元号について知識が増えました

所功、久礼旦雄、吉野健一共著「元号 年号から読み解く日本史」(文春新書)は、大変読み応えありました。

僭越ながら、それほど易易と読み飛ばすことができないでしょう。中級から上級読者向けです。まず、「薬子の乱」や「承久の変」といった歴史上の出来事の年代や天皇や藤原氏の系図が頭に入っていないとスラスラ読めないはずです。

私がこの本の中で興味深かったことを2~3点挙げますと、日本の元号は、本来、朝廷内で難陳され、天皇が最終的に裁可して改元されていましたが、やはり、時代を経て、時の最高権力者が元号を決定していたことがあったことでした。平安時代の藤原道長が自邸で、改元を決定していたことはさほど驚きませんが、例えば、織田信長は「天正」、豊臣秀吉は「文禄」「慶長」、徳川家康は「元和」の改元に意見を申し入れたか、直接、選定していたというのです。

もう一つは、年号の読み方については、特に朝廷や幕府から伝達されていなかったということです。改元を伝える「お触れ」などには、一部の地域では、読み方を「ルビ」として記載した例もありましたが、ほとんど各地に任されていたというのです。例えば「慶長」は「けいちょう」か、「きょうちょう」か、「宝暦」は「ほうれき」か「ほうりゃく」かなど、当時の史料でも読み方が一定していないというのです。

「へー」ですよ。日本語の漢字の読み方は「呉音」読みから「漢音」読みまで色々ありますから、日本語は難しい。ま、そこがいい所かもしれませんが(笑)。

現代人は、元号というのは、「一人の天皇陛下に一つ」、つまり、「一世一元」が当たり前だと思いがちですが、それは、明治以降の話であって、それ以前は天皇一代の間に何度も改元が行われてきました。おめでたい「祥瑞」(吉兆)が出現(例えば、白い雉とか)した時とか、都に疫病や天災、戦災に遭った時とか、60年に一度回ってくる「辛酉」(中国では革命が起きると言われた)や「甲子」(革令)の年に、改元したわけです。

幕末の孝明天皇朝(在位20年弱)は、「嘉永」から「慶応」まで6回も改元され、途中の「万延」と「元治」は1年しか続きませんでした。

江戸幕府や大名のお抱え儒学者、例えば、著名な林羅山や藤田東湖、それに山崎闇斎や新井白石らもかなり、改元に際して意見を申し入れていたことも、この本で初めて知りました。

「明治」は、15歳の天皇が「御籤を抽き聖択」、つまり、候補の中からクジを引いて決められたということで、これも驚き。

今では、本家本元の中国は、元号を廃止して西暦を使っていますから、元号は「日本的な、あまりにも日本的な」ものになっています。「日本書紀」の記述から初代神武天皇が紀元前660年に即位し、その年を紀元1年とすると、天保11年(1840年)は皇紀2500年に当たり、当時の知識人たちはしっかりと明記していたことには感心しました。

その100年後の昭和15年(1940年)、日本は盛大に「皇紀2600年」の祝賀会を挙行しました。零式戦闘機、つまりゼロ戦は、この年に製作されたのでそのように命名されたことは有名ですね。

来年は改元の年で、どんな年号になるのか、個人的には興味津々です。

長く貯金してたら没収されるとは!驚き

9月6日付の朝日新聞朝刊だけに郵便局の広告が掲載されていました。

平成19年9月30日までにお預け入れいただいた郵便貯金はありませんか?

満期を過ぎています。払い戻しが受けられなくなります。

といった内容です。

最初見た時、フェイクニュースか冗談かと思いました。もし、そんなに重要なら、大手全国紙6紙(都内最終版)の中で何で朝日しか広告を出稿しないのか、不思議です。

でも、本物のようです。郵便局に預けると、20年2カ月経過すると消滅、いや、捨てるわけないですから没収されるようです。没収した庶民のへそくりは何処に行くんでしょうか?国庫に入るのでしょうか?あれっ?郵便局は民営化されたんじゃなかったでしたっけ?

私は不勉強で知りませんでしたが、とにかく、そういう法律があるそうですから、せめてこのブログの愛読者の皆様方にはくれぐれもお気をつけになるよう、御案内申し上げます。

◇◇◇

以下は郵便局のホームページに掲載されていたものを再録しました。

【長期間ご利用のない貯金のお取扱いについて】

長期間、預入や払戻し等のご利用がない貯金につきましては、お預け入れいただいた時期によって、以下のようなお取扱いとなります。

お心当たりがある場合は、お早めにお近くのゆうちょ銀行または郵便局の貯金窓口で払戻し等のお手続きをしていただきますよう、お願いいたします。

なお、お取扱いの状況によっては、お手続きに日数を要する場合がございますので、あらかじめご了承ください。

また、ご住所やお名前に変更があった場合には、満期の際などに大切なご案内が届かないことがありますので、お早めにお近くのゆうちょ銀行または郵便局の貯金窓口に変更の届出を行ってください。

