Facebookやめますか?人間やめますか?

 私は、この《渓流斎日乗》ブログを独立したサイトとして立ち上げた際(2017年9月)、M氏の薦めで、初めてFacebookを始めました。それまでは、何となく胡散臭い感じがしてやらなかったのですが、「Facebookをやればアクセス数が増えますよ」とのM氏の御託宣で始めたわけです。

 でも、いまだにFacebookのカラクリについてはよく分かっていません。昨今、世界各国でプライバシー保護や独占禁止法などでFacebookに関する批判記事がかなり増え、それらを一生懸命に読んでも、実は何が悪いのかさっぱり分かっていませんでした。

 それは、Facebookはどんな会社なのか、その実体が分かっていなかったからです。

 もう10年以上昔になりますが、Facebookの創設者マーク・ザッカーバーグの半生をデビッド・フィンチャー監督が映画化した「ソーシャル・ネットワーク」(2011年)も観ましたが、やたらと、のべつまくなく喋りまくる名門ハーバード大学の学生(ザッカーバーグ)が、ネットで友人たちとの交流サイトを立ち上げる話だけは分かりましたが、肝心のビジネスモデルに関しては全く触れていないので、やはり、カラクリがサッパリ分かりませんでした。

 カラクリとは、ビジネスモデルのことであり、何を商品にして売って取引をして莫大な利益を上げているか、ということです。

 勿論、それらは「企業秘密」なので、社外の人間には全く明らかにされていません。先日、Facebookの元従業員で内部告発者のフランシス・ホーゲン氏が朝日新聞の独占インタビューに答えていました(4月16日付朝刊)。同氏は、Facebookが画面に表示する投稿の順番を決めるアルゴリズム(計算手順)を2018年に変更したため、過激な投稿が拡散されやすくなったこと。また、Facebookが利益を1、2%程度減らすだけで、75%の偽情報を減らすことができることなど、元社員でなければ分からない有益なことを明らかにしてくれました。が、平たく言えば、Facebookは何で稼いでいるのか、記事には一行も書いてくれていませんでした。つまり、利益を減らす、と言われても、どうやって減らすのか、インタビューアーはそこまで突っ込んで質問していないか、わざとなのかボカしています。

 Facebookは、大統領選挙にまで影響を与える巨大IT企業です。世界で29億人以上が利用しているといいます。我々の日常生活にも関わる大問題だとしたら、是非とも調べなければなりません。しかし、先程言ったように「企業機密」ですから、実態は分かりません。そこで、勝手に推理することにしました。

 まず、Facebookは、無料で仕入れた「個人情報」を顧客に売却していることは間違いないでしょう。「買う人」がいるから「売る人」がいるのです。個人情報を買う顧客とは、恐らく、大企業、調査会社や探偵社、宗教や政党などの団体組織あたりか。

 話は少し飛びますが、「贈収賄事件」というものは立件がかなり難しいそうですね。収賄した政治家がはっきり分かったとしても、大企業なり贈賄した側が口を割らない限り立件しづらい。それに証拠も出にくい。過日も、某マンモス私大の理事長が逮捕されましたが、贈収賄罪では難しいので、約5200万円を脱税したとする所得税法違反罪で起訴されました。

 同じように、Facebookの個人情報を「買う側」を調べ上げることは困難なことでしょう。でも、「買う側」とは、その個人情報を使って商品を販売したい企業か、世論を故意に操作して自分たちに有利に働かそうとする団体かもしくは国家であることは間違いないでしょう。個人情報を「売る側」と「買う側」はウィンウィン関係なので秘密のヴェールに包まれるわけです。

 Facebookは、世界29億人も利用しているといいますから、影響力は絶大です。いわゆるネットのプラットフォームになっていて、Facebookを通して、ニュースを見たり、個人的に商品を売買したり、人の噂やブログを見たりする国の人々が多いのです(意外にもヴェトナムなんかそうです)。それでいて、現地に相応の税金を支払っていないということで、各国は問題視しています。

 何しろ、個人情報は、馬鹿な大衆(失礼!)が、住所氏名年齢職業性別、独身、家族構成まで、せっせと貢いでくれているわけです。ハゲタカにとって、こんな無防備で御し易い獲物はいません。無駄が一切なく、ピンポイントで襲うことができるからです。となると、タダで仕入れた商品を高額で売りつける悪徳商法と変わりないということになります。例えてみれば、ゼロ金利で仕入れた原資を使って、高金利で貸し出すサラ金みたいなものでしょう。もしくは、河原で拾って来たタダの石を高値を付けて売っている商人みたいなものでしょう(つげ義春さんの漫画にもありましたね。こちらは売れずに悲惨な状態でしたけど)

 扨て、もう一度、前述した内部告発者のフランシス・ホーゲン氏の話に戻ります。「Facebookが画面に表示する投稿の順番を決めるアルゴリズムを変更したら過激な投稿が拡散されやすくなった」とはどういう意味なのでしょうか?これまた、詳細に理由を書いてくれないので、想像するしかありませんが、馬鹿な大衆は(これまた失礼!)過激な投稿を好み、「いいね」が多く付いた投稿を読みたがるので、それが相乗効果になるということが推理できます。過激な投稿とはデマでもフェイクでもお構いなしです。アルゴリズムを変更したというのは、そんなデマやフェイクを排除するフィルターを弱めた、ということなのでしょう。

 ということは、ホーゲン氏が暴露したもう一点、「Facebookが利益を1、2%程度減らすだけで、75%の偽情報を減らすことができる」というのは、Facebookはアクセス数を増やすために、偽情報を黙認している、という指摘になります。

 Facebookに注目が集まれば集まるほど、存在価値が高まり、ただで仕入れた個人情報の売却益も雪だるま式に増えるということを意味します。

 そんな悪徳商法に反感を持つようならFacebookを止めれば良いのです。しかし、大企業からブログで広告収入を得ている個人に至るまで、止めることは、痛し痒しの話です。

 ヒトは、他人から利用されているのに、自分が利用している、と思いたがる動物です。「馬鹿な大衆」とは自分ではないと思っているのです。自分は絶対に騙されないと確信している人間に限って、オレオレ詐欺などに騙されるというのに。

 以上、私の推理に過ぎませんが、まさに「Facebookやめますか?人間やめますか?」という話でした。

名古屋といえば尾上菊五郎丈を思い出す

 お断りするまでもなく、《渓流斎日乗》は、「双方向性メディア」を謳っておりますが、個人的な身辺雑記です。最近は「読書感想文」が多いのですが、日々感じた由無し事(よしなしごと)を気儘に書き連ねています。

 ということは、その時「知り得た情報」と「時代背景」での感想ですので、その後、「転向」して考え方も変わっていることもあります。むしろ、そういう場合が多いでしょう。いずれにせよ、本日、このブログの総閲覧数が、2017年9月15日に独立(2005年開始から2017年までは、gooブログでお世話になっておりました)して以来、61万アクセスを超えましたので、読者の皆様には感謝申し上げます。本当に有難い限りです。

奉供養庚申之塔・宝永□□□九月吉祥日 宝永年間(1704~11年)綱吉、家宣の時代、300年以上昔の碑か?

