「加藤廣さんお別れの会」

昨日23日(月)は、ついに日本新記録が樹立されましたね。埼玉県熊谷市で気温41.1度と、従来の記録を5年ぶりに更新しました。

そんな、もう脳みそが溶けちゃいそうな猛暑の最中、夏用ながらしっかり上下のスーツを着てネクタイを締めた集団が、東京・日比谷の帝国ホテルに参集しました。

今年4月に87歳で亡くなった、ベストセラー小説「信長の棺」(日本経済新聞出版)などで知られる作家加藤廣さんの「お別れの会」が行われたのです。小生も末席を汚しました。

主催者発表で70人の方が列席しました。

私は少し遅れて参加しましたが、加藤さんの交友の広さから次々と友人知人後輩や編集者らがスピーチして、参加した人同士と歓談する暇もなく、せっかく用意された帝国ホテルの高級料理や飲み物を飲食する暇がほとんどなく、少し勿体ない気がしました。

加藤廣さんは、私も参加していた「おつな寿司セミナー」(2014年9月13日解散)の仲間でした。

加藤さんが2005年、75歳の高齢で歴史小説家として鮮烈なデビューをできたのは、勿論、彼の文才によるところではありますが、「おつな」抜きでは実現できなかったことでしょう。まず、おつなの主宰者だったGさんが、メンバーだった日経文芸記者のUさんに取り次ぎ、Uさんは、元講談社の豪腕編集者K氏を加藤さんに紹介し、段ボール箱にぎっしり詰まった1000枚の原稿を少し縮めて、タイトルも変えて、デビュー作が生まれたのでした。

幸運だったのは、当時首相だった小泉純一郎氏が、「信長の棺」を絶賛しているという記事が朝日新聞に掲載され、これで一気に火が付いて、増刷が続きました。

「おつな」では25年以上のお付き合いでしたから、何十回もお会いしてましたが、「大作家」になられてからは、改めて私も何度か、インタビューをさせて頂きました。「信長の棺」から「秀吉の枷」「明智左馬助の恋」に至る「本能寺三部作」、週刊新潮に連載された時から読んでいた「謎手本忠臣蔵」といった歴史小説のほか、「信長軍団に学ぶ処世の法則」や「黄金の日本史」などの実用書まで次々と著作を発表し、ご高齢ながらそのバイタリティーはどこからやってくるのか、不思議なほどでした。

加藤さんは、新聞連載にしろ、週刊誌連載にしろ、連載前からほぼ完成していて締め切りの何日も前から原稿を渡していたそうです。とても、律儀な人でした。そして、自分にはとても厳しい苦労人でした。

おこぼれにも預かりました。東京・銀座の高級おでん「やす幸」や京都の先斗町の高級クラブ(名前は失念。京大の著名教授が出入りしていた会員制)などでご馳走になったりしました。

加藤さんはデビューして13年、気力を振り絞って駆け抜けました。以前は月に一度ぐらいお会いしていたので、何か、また、ふと再会するような錯覚に陥りましたが、遺影を見て、もうお会いできないと分かり、本当に寂しくなりました。

加藤さんは、少年時代からの夢だった小説家を75歳で実現したわけですが、後輩には素晴らしいお手本と生き様(という言葉は、あまり好きではありませんが)を見せてくれたと思っています。

加藤廣さんのご冥福をお祈り申し上げます。

「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」は★★★★

気温37度、体感温度45度。これでは何もする気が起きませんねえ。本を読んでも頭に入らず。外に出かけるなんぞはもってもの他。

ところが、急に、映画を見たくなってしまい、猛暑の中、自転車で近くの映画館に走ってました(笑)。

「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス」(ルーシー・ウォーカー監督、ヴィム・ヴェンダーズ製作総指揮)です。

18年前に日本でも公開されて大ヒットした映画「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」のいわば続編です。1940~50年代に活躍しながら、当時はすっかり忘れ去られた70~90歳代の老ミュージシャンにスポットライトを当てた作品でしたから、今では、ほとんど他界してしまいました。

「第一弾」の日本公開は2000年1月15日になっていますが、私も恐らくその年の1月に劇場で観たと思います。心の奥底から感動してしまい、CDは勿論買い求め、すっかりはまってしまい、その年の夏休みにキューバに旅行に行ってしまったほどです。キューバ大使館までビザを申請に行ったことを覚えています。当時は、ヘミングウエイにもはまていましたから、音楽と文学散歩でした。

でも、行ってみたら、街中は、物乞いの少年と売春婦が溢れ、アフリカ系の市民に対する差別は相変わらずで、キューバという社会主義体制に失望した覚えがありますが、今日は映画の話なのでこれ以上触れません。。。