【平成19年9月30日以前にお預け入れいただいた定額郵便貯金、定期郵便貯金、積立郵便貯金】

満期後20年2か月を経過してもなお払戻しのご請求等がない場合は、旧郵便貯金法の規定により権利消滅いたします。満期の際にはお早めにお手続きをお願いいたします。

【平成19年9月30日以前にお預け入れいただいた通常郵便貯金、通常貯蓄貯金】

平成19年9月30日の時点において、最後のお取扱い日から20年2か月を経過していない場合は、他の金融機関と同様、最後のお取扱い日(郵政民営化前に権利消滅となった通常郵便貯金および通常貯蓄貯金を除き、平成19年10月1日以後に一度もお取扱いがない場合は、平成19年10月1日)から10年が経過した場合には、いわゆる「休眠口座」としてお預かりし、払戻しのご請求があればお支払いすることとしております。
平成19年9月30日の時点において、最後のお取扱い日から20年2か月を経過している場合は、旧郵便貯金法の規定により既に権利消滅しておりますのでご了承ください。

【平成19年10月1日以後にお預け入れいただいた貯金】

他の金融機関と同様、最後のお取扱い日または満期日から10年が経過した場合には、いわゆる「休眠口座」としてお預かりし、払戻しのご請求があればお支払いすることとしております。

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えっ?10年過ぎたら「休眠」? 請求あれば支払う?

「他の金融機関同様」ということは、全ての銀行も同じだということなんでしょう。銀行って、何て強欲な営利企業だこと!

イエメン難民が済州島に押し寄せ、韓国で難民法見直し署名が殺到

はるか遠く中東のイエメンでは、2015年から、またまた内戦が続いています。1990年に南北イエメンが統一された後の94年にも内戦がありましたから、色んな複雑な要素が絡んでいて一言では説明できません。

今回、3年以上続いている内戦は、イスラム教スンニ派が主導するサウジアラビア中心のアラブ連合軍が支える暫定政権と、イランの後押しを受けるイスラム教シーア派の武装組織フーシ派が対立する構図で、要するに、イランとサウジの「代理戦争」とみられているという報道がありましたが、これが一番分かりやすいです。

小生のようなフランスかぶれにとって、イエメンという土地は、仏象徴派詩人アルチュール・ランボーが20歳で筆を折った後、貿易商というより武器商人として拠点にしたイエメンのアデンという港町が非常に印象深くインプットされております。(アデン発のランボーの手紙が多く残っています)

いずれにせよ、その現代のイエメンでは、日本ではほとんど全くといっていいくらい報道されていませんが、内戦という名の残酷な殺戮が毎日のように行われ、多くの難民が国外に逃亡しています。

はるか遠くの中東の話なので、日本や東アジアは関係ないと思っている人が多いでしょうが、今、そのイエメン難民が韓国の済州島に押し寄せて、問題になっているというのです。

このことについては、小学館系のネットメディアNEWSポストセブンに9月4日付で寄稿したノンフィクション作家前川仁之氏の現地取材記事「済州島にイエメン難民続々、反対派韓国人『ニセ難民』と批判」に詳しいので、ご興味のある方は、リンクを貼らせて頂きましたので、クリックしてお読みください。

何で、遠くアラビア半島の南端に位置するイエメンの難民が、はるばる済州島にまでやってきたのかー? 前川氏はこう書いております。

済州島では2002年以来、観光促進のため諸外国からの旅行者に対し、30日間までノービザで滞在できる制度をとっている。そこへ持ってきて昨年12月、マレーシアのクアラルンプールと済州島をつなぐLCCの直行便が就航したのである。内戦状態のイエメンから、近隣諸国を経てマレーシアまで逃げて来ていた人々はそこでの滞在期限に追われ、今度は直行便に乗って済州島までやって来る。こんな具合にして今年の1月から5月までに560名以上のイエメン人が来島し、難民申請を出したのだった。」

東南アジアのインドネシアは世界最大のイスラム国であり、隣国のマレーシアは、イスラム教を国教と定めています。つまり、アフリカもアラビア半島も東南アジアも、イスラム・ネットワークでつながっているわけです。

そして、格安航空で済州島に逃れてきたイエメン難民に対して、韓国国内では「難民法の見直しを求める市民のネット署名が、1カ月で70万人を超えた」というのがこの記事の趣旨です。

現在、日本でも移民・難民問題がクローズアップされる一方、「観光公害」まで叫ばれておりますから、この韓国のケースは、日本の近未来であり、幕末の「鎖国か」「開国か」に匹敵するぐらいの決断を迫られているのかもしれません。