 扨て、また、個人的な話ですが、来月、名古屋に行くことにしました。旧い友人に会うためですが、半ば冗談で「大先生(私のこと=笑)がお出ましになるので、粗相のないように」とメールしたら、彼は、3日も寝ずに考えたような旅程表を作ってくれました。

 私自身は、旨い酒の肴を出す飲み屋さんと、名所旧跡は秀吉、清正所縁の地を希望していたのですが、彼は熱田神宮を旅程に組み込んでくれました。熱田神宮といえば、名古屋から離れたずっと遠い所かと錯覚していたのですが、結構近いんですね。名古屋市内でした(笑)。私は40年近い昔、名古屋にはプロ野球の取材等で何十回訪れたのか分からないほどですが、ほとんどホテルと球場と飲み屋さんの往復ぐらいで、名古屋城さえ行ったことはありませんでした。駄目ですね(苦笑)。

 そう言えば、思い出したのですが、これまた30年ぐらい昔の話ですが、歌舞伎の尾上菊五郎丈主演の舞台が名古屋の御園座で行われるということで、演劇記者の招待会がありました。どういう経緯(いきさつ)だったのか忘れましたが、記者会見と懇親会が終わった後、どういうわけか、私一人だけが音羽屋さんに気に入られてしまい、二次会に誘われました。

 音羽屋さんとは、勿論、当代七代目菊五郎丈のことです。そこで私は生涯忘れない数奇な経験をするのです(笑)。

 音羽屋さんは「芸人の鑑」みたいな方で、名古屋一の繫華街「栄」に馴染みの店がたくさんあるようでした。しかも、行く所は、東京・銀座の高級クラブのような、綺麗どころさんを何人も揃えて「座ってナンボ」みたいな店です。恐らく、座っただけでも3万円ぐらい取られそうな超高級クラブばかりです。

 1軒目は、水割りを1、2杯呑み、「俳名(はいみょう)」など真面目な話をして、「髙田さん、次、行きましょうか」と仰るのです。30分も座っていなかったと思います。2軒目は、ちょっとお化粧がケバイ、ちょっと董(とう)が立ったマダムで、「あらあ、ヒーさん。ちょっと、何処で浮気してたのよー」と、映画か漫画でしか見たことがないようなセリフをしゃべり、菊五郎丈も「俺も忙しいんだよ」とか何とか言いつつ、高級ブランデーを舐めて、この店も20分ほどで切り上げ、「河岸(かし)を変えましょう」と3軒目へ。ここは、かなり若いキャピキャピの女の子がいっぱい。ワイワイ、キャアキャア言いながらも、客が、あの天下の七代目菊五郎だということがまるで分っていない様子。

 ここも20分ほどで切り上げて4軒目へ。今度は照明を落とした薄暗いバーで、菊五郎丈は、ママに「よっ!」と声を掛けて、水割りをほんの少し口に含んで、次の店へ。もう、その頃は、私も酔いが回り、右も左も分からず、ただ「はい、はい」とついていくばかりです。5軒目は、またキャバレー風の明るい店で、熟練の女性が3人付き、菊五郎丈は「俺を誰だか知ってるかあ?暴れん坊将軍とは俺のことだあー」とすっかり興に乗ってしまい、「おーい、次、行くぞー、髙田~」と豹変。あれ?最初は「さん」付けしてくれたのになあ?と思いつつ、御主人様に只管付いていくのみです。6軒目、7軒目ぐらいまでは覚えているのですが、あとは記憶が消えました。ただ覚えているのは、本当に「座っただけ」で何も頼まず、「次~」の掛け声で新たな店に移っていたことでした。

 こんな体験したのは、世間広しといえども、歴史上、私ぐらいでしょう(笑)。勿論、お店は「顔パス」で、払いはツケでしたから、後で高額の請求書は勧進元の松竹に回って来ました。松竹の広報の人からは「髙田さん、派手に引き回してくださいましたねえ」と嫌味を言われてしまいました。勿論、「えっ!?逆でしょう!!」と言い返しました。もう音羽屋さんは覚えていないかもしれませんが(笑)、私は一生忘れない想い出です。

 あ、そうそう熱田神宮の話でした。ここは三種の神器の一つ「草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)」を御霊代(みたましろ)とした格式の高い神社として有名ですが、この剣は、源平合戦の壇ノ浦の戦いで、三種の神器を携えた安徳天皇とともに海に沈んだはずです。と思ったら、私の手元にある「一生に一度は行きたい日本の神社100選」(宝島社)には、関門海峡に沈んだとされる草薙神剣は形代(かたしろ=本物になぞらえたもの)で、本物は今でも熱田神宮にまつられている、と書いてありました。

 勿論、草薙神剣は非公開でしょうが、熱田神宮のお参りが楽しみになりました。

【追記】2022.4.18

 今思い出しても、音羽屋さんとの名古屋での「はしご酒」は奇跡のような体験でした。考えてみれば、当時の菊五郎丈は50歳代で今の私より若い!ズバリ、竹を割ったような裏のないさっぱりとした性格で、男気のある方でした。

 私の世代は、音羽屋さんが菊之助時代に出演したNHK大河ドラマ「源義経」(1966年、音楽は武満徹!)の印象が強いので、その話をしたら、「俺はもうテレビ(のドラマ)には出ねえよ。歌舞伎役者だから舞台に懸けているだ」と話してくださったことがとても印象的でした。

