先行き暗いメディア業界

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仕事なので、嫌でも毎日、ニュースを見たり、聴いたり、読んだりしなければならないのですが、毎日、いつも何かしらの事件、事故があり、その度に気分がささくれ立ちます。

 最近では特に、幼児虐待殺人事件などは、見るのも聴くのもつらいですね。この事件に関しては、殺害した両親以上に児童相談所の不行き届きを批判する報道も溢れました。「児相さえしっかりしていれば、幼い女の子の生命が救われた」といった論調です。

 昨晩、ラヂオを聴いていたら、恐らく児相に勤めているらしき50代の女性から投稿があり、「ニュースを解説される方は、自分が児相で働いていれば、彼女の命を救えるとでも思っているのでしょうか。児相がどんなに大変で、皆、へとへとになって毎日仕事しているのか理解できないことでしょう。児相ばかりを悪く責めて、煽るようなことはやめてもらいたい」といった趣旨の発言をしていました。

 これに対して、ニュース解説者は「私は何度も児相を取材した経験があり、どんなに仕事が大変か、よおく分かっております…ムニャムニャ…」といった感じで応じていました。

 確かに、今に始まったわけではありませんが、報道各社、特にテレビのワイドショーなどは、やれ、韓国が悪い、やれ、社長の責任だ、などといった煽るような報道が目立ちます。

 そもそも、マスコミの原点は、ガンガンガンと銅鑼を大きく鳴らして「オオカミが来た、オオカミが来た!」と煽っているようなものですからね。そして、自分たちの責任は一切棚に上げて、高いところから人を裁くことに勤しみます。

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 今、中国の古典「荘子」を読んでいますが、良いことを言ってますね。

 人間の判断は、常に相対的なものであって、絶対的な正しさはどこにも存在しないのだ。

 国際的な紛争は、お互いの国が正義を主張することから起こります。一緒にすると怒られますが、テロリストにもテロリストの正義があるわけです。胡散臭さは別にして、ですが。

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 最近、大学生の就職先としてマスコミの人気は随分低下しているそうです。試みに某サイトを覗いてみたところ、2020年卒の大学生の就職希望ランキングは(1)伊藤忠商事(2)三菱商事(3)JTBグループ(4)三菱UFJ銀行(5)全日空ーと商社、航空、銀行が上位を占めていました。マスコミは、博報堂が17位でトップで、新聞社の首位は読売新聞で、何と75位ですからね。私の世代の1970年代後期~80年代初期は、朝日新聞が必ずベスト10に入ってましたからえらい違いです。

 マスコミが「3K職場」になったのか、やりがいがなくなったのか、理由はよく分かりませんが、こうしてネット社会になり、情報が溢れ、新聞が売れない時代になったからなのでしょう。駅構内のキオスクが次々と閉店して、新聞すら簡単に買えなくなりましたからね。車内で新聞を読む人は絶滅危惧種になりました。

 メディアの王様だったテレビだって、ネットに広告を取られて、かつてのような大名商売ができなくなりましたから、もう、そう悠長に構えていられないでしょう。

 今ですら、テレビのニュースは、視聴者からの「スクープ動画」に頼っているのですから、10年後、いや5年後のメディアがどうなってしまうのか、想像も尽きません。でも、信頼の置けないフェイクニュースが溢れ、報道にみせかけた広告記事や、お店や商品の宣伝を忍ばせたグルメ番組やショッピング番組ばかり増えるような気がします。

 悲観的ですか?

消費増税で便乗値上げはやめてもらいたいものです

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 来月10月から消費税が上がるということでアタフタしています。今のうちに高い買い物をしておくべきかどうか…。もう1カ月を切ってしまいましたからね。

 昼によく行く会社近くの寿司屋は、980円の握りランチをやってくれているのですが、顔だけ見ると意地悪そうに見える女将さんに「来月からどうなりますか?」と聞いたところ、「さあ、まだ決めてないのよぉ~。1100円にしようかしら?」とのたまうではありませんか。

 便乗値上げやんけ!

 2%増税なら、980×1.02=999円

せめて、1000円じゃないですか。

 それはともかく、軽減税率とかいう複雑なシステムで、消費税が8%になったり、10%になったり、わけが分かりません。

 そこで、松屋なんかは、店内で食べようが、持ち帰ろうが「同一料金」を打ち出してます。例えば、牛めし(並盛)は、消費増税でも現行と同じ320円(税込)。 店内で食べれは本体価格を291円にして、消費税10%=320円。持ち帰りだと、本体価格を297円にして消費税8%=320円としてます。 うまく考えたもんです。

「税金問題は国を滅ぼす」といわれてますが、大人しい日本人は香港のようにデモすることなく、お上の指図に唯々諾々と(出典「韓非子」)従っています。これで日本は安泰だあぁぁ。。。ただ、皆さん、スマホゲームに忙しくて、政治に関心がないだけなのかもしれませんが。

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 私は真面目人間ですから(笑)、いまだに一生懸命勉強しています。でも、古典派経済学の最大の理論化で完成者といわれる英国のリカードの著書「経済学および課税の原理」を読み始めたら、滅茶苦茶難しいですね。商品効用について、「労働価値説」と「稀少説」を提唱しています。

 それより、リカード(1772~1823 )は、 ユダヤ人の証券仲買人の息子で、アダム・スミスの著書の影響から経済学は独学で習得。後に公債引受人として巨万の富を得たこと。リカードの最大のライバルで論争相手だった「人口論」で知られるマルサス(1766~1834)はケンブリッジ大学を卒業したエリートで、英国教会の牧師だったことの方が興味あります。

 我ながら、ちょっと外れていますね(笑)。

来る者は拒まず、去る者は追わず

もう9月ですか…。過ぎ行く日々をつかまえたくなりまして、この夏を少し振り返ってみたくなりました。

個人的に、この夏の一番のハイライトは長年の夢だった真言宗の高野山(和歌山県)にお参りできたことでした。ちょっと高いツアーでしたが、行って本当によかったです。これまで全ての国内の聖地を訪れたわけではありませんが、滋賀県の天台宗総本山比叡山延暦寺も、福井県の曹洞宗大本山永平寺も意外にも観光地化した俗っぽさにがっかりしたことがありました。しかし、標高900メートルの山奥にある高野山は、街全体が静謐で、壇上伽藍は荘厳な雰囲気に包まれていました。