CDジャケット写真は、スタジオに入るイブライム・フェレールでした

コンパイ・セグンド(G,Vo、1907~2003、95歳)、イブライム・フェレール(Vo、1927~2005、78歳)、ルベーン・ゴンサーレス(P、1919~2003、84歳)、オマーラ・ポルトゥオンド(Vo、1930~)、マヌエル・”グアヒーロ”・ミラバール(Tr 1933~)、エリアーデス・オチョーア(G・Vo、1946~)ら懐かしい名前がたくさん出てきて、目頭をあつくしてしまいました。

あの葉巻をいつもくわえて、90歳を超えても旺盛だったコンパイ・セグンドはもう亡くなって15年も経つんですね。「黄金の声の持ち主」と言われたイブライム・フェレールは、1990年代には既に引退していて、靴磨きで生計の足しにしていたことが語られていました。

古いキューバ音楽に魅せられた米ミュージシャンのライ・クーダーが「失われた音楽を求めて」キューバを旅する物語が、発端でした。キューバ側で、コーディネーター役だったのが、バンドマスターだったファン・デ・マルコス・ゴンザレス(1954~)で、彼が当時を回想する形で、この映画は進行します。

この映画は「アディオス」ですから、老ミュージシャンが次々と亡くなり埋葬されるシーンも出てきます。

けど、若い頃のフィルムも残っていて、オマーラ・ポルトゥオンドが女性4人グループの一人として溌剌と歌って踊り、若きイブライム・フェレールとも共演していたので、感慨深かったですね。

音楽は素晴らしい。夏は特にキューバ音楽を聴きたくなります。

オランダ人家族に久しぶりの観光ガイドをしてきました

昨日は、実に数年ぶりに海外からの観光客向けガイドを、病気で中断しておりましたが復活し、仕事として行いました。一応、こんな私でも通訳案内士の国家資格を持っています。(でも、安倍政権は、資格がなくても誰でも、報酬を得てガイドできるよう法律を改悪しました)

クライアントさんは、オランダの画家レンブラントで有名なライデン近郊の小さな町からやってきた4人家族で、お父さんは、何と旅行会社の創業者兼社長さんでした。15歳の娘さんと13歳の男の子がおります。2カ月近く前にお母さんからオランダから直接、日本にいる私の携帯に「7月20日に東京でガイドをしてほしい。あなたに任せます」と依頼があったのです。(私の名前と携帯番号などは観光庁のネットにも登録しているもので)

「お任せ」っていうの、一番困るんですよね(苦笑)。相手が興味もない所に案内するわけにはいきませんから、ある程度の趣味や興味を聞かなければなりません。でも、子どもと大人の興味はまるで違いますし、時間は限られ、最大公約数を選ばなければなりません。

まあ、正直、下準備が大変でした。オランダ語も少し勉強し、事前に行く場所、ランチする店なども確かめに行きました。結局、それやこれやで事前の準備通りには行かず、観光ガイドの仕事って、そうワリに合う仕事じゃありませんね(笑)。

大変失礼ながら、オランダ人にはマイペースといいますか、少し気まぐれなところがありまして、こちらが質問のメールをしても、返事が遅く、あまり正確に答えてくれることが少ないのです。しかも、最近、ヨーロッパでは個人情報保護が急に厳しくなりましたから、どこまでプライバシーに触れていいのか分からなくなってしまったのです。例のGDPR(General Data Protection Regulation 一般データ保護規則)とか呼ばれるやつです。

銀座

で、結局、準備不足のまんま、本番に臨みました。

結果は「50点」ぐらいの自己採点ですかね。赤点です。何しろ、言葉が出てこないのです(苦笑)。何気ない会話なんですが、「花火」が出てこないので、浅草近くの隅田川花火の話題に進めることができず、富士山の「裾野」という言葉が出てこずに、うまく説明できませんでした。ダメですねえ、全く。

しかし、オランダ人家族はとても寛大でした。とても満足そうな表情で帰っていただいたので、私自身は救われましたね。

15歳の娘さんは、とても可愛らしく、恥ずかしがり屋さんでした。名前は、日本語で「月」という意味でした。思春期特有のヒネたりしてません。純粋で、とてもまっすぐな感じでした。オランダと日本との交流で、私は事前にiPodで資料をつくって彼らにお見せして、長崎の出島の写真を見せたら、「あっ!これ教科書で見たことある」と彼女は言ってくれたので、嬉しくなりました。オランダでも、蘭日交流史を少しは教えているんですね。

13歳の坊やは、自分のスマホのゲームばかりやってました。名前は、日本語で「熊さん」という意味でした。13歳は日本で言えば、中学1,2年生ですが、何か小学校5,6年生に見えました。自分もこんな幼かったのかなあ、と思ってしまいました。でも、愛嬌があり、可愛いので連れて行こうかと思ったぐらいです。冗談ですよ。

