源平の位階はもともと六位の下級だった、と男系の跡目争い=山城の起源とオランダ語通詞

「歴史人」2月号(ABCアーク)「鎌倉殿と北条義時の真実」特集をやっと読了しました。2週間以上かかったでしょうか。でも、お蔭様で、NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に登場する13人の御家人の名前と経歴、それに時代背景を覚えてしまいました。こんなに賢くなってどうするの?といった感じです(笑)。

 「便乗商法」というより、「便乗学法」ですね。大河ドラマがなければ、これほど北条義時に関心を持つことはなかったでしょう。1月21日付の渓流斎ブログ「承久の乱は、その後800年続く武家政権の革命なのでは?」でも書きましたが、北条義時は800年の武家政権の礎を築いた人であり(私の説)、日本史上では「逆賊」のイメージを払拭して、その功績をもっと見直されなければいけいないと思いました。

 そして、今は「歴史道」19号(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)を読んでいます。同じ鎌倉幕府を扱いながら、切り口が全く違うので、この本からも新たな知識が吹きこまれます。

 特に驚いたのは、源氏も平家も、位階はもともと六位という極めて低い下級職だったという事実です。警護や軍事を担当し、貴族の周辺に「さぶろふ」から侍と言われたり、武士と言われたりしましたが、「清和源氏」「桓武平氏」と言われるように、本来の始祖は天皇の子息でしたから、もっと位階は高いと思っていました。五位以上が貴族です。位階については、渓流斎ブログ2021年12月15日付「『従三位』と『正六位』の違いは何か?=位階(叙位)について考える」を再読されて思い出してほしいものです。21世紀の現在も叙位叙勲が続けられていますが、六位とは、小中学校の校長先生らに授与される位階です。

 それが、地方で反乱(天慶の乱、前九年の役、後三年の役など)があると、彼らは鎮守府将軍などに任命され、戦功があると、恩賞で四位まで昇任されたりしました。

 その後の出世頭は何と言っても平清盛です。保元・平治の乱を制した清盛は永暦元年(1160年)、三位の参議となり武士として初めて公卿となります。そしてその7年後はついに太政大臣という公卿のトップに立ち、一位を獲得するのです。(織田信長は正二位・右大臣、豊臣秀吉は従一位・関白太政大臣、徳川家康は従一位・征夷大将軍・太政大臣でした)

 平安末期の院政時代、もしくは武家の台頭から中世が開始したという説が有力ですが、それ以前の古代は、天皇の外戚を利用して権力を握った葛城氏、蘇我氏、藤原氏などのように、「女系」が為政者でした。それが、中世になって武家が政権を握ると、一転して「男系」となります。そのため、親と子や兄と弟、伯父(叔父)と甥との間で、跡目争いという血生臭い権力闘争が起きる、といったことが書かれていましたが、妙に納得してしまいました。

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 話は変わりますが、山城の元祖は、鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ一人、楠木正成の千早・赤坂城だという説があります。何で、不便な高い山に城なんかを築かなければならなかったのかという理由は、鎌倉幕府の坂東武者が騎馬による攻撃を得意としていたためです。馬が登って来られないように、わざわざ山城を築いたというのです。

 承久の乱から100年余。鎌倉幕府の滅亡は、元寇による疲弊で、恩賞ももらえなかった御家人たちの不満が高まったことが理由に挙げられますが、このように鎌倉幕府が戦力的にも戦略的にも時代遅れになったこともあったのでしょうね。

三菱食品!?ローソンは三菱グループでした! 何で本文と全く関係ない写真なんだ!関係ある写真は著作権の関係で使いないためです。

 もう一つ、備忘録として書き残したいことがあります。NHKの「歴史探偵」という番組の中で、長崎のオランダ語通詞(通訳)の話が出てきましたが、彼らは当時の最先端の科学者でもあって、「引力」「遠心力」「分子」「動力」「弾力」「物質」「加速」「真空」「楕円」「惑星」「鎖国」などの翻訳語を考え、生み出した人たちだったというのです。

 これには吃驚。てっきり、福沢諭吉か西周か柳河春三か中江兆民ら幕末の語学の天才が考えたものだと思っていました。

 恐らく、恐らくですが、これら、科学用語も、「経済」「自由」などと同じように、本家本元の中国でも逆輸入されたと思われます。

 

心温まらない泣けるお話=浅井商店物語

Copyright par Shoko Hiraoka

  自宅近くに浅井商店(仮名)という、ゆうに80歳の坂は越えていると思われる老夫婦が営む、どう見ても、小奇麗とは言えない雑然と商品が並べられている、家屋も傾いたお店が住宅街の中に一軒あります。

 商品は、主に子どもの駄菓子ですが、「駄菓子屋さん」とは言い切れず、クリーニングの代理店を請け負ったり、郵便切手・葉書などもあり、雑然と並べられた物の上に置かれた古い汚い新聞紙をどければ、缶詰やラーメンやボンカレーなども見つかりそうなので、昔の田舎なら何処にでもあった「何でも屋さん」「萬屋さん」といった感じです。今は、コンビニに取って代わられ絶滅危惧種と言ってもいいでしょう。

 この店の前を通ることはあまりないのですが、週末に、散歩で通りがかったします。でも、決まってお客さんは一人もいなく、「この店、大丈夫かな」と不安になったりします。とはいえ、私としては、買うものがないので仕方ありません。

 年末になると、自宅近くの複数の電柱に、ミミズが走ったような汚い手書きの字で「年賀状あります。浅井商店」と書かれた紙が貼ってあることがあり、店の健在ぶりを確認します。が、私は、年賀葉書は、裏が干支のイラストで印刷されたものをまとめて都心で買ってしまうので、この店では買わず申し訳ない気持ちになります。汚いミミズの字を見る度に「頑張ってるのになあ…」と涙が出てきてしまいます。