 えらく感激したのですが、皮肉屋の仏教ジャーナリストM氏は「真言宗は現在、大きく18本山に分派していますが、高野山真言宗(総本山金剛峰寺)は少数派なんですよ。むしろ、豊山派(総本山長谷寺、大本山護国寺)や智山派(総本山智積院、成田山新勝寺、川崎大師、高尾山薬王院)の方が勢力が大きいんですよ。それに、奥之院に織田信長や豊臣秀吉らの供養塔があるのは何のためにあるか御存知ですか?人を呼び寄せる観光のためですよ」と、のたまうではありませんか。

 まあ、その真偽も含めて、それはそれとして。夏の高校野球の季節となり、今年も智弁和歌山や智弁学園(奈良)の常連高が出場して、気になって調べたら、智弁が付く両校とも弁天宗という宗教団体を母体とする学校法人が運営する学校でした。そして、この弁天宗というのは、まさに高野山真言宗の流れを汲む新興宗教だったんですね。知りませんでした。

 このほか、真言宗系の新興宗教として、現在最も勢いがあって注目されているのが真如苑です。経済週刊誌に「最も集金力がある」と書かれていましたからね。真如苑は真言宗醍醐派(総本山醍醐寺)の流れを汲むそうですが、茲ではこれ以上踏み込みません。

京都・六角堂

夏の一番暑い盛りに京都にも行きました。どういうわけか浄土宗の寺院を巡る旅になりましたが、最終日に京洛先生から「京都のへそ」と言われる六角堂に連れて行ってもらいました。この六角堂の本堂北の本坊は「池坊」と呼ばれ、生け花の発祥地といわれてましたね。

 この池坊の敷地に読売新聞社の京都総局があり、「それは、読売新聞二代目社主の正力亨氏の妻峰子さんの妹が、池坊専永夫人の保子さんだったからです。その御縁なのでしょう」といったことをこのブログで書きました。

 そしたら、京都旅行から帰ってしばらくたった8月24日、この正力峰子さんの訃報に接したのです。享年83。亡くなったのが8月17日だったということで、ちょうど私が京都に滞在していた時でした。凄い偶然の一致には驚いてしまいました。

さて、先日、映画「ジョアン・ジルベルトを探して」を観ましたが、あんまり感動しなかったので、2007年8月に日本で公開され、あまりにも面白かったので、サントラ盤とDVDまで買ってしまった「ディス・イズ・ボサノヴァ」(2005年製作)をお口直しに自宅で観直してみました。

 日本ではあまり知られていませんが、ボサノヴァのスーパースター、カルロス・リラとホベルト・メネスカルの2人が、自分たちのボサノヴァの歴史を思い起こして、所縁の地を訪れるドキュメンタリーです。アントニオ・カルロス・ジョビンの息子パウロ・ジョビンもミュージシャンとして出演していました。

 これを観ると、ジョアン・ジルベルトの魅力が否が応にも分かります。その囁くような歌唱も、彼が独自に開発したといわれるギターのバチーダ奏法も、他の一流ミュージシャンと比べると、まるで月とスッポン。レベルの差が歴然としているのです。ジョアン・ジルベルトなくしてはボサノヴァは生まれなかった。彼がボサノヴァをつくった、と言われるのは納得できました。

 そのジョアン・ジルベルトはかなりの奇人変人で、晩年は隠遁生活に入り行方不明になります。映画「ジョアン・ジルベルトを探して」にも描かれていましたが、若い頃、かなり仲が良かった親友とも仲違いしたわけではないのに、何十年も会わなくなります。

 でも、私は逆に勇気付けられました。私も、学生時代にかなり仲が良かった親友と仲違いしたわけではなく疎遠になってしまったからです。こちらが色々とイベントや飲み会に誘ったりしても向こうが都合が悪かったり、メールをしても返事がなかったりしたからです。

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 最初は、こちらが何か悪いことをしたのではないか。何か気分を害することでも知らずにやってしまったのか。できれば、その誤解を解きたいと思ったものでしたが、この映画を観て、「もう誤解を解く必要もないか」と思うようになりました。「人間が恐怖(不安、嫉妬、劣等感)と欲望(出世、名誉、財産)で出来ている」のなら、もう策略することなく、無為自然、成り行きに任せて生きる(老子、列子、荘子)のが、自分にとっても、相手にとっても一番いいのではないのかと思ったのです。

 来る者は拒まず、去る者は追わずです。

 ボサノヴァの最重要人物の一人、ヴィニシウス・ヂ・モライス(「イパネマの娘」の作詞、作曲家、作家、外交官)は恋多き人で、9回も結婚・離婚を繰り返したそうですが、その話を聞いたただけでも私は「ご苦労さまです」と頭を下げたくなります。ということで、私自身、今年の夏は、モライス先生のように、浮いた話が全くなかったのですが、大変充実した夏を過ごすことができました。

 高野山といい、京都旅行といい、自分の目的を、他人に操作されることなく、自分の意志で行う「人間の尊厳」(イマヌエル・カント)を実行できたからです。

人間は恐怖と欲望で出来ている

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トランクルームを借りて、死んでも天国まで蔵書を持って行くつもりの例の遠藤君が「これを見なさい」と貸してくれたのが、テレビ番組を録音したDVDでした。

 どうやら7月にNHKで放送された「BS1スペシャル『欲望の資本主義 特別編 欲望の貨幣論2019』」という番組で、あまり面白そうではなかったので、4~5日、ほおっておいたのですが、見てみたら吃驚。こんな凄い番組を見たのは本当に久しぶりでした。遠藤君、ごめんなさい。最近のNHKは、商業主義とは無縁のはずなのに、ジャニーズやバーニング系のタレントを多用して民放と変わらない実に下らない番組が多く、見るに値しない局だと断定していたのですが、これで少しは見直しました。

 前編と後編で2時間ぐらいの番組で、内容全て紹介しきれないのですが、中心的な進行係として、「貨幣論」(1993年)などの著書がある経済学者の岩井克人氏を据えたのが大成功でした。「講義」の仕方が非常に懇切丁寧で、学生だったらこの教授に師事したいくらいでした。岩井氏の奥さんは、「続明暗」などの著書がある作家の水村美苗氏です。私は彼女に30年ぐらい昔にインタビューしたことがありますが、後で、水村氏の御主人が岩井克人氏だと知った時驚いたことを覚えています。逆に言うと岩井氏については、その程度の知識しかありませんでした。30年前は経済学には全く興味がありませんでしたから…(苦笑)。

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 前置きが長くなりましたが、どうしても番組の内容を短くまとめることが難しいので遠回りしただけでした(笑)。いや、気を取り直して始めます。

