ランチで2~3万円はとても、とても=「銀座百点」12月号を読んで

 「銀座百点」という冊子があります。1955年に創刊、ということは今年で65周年にもなります。

  銀座に出店している小売店から大型店まで会員になっている協同組合「銀座百店会」が発行しています。紳士服の英國屋、カバンのタニザワ、真珠のミキモト、文房具の伊東屋、それに三笠会館や歌舞伎座、近年銀座に進出したユニクロまで現在会員数は125店に上ります。


 銀座百店会の広報誌的役割を持つのがこの「銀座百点」です。広報誌的とは言ってもあまり宣伝臭くなく、創刊号から久保田万太郎、吉屋信子、源氏鶏太ら一流作家が執筆し、また同誌に連載された作品で、向田邦子「父の詫び状」、池波正太郎「銀座日記」などがベストセラーになったりしています。

 年間定期購読料は4248円ですが、私は銀座の店で食事をしたり、物を買ったりした時、加盟店の店頭に「ご自由にお持ち帰りください」と置いてある時があるので、たまに貰っていくことがあります。

 先日は、銀座の天ぷら「ハゲ天」に久しぶりにランチをし、ハゲ天も銀座百店の会員で、お店にこの冊子の最新12月号が置いてあったので、お店の人に断って持ち帰ったのです。

 久しぶりに読んでみたら、私の大学時代の同級生・生駒芳子さんが「審美眼が求められる街」というタイトルで、エッセイを書いておられました。出世されましたねえ(笑)。彼女はファッション雑誌「マリー・クレール」の編集長なども歴任したファッション評論家ですが、10年前に、金沢に行って伝統工芸に目覚めてからは、「伝統工芸・ファッションプロデューサー」の肩書で今はお仕事されているようです。

 彼女が駆け出し雑誌ライターだった頃、東銀座のマガジンハウス(恐らく当時は平凡出版だったかも)にほぼ毎日、朝まで詰めて原稿を書いていたらしく、その時に一番楽しみにしていたのが、歌舞伎座の裏にあった「さつまや」というご飯屋さん。「そこで頂くおでんやお魚定食は、美意識に溢れた本物の味」と書かれていたので、「行ってみようかなあ」と思ったら、程なくして閉店してしまったそうです。嗚呼、残念でした。

 ほかに、私も25年ぐらい昔、六本木の事務所でインタビューしたことがある作曲家の三枝成彰さんが「いつまでも特別な場所」というタイトルで、同氏が贔屓にしている行きつけの銀座の店を書いておられます。

 そしたら吃驚、ビックリ、そのまたびっくりです。

 三枝氏ご贔屓の「すきやばし次郎」はミシュランが認めた超一流の寿司店ですが、確か、ランチでも3万円はくだらない値段です。数寄屋橋通りのおでん店「おぐ羅」は、グルメネットの相場を検索してみると、7000円ぐらい。歌舞伎座の向かいの路地にある京料理「井雪」は、「日本料理の神髄が味わえる」らしいのですが、5万円から6万円。新橋演舞場近くにあるステーキ店「ひらやま」は、「肉好きの方には是非一度、行っていただきたい」と三枝先生は仰いますが、ランチが1万5000円~2万円、ディナーは5万円~6万円が相場のようです。

東銀座「井雪」 「日本料理の神髄が味わえる」そうですよ。

 並木通りのフレンチレストラン「ロオジエ」は、三枝氏がよく行かれる店のようですが、こちらもランチが1万5000円~2万円、ディナーは5万円~6万円。「金春湯」の近くにある高級居酒屋「大羽」も「好きな店だ」と書かれてますが、2万円~3万円。

 まあ、これぐらいにして、凡夫の私が吃驚仰天するのはお分かりになって頂けたかもしれません。何しろ、私は「銀座で500円のランチが食べられた!」と嬉々としてブログに書くような輩ですからね。人間的にも器が小さい、小さい。我ながら嫌になりますよ。

 でも、オペラも作曲される三枝氏のような大物の有名作曲家ともなると、毎日のようにランチ2~3万円、ディナー5~6万円は普通で何ともないんですね。協奏曲や管弦楽曲などのほかに、映画音楽やテレビニュースのテーマ曲、CMなど作品の印税が入って来るからだと思われます。人間的にも器が大きくなるはずです。

 

どうなる眞子さま、ご結婚問題?=そして、橋田壽賀子先生の思い出

  今、世間ではあの話題で騒然、まさに沸騰しています。

 戦前なら「不敬罪」で、獄中入り間違いなしでしょうが、自由と民主主義の成熟した国家になった今は大丈夫だからなのでしょう。多少、度が過ぎた報道もありますが…。

 例えば、週刊文春は、「総力取材」と称して「虚栄の履歴 小室さん母子の正体」「抗議殺到、職員連続退職…追い詰められる秋篠宮家」と見出しだけで内容が分かるような書き方です。中には「高3 社長令嬢との交際に母歓喜『いいじゃない!』」は、笑わせてもらいました。

 いつも斜から世間を見据える週刊新潮は、「『眞子さま』ご結婚でどうなる 『髪結いの亭主』との生活設計」と大見出し。眞子さまを何でかぎかっこにするのか不思議です。あの世間を騒がせている眞子さま、と強調したいんでしょうか(笑)。中見出しの中には「『あの方々が親戚になるの…』女性皇族から戸惑いの声」とインサイダー情報まで載せています。