 しかも、ここ1年は、店内外で、温厚そうな旦那さんの姿が見えず、もしかして、自宅療養されているのか、他界されたのかもしれません。

平岡尚子写真展「matters」(東京・エプソンスクエア丸の内)2022年1月7日(金)~1月19日(水) Copyright par Shoko Hiraoka

 そんな中、やっと浅井商店で買うものが見つかりました。往復葉書です。2月に都内で開催されるドナルド・キーンさんの御子息らの講演会(抽選70人)の申し込みが、往復葉書による応募になっていたからです。「そうか。週末に浅井商店へ往復葉書を買いに行こう」と、ある企みで出掛けて行ったのです。

 ある企みとは、細かいお金がなかったので釣銭を受け取らないことにしたのです。126円の往復葉書わずか1枚しか買わないので、大した儲けにならないはずです。1000円札や1万円札ではちょっと向こうも気が引けると思い、200円を渡し、「お釣りは結構ですからね」と言ってお店を出たのです。「いやいや、駄目ですよ、駄目ですよお」という奥さんの声を振り切って。

平岡尚子写真展「matters」(東京・エプソンスクエア丸の内)2022年1月7日(金)~1月19日(水) Copyright par Shoko Hiraoka

 そしたら、「お客さん、お客さん」と彼女としては精一杯の大声を出しながら、そして、彼女としては全速力で私を追い掛けてきたのです。ぜいぜい息を吸ったり、吐いたりしながら、彼女の皺くちゃの手には10円玉7枚と1円玉4枚がしっかり握られていました。よく彼女の顔を見ると、80歳どころか、90歳を越えているようにも思え、何だか申し訳ないことをしてしまった気がしました。

 小商いとはいえ、彼女には、商人として長年やってきた矜持があり、誠実さと正直さと律儀さに満ち溢れていたのです。しかも、「私は、1円だろうが、間違いや誤魔化しは絶対にしたくありませんからね」とでも言いたげな、半ば憤っているような感じさえ受けたのです。

 私は、「この程度のことなら大丈夫だろう」と、良かれと思ってやったのですが、さすがにこの時は、自分の行為を恥じてしまい、帰り道は感極まって涙が出て来ました。

 小商いの老夫婦のことなど歴史として語られることはないでしょうが、このような誠実で真面目な庶民こそが歴史をつくっていると言ってもいいはずです。有名な戦国大名とか明治の元勲だけが歴史をつくっているという考えは大間違いです。

承久の乱は、その後800年続く武家政権の革命なのでは?

 「歴史人」2月号「鎌倉殿と北条義時の真実」特集を読んでいますと、新発見と言いますか、「えっ?そんな風に歴史的解釈が変わってしまったの?!」と驚くことばかりです。

 まず、私の世代は、鎌倉幕府の成立が1192年(建久3年)、と初めて小学生時代に習い、「いい国つくろう、鎌倉幕府」と覚えたものでした。それが、今では1185年(文治元年)説が有力となり、学校では「鎌倉幕府成立は1185年」と教えているそうなのです。

 1192年は源頼朝が征夷大将軍に任命された年で、1185年は守護・地頭が設置された年ということで、頼朝政権はこれによって幕府としての経済的基盤を確立したことになり、こっちの方が良いのではないか、となったらしいのです。

 「頼朝政権が 経済的基盤を確立した 」とは言っても、実際には東国のみで、西国は後白河法皇か、法皇の息のかかった公卿や武士が支配していて、「鎌倉・京都連立政権」というのが実体だったといいます。(一時期は、木曽義仲の支配領域もあり、「三頭政治」が実体だった。)

鎌倉五山第三位 寿福寺

 もう一つ、驚いたのは、その設置された守護・地頭のことですが、当然、大名になるぐらいですから守護の方が断然、格段に地頭より上だと思っていたのですが、守護とは名誉職みたいなもので、収入がゼロだったというのです。領地から収益を得られるのは地頭であって、守護は地頭職を兼ねて初めて収入を得ることができたというのです。…知りませんでしたね。

 そして、ハイライトとなるのは「承久の乱」です。今から800年前の承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の北条義時討伐の兵を挙げ、逆に幕府に鎮圧された事件です。私の世代は「承久の変」と習い、そう覚えていましたが、今は「乱」の方が一般的になったようです。でも、良く調べると、これは「乱」どころではない。「革命」に近いのではないか、これからは「承久革命」と呼んでもいいのではないか、と私自身は考えるようになりました。

鎌倉五山第四位 浄智寺

 乱後、後鳥羽院は隠岐、順徳院は佐渡、土御門院は土佐と三上皇が配流され、朝廷方の所領は没収されて坂東武士たちに報償として与えられました(これで鎌倉政権の全国統一)。また、朝廷監視のため六波羅探題が置かれ、皇位継承まで鎌倉の意向で決定され、伊豆の小さな土豪に過ぎなかった北条氏の絶対的権威が確立されます。ということは、身分の低い土豪出身の北条氏が朝廷(ヤマト王権=天皇家)から政権を簒奪したわけですから、これを革命と言わずに何と言おう?