 岩井氏によると、貨幣というのは、本来、モノとモノを交換する「手段」に過ぎなかったのですが、いつの間にか、貨幣を貯めることが「目的」になってしまったというのです。貨幣が通用するのは、他人が受け取ってくれることを前提にして、それに懸けているようなもので、貨幣そのものに根拠がない。「自己循環論法」によってのみ、価値が支えられているというのです。

 貨幣自体に本質がないということで、「貨幣商品説」と「貨幣法制説」を否定し、マルクスの「価値形態論」も批判します。まあ、こう書いても番組を見ていなければさっぱり分からないことでしょうが…(苦笑)。

 この番組では、世界的に著名な色んな経済学者、哲学者、歴史学者らが登場しますが、私が一番印象に残ったのが、かつて米投資銀行で10憶ドルを運用し、今は電子決済サービス企業戦略を担当しているカビール・セガールという人の発言でした。「私たち(人間)は、恐怖と欲望で出来ている」というのです。これほど、的確な言葉ありません。

 彼によると、人間は恐怖と欲望で出来ているからこそ、不確実な未来に備えて貯蓄する。お金が多ければ多いほど、未来は安心だと感じる。それでも不安なので、「もっと、もっと」とお金を貯め込む。人間は過剰に安心を求めるというのです。

 岩井氏の説明では、ヒトが、モノよりもお金が欲しくなると、デフレになり不況になる。逆に、ヒトがお金に価値がないから早く手放そうとすると、ハイパーインフレになり貨幣の価値が下がるというのです。

 他に、アダム・スミス「見えざる手」、マルクス「労働価値説」、ケインズの「流動性選好」(世の中が不安定だとモノよりも未来の可能性を高めるために貯蓄に走る)、ハイエク「通貨自由化論」ら錚々たる経済学者の理論が登場しましたが、私としては、このセガール氏の「人間は恐怖と欲望で出来ている」という話が一番、腑に落ちました。

 現代は、富がGAFAなど一部のIT企業に集中し、世界的に膨大な格差が広がっています。企業も国家も数字が全てで、企業は利潤、国家はGDPの数字が向上することばかり腐心します。資本主義社会では、こうして数字で成功した人のみが崇められ、それ以外の人間性は全く無視されます。それでは、如何にして人間の尊厳を守るのかー?

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 最終章で、岩井氏は、何と哲学者のイマヌエル・カント(1722~1804年)の「道徳形而上学原論」を取り上げます。

 カントは同書の中でこう書きます。「すべての人間は心の迷いと欲望を抱えているものであり、(何と、既に、カントは、さっきのセガール氏と同じことを言っていたんですね!)これに関わるものはすべて市場価格を持っている。それに対して、ある者がある目的を叶えようとする時、相対的な価値である価格ではなく、内的な価値である”尊厳”を持つ。”尊厳”にすべての価格を超越した高い地位を認める。”尊厳”は価格と比べ見積もることは絶対できない」

 これはどういうことかと言いますと、岩井氏の説明を少し敷衍しますと、モノは価格を持っているので交換できる。しかし、人間の尊厳は交換できない。だから、この人間の尊厳は、他人が入り込む隙間がないほど自由であり、最後の砦みたいなものだというのです。

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 繰り返しになりますが、岩井氏は「人間は他人に評価されない自分自身の領域を持つことが重要で、それが人間の自由となる。自分で自分の目的を決定できる存在は、その中に他の人が入り込めない余地がある。そこが人間の尊厳の根源になる」と言うのです。

 つまり、今のようなGAFAが世界中を席捲しているネット社会で、フェイスブックの「いいね」や、何かを買うと「あなたのお薦め」が次々と表示されるアマゾン方式などによって、本来、目的を選ぶのに自由であるはずの人間が、こうしたAI(人工知能)によって操作され、結局は人間の尊厳が失われる可能性がある、と岩井氏は警告するのです。

 これは慧眼です。

番組では、ノーベル経済学賞を受賞したスティングリッツ氏の「アダム・スミスの”見えざる手”は、結局存在しなかったんだよ」という断定発言には驚かされました。また、古代ギリシャのアリストテレス「政治学」や、「社会契約論」のジョン・ロックらも登場させ、利潤追求の数字の世界だけでない哲学までもが引用されているので、非常に深みがあり勉強になる番組でした。

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 恐怖に駆られる人間の性(さが)のせいで、強欲な人間が増え、格差社会が拡大しています。しかし、皮肉屋のスティングリッツ氏は「資本主義がもっているのは、お金に興味がない人がいるおかげ」と発言していたので、これも非常に目から鱗が落ちる発言でした。

 確かに、人間は恐怖と欲望で出来ているのかもしれませんが、私自身は、数年前に病気になった時に、睡眠欲も食欲も性欲も全くなくなったことがありました。欲望がないので、お金に興味がないどころか、禁治産者のように、お金が目の前にあっても、勘定することさえできませんでした。それでいて、毎日、恐怖に苛まれていたので恐ろしい病気に罹ったものです。

「貨幣論」から、随分違った話になりましたが、これも人間の自由、つまり、AIに操作されることなく、書きたいことを書くという「人間の尊厳」なのかもしれませんね(笑)。

「ZAITEN」は最後の反権力雑誌?

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「今のメディアは駄目ですね。すっかり大政翼賛会化してしまい、権力者のご機嫌ばかり伺って批判さえしない。実に嘆かわしい」と憤慨しているのが、名古屋にお住まいの篠田先生です。

 「どこのテレビも新聞も週刊誌も安倍首相を全く批判しないで、外国ばかり批判している。まるで大本営発表ですね。せめて『反権力』を貫いているのは、『ZAITEN(ザイテン)』ぐらいですよ。今月発売の9月号では学者政商『竹中平蔵』を批判する記事を掲載しています。書かれた本人は屁とも思わないでしょうけどね」

 「『ザイテン』って何ですか?」と私。

「昔は『財界展望』と言ってましたがね。2006年10月号からリニューアルしたようです。1956年創刊の老舗経済誌です。まあ、最初は総会屋的な雑誌でしたが、『噂の真相』がなくなった今では唯一といっていいくらい、大手企業の経営者や政治家、官僚らを批判しているメディアですよ」

 「いやあ、ビジネス誌なら、『東洋経済』や『ダイヤモンド』などの週刊誌はたまに買いますが、月刊誌は、どうも経営者のヨイショ・インタビュー記事ばかり載っているイメージがあるんですよね。買ったことはないし、昔、ゴルフ場のラウンジでザッと見たぐらいですよ」

