 考えてみれば、昔はよっぽどの貴族か皇族か大名か守護地頭か武士か名主か大商人でなければ、お墓なんか持てなかったものでした。無名の庶民は野垂れ死にして、犬か鳥に食われていたことでしょう。庶民が墓を持てるようになるのは明治以降かと思ったら、M氏は「いえいえ、明治は廃仏毀釈もあったし、戦後からですよ」と言うではありませんか。

 21世紀になり、日本人の信仰心が薄れ、仏教も「葬式仏教」と批判され、そもそも、従来の「家」の観念も廃れ、女房も子どもも「お父さんの墓だけには入りたくない」と言い、結婚しない男女も増えて、墓守をしてくれる子孫もなく、そういう時代になると、宗教も変わっていかざるを得なくなりました。

 でも、自分の骨が3万円でパック郵送されて、誰とも会ったことも見たこともない縁も所縁もない人と同じ骨と交じり合って共同墓地に詰め込まれることを想像すると、何とも味気ない、背中の辺りがこそばゆい感じがしてきますね。

「ホラホラ、これが僕の骨…」(中原中也)の詩が頭にリフレインしてきました。

 

700年の歴史を誇る王子田楽

 気温34度。暑過ぎる毎日が続き、溶けそうです。

 8月4日(日)、東京・北区の王子神社で、700年もの伝統を誇る「王子田楽」が開催されるというので初めて観にいきました。

 北区教育委員会によると、「王子田楽」とは、王子神社の例大祭に伴って神前に奉納される躍りのことで、始まりは鎌倉時代にまで遡るといわれるそうです。

 一般的に田楽舞は、「五穀豊穣」を祈念するのに対し、王子田楽の躍りは「魔事災難除け」を祈願するという大きな特徴があります。

 戦前には、舞童の花笠が観衆の頭上に投げられ、それを縁起物として奪い合う「喧嘩祭り」としても知られていたそうです。

王子という土地に深く根付いていた田楽は、戦争中の昭和19年(1944年)から途絶えてしまいましたが、昭和58年(1983年)に地元の人々の熱意と努力により復興しました。その後、毎年奉納されるようになり、昭和62年(1987年)には北区の「指定無形民俗文化財」に指定されています。

 田楽を舞うのは、北区内の小学校に通う選ばれた小学生です。1年間、熱心に稽古をしたそうです。

 色鮮やかな花笠と衣装を身に着けて厳かに舞う姿を観ると、時空を越えて、700年前のご先祖さまが味わった同じ気持ちに触れる気がしました。

王子は、江戸中心から離れた郊外で、将軍様の鷹狩りの地だった飛鳥山に桜を植えて庶民に開放されたことから浮世絵にも描かれる土地でした。

 江戸中心の浅草の三社祭や神田明神の神田祭などは、数万、数十万規模の群集が押し寄せるでしょうが、王子神社の祭りは、数百人規模といった感じです。(主催者発表は取材していません=笑)

 御神輿のわっしょい、わっしょい、も凄い群集に見えますが、このように、目の前で、神輿を担ぐ人たちと同じ気分で観ることができました。

やっぱり、日本人、夏は祭りですね(笑)。

孔子を心もとない人物として描く「老子・列子」を読む

高野山 親王院 

中国古典シリーズ「中国の思想」の中の「老子・列子」(徳間書店)を読んでいます。

「老子」は老聃(ろうたん)の説を記した書物ですが、この老聃という人物については不明なことが多いようです。楚の国の出身で、本名は李耳、字は伯陽、おくり名が聃。周の守蔵室の役人を務め、道と徳の説を5000余言の文章に残して、周の国を去り、その最期は誰にも分らず、160歳まで生きたとも200歳まで生きたとも言われています。(司馬遷「史記」)

 老聃は孔子に教えを授けたことでも有名であることから、道家が儒家に対して優越性を示すために、老子とは、「荘子」を書いた荘周による創作人物ではないかという説もあるそうです。

 後から弟子たちが付け足したという説もありますが、色々差し引いても、後世の人間としては学ぶべきことが多いのは確かです。

 老子の思想を一言で言えば、物事に対して、意気込むことなく「無為自然」に任せよ、ということになるでしょう。これは、隠遁者的思想ではなく、常に内省し、冷徹な批判精神を持てということです。

 ざっと読んでみますと、人の道や道徳を説く言葉が多く、ほとんどエピソードがなく、どちらかと言えば堅苦しい書物でした。驚いたことには、日本では神様のように崇められている孔子を、学に秀でているわけでもなく、心もとない人物として描いていることでした。(「列子」にも「物を知らない孔子」の話がある)

 文化大革命の際に、「批林批孔」のスローガンがあったように、中国では儒教や孔子が日本ほど(例えば、渋沢栄一のように)神格化されていないのではないかと思いました。

 解説によると、老子の孫弟子に当たると言われる列子は、文化大革命を発動した毛沢東が大変評価した思想家らしいので、それで、毛沢東が孔子を批判する理由が少し分かった気がしました。