 もう一つ、同誌では「『皇室を揺るがす婚姻』に思う」と題して識者にインタビューしています。この中で、脚本家の橋田壽賀子さんが登場し、「渡る世間に佳代さんがいても」などととコメントしています。

 で、お前さんはその週刊誌を買ったのかい?と聞かれそうですが、これだけ充実した(?)見出しを読まされると、何か、全文読んだ気になってしまい、もうお腹いっぱいです(笑)。特に、私なんか、見出しを読むどころか、こうして、わざわざ、一字一句書き写していますからね。勿論引用として。

 ところで、最後に引用した橋田壽賀子さんには、個人的な思い出があります。

京都・光明寺 Copyright par Kyoraquesensei

 今ではシリーズ化して日本人なら知らない人はいないドラマ「渡る世間は鬼ばかり」をTBSが開局40周年企画として初めて製作発表した1990年のことですから、もう30年も昔の話です。

 マスコミ用語に「かこみ」取材というものがありますが、椅子に座って対峙した正式な記者会見のほかに、懇親会か何かで、対象者を囲んで話を聞いたりする取材があり、「かこみ」はその後者を指します。その「渡る世間…」の製作発表の直後だったか、後日改めて大々的に開かれた懇親会だったか忘れてしまいましたが、長山藍子さんや中田喜子さんといった女優さんと一緒に脚本家の橋田さんも参加していました。

 その時、橋田さんを囲んだのは私を含めて3人か4人ぐらいだったと思います。私はもともと、こういった家庭ドラマは興味も関心もないし、嫁と姑めの古典的な争いも何かマンネリみたいな感じだったので、仕事として適当に話を聞いていました。

 橋田先生は饒舌な方で、喋るは、喋るは…。「早く終わらないかな」といった表情を私がしたのかもしれません。突然、喋り続けていた橋田先生が、ピタッと話をやめ、よりによって、私の傍に近寄ってきて、「ああた、さっきから私の話、聞いてないでしょ!!」と怒り出したのです。

 「その通りです」と正直に告白するわけにもいかず、「いいえ、そんなことありませんよ。一生懸命聞いてますよ」と、冷や汗をかきながら自己弁護するのに必死になったことを今でも覚えています。(橋田先生は、TBSの社長が車寄せまでお出迎えするほど超VIPだということは後で知りました)

 ということで、正直、私自身、日本人なら知らない人はいない著名ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」を全編通して真面目に見たことはありません。そして、今でも橋田壽賀子先生の「ああた、さっきから私の話、聞いてないでしょ!!」というお言葉が、耳の奥にこびりつくように残っています。

でも、どうして分かっちゃったのかなあ? 正直者なので、顔に出ちゃうのかなあ…?橋田壽賀子先生、覚えていますか?

スウイング感に痺れました=エラ・フィッツジェラルド「エラ ~ザ・ロスト・ベルリン・テープ」

 久しぶりに、本当に久しぶりにCDレコードを買いました。

 20世紀最高の女性ジャズ・ヴォーカリストの一人と言われるエラ・フィッツジェラルド(1917~96)の「エラ ~ザ・ロスト・ベルリン・テープ」(ユニバーサル)です。

 「最高の一人」という言い方も変なのですが、「女王は、ビリー・ホリデイだ」「いや、サラ・ヴォーンでしょう」という人がいるからです。あとは好みの問題でしょう。

 このアルバムは、音楽プロデューサーで、「ヴァーヴ」などのジャズレーベルを創設したノーマン・グランツ(1918~2001)がプライベート・コレクションとして保管していた未公開ライヴ・テープをCD化したものです。テープは最近になって発見されたそうです。これは1962年にベルリンで録音されたライヴ音源で、私も先日、FMラジオで初めて聴いて、すっかり魅せられてしまい、久しぶりにレコード店に足を運んだわけです。

 エラのベルリン・ライヴといえば、1960年に録音された有名な「マック・ザ・ナイフ~エラ・イン・ベルリン」があり、これはグラミー賞受賞した名盤です。

 でも、はっきり言って、同じベルリン・ライヴでも、私自身は、こっちの62年録音の「ザ・ロスト・ベルリン・テープ」の方が好きですね。

  スウイング(ノリ)感が全然違います。特に、60年盤でタイトルにもなって有名になった「マック・ザ・ナイフ」は、62年盤では脂の乗り切ったといいますか、少女のような可憐さとベテランの熟練さを合わせ持ったようなヴォーカルです。途中で、乗りに乗ってサッチモ(ルイ・アームストロング)の真似もしています。調べてみたら、この時彼女は45歳だったんですね。

山野楽器の入り口は狭くなりました

 60年盤はギターも入ってますが、62年盤は、ポール・スミスのピアノ、ウィルフレッド・ミドルブルックスのベース、スタン・リーヴィーのドラムスのトリオ。わずか3人なのに、オーケストラのような厚みのある音色を奏でるのです。特に、エラのお気に入りのスミスのピアノは、ピカ一ですね。音楽理論に詳しくないのですが、ジャズ・ヴォーカルのピアノ演奏は、クラシックともロックとも違い、独特というか、異様です。不協和音に近い独特の度数の兼ね合いで、さすがプロ、よくぞ、音程を外さないで唄えるものでした。勿論、この微妙な不協音が、聴く者に心地良い緊張感も与えてくれます。

