仏像とお経で仏教思想に触れる

高徳院阿弥陀如来坐像

 残りの人生、お城とともに、寺社仏閣巡りをすることを楽しみにして生きています。足腰がしっかりしているうちにあちこち回りたいのですが、段々しっかりしなくなってきたのが残念です(苦笑)。

 ところで、仏像を鑑賞すると仏さまの思想がよく分かりますーというのは、誰もが間違いやすいパラドックスです。

 その逆で、お経に書かれた仏さまの教えを忠実に再現したのが仏像だというのが正しいのです。とはいえ、我々は、仏像を通して、仏教を知り、救いを求めてお参りすれば、自然と頭(こうべ)が下がり、心が洗われます。これは、理知的ではなく、どちらかと言えば不可知的です。

 いずれにせよ、仏像は仏典を忠実に再現したものですから、「お決まり」があることを知っておかなければなりません。それさえ会得すれば、鑑賞の際に深みが増します。

 仏像には、大きく分けて4種類あります。

(1)如来=真理を得て悟りを開いた存在(釈迦如来など)

(2)菩薩=悟りを求めて修行の身(観音菩薩など)

(3)明王=如来の教えに従わない者を救済(不動明王など)

(4)=仏教に帰依した神々、守護神(梵天、四天王など)

また、仏教寺院に安置される「三尊像」にもお決まりがあります。三尊像とは、中央に如来を配置し、左右に脇侍と呼ばれる菩薩で固めます。

 釈迦如来像の場合、「陀羅尼集経(だらにじっきょう)」に従って、脇侍として、左に文殊菩薩(騎獅)像、右に普賢菩薩(騎象)像を配置します。そして、眷属(けんぞく=主尊に従って教えを広める手助けをする)として、阿修羅などの八部衆が控えます。

 「華厳経」最終章「入法界品」にはこの文殊と普賢が登場します。善財童子が、「智慧第一」の文殊菩薩の勧めに従って、延べ53人、全53カ所の善知識(仏道へと導いてくれる指導者)を訪ね歩き、最後に出会った普賢菩薩によってようやく悟りを得る話です。江戸時代の東海道は、この物語に因んで「五十三次」つくられたといいます。

 薬師如来像は、左に日光菩薩、右に月光(がっこう)菩薩を脇侍として配します。眷属は、伐折羅(ばさら)などの十二神将です。

 浄土教の阿弥陀如来像は、左に観音菩薩、右に勢至菩薩が脇侍です。日本人に最も馴染みが深い観音さまは、阿弥陀如来の脇侍だったんですね。来迎図でも描かれます。観音さまは、六道にも対応して、如意輪観音菩薩=天道、准胝(じゅんでい)観音菩薩、もしくは不空羂索観音菩薩=人間道、十一面観音菩薩=修羅道、馬頭観音菩薩=畜生道、千手観音菩薩=餓鬼道、聖観音菩薩=地獄道に当たります。

 華厳思想から生まれた毘盧遮那如来像には、左に虚空蔵菩薩、右に如意輪観音菩薩が脇侍として控えています。東大寺大仏殿もそういう配置になっていますが、私は、そこまで知らずにお参りしていました。

 と、ここまで読まれても、字面だけではよく分からないでしょう。私の場合、たまたま本屋さんで、釈徹宗監修「お経と仏像でわかる仏教入門」(宝島新書、2020年6月24日初版)を見つけて購入し、大変重宝しています。仏像などカラー写真が豊富に掲載され、色々と勉強になります。例えばー。

 極楽浄土と言えば、西方にあることは知っていましたが、それは阿弥陀さまの世界で、東方には浄瑠璃浄土があり、ここには病を癒してくれる薬師如来がおわします。人形浄瑠璃の浄瑠璃は、この浄瑠璃浄土からとったのでしょうか?