 しかも、この承久革命によって、その後、室町、戦国、安土桃山、江戸と、天皇家は事実上、政治から遠ざけられ、武家政権が800年近く続くわけですから…。えっ?800年は長過ぎる? いえいえ、富国強兵の明治からアジア太平洋戦争で惨敗する昭和20年までも、「武家政権」は続いていたと解釈できるのではないでしょうか。何しろ、首相の東条英機は軍人(武官)であり、陸軍大臣も兼ねていましたから、そう考えれば、実質「武家政権」ですよ。

 となると、承久の乱は、日本史上、これまで以上、重要性がある画期的な出来事であることをもっと強調するべきではないでしょうか。

鎌倉五山第一位 建長寺 山門

 これまで、承久の乱といえば、二代執権北条義時が権力奪取のため、一方的に悪行を成した「逆賊」のイメージが強かったのですが、後鳥羽上皇が、自分が寵愛する伊賀局こと亀菊に与えた「摂津国長江と倉橋の両荘園の地頭職を改補(解任)せよ」と院宣したのが、両者の亀裂のきっかけになりました。両荘園の地頭とは北条義時その人だったからです。鎌倉幕府の経済的基盤が侵されたことになります。

 しかも、後鳥羽院は、暗殺された三代将軍源実朝の後継者(四代将軍)として、自分の子息である頼仁(よりひと)親王か、もしくは雅成(まさなり)親王を立てることを口約束しながら、結局反故にしてしまいます。

 明らかに権力闘争であり、これでは義時の気持ちも分からないではありません。頼朝の未亡人で義時の姉である「尼将軍」こと北条政子の有名な「演説」で、坂東武士たちは立ち上がり、鎌倉方の圧勝に終わりますが、これは、まさに東西分かれて互いに死力を尽くした「内戦」と言っても間違いないでしょう。鎌倉方の東軍(幕府軍)の代表は、北条時房(義時の実弟)と泰時(義時嫡男で後の三代執権)、後鳥羽院方の西軍(官軍)の代表は藤原秀康と三浦胤義(鎌倉の有力御家人三浦義村の実弟)ですが、正直、私自身は不勉強で、両軍のその他大勢の武将たちの名前はこの本で初めて認識しました。乱後、上皇らは島流しに遭っても、西軍の武将たちはことごとく捕縛・処刑され、京中は略奪の嵐で、上皇方の宿舎は放火され、人馬の屍体で道が塞がったといいます。

 やはり、革命ですね。

 確かに、800年も昔に起きた過去の出来事と言って済ませばそれまでですが、承久の乱が後世に残した影響は驚くほど大きいので、現代人としても知っておくべきことが多々あります。

【追記】

・「吾妻鏡」によると、北条義時(1163~1224年、行年61歳)は「攪乱」のため急死しますが、詳細が書かれていない。後妻の伊賀の方が自分の息子の政村を次期執権にしたいがために、毒殺したのではないかという説があります。伊賀の方の兄伊賀光宗は政所執事(長官)、娘婿の一条実雅は、時の将軍九条頼経の親戚、また政村の乳母親は、有力御家人の三浦義村だったので、彼らが結束すれば、泰時を倒して執権の座を獲得することは不可能ではなかった。

・三代執権北条泰時が制定した「御成敗式目」。初めて口語ながら読みましたが、第12条に「争いの元である悪口は禁止。重大な悪口は流罪、軽いものでも入牢。」とあり、感心してしまいました。

地の底に堕ちたマスコミ=朝日新聞も知らない警察官

 朝日新聞の本日19日付朝刊の政治コラム「多事奏論」で、斯界では有名な高橋純子編集委員が、正月早々、自分が運転していた車が商業施設のパーキングで駐車中の車のバンパーに「軽く」ぶつけてしまい、念のため、警察を呼んだ逸話を書いております。

 駆け付けて来た20歳そこそこのお巡りさんから、名前、職業、そして勤務先を聴かれ、「朝日新聞です」と答えると、そのお巡さんから「あさひは、平仮名ですか、カタカナですか?」と聞かれた上、漢字なら「旭日のあさひ、じゃなくてですか?」と確かめられたといいます。

 高橋編集委員は「ひと昔前は朝日新聞と告げると、良くも悪くも警戒されたものだけど、ね」と皮肉ってますけど、私は椅子からズッコケ落ちるほど驚愕しましたね。

 若い人は新聞を読まなくなったと言われて長いですが、警察官まで読まなくなったとは衝撃以外他に何ものでもありません。時事通信を知らないのは分かりますが、朝日新聞を知らないとは!!

銀座「いわた」 銀座にしてはお手頃

 高橋編集委員の「ひと昔前」をお借りすると、私の経験では、その「ひと昔前」ですが、朝日新聞の人から「朝日の記事にならないニュースはニュースではない」とまで豪語されたことがあります。1993年のことですから、30年近い昔のまだインターネットが普及していない牧歌的時代です。その朝日新聞の人は傲慢さが脳と皮膚に染みついていたのでしょう。

 当時の朝日新聞の夕刊で、園山俊二さんの「ペエスケ」という四コマ漫画が連載されていました。1993年1月20日のことですが、その園山俊二さんが57歳で急逝されたということで、私は、仕事として彼の訃報を書かなくてはならなくなりました。いつ、どこで、何の病気で亡くなり、業績はどうのこうの、といったあれです。

 そこで、園山さんの御自宅に電話すると、奥様らしい方が出てきて、「その件に関しまして情報は、全て朝日新聞にお任せしているので、朝日新聞に聞いてもらえないでしょうか」と丁重なお言葉があったので、私は朝日新聞の代表電話にかけて、担当者につないでもらいました。

 こちらの会社名と名前と、趣旨を説明すると、その担当者は「あ、その件は、(朝日新聞の)夕刊に出ますからそれを見てください」と言い放ったのです。私は、怒りで一瞬、頭が真っ白になりました。その夕刊の時間帯に間に合わせたいから、こうして、取材しているのではないか! 遺族の方も「窓口」を朝日新聞に指定されたので、電話しているだけじゃないか!