「月刊経済誌の老舗中の老舗は、三鬼陽之助が1953年に創刊した『財界』(隔週発行)でしょうなあ。三鬼陽之助(1907~2002年)はもともと、ダイヤモンドと東洋経済で記者、編集長などを歴任した人です。『財界四天王』の造語をつくるなど経営評論家として名を成しました。もう一つは、『経済界』(同)です。佐藤正忠(1928~2013)が1964年に創刊しました。佐藤正忠は、リコーの市村清社長の私設秘書を務め、あの銀座4丁目の三愛ビルの用地確保のために、最後の酒屋の敷地を買収することに成功した人です。こんなことブログに書いちゃ駄目ですよ」

「へー」(と曖昧な返事)

 ということで、初めて「ZAITEN」なる経済誌を買ってみました。1080円。

 確かに、「まだいた!学者政商 『竹中平蔵』の新世界」を読むとよく取材されています。感想は「酷い人だなあ」の一言です。

 小泉政権の下で、経済財政政策担当大臣などを歴任し、非正規雇用をドカスカ増やして格差社会をつくった元凶としてますね。しかも御本人は、江戸時代に「人買い人足」と呼ばれた派遣業界の会長に就任して、雇用の規制緩和をしているわけですから、胴元が賭場で、自分が作ったルールで好きなように儲けているようなものです。

 こういう人を国民は国会議員として選出し、今でも、安倍政権の「民間議員」として森林ビジネスに暗躍し、大手マスコミは「識者」として採用しているわけですかぁ…。(肩書は東洋大学教授ながら、「本職」のビジネス稼業が忙しいので、ほとんどキャンパスに現れず、学生らから「いかがなものか」とツイッターや立看板などで抗議が出ているそうな)

 他に「三菱重工が辿る『東芝の来た道』」「ヤマト運輸 休みは増えたが減らない仕事、現場は昼飯を食う暇もなし」といった硬派記事もあれば、経営者の私生活や近況などを暴き、「あの人の自宅」というタイトルで写真付きで紹介するちょっと趣味の悪い連載記事などもあります。

 一体どういう人がこの雑誌を定期購読されているんでしょうか?少しだけ興味があります。

ハイエクと親交を結んだ田中清玄

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 8月のお盆の頃は、マスコミ業界では「夏枯れ」と言って、あまり大きなニュースがないので、「暇ネタ」ばかりを探します。

 今年の場合は、あおり運転をして真面目な市民を殴ったチンピラ(失礼!彼は天王寺高~関学~キーエンスの元エリートでした)の捕り物帖ばかりやっていて、いい加減、嫌になりましたね。普段なら三面記事の片隅にベタで載るような事案でも、テレビはニュースからワイドショーまで繰り返し垂れ流していました。文化人類学者の山口真男(1931~2013)は「マスコミは、存在自体が悪だ」と喝破したそうですが、長年マスコミ業界で飯を喰ってきた私自身も耳が痛いですね。

 マスコミはもっと信頼を回復して頑張らなければいけませんよ。今はマスコミより、ネットの方が怖い時代になりましたからね。 あおり運転のチンピラに同乗していた女容疑者を、変な正義感を持った若者が、間違って関係のない善良な市民をネットに拡散したため、被害者は、業務上でも精神的にも大変な目に遭われました。

 私も変なことは書かないよう気をつけます。

 さて、先週読了した大須賀瑞夫編著「田中清玄自伝」(文藝春秋)の余波がいまだに続いています。

 「26年ぶりの再読」と書きましたが、当時(1993年)は今ほどインターネットも発達しておらず、情報も不足していて「憶測」ばかり氾濫していました。

 今では検索すれば、簡単に「田中清玄」は出てきます。でも、ウィキペディアには「CIA協力者」と書かれていて驚いてしまいました。「自伝」を読む限り、田中清玄ほど反米主義者はいないと思ったからです。(戦前は共産主義者だったものの、スターリンに対する不信は筋金入りでしたので、反ソ主義者でもありました)日本政府の対米追随政策を絶えず批判したり、「ジャップの野郎が」と威張りくさる米国人と高級バーで喧嘩しそうになったり…。何と、彼は「そのうち、『アメリカ・イズ・ナンバーワン』と言う大統領が出てくる」と予言までしてますからね。

 「自伝」によると、田中清玄は、戦後まもなく昭和天皇に謁見したり、先の天皇陛下の訪中を実現させたり、まさに黒幕として活躍しました。外務省や右翼団体からの抗議などを乗り越えて、 戦前から親交のあった鄧小平が中国の最高実力者となったため、 個人で外交を成し遂げたのは大したものです。

 また、韓国やインドネシア、フィリピンでの利権を独占しようとする岸信介=河野一郎=児玉誉士夫=矢次一夫ラインとは最後まで敵対しました。

 自伝の最後の方では、ノーベル経済学賞を受賞したフリードリヒ・ハイエク教授との交流にも触れています。ハプスブルク家の家長オットー大公から紹介されたらしいのですが、ハイエクはハプスブルク家の家臣の家系だったそうです。

 ハイエクは、戦前からマルクス経済もケインズ経済も否定して、新自由主義経済を提唱した人です。彼が設立したモンペルラン・ソサイエティー(共産主義や計画経済に反対し、自由主義経済を推進する目的に仏南部のモンペルランに設立)に田中清玄も1961年から参加しましたが、間もなくして、フリードマンらシカゴ学派が大挙加入し、田中清玄は「彼らはユダヤ優先主義ばかり唱えるのでやめてしまった」といいます。

 それでも、ハイエク教授との個人的交流を生涯続け、京都大学の今西錦司教授と対談会を開催したりします。

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 私は、哲学者でもあるハイエクについては名前だけしか知らなかったので、彼の代表作である「隷属への道」をいつか読んでみようかと思っています。マル経も、そしてケインジアンまでも否定したため、両派から集中砲火を浴びながら一切怯まず、学説を曲げなかったところが凄い。田中清玄とは意気投合するところがあったのでしょう。

「西洋の自死」=日本も手遅れなのか?