 「源義経」で静御前役だった藤純子さんと後に結婚されたので、ドラマの共演がきっかけだったと思いましたが、その話ははぐらかされました。とても真面目な人でした。

思考停止の私と鈴木商店の話=武田晴人著「財閥の時代」

 すぐ、本や社会的事件に影響を受けてしまうのが私の職業病であり、悪い癖です(笑)。

 ロシア軍による非人道的なウクライナ戦争のおかげで、確かに悲観的になってはおりますが、長年の菩薩さまのような修行のおかげで、どういうわけか、精神的には安定しています。最大の秘訣は、若い時のように悩まないようにしたことです。考えないことにしたのです。

 「思考停止じゃん」と批判されようが、それでいいのです。かつては「内なる声を聞け」と自分に言い聞かせていたことがありました。しかし、人間は判断を間違えたり、記憶違いしたりします。それよりか、「ホモ・デウス」のハラリ氏の言う通り、人工知能やアルゴリズムに任せた方が正確で間違いないかもしれません。

 AIを使えば、もう「ランチは何しようか?」「服は何を着ようか?」なんて迷うことはありません。とは言っても、人間の自由とは、何を選ぶか、といった選択権の自由が大半を占めているので、AIに任せてしまえば、自由の放棄であり、人間性の放棄になります。そんなんで良いのか? そもそも、その人間性とは一体何なのかー?

 答えはすぐ出て来ないので、只管、勉強して知識を更新していくしかありませんね。

 ということで、今は読みかけて中断していた本を再開しています。武田晴人著「財閥の時代」(角川ソフィア文庫、2020年3月25日初版)です。この本は国際経済ジャーナリストの友人から薦められたのですが、面白いですね。

 幕末明治の財閥の歴史から筆を起こし、今は昭和初期に入ってきました。財閥といえば、「天下無敵」でプーチンのように向かう所、敵なし、といった感じかと思っていたら、結構、経営者の判断ミスで倒産した財閥もかなり多かったんですね。我々は勝ち残ったものしか見ていませんからね。

 かつては三井物産、三菱商事と並ぶ勢いのあった鈴木商店の倒産はあまりにも有名ですが、豆粕相場に手を出して失敗した古河商事や、三井、大倉組と並ぶ三大商社とも言われた機械関係の商社・高田商会、このほか、久原商事や藤田銀行、そして東京渡辺銀行、中井銀行、左右田銀行といった大手が関東大震災や金融恐慌などの煽りを受けて休業・倒産したことをこの本で知りました。

ムスカリ

 この中で、特に取り上げたいのは、やはり鈴木商店です。御存知ない方もいらっしゃるかもしませんが、この鈴木商店の流れを汲む直系、傍系の大企業が現在でも大活躍しています。安倍元首相も勤務した神戸製鋼、帝人(帝国人造絹糸)、双日(日本商業会社⇒日商岩井)、J-オイルミルズ(豊年製油)、ニップン(日本製粉)、富士フイルム(大日本セルロイド)、IHI(播磨造船所、鳥羽造船所)、サッポロビール(帝国麦酒)、出光興産(帝国石油、旭石油)、太平洋セメント(日本セメント)、東京電力(信越電力)等々です。(カッコ内は鈴木商店時代)

 鈴木商店は、明治初めに鈴木岩治郎・よね夫妻が神戸で開業した輸入砂糖を扱う小さな商店でした。岩治郎が早い時期に亡くなったため、経営は、金子直吉、柳田富士松ら番頭に任されました。日清戦争後に割譲された台湾との取引で、鈴木商店は大飛躍します。目を付けたのは台湾産の樟脳でした。樟脳といえば、私自身は防虫剤ぐらいしか思いつかなかったのですが、調べてみたら、カンフルとも呼ばれ、興奮剤にも使われます。カンフル剤とは樟脳剤のことだったんですね。ほかに、香料や防臭剤、それに火薬やセルロイドの原料にも使われます。用途抜群なので、これで鈴木商店は売上を伸ばしていたのです。

 鈴木商店はその後、製鋼、人絹、電力、オイル等業種を拡大して三井、三菱と肩を並べるほど大成長しました。それが倒産に追い込まれた原因は債務超過でした。番頭の柳田富士松も亡くなり、金子直吉に全ての権限が集中する独裁体制になり、財務管理が行き届かなくなりました。過剰な融資は、台湾銀行から受けていました。台湾銀行は政府系の植民地中央銀行です。関東大震災後、鈴木商店は、台湾銀行を経由した震災手形の割引で大量に政府資金を受けていたことから、「鈴木商店は、政府からの救援で延命している」と批判されるようになりました。

 結局、台湾銀行による新規貸し出しが停止された鈴木商店は、昭和2年4月上旬に閉店に追い込まれました。昭和2年は、片岡直温蔵相の不穏当な発言により、東京渡辺銀行の取り付け騒ぎが起こるなど、昭和金融恐慌が勃発した年でした。

 うーん、またまた衒学的(ペダンチック)な話になってしまいましたね。誰かさんからまた怒られそうです。

【関連記事】

・2022年3月10日付「政商の正体を知りたくなって=武田晴人著「財閥の時代」を読んでます」

弥勒如来はやって来ない=「眠れなくなるほど面白い宇宙の話」

 いつも渓流斎ブログをお読み頂きまして誠に有難う御座います。感謝申し上げます。

 ただし、本日は、相当暗い話になると思いますので、心臓の悪い方はこの先、お読みにならない方が良いかもしれません。

 ユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史」「ホモ・デウス」の影響に加え、2月24日に勃発したウクライナ戦争に感化されて、私もすっかりミザントロープ(人間嫌い)に陥ってしまいました。人間は残虐で、私利私欲の塊で、傍若無人で、自己保存のためには裏切りや策略や謀略や詐欺などやりたい放題。だから、偉人がどうした、政治家が何をした、革命だ、戦争だ、などといった人間の歴史(書記された伝承)や思想を学ぶことさえ馬鹿らしくなってきたのです。

 どうせ、人間の所業だろ? その人間って、サルの一種でとりわけ残虐で獰猛なんだろ? ズル賢さだけが異様に肥大した生物じゃないか、てな感じです。

 人間の歴史や思想なんか学ぶよりも、花崗岩や安山岩など石の種類や植物の名前をもっと覚えた方が健康的でいいのではないか?