 しかし、相手はけんもほろろでした。あくまでも、夕刊を見てくれ、と主張し、ウチが載せない記事はニュースに価しない、とまで傲慢ぶりをかましてきたのです。

 その後、どうなったのか、御想像にお任せします(笑)。

銀座「ライオン」グリル

 それより、何と言っても、私が言いたいのは、時代の趨勢で、マスコミを代表する天下の朝日新聞が、今では警察官にさえ知られていない、吹けば飛ぶような存在に堕ちてしまったことです。ネット時代となり、ニュースは、どこの誰なのか得たいの知れない人間まで発信していますから、氾濫しています。若い人たちは、ニュース源がどこだろうと、どうでも良いのでしょう。

 (本当にどうでも良いのですが、最近の新聞やテレビは「SNSで話題」なんていう安易な話題づくりは止めてもらいたいものだ!)

 気になったのは、先ほどの30年近い昔の朝日新聞の傲慢な中年か初老の記者です。今はもう御存命ではないかもしれませんけど、この高橋編集委員のコラムを読んだら、口から泡が出て卒倒することでしょう。

 確かめたいので、その傲岸不遜紳士さんには是非ともこちらに連絡してもらいたいものです。

また輸入米に頼るのか?五輪後不況はやって来るのか?

 南太平洋のトンガ諸島で15日に起きた大規模な火山噴火は、通信が遮断されたため、被害状況が断続的にしか入って来ませんが、8万人の方々が被災したと言われています。お見舞い申し上げます。この噴火で、予想外にも日本にも津波が押し寄せ、南米チリなどにも同じように津波が襲来したということですから、グローバルな規模で影響が広がっています。

 この噴火で心配されるのは、噴煙が成層圏にまで到達してしまったため、太陽が遮られ、夏は冷害となって作物が育たなくなるのではないか、という懸念です。

銀座・昭和通り

 これで思い出すのが、1991年6月、フィリピン・ルソン島のピナトゥボ火山の大噴火です。やはり、噴煙が成層圏に達し、数年に渡って滞留し日射量が減少して、世界各地で異常気象が発生しました。1993年の日本の記録的な冷夏もこの噴火が一因とされ、米の不作で、タイなどからの輸出米に頼らざるを得なくなり、大騒ぎになったことをよく覚えています。

 歴史の教訓から学べば、来年辺り、我が国でも冷害が押し寄せ不作になるかもしれません。同時に「穀物地帯」でもある南米や豪州などが不作になれば、食料自給率が37%(2020年度)と極端に低く、穀物は輸入に頼っている日本は大きな痛手を蒙ることでしょう。

 輸入に頼る家畜の飼料が高騰すれば、物価にも響きます。

◇ 「昭和40年不況」

 歴史の教訓として、もう一つ忘れてはいけないことは、1964年の東京五輪閉会後の大不況です。「昭和40年不況」とも「証券不況」とも言われています。64年にサンウェーブと日本特殊鋼(現大同特殊鋼)、65年には山陽特殊製鋼が倒産し、山一證券の取り付け騒ぎなどがありました。私は子どもの頃でしたが、「サンウエーブの流し台 ♫♩」とラジオで盛んにコマーシャルを流していて、よく知っていたので、倒産のニュースには驚いたことをよく覚えています。

 オリンピックの後に不景気が襲ってくるのは、1976年のモントリオール五輪がよく知られ、大学生だった私もよく覚えています。当時「世界初」と謳われた開閉式屋根の巨大競技場の建設費が予算の6倍に跳ね上がり、五輪全体の赤字は約10億ドル(現在の約1兆円)に膨張し、返済するのに税金で30年も掛かったと言われています。当然、モントリオール市民は、窮屈で暗鬱な生活を強いられたわけです。

銀座「高級芋菓子しみず」

 さて、今回の2021年コロナ禍強行開催の東京五輪後はどうなることでしょうか?「今年は寅年、株式投資のチャンスです!」と踊らされている人も大勢いますが、大丈夫なんでしょうか? 歴史の教訓に学べば、今年は不況の年になることになります。でも、歴史は占いや予言ではないので、必ずそうなるという確証はありません。それに、この3年は、新型コロナ禍で、まさに前代未聞の出来事ばかりありました。歴史の教訓に学ぶとすれば、世界で約1億人の死者を出したと言われる100年前のスペイン風邪(1918~1920年)の影響も加味しなければならないことでしょう。

 私は予言者ではありませんが、これら歴史の教訓から推測すれば、新型コロナウイルスは3年目ということで、今年辺りに収束(終息ではない)するのではないかと思っています。日経平均は2万5000円に暴落するのではなく、3万2000円近く上昇し、乱高下して2万9000円ぐらいで「大納会」を迎えるのではないかと想像し、大手企業の倒産もあるのではないかと危惧しています。

 私の予想が外れることを願っていますし、当たるわけないとも思っています。自分の予想に自信があれば、とっくに経済評論家にでもなっていますよ(笑)。

比企氏一族滅亡で生き延びた比企能本とその子孫の女優=「鎌倉殿の13人」

 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」(三谷幸喜脚本)が1月9日にスタートし、初回の視聴率が17.3%(関東)で、「そんなに低いのか」と思っていたら、16日の2回目は14.7%と2.6ポイントもダウン。最近、「見逃し配信」で見る人も多いので、視聴率に反映されませんが、2回目で視聴率が下がるのは6作連続らしいですね。1987年の「独眼竜政宗」(主演渡辺謙)が記録した最高視聴率39.7%は、夢のまた夢で、もう実現することはないかもしれません。