 「列子」は「老子」と比べて堅苦しいところはなく、逸話が満載されて読みやすいです。「杞憂」の語源になった話もこの「列子」に出てきます。

意外に多い仏教系大学

 先日、高野山にお参りした際に泊まった宿坊「天徳院」の直ぐ近くに高野山大学があり、天徳院の若い住職さんも歩いて通ったらしく、大学と宗教の関係に興味を持ちました。

 高野山大学は、もちろん、空海が開いた真言密教を学ぶ大学で、835年(承和2年)に朝廷より真言宗後継者育成制度を認定されたことに始まりを持つと言われています。世界で最も古い総合大学は、イタリアのボローニャー大学(1088年)と聞いたことがありますから、凄いですね。

 空海は、828年(天長5年)に、貴族だけでなく、庶民にも開放して京都に綜藝種智院(廃校したものの、戦後に種智院大学として継承)を創設しており、日本で最も古い教育機関かなと思いましたが、 聖徳太子が 推古元年(593年)に 、仏教を学ぶ場として創建した四天王寺敬田院(きょうでんいん)があり、これが現在の四天王寺大学に発展したとも言われています。

 さて、空海の最大のライバル(?)といえば、最澄ですが、最澄が開いた天台宗比叡山延暦寺は宗教大学の総本山みたいなところで、ここで学んだ僧侶の中には、天台宗の基礎を築いた円仁をはじめ、融通念仏宗の良忍、浄土宗の法然、浄土真宗の親鸞、臨済宗の栄西、曹洞宗の道元、日蓮宗の日蓮ら多くの宗派の開祖を輩出していることからも分かります。

高野山 奥之院

 しかし、現在存在するその天台宗系の大学はほとんどなく、大正大学ぐらいなのです。大正大学は、私の出身大学のすぐ近くにあったので、よくキャンパスに入ったことがあります(教室はありませんが)。 落ち着いた雰囲気で、学生数も少なく、仏教系の大学だということは知っていましたが、宗派は知りませんでした。

大正大学は大正15年(1926年)、天台宗、真言宗豊山派、浄土宗の三宗の連合大学として創立します。 昭和18年(1943年)に智山専門学校も合併して、真言宗智山派も加わります。また、最近では、時宗も加わったようです。

 初代学長は、文部官僚で、東北帝大、京都帝大の総長も歴任した澤柳政太郎。「随時随所無不楽」(随時随所楽しまざる無し) が彼のモットーでしたね。大正大学出身者に、浄土宗宗務総長も務めた作家の寺内大吉がおります。

 仏教系大学はかなり多くありますが、一番有名なのは、親鸞の浄土真宗系大学でしょう。京都にある龍谷大学は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)、大谷大学は、真宗大谷派(東本願寺)で、全国に○○大谷大学も結構あります。

太田道灌像=芳林寺(さいたま市岩槻区)

 意外と知られていないのは、東京の駒澤大学が道元の曹洞宗系の大学だということです。起源は、天正20年(1592年)に駿河台の吉祥寺内に設けられた旃檀林学寮にまで遡ることができるといいます。この吉祥寺を創建したのが、かの太田道灌公で少し驚いてしまいました。江戸時代に入り、明暦の大火で今の駒込に移転しました。横浜の鶴見大学も、総持寺系の曹洞宗の大学です。

◇花園大学、妙心寺の算盤面

 京都の花園大学は、臨済宗の妙心寺派ですね。 明治5年(1872年)、境内に創設された旃檀林学寮にまで遡ると言われています。

 いつ誰が言ったのか定かではありませんが、京都の臨済宗の禅寺について、「妙心寺の算盤面、建仁寺の学問面、南禅寺の武家面、東福寺の伽藍面、相国寺の声明面、大徳寺の茶面」という格言(?)があります。

  妙心寺が何故「算盤面」と言われるのか、諸説あるようですが、国内にある臨済宗寺院約6000カ寺のうちの半数以上が妙心寺派の寺院で、財政的に厳しく、倹約と合理化に努めたから、らしいのです。

 日蓮宗系の大学には立正大学などがあります。

 天理大学や創価大学など、新興宗教系の大学もかなりありますが、小生の力及ばず、この辺でやめておきます。

失われた時を求めて=見つかった?高悠司

国立国会図書館

 久しぶりに東京・永田町の国会図書館に行って来ました。病気をする前に行ったきりでしたから、もう5年ぶりぐらいです。当時、ゾルゲ事件関係の人(ドイツ通信社に勤務してゾルゲと面識があった石島栄ら)や当時の新聞などを閲覧のために足繁く通ったものでした。

 今回、足を運んだのは、自分のルーツ探しの一環です。私の大叔父に当たる「高悠司」という人が、東京・新宿にあった軽劇団「ムーラン・ルージュ新宿座」で、戦前、劇団座付き脚本家だったらしく、本当に実在していたのかどうか、確かめたかったのです。