 そこで気分を換えて読み始めたのが宇宙の本です。とはいえ、私自身は根っからの文科系人間ですから、難解な本は駄目です。何か手頃な初心者向けで最先端の学術成果が書かれた本がないか探したところ、渡部潤一国立天文台副台長監修の「眠れなくなるほど面白い宇宙の話」(日本文芸社、2018年3月30日初版、2022年4月14日第14刷、748円)という本が見つかりました。

 図解で分かりやすく書かれていますが、おっとろしいことも書かれています。今から25億年後、太陽が赤色巨星化して光量、熱量が増大して地球の気温は100度以上となり、「地球上の生物は全て絶滅してしまうと考えられる」と書かれているのです。勿論、人類も生物です。

 要するに、あと25億年で人類滅亡となるわけです。(ハラリ氏は、現生人類は、あと1000年持つかどうか、と書いてましたが)「永遠」とか「永久」といった言葉はありますが、実際、永遠とは無限ではなく、25億年という有限の時間しか残されていないということです。

シバザクラ

  19世紀のフランスの詩人アルチュール・ランボーが17歳の時に書いた「永遠」という詩があります。(この詩は、後に改編されて「地獄の季節」の「錯乱Ⅱ」に収録)

 Elle est retrouvée!  Quoi ? – L’Éternité.  C’est la mer allée Avec le soleil.

  見つかった! 何が?ー永遠が 太陽といざなった海さ (拙訳)

 永遠というものは、太陽と一緒に行ってしまう、というのはまさに天才ランボーの慧眼です。ただ、その永遠の期間が25億年とまでは、いくら天才でも知らなかったことでしょう。

 25億年なんてまだまだ先の話で、俺たちはとっくに死んでいるので関係ない、という考え方もあるでしょう。でも、138億年前にビッグバンで宇宙が誕生した後、天の川銀河の片隅に太陽系ができて(銀河は全宇宙に1000億個以上あるというので吃驚です。何しろ、冥王星は惑星だと習った古い世代なもので)、地球が生成されたのは、今から46億年前と言われています。つまり、残された時間は、地球が出来て今に至るまでの時間より半分近く短いのです。

東京・新橋「奈良県物産館」柿の葉寿司定食1100円

 私は仏像が好きで、といっては語弊がありますが、仏像を前にすると心が洗われます。特に好きな仏像は、京都・広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像です。この弥勒菩薩(如来)は、釈迦が亡くなって56億7000万年後に兜率天から降りて、衆生を救済してくださると言われる大変有難い仏様です。しかし、25億年後に人類が滅亡してしまえば、弥勒菩薩の出番がない、というか、間に合わないということになりますね。

 「56億7000万年」という数字は、仏陀自身がお考えになったのかどうか分かりませんが、全く出鱈目な数字ではないとしたら、結局、人間は救済されない、ということなのでしょうか。となると、全く身も蓋もない話ですね。

 これは仏教の話なので、キリスト教徒やイスラム教徒なら救われる…といった話でもなさそうです。とにかく、人類滅亡が確実なら、何をしても無駄です。何も残らず、勿論、歴史書も文化財も教会も寺社仏閣も核ミサイルも溶けてなくなるわけですから。このブログも(笑)。

 それでも、人間は生き続けます。泣いたり、笑ったり、怒ったり、嘆いたりしながらも…。救済を求めて妄想ともいえる新しい宗教を生み出したり縋ったりします。

 「それでも、私はリンゴの木を植える」といった物語も生まれます。人間は物語と神話を信じて、共同幻想の中でしか生きていけないからです。

 人類滅亡となれば、権力者も有名人も富裕層も大将も会長も既得権益者も貴族も大地主も、楽をして働かないで給料を貰っている連中も同じようにいなくなります。いくら努力しても、運にもツキにも見放され、この世で奴隷状態の労働に強いられ、安賃金で、雨漏りのする風呂もない木賃宿で生活している庶民にとっては、それは「平等思想」であり、朗報なのかもしれません。

 ま、いずれにせよ、これらは人智を超えた自然科学の世界の話なので、変えようがありません。泣こうが、喚こうが、虚無主義に走ろうが、事態は全く変わらないということです。

 それでも我々は、自裁するわけにもいかず、お迎えが来るまで、毎日、泣いたり、笑ったり、怒ったり、嘆いたりしながら、生きるしかありません。

 はい、ここまで。次回は思い切りポジティブ思考の希望の物語でも書きますか?

肝心なことが抜けるテレビの歴史番組=内藤湖南、北条時頼…

 会社の同僚で歴史好きのAさんが「俺、凄いこと発見した」と鼻をピクピクと震わせました。

 どういうわけか、歴代の将軍(執権)は15代で終わってしまうというのです。そして、中でも初代、3代、5代、8代、15代がいずれも「名君」として呼ばれているという「法則」を発見したというのです。

 例えば、江戸時代は、初代徳川家康、三代家光、五代綱吉、八代吉宗、十五代慶喜です。「生類憐みの令」の綱吉が名君かというと、異論がある人がいるかもしれませんが、確かに1-3-5-8-15は画期的な、特に需要な将軍ばかりです。

 室町時代を見ると、初代足利尊氏、三代義満、五代義量、八代義政、十五代義昭です。金閣寺の義満、銀閣寺の義政と比べ、やはり五代義量となると知名度では劣りますが、まあ、いいでしょう(笑)。

ムスカリ

 では、鎌倉時代はどうでしょう。将軍源頼朝は別格ですが、実質支配権を握ったのは北条氏です。初代執権北条時政、三代泰時、五代時頼、八代時宗、十五代貞顕…あれっ?最後の執権は十五代貞顕ではありませんね。鎌倉が陥落した際に、貞顕の嫡男北条貞将が十六代守時の死を受けて、十七代執権に任じられたとする説があるようです。

 それに、今はNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の影響で、今では北条義時が最も注目されていますが、彼は二代執権です。

 三代泰時は御成敗式目を制定、八代時宗は元寇を撃退と、知名度は抜群ですが、いつも問題の(笑)五代目は如何でしょうか?北条時頼です。この人、やはり知る人ぞ知る通好みといった名君だったようで、先日、NHK-BSの「英雄たちの選択」で取り上げられていました。