お父さんは、あのシーボルトのことまで知っていて、ライデンのシーボルト博物館に行った話をしてくれました。なかなかのインテリです。

秋葉原に行ったら、お母さんが急に「猫カフェに連れて行ってくれい」と言い出すのです。こちらも「そんなの聞いてない。もっと早く言ってくれい。事前に場所を調べたのに!」と心の中で思いつつ、スマホで一生懸命に検索して、手頃な店を見つけました。しかし、電話で場所を教えてもらったら、とても下手くそで、埒が明かず、少し時間を取らせてしまったことが失敗でした。

そこは、なかなか厳しい店で、「猫は触るだけで抱っこしちゃいけない」とか、「荷物はロッカーにいれろ」とか「入室する前に消毒しろ」とか規則規則のオンパレードでした。猫カフェは、生まれて初めて行きましたが、日本でブームになるのが分かりましたね。スコティッシュとかアメリカンショートヘアとか、あまり見たことがない高級猫を見ることができました。ちなみに、1時間近くいたら、一人1550円でした。

東京は、36度の猛暑で、マスコミで「熱中症に気をつけろ」と連呼するので、どこも日本人の姿が少なく、外国人観光客だらけでした。日本の着物姿も外国人でした。浅草の地下鉄の中を見回したら、ほとんど中国人と韓国人と台湾人とタイ人とインドネシア人ばかりで、日本人は私自身しか見当たらなかったので、お母さんに、その旨を伝えたら、「向こうに座っている女性2人は日本人じゃないかしら」と言うので、よく見たら日本人でした。

「どうして分かるんですか」と尋ねたら、お母さんは「やはり、服装や髪型が違うし、顔つきも少し違う」というのです。

私はオランダ人とドイツ人とフランス人の区別はつきませんけどねえ。恐れ入りました。

欧州個人情報保護法で、彼らの写真をここに掲載できないのが残念です。とても素晴らしい家族でした。

IOCは米テレビ局のエージェントなのでは?

昨日、「真夏の東京五輪開催はおかしい」と書いたところ、早速、「Rei 7G」さんらからコメントを頂き、大いに反響を得たものと自負しております(笑)。

そしたら、ちょうど昨日は国際オリンピック委員会(IOC)の特権階級連中が、スイスのローザンヌ本部で理事会を開いて、2020東京五輪の競技日程などを協議して、「陸上の男子50キロ競歩は午前6時、男女マラソンも午前7時の早朝スタートにするなど暑さ対策に配慮したスケジュールに」(7月19日付読売新聞朝刊1面)したとか。

朝6時??? おいおい、ラジオ体操かよ!と思わず突っ込みたくなりました。日本開催なんですよ?間違っていませんか?

何と言っても「配慮した」という文句が気に喰わないですねえ。新聞もテレビもIOCとグルですからね。「勇気」「感動」「友情」「誇り」「威信」…何でもいいんですが、そんな「美名」の下、本質を隠して、どこもオリンピックを批判しないのです。

そもそも、こんな早朝に競技をスタートするのは、アメリカのゴールデンタイムに合わせたい米テレビ局の差し金、意向なんですからね。IOC貴族は、単なる米テレビ局の代理人に過ぎないのです。どれくらいの裏金が動いているのでしょうか?(春と秋の一番いい季節は、プロスポーツのシーズンだということで、五輪日程を真夏にしたこと事態が、最初から間違ってます)

昨日は岐阜県多治見市で、5年ぶりに日本列島で気温40度を超えたそうですから、2年後の東京の夏は、朝6時だろうが、7時だろうが、猛暑は間違いなしです。それでいて、米テレビ局の代理人とグルの日本のマスコミは、やれ「熱中症に気をつけろ」だの、「水を飲め」だの、「日陰で休憩しろ」だのと、うるさい題目を何度も繰り返すだけです。

本質や実情を隠蔽しているのです。

北浦和「ちっきん」 安い、千ベロ焼き鳥居酒屋でした。

◇「国分寺・小金井界隈」

もう一つ、7月1日に書いた「蔽之館~陸軍中野学校跡巡り」に、私も存じ上げない Kokubunji さんという方からコメント頂きました。有難う御座いました。御礼申し上げます。

この方、よく見ると、「国分寺・小金井界隈」というタイトルで、国分寺・小金井界隈で、いまはもう見られない風景などを少しずつ紹介しておられます。なかなか、年季の入ったブログですので、是非、ご覧ください。

コメントのKokubunji をクリックすると出てきますが、この「本文」でもリンクを貼っておきます。

http://kokubunji-koganei.blogspot.com/ ←「国分寺・小金井界隈」

「陸軍北多摩通信所」まで出てきますね。しっかり、足で歩いて取材されてます。ブラボー!

真夏の東京五輪開催はおかしい

最近、個人的なファミリーイベントが続いていました。

あまりにもプライベートなことなので、ブログで世界に公表することも何(ナン)なので控えておりましたが(笑)、小生は本日7月18日、無事○○回目の誕生日を迎えることができました。(あまりにも個人的な!)