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 ダグラス・マレー著、町田敦夫訳「西洋の自死」(東洋経済新報社、2018年12月27日)が世界的なベストセラーになっているということで、手に取って読んでみました。

 著者は若手、とは言っても、今年40歳になる気鋭の英国人ジャーナリストです。

 内容については、この本の「脇見出し」を引用させて戴くと、「欧州各国が、どのように外国人労働者や移民を受け入れ始め、そこから抜け出せなくなったのか」「マスコミや評論家、政治家などのエリートの世界で、移民受け入れ懸念表明が、どうしてタブー視されるようになったのか」「エリートたちは、どのような論法で、一般庶民からの移民政策の疑問や懸念を脇にそらしてきたのか」といったことが書かれています。

 ちょっと、まどろこしく書かれていますが、移民問題は結局、文化や言語、宗教の問題にまで行き着き、もともといた地元の人たちは、移民の人口増により、少数派に追いやられることが書かれていて、それを言うと「人種差別者」だのと糾弾されると、著者は言いたかったと思えます。

日本語訳版だけでも500ページ以上あり、全て読み通すのには難儀します。この10年近くで欧州で起きたさまざまなテロ事件や移民問題などを具体的に事実として取り上げている書き方で、著者の感慨はあまり挟もうとしません。 でも、斟酌はできます。

 例えば、2017年11月に「ビュー・リサーチ・センター」が公表したところによると、スウェーデン(2016年のイスラム教徒人口は8%)では、今後全く移民を受け入れなかったとしても、2050年にはイスラム教徒人口が11%になり、「通常の」流入があった場合は21%、近年の大量移民が維持されれば31%になるといいます。

 この後で、著者は「1950年のスウェーデンはほとんど移民がいない、民族的に同質の社会だった。それが1世紀後の2050年には、見た目が一変しているだろう。…もしかしたら、それでも構わないかもしれない」といった、思わせぶりな書き方です。

 この本に関しては、日本ではあまり報道されませんでしたが、かなり賛否両論の渦が欧米で巻いたようです。それは、他人事ではなく、その波は、近いうちに、日本にも押し寄せてきます。

 もう、マスコミが言うような「移民排斥=極右、非寛容な人種差別主義者」「移民受け入れ=リベラリスト、寛容な人道主義者」といった単純な図式ではないのです。

 最近、このブログも随分アクセス数が増えました。どなたがお読みになっているのか想像もつきません。襲撃されたくないので、私はか弱い人間ですから、卑怯者と言われようが、自分の意見は茲には書きません(苦笑)。扇動者にはなりたくないというのが本音です。悪しからず。

移民問題は、自分たち個人の問題だと考えるべきだと思っています。

浄土宗西山派を巡る京都の旅(下)=京の中心(へそ)六角堂、石田梅岩

四条高倉 京寿司「いづ源」

8月18日(日)、京都の旅、最終日です。

特に予定はありませんでしたが、京洛先生の携帯電話のことで四条烏丸のショップに行き、その足で、北政所の命令により、香(こう)の老舗「松栄堂」の白川と、寛政元年創業の「田中長奈良漬」を買い求めに行くぐらいでした。

 携帯ショップでの用を無事終えた後、京洛先生は「これから何処に行きましょうか。ああたは、京都のへそに行ったことはありますか?」と仰るではありませんか。

 「京都のへそ?何ですか、それ?」と私。

 「六角堂と呼ばれる聖徳太子が開基したと言われる寺のことです。ここが、京都のへそ、つまり、京都の中心地に当たるということですが、本堂北の本坊は、池坊と呼ばれ、生け花の発祥地といわれてます」

えーっ!凄い所じゃないですか。是非、是非にということで、ショップから20分ぐらいのところまで歩いて行きました。

 六角堂の来歴については、上の写真の高札をお読みください。紫雲山頂法寺が正式名称でした。

 親鸞聖人がここで参籠し、後に浄土真宗を開宗する根源となった、とも書いてあります。

 「京都のへそ」というのは、噂でもフェイクニュースでもなく、実際に「へそ石」がありました。

 京都市の中心のそのまた中心といった意味なのでしょう。

 六角堂の周辺は全て池坊の敷地となっており、この近くにいけばなの池坊の本部があったり、読売新聞の京都総局があったりしました。何で、池坊に読売が?

 それは、読売新聞二代目社主の正力亨氏の妻峰子さんの妹が、池坊専永夫人の保子さんだったからです。その御縁なのでしょう。これも、物識りの京洛先生からの受けおりですが(笑)。

 この後、向かったのが、香(こう)の老舗「松栄堂」です。

 京洛先生は「まあ、すぐそこです」と仰ってましたが、住所は、烏丸通り二条となってましたから、結構歩いたことになります。猛暑の炎天下でしたから、余計、距離を感じました(笑)。

 松栄堂は創業が宝永2年(1706年)といいますから、もう300年以上の老舗です。私も長く生きていますが、これほどの種類と品数が揃ったお香(こう)の店舗は初めてです。

 店舗の隣りには「薫習館」と名付けられた展示館が併設され、いろんな香りを楽しむことができました。仏事用の香だけでなく、ヒーリングや、アロマテラピー用の香などもありました。

京洛先生 御生誕の地

「松栄堂」の近くに、京洛先生が生まれた自宅があった所がある、というので行ってみました。昔は病院ではなく、自宅に産婆さんを呼んで出産したものでした。何しろ、京洛先生の祖父は江戸時代生まれということですから、相当昔の話ですが(笑)。

 現在は、「尾張屋」という蕎麦屋さんになっていて、京洛先生のかつての自宅は、今は尾張屋の家族が住む自宅になっているようでした。

 まあ、東京で言えば、銀座か日本橋といった都心の繁華街の裏通りといった感じです。実際、京洛先生の子どもの頃の遊び場が、新撰組の「誠」の制服を作った近くの大丸百貨店だったというんですからね。

この「京洛先生 御生誕の地」の近くにあるのが、「心学」の石田梅岩が開いた塾の跡地で、「石門心学発祥之地」「此付近石田梅岩講舎跡」の石碑が立っておりました。

京洛先生は「今時、経済評論家でさえ、石田梅岩も心学も知りません。困ったもんですよ」と嘆いておりました。

この看板には、石田梅岩は、聴講料を一切取らず、「正直・倹約・勤勉」などの道徳を説き、とりわけ商人の間に広まった、などと書かれています。

石門心学についても、上の写真の看板で説明されていますので、お読みください。

 京洛先生は「石田梅岩は今の京都府亀岡市出身ですが、亀岡は色んな人を輩出していますね。大本教の出口王仁三郎もそうですし、絵師の円山応挙もそうでしたね」と一人で感心しておられました。

 昼時になったので、 京洛先生ご贔屓の高倉通り綾小路下る 「いづ源」に入りました。

 私も2年ぶりぐらいです。確か、 鯖寿司で有名な京寿司の老舗「いづう」(天明元年=1781年創業)から暖簾分けした店です。このほか、以前、よく連れて行ってもらった八坂神社近くの「いづ重」も、同じ「いづう」からの暖簾分けでしたから、ここはその兄弟店みたいなもんです。