 1962年といえば、ちょうどビートルズがデビューした年です。エラの「ザ・ロスト・ベルリン・テープ」には「ハレルヤ・アイ・ラブ・ヒム・ソー」も収録されていました。この曲は、1957年のレイ・チャールズのヒット曲ですが、デビュー前のビートルズがドイツのハンブルクで演奏していた曲だったので、「おー、あの曲だあ」と思ってしまいました。

 今はネットで情報が沢山入ってきます。調べてみると、エラの生涯も子どもの頃に孤児院に入れられたり、早く親を亡くしたり、幸せな環境で生育したとはいえませんでした。二度の離婚経験もありました。孤児などという境遇はフランス・シャンソンの女王エディット・ピアフに似ていますね。ジョン・レノンも子どもの頃に両親に「捨てられた」というトラウマが大人になってもなくなりませんでした。歴史に残る大スターに共通しているので、子どもの頃の不幸は、スーパースターになる条件にさえ思えてきてしまいました。

 このCDを買ったのは、東京・銀座の山野楽器です。半年ぐらい、ビルを改装していましたが、新装開店したこの店に入って吃驚です。2階を中心に、大手携帯電話会社のショップが入居し、CDレコードは4階に追いやられていました。

 しかも、演歌もロックもクラシックもジャズも同じフロアです。以前は、地下にDVDがあり、1階はJ-POPSや演歌、2階は確か(笑)クラシック、3階は確か(笑)ジャズと別れていたのに、凄い縮小ぶりです。

携帯電話ショップになってしまった山野楽器

 つまりは、皆、CDを買わなくなっちゃったということなんでしょうね。今、ネットでユーチューブもあれば、スポッティファイもあり、わざわざお金を出さなくてもタダで音楽は見たり聴いたりできちゃいますからね。

 それに、少子高齢化でピアノを始め、楽器を買う家庭も少なくなってしまったのかもしれません。

 小生は14年前に、この山野楽器で思い切って、目の玉が飛び出るほど高いフォークギター「マーチンD-28」を買ったことがあります。このギターは、ビートルズのプロモーションビデオの「ハローグッドバイ」でジョン・レノンが弾き、映画「レット・イット・ビー」の中では、ポール・マッカートニーがこのマーチンで「トゥ・オブ・アス」を唄っていました。

 山野楽器のギターショップも縮小されたでしょうが、何か哀しくて、そこまで行けませんでした。

朝日新聞が危ない!?=中間決算で419億円の大赤字

 昨日、朝日新聞社が2020年9月中間連結決算を発表しましたが、純損益が約419億円の大赤字だったことを明らかにしました。新型コロナウイルス感染拡大の影響を受け、売上高が前年同期比22.5%減の1390億円余だったらしいのですが、それにしても赤字幅が莫大です。9年ぶりの赤字だそうですが、渡辺雅隆社長は来年4月1日に社長から退き、中村史郎副社長を後任とする意向を表明しました。

 若い人の新聞離れで、購読者が激減したことが赤字の原因であることは確かですが、もう一つ、広告収入の激減も要因だと思われます。コロナ禍では、旅行の広告はほぼゼロになりましたし、宝飾品やブランドものの高級品も売り上げが落ち、広告を出稿するどころではありません。

 朝日は日本一のクオリティーペーパーだというのに、昔だったらプライドが邪魔して掲載しなかった摩訶不思議な滋養強壮剤や三流の格落ちの通販の広告ばかりで穴埋めするようになりました。

 結局、本業の新聞業では儲からないので、東京・銀座の一等地などにある不動産業で鎬を削っているのが実情です。別に朝日だけでなく、天下の読売新聞も毎日新聞も似たような状況です。

 今や新聞業界は斜陽産業化し、優秀な人材も入って来ないという悪循環に悩まされています。でも、これは、単に、新聞業界だけの問題ではなく、日本全体の問題になることをほとんどの人は知りません。健全なメディアがあってこそ、健全な国家ができるからです。政治家の汚職をチェックする報道機関が劣化すれば、悪徳政治が蔓延るわけです。

 とはいえ、そういう危機的状況が日増しに深刻になってきました。誰が、こんな状況を想像できたことでしょうか?

 勿論、一番大きい原因は、インターネットの発達だと思いますが、それ以外にも要因があると私は睨んでいます。

 特に朝日新聞は日本を代表する新聞社です。それが故に、取材記者も社風もかなり傲慢な点が垣間見られ、私自身のかつての経験から、「驕れるものも久しからず」と、いつか朝日新聞は衰退するのではないかと思ったことがあったのです。

 もう時効ですから、この際、書いてみます。今から28年ぐらい昔の1993年1月のことでした。

Mt Fuji Copyright par Duc de Matsuoqua

 園山俊二という漫画家がいました。私も「はじめ人間ギャートルズ」とか「花の係長」などを愛読していました。彼は、その1993年1月20日に57歳の若さで亡くなるのですが、その翌日の21日の午前11時頃だったと思います。私は当時、通信社の文化部記者でした。デスクにいたら、「どうも園山俊二さんが亡くなったらしい」という一報というか、噂が流れてきました。著名人ですから、訃報記事を書かなければなりません。

 私は、早速、園山さんの自宅に電話しました。そしたら、電話に出てきた遺族らしき方から「そういう話でしたら、朝日新聞の方に聞いてください。そちらが窓口になっていますから」と仰るので、朝日に電話を掛け直しました。