嫌いなフェイスブックもやっているため、多くの友人がお祝いのメッセージを送ってくださいました。涙が出るほど嬉しかったです。有難う御座いました。

年齢を語呂合わせすると、耄碌爺さんになるので嫌になってしまいますよ。しかし、お蔭様で、日本の法律により、あのアルチュール・ランボーが天才少年時代から憧れて果たせなかったrentier生活に入ることができ、昨日、やっと事務所に申請に行って参りました。

勿論、日本は少子高齢化の財政不足ですから、rentier だけではとても生活できないので、今の会社にもう少しだけしがみついていく予定です。

とにかく、3年前は病気で死にかけていたので、どうにか、この世に戻ることができてよかったと思っています。

山梨・西沢渓谷 Copyright par Osamu Takada

さて、暑い日々が続いています。

東京都心でも36~38度の猛暑が続き、全国で熱中症(heatstroke)で亡くなる人もおられます。それが、体力の落ちた高齢者ならまだ分かりますが、小学生から20歳代の若者までいるので驚かされます。

昔は熱中症なんて聞いたことがなかったなあ、と思いましたが、私は30年前にそれらしきものに罹ったことがありました。親戚の指導の下、夏休みに静岡県の浜名湖で釣りをしていたのですが、炎天下で、確か、帽子を被っていたはずですが、帰宅すると、熱にうなされながらも意識が朦朧として、しばらく寝込んでしまいました。食欲もなく、しんどかったことを思い出します。あやうく命を落とすところでした(苦笑)。

昔は、気温が30度になるなんて!、と思ってましたが、今や40度時代に入りかけています。信じられません。

それなのに、2年後に、真夏の東京でオリンピックを開催するんですからね!狂気の沙汰です。

そんな中、本間龍さんという元博報堂社員のノンフィクション作家が、「ブラックボランティア 」(角川新書)を出版して異議を申し立ててます。要するに、来る東京五輪・パラリンピックでは、酷暑の中、10万人以上のボランティアがタダで使役され、国際オリンピック委員会の大して働かない貴族の特権階級連中だけがボロ儲けするという構図を理解しようではないかと呼びかけているのです。

オリンピックという美名の下で、多くの無知な人間が搾取されているというわけですね。痛快です。

小生、未読で、書評を読んだだけですが、面白そうです。

 

【追記】「ブラックボランティア 」の目次は以下の通りです。

2020年7月、酷暑の東京。肥えるオリンピック貴族、搾取される学生たち

(目次)
はじめに 酷暑下で展開される未曾有の「やりがい搾取」

第1章 10万人以上のボランティアをタダで使役
無償ボランティアの根拠は何か
なりふり構わぬ学徒動員計画
驚愕の「中高生枠」
薬剤師も無償で調達で大騒ぎに
高齢者は募集対象外?
半世紀以上前に否定されていた夏季開催
19年ラグビーWCまでも無償ボランティアで
長野五輪のボランティア

第2章 史上空前の商業イベント
商業化は84年のロサンゼルス五輪から
IOCと五輪貴族を支えるスポンサーシステム
一業種1社の原則を捨てた東京五輪
組織委の不明朗な体質
パブリックビューイングを開けない「スポンサーファースト」

第3章 ボランティアの定義と相容れない東京五輪
そもそも「タダ」という意味ではない
五輪運営費の内訳に対する疑念
巨額のスポンサー料をなぜ開示しないのか

第4章 東京五輪、搾取の構造
無償ボランティアがオリンピック貴族に貢ぐ構図
「やりがいPR」で再び炎上
無償ボランティアになるためにカネを払う?
さまざまな有償ボランティア

第5章 なぜやりがい搾取が報道されないのか
「全国紙全紙が五輪スポンサー」の異常
組織委の「核心的利益」を追及しないメディア
メディアの東京五輪報道は原発プロパガンダと同根である
電通を批判できないメディア

第6章 問題を伝え続けること
5万人がリツイートした無償ボランティア批判
大学で講義をしてみると

終章 21世紀の「インパール作戦」
東京五輪とインパール作戦の相似性
外国人観光客の熱中症で病院はパニックに
組織委はボランティア全員を有償とせよ

おわりに

オランダ人兵士も長崎で被爆していたとは…日蘭史から

暑いですね。38度なんて、ゆで蛸になりそうですよ。

「海の日」の祝日で、何もする気がしませんでしたが、ちょと必要に迫られて、日本とオランダの交流史を調べておりました。

エポックメイキングは、やはり、関ケ原の戦いの前の1600年4月に、オランダ商船リーフデ号が、今の大分県の臼杵に漂着し、五大老の一人だった徳川家康が、その貿易商人ヤン・ヨーステンを庇護して、今の東京駅近くに屋敷まで与えて、外交顧問にしたことでしょう。