 この「英雄たちの選択」は、かなり勉強にはなる番組なのですが、わざとだと思われますが、たまに肝心なことが抜けていたりします。例えば、先日は、東洋史学者の「内藤湖南」を特集していましたが、師範学校出の湖南を京都帝国大学教授にスカウトした彼の人生にとって最も重要な人物である狩野亨吉(安藤昌益の研究家、夏目漱石の親友で、京都帝大の初代学長)の「か」の字も出て来ないのです。幻滅しましたね。

チューリップ

 今回の北条時頼特集でも、農民たちには撫民政策を施し、私利私欲でしか動かない暴力集団である武士をまともな行政官として育成し、禅宗を篤く保護して建長寺(鎌倉五山第一位)を建立した時頼の功績はよく分かったのですが、やはり私としては肝心だと思われることが抜けていました。

 時頼は、赤痢にかかって執権職を義兄の長時に譲り、最明寺に出家します。しかし、実権は相変わらず時頼が握っていて、「最明寺の入道」と呼ばれていました。最明寺の入道といえば、思い出しました。日蓮が「立正安国論」を提出したのが、鎌倉幕府の最高権力者だった最明寺入道宛てだったからです。(佐藤賢一著「日蓮」)鎌倉仏教の代表の一人である日蓮と北条時頼は同時代人だったのです。

 なあんだ、番組の中で「最明寺入道」の一言説明があれば、日蓮のことも思い出し、北条時頼の理解力が深まったと思います。時頼は、台風で崩壊した高徳寺の木造の大仏を青銅に作り直した際の執権でもありました。鎌倉といえば大仏さまじゃありませんか。番組で鎌倉大仏のことが一言出てくれば、時頼の偉大さが深まったと思いました。

 何が言いたいのかと言いますと、テレビの歴史番組というのは、かなり恣意的だなあ、ということです。歴史番組に限らず、そもそも、テレビとは「枠組み」に沿って作られた恣意的なものだとも言えますが。

「新富町」散歩=「新富 煉瓦亭」から鉄砲洲稲荷神社まで

 テレビの影響力はおっとろしい(笑)。

 土曜日にテレビ東京系の番組「アド街ック天国」で「新富町」の特集をやっておりました。新富町は会社から近いので、「シメシメ、月曜日のランチはそこ、かしこにしよう」と心に決めて出掛けたところ、お目当ての寿司店は予想通り、長蛇の列(昼休みの時間に間に合わない!)。もう一軒、「こだわり」のフレンチ店に行ってみたら、いっぱいの人たちが食事をしているのが外から見えましたが、12時45分だというのに、もう「closed(営業終了)」の看板。「こりゃ駄目だあ」

鮨 ishijima 新富店

 仕方がないので、新富町ならよく行く「新富 煉瓦亭」で、Bランチ(ポークカツとクリームコロッケ)1150円を食しました。「仕方ない」なんて言っちゃ怒られますねえ(笑)。このお店も番組では、堂々の「第10位」にランクされていました。銀座の老舗店「煉瓦亭」から暖簾分けされた店だとは知っていましたが、やはり味は確かです。しかも、銀座店と比べると500円ぐらい安い。(ただし、銀座店の「元祖ポークカツレツ」は2000円也です。)

 カウンターの目の前にいるマスターがテレビに出ていたので、「テレビ、見ましたよ」と声を掛けましたが、「べらんめえ、こちとら江戸っ子だあ」とも言わず、無言で頷いただけでした。照れていたのかもしれません。

新富町・仏料理「ニコラ・シュヴロリエ」

 新富町は明治になって、守田勘弥が座頭を勤める歌舞伎の芝居小屋「新富座」が出来ました。関東大震災で焼失し、今は京橋税務署になっていて、署前には「新富座跡」の看板があります。ですから、もともとこの辺りは新富町と言っていたとばかり思っていたのですが、江戸時代は「大富町」と呼ばれ、武家地だったといいます。

 それが、明治になって築地の外国人居留者を目当てに新島原遊郭が置かれ、この新島原の「新」を取って、新富町になったといいます。

鉄砲洲稲荷神社(東京都中央区湊)

 いやいやそんなんで驚いていてはいけません。この辺りの鎮守様として鉄砲洲稲荷神社がありますが、創建は平安時代初期の841年にまで遡ることができるといいます。この辺りは埋め立てが進んだ土地であり、その度に社(やしろ)は移転され、室町時代は「八丁堀神社」と称されたことがあり、江戸時代あたりから「鉄砲洲稲荷神社」になったようです。

 歌川広重の浮世絵にも描かれています。名所江戸百景の「鉄砲洲稲荷橋湊神社」です。

 5月初めの「例大祭」では三年に一度、御神輿の渡御があり、東銀座の歌舞伎座辺りまでも回るようです。(歌舞伎座に分祠された鉄砲洲稲荷神社があるため)

入船「焼鳥 さくら家」

 新富町といえば、昼休みに、これまで新富座があった京橋税務署辺りまでしか足を延ばしたことがありませんでしたが、今回初めて、「入船」とか「湊」まで、奥深く足を踏み入れました。

 最近、新富町が雑誌などでも取り上げられ、ブームになっているようですが、その取り上げ方が「奥銀座」とか、「裏銀座」。番組に出てきた地元の人が「何?奥銀座だと?新富町は、新富町じゃねえか。誰が付けたんだ!冗談言っちゃいけねえ!」と吠えていました。

 どうやら、新富町を「奥銀座」と呼ぶのは避けた方がいいかもしれませんね(笑)。最近、個性のあるシャレたお店が結構増えてきましたし、かつての花街でしたから、高級料亭やミシュランの星付き寿司店も多いようです(地元の芸者さんがお一人だけ残っていらっしゃるとか)。

 番組では入船の「さくら家」(番組では第7位にランクイン)という老舗の焼き鳥屋さん(1917年創業)のことを「手頃な価格で美味しい」と紹介していましたので、行ってみましたが、ランチはなく、営業は夕方からでした。今晩も多分、テレビの影響で超満員になるのでしょうね。

 ほとぼりが醒めた頃に行きますかあ。

誰かウクライナ戦争を止める人はいないのか?