  「鎌倉殿の13人」 は、二代執権北条義時(小栗旬)が主人公で、鎌倉幕府を開いた源頼朝を支え、頼朝の死後は、承久の乱で、約650年続く武家政権の礎を築いた武将の物語ですが、何となく通好みのような気がします。何しろ、戦前は、義時は承久の乱で後鳥羽上皇を隠岐に配流するなどしたため、「逆賊」「悪党」扱いでしたから、とても小説や舞台の主人公になりえませんでした。

 時代は変わるもので、最近の歴史研究では、当初は、朝廷に対して弓をひくことなど考えもしなかった義時で、むしろ、無理難題を押し付けて挑発した後鳥羽上皇側の方に無理があったという学説に傾いているようです。つまり、義時の評価が見直されたわけです。

 いずれにせよ、私自身、北条氏といえば、まずは「尼将軍」政子であり、あとは初代執権の時政か、御成敗式目を制定した三代泰時か、元寇を退けた八代時宗ぐらいがキーパースンだと思っていましたから、義時についてはあまりよく知りませんでした。でも、私は真面目ですから(笑)、ここ数年は鎌倉にまで出掛けて義時所縁の寺社仏閣巡りをしたり、関連本を読んだりして勉強しました。

 そして、今月は、大河ドラマに便乗した「歴史人」(「鎌倉殿と北条義時の真実」特集)(ABCアーク)と「歴史道」(「源平の争乱と鎌倉幕府の真実」特集)(朝日新聞出版)の2冊も宣伝に乗せられて買ってしまいました。

 今は「歴史人」の方を読んでいるのですが、非常にマニアックで、正直、読むのに難儀しています。なかなか頭に入ってくれません。

 大学入試の「日本史」で、「頼朝の死後、『13人合議制』になったが、その有力御家人13人を全て書け」という問題が出たら、全員は書けませんね(苦笑)。

 しかしながら、この13人の曲者同士が仲良く末永く穏便に暮らせるわけがなく、凄まじい、血なまぐさい権力闘争が繰り広げられます。最終的には、父親である初代執権の北条時政を追放した義時が最高権力者の座(二代執権)に就くことになるのですが、その間、例えば、頼朝の「右腕」として鎌倉幕府成立に粉骨砕身した梶原景時は、御家人66人からの連名で「糾弾訴状」を突き付けられて失脚します。景時は、目付役として義経を貶めた人物とされ、御家人の監視役として恨みを買ったと言われます。一方で実務に長けた優秀な人材だったという説もあり、権力闘争に巻き込まれた形で、嫡男景季から九男景連らを含む梶原一族33人は殲滅され、路上で首を晒されたといいます。怖ろしい。

 他に、殲滅された有力御家人の中には和田義盛や畠山重忠(居城は埼玉県武蔵嵐山市の「菅谷館」)らもおりますが、本日は比企能員(ひき・よしかず)を取り上げます。

 比企能員は、源頼朝の乳母だった比企尼の甥で、その養子になった御家人で、源平合戦で鎌倉方の幕僚として活躍します。(比企氏が一帯を支配した武蔵国は、埼玉県比企郡として今も名を残しています。比企氏は大資産家でしたが、北条氏によって比企氏の事績や勲功が「吾妻鏡」から削除されたため不明な点が多いといいます)。比企能員の娘の若狭局が後の二代将軍頼家の妻となり、長子一幡(いちまん)を生んだことから、能員は二代将軍の義父、三代鎌倉殿候補(一幡)の外祖父として強大な権力を握ることになります。

 これに危機感を持った北条時政が、比企能員に謀反の疑いがあるという謀略を仕組み、時政の自邸に招いて部下の天野遠景、仁田忠常に殺害させ、息子の北条義時には、比企氏の館を襲撃させて、幼い一幡もろとも比企一族を殲滅します。時政は、比企氏の血が濃い一幡よりも、娘の政子が生んだ千幡(せんまん=頼家の弟で、一幡の叔父に当たる。後の三代将軍実朝)を将軍にしたかったためでした。(慈円「愚管抄」)

鎌倉・妙本寺

 この北条氏によって滅ぼされた比企一族の館跡には、妙本寺が建立され、私もお参りしたことがあります。この寺は、比企能員の末子で、事件当時は京都で勉学中だったため生き延びた比企能本(よしもと)が文応2年(1260年)に日蓮宗に帰依して建立したものです。

 境内には比企一族の供養塔もあります。当時の比企館の一部でしょうが、妙本寺は広大な敷地でした。鎌倉時代は想像した以上に血なまぐさい武力闘争が頻発していたことを改めて思い起こしました。

 1980年代の往年のアイドル歌手で、今も女優として活躍する比企理恵さんは、比企一族の末裔と言われ、御先祖を意識して、全国の寺社仏閣巡りを心掛けているという話を聞いたことがあります。

山道を歩きながら考えた。兎角、英語は難しい=袖川裕美著「放送通訳の現場からー難語はこうして突破する」

 渓流斎ブログの今年1月10日付「『失敗談』から生まれた英語の指南書=袖川裕美著『放送通訳の現場からー難語はこうして突破する』」の続きです。

 昨晩、やっと読破することが出来ました。読破とはいっても、寄る年波によって、前半に書かれたことをもう忘れています(苦笑)。最低、3回は読まないと身に着かないと思いました。かなり難易度が高い上級英語です。英語塾を経営されている中村治氏には是非お勧めしたいです。

 何しろ、同時通訳英語ですから、市販の辞書にまだ掲載されていない最新用語が出てきます。後で調べて、例文も探してやっと分かったというフレーズも沢山出てきます。著者の袖川さんがその場で自身で考えた「本邦初訳」があったことも書いております。