美人の女将さんが大変な話好きで、我々が浄土宗西山(せいざん)派の寺巡りをした話をすると、「そうどすね。西山さんやったら、永観堂(浄土宗西山禅林寺派総本山)はんと誓願寺(浄土宗西山深草寺派総本山)はんは欠かせまへんにゃわぁ~」と仰るではありませんか。女将さんは、毎日色んな賓客をお相手していますから、「耳学問」は確かです。実際、信心深く、お寺参りもされているようでした。

 私は心の中で、「ああ、今日帰っちゃうので、行けずに残念」と思いました。また次ぎの機会にお参りしたいと思いました。浄土宗西山派は現在、大きく分けて三つの流派があり、我々が足を運んだ光明寺は、西山浄土宗の総本山でした。

浄土真宗本願寺派

 京洛先生と別れて、新幹線の時間まで少しあったので、京都駅近くの西本願寺に行ってみることにしました。

 京都駅から歩いて15分ほどなんでしょうが、午後2時、炎天下の京都は死ぬほどの暑さです。途中で倒れてしまうのではないかと思うほどでした。本当です。

西本願寺「御影堂」

なぜ、西本願寺を選んだかといいますと、前日、島原に行った際、その近くに西本願寺があり、ガイド役の京洛先生が「西本願寺は、龍谷山本願寺が正式で、自分たちのことを『西』なんて言わないんですよ。 『浄土真宗本願寺派』と言っているのです。権力が膨大になることを恐れた江戸幕府が、浄土真宗を『東』(真宗大谷派)と『西』に分割しただけなので、西本願寺は、自分たちを『本願寺派』と名乗るように、我こそが本派だと思っているんです」と解説してくれた話を耳にしたからでした。

 西本願寺、いや龍谷山本願寺の国宝の飛雲閣と阿弥陀堂が目下、修復工事中で見られなかったのが残念でしたが、足を運んで良かったでした。

 それにしても、京都は本当に暑かった。

浄土宗西山派を巡る京都の旅(中)=島原から長岡京の光明寺、そして百万遍へ

島原の御門

京都の旅2日目の17日(土)。

 前夜、「明日は何処に行きましょうかねえ。世界遺産になった仁徳天皇陵に行きますか」と京洛先生は仰るので吃驚してしまいました。ここ数年、毎年のように欠かさず京都旅行をして、京洛先生のお世話になっておりますが、昨年は神戸、一昨年は大津…と、御本人は京都を飽きてしまっているのか、京都以外を巡ることが多かったのでした。

 でも、何となく気乗りがしませんでした。「安養寺の村上住職が仰っていた熊谷直実が創建したという光明寺に行ってみたいのですが…」と提案したところ、京洛先生は「そうですか。では、今回は浄土宗西山派の旅としますか」ということで、予定を変更してくださいました。

 その前に「腹ごしらえ」ということで連れて行ってくれた所が島原です。

 江戸時代に遊郭や料亭が軒を連ね、幕末の志士や新選組らが入り乱れた歓楽街です。司馬遼太郎の小説などによく登場していましたね。

島原の遊郭「角屋」

残念ながら、今ではすっかり寂れてしまい、歴史的保存建造物などになってしまいました。

ちょっと歩けば「長州藩志士 久坂玄瑞の密議の角屋」などの石碑があります。

 角屋については、上の写真の説明文をお読みになってください。

島原住吉神社

 何で、島原に来たかといいますと、ここには特別に安くて旨くて量もある和食を食べさせてくれる「魚河岸 宮武」があるからでした。以前から、京洛先生から「今度、京都にお見えになったらお連れしますよ」と聞かされていた店で、私はすっかり忘れていましたが(笑)。

 ガイドブックには載っていないような、知る人ぞ知る店で、口コミでやって来たお客さんが、大勢やって来ます。 ランチは、朝の10時半開店で、午後1時半で完売状態になります。

10時半に着いたのですが、既に満杯で、30分ほど戸外の暑い炎天下で待たされることになり、近くの島原住吉神社などをお参りして時間をつぶしました。

宮武 日替わり定食800円(税別)

 午前11時、待望の入場です。

 上の写真をご覧になればお分かりの通り、大層豪勢な料理だというのに、日替わり定食が800円(税抜き)という飛び切りの安さです。味は勿論天下一品です。近くに別のこじんまりとして和食屋さんがありましたが、同じような品数の料理で1500円の価格でした。まあ、何と、半額近い値段!これなら人が押し寄せるはずです。

 この「宮武」の近くに魚市場があり、東京でいえば、築地か豊洲といった感じでしょうが、新鮮な魚がすぐ手に入る地の利を生かして、随分良心的な商売をしているものだと感心してしまいました。この店に連れて行ってくださった京洛先生には感謝、感謝です。

 お腹が整ったところで、目指したのは浄土宗西山派の総本山光明寺です。

 京都市街から少し離れた長岡京にあり、バスと阪急電車を乗り継いで、1時間ぐらい掛かったでしょうか。阪急「長岡天神前」からバスに乗りましたが、1時間に2本ぐらいしかなく、行きも帰りも30分ぐらい待たされました。

 でも、足を運んで良かったでした。境内のあまりにもの広さに圧倒されました。

 不勉強で何も知らなかったので、前日に安養寺の村上住職から光明寺の話を聞かなかったら、お参りすることすら頭にありませんでしたからね。

 光明寺とはどんな寺なのか、私が説明するよりも、上の写真を読んでくだされば、十分です。

 光明寺の創建に尽力したのは、「平家物語」や謡曲「敦盛」などに登場する武将熊谷直実です。

 熊谷直実は、今の埼玉県の熊谷市出身かと思ったら、安養寺の村上住職によると、もともとは京都の出身で、平氏だったらしいですね。それが、坂東に下って源氏の武将になったらしいのです。

 武将の宿命とはいえ、多くの人を殺める罪の深さにおののいた熊谷直実は、出家して法然上人の弟子となります。物語は、文楽と歌舞伎「熊谷陣屋」などにも取り上げられ、人口に膾炙しています。

 熊谷蓮生法師となり、念仏一筋に暮らした「念仏三昧院」が、今の光明寺に発展したと言われています。

上の写真は、御影堂(みえどう)で宝暦3年(1753年)に再建された光明寺の中心となるお堂だそうです。御本尊は法然上人御自作の「張り子の御影」。堂内に座っておられた僧侶の方と少し話を伺ったところ、浄土宗西山派の光明寺別院が東京都町田市にもあるということでした。