魚住昭氏著、講談社の創業者野間清治物語に瞠目

 昨日の台風21号は、関東地方は電車が遅れる程度で、お店は全開、大きな影響はなかったのですが、関西地方は台風襲来で大変だったようです。
 京都にお住まいの京洛先生は「午前中で、商売を切り上げる店が殆どで、『コンビニ』も同じで、アテにできません。大手デパートはすべて『休業』です。交通機関も同様です。JRは在来線は全面運休で、まるで台風を使った『戒厳令』の予行演習、予備訓練です。『家に閉じ籠もって、政府PR機関のテレビでも見ていろ!』という事です」と憤慨されておりました。
 そして、「貴人も、アホなチンピラにアタマに来るより、そうしたチンピラがもっと増殖して、そのチンピラどもによる騒擾事件が暴発、拡大する日本の近未来をもっと予想して、対応しないとダメですよ。そう考えると『戒厳令』の予行演習は必要ですかね」と、何だかよく分かりません。まるで自暴自棄です(笑)。 
 続けて「こんな時に、都内では、世論支持率1%の『国民民主党』が新代表を選んだ、という事ですが、小、中学校の生徒会の会長選びみたいなものです。
 玉木代表以下、”幹部の顔”は、人生の辛酸など舐めたことがない人々で、顔を見たら分かります。これでは、海千山千の自民党の二階幹事長にはやられますね。どうして、こういう”紳士服の青山”のモデルのような容貌の面々が選挙で当選するのですかね? すべて、一票を投じる有権者の責任です。”トランプ批判”するより、日本のマスコミは『有権者批判』と日本人の頭脳構造を分析して、覚醒させる方が先決です」と、全うなことを仰るのです。
 それにしても、「”紳士服の青山”のモデルのような容貌」とは秀逸ですなあ(笑)。まあ、政治家は国民が税金で養っているわけですから、これぐらいの批判には耐えなければならないでしょう。
◇◇◇
その京洛先生、毎日、毎時、ピンと張り詰めたアンテナを張り巡らして情報収集に努めており、私もその「おこぼれ」に預かっております。
 昨日は、講談社の創業者野間清治の伝記をノンフィクション作家の魚住昭氏が、インターネットの「現代ビジネス」で発表しているから是非読むように、と勧められました。
 「大衆は神である」という大きなタイトルで、「現代では批判にも多くさらされている既存メディアはどのように誕生し、大きくなっていったのか。ノンフィクション作家の魚住昭氏が極秘資料をもとに紡いでいく」と銘打っております。
 極秘資料ですから、面白くないわけがありません(笑)。魚住氏は「野間はズボラで、遊び好きで、借金まみれの放蕩生活を沖縄で送ってきた。それでも野心だけは人一倍あったようだ。」と書きます。野間は、東京で一旗揚げる前に、沖縄で教師をしていたことがあります。

 魚住氏は、日本共産党の指導者として有名な徳田球一(とくだきゅういち・沖縄県立中学出身)の証言を引用します。

〈琉球というところは、中学の先生はほとんどよそからきた人だから、琉球人を特別に軽蔑するので、われわれはいつも団結して反抗した。その先生どもは、いずれもいいかげんな検定をとって琉球に流れてきた連中なので、質がわるく、高師(=高等師範学校)をでたものは十五、六人のうち二、三人で、大学など出ていようものなら、くるとすぐ首席か校長になってしまうというありさまだった。そのなかでも、とくにわるい先生だとおもったのは、のちに講談社の社長となった野間清治だった。野間は私が中学一年のときの漢文の先生だったが、漢文などはほとんど知らない。教室では石童丸(いしどうまる=出家した父を探して幼子が高野山を訪ねる仏教説話)の話や、講談、なにわぶしのようなことばかりやっていた>

<しかもかれは、遊廓を宿舎とし、まいにちそこから酔っぱらって出勤した。かれももちろん、いいかげんな検定をうけて流れてきた部類なのだが、収入は一月四十円か五十円とっていたはずで、遊廓にとまっても、一ヵ月十円ぐらい、一里の道を車でおくりむかえされ、さんざん酒をのみ、女あそびをしても二十円ぐらいですんだときだから、らくにやってゆける。だからかれのような人間にとっては、琉球はたしかに天国であったろう。しかし、われわれにとっては、地獄であった〉(『獄中十八年』)

1950年代に作成された講談社の「極秘資料」には、将来の歴史学者やジャーナリストの批判にも応えられるよう、良い事も本人に都合の悪いことも書かれているというので、確かに「超一級資料」と言えるでしょう。
 やはり、ネットでは読みにくいので、早く単行本になってほしいものです。
 【追記】台風21号の影響で、京都の二条城や西本願寺など国宝、重文建築が損傷したそうです。やはり、相当激しかったのですね。

中華思想は今も健在か?

敬白

昨日は、チンピラに絡まれた話を書いたところ、多くの方から御心配等のコメントやメール頂きました。誠に忝く存じ候です。

やはり、チンピラ如きを相手にして、こちらが加害者(被害者の可能性の方がもっと高いですが=笑)になってしまってはとんでもない話ですからね。

一昨日は、あんなことが現実にありえるのか、「おい、ジジイ!」なんて、まるで時代劇のドラマを見ている感じでした(笑)。昨晩はよく眠れましたので、少し回復しました。

皆さまにはご心配をお掛けして申し訳御座いませんでした。

◇◇◇

さて、名古屋にお住まいの篠田先生お勧めで、所功、久礼旦雄、吉野健一共著「元号 年号がら読み解く日本史」(文春新書)を昨日から読み始めましたが、面白いですね。来年は平成最後の年で、改元されるわけですから、大変タイムリーな本です。それに、非常にマニアックです(笑)。恐らく、一般向けの元号に関する本で、これ以上詳しいものはないかもしれません。ただし、その前に、古代史関連の本を何冊か読んでおくことをお勧めします。一層面白くなると思います。

とはいえ、まだ読み始めたばかりです。篠田先生がこの本を薦めてくれるに際して、「信じられないでしょうが、天皇は昔、住む所がなくて、京都市内の公家らの家にお世話になって、転々として暮らしていた時代があったんですよ。それは、この本に書かれています」と言うのです。

えっ???本当なんですか?全く信じられませんでした。

篠田先生は、やたらと京の都の歴史に詳しく、今ある京都御所は、平安時代のものではなくて、徳川家康が整備したもので、「平安宮」はもともと、今の千本通り(かつては、朱雀大路と呼ばれ、京の南北のメインストリートだった)の北の一条から二条にかけてありました。西の右京が水はけが悪く、大雨が降ると不衛生で疫病がはやり、大火で大内裏も焼失するなどして廃れてしまい、都の中心は東の左京に移っていたといいます。戦乱などで、江戸時代になるまで、天皇といえども、大内裏を失って、定住先がなかった時期もあったわけです。