 私が子どもの頃、「サイゴン」だの「ダナン」だの「トンキン湾」だの、そして「ソンミ」といった、見たことも行ったことも聞いたこともない異国の地名を耳から自然と覚えてしまったものでした。

 ラジオやテレビで盛んにヴェトナム戦争を報道していたからでした。特に1968年3月16日、米軍兵により虐殺事件があったソンミ村は脳の奥深くに刻まれました。

 同じように、今の子どもたちは、「マリウポリ」や「ブチャ」「ボロジャンカ」というウクライナの地名が脳裏に刻まれることでしょう。

 そこでは民間人への非人道的な鬼畜が犯す大量殺戮と虐殺がロシア軍によって意図的に行われました。プーチン大統領は「下品でシニカルな挑発行為だ」などと頬かむりしていますが、生存者の証言や米国の衛星放送の写真などから、明らかに残虐行為が行われたことは事実です。

築地「肉と酒 はじめ」ハンバーグ定食980円

 テレビでは、無残にも殺害されたウクライナの一般市民の遺体が、分からないように「加工」されて放送されていますが、1960年代、70年代のヴェトナム戦争では、かなり衝撃的な残酷な写真や映像が子どもでも見られたものでした。当時はプレスコードが甘かったからかもしれません。

 南ヴェトナム政府軍の男が、若い男性を「スパイ」と決めつけて、群衆の前でピストルで「処刑」したり、地雷を踏んだと思われる「ベトコン」のバラバラになった遺体を米軍兵が持ち上げて見せたり、殺害したベトコン兵士を脚に紐を付けて戦車で引きずっていたり、とても正視に耐えないものばかりでしたが、それによって戦争のおぞましさと悲惨さが伝わってきました。

築地「和み」ランチ寿司1300円

 勿論、ウクライナの残虐写真を公開するべきだなどと言うつもりは全くありません。今はネット社会ですから、その気になれば見ることができます。下半身だけが裸にされた不自然な女性の遺体もありました。ロシア兵による、そのあまりにも残虐な行為が想像できます。殺害された彼女たちは、さぞかし、辛く、酷く屈辱的な地獄の苦しみを強いられたことでしょう。

 何よりも、悲しみより憎悪が沸き起こってきます。しかし、憎悪の連鎖は避けなければなりませんが。

 平和な国々では、高価な寿司やステーキをたらふく食べ、ビールを飲みながら、プロ野球やサッカー、ゴルフなどを観戦して楽しんでいるというのに、ウクライナの惨状と悲劇はあまりにも不公正で不条理です。

 たった一匹の誇大妄想の霊長類のせいなのに、国際社会は何故止められないのでしょうか?

 戦争犯罪が認められれば、独裁者は裁判で絞首刑か毒殺刑が待っています。となると、自分だけは安全地帯に隠れて、自己保存意識だけは肥大した独裁者は「勝つ」まで戦争を続けることでしょう。「長期戦になるのではないか」という実に嫌な観測さえ流れています。

 もう、これ以上の犠牲者はこりごりです。

超人類プーチンとスマホ奴隷の私

きのうの続き)

  データ至上主義が進化し、電車の車掌も、医者も弁護士も新聞記者もいらなくなり、アルゴリズムやAIが取って代わっていくという事態は、SFの世界ではなく現実味を帯びてきたという話でした。

 例えば、精神科医。患者は生身の人間の医者に診断してもらうのではなく、人間味のない機械、つまり、アルゴリズムとAIを塔載したコンピューターに診断してもらった方を好む傾向が出てきたというのです。

 それはある程度理解できます。人間は時に間違います。それよりも、何十億人の患者のデータが保存され、それらの対処法や、いかなる薬物を投与したら良いかといった事例が網羅されていたら、人間より遥かに優秀です。しかも、患者としては、こっ恥ずかしい話を生身の人間に話さなくても済みます。(ただし、重症の場合は、人間のお医者さんを個人的にはお勧めします)

 昔だったら、告解を引き受けていた教会の神父や牧師が、精神科医の役目を果たしていました。その代わり、免罪符を発行してもらうための大金を納めなくてはなりませんでした(ルターは免罪符を糾弾しましたが)。

 ユヴァル・ノア・ハラリ著「ホモ・デウス」(河出書房新社)では、シンギュラリティSingularity(人工知能AIが人類の知能を超える転換点)がいつ頃になるか、までは書いていませんでしたが、人類の仕事がAIに奪われ、一部の特権階級のみが生き残り、大半は「不要階級」(私の造語)として淘汰されるという夢物語の実現性はゼロではない、と思われます。

  また、神や仏や霊魂を信じている日本人は、寺社(寺院と神社)にお布施や初穂料等を納めますが、もし、宗教が、人類が思いついた妄想で、下等庶民を支配するツールかイデオロギーに過ぎないとしたら、寺社の存在意義すらなくなっていきます。

 生化学者に言わせれば、種としての人類の存在意義も生きる意味も目的もないということですから、これからの大半の人類は、何のために生きるべきなのでしょうか? 

銀座「とんかつ 不二」ミックス定食(13時以降、限定15食)

 ところで、2022年2月24日のロシア軍によるウクライナ侵攻で、すっかり私の人生観、世界観が変わってしまったことはこのブログで何度も書いております。

 ウクライナ戦争というより、ウクライナ大虐殺が日々繰り返されている現状を見ると、とても、映画館や博物館に行く気になれません。人間の空想や妄想がつくったフィクションも駄目です。現実が虚構を超えてしまっているからです。

 ロシアのプーチン大統領が起こした蛮行は、19世紀的、20世紀的でアナクロニズムの極致かと思っていましたが、人間、いつになっても戦争をして殺戮と強姦と略奪を好む動物(けだもの)に過ぎず、もしかして、プーチンはその最先端の人類なのかもしれません。

 彼は、夜はゆっくり眠っていることでしょう。恐らく、良心の呵責も後悔も自責の念も全くないことでしょう。むしろ、正義の使者として自分の行為に正当性があり、アレキサンドロス大王やナポレオンと並ぶ英雄だと思っていることでしょう。80%のロシア国民の支持を得ていますから。