 56億7000万年後の未来に現れる弥勒如来は、兜率天浄土におられ、智慧を具現化し、物事に動じず迷いに打ち勝つ強い心を授けるといわれる阿閦(あしゅく)如来妙喜浄土におられるということです。浄土とは清浄国土、または清浄仏土の略で、ほかに、霊山浄土や十方浄土、天竺浄土、そして観音菩薩が降臨する補陀落(ふだらく)浄土などもありますが、浄土といえば、だんだん阿弥陀如来の西方浄土のことを指すようになったといいます。

 さて、私自身は、恐らく特定の教団の信徒や門徒や信者にはならないと思いますが、実は、寺社仏閣巡りをしながら、どの教団宗派が自分と阿吽の呼吸が合うか調べることも楽しみにしているのです。そのせいか、仏像や仏画を鑑賞するのも大好きです。西洋美術を鑑賞する際も、キリスト教の知識がないとさっぱり分からなかったので、そのために聖書をよく読んだものでした。

 仏教は何も、特定の信者のためだけにあるわけではなく、万人に開かれているはずです。私自身も煩悩具足の凡夫ですから、個人として、今後も寺院を参拝したり、仏教書に目を通すことは続けていきたいと思っています。

「歎異抄」を読む=邪道に興味を持つ救いようのない悪人である私

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 私は長年、ジャーナリズムの世界にいるので、職業病なのか、何でも斜に構えて物事を搦め手から見る傾向があります。当事者ではないからです。何か話題になるようなことが起きれば取材しますが、いつも第三者ですから、それらの事象は醒めた目で見なければなりません。何でもそうです。政治の世界は当然ながら、普通の人が楽しんでいるスポーツや芸能の世界まで正面から観察しません。いつも、これは何か裏があるな、と猜疑心の目を持って見ます。だから楽しめません(笑)。娯楽にもなりません。

 宗教の世界もそうです。教祖や開祖の教義よりも、分派した経緯やイザコザや争いの方に興味を持ってしまいます。実に邪道です。罰当たりです。分かっています。

 先日、「もっと古典を読もう」と一念発起し、親鸞の直弟子・唯円が書いたと言われる「歎異抄」を再読しました。若い頃読んだ時、よく理解できなかったのですが、ここ数年、柳宗悦「南無阿弥陀仏」や法然「選択本願念仏集」等を読んできたので、何とか読むことができました。「歎異抄」は、親鸞の「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」の悪人正機説が有名ですが、阿弥陀仏の大慈悲を絶対視する(とまでは言ってませんが)「他力本願」を重視した書と言えるでしょう。歎異抄とは、師・親鸞亡き後、異説が蔓延る世を嘆く、という意味です。親鸞聖人がお伝えしたかった本当のことを会得してほしい、といったことを意図した書です。

 「歎異抄」は、昔買った中央公論社の「日本の名著」に収録されている石田瑞麿・東海大教授による現代語訳を読んだので、数時間で読めました。それで満足していたら、ネット上で実に精細に「歎異抄」を分析して原文と現代語訳を対比したサイトを偶然発見しました。驚いたことに、このサイトでは、石田瑞麿も含み、梅原猛、五木寛之、阿満利麿、倉田百三、暁烏敏、松原泰道、紀野一義、野間宏ら錚々たる宗教学者や作家といった各氏の現代語訳や解釈の誤りを指摘して、「親鸞聖人の書き残されたものとは合わない」とまで言うのです。そして、「歎異抄の正しい解説は、ほとんどの学者ができません」「最も正確で、分かりやすい解説書」はこの本しかない、とばかりに、新聞でよく広告を見かけるある一冊の本がアマゾンの宣伝付きで紹介されていました。

法然上人

 確かに、このサイトは分かりやすく、明解な解説で読み応え十分です。例えば、「摂取不捨の利益」を「絶対の幸福」と訳すあたりは「凄いなあ」と感心しますが、その解釈が正しいのか、また、過去の碩学の解釈がこのサイトが指摘している通りに大間違いなのか、私自身は無学で判断できません。京都A寺の御住職さまならすぐ分かるかもしれませんが、私はただ、「これは宗教論争なのかなあ」と思ったり、「ある本を売るための宣伝サイトなのかな」と思ったりします。