ヤン・ヨーステンがなまって、八重洲になったというのはどうやら本当らしく、東京駅八重洲地下街にヤン・ヨーステンの彫像があるようです。

よく知られているように、江戸幕府は鎖国政策を取りながら、中国とオランダだけは、長崎・出島での貿易を許可します。

何で、オランダなのか?南蛮人と呼ばれたスペイン、ポルトガルはカトリックで、オランダはプロテスタントだったから、というのが、教科書で教えてくれるところですが、今ひとつ、納得はいきませんね。

ある本によれば、特にカトリックのイエズス会は、貿易商人と同行して、奴隷貿易をやっていたようです。日本人の奴隷は、ルソン島で高く買われたようです。スペイン、ポルトガルは、中南米のインカ、アステカ帝国を滅ぼした前歴がありますからね。「伴天連追放令」を出した秀吉はそこら辺の知識や情報を持っていたのでしょう。

英国も新教ですから、なぜ、オランダかと聞かれれば、恐らく、オランダは奴隷貿易を少なくとも日本ではしなかったからではないかと推測します。

江戸時代は鎖国したとはいえ、天文学から物理学、航海術、医学、それに、レンブラントの国ですから、絵画や芸術に至るまで、西洋の科学、技術、文化がオランダを通じで入ってきたわけですから、知識人はこぞってオランダ語を勉強しました。

前野良沢、杉田玄白らによる日本初の海外医学翻訳書「解体新書」は、オランダ語訳ですし、福沢諭吉や大村益次郎らを輩出した緒方洪庵の適塾は蘭学塾でした。医者といえば、蘭方医でしたからね。

西周、榎本武揚らが(明治ではなく)幕末に留学した先は、オランダのライデン大学です。レンブラントもここで学びました。日本人初のフリーメーソン会員といわれる西周は、哲学や科学、技術などの翻訳語を産み出した人でした。

さて、一気に近現代に飛びますが、日本とオランダは先の太平洋戦争で、東インド会社、今のインドネシアの利権を巡って戦争をしました。オランダは、いわゆるABCDラインで、石油輸出を禁止して日本を苦しめました。1942年、日本はオランダ兵を含む連合軍兵を8万人以上に捕虜し、その中の一部を長崎の捕虜収容所に入れますが、そこで米軍による原爆投下により被爆した人がいたことは知りませんでした。

オランダは、BC級戦犯として、連合国の中で最も多い226人の日本人軍人・軍属を処刑しましたが、戦後かなり長い間、つい最近まで反日感情が強い国だったことも後で知りました。

オランダは現在も王国で、日本の皇室との交流を深めて、徐々に和解の道を歩んでくれたようですが、何か、複雑な話でした。

ちなみに、現在はヴィレム・アレクサンダー国王、政権は自由民主国民党のマルク・ルッテ首相。すぐ言える人はなかなかの知恵者です。

「在満少国民望郷紀行」、年内にも出版か?

自称「老麒伏歷」の松岡宿老閣下、最近、都心の豪邸に引き篭もって、何かただならぬ野望に駆られて、何事かなさんと勤しんでおられたようですが、いつのまにか、「在満少国民望郷紀行」なる書籍の執筆、編集、校正に励んでおられていて、目下、「一次稿」を作成中であることが、渓流斎日乗の調べで明らかになりました。

 判型をA5判横(「松岡二十世とその時代」の大きさ)にするか、B5判横(週刊誌大)にするか、散々迷われたそうですが、結局、B5判(週刊誌大)にすることにしたそうです。

何次稿まで、編集校正されるのかは分かりませんが、恐らく、年内には完成して出版されることでしょう。

  旧満洲(現中国東北部)の「今と昔」を対比した解説本です。現中国政府は、ヤマトホテルにしろ、関東軍司令部にしろ、昔の建物を破壊せずにそのまま二次利用しているので、今旅行しても比較できます。

添付して頂いた本の校正写真を見る限り、かなり“イケてる”感じがしますね。

歴史的資料価値が高いものになるはずで、全国の小中高大学の図書館、自治体の図書館、中国の図書館にも納入してもらってもいいのではないでしょうか。

勿論、一般書として本屋さんに山積みされれば尚良し。

 松岡宿老は「普通の“本”と違って、“文章校正”だけでなく、写真の大きさや入れ場所(場合によっては取替)、“写真の注記”など、傘寿越えの『漲る力』でやることが一杯ありそうです」と張り切っておられます。

この「漲る力」は、落ちぶれた有力新聞社広告局が、藁をもすがるサプリメントの広告文句かと思ったら、在満少国民の間て歌われた歌詞に出てくるそうです。

剛腕投資家と恐々と懇談した夕べ

昨晩は、東京・銀座の歌舞伎座が見える高層ビルの13階ラウンジで、ニューヨークから一時帰国中のA氏と初めてお会いし、肝胆相照らす仲となりました。

A氏は、元大手銀行員でしたが、本店からの帰国命令に従わずにそのまま米国に住み着いてしまったテレビドラマに出てきそうな剛腕やり手大物(go-getter, or hotshot)です。現在、投資会社の社長といったところでしょうか。