 高悠司の名前は、30年ほど前に、亡くなった一馬叔父から初めて聞きましたが、資料がなく確かめようがありませんでした。正直、本当かどうかも疑わしいものでした。

表紙絵は松野一夫画伯

 それが、最近、ネット検索したら、やっと「高悠司」の名前が出てきて、昭和8年(1933年)5月に東京・大阪朝日新聞社から発行された「『レヴュウ號』映画と演藝 臨時増刊」に関係者の略歴が出ていることが分かったのです。今回は、その雑誌を閲覧しようと思ったのです。

 最初は、雑誌ですから、「大宅壮一文庫」なら置いてあるかなと思い、ネット検索したらヒットしなかったので、一か八か、国会図書館に直行してみました。 

 何しろ5年ぶりでしたから、パスワードを忘れたり、利用の仕方も忘れてしまいましたが、「探し物」は、新館のコンピュータですぐ見つかりました。何しろ86年も昔の雑誌ですから、実物は手に取ることができず、館内のイントラネットのパソコン画面のみの閲覧でしたが、申請したら、コピーもしてくれました。カラーが36円、白黒が15円でした。

 国会図書館内では、一人で何やらブツブツ言っている人や、若い係の人に傲岸不遜な態度を取る中年女性など、ちょっと変わった人がおりましたが、税金で運営されているわけですから、多くの国民が利用するべきですね。

「 レヴュウ號」目次

 7月26日に発売され、同日付の産経新聞に全面広告を打っていた「月刊 Hanada」9月号には「朝日新聞は反社会的組織」という特大な活字が躍り、本文は読んでませんが、これではまるで朝日新聞社が半グレか、反社集団のようにみえ、驚いてしまいました。右翼国粋主義者の方々なら大喜びするような見出しですが、戦前の朝日新聞は、こうして、政治とは無関係な娯楽の芸能雑誌も幅広く発行していたんですね。

 とはいえ、この雑誌が発行された昭和8年という年には、あの松岡洋石代表が席を立って退場した「国際連盟脱退」がありましたし、海の向こうのドイツでは、ヒトラーが首相に就任した年でもありました。前年の昭和7年には、血盟団事件や5・15事件が起こっており、日本がヒタヒタと戦争に向かっている時代でした。

 そんな時代なのに、いやそういう時代だからこそ、大衆は娯楽を求めたのでしょう。このような雑誌が発売されるぐらいですから。

 目次を見ると、当時の人気歌劇団がほとんど網羅されています。阪急の小林一三が創設した「宝塚少女歌劇」は当然ながら、それに対抗した「松竹少女歌劇」も取り上げています。当時はまだ、SKDの愛称で呼ばれなかったみたいですが、既に、ターキーこと水ノ江滝子は大スターだったようで、3ページの「二色版」で登場しています。

 残念ながら、ここに登場する当時有名だった女優、俳優さんは、エノケン以外私はほとんど知りません。(先日亡くなった明日待子はこの年デビューでまだ掲載されるほど有名ではなかったみたいです)むしろ、城戸四郎や菊田一夫といった裏方さんの方なら知っています。

 面白いのは、中身の写真集です。(「グラビュア版」と書いてます=笑)「悩ましき楽屋レヴュウ」と題して、「エロ女優の色消し」とか「ヅラの時間」などが活写されています。それにしても、天下の朝日に似合わず、大胆で露骨な表現だこと!

 43ページからの「劇評」には、川端康成やサトウハチロー、吉行エイスケら当時一流の作家・詩人も登場しています。

レヴュウ関係者名簿

 巻末は、「レヴュウ俳優名簿」「レヴュウ関係者名簿」となっており、私のお目当ての「高悠司」は最後の54ページに掲載されていました。

 高悠司(高田茂樹)(1)佐賀縣濱崎町二四三(2)明治四十三年十一月三日(3)ムーラン・ルージュ(4)文藝部プリント(6)徳山海軍燃料廠製圖課に勤め上京後劇團黒船座に働く(7)四谷區新宿二丁目十四番地香取方

 やったー!!!ついに大叔父を発見しました。

 一馬叔父からもらった戸籍の写しでは、大叔父(祖父の弟)の名前は、「高田茂期」なので、ミスプリか、わざと間違えたのか分かりませんが、出身地と生年月日は同じです。(4)の文藝プリントとは何でしょう?同じムーラン・ルージュの伊馬鵜平(太宰治の親友)はただ文藝部とだけしか書かれていません。(5)は最終学歴なのですが、大叔父は、旧制唐津中学(現唐津西高校)を中退しているので、わざと申告しなかったのでしょうか。

 (6)は前歴でしょうが、徳山海軍燃料廠の製図課に勤めていたことも、劇団黒船座とかいう劇団に所属していたことも今回「新発見」です。 確か、大叔父は、旧制中学を中退してから佐賀新聞社に勤めていた、と一馬叔父から聞いていたのですが、その後、「職を転々としていた」一部が分かりました。