 それこそ、ハラリ氏が思い描くような「超人」の考え方があります。知性や記憶等の分野はアルゴリズムやAIに負けても、人間には、「最後の砦」として情念や意識や感情が残っています。しかし、変わった超人類ともなると、そんな情念や同情やら、惻隠の情やら、憐憫の情やら…難しい言葉を使いましたが、要するに他人に対して、気の毒だとか、可哀想だ、などと思う気持ちが欠けているというか、超越してしまっているのでしょう。

 プーチンは、強姦されたり、後ろ手に縛られて拷問されたりして虐殺されたウクライナ首都キーウ近郊のブチャの市民を気の毒だとか可哀想だとか思わないのでしょう。もし、そう思うのだとしたら、即座に戦争をやめるはずです。むしろ、虐殺したロシア軍兵士の勇気を讃えて勲章を授与し、夜は満足そうに寝入ることでしょう。プーチンとは、憐憫の情などの思考回路がなくなった21世紀最先端の人類だとみなせば、この訳の分からない戦争の本質を理解できます。(「虐殺はなかった。フェイクニュースだ」と嘘を付き続けるラブロフ外相やロシアのネベンジャ国連大使らも同罪で同様の思考回路なのでしょう。)

 独裁者としては、人間的感情などというものは無駄で邪魔なのでしょう。そう言えば、プーチンはスマホは持たない、という未確認情報があります。彼は、KGBで鍛えられて人間を信用せず、データも信じない、まさに最先端の超人ということになりますね。

 毎分毎秒、ニュースやメールをチェックしたり、アプリを更新したりして、「スマホ奴隷」(私の造語)になりさがった旧人類の私とはえらい違いです。

SFが現実を追い越した?=ハラリ著「サピエンス全史」と「ホモ・デウス」

 遅ればせながら、ユヴァル・ノア・ハラリ著で、2016年初版の「サピエンス全史」上下巻と2018年初版の「ホモ・デウス」上下巻(ともに柴田裕之訳、河出書房新社)全4巻をやっと読破できました。1カ月ぐらい掛かったでしょうか。目下、10冊ぐらい並行して本を読んでいましたので、ハラリ本4冊を集中して読みましたが、それでも、これだけ時間が掛かりました。

 まずは圧倒されました。現生人類の必読書であることは確かです。私も、これまでの半世紀以上の読書遍歴の中で、5000冊以上の本は読んだと思いますが、その中のベスト10以内に入る書物でした。

 歴史書であるでしょうが、科学書としても、遺伝子工学書としても、経済学書としても、宗教書としても、哲学書としても、心理学書としても読めます。昔流行った言葉で言えば、多くの専門分野にまたがったinterdisciplinary(学際的)な本です。

 思考視野が広いので、他の書物が些末過ぎて、幼く見えてしまうほどです。

 「サピエンス全史」上下巻だけでなく、「ホモ・デウス」上下巻も併せて通読しなければ意味がない、といいますか、勿体ない、と言っておきます。この4冊で1100ページを超えますから、まず、私自身が一言で要約することは不可能です。「是非、読んでください」と薦めておきながら、中には「つまらなかった」と言う人もいるかもしれませんし、「人間は猿から進化したわけではない。神がつくりたもうたものだ」と怒り出す人もいるかもしれません。

 米国のピュー研究所が2019年10月から20年3月にかけて世界20カ国の18歳以上の成人を対象に実施した調査によると、進化論を支持する割合は、日本が88%、ドイツが81%、英国が73%なのに対して、約30%の宗教的原理主義者が占める米国では64%に留まっています(しかも、過半数を超えたのは最近のこと)。そのうち、リベラルな民主党支持者は、進化論支持派が83%だった一方、保守的な共和党支持者は34%だったといいます。つまり、共和党支持者の大半は、いまだにダーウィンの進化論を信じていないということになります。

MImoza

 今から約600万年前にチンパンジーから分かれ、サルの一種である取るに足りない、か弱い霊長類だったホモ・サピエンス(何と、「賢いヒト」という意味)が、今から7万年前に、長い進化の末の突然変異で認知革命を起こして、東アフリカのサバンナ地帯から舟をつくったりして、世界中に飛び散ります。日本列島にホモ・サピエンスである現生人類が到達したのは今から3万5000年前に過ぎません。恐竜時代は、今から約2億3000万年前~6600万年前に繁栄しました。日本列島が地殻変動でユーラシア大陸から離れて独立したのは2000万年前のことですから、つい最近のことです(笑)。

 今から約1万1000年前に中東で農業革命が起き、約5000年前には書字と貨幣が生まれ、エジプトや中国などで巨大な権力が集中した王国や皇帝国が出来ます。そして、1492年ごろから科学革命が起き、18世紀からの産業革命を経て、神中心の世界から、人間至上主義に移行していきますが、その近代社会は現在まで続いているというのが「サピエンス全史」までの話。「ホモ・デウス(神の意味)」では、不死と至福と神のような力の獲得を目指して、ホモ・サピエンスである現生人類は明らかに「超人」を目指していきます。その一方、その流れに出遅れた者たちは「無用者階級」として取り残され、搾取されるか、滅亡していくのではないか、といった趣旨の話が展開されていきます。

王子・飛鳥山

 超人誕生というのは、そうなることが確実ではなく、また、予言でもなく、歴史から学んだ「可能性」の一つだとハラリ氏は言うので、私としては余計に信用したくなります。何故、そういうことが起き得るのか? 著者は「ホモ・デウス」の中で事細かく説明しています。

 例えば、第一次世界大戦で手足を失ったり負傷した元兵士のために始まった整形外科が、今では健康で五体満足なのに、見た目を良くするための施術として進歩している。ベートーヴェンの交響曲、リストの超技巧ピアノ演奏…人類のほんの一部の大天才しかなし得なかった作曲や演奏が、今やいとも安易に出来て、人を感動させ、涙を流させるような名曲をコンピューターが作曲してしまう。(涙を流した聴衆は、それがコンピューターが作ったものだと種明かしされると、猛烈に怒り出す!)

 今や、チェスの世界チャンピオンも、将棋も囲碁もコンピューターの「知性」に敵わない。それどころか、AI(人工知能)は、運転手なしでバスやタクシーを自動運転したり、好みの服や書籍まで、過去のアルゴリズム(問題を解く処理手順)と照り合わせて、ネット通販のアマゾンなどは私たちに「こんなのいかがですか?」と選んだりしてくれる。

 生物学者たちは、人間とはアルゴリズムに過ぎないとまで言い出して来たのです。(そうそう、クローンや遺伝子組み換え食品は、今後どこまで突き進んでいってしまうのでしょうか?)