少し話が本筋が外れてしまいましたが、元号とは、漢の武帝が最初に制定したと言われ、周囲の「属国」は、中国の元号を使わさせられました。日本の最初の公式の元号は645年の大化ですが、その時代に、よくぞ「独立国」として頑張ったものです。(その前に、中国に隠れて、非公式に元号を使っていた時もあったようです)。

この本には「属国」とは書かれていませんが、「中華思想」には、周辺国の民族は文明のない野蛮な夷狄(いてき)として、朝貢させることが当然だと看做されておりました。勿論、そんな「属国」は中国の元号を使うのが当たり前ですから、個別に元号を称するなどとんでもないということになるのです。

皮肉にも、本家本元の中国では、清の時代で元号を使うのが最後で、今は西暦を使っているというのです。朝鮮半島も、一時的に独自か中国の元号を使っていましたが、今はありません。かつて越南と呼ばれて中国に朝貢させられていたベトナムにも元号があり、何と「大正」もあったそうです。(日本が「大正」を採用した際、森鴎外が友人宛ての手紙「何で、他の外国の例を調べないのだ」と憤慨したそうです)

ということは、日本は、ほとんど唯一、今でも元号を使っている国であり、「優等生」と言えなくもないですね。(台湾は、今も中華民国暦を使っているようです)。何しろ、朝鮮半島もベトナムも、今では漢字まで廃止してしまい、日本は「哲学」や「科学」や「経済」など独自の漢字を造語して、中国に逆輸出してしまうぐらいですからね。

◇◇◇

今回、中華思想の夷狄について調べてみたら、南蛮とは、スペインかポルトガル人のことかと思っていたら、本来はベトナムなど南方に住む夷狄民族を指していたんですね。

つまり、中国の皇帝らは、中華の四方に居住していた周辺民族を蔑称して、

「東夷」(中国東北地方、朝鮮半島、日本)

「北狄」(匈奴、鮮卑、韃靼、契丹、蒙古など)

「西戎」(ウイグルなど)

「南蛮」(ベトナム、カンボジアなど東南アジア、西洋人)

―と呼んでいたというのです。

中華思想とは、自分たちの「華夏」が世界の中心であり、それ以外の夷狄は「化外の民」ということになります。

ところで、昨日は、習近平主席ら指導部は、アフリカ53カ国の代表を呼んで、「中国アフリカ協力フォーラム」を開催して、600億ドル(6兆7000億円)も支援すると約束したようです。以前にこのブログで書いたスリランカの港の租借の例もあるように、背後に、どこか、今でも「中華思想」が健在のような気がします。

あれ?元号の話からずれてしまいましたね(笑)。

いずれにせよ、この本、先を読むのが楽しみです。

渓流斎、チンピラに因縁付けらる

今、私の住んでいる所は、民度が低く、清廉潔白、品行方正なる人士が極めて少ないのです。

マンションの門の街灯も夜中に二回も盗まれたり、駐輪場の自転車が盗まれたりすることも再三再四。ジャングルのような緊張感があって、退屈しない街であることは確かです(笑)。

昨日の日曜日のこと。図書館の帰り道。住宅街の小道を歩いていたところ、後ろから自転車が私の袖に当たるぐらいにギリギリで全速力で走ってきて、危うくぶつかるところで、ヒヤッとしました。

競輪選手のような本格的な高級自転車で、ユニフォームのようなものを着て、ヘッドギアまで被っていました。

そいつは、追い越した後、「ヒヤッホー」と奇声を発して、ペッと唾を吐きました。

「何だ、キチガイか」と呟いた瞬間、そいつはキュッとブレーキを掛けて、ユーターンしてこちらに向かってくるではありませんか。

そして、いきなり「おい、爺(ジジイ)!」ですからね。「唾を吐いたろ!?」と因縁を付けてくるのです。唾を吐いたのはそっちじゃないか?しかも、初対面の年長者に向かって、爺はないだろう。

京洛先生が口癖のように仰っていた「ややこしいのと関わってはいけませんよ」という忠告が頭にこびりついていたので、無視して歩こうとすると、そいつは前に立ちはだかって、腕をつかむではありませんか。

初めて顔を直視すると、年の頃、30歳前後。筋骨隆々で、腕だけには自信がありそう。しかし、知性のひとかけらもなく、目つきが怪しい。

でも、また「おい、爺!」と言うので、こっちもムカついてきて、かばんに入っている折り畳み傘で殴ってやろうかと思いつつ、「放してください!」と大声を出したところ、相手は少しひるんで、ちょうど大通りに出かかりました。こちらも加害者になりたくないし、あまりにもしつこかったら、目の前に見える「auショップ」に飛び込んで、警察でも呼んでもらおうかと思ったら、チンピラは、大通りで人目を憚るのか、またもや「ヒヤッホー」と奇声を発して逃げていきました。

速い、速い!原付より速い時速40キロぐらい出ていたかもしれません。スマホで写真を撮る暇もありませんでした。

それにしても、あのチンピラは何者なんでしょう?職場か家庭で相当なストレスを抱えているのか?それとも、精神異常者か?