 (7)の香取さんって誰なんでしょうか?単なる大家さんなのか、知人なのか?新宿2丁目も何か怪しい感じがしますが(笑)、ムーラン・ルージュまで歩いて行ける距離です。想像力を巧みにすると面白いことばかりです。

いずれにせよ、この雑誌に掲載されている当時あったレビュー劇団として、他に「ヤパン・モカル」「河合ダンス」「プペ・ダンサント」「ピエル・ブリヤント」などがあったようですが、詳細は不明(どなたか、御教授を!)。「ムーラン・ルージュ」の関係者として6人だけの略歴が掲載されています。そのうちの一人として、天下の朝日新聞社によって大叔父高悠司が選ばれているということは驚くとともに、嬉しい限りです。

繰り返しになりますが、大叔父高悠司こと高田茂期は、ムーラン・ルージュを辞めて、満洲国の奉天市(現瀋陽市)で、阿片取締役官の職を得て大陸に渡り、その後、徴兵されて、昭和19年10月にレイテ島で戦死した、と聞いています。33年11カ月の生涯でした。

遺族の子息たちはブラジルに渡り、その一人はサンパウロの邦字新聞社に勤めていたらしいですが、詳細は分かりません。

この記事を読まれた方で、高悠司について他に何かご存知の方がいらっしゃっいましたら、コメントして頂けると大変嬉しいです。ここまで読んで下さり感謝致します。

「テレビに出る事は不安に押し潰され、自分を追い詰めること」=島田紳助さん激白

高野山「不動堂」

 ここ最近続いている一連の「吉本騒動」について、昨日発売の「週刊新潮」8月1日号が「独占激白『島田紳助』大いに嘆く!『親と子のケンカに弁護士が入ったらアカン!』『宮迫博之』『田村亮』造反劇へのやるせない悲憤」と題して特集しておりました。この記事の中で、広域暴力団幹部との交際が明るみに出て芸能界を引退(2011年8月、えっ?もう8年前!?)した元吉本興業の島田紳助さん(63)が内部事情を激白していました。

 島田さんが後輩芸人に対して何と言ったか、についてはこの記事を読んでいただくとして(見出しだけでも分かります=笑)、私が注目したのは、島田さんが自身の芸能界復帰について、どんな発言をするかでした。

島田さんは、こんなふうに言ってます。

「そろそろテレビに出たいやろ、て言うてくるけど、そんなん、出たいわけがない。もういっぺん頑張らなあかんやんか。1年以上リハビリしないと無理ですわ。テレビに出る言うことは、不安に押し潰されながら、とことんまで自分を追い詰める。それを繰り返していると、ノイローゼみたいになってまうよ」

 いやあ、これを読んで深く考えさせられました。紳助さんほどの大ベテランで、何ら怖いものが一切ない自信家に見えても、テレビに出ることは相当な覚悟が要り、プレッシャーと闘い、不安に襲われていたことが分かり、意外だったのです。

 考えてみれば、「目立ちたい」とか「有名人になりたい」とか、ヒトには功名心とか、自己顕示欲は誰にでも持ち合わせていても、テレビに出れば、顔や名前が割れるだけでなく、住まいや家族構成までプライバシーも筒抜けで、酔っ払って醜態を晒すわけにはいかず、暴漢に襲われる危惧がなきにしもあらずで、平穏無事に安心して暮らせるとは限らなくなります。

 それでも「目立ちたい」「スターになりたい」というヒトに限って、そして何よりも大スターになったヒトに限って、必ずと言っていいくらい、家庭的に複雑だったり、生い立ちが不幸だったりします。まず、普通の平凡で幸せなサラリーマン家庭で育った大スターは皆無に近いです。

 汚泥に咲く蓮の花が綺麗なのと同じです。大衆に憧れや希望をもたらすスターのオーラが輝かしければ、輝かしいほど、指す影は深く暗いのです。(他に色々とあるのですが、これ以上は茲に書きません)

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 島田紳助さんの発言が載った同じ週刊新潮に、東映の大スターだった菅原文太の評伝が連載されていましたが、文太さんも幼少のとき両親が離婚するなど複雑な家庭で育ったことが描かれていました。(父親は河北新報の記者だったのに、画家を目指して退職して離婚)

 もう一人、真逆で、7月18日に起きた(ワイの誕生日やないけ!)悪名高い「京都アニメーション」放火殺人事件の青葉真司容疑者(41) の生い立ちもこの週刊誌に書かれていましたが、やはり、想像した通り、かなり複雑な家庭環境で育っていました。(両親は離婚し、父親に引き取られるも、タクシー運転手だった父親は事故を起こして廃業し自殺)勿論、複雑な環境に育ったからということで、犯罪を犯すとは限らないわけで(逆は真ではない)、彼に情状酌量はなく重罰に処すべきだとは思いますが。