 前回にも書きましたが、この本では、袖川さんが訳に詰まったり、聞き違いして誤訳したりしたことも正直に書かれています。勿論、うまくいった話も沢山ありますが、私なんか読んでいて「とても出来ない仕事だなあ」と正直思いました。私は、米国人でも、南部のテキサスやフロリダの英語は聴き取れなかったし、本場英国のコックニ―はさらにチンプンカンプン。セミナーを取材した際、マレーシア人らの英語はお手上げでしたからね。同時通訳者全員、尊敬します。

 これまた、前回にも少し書きましたが、英語は中学生レベルの単語を並べただけでも、全く複雑な意味になり、英語ほど難しい外国語はないと私は思っています。今回も具体例を御紹介しましょう。

 Hindsight is twenty-twenty,

答えを先に言ってしまいますが、これで「後知恵は完璧」「後からなら何とでも言える」となります。ことわざですが、急に言われたら分かるわけありませんよね?袖川さんも正直に書いてますが、最初 twenty-twenty は2020年のこと?それとも、catch-22(板挟み)のことか?と一瞬頭によぎったそうです。でも、それでは意味が通じなくなるので、「沈黙」した(尺=時間制限=があるので飛ばした)ことも正直に告白しています。

  でも、catch-22が出てくる当たり、さすが袖川さんです。これは、1961年にジョセフ・ヘラーが発表した小説のタイトルで、第2次世界大戦の米兵の「板挟み」が描かれています。1970年にマイク・ニコルズ監督によって映画化されましたが、私も池袋の文芸座でこの映画を観て、中学生ながら、この単語の意味を覚えました。

 肝心の twenty-twentyというのは、20フィート離れた所から、サイズ20の文字が識別できる正常な視力のことで、「正しい判断」という意味でも使うとのこと。 Hindsight は「後知恵」「後から考えたこと」ですから、「後から考えれば正しい判断ができる」といったような意味になるわけです。

東京・新富町「東京ハヤシライス」ハヤシライス、サラダ付き1078円 旨い!

 この本では、in the room「部屋の中で」を使ったイディオムが二つ出てきました。elephant in the room とthe last person in the room です。 elephant in the room は「部屋にいる象」と私なんか聞こえてしまいます。これで、「見て見ぬふりをする」「触れてはいけない問題」となるそうです。象が部屋の中にいれば見えないわけがない。だから、見て見ぬふりをする?…うーん、分かるわけがない。本文に出てくる例文も、英国とEUとの通商交渉の話(BBC)で、Elephant is not in the room, but in the service, financial service.ですから、難易度が高過ぎる。

  the last person in the room は、「部屋にいる最後の人」ではなく、「その部屋で最も~しそうもない人」という否定的な意味だと高校時代から刷り込まれていた、と著者の袖川さんは言います。そしたら、バイデン米大統領が就任100日目を迎えるに当たって、ハリス副大統領がCNNのインタビューに応じた際に、同時通訳のブースに入った袖川さんは以下の発言を耳にします。

 I was the last person in the room when Biden made the decision to pull all the US troops out of Afghanistan.

えっ?もしかして、ハリス副大統領は、バイデン大統領の米軍アフガン撤退の決定に否定的だった?などと、私も思ってしまうところですが、袖川さんは、この発言で何を否定するのかよく分からなかったので、「最後まで大統領を支持しました」とお茶を濁したそうです。ただ、この場合、他の皆が反対したのに、自分は最後まで支えたことになり、これでは、他の人が反対したことが前提となり、実際はどうだったのか分かりません。政権内が一枚岩ではないことを暴露してしまうことにもなり、ハリス副大統領がそんな意図で発言したわけがないことを袖川さんは後で落ち着いて考えました。

 結局、他の例文なども確かめ、調べに調べた結果、 the last person in the room とは「最後に部屋に残って、意見を求められる、最も信頼される立場の人」のことで、一言で言うなら「重要な相談相手」ということが分かったといいます。

 うーん、これだから英語は難しい。同時通訳は「瞬間芸」ですから、聞き逃したり、聞き間違えたり、勘違いしたりすれば、全て後の祭りです。まさに、神業(かみわざ)と言っていいでしょうが、この本を読むと、ミスをしないため、常に事前準備と自己鍛錬と不断の努力と毎日、毎時、毎秒の勉強が欠かせないことがよく分かりました。

 最後に、私が全く分からなかったフレーズに、money note (見せ場、山場)=市販辞書にもネット辞書にも載っていなかった=やhot potato(熱々のポテト、というより、難問、難局、手に余る問題)などがありました。

 どうして、そんな意味に「豹変」するのか、皆さんもこの本を是非、手に取ってみてください。

銀座「木村屋総本店」と新富座と助六寿司

 本日もまたまた「銀座ランチ」のお話です。

 私にとって、銀座ランチの最高の贅沢は、銀座4丁目の木村屋總本店の3階レストランです。運が良ければ、窓際の席に案内してくれます。

 ここから「下界」を眺める景色は「絶景かな、絶景かな」です。まるで、天守から城下町を眺める大名(城主)になった気分です。

銀座「木村屋総本店」プレートBランチ+ドリンクセット 2480円

 木村屋は、明治2年(1869年)創業です。創業者は、木村安兵衛(1817~89年)という常陸国(現茨城県牛久市)の農家出身者で、婿入りした木村家の叔父を頼って江戸に出てきます。最初にパン屋を開業したのは今の新橋駅近くで「文英堂」という名前でしたが、火災で焼失してしまいます。安兵衛は52歳ですから、当時としては相当高齢での起業だったことになります。安兵衛は、再起を目指して、明治7年に銀座4丁目に「木村屋」の看板を掲げて、日本人の口に合う柔らかいパンを売り出します。明治天皇の侍従だった山岡鉄舟が当時「へそパン」と呼ばれていた木村屋のアンパンを天皇に献上したところ、大変なお気に入りになったことから評判となり、大繁盛となって現在に至るわけです。