かなり立派なお堂です。

ほとんど参拝者がおらず、ゆっくりと参拝することができました。

円光大師火葬跡

ここは、法然上人の死後15年経過した頃、専修念仏の広まりに危機感を持った天台宗の僧兵たちが知恩院の御廟を襲撃するという話(嘉禄の法難)を聞いた弟子たちが、密かに上人の遺体を掘り起こして、この地に運んで荼毘に付したと言われます。(遺骨は各地に分骨されたそうです)

 この話を安養寺の村上住職から伺って、是非とも光明寺をお参りしたいと思ったのでした。

 光明寺の隣りには、村上春樹さんの御尊父も通った浄土宗西山派の僧侶を養成する「西山専門学校」(現京都西山短期大学)もありました。「ここだったのかあ」と感激しました。

 炎天下だったので隈なく歩いたわけではありませんが、大学の近くには商店どころか、喫茶店すら見当たらず、これでは修行三昧するしかないかな、と思いました。

 光明寺を辞して、また京都市内に戻り、向かったところは「百万遍」。「今回は浄土宗巡りにしませう」という京洛先生の提案でした。

 百万遍知恩寺は、浄土宗八総本山の一つということで、お参りは欠かせません。

 上の説明文にある通り、百万遍というのは、文字通り、疫病退散のために百万遍も念仏を唱えたところから、付けられたんですね。

百万遍知恩寺 本堂

百万遍の辺りは、京都大学のキャンパスがあちこちにありました。そのうち、ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士の記念館にも足を運んでみました。

京都帝国大学は、村上春樹さんの御尊父も学ばれた大学なので、いつのまにか、彼の手記「猫を捨てる」を辿る旅になりました。

村上春樹氏は、この「猫を棄てる」という父親について初めて書いた手記の中で、「こういう個人的な文章がどれだけ一般読者の関心を惹くものなのか、僕にはわからない」と疑っておりましたが、こうして、私のような一人の一般読者が、安養寺~西山専門学校~京都帝大と足を運んだわけですから、相当な影響力があったということです。ご安心ください(笑)。

 猛暑の旅を終えて、北野天満宮近くの京洛先生の邸宅に戻り、すっかりお馴染みになった近くの銭湯「西京極湯」で一風呂浴びました。

 この「西京極湯」の近くにあるのが、浄福寺です。幕末に薩摩藩の屯所となった寺です。司馬遼太郎の小説にもあります。

浄福寺と薩摩藩との御縁は、天正20年(1592年)、豊臣秀吉の朝鮮出兵に反対して自害させられた島津歳久の首が葬られたことから始まったと言われています。

 浄福寺は延暦年間に天台宗の寺として創建されましたが、火災などで色々と移転があったりして、室町時代末から浄土宗となりました。

 うーん、すごい。ここも浄土宗ですか。偶然にも浄土宗巡りとなりました。

一風呂浴びてからの楽しみは、やはり、きゅっと一杯。

 風呂上りによく立ち寄っていたお好み焼き屋さん「西出」がお盆休みだったので、千本通の串カツ屋さん「半左笑門」に初めて入ってみました。

 いけてました。

浄土宗西山派を巡る京都の旅(上)=安養寺の村上住職を訪ねて

 ほんの少しの御無沙汰でしたが、京都に行っておりました。8月16日(金)~18日(日)の2泊3日という短い期間でしたが、内容は4泊6日といった感じでした。

 すっかり京都の「常宿」となってしまった京洛先生の御邸宅に御厄介になりながらの旅でした。

 この時期、Overtourism(観光公害)を覚悟していたのですが、割と空いていました。台風一過のせいで国際線の本数が減ったせいなのかもしれません。京洛先生は「台風ですから、蒙古襲来みたいなものですよ」と仰るので大笑いしてしまいました。   

京都は、京洛先生のショバですから、全てお任せです。

今回は、左京区にある青龍山安養寺の村上純一御住職と面談することが本義でした。あ、慣れない仏教用語を使ってしまいました(笑)。

このブログで、何回か触れさせて頂きましたが、村上純一御住職は、ノーベル文学賞に最も近い作家村上春樹さんの従兄弟に当たる人で、春樹さんが今年5月発売の「月刊 文藝春秋」6月号に初めて御尊父の思い出の手記(「猫を棄てる」)を書かれたのを読み、その御紹介ついでにこのブログで取り上げたのでした。

その際、間違って、同姓同名の京都市の安養寺ながら、東山区にある慈円山安養寺の方だと思い込んで紹介してしまい、このブログを目にされた村上純一御住職、御本人から誤りを指摘されたのでした。

で、今回は、大袈裟ですが、その訂正謝罪行脚でもあったわけです。

「小宝」のオムライス、手前が(中)で1000円

繰り返しになりますが、京都に着けば、全て京洛先生お任せです。「取り敢えずランチにでも行きませう」ということで、京都駅から市バスに乗って、場所も分からぬまま、降りて炎天下を歩いた所が、岡崎の高級別荘地区でした。京都市動物園の近くにある洋食屋「小宝」に向かいました。

昼1時過ぎでしたが、長い行列。日陰のない炎天下、立ったまま30分も待ちましたが、待った甲斐がありました。

何しろ、修学旅行の生徒がタクシーで乗り付けるほどの人気店で、その量が半端じゃない。上の写真のオムライスをご覧になれば、お分かりの通り、(中)で(小)の2倍。(大)はまず一人で食べ切れないでしょう。

物識りの京洛先生によると、「小宝」は、京都の老舗洋食店「宝船」(今はない)から暖簾分けした店で大層昔から繁盛していた店だそうです。

後でお会いした安養寺の村上純一御住職も子どもの時から行っていたそうで、昔から混んでいたそうです。

山縣有朋 別邸「無鄰菴」

この後、何処に行くのかと思いましたら、明治の元勲山縣有朋の別荘「無鄰菴」でした。明治29年に完成し、現在は京都市が委託管理して一般公開してます。入園料410円。

見事な庭園は七代目小川治兵衛作。この辺りの高級別荘の庭園の殆どを小川治兵衛が手掛けたそうです。別荘地区には、老舗の野村財閥のほか、最近では、新興宗教Sやニトリの似鳥さんらも加わったそうです。

そういえば、競馬騎手の武豊さんの大豪邸も教えてもらいました。大名屋敷みたいで、半端じゃありませんでした。写真も撮りましたが、このブログにアップするのはやめておきましょう。