 ということで、昨日発売された週刊誌のことを書きましたが、昨日このブログに書かなかったのは、「ブログの読者を増やしたい」という自分の浅ましさが昨日はつくづく嫌になったからでした。

 それに、島田紳助さんではありませんが、ブログを書くことによって、「不安に押し潰され、自分が追い込まれる」気分になることがあるのです。私自身、なるたけ自分の顔と諱(いみな)を出すことを避けていますが、不特定多数向けに書いてますから、因縁をつけようと思えば、できなくもありませんし、私のプライバシーを調べ上げて、考え方が違うという単純な理由で襲撃することもできます。

ま、考え過ぎかもしれませんが。

元祖アイドル明日待子さんの訃報に接して

 本日、戦前から戦後にかけて「元祖アイドル」と言われた女優明日待子(あした・まつこ、本名須貝とし子、1920~2019年)さんの訃報に接しました。享年99。

 何よりも、まだご健在だったことに驚き、叶わぬことでしょうが、もしその事実を知っていたなら、生前にお話を伺いたかったなあ、と思いました。

 私が彼女の名前を初めて聞いたのは、30年ほど前です。戦前から戦後にかけて新宿にあった大衆劇場「ムーランルージュ新宿座」(1931~51年)の看板女優だったという話を佐賀の一馬叔父(父親の弟)から聞いたことでした。最初聞いた時は、随分変わった分かりやすい芸名だなあ、ということぐらいで、それ以上はどんな女優だったのか知る由もありませんでした。

 当時、一馬叔父さんは自分の九州の高田家のルーツ探しに非常に熱心で、戸籍やら曾祖父が残した書き物などを元に系図を作ったりして、コピーも送ってくれました。その中で、叔父の叔父に当たる高田茂期(私から見て祖父の弟に当たる大叔父)が、昭和7~8年に、このムーランルージュで座付き脚本家として活動したことがあり、ペンネームとして「高悠司」という名前を使っていたという話を聞いたのです。

 しかし、当時は今ほどネットに情報が溢れていたわけではなく、知る由もなく、「高悠司」という人がいたかどうかも不明でした。当時、私は演劇担当の記者をしていたため、その折に知遇を得た演劇評論家の向井爽也氏(古い民家の絵を描く著名な向井潤吉画伯の長男で元TBSのディレクター)に、高悠司について伺ってみると「聞いたことないなあ」と一言。その代わり、ムーランルージュ関係の本を1冊紹介してもらいました。その本のタイトルは忘れましたが(笑)、勿論、高悠司の名前などありませんでした。

WT National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua  明日待子さんの写真が著作権の関係で使えないので、リンク先でご参照ください。

 それが、最近、ネットで検索したところ、高悠司の名前が2件ヒットしたのです。1件は、大恥を晒しますが、私が2006年5月28日の《渓流斎日乗》に書いた記事(笑)。もう1件は、1933年に東京朝日新聞社から発行された「レヴュウ號」映画と演芸・臨時増刊(54ページ、50銭・26x38センチ判)の索引の中に出てきたのです。名前だけですが、有馬是馬 、春日芳子といった俳優のほかに、関係者(座付き作家?)として伊馬鵜平(太宰治の親友としても有名)、斉藤豊吉らとともに高悠司の名前が並んでいたのです。

 嗚呼、今は亡き叔父の言っていたことは本当だったんだ!実在していたんだ!と感激しました。いつか、この雑誌を国会図書館が何処かで閲覧させてもらおうかと思いました。

 さて、ウイキペディアの「ムーランルージュ新宿座」によると、明日待子さんは、上に出てきた俳優の有馬是馬に発掘されて1933年に入団、とあります。昭和7(1932)~同8(1933)年頃に在籍した大叔父高悠司と接点があったかもしれません。明日待子さんが存命と知っていたら、その辺りを聞いてみたかったのです。(一馬叔父の記憶では、高悠司は当時、湘南地方で起きた事件を題材に脚本を書いたところヒットして、二カ月のロングランになったらしい。また、彼はヴァイオリンも演奏したらしいですが、真相は不明です)

 明日待子さんは、デビューすると瞬く間に人気アイドルとなり、カルピスや花王石鹸、ライオン歯磨きなどの宣伝ポスターに引っ張りだこ。原節子、李香蘭と並ぶ「元祖アイドル」と言われる所以です。

 ムーランルージュには、座付き作家として、吉行淳之介のご尊父吉行エイスケや龍胆寺雄ら、俳優歌手には、左卜全、益田喜頓、由利徹らも関わっていたんですね。戦後生まれの私は勿論知りませんが、ボードビル風の軽喜劇もやっていたことでしょう。