 レストランは、いつも混んでいて並んでいますが、本当に運が良くて窓際の席を確保できれば、贅沢気分を味わうことができます。それに、何と言っても、色んな種類のパンが食べ放題というところが最高です。でも、銀座という場所柄、お値段がちょっと張ります。それは仕方ない(笑)。

東銀座「大海」大分とり天定食880円

 木村屋に行ったのは昨日ですが、本日は数年ぶりに新富町方面に足を延ばしてみました。

 このブログを書くためだけに、ひたすら、ランチは銀座か、築地方面を回っていたので、新富町は本当に久しぶりです。銀座だと1500円とか2000円のランチなんかザラですが、少し離れた新富町ともなると、800円台でも十分美味しいランチが食べられるのです。木村屋さんの3分の1です(笑)。

 新富町といえば、私的(わたくしてき)には、歌舞伎の新富座です。新富座は、万治3年(1660年)に木挽町(現銀座六丁目)に創建された森田座を引き継ぐ劇場でした。紆余曲折の末、明治5年(1872年)にこの地に移転してきました(座元は十二代守田勘弥)。その後、大正12年(1923年)の関東大震災で焼失してしまいます。

 今は、確か、税務署になっていたはずですが、見当たりません。

京橋税務署

 そしたら、驚きです。前の古いビルは壊されて、七階建ての超近代的なビルに変わっていたのです。しばらく行っていなかったので分からなかった。

 思わず、「税務署って、本当に儲かるんだなあ~」と心の中で叫んでしまいました(関係者の皆様には、とんだ失言で失礼仕りました!)

 以前は入り口の近くに設置されていた「新富座跡」の看板は、正面から左奥に直ぐに見つかりました。歴史のある旧跡ですからね。

 ただし、この京橋税務署の道路を挟んで真向かいに合ったはずのお寿司屋さんは、どうしても見つかりませんでした。あの市川團十郎の十八番の「助六寿司」の発祥地と言われる「蛇の目鮨」です。10年ぐらい前に何度か行ったことがありました。「コロナ禍で閉店したのかしら?」と、会社に帰って調べてみたら、京橋税務署の真向かいではなく、場所は、そこからワンブロック北に行った所で、元気に営業されているようでした。

 これまた失礼致しました。

 

嗚呼、岩波ホールと「演劇界」=大師号についても考える

 岩波ホール(東京・神保町)が今年7月で54年間の歴史の幕を閉じるというニュースに接しました。コロナの影響のようです。

 悲しいですね。ここでしか観られない芸術性の高い映画を上映してくれて、私もお世話になったものです。芸術性が高いとなると万人向けでなく、やはり採算を取るのが難しかったのでしょう。

 ここで観た思い出深い映画は、アンジェイ・ワイダ監督の「大理石の男」と「カティンの森」、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「山猫」、小栗康平監督の「眠る男」、羽田澄子監督の「嗚呼、満蒙開拓団」などでした。

  採算を取るのが難しい映画上映を続けて来られたのは、ホール総支配人の高野悦子(1923~2013年、83歳)の作品を選ぶ「目利き」の力が大きかったことでしょう。彼女は満洲(現中国東北部)帰国者で、父親の高野与作は南満州鉄道技師でした。 姉の淳子が岩波書店の岩波雄二郎社長の妻だったことから、東宝文芸部にいたこともある悦子が総支配人になったと思われます。

とにかく、良質な映画を観る機会が一つ減ってしまった感じがして本当に残念です。

  今朝の朝刊の同じ紙面で、歌舞伎専門誌「演劇界」(小学館)が3月3日発売の4月号で休刊するニュースも出ていました。同誌は、色々と版元が変わりましたが、明治40年(1907年)創刊の「演芸画報」が母体だったということで、これまた、歴史的な伝統が一つ消えたことになります。毎日新聞の小玉さんも悲しんでることでしょう。

 まあ、舞台芸術の最高峰である歌舞伎は、高嶺の花ですからね。(銀座の歌舞伎座の一等席は1万6000円)

 「時代の趨勢」と言ってしまっては、それまでですが、何か、日本文化の劣化と衰退が始まったような気がします。

鎌倉・建長寺(川崎大師はどうした!?)

 あまり暗い話ばかりでは何なんで、また与太郎話を一つ。お正月の初詣で有名な「川崎大師」を特集している番組を見ていたら、私自身、長年勘違いしていたことが発覚しました。

 川崎大師の「大師」は大抵、弘法大師が一番有名ですから、何んとか大師と付くお寺は全て空海弘法大師の真言宗の寺院だとばかり思っていました。川崎大師は平間寺ともいって、確かに真言宗智山派です。しかし、特に関東では有名な栃木県の「佐野厄除け大師」は、真言宗ではなく天台宗だったのです。それは、十八代目天台座主も務めた良源こと慈恵大師にちなんでいるからでした。

 良源は、元三大師(亡くなった日が1月3日=元三だったため)とも呼ばれています。天台座主として比叡山の焼失した御堂を再建したり、教団内の規律を高めたりした功績から「延暦寺中興の祖」とも言われています。他に「角(つの)大師」などの異名を持ちますが、良源本人も疫病に罹って高熱を出した経験があったため、鬼のような形相で疫病退治の祈りを民衆に施したことから、厄除け大師の効能が認められたとも言われています。良源をお祀りした寺院はほかに、埼玉県の川越大師(喜多院)も有名です。