 園山さんは前年の12月まで朝日新聞に「ペエスケ」という四コマ漫画を長期連載していたので、「窓口」になることは理にかなっていました。

 そして、朝日新聞の代表に電話をし、こちらの名前と所属もはっきりと伝えて、担当者につないでもらいました。そしたら、出てきたその「担当者」らしき人物は「今日のウチ(朝日新聞)の夕刊に(園山氏の訃報が)出ますから、それを見てください」と言い放ったのです。

 「えーーー」ですよ。こちらは夕刊の締め切りに間に合わせようと必死に取材しているのに、何でそんな木で鼻をくくったような応対しかできないのでしょうか。通信社は新聞、テレビ、ラジオ等全国のいや、全世界に第一報を伝える使命があり、速報だけはどこの社より先んじなければなりません。

 担当者はそれを知っていて、ワザと「教えてあげないよ」といった態度を取ったのかもしれません。通信社が配信すれば、他のライバル新聞社も情報を知ることになります。園山俊二さんは朝日に長期連載していた、いわば自分の社が囲っていた作家さんです。他社にスクープされてはたまったものではなかったのかもしれません。

 話は前後するかもしれませんが、その時だったのか、その前のことだったのか、「朝日に載らない記事はニュースではない」と朝日新聞の関係者に聞かされたことがありました。何と言う傲慢。今のようなネット時代、普通の市民でさえニュースを発信する時代では、こんな話を聞かされれば、単なる笑い話に過ぎませんが、当時は、実際、その通りの話でしたので、こんな風に邪見にされると、「驕れるものも久しからず」と怒りに任せて、心の中で呟いたものでした。

◇頑張れ!朝日新聞

 あれから28年。朝日新聞の凋落は目を覆うばかりです。名物コラム「天声人語」を読んでも、まるで「渓流斎日乗」を読んでいるみたいで、パンチも風刺も鋭い知性すら感じず、気の抜けたビールのような文章です。

 「為政者には耳が痛い事ばかりを書く朝日を潰せ」といった政治家の陰謀説の噂が流れていますが、そんな陰謀説の前に、このまま赤字が続けば、風前の灯火といった状況です。

 9連覇を達成した読売巨人軍のように、あの憎たらしいほど強かった傲慢な、そしてその実力が伴った朝日新聞に戻って来てほしいものですが、私のような者から同情されるようでは駄目ですよ。私自身も、こんなことを書いて、「意趣返し」などと思われたくありませんから。

 私が書いた長い記事がそのまま朝日新聞に掲載された時は、嬉しかったことを付け加えておきます。(読者は全く知らないことですが)

年を経て趣味趣向も変わる

新橋演舞場

  「ブログは毎日書き続けなければ駄目ですよ」との先哲の教えに従って、話題がなくても、できるだけ書き続けるようにしています。

 苦痛と言えば苦痛なのですが、もう40年以上もジャーナリズムの世界にいて、毎日のように記事を書き続けて来たので、普通の人より書き慣れているといいますか、いわば「職業病」とも言えるでしょう。職業の延長線でブログを書いているようなものですから、刀根先生をはじめ、何で他の人は毎日続かないんだろうとさせ思ってしまいます(笑)。

 ところで、最近、ものの見方といいますか、自分の考え方が年を経るうちに変わってきていることに気が付いております。

 一番変わったと思うのは「転向者」に対する見方、考え方でしょう。昔なら、そんな節操のない裏切者は許しがたかったのに、今では全く逆に、転向せずに自己の思想を守旧した人の方が、どこか空恐ろしさを感じてしまいます。だって、人間は趣味趣向も考え方も日々変化するものでしょう。生物学的に言っても、細胞だって毎日のように入れ替わっているし、歯だって悪くなるし、髪の毛も抜けたりします。自分の考えを絶対曲げない人は、確かに格好良いかもしれませんが、そこは大人の力学で妥協しなければならない時もあるし、その方が万事うまくいくこともあります。

 戦前は、「国賊」扱いだった足利尊氏や「謀反人」の典型だった明智光秀も、戦後は随分歴史的解釈も変わり、名誉も回復されたではありませんか。

銀座 木挽町で …うーん、分かりやすい。アナログ万歳!

 趣味趣向といえば、私自身は音楽が大好きで、学生の頃は毎日、16時間も聴いていたものですが、今ではほとんど聴かなくなりました。今は1日30分も聴いているかどうか…。

 若い頃は「音楽こそがすべて」でした。ちょうどソニーのウォークマンが新発売され、電車の中でも歩きながらでも、本当に一日中、音楽を聴いていた感じでした。

  それが年を取ったせいなのか、ゆっくり腰を落ち着けて音楽が聴けなくなってしまったのです。というか、勉強しながら、本を読みながら、家事をしながら、といった「ながら」で音楽が聴けなくなったのが一番大きいのです。勉強しながら、では、その勉強のことだけで頭がいっぱいで、音楽が少しも脳に染み込んでくれないのです。つまり、昔だったら、人とおしゃべりしながら、本を読みながら、音楽を聴いてもしっかり把握できたのに、年を取ってからは、一つのことしか頭に入らなくなってしまったのです。音楽を聴くなら、そのことだけ集中して一心不乱に聴けば、脳みそに入ってくれるのですが、他のことをしていると他の方に気を取られて音楽が入ってこなくなってしまったのです。