 著者は、現代は、人間至上主義からデータ至上主義に移行した時代ではないかといいます。「データ主義者たちは言う。もはや人間は厖大なデータの流れに対処できず、そのためデータを洗練して情報にすることができない。ましてや知識や知恵にすることなど望むべくもない。従って、データ処理という作業は電子工学的なアルゴリズムに任せるべきだ。このアルゴリズムの処理能力は、人間の脳の処理能力より遥かに優れているのだから。」(下巻210ページ)

 つまり、現代という世界は、グーグル、アマゾン、フェイスブック、アップルといった、データ処理が得意な巨大IT企業GAFAなどが仕切って、支配しているというわけです。そう言われてみれば、我々は、タダで自分たちの個人情報と位置情報をGAFAにせっせと提供して、その代わりに、政党選びや、意思決定権や、趣味趣向の選択権まで彼らに委ねられ(ということは奪われ)、AIやアルゴリズムの奴隷と化してしまっているわけです。

 その事実を本人たちが全く気が付いていないというところが、背筋が凍るほど恐ろしい現実です。

築地「新喜楽」、かつての大隈重信邸

 「最後の砦」として人間に残されたものは、コンピューターやAIなどが持ち得ようがない意識や情動や感情になりますが、それらも、疑ってみれば、アルゴリズムに支配されかねません。

 そう言えば、私の会社の社内では、若い人を見ても、中年、壮年を見ても、ロクに挨拶も出来ず、他人との接触を極力避け、無感動で無表情な人間が確かにかなり増えてきたことを感じます。以前、「草食系男子」だの「恋愛で傷つきたくない」などといった若者の現象が流行語になったりしましたが、それらの次元を遥かに超えています。最初から話をしようとせず、関わろうとしないのです。それでいて、仕事をしていますから、彼らは人間ではなく、まるで情動のないコンピューターのように見えます。(実際、定型パターンが決まっている新聞の株式記事や運動記事などはAIが書き始めました。)

 富裕層たちは超人を目指して、今や最大の関心事の一つが不老不死のアンチエイジングです。それらに効果的といわれる、10日分で約3万円もする大変高価なNMN(ニコチンアミド・モノ・ヌクレオチド)の錠剤が、日本でも飛ぶように売れているといいます。

 こうなっては、今から6年前の2016年に「ホモ・デウス」の中で唱えたハラリ氏のデータ至上主義説は、もはや夢物語でもSFでもなく、現実に進行していると思わざるを得なくなります。

 

お前のブログは鼻につく=そして、落とし物の話

 ここ数日、ブログ更新が滞ったのは、旧い友人からのメールがきっかけでした。「貴兄のブログは見ないようにしている。なぜなら…」というものでした。

 本人の趣旨から少し外れるかもしれませんが、私なりに斟酌するところによれば、お前のブログの内容は衒学的(ペダンチック)過ぎて鼻につく。そして、自己顕示欲か人から称賛されたいという期待が記事投稿の動機と伺われるようになるとしたら、読者としては我儘な幼児の面倒を見ているような気分になるからーといったものでした。

 旧い友人からの指摘だけに、まあ、図星ですね。少し買い被りのところがありますが、抗弁すらできません。だから、いつぞや「ブログを書いて、世間に公表することについて、浅ましさを感じる」と正直に吐露したことがありました。

 でも、一応、このブログは独立採算制で、広告収入で取材費を賄おうとしており、「個人事業主」として税務署に確定申告までしております。執筆に1日、5時間以上も掛かることがあります。とても生活費どころか取材費になるほどの収益は全くありませんが、それでも、この17年間、雨の日も風の日も、他人(とは言っても、当時近しかった人たち。本当の他人なら痛くも痒くもない)からの批判に耐えつつ書き続けて来たことだけには自負があります。

 人が時間と、ない知恵を絞って一生懸命にやっていることを全否定されてしまっては、立つ瀬がない、と旧友には応えておきたいのですが、彼はもうこのブログは見ない、ということですから、もう全く通じないことでしょうね。残念ですが。

 何となく、近しい故郷の親族や親友たちには受け入れられなかった歴史上の人物になったような気分です。

 たかが、ブログです。執筆している本人としては、単に「へー、そうだったのかあ」と一緒に喜んでもらえるだけで満足なのです。まあ、見たくない人は、無理して見なくて結構ですよ。

さて、昨日、駅の近くで、定期券付きのスイカカード(JR東日本)が落ちていたので、駅に届けに行って来ました。その定期券は既に期限が切れていましたが、もしかして、カードはチャージして使っているかもしれません。カタカナの姓名と年齢まで書いてありました。

 最初は交番に届けようかと思いましたが、色々名前を聞かれたり、紙に書かされたりするのが面倒だったので、駅にしました。案の定、こちらの名前も何も一切聞かれず、むしろ、届けるのが当たり前のような感じで若い駅員はスイカカードを受け取るだけでした。

 そう言えば、思い出したのですが、このカードはどうやって駅員は落とし主に届けるのかなあ、ということです。昔だったら、駅には必ず「黒板」があって、そこに「落とし物のお知らせ」欄があり、手袋だの、定期券だのが書いてありました。定期券だと、カタカナで姓名が書いていたことも覚えています。若い人は、何のことかさっぱり分からないでしょうけどね(笑)。

 でも、今の若い人たちは、どうやって、落とし物を探すんでしょうか?やはり、交番に行ったり、駅に問い合わせたりするんでしょうか。以前、業界のある先輩が、インターネットやSNSのことを「所詮、便所の落書きか、駅の黒板みたいなものだ」と指摘していたことがありますが、そう言えば、見事に今や便所の落書きも駅の黒板も見かけなくなりました。

 となると、ネットでも落とし物を確認できるようになって、無事に落とし主に届くことを願うばかりです。

【追記】

 今、検索してみたら、ネットで(例えば)JR東日本の「お忘れ物のご案内」のホームページがありました!やはり、携帯電話やカバンなどの忘れ物が多いようです。

 心当たりのある方は是非ともアクセスしてみてください。