◇ルーツ探し

 大叔父高悠司こと高田茂期の消息については不明な部分が多いのですが、旧制佐賀県立唐津中学(現唐津東高校)を中退し、佐賀新聞社に勤務。その後、兄である私の祖父正喜(横浜で音楽教師をやっていた)を頼って上京し、職を転々とした挙句にムーランルージュで脚本家の職を得たようです。そして、何かのツテがあったのか、そのムーランルージュも辞めて満洲に渡り、奉天市(現瀋陽市)で阿片取締役官の職に就き、その後、徴兵され、昭和19年10月のフィリピン・レイテ島戦役(フィリピンで俘虜となり、レイテ島に収容された大岡昇平の「レイテ戦記」に詳しい)で戦死したと聞いています。享年33。

 長らく自分の「ルーツ探し」はサボって来ましたが、また復活したいと思っています。

「幕末下級武士の絵日記」の作者尾崎石城さんのお墓参りをしたくなりました

来月8月に京都に行くことになっています。

京洛先生のお導きですが、最近、寺社仏閣巡りにスイッチが入ってしまったので、京都は本当に楽しみです。歴史ある京都は、ほんの少し歩いただけで、名所旧跡、古刹名刹だらけですからね。

◇安養寺と安養寺

 今回は目的がありまして、村上純一氏が住職を務める京都市左京区にある「青龍山安養寺」(浄土宗)を訪問することです。村上氏は作家村上春樹氏の従兄弟に当たる方で、小生が今年5月のブログで、思い込みの勘違いで、同じ京都市の安養寺でも、 東山区にある「慈円山安養寺」吉水草庵(時宗)の方だとご紹介してしまい、村上氏ご本人から間違いを指摘されてしまった経緯がありました。繰り返しになるので、これ以上述べませんが、御住職にお会いして、仏教の宗派の違いや、現代仏教の問題点などをお伺いすることを楽しみにしています。

 お目にかかるのはちょうどお盆の頃でして、お盆は、新幹線指定席の予約が取りにくい話を聞いてしまいました。その前に、お盆シーズンは割引切符が効かないことも知らされました。京洛先生に相談すると、新橋の安売りチケット屋をウロチョロするなんて貧乏臭くて野暮ですねえ。(それ、ワイのことやないけ!)JR系旅行代理店で予約すると、ホテルと往復切符付きで格段に安く買えますよというので、そうしようかと思ったら、やはり、お盆シーズンだけは割高で、べらぼうに高いことも分かりました。

 そう言えば、私が京都を訪問するのはシーズンオフが多く、お盆に訪れるのは学生時代以来数十年ぶりだということに気がつきました。

◇JR社長に告ぐ

 慌てて、1カ月前に東京・有楽町駅のみどりの窓口に朝の9時過ぎに行ったところ、係りの人が「午前10時からしか販売できません」と言うのです。「えーー」です。仕事が始まってしまうのです。独占企業のJRさんよ、せめて、午前9時からの販売にするべきではないでしょうか! 仕方がないので、昼休みの13時ごろに行ったら、やっと指定券が買えました。ヤレヤレです。

 さて、この間から、 大岡敏昭著「新訂 幕末下級武士の絵日記 その暮らしの風景を読む」(水曜社 )を少しずつ読んでいますが、自分自身が幕末の下級武士になった感じです。タイムマシンがなくても、こういう本を読めば、いつでも過去の時代に暮らしている感覚になれます。

 絵日記の作者は、謹慎中の忍藩(現埼玉県行田市)の下級武士尾崎石城(隼之助)でしたね。先日のブログ(2019年7月19日)で、この本をご紹介した時に、「石城さんの生まれが天保12年となっているが、年齢が合わずおかしい」と書きましたが、後ろの彼の年譜を見たら、「文政12年生まれ」と書かれていました。文政12年なら1829年です。これなら平仄が合います。

 単純ミスなんでしょうが、このほか、93ページの「左端」は「右端」の間違い、97ページの「72図」は「74図」の明らかに間違い・・・と、ちょっと校正が杜撰な感じです。

◇大酒呑みの石城さんと和尚さん

 絵日記の作者尾崎石城は、毎晩のように寺や友人宅や料亭などで、僧侶や町人や女性も交えて酒盛りをして遊びます。田楽、紫蘇茄子、玉子焼き、茶碗蒸し、むきミにつけ、志ゝみ汁などその日何を食したかメニューも伝えてくれます。

 スマホどころか電話も、テレビも映画もない時代です。何を楽しみにしていたのかというと、いわゆる田舎芝居や、浄瑠璃、酒の勢いに任せた即興の歌舞、それに、仏様の誕生日である花祭りや金比羅祭りなどの祭祀、そして、植物を愛でたり、石城さんの場合は、襖絵や屏風絵などのために写生したりしているのです。下級武士だけでなく中級武士との交流もあり、石城さんは毎日、誰か5~6人と、驚くほど多くの人と会い、交流しているのです。