確かに、こちらは左側を歩いていたのが悪かったかもしれません。とはいえ、以前、右側を歩いていたら、前方から左側を歩いて来る馬鹿者にからまれたことがあります。ここは治安の悪い所ですからね(笑)。

初対面のチンピラから「ジジイ」呼ばわりされるのもショックでしたね。3年前に長患いして、浦島太郎さんのように急激に老け込んだことは確かですが、あまりにも酷過ぎる。

昨晩は、ムカついて何度も目が覚めて眠れませんでしたよ。

落合陽一博士の「結果として中国が正しかった」説には同感

テレビを見ると、どこもかしこも、2世、3世の政治家、俳優、タレント、料理研究家、財界人だらけです。日本の因襲、襲名制度健在なり。ご同慶の至りで御座いまする。

そう言えば、小生が影響を受けた敬愛するジョン・レノンと小野洋子さんの息子ショーンは、幾つになったのかな、と気になって調べたところ、彼は1975年10月9日生まれ。何と、今年43歳。ジョンが暗殺されたのが40歳ですから、そろそろ親父の年齢に近づいたのかな、と思ったら、もうとっくに越えてしまっていたんですね!

私も年取るはずてす。

◇◇◇

そんなこんなで、今、若者のカリスマ落合陽一博士(筑波大学長補佐)の「日本再興戦略」(幻冬社、2018年1月18日初版)を読んでます。

彼は1987年生まれ、といいますから、私より一世代若い。著名作家落合信彦氏の御子息ということで、反発されるでしょうが、こちらも「落合二世」といった感じでしょうか。

世界的な科学雑誌の「別冊」の表紙を飾ったことがあるらしく、まさに現代の若者たちのカリスマと言われてますが、大変失礼ながら、もう少し、我々のような旧世代をコテンパンに圧倒するような瞠目すべき見解が、この本では展開されているのかと思いましたが、期待外れでした。

大和朝廷や出雲のことなども書かれていますが、やはり、専門家の倉本一宏氏らの著書と比べると全くといっていいくらい浅薄ですね。

ただ、御専門のデジタルメディア論に関しては、真っ当なことを仰っておりました。

日本のIT業界は、ホリエモンこと堀江貴文さんの逮捕で、変革の流れは止まってしまった、というのです。

米国のフェイスブックやツイッターが存在感を発揮する一方、「国産」のミクシィは死んでしまった、というのです。

今や、日本のネットユーザーの間では、米国のアマゾンやグーグルなしでは生活できないことでしょう。落合さんは、もう少し、日本が頑張ってたら、アマゾンが日本に進出した時に、せめて、例えば、楽天などと提携せざるを得なかったのではないかというのです。

「僕らは日本をIT鎖国できなかったせいで、中国のようにアリババやテンセントやバイドゥを生むことができませんでした。2000年代の日本は、IT鎖国した中国をバカにしていてグレートファイアウォールと揶揄していましたが、結果として中国が正しかったのです」と落合氏は結論付けます。

私も賛成ですね。

2000年代の日本は、大蔵省の不祥事などを受けて大規模な省庁改革が断行され、結局、大蔵省も通産省も解体され、いわゆる国家主導の「護送船団方式」も終焉してしまいました。

デジタルの世界は、「1」と「0」の世界ですから、一位にならなければ全く無意味です。二位も最下位も同じなのです。つまり、「オール」or「ナッシング」の世界です。

今のFAANG(フェイスブック、アマゾン、アップル、ネットフリックス、グーグル)といわれる米資本に制覇されてしまった日本の現状を見るにつけ、「結果として中国が正しかった」という落合説には同感してしまいます。

「ゲティ」って何ですか?

《渓流斎日乗》は、ほぼ毎日更新していたのですが、最近は「華麗なる転身」で、いや間違えました、「加齢なる転身」で更新ペースがやや遅くなってきました(笑)。

理由は多々あるのですが、第一は、何となく、烏滸がましくなったことです。我ながら「お前さんに、そんなこと言う資格ありますか」といった自己反省とメゲル気持ちになっているわけです。

第二は、「蟷螂の斧」と言いますか、「暖簾に腕押し」と言いますか、何を書いても、何が変わるわけでもなく、単なる自己満足に過ぎず、「場郭斎」気分。

そして、第三は、以前なら毎日、ブログを書かないと、歯を磨き忘れたような、何となく落ち着かない焦り半分の気持ちでしたが、最近は、漲る加齢力が沸き起こって、「面読斎」気分が打ち勝ってしまうのでした(笑)。

でも、最大の理由は、世の中の裏のカラクリを知り過ぎてしまったこと(でも、ここではあまり書けましぇん)ですかね。以下省略。

京都・伏見稲荷大社

今日、敢えて話題を取り上げるとしますと、「ゲティ」ですかねえ。最近、よく、テレビや新聞雑誌の写真の隅っこに現れる写真のクレジットです。マグナムのような世界的な写真通信社のような気がしますが、よく分かりませんでした。

ゲティを検索すると、最初の方に出てくるのは、米国の石油王ジャン・ポール・ゲティか、誘拐された孫の身代金要求を拒否した実話を映画化した「ゲティ家の身代金」か、ロサンゼルスにある「ゲティ美術館」ぐらいです。

そこで、その筋に詳しい事情通に聞いたところ、「あ、ゲティ・イメージズですね。それは、今や世界最大の写真通信社ですよ。世界各国の写真通信社を次々と買収したり、提携したりして、どんどん大きくなりました。写真だけでなく、動画や音楽など3億点ぐらいあると言われてます」とあっさり言うではありませんか。