2年ほど前に、会社の同僚を通じて知り合いましたが、何せお住まいは米国なので、メールで何回か、いや何十回かやり取りするだけの仲でした。いつか、お会いしましょうと約束していました。

彼は、何冊か金融関係の本を日本経済新聞社などから出版しており、私も少し読みましたが、当然、素人には理解することが限られているとはいえ、多くの点で勉強になり、私淑している感じでした。

その彼と昨晩、初めてface-to-faceでお会いしましたが、メールで予告されて覚悟はしてましたが、ぶっ飛びましたね(笑)。ラストエンペラーのような丸い薄いサングラスをかけ、日大アメフト部出身のような、見上げるような大きなガタイで、半ズボンを履き、靴は目がふらふらするようなショッキング・レッドのスニーカー。とても日本人には見えず、無国籍の大陸浪人のような風情で、帰国滞在先のホテルやレストランでは必ず英語で声を掛けられるとか。

はっきり言って強面のインテリやくざですね。ドスの効いた声で睨まれたら竦みますねえ(笑)。

帰国する度に、日本の金融庁の役人とサシで渡り合うそうですから、「存在が意識を規定する」ということでしょうか。

ここまで書いたら怒られますねえ。ま、彼はこんなブログを読まないから大丈夫でしょう(笑)。

私もジャーナリストの端くれですから、色々と下調べして彼とのインタビューに臨みました。とはいえ、表向きは単なるお酒の入った懇親会ですから、メモを取ることなく、言葉のラリーを楽しんだ感じでした。

彼は日本人なのに何故、米国に半永住しているのか、理由は伺うと、金融業界は日本は米国やシンガポールなどと比べると40年も遅れていることと、情報の質が天と地の開きがあるほど雲泥の差があるというのです。

日本の最高峰の経済紙である日経には、読むに値する情報がほとんど載っていないというのです。やはり、ウォールストリートジャーナル、もしくはフィナンシャルタイムズの足元にも及ばないと断言するのです。

彼は、趣味で自動車とゴルフが好きらしいのですが、日本のテレビのゴルフやカーレースの中継の解説にしても、ピンと外れが多く、おふざけみたいなもんだといいます。米国の中継の解説の的確さ、そして、的を射た発言とは段違いだというのです。

「どうして日本のレベルはここまで低いんでしょうかねえ」と彼は頭を抱えるのです。

彼は投資家ですから、ウォーレン・バフェットやFAANG(Facebook, Amazon, Apple, Netflix, Google)などの話もしてくれました。私は未読ですが、「バフェット・コード」という本も出しているそうです。あ、こう書くと彼の名前がバレてしまいますね(笑)。

昨晩、彼と話をしていて、一番面白かったのは、先進国の中で日本だけが、会社が銀行から借金した場合、経営者が最後まで責任を取らされるという話でした。「だから、日本の社長は最後に自殺したりするでしょ?でも、アメリカなんかは、倒産したら、チャラでそれで終わりなのです。経営者はもう一度立ち直って、新しく再建できるのです。もちろん、当事者の銀行はもうお金を貸してくれないかもしれませんが、他の銀行は貸してくれるかもしれません」

この話を聞いて、初めて、トランプ米大統領の逸話として、かつて、彼がアトランティックシティーでカジノ経営に失敗したり、何度も何度も会社を倒産させても復活できたのは、米国ではそういう商法だったので、再建することができたことが理解できました。倒産したら、前の会社の借金はもう返さなくていいのですから。

「そういった点、日本の場合、銀行に有利できているのです。いつまでも、借金を追うことができるからです。でも、日本は商法を変えて、もっとビジネスをしやすく、復活しやすくしなければならないのです。だから、今、私は金融庁と闘っているのです」と打ち明けてくれました。

なるほど、そういうことでしたか。

彼は目下、日本で会社を設立しようと奮闘中です。応援したい気持ちでいっぱいになりました。強面とか、インテリやくざ、とか書きましたが、根は、心優しい人でした。

京都・祇園祭「保昌山」の胴掛けの説明が、明治初期から100年間も間違っていた

こんにちは京洛先生です。西日本は豪雨被害で、大変ですね。大雨がひいた後、亡くなった人が次々増えて、豪雨の大きさが、よく分かります。

 今回の豪雨被害とは別に、東北、関東では、このところ、震度4、5前後の地震が頻繁に起こっています。何も起こらなければ良いのですが、心配になります。

 過日の大阪北部では大阪市北区、高槻、枚方などで、震度6弱の大きな揺れがあり、通勤客の足に大きな影響が出ました。大都市圏での直下型地震でこの程度の被害でよく済んだとも言えます。