この後、何処に導いてくれるのかと思ったら、もう歩いて安養寺に向かっておりました。ついでに、東山区の慈円山安養寺(時宗)にも連れて行ってもらうつもりでしたが、京洛先生は大変せっかちな性格です。「遅れてしまったらねえ…」と仰りながら先に進み、寺の麓に到着した頃は、まだお約束の時間まで1時間以上ありました(笑)。

村上純一御住職からは前日、電話で「地下鉄の『蹴上』の一番出口からすぐです」とお聞きし、そのことを京洛先生にもお伝えしたのに、「すぐそこですから」とズンズン先に歩かれます。後で分かったのですが、京洛先生の仰る「すぐそこ」とは歩いて30分ぐらいの距離でした(笑)。

日向大神宮 女優羽田美智子さんがパワースポットとして信心されているようです

大変失礼ながら、安養寺は、京都市内ながら市街からも人里からも離れた山奥にありました。お買物に出掛けるのも不自由じゃないかなあと思いました。

時間が早かったので、安養寺に併設(?)している日向大神宮に登りました。安養寺の麓にある京都市浄水場辺りは東山区、安養寺は左京区、そして、日向大神宮は山科区でした。

本殿は、小山の頂上付近にあり、坂道の登り坂は息が切れるほどでした。

日向大神宮については、私がとやかく言うより、上の御由緒をお読み下さい。

この旅の最終日に昼食をとった四条高倉の京寿司「いづ源」の女将さんの話によると、この日向大神宮は、女優の羽田美智子さんがパワースポットとして度々お参りして、信心されている神宮だといいます。

青龍山安養寺 御本尊は阿弥陀如来

やっと、お約束の時間になったので、青龍山安養寺の村上純一御住職を訪ねました。春樹さんの手記にも出てきましたが、ここが、高濱虚子が「山門のぺんぺん草や安養寺」と詠んだお寺か、と感慨深いものがありました。

 この面会が仕事だったら、しっかりメモを取ったことでしょうが、遊びですから、いや、間違いました、お詫び行脚ですからメモはやめました。また、吉本興業のようにテープを取ったりもしません(笑)。どういう面を下げてお会いするべきなのか、迷いましたが、まあ、肩の力を抜いて、ざっくばらんな気持ちでお会いすることにしました。

後で「記念写真でも撮っておけばよかった」と後悔しましたが、このブログは、顔写真はあまり載せない「反フェイスブック主義」を貫いてますから、いいでしょう。ご本人は、あまり、村上春樹さんとは似ていませんでした。

色んな話をお伺いしました。法然上人が開いた浄土宗にも色んな分派があり、京都は主に知恩院の鎮西派と光明寺などの西山(せいざん)派があり、かつては(とは言っても戦国時代までは)西山派の勢いが強かったのですが、徳川家康が本能寺の変を聞いて、大坂堺から逃げる際に知恩院が援助したことから、江戸時代は鎮西派が本派の主流になったそうです。ですから、江戸の増上寺も浄土宗鎮西派というわけです。

鎮西派と西山派は、同じ浄土宗でも違いが多くあり、例えば、お経を読む際、鎮西派は呉音で読みますが、西山派は漢音で読むそうです。漢音は天台宗もそうです。

青龍山安養寺も、もともとは慈覚大師円仁(794~864)が天台宗の寺として開いたといわれております。

京都市内には数え切れないくらい多くの神社仏閣がありますが、村上住職によると、拝観料を取れるような「観光寺」はほんの僅かで、大抵の寺院は、細々と「経営」しているそうです。少子化でこれから消滅してしまう寺院もかなりあるようです。

村上住職は、あまり口には出しませんでしたが、ご自身の寺院経営もなかなか大変なようでした。「世間の多くの人は、宗教法人は税が免除されているので、『坊主丸儲け』と思ってらっしゃるかもしれませんが、サラリーマンと同じように、住職も宗教法人から給料を貰っている形にして、確定申告もあります。例えば、跡を継ぐ息子が僧侶の資格を得るために、大学に行かなければなりませんが、その教育費は宗教法人から出ません。自分の息子ですから、住職の生活費の中から教育費を出さなければ、税務署も黙っていないんですよ」と、明かしてくれました。

そうでしたか。

面白かったのは、村上住職と京洛先生が同じ京都府立鴨沂(おうき)高校出身だったことが分かったことでした。京洛先生の方が5年ほど先輩でしたが、鴨沂高校は、旧制京都府立第一高女で、森光子、山本富士子、沢田研二ら有名人も多く輩出している名門高校どす。

真言宗 泉涌寺 境内は自動車で往来してました

安養寺を辞して、向かったのが泉涌寺でした。

泉涌寺と言えば、歴代天皇の位牌をおさめる格式の高い真言宗の寺院ですが、敷地の広さには腰を抜かすほど驚きました。何故、泉涌寺に向かったのかというと、この境内にある宿坊(?)に、スペイン滞在歴半世紀の画家加藤力之輔画伯のアトリエがあり、夜は五山の送り火の鑑賞会をご一緒しましょう、という話に知らぬ間になっていたからでした(笑)。

加藤画伯の奥さんアサコさんは、依然としてマドリードにお住まいで、私も昨年7月に初めてスペイン旅行した際に、ピカソの「ゲルニカ」を見るのに美術館にお導きして頂いたり、彼女の自宅兼ゲストハウスでランチをご馳走になったりしたことは、昨年のブログに書いた通りです。

 昨年のマドリードではお会いできなかった加藤画伯の子息である大輔さんとスペイン人の美人奥さんアンヘラさん、それに3人のやんちゃな男の子と女の子がたまたま日本に遊びに来ていて、今回お会いすることができました。

泉涌寺「悲田院」から見る送り火

皆で一緒に、「送り火」を見ることにしました。ちょっと離れていたのと山影に隠れてしまっていたせいで、全部を観ることができませんでしたが、スペイン人のアンヘラさんは、初めて見るらしく、感激していました。

我々が送り火を観ている間、大輔さんが一生懸命に料理をしていたらしく、帰ってからバスク料理のマルミタコを御馳走になってしまいました。大輔さんは、お父さんと同じアーティストですから、料理の腕も確かでした。実に美味でおかわりしてしまいました。ポテトと牛肉かと思ったら、マグロのアラで、隠し味にローリエがある、と大輔さんは講釈してくれました(笑)。

 加藤画伯も大輔さんもアンヘラさんもお子さんたちも、皆、スペイン語でしたから、京都なのに、何となく異国に来たような不思議な感じがしました。