「本社はアメリカのシアトルにあって、(1995年の)共同創業者は石油王ゲティの孫ですが、何回か買収された挙句、今では、投資会社が持っています。フランスのAFP通信や日本の共同通信など老舗の通信社などと提携してますから、「ノルマンディー上陸作戦」や「満洲事変」など歴史的な報道写真などあらゆる種類の写真もあります。でも、投資会社ですから、目的は利潤追求で、生産性向上ですから、写真を愛しているわけではありません。採算が合わなければすぐにでも手放すでしょう。正直言いますと、僕はその辺りが好きではありません」とまで言うのです。彼も、元報道カメラマンで、写真に対する熱意は相当なものですから、それは本当に正直な気持ちなんでしょう。

神戸南京町

調べてみたところ、ゲティは、世界20カ国以上に事務所があり、多数の契約カメラマンも抱え、2012年に投資会社のカーライル・グループが買収して、今のオーナーになっているようです。カーライル・グループは、知る人ぞ知る天下の投資会社で、父ブッシュ元米大統領との関係が深く、不動産から軍需産業の投資まで手広くやっているようです。

私がテレビを見たり、新聞を読んだりして「ゲティ」のクレジットに気付くぐらいですから、既に皆さんの方がとっくに気が付いていたことでしょう。

私自身は、報道写真などは、歴史・文化遺産だと思っています。投資会社の持つ写真通信社は当然、営利活動優先で、著作権使用らを要求するビジネスで成り立っているわけですから、仮の話ですが、歴史的写真に高額の料金を請求されれば、弱小出版社などは、掲載を諦めざるを得ないということです。

世界のIT王である米グーグルなんかは、もう何年も前から、世界中のあらゆる美術館の写真を画像化、動画化したりしてますが、これは、福利厚生活動ではなくて、「著作権ビジネス」を独占したい魂胆がみえみえのような気がします。

私は、「文化国粋主義者」ですから、自分たちの国の文化遺産の写真などを、イザ使おうとしたら、いつの間にか、外国の会社が著作権を登録していて、使えなかったりするような未来の悪夢を危惧しています。

桁違いの関西、桁違いの京都人

京都・伏見稲荷大社

いまだに「京都大旅行」の余韻に浸っております。とはいえ、行った所ではなく、行けなかった京都の「佐阿彌(さあみ)」や「瓢亭」や「つる家」などです(笑)。

何?知らないとな?

奈良・元興寺(本文とあってないじゃん)

京洛先生は、京都御所近くの邸宅で産湯をつかい、御幼少の砌の遊び場は京都御所でした。そこで蝉を取ったり、鳥獣戯画の如く、蛙や兎と相撲を取ったりして遊びました。代々の墓所はあの建仁寺という名家で素封家です。嗚呼、それなのに、それなのに…。

実は「佐阿彌」は、昨晩、「神谷町のおじさん」(といえば、歌舞伎通なら誰でもが御存知です)が案内役を務めるテレビ番組「京都探訪」で紹介された円山公園の敷地1000坪を有する老舗料亭のことでした。

円山公園の円山とは、慈円山安養寺から取られたもので、安養寺は吉水坊とも称します。天台宗の開祖最澄が創建。浄土宗の開祖法然がここを本拠に30数年間も称名念仏を宣揚した寺としても知られています。と、今、書きましたが、行ったことはありません(笑)。以前に、この吉水坊を舞台にした寺内大吉著「念仏ひじり三国志」を読んで感動したので、行きたかったですねえ。

京洛先生に電話で、「東山の高級料亭…あれ、何でしたかね?」と伺うと、直ぐに「あ、佐阿彌ね」と答えが返ってくるではありませんか。なあんだ、超有名だったんですね。

もう5~6年前になりますか、京洛先生には岡崎や南禅寺辺りにある高級料亭や別荘(の前)に連れて行ってもらったことがあります。(そのことは当時ブログに書きましたが、消滅してしまいました)この中で、最も有名なのが、明治の元勲山縣有朋の別荘「無燐庵」でしょう。七代目小川治兵衛の作庭です。(生憎、その時は休園でしたが)

南禅寺近くの高級料亭「瓢亭」の延々と続く土塀を見ただけで、規模の大きさに卒倒しそうでした。(ですから、中に入りませんでした=笑)

この辺りは、時の最高権力者や大財閥の別邸や博物館などがあります。住友財閥の「泉屋博古館(せんおくはくこかん)」は青銅器の世界的なコレクションとして知られ、圧巻でした。

私のような庶民は、京都といえば、四条河原町や先斗町辺りの狭くて雑踏としたイメージがありましたが、そんな所は、やはり庶民の街でした。富裕層は岡崎辺りの閑静な広大な敷地に別荘を構えているのです。別世界ですよ。野村財閥などの別荘もありましたが、最近では、ニトリの似鳥さんやソフトバンクの孫さんといった「新興産業」さんが、ここまで進出されているようです。嘘か誠か、100億円はくだらないとも言われてます。

御影の延々と続く村山邸宅の土塀

東京には、田園調布や松涛、成城、白金といった高級住宅街がありますが、関西は桁違いですね。まず、都内には岡崎のような高級別荘地はないし、京都の別荘は日本一でしょう。それに、朝日新聞創業者の村山家の御影の本宅を周囲から拝見させて頂きましたが、東京では見たこともないほどの広さです。東京ドーム1個が軽く入ってしまう広大な敷地でした。

◇◇◇

ここからやっと本題に入りますが(笑)、京都滞在中は、京都が生んだ立身出世の偉人、日本電産創業者の永守重信会長の話題で持ちきりでした。永守会長は、つい先日の27日に御自身の出身地である京都府向日市に約32億円の私財を投じで市民会館を建設し、市に寄付すると発表したばかりです。

オッケー、グーグル!