 東日本大震災以降、日本全体が天変地異に、いつ襲われても可笑しくないような感じもしてきています。

 来年は「平成」から新元号に移りますが、時代の変わり目は、いつも、あれこれありますからね。

 貞観年間の9世紀から始まった「祇園御霊会」こと「祇園祭」は、疫病、大災害から、民衆、国家安泰を祈願することが起源ですが、今年は、平成の最後の「祇園祭」になります。

 昨日12日は「前祭(17日巡行)」の鉾建てが終わり、曳きぞめがありました。

 添付の写真は鉾建てが終わった、長刀鉾、函谷鉾、菊水鉾の様子です。ご承知のように、”動く美術館”と言われ、山鉾の豪華な「胴掛け」が注目されますが、昨日は、万一に備え、雨除けのビニールが被せられていましたが、10日から始まった、鉾建ては、無事終わったわけです。(いずれも菊水鉾)

 そんな折、12日付の「京都新聞」夕刊に記事が載りました。同紙のホームページにも出ていますので、ご確認されれば分かります。 「保昌山」の胴掛けの説明が、明治初期から100年間も間違っていたという事です。

 この胴掛けは、円山応挙の作で「保昌山保存会」も気がつかなかった、という事で、さっそく、訂正するという事です。

 指摘した人は東京在住の「祇園祭」の熱心な研究家と言うかフアンですが、出版物、文書などをよく調べていて、京都市に問い合わせて分かったという事です。

 なんでもそうですが、注目を浴びたり、有名にになると、世間の目は厳しくなるものですね。

以上

All photos copyright by Kyoraque-sensei

【追記】7月12日付「京都新聞」夕刊記事は以下の通りです。

祇園祭前祭(さきまつり)の保昌(ほうしょう)山(京都市下京区東洞院通松原上ル)が所有する胴掛2点の名称や説明が長年誤っていたことが12日までに分かった。画題となっている2人の伝説的な人物を取り違えていた。胴掛は江戸時代の絵師円山応挙が下絵を手がけた名品で、今夏の会所飾りでは約1世紀ぶりに説明を変更する。

 保昌山の胴掛は中国由来の人物「張騫(ちょうけん)」「巨霊人(きょれいじん)」と神秘的な動物「虎」「鳳凰(ほうおう)」を主題としている。裏地には、1773年を示す「安永二年六月」の年号と、応挙を意味する「円山主水」の墨書があることで知られる。

 これまで保昌山保存会では2点の胴掛の名称をそれぞれ「虎に張騫」と「鳳凰に巨霊人」としていた。だが、2010年、胴掛を指定文化財とする際の市の調査で、1875(明治8)年の京都府庁文書や、91(同24)年の国の文書には「鳳凰に張騫」「虎に巨霊人」などとする記述があることが判明。100年前後にわたって人物を取り違え、言い伝えが誤っていたことが分かった。

 しかし、このときは正しい理解が住民には広まらず、誤解は解けなかった。今年、東京の出版社が発行した祇園祭に関する本を住民が見た際、胴掛の説明が従来の内容と異なることに気づいた。この住民が市文化財保護課に問い合わせ、取り違えていたことが認識された。

 このため保昌山は、同課に正しい案内文の作成を依頼。13日午後の会所飾りから名称を「張騫鳳凰図」「巨霊人虎図」と説明を変更する。保存会の岩田脩理事(68)は「先人たちから聞いていたのと全く逆で当初は素直に受け止められなかった。今後正しい理解が浸透するのをゆっくりと待ちたい」と話す。

銀座で生まれた通信社

鳥居英晴著「国策通信社『同盟』の興亡」(花伝社・2014年7月31日初版)を読み始めました。滅法面白いのでやめられません。

著者の鳥居英晴さんは、あの「日本陸軍の通信諜報戦 北多摩通信所」を書いた人でした。元共同通信記者。このリーフレットのような薄い本を私は2257円(送料・手数料込み)で買ったことを先日のブログに書きましたが、こちらの同盟通信社の本は広辞苑のような分厚い本で800ページ以上もあります。定価は5000円プラス税ですが、ネットでは1万9524円で新本が売られていました。

鳥居氏は、この本を書くために生まれてきたのですね。こちらも、大変読み応えがあります。自分自身、今まで知らなかったことがたくさん書かれていて、色々教えられます。

しょっぱなから、「通信社は銀座で生まれた」とあります。(13ページ)

銀座なら私の庭みたいなもんですから(笑)、猛暑の中、汗を拭き拭き、この本に出てきた通信社や新聞社跡を辿って歩いてみました。ただし、全く、面影も何もなし。記念碑や看板もないので、ここに新聞社や通信社があったことさえ分かりませんでした。

御存知、銀座の象徴とも言うべき4丁目の和光。服部時計店。ここに、銀座に初めて進出した新聞「日新真事誌」の社屋がありました。1873年(明治6年)7月のこと。経営者は、英国人ジョン・レディ・ブラック。彼は1863年(幕末じゃないですか)に来日し、1867年10月(まだ幕末)に横浜で、英字紙ジャパン・ガゼットを創刊しています。