 いまはまだ、読みたい本も、読まなければならないと思っている本もたくさんあるので、音楽を聴くだけに時間を割くのが惜しい気がしているのです。つまり、あんなに好きだった音楽が自分の人生の優先事項 priority ではランクが落ちたということになります。

 そして、唐突ながら、最近、酒量がめっきり減りました。昔は大酒飲みだったんですが、別に飲まなくても平気な顔をすることができるようになりました。自分自身の健康に気を遣っているかもしれませんが、どうしても呑みたいという気もあまり起きなくなりました。単に年を取ったせいなのかもしれませんが…(笑)。

 まだあります。美術の趣味が全く変わってしまったことです。若い頃は、泰西名画一辺倒で、ゴッホの「ひまわり」とか、とにかく脂ぎった油絵が大好きだったのに、今では、わびさび、枯淡な水墨画、もしくは長谷川等伯、狩野派、琳派などの日本美術の方が遥かに好きになりました。展覧会に行くとしたら、西洋美術よりも日本美術や仏像展を優先したくなります。

 なあんだ、やはり、単に、抹香臭くなって、年を取っただけかもしれませんね(笑)。

 

心臓の弱い方は見ないでください=三島事件記事の余話

 最近書くことがなくて困ってます(笑)。

 昨日も個人的な投資の話まで持ち出して、自分でも「あにやってんだか」と自戒してしまいました。以前は、頻繁にこのブログへの話題と情報を提供して頂いた方からは、時の流れで音信が絶えてしまい、仕方なく、個人的な話を書かざるを得ない事情もあります。

 落語家の三遊亭とは「呑む、打つ、買う」のことらしいのですが、このまま個人的なことを書き続けていけば、あとはロマンスの話しかなくなってしまいます。渓流斎はモテましたからねえ。 えっ?そんな話、聞きたかない? はい、おあとが宜しいようで…。

1970年11月25日(水)付 毎日新聞夕刊 当時は佐藤栄作首相でした

 それならということで、今朝、変なメールが飛び込んできたお話を書くことに致します。一昨日の11月25日にこのブログで「三島事件から半世紀、極めて個人的な雑観」ということを書きました。この記事に関して、私と同世代ですが、私とは違って東京の高級住宅街にお住まいのXさんから「イチャモン、もしくは記憶違いかも、という前提なんですが、三島由紀夫らの首を掲載したスクープ写真は、毎日新聞ではなかったでしょうか?朝日新聞なら、記憶を上書きします」との大変ご丁寧なメールを頂いたのです。

 何しろ、50年も昔のことですからね。私自身も記憶で書いたので自信がありません。確か、当時、家では毎日新聞をとっていたと思います。だから、家で見たわけではなく、クラスの誰かが学校に朝日新聞を持ってきた時、初めて見て本当にびっつらこいたことを覚えていたのです。

 うーん、どっちだったかなあ…?

 問題はすぐ解決しました。会社の資料室にある新聞の縮刷版を見たら、すぐ分かりました。やはり、朝日新聞でした。(衝撃的な写真が掲載されているので、心臓の弱い方はこれ以上見ないでください。当時はこういう写真を載せても平気だったんですね)

1970年11月25日(水)付 朝日新聞夕刊 当時は中曽根康弘防衛庁長官でした

 ということは、家ではやはり毎日新聞をとっていたのでしょう。当時の毎日新聞は飛ぶ鳥を落とす勢いでした。岸田吟香(日本初の従軍記者として台湾出兵取材。画家岸田劉生のお父さん)、福地源一郎(幕府通詞から新聞人に。劇作家福地桜痴としも活躍し歌舞伎座の設立にも参加)らを輩出した東京日日新聞の流れを汲み、歴史と伝統があり、井上靖、山崎豊子、大森実ら作家、ジャーナリストを多く輩出した日本一のクオリティーペーパーでした。

 それが三島事件の翌年の1971年に起きた西山事件をきっかけに凋落してしまいました。というより、読売新聞が「販売の神様」務台光雄社長(読売の総帥正力松太郎死去後の1970年5月に社長就任)の手腕によるところが大きかったのでしょう。毎日の販売店を次々と読売に鞍替えさせて、部数を増大させました。当時は「インテリが書いて、ヤクザが売る」と陰口を叩かれたほど、新聞販売は熾烈な競争がありました。

 えっ?西山事件も知らない? それは困ったもんですね。 この際、御自分でお調べになってください。色んな逸話も出てきますよ。山崎豊子さんがこの事件を題材にした小説「運命の人」を書いてますし、西山太吉さん御自身も「沖縄密約」「記者と国家」など多数の著作があります。

博打の才能のない人は投資に向かない

 コロナ禍で皆、イライラしているんでしょうか?

 今朝の通勤途中、自宅近くの狭い道を渡ろうとしたところ、右横から来た自転車がいつの間にか迫っていて、気が付いたら、猛スピードで後ろを走り抜けました。その際、自転車に乗った50歳前後の男から「このジジーが…」などと人格を否定する言葉を散々吐いて通り過ぎました。

 自転車なら歩行者とぶつかりそうになったら向こうから止まっても良さそうなものです。もともと、私の住んでいる所は、人間の住むような所ではない民度の低い所ですから、こういう身勝手な自己中心的な人間だらけですが、さすがに一日、嫌ーな気分に襲われました。

 まあ、世の中変ですよ。

 これだけ、コロナ禍で飲食店や洋品店が倒産し、失業者もあふれ出してきたというのに、株も金も仮想通貨のビットコインも値上がりしています。24日にはニューヨーク・ダウが史上初めて3万ドルの大台に乗せましたし、それにつられて、日本の日経平均もバブル期以来29年ぶりに2万6000円台に乗せ、本日も2万6500円台と高値が続いています。

 巷では「Go to キャンペーン」の見直しが始まり、またまた不況風が吹き始めたというのに、一体、どうしたことでしょうか? 