 そして、何よりも、こうした解釈の違いこそが、弟子による分派や新教団設立などが生まれていくのではないかと、罰当たりの不逞の輩である私なんか思ってしまいます。

 例えば、親鸞は自らは生涯を法然の弟子として過ごし、新しく教団を設立する意思はなかったと言われています(親鸞は、法然190人の門弟の中の86番目の弟子だったと言われます。そのせいか、もしくは、故意なのか、作為的なのか、寺内大吉の名著「念仏ひじり三国志―法然をめぐる人々」に親鸞はほとんど登場しません)。浄土真宗(という教団)をつくったのは、京都で親鸞の最期を看取った末娘の恵信尼の孫の覚如だと言われてます。ところが、これは本願寺派の話で、他にも東国の門徒を中心にして教団が継承された高田門徒(専修寺派)や荒木門徒など他にも沢山の分派があるのです。

 浄土真宗といえば、中興の祖・蓮如がすぐ思い浮かび、西本願寺と東本願寺、それに築地本願寺と有名な寺院が多く、本派本流だと思っていました。そしたら、特に真宗高田派は、15世紀に加賀の守護富樫氏の内紛の際に、本願寺派と敵対し、同じ宗派なのに、その後も度々、相争ったりしています。私の学生時代の畏友T氏は、この真宗高田派の名門中学校に通いましたが、仏教の授業では「とにもかくにも親鸞聖人様。本願寺派のことは扱いはするが、ただ『そっちもある』みたいな冷淡さだった」というのです。これには私のような素人は「へー」と、腰を抜かすほど驚いてしまいましたね。高田派は、浄土真宗とは言わず、正式には単に真宗とだけいうことも後で知りました。

 このように、神聖な宗教に対してさえも、ブンヤの私は、例えば、浄土真宗の信者(門徒)数は国内最大、その理由は何故かなどといった邪道な逸話ばかりに興味を持ってしまいます。

 ついでながら、最近、もう一つ、驚いたことは、日本の仏教の祖ともいうべき天台宗の開祖最澄(767~822年)が近江出身(今の大津市坂本本町生まれ)だということは知っていましたが、宗教学者の塩入良道・大正大学教授によると、最澄は、後漢の王族の帰化人の子孫と伝える三津首百枝(みつの おびと ももえ)の子息だというのです。となると、最澄=三津広野は渡来人(の子孫)だったということになります。

 嗚呼、普通の人なら京都の清水寺が何宗で、金閣寺が何宗なのか、融通念仏宗と天台宗との違いは何なのか、なんて気にしないでしょう。私のように、こんな邪道ばかり探っていては、地獄に堕ちることでしょうね。地蔵菩薩さまに救いを求めるしかありません。

 

お経は英訳の方が分かりやすい

 最近、仏教づいておりまして、先日は、仏教用語を英語で何と言うか、通訳のための研修会に参加してきました。

 講師は、浄土真宗本願寺派超勝寺の大來尚順さんという30歳代の若い御住職。米カリフォルニア州にある仏教大学院で修士号も修めた学者さんでもあり、翻訳家でもあり、既に「超カンタン英語で仏教がよくわかる」(扶桑社新書)など数冊、本も出版されてます。

 仏教に関する知識は、当然のことながら、かなり豊富ですが、私自身は、ここ最近は特に仏教書に目を通しているので、それほど驚くほどではありませんでした。むしろ、私の方が雑学的知識というか、宗派の派閥とか、アングラ情報に関しては多く持っている気がしました。…偉そうですね(笑)。

 仏教とは何かー? 会場から「哲学」だの「生きる指針」だのといった意見が出て、大來師は「危ないもの、と言われてなくてよかったです」と笑いを誘っておりましたが、大來師によれば、仏教とは、人が仏(覚者)になる教えだということでした。 日本ではもともと「仏道」と言われ、「仏教」となったのは、1893年(明治26年)のシカゴ万国宗教会議(鈴木大拙や釈宗演らも参加)の後からだといいます。 となると、仏教は、キリスト教と同じ宗教かと言えば、ちょっと違う感じがしました。