 序ながら、「関東の厄除け三大師」は、真言宗の場合、川崎大師のほかに、東京都の「西新井大師」、千葉県香取市の「観福寺」の3寺を、天台宗の場合、先の佐野厄除け大師と川越大師のほかに群馬県前橋市の青柳大師(龍蔵寺)の3寺を指す場合が多いようです。

 ちなみに、「大師号」とは高僧が亡くなった後、朝廷から贈られる謚号で、浄土宗の宗祖法然は、「圓光大師」を始め、「東漸」「慧成」「弘覚」「慈教」「明照」「和順」、そして平成の天皇(現上皇)によって2011年に加諡宣下された「法爾大師」と実に八つも贈られています。

 どういうわけか、空海は弘法大師の一つだけですし、日本仏教の宗祖はほとんど大師号を贈られていますが(天台宗の最澄は伝教大師、浄土真宗の親鸞は見真大師、時宗の一遍は証誠大師、曹洞宗の道元は承陽大師、日蓮は立正大師など)、臨済宗開祖の栄西だけには大師号は贈られていません。

 理由は、不勉強のためよく分かりません。(関東ばかりで失礼致しました)

「失敗談」から生まれた英語の指南書=袖川裕美著「放送通訳の現場からー難語はこうして突破する」

 大学時代、語学専門だったのでクラスはわずか15人でしたが、そのうちの一人、袖川裕美(そでかわ・ひろみ)さんが昨年末に新刊を出版されたということで、早速、ネットで買い求めました。

 本は大晦日に届き、お正月休みにすぐ読めるかと思ったら、何やらかんやら忙しくて、実はまだ半分ちょっとしか読めていません。それだけ、私にとってレベルが高過ぎるということかもしれません(苦笑)。

 袖川さんは同時通訳者で、新刊は「放送通訳の現場からー難語はこうして突破する」(イカロス出版、2021年12月25日初版)というタイトルです。彼女の前著「同時通訳はやめられない」(平凡社新書)は、朝日新聞の「天声人語」にまで取り上げられて大きな話題を呼びましたが、同書は2016年出版だったと聞いて、「えっ?あれから5年も経ってしまったの!?」と我ながら驚愕してしまいました。光陰矢の如し。信じられません。まさに、自分自身は馬齢を重ねてしまった感じです。

 それはともかく、最新刊は、タイトル通り、英語の難語を突破する「指南書」のような本です。どちらかと言うと、本人が引っ掛かったといいますか、誤訳に近い形で放送してしまった「失敗談」も正直に書かれています。御本人も「おわりに」の中で、「こういうことばかり告白し、書いていると、心から我が身の不明を恥じる気持ちになってきます」と正直に書かれていますが、「学習者にとっては、失敗談の方が役に立つ」と私は擁護しておきます。

 偉そうなことを言いましたが、私も正直に告白しますと、この本に出てくる用語やフレーズはほとんど知りませんでした。これでも、私は国家試験の通訳案内士に合格しているのですが(笑)、同時通訳者とのレベルとは格段に違うことを思い知らされました(以前からですけど)。求められる知力と教養と技能と瞬発力は、翻訳者より上でしょう(短距離走とマラソンの違いもありますが)。袖川さんも、「同時通訳者はほとんど顔なじみで、(国内には)50~60人くらいではないか」と書かれていますが、エリート中のエリートであることが分かります。

 袖川さんは、本書中で、大きな間違いのように書かれていましたが、私から見れば、極々「軽傷」に過ぎないと思われることがほとんどでした。例えば、83ページでは「teething problems」を取り上げています。BBCが、英国のEU離脱ニュースの中で、「The UK government put it down to teething problems.」というフレーズが出てきました(詳細略)。袖川さんは最初、この 「teething」が「teasing(からかう、いじめる)」のように聞こえましたが、話の流れからすると、「いじめ」では直接過ぎると思い直して、「(英国)政府は厄介な問題だと述べました」としたそうです。

 後で調べ直してみると、「 teething problems 」とは、乳歯が生える時の問題ということから「初期の困難・問題、創業時の苦労」といった意味で、「 put it down to~ 」も「~のせいにする」という意味だということが分かりました。つまり、先程の例文は「英国政府は、それは初期に起きがちな問題のせいだと述べました」になるというのです(詳細は本文ご参照)。

 いやあ、放送という限られた時間の中で、これまで蓄積してきた知識を瞬時に総動員して、披露することはまさに芸術の域です。親のどちらかが英語を母国語にしたり、子どもの頃に外国に滞在していた人なら、「耳」から語学力が養われますから完璧でしょうが、中学生から英語を始めた日本人のその習得力と日々の勉強はまさに超人的と言っていいでしょう。袖川さんは私の大学の同期ながら尊敬してしまいます。当然ながら、私のような生半可なジャーナリスト以上に、毎日、欧米の主要紙とニュース番組はチェックしているようです。

 そのせいか、彼女が「知らなかった」と告白されている「hunker down」(隠れる、潜伏する、閉じこもる)とか「down under」(英米から見た地球の反対側の豪州やニュージーランド)のことを偶々知っていたりすると、意地の悪い私は「僕は知ってたよお~」と無邪気に喜んでしまいます。実は、全て、杉田敏先生の語学講座「ビジネス英語」に出て来たフレーズで、その受けおりですけど(笑)。背伸びしたかっただけです。

 とにかく、 down under のように、中学生レベルの英語でもイディオムになると想像もつかない意味になったりするので、英語ほど難しい外国語はない、と私は思っています。この本については、読了したらもう一回、取り上げたいと思います。