 相場はさっぱり分かりませんね。素人でも、知ったかぶりをしている玄人でも、予測できません。これは、はっきり断言できます。

 ということで、本日は、持っていた世界最大級の投資運用会社である米国系ETFを売却してしまいました。勤務中に取引したわけではなく、前夜、「指値」で注文を出していたら、軽く売れてしまいました。終値は私の指値より遥かに高値で終わりました。

 実は、このETFは、コロナ禍の第一波に大暴落し、3月頃は、一時300万円近い損失を出していました。「これでは2,3年塩漬けにするしかないなあ…」と諦めかけていたのですが、半年ちょっとで回復し、昨日ギリギリ、購入価格を少し上回る価格を確保できるようになったので思い切って売却したのです。でも、揺れ幅の大きさが恐ろしいですね。さすがに300万円近い損失になったときは顔が青くなりましたから、自分自身、あまり博打に向いていないんでしょうね。これからは地道にやっていくしかないかもしれません。

下谷の居酒屋「鍵屋」 創業1856年

 そして、今日は、昼休みにS銀行の銀座支店の口座を解約してきました。この口座は、3~4年前に、悪友から勧められてドル建てのファンドを購入した際、取引銀行としてつくったものでした。そしたら、北朝鮮がミサイルを発射したと何とかで、ファンドが暴落して、目の玉が飛び出るぐらいの損失を出して、結局そのファンドは解約せざるを得なくなりました。いい勉強させてもらいましたよ。

 あまり良い思い出がない銀行でしたし、通帳も判子もなく(サインでした)、カードだけでしたので、リモートによるタブレット操作で案外スムーズに解約できました。以前、このブログに書きましたが、ポイントを稼ぐために、携帯電話も通販も証券も損保も電気もR社に変更したので、銀行もR社に口座を作ったのでした。あまり銀行口座を沢山持っていても、わけが分からなくなってしまうので、このS銀行を解約したわけですが、すっきりしました。

 これでR社のポイント奴隷に成り果てましたが、今のところ、スマホも買い物も順調です。後悔してません。人間がせこくできているのか、この銀行カード(デビッドカード)で何かを利用すると、わずかながらポイントが付くので、得した気分になります(笑)。

下谷の「鍵屋」

最後に、渓流斎流投資の極意です。

●投資をする際、銀行、証券、投資コンサルタント、金融のプロには近づかない。

●自分で理解できないファンドや外貨建て投信などは絶対に購入しない。

●自己研鑽を積み、情報収集と勉強を怠らず、最後は自己責任で投資する。

●個別銘柄なら、コロナ禍関連の製薬会社とか、あおり運転に備えたドライブレコーダー会社とかニュースを追っていればすぐ分かる。

●ゼロ金利時代のしがない世の中で、自分の資産を守り、増やすには投資するしか他にない。

●とはいえ、投資は博打なので、全ての財産を失うリスクもあり、自信がない人は最初からやらない。

以上、失敗経験者の語ることですから確かです。

 アメリカンドリームなど成功譚は、聞いていても心地よいかもしれませんが、誰もがそれから学んで、夢を実現できるわけではありません。誰もがウォーレン・バフェットにはなれないのです。

 哀しい哉、人間は成功よりも失敗からしか学習できないのです。これは私自身が人生経験で学んだ真理です。

三島事件から半世紀、極めて個人的な雑観

 ◇三島割腹自決の衝撃

 11月25日は作家三島由紀夫が陸上自衛隊の市谷駐屯地で割腹自決した日で、今年はちょうど半世紀です。ということは、現在53歳ぐらいか、それ以上の方でないと、この事件を実体験した感想は書けないと思います。

 あの衝撃は今でも忘れられません。私は東京都下の中学生でした。当時、自分でもよく分からないのですが、剣道部に所属していて、この事件の第一報を知ったのは、剣道部の顧問の杉本教頭先生からでした。帰りがけの我々に学校の校庭で彼はこう言いました。「本日、日本で一番偉い方が亡くなりました」。

 日本で一番偉いのかどうなのか。当時、三島の作品を碌に読んでいなかったくせに、妙に反発心が湧き起きたことを覚えています。名前を知っていた三島作品は「潮騒」「永すぎた春」「金閣寺」など映画化された作品ばかり。ということは、まだ読んでおらず、小説は「仮面の告白」を既に読んでいたかどうか、記憶は曖昧です。

 三島主演の映画「憂国」(1966年)は見ていなくとも、切腹シーンで話題騒然となったことは覚えています。それが、実際、三島自身がミニチュア軍隊のような「楯の会」を結成して、メンバーとともに市谷駐屯地を襲撃して、本当に割腹してしまうのですから、興味よりも恐ろしさの方が先だったことを覚えています。当時は全共闘運動が盛んで、世間では左翼勢力の天下のような雰囲気だったせいか、極右の三島は恐ろしい人だ、憲法が改正され、徴兵制が敷かれ、戦争が始まる、といった恐怖心の方が強かったのでした。(私の少年時代は、親世代の戦争の記憶はまだ生々しく、私自身も徴兵制は復活すると思い込んでいました)