 聖職に就き、「斎戒沐浴」しているはずの大蔵寺の宣孝和尚も、龍源寺の猷道和尚も大酒呑みの女好きで、時には二日酔いで寝込んだり、大変魅力的な人物に描かれています。

◇半端じゃない読書量

 また、学問好きの石城さんの読書量は半端じゃなく、中国の古典として「左傳十五巻」「六経略記十巻」「史記評林二十五巻」「論語新注四巻」「書経集注六巻」「荘子林注十巻」など、我が国では、賀茂真淵「万葉考三巻」、新井白石「藩翰譜」、「源氏忍草十巻」「古今集」「和漢朗詠集」「俳諧七部集」、徳川家康「御遺訓」、平田篤胤「古道大意」…とキリがないほどです。

 これだけの学問を積んだ人ですから、この絵日記が書かれた6年後に明治維新となり、石城さんは一連の咎めが赦免され、藩校培根堂(ばいこんどう)の教頭に抜擢されます。しかし、明治4年(1871年)に廃藩置県となり、藩校も閉校され、その後、石城さんは宮城県に移り、租税事務の中位の役人になります。そして、明治9年(1876年)にその地で死去し、仙台元寺小路の「満願寺」に葬られたということです。享年47。

 もし、仙台に行く機会があれば、満願寺に行って尾崎石城さんのお墓参りをしたいと思いました。年金も社会保障も人権もない時代。石城さんは、貧しい子どもたちをしばしば食事の席に呼んだりします。心優しい石城さんにはそれぐらい入れ込んでしまいました。

岩槻大師~浄国寺~芳林寺=岩槻の英雄太田道灌

太田道灌公像

 最近、週末に時間があれば、関東近辺の「城巡り」を日帰りで蛮行していることは、このブログの熱心な愛読者の皆様には御案内の通りです。

 でも、先日、高野山に行ったおかげで、スイッチが入り、「寺社仏閣巡り」がそれに加わりました。お城と寺社は切っても切れない縁がありますから、まるっきり唐変木な話ではないのですが…(笑)。

岩槻大師

 そこで目指したのが、武蔵国岩付(現さいたま市岩槻区)にある「岩槻大師」です。大師が付きますから、当然、空海の真言宗の寺院です。ここの地下にある仏殿をお参りすると、四国八十八カ所お遍路参りと同じ功徳が得られるという噂を小耳にはさんだので、行かないわけにはいきません(笑)。

岩槻大師

 この寺の正式名称は「光岩山釈迦院岩槻大師弥勒蜜寺」。パンフレットには「くしくも真言宗の宗祖弘法大師空海さまご誕生の年、光仁天皇の宝亀5年(774年)の草創と伝えられる」と書かれています。

 あれっ?真言宗とは、唐に留学した空海が恵果和尚(けいか・かしょう)に灌頂された密教を806年に日本に帰国して伝えたのではなかったのでしょうか?真言宗が成立したのも、高野山を開祖した816年という説が有力です。

 ま、堅いことは抜きにして、例の四国八十八カ所お遍路参りと同じ功徳が得られるという「地下仏殿」にお参りしようとしたら、ちょうどその日に「得度式」なるものが本堂で行われていたため、お参りできませんでした。残念。

 そこで、前回書けなかった高野山のことを付記します。空海(774~835年)は60歳9カ月で入定しますから、高野山の壇上伽藍は、金堂や大塔などを建てただけで、未完成のままでした。そこで、壇上伽藍を完成させたのが、弟子の真然(804~891年)でした。真然は、空海の甥に当たり、空海の実弟である真雅(801~879年)から灌頂を受けました。

 東寺長者だった真雅は、清和天皇の信任が篤く、摂政藤原良房と結び貞観寺を創建し、死後、法光大師の諡号(しごう)を受けています。古代中世近世の政治史は、天皇、藤原家、武士だけでなく、仏法僧の世界が分からなければ理解できないことがこれで分かります。

  真然は、貞観18年(876年)、東寺長者真雅から「三十帖冊子」(空海が密教の典籍を書写した冊子)を借覧し、高野山に持ち帰ったので、これが後に、高野山と東寺との間に紛争が生じ、高野山が荒廃する原因となりました。

 真言宗を復興した中興の祖の一人と言われるのが平安中期から後期にかけて活躍した蓮待(れんたい=1013~1098年)で、全国を行脚した高野聖の先駆とみられ、「南無大師遍照金剛」という大師宝号を最初に唱えた僧侶だとも言われてます。

 ということは、真言宗の宝号である 「南無大師遍照金剛」は、空海が唱えたのではなく、空海入定後200年も経って生まれたことになります。

 ま、細かいことはこの辺にしておきます。。。

浄土宗 浄国寺

 次に訪れたのは、浄国寺です。

 実は、東武野田線岩槻駅の観光案内所で頂いた地図を手掛かりに岩槻大師を探したのですが、方向音痴の私は、道を間違えて、かなり時間をロスしてしまいました。

 が、岩槻大師から浄国寺への道順は迷わず行けました。境内はなかなか広かったです。

 何で、このお寺を訪れたかと言いますと、関東の寺社仏閣の来歴について、こと細かく書かれているネットサイトの「猫の足あと」に「関東の名刹寺院」として紹介されていたからです。