教育にも力を入れ、今年3月には京都学園大学の理事長に就任しました。私財100億円を投じたと言われております。

その前に昨年11月には、京都府立医科大学に「永守記念最先端がん治療研究センター」(総工費70億円)の形で寄付しております。

いやあ、凄い人ですね。

永守会長は、「すぐやる」「必ずやる」「できるまでやる」をモットーに365日働きまくり、休日は元旦の午前中だけ、という逸話は有名です。今や、日本電産は世界最大のモーター会社となり、永守会長の総資産は3890億円とも言われてます。

やはり、関西は、財界人も桁違いです。

京都駅南口「殿田」のお稲荷寿司

京都大旅行、のはずが関西大旅行

奈良・猿沢池

2泊3日の京都大旅行のはずが、関西大旅行と相成りました。

◇2018年8月25日(土)

いつもの如く、新幹線京都駅中央口改札で、京洛先生がお出迎え。

「渓流斎さん、旅の醍醐味をご存知ですか?ー 珍道中ですよ」

ということで、京都駅で下車することなく、そのまま新幹線口の真向かいにある近鉄線で、何と奈良駅へ。まさに、弥次喜多珍道中の始まりとなりました。

近鉄奈良駅から歩いて数分のお好み焼き屋さん(名前は失念)で「豚焼きそば」とビールで豪華ランチ。

この後、中臣鎌足が鹿島神宮から連れてきた神さまの使者といわれる鹿さんが3000匹も戯れる奈良公園を通って、奈良国立博物館 へ。「修理完成記念特別展 糸のみほとけ-国宝 綴織當麻曼荼羅と繍仏-」展(26日で終了)を鑑賞しました。

繍仏とは、仏像などを刺繍した、いわゆるタピストリーのことです。当麻寺の曼陀羅は、中将姫が一夜にして縫い遂げたといわれる伝説の繍仏で、普段は未公開。何年か、何十年に一度しか「御開帳」されないので、今回、大変見る価値があるというのです。

もう1300年ぐらい時が経ているので、原型はほとんど消えて黒ずんでしまっていましたが、何か、居住まいを正したくなるような威厳がありました。伝説では一夜で縫い上げたことになっておりますが、実際は早くても7年は掛かるようです。刺繍ですから、立体的に浮き上がって見えたことでしょう。

奈良といえば、東大寺(の大仏)か、興福寺なんですが、玄人の京洛先生は、そんな修学旅行生が行くようなところは見向きもせず、一路目指したのが、元興寺(がんごうじ)でした。

元興寺は、飛鳥の飛鳥寺をこの奈良に移築したもので、1300年以上昔の飛鳥時代の屋根瓦が今でも現存する如何にも玄人好みの仏閣でした。国宝です。しばし、斑鳩の里に思いを馳せました。

◇◇◇

この後、京都に戻り、夜は、北野白梅町にある創業安政3年(1856年)の米屋、大米米穀店が経営する洋食屋「キッチンパパ」へ。キスフライ付ハンバーグ 1280円と ハイボール500円を飲食しました。日本人向きにアレンジしたデミグラスソースのハンバーグで、とても美味しゅうござんした。繁華街ではないので、歩いている人は少ないのに、この店だけは、学生風の若い人でいっぱいで、並んでいる人もいました。

◇8月26日(日)

さて、「今日こそ京都の寺社仏閣を存分に楽しめるぞ」と期待していたら、京洛先生「今日は神戸の南京中華街に行きます。よろしく」ですからね。

えっ? 神戸なの? 京都から遠いでしょ!しかし、実際は1時間ほどで行けてしまい、阪急電車の日曜日割引チケットを金券ショップで買うと、片道620円が420円となり、往復400円のお得になりました(笑)。

京洛先生、どうやら、神戸南京町の中華街にある「元祖ぎょうざ苑(1951年創業)」に行きたいというのです。ここは、神戸の味噌だれ餃子の発祥の地で、食通の京洛先生は、寅さん俳優の渥美清らがよく通った東京・渋谷の中華料理店「大穀」の味噌だれ餃子の味が忘れられず、どうしても神戸の評判の店で食したいというのでした。

阪急神戸三宮駅から歩いてJR元町駅へ。そこから、グーグルマップを手掛かりに10分ほどで着きました。評判の店なので、12時ちょっと過ぎて着いたら、先客がいて、ちょっと並びました。でも、出たときは、入ったときの倍以上の人が列をつくっておりました。

確かに評判通りの美味しさ。変な言い方ですが、皮や肉汁まで旨いのでした。猛暑でビールもうまい!