銀座5丁目、銀座中央通りにある「イグジット・メルサ」。以前は「ニューメルサ」と言ってましたが、最近名前を変えたようです。今は中国系企業に買収されたラオックスなどが入り、ほとんど中国人観光客の溜まり場になっています。

ここにあの東京日日新聞社(現毎日新聞)があったというのです!1877年(明治10年)のこと。後に主筆・社長を務めた福地桜痴(源一郎)はこの年に西南戦争を取材しています。福地は歌舞伎座を創設し、劇作するなど演劇界に名を残します。東京日日がここにあったとはねえ。

銀座1丁目1番地にある京橋三菱ビルディングで、今は三菱UFJ銀行などになってますが、ここに、東京日日新聞と同じ年の1877年(明治10年)、読売新聞社の社屋が建っていたというのです。

銀座の端っこ、道を渡ると京橋です。

読売新聞は、今のマロニエ通りにあるビルと、旧プランタン銀座にあったと聞いてましたが、最初はここだったんですか。尾崎紅葉の「金色夜叉」が連載されていた頃の明治期の読売はここにあったんでしょうか。

朝日新聞は1888年(明治21年)、京橋区滝山町4番地(現銀座6丁目の並木通り)に大阪から進出します。

星亨が、自身が発行した自由党系の「めさまし新聞」を大阪朝日の村山龍平に譲渡して、それが「東京朝日新聞」と改題されます。めさまし新聞の社屋が、同じ滝山町にあったのかどうかは不明です。

今はこのように高級ブランドショップと外資系高級ホテルになって、新聞社もすっかり不動産業となっております。写真の中の手前には当時ここで校正係として働いていた石川啄木の石碑が建っているので、ここに朝日新聞があったことが分かります。

文芸欄を創設して小説記者となった夏目漱石もここに通っていました。斜め向かいに、漱石も好きだった「空也もなか」があります。

鳥居氏の本によると、日本最初の近代的通信社とされるのは「時事通信社」(今の時事通信とはまったくの無関係)で、1888年(明治21年)1月4日、京橋区木挽町5丁目4番地で生まれた、といいます。今の銀座6丁目13ということで探しましたが、苦労しました。恐らく、上写真の今の銀座ウォールビルだと思われます。

当時は、この辺りは、三十三間堀川が流れていて、今は埋められて道路になっていますから、昔の地図と見比べて歩いていたら、本当に難儀しました。

ここは、牧久さんの書いた「特務機関長 許斐氏利」にも出てきた、戦後直ぐに東京温泉のあった所だったと思います。どちらも、看板も石碑も何もないので、この本を読んでいなかったら、さっぱり分からなかったことでしょう。

時事通信社は、三井物産初代社長益田孝(鈍翁、茶人としても有名)が出資して社主となった会社で、政府の御用機関だったと言われます。益田は、社内報だった「中外商業新報」(後の日本経済新聞)も発行してますから、ジャーナリズムの世界にかなり食い込んでいたんですね。

銀座8丁目7-3の並木通り角に喫茶店「プロント」がありますが、ここはかつて、「新聞用達会社」があった所でした。同社は、改進党系の郵便報知新聞(後に報知新聞と改題)の社長矢野文雄が1890年(明治23年)1月10日に設立しました。当時の住所は、京橋区日吉町20番地。

この新聞用達会社と先ほどの益田孝の時事通信社が1892年(明治25年)5月9日に合併して「帝国通信社」となるのです。やはり、改進党系ですが、当時は、「国際通信社」と並ぶ二大通信社でした。

この「プロント」の斜め向かい側の銀座8丁目にある、今バー「ブリック」がある辺りに、国民新聞社があったというのです。

国民新聞は、1888年(明治21年)に民友社を起こした徳富蘇峰が1890年(明治23年)に創刊。蘇峰も改進党に近い立場だったようです。

銀座6丁目の交詢社。福沢諭吉の提唱でつくられた日本最初の実業家社交クラブ。ここに福沢が創刊した時事新報社がありました。

時事新報、国民新聞、報知新聞は、戦前を代表する新聞でしたが、戦後、いずれも廃刊します。

交詢社通りを有楽町駅に向かった隣の隣のビルは、今、ヴェルサーチェなどが入居していますが、ここには、光永星郎が起こした日本電報通信社(後の電通)が1906年(明治39年)に本社を構えた所でした。

このビルの並木通りを渡った真向かいにホーン商会ビルがあったと言われます。このホーン商会ビルには、米AP通信社と英ロイター通信社などが入居していました。後に同盟通信社を設立する一人、古野伊之助は、新聞広告を見て、AP通信社の給仕としてジャーナリストとしての第一歩をここで踏み出すことになります。

何か、非常に感慨深いものがありますねえ。