 浄国寺は「関東十八檀林」の一つのようですが、詳細は上の写真をお読み下さい。岩槻藩主を務めた阿倍家の墓もあります

曹洞宗 芳林寺

次に向かったのは芳林寺。岩槻駅の観光案内所で、「是非行かれるといいですよ」と勧められたのが、この芳林寺でした。

太田道灌ゆかりの寺だというのです。

太田道灌公像

 太田道灌は、この岩槻城だけでなく、河越(川越)城、江戸城を建てた戦国武将(扇谷上杉氏の家宰)で、特に江戸城を引き継いだ徳川家康らによって神格化されました。

太田道灌御霊廟

 太田道灌像は、東京の日暮里にもありますが、岩槻にもあるとは知りませんでした。

 岩槻市民も太田道灌への思慕が強かったですね。

 道灌の事績については、上の碑文によくまとめられています。

 今回は、ちゃんと「城巡り」と「寺社仏閣巡り」が一致しました。

真言宗の最高儀式「後七日御修法」

高野山 大門

 先週、高野山に初めて参拝する機会に恵まれたため、真言密教に、より興味を持つようになりました。真言宗については、このブログでも何度か取り上げておりますが、自分が書いたものでもすぐ忘れてしまいます(苦笑)。

 真言宗には「豊山派」や「智山派」など色々な「派」がありますが、不勉強のせいか、その経緯については詳しく知りません。

 そこで、調べたところ、私が1年に1度は訪れている京都にある東寺(教王護国寺)は、真言宗の総本山だということは知っていましたが、有名な仁和寺も醍醐寺も真言宗だったんですね。恥ずかしながら、宗派は少しも気にせずにお参りしておりました。

 もう一つ、自分の恥を晒しますが、関東では、川崎大師や佐野厄除け大師は、初詣に多くの参拝者が訪れ、「大師」が付くので真言宗の寺院だということはよく知っておりましたが、成田山新勝寺も真言宗(智山派)だったとは、意識しておりませんでした。駄目ですねえ。

 少し話を脱線しますと、成田山新勝寺は、江戸時代以来、歌舞伎役者市川団十郎が篤く信仰し、屋号も「成田屋」にしていることは御存知の通りです。高野山の奥之院にも初代市川団十郎の墓所がありました。ところで、近く団十郎を襲名する市川海老蔵の若くして亡くなった奥さんの旧姓は小林麻央(まお)さんでした。海老蔵は真言宗の開祖空海の俗名が佐伯真魚(まお)ということを知ってましたから、初めて麻央さんと会った時に、ピンと来て、結婚に踏み切ったといいます。

高野山

 本題に戻します。真言宗の「派」でした。これは「真言宗十八本山」といって、真言宗には主要な派として16派18総本山あるというのです。主なものを挙げると、高野山の総本山・金剛峰寺が「高野山真言宗」、京都の東寺(教王護国寺)が「東寺真言宗」、京都の智積院が「智山派」、京都の仁和寺は「御室派」、 覚鑁(かくばん)上人が開山した和歌山県の根来寺が「新義真言宗」、奈良県の長谷寺が「豊山派」などです。皇室ゆかりの寺院として知られる泉涌寺は「泉涌寺派」、大覚寺は「大覚寺派」とそのままですね。

 最初に「自分が書いたものをすぐ忘れる」と書きましたが、京都にお住まいの京洛先生から「毎年1月に後七日御修法(ごしちにち みしほ)の記事と写真をお送りしておりましたが、覚えていないのですか?」との御下問がありました。

 えーと、何でしたっけ?その後七日御修法とかいうものは?

 駄目ですねえ。

  後七日御修法とは、毎年新年1月8日~14日までの7日間執り行われている真言宗の最高儀式で、全国の真言宗の16派18総本山の長老、高僧が一堂に会します。平安時代初めの承和元年(834年)、仁明天皇が空海の進言で宮中で始めた「国家安泰」を祈願したことが始まりと言われています。途中で断絶したこともありますが、1000年以上続いている儀式です。

 後七日御修法に毎年選ばれる高僧は15人で、その資格は70歳以上です。その中で、さらに大阿闍梨(導師)になれるのは、何回も、後七日御修法に選ばれて出仕した高僧だけです。しかも、御七日御修会が行われる灌頂院の堂内は寒いので、昔は、ここで亡くなった方も居られたといいます。

 ーということなどを、今年も昨年も一昨年もこのブログに書いていたんですね。すっかり忘れておりました(苦笑)。

【ご参考】2018年1月15日「京都・東寺の「後七日御修法」で取材敢行=京洛先生登場」、2019年1月15日「京都・東寺で御修法=真言宗最高の秘儀