個人的に、横浜の中華街は何十回も行っておりますが、神戸の中華街は生まれて初めて行きました。南京町は、今年で開設150周年なんだそうです。明治維新と一緒ですか。

JR元町駅から神戸駅へ行き、この駅にほど近い湊川神社へ参拝。ここは、別名、楠公神社と言われるように、南北朝時代の忠臣楠木正成をまつった神社です。有名な湊川の戦いで敗れて自害した場所に、明治以降にこのような立派な神社が建てられたといいます。

この後、阪急御影駅で途中下車して、香雪美術館へ。朝日新聞を創刊した村山龍平(と二代目村山長挙=岸和田藩主の三男が婿入り)の集めた日本と東アジアの古美術を自宅の一角で公開展示したもので(香雪は、龍平の雅号)、御影という関西でも屈指の超高級住宅街の中でも、図抜けてだだっ広い敷地で、その広さには腰を抜かすほど驚いてしまいました。

村山邸を1周すれば軽く20~30分ぐらい掛かるのです。森林に囲まれ、どこかの植物園か動物園と言われてもおかしくない広大な敷地でした。

朝日新聞社は戦前、飛行機会社(実際は航空部。戦後、全日空に発展)まで作ったりしましたから、創業者一族には相当な収益があったということなんでしょう。桁違いの大きさに唖然としました。

帰り、御影駅近くの喫茶店「マハロ」でいちごかき氷600円で一息つきました。店名がハワイ語で、店内の掲示がフランス語、店内でかかっている曲はブラジルのボサノヴァ、そして、歯科技工士の相談会開催と、何か超変わった店でした(笑)。でも、気配りの行き届いた感じのいい店でした。

◇◇◇

京都に戻り、夕方「京極湯」で一風呂浴びたあと、この銭湯近くのお好み焼き屋「にしで」で、ミックス焼そば、お好み焼きなどを食しました。この店は、以前よく入った店で、今回は5年ぶりぐらいに入りましたが、女将さんが、小生の顔を覚えてくれていて吃驚。美人の女将さんもさすがに少し老けました。お互い様ですか(笑)。

そう言えば、銭湯では、番台の女将さんから、京洛先生より小生の方がかなり年上に見えたらしく、個人的に相当なショックを受けました。茲ではっきり申し上げておきますが、小生は京洛先生より一回り近く若いのですぞよ。

◇8月27日(月)

京都堀河三条「力」の元女将さんのところに久しぶりに立ち寄り、グーグル・スピーカーの威力を見せてもらいました。

「オッケー、グーグル、今、気温は何度なの?」と彼女が言うと、「32度です」と答えるし、「オッケー、グーグル、音楽かけて」と命令すると、しっかり、登録していた(?)好きな音楽をかけてくれるんですからね。何か、怖くなるくらい便利でした。

さて、この日は、ついに小生の希望が通り(笑)、念願の京都・伏見稲荷大社に行きました。全国3万社もある稲荷神社の総本社です。和銅四年(711年)御鎮座で、渡来人の秦氏が創建したという説が有力です。ちなみに、全国の神社数は約8万8000社(全国のコンビニは約5万6700軒)、このうち八幡宮は4万4000社、天満宮は1万2000社と言われております。

奈良もそうでしたが、外国人の多さには本当に吃驚しました。すれ違う人は殆ど外国人。比率は東京より多いんじゃないでしょうか。

「千本鳥居」など、何百メートルも続く鳥居の列が「インスタ映え」するということで、世界的に外国人観光客の間で伏見稲荷大社は、大人気スポットなんだそうです。

我々は「奥の院」の辺りまでしか行きませんでしたが、この奥に行くと勾配もきつく、実際、迷い人が出るほど迷宮化しているそうです。

小生、先週「名誉の負傷」をして、全治2週間ぐらいではないか、と思われるくらい膝が痛んで歩きにくいので、当然、ギブアップしました。(歩けますが、まだ走れません)

奥の院の茶店でビールを飲んでいた75歳ぐらいの日本人男性が「伏見稲荷大社は、拝観料も駐車場もただで、24時間オープン。だから、大型バスでぎょうさん乗り付けて、外人が9割ぐらいになったんや」と、こちらから聞くわけではないのに、答えてくれました。

確かに、浴衣や着物を着ている人のほとんどが、日本人ではなくて、外国人でしたからね。売り子も怪しい日本語でした。

この後、京阪電車「中書島駅」に向かい、その近くの寺田屋を見に行きました。私の希望でした。建物は意外にも小さいので少々驚き。当時は水運が盛んですから、この辺りは大坂から淀川を通って京都に入る中継地で、花街地として栄えたらしいですね。

中に入ろうと思ったら、「月曜休館」で閉まってました。仕方ないので「沿革」を引用しておきます。

寺田屋は伏見の船宿。文久2(1862)年4月23日、薩摩藩急進派有馬新七(1825~62)以下35名が関白九条尚忠(1798~1871)と京都所司代の殺害を計画して集結した。薩摩藩は藩士を鎮圧に向かわせたが両者乱闘となり、有馬以下9名が死亡した(寺田屋騒動)。慶応2(1866)年正月21日坂本龍馬(1835~67)も伏見奉行所の捕方に襲われたが、難を逃れた。寺田屋は鳥羽伏見の戦(1868年)に罹災し、焼失した。現在の建物はその後再建されたものである。

ここから市バスで30分、京都駅南口辺りで降りて、京洛先生お勧めのうどん屋「殿田」で遅いランチ。たぬきうどん600円、稲荷寿司三個300円という安さでした。

たぬきうどんは、関東なら天かすなのですが、こちらは、油揚げなので、関東なら、きつねうどんです。刻んだ長ネギにショウガがたっぷり。あんかけ汁で、結構上品な味でした。店の人の感じもよく、京都に行ったらもう一度食べたい味でした。