 翌日だったか、クラスの誰かが、朝日新聞の前日の夕刊を持ってきました。総監室で割腹自決した三島と三島を介錯した後自決した森田必勝の二人の首が並んだ写真が一面に大きく掲載されていました。この写真は、カメラマンが敷居の上から当てずっぽうにシャッターだけを押して隠し撮りしたら写っていたらしいのですが、個人的には「どうしてこんな写真を載せるんだろう」という気持ちが強かったでした。

◇50年後を予言した三島由紀夫

 まだ、中学生でしたから、政治も文学も思想も哲学も難し過ぎて関心すらなし。ビートルズやレッドツェッペリンに夢中でした。そのせいか、三島のクーデターまがいの行動には、滑稽と言えば生意気過ぎますが、正直、痛々しさを感じました。バルコニーで演説中は野次が飛び、三島本人も自衛隊員が同調して一緒に決起してくれることを期待していなかったようですし。

 半世紀を過ぎ、三島が生きた45歳をとうに過ぎた今の私は、三島が命を懸けて書いた「檄」文はある程度理解できます。それ以上に、檄文はまるで「予言の書」ではないかと思うようになりました。三島が憂いたように、「自衛隊はアメリカの傭兵」のような存在のままで、今でも莫大な資金でイージス艦など大量の米国製武器を買わされて続けています。日本国民の税金で。

 三島の死後、経済優先の弱肉強食の金融市場主義が蔓延って貧富の格差が拡大し、電車の中で化粧をしても恥とも思わない、三島が予言したような魂の抜けたような日本人ばかりになってしまいました。

 私は高校から大学にかけて、三島の主要作品は読破して、その煌めくような華麗な文体に眩暈し、日本文学史上最高の知性を持った文章家ではないかとさえ思ったことがあります。三島が自決する前夜に「最後の晩餐」をした東京・新橋の「末げん」に食事に行ったり、三島の遺児が成長して開店していた銀座の「宝石店」を探して見に行ったり、三島が夜な夜な通い詰めた新宿のバー「どん底」に飲みに行ったりし、結構、ミーハーなこともやったりしました。

それなのに、最後までアンビバレントの気持ちはなくなりませんでした。純真だった中学生の頃の反発心と、長じて文体に魅了された敬服心という相反する気持ちです。

◇ジャーナリズムの真骨頂

 今は、仮面を被った三島由紀夫よりも、幼少期病弱で祖母に溺愛された本名の平岡公威の方が興味があります。また、農商務官僚で、三島の死後も長命を保った実父平岡梓の方が興味があります。さらに、内務官僚で汚職の嫌疑で樺太長官の職を追われた三島の祖父平岡定太郎の方がもっと興味があります。

 三島のボディビルで鍛えた筋肉隆々で自身満々の姿は、己の弱さを隠すための方便だったのではないかと愚察しています。文学として、三島より、夏目漱石や芥川龍之介や太宰治の方に私自身が惹かれるのは、後者は、三島のように「弱さ」を隠すことなく、人間の「弱さ」を作品の中で正直に吐露してくれたからだと思います。

 三島没後50年ということで、新聞、テレビ、雑誌等で散々取り上げられ、未だに熱烈な信奉者が多いことも分かりました。でも、11月25日を過ぎれば、取り上げられる機会は減ることでしょう。

 それこそがジャーナリズムの真骨頂です。

「桜」前夜祭で安倍氏側が800万円超補填したのでは、というスクープはなぜ読売だったのか?

 何で今さら? とは思いましたが、安倍晋三首相(当時)が主催した「桜を見る会」のホテルでの前夜祭を巡り、安倍氏側が参加した後援会の人たちの会費だけでは足りない金額を補填していた可能性がホテル側の領収書から浮上し、24日の朝刊各紙が一斉に一面で報じました。「全国紙」で一面で報道しなかったのは、産経新聞ぐらいです。産経は二社面扱いでしたが、その理由は、何となく分かります。

 でも、分からなかったのは、2019年までの5年間に、安倍事務所側が差額を補填した金額は、「計800万円超だった」とはっきりと具体的な金額を書いて「安倍氏側が5年間で800万円超を補填か…『桜』前夜祭、ホテル側が差額受領の領収書」と、一面トップではなく一面左方三段で見出しを取って報道したのが、読売新聞だったことです。えっ? 読売が!?です。安倍政権時代、首相自身が「私が言いたいことは読売新聞に書いてあります。読売をお読みください」といったような趣旨で喧伝したことから、「政府広報紙」とも「官報」とも揶揄されたあの読売新聞が、です。

 政権中枢から降りて、「ただの国会議員」なった安倍氏なので、今回は弓を引きやすかったからなのでしょうか?

 でも、何となくですが、この事件が政治資金規正法違反などで立件されたり、安倍前首相自身が起訴されたりすることはないんじゃないでしょうか。安倍氏は「知らぬ、存ぜぬ。秘書が知らない間にやった」などと主張し続けるでしょうから、せめて、首相公設第一秘書どまりではないでしょうか。-なぞと、あまり推測の域で語ってばかりいては駄目でしょうけど、ただ、今回の報道の仕方が何となく気になるんですよね。

 なぜ、読売がスクープしたのか?です。

 それに、「桜を見る会」などもう誰もが忘れかけていたのに、何で今頃になって、こんな話が出てきたのか、ということです。

 「既に安倍氏側は当局との司法取引ができている」と穿った見方をする人もいますが、まさか、そこまでは行ってないでしょう。

 東京地検が安倍政権時代から潜伏して地道に捜査してして、今になってやっと公表できる段階になった、という理由も信じられないことはないのですが、黒川弘務・東京高検検事長の例の賭けマージャン事件以来、国民の検察に対する信頼は根底から失っていますからね。

 いずれにせよ、今回の読売のスクープは、隔靴掻痒なのです。裏で、何かや誰かがいるのか、「陰謀論」めいた話は私自身はそれほど信じていないので、案外の裏のない淡々とした話なのかもしれません。

 裏のない話だとしたたら、そして補填したことが事実なら、収支を政治資金収支報告書に記載しなかった政治資金規正法に違反することになりますから、前首相とはいえ、検察は、有耶無耶にしてほしくないですね。

 でも、どうなることやら。

変な日本語はそのうち淘汰されるのでは?

 新型コロナの感染者が昨日21日は、全国で2596人と4日連続過去最多を記録し、さすがの菅首相も急遽、「Go to キャンペーン」の一時停止を表明しました。専門家の意見と世論に押し切られた感じですね。

 先程、ニュースでやってましたが、世界最多の米国は桁違いで、私の友人も住むテキサス州では過去100万人がコロナに感染し、2万人の方が亡くなられたそうです。致死率2%ですか…。ちなみに日本を調べてみたら、21日の時点での感染者総数は13万1810人で、亡くなった方は1994人。致死率は1.5%。思っていたほど、それほど変わらないんですね。ということは、感染者数は抑えなければなりません。政府の判断は遅かったかもしれませんが、妥当でしょう。私も連休中に、紅葉狩りを兼ねて鎌倉の円覚寺などの禅宗寺院巡りを計画していましたが、中止しました。時流に乗った「我慢の3連休」になりました。

 話は変わりますが、先程の「Go to キャンペーン」ですが、「Go to トラベル」にしろ、「Go to イート」にしろ、外国人には通用しない変な和製英語だ、と通訳や翻訳家や任意団体から抗議の声が上がっています。

 正論です。でも、私なんか仕方ないんじゃないかなあ、と大目に見ています。頭脳明晰な高級官僚様らが考える言葉は、世間の一般大衆とはかけ離れたことが多いからです。「オレオレ詐欺」なんて、訳が分からない変な日本語の最たるものでしたが、百万回聞かされると、普通の日本語になってしまいましたからね。「Go to トラベル」なんかも和製英語というより、日本語、それも変な日本語、造語として受け止めるしかないんじゃないでしょうか。

 だって、これは日本人だけがやっている風習(?)というわけではなく、例えば、米国人は日本のカメラのニコンNikonを「ナイコン」と呼んでいます。また、スポーツメーカーのアシックスasics(創業者の鬼塚喜八郎さんが、帝政ローマ時代の風刺作家ユベナリスの言葉「もし神に祈るならば、健全な身体に健全な精神があれかしと祈るべきだ Anima Sana in Corpore Sano」から命名したそうです)だって、米国人はアシックスとは言わず、エイシックスと発音して、それが正式な会社名だと思い込んでいますからね。ちょっと、話のレベルが違うかもしれませんが(笑)。

 変な日本語はそのうち「死語」となって消えていきます。今の時代、「チョベリグ」とか「チェベリバ」なんて、もう誰も言わないでしょ?

岐阜城のミニチュア庭園

 それより問題は、先週の金曜日にこのブログに書いた「恥ずべき報道機関の誤訳問題=NHK、時事通信」です。この記事は、意外にも反響が御座いまして、英語の権威のK氏から、FBで長い的確なコメントを頂き、大変大変勉強になりました。

 この記事をまだお読みでない方は、是非、上をクリックしてお読みいただきたいのですが、私も幸運なことに、義理の息子が米国人なので、改めて彼に見解を聞いてみました。

 そしたら、私の書いたことは概ね合っているようでした。問題になったawkward は、私は「ぎこちない」と訳しましたが、彼は「awkwardは、 uncomfortable に近いかな」と言い、symptom(きざし、兆候)については、「symptom はsymptom だけど、鳩山元首相の個人的なことを言っているわけではなく、日本全体のpolitical climate政治的風潮のことをオバマさんは言ってると思いますよ」と援護してくれました。身近にネイティブがいると助かりますねえ(笑)。 

とにかく、英語って、結構難しいんですよ。先程の「Go to キャンペーン」ではありませんが、

 Is that for here or to go?

とはどう意味か分かりますか?中学1年生の単語ですから簡単ですね(笑)。ファストフード店でよく聞かれるフレーズですから、米国人なら知らない人はいません(当たり前か)。

 これで、「店内でお召し上がりですか?それともお持ち帰りですか?」という意味になります。

 それでは、 Give it a go. はどうでしょう?

goは行く、という動詞ではなく、 a という冠詞が付くので名詞です。「ひとつ、やってごらん」という意味になります。「食べてごらん」「飲んでごらん」は、Give it a shot.になるそうです。

 えっ? そんな簡単なこと最初から知っている?

 失礼致しやんした。

 お後が宜しいようで。