 仏様(釈迦)というのは人であり、宇宙を創った創造神でもなく、人を裁く審判神でもなく、超能力を持った至上神でもないからです。

 大來師の説明では、キリスト教が神と人との契約(contract)という二元性(Dualism)なら、仏教は一元性(Non-Dualism)である、といいます。そう説明すれば欧米人は分かるといいます。

 仏教では、人が真理に目覚めるためには「悟り」を開かなければなりません。その悟りとは「四聖諦」(「四諦」)を認識することです。四諦とは、すなわち「苦諦」(世の中は苦に満ちている)「集諦」(その苦には原因がある)「滅諦」(苦しみを和らげ、止めることができる)「道諦」(その苦を止める方法がある)の四つのことで、ざっくばらんに言えば、「自分の思い通りにならないことが人生だ」ということをしっかり頭に叩き込むことなんですね。つまり、それが悟りです。人が怒りに駆られるということは、大抵、自分の思い通りにできなかったり、他者が言うことを聞かなかったり、他者から損害や迷惑をかけられたりすることですからね。

平和観音(宇都宮市)

 その四諦を認識した上で、それらの不満足を解決していく方法が「八正道」だといいます。

 八正道とは、英語でEightfold Noble Path と訳され、その八つとは「正見」(Right View)「正思惟」(Right Thought)「正語」(Right Speech)「正業」(Right Conduct)「正命」(Right Livelihood)「正精進」(Right Effort)「正念」(Right Mindfulness)「正定」(Right Meditation/ Concentration)のことです。どうも、漢字の日本語よりも、英語の方が理解しやすいことが分かりますね。

 同氏は、得意の仏教用語の英訳についても解説してくれ、例えば、「悟り」には、Enlightenment, Awakening, Realization といった3通りの翻訳ができ、それぞれ「ひらめき」「能動的」「受動的」と意味の違いがあることを教えてくれました。

 「諸行無常」は、Every thing is changing で十分に通じるということでした。

 このほか、「煩悩」は、昔はWorldly sins などと訳されたりしましたが、ニュアンスがきつくあまり通じないので、最近では、 仏教本来の意味に近いSelf-centered Calculation mind(どこまでも自己中心にして計算する心)や、単にDesire(欲望)、 Defilement(汚れ)などと訳されるようです。sin(罪)は、信心深い欧米人の感覚からすると、飛び上がるほど強烈な意味になるらしいですね。そこら辺は日本人には分かりません。

仏教の経典はもともとインド古語のパーリー語で書かれ、唐の玄奘三蔵法師らによって苦難の末、中国に持ち帰って漢訳され、日本に輸入されました。漢訳は、意味のない音訳が多く、例えば、「南無」はNamo の音訳で、本来は「帰依する」take refuge inという意味です。南無という言葉そのものに、帰依の意味はありません。

 となると、お経は漢訳よりも、英語の翻訳の方が分かりやすかもしれません。いや、実際、英訳で読んだ方が意味はよく分かりますよ。英訳のお経は、市販されたり、国際ホテルに置いてあったりします。皆さんもチャレンジしてみては?

お経は今を生きる人が心の糧として読むべきでは?

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

  何か、毎日、本を読んでいるか、映画館か博物館に行くか、とにかくブログを書いているのが自分の人生に思えてきました(笑)。何も取り得がなく、希望がなくても絶望はせず。ただひたすら真面目に誠実に生きたい、ということだけは心掛けて生きています。

 そういう意味では、仏教哲学は大変役に立っています。苦諦(現実世界は苦に満ちている)、集諦(じったい=苦の原因は人間の無知から生まれ、執着心から起こる。その根源をはっきり認識する)、滅諦(執着を断ち切り、苦を滅する)、道諦(苦のない涅槃の境地に達するために八正道=はっしょうどう=など修行をすること)の四諦(したい)を見極めて、その八正道を実践するという仏教の教えは特に身に染みます。

 八正道とは、(1)正見(しょうけん=正しい見解)(2)正思惟(しょうしい=正しい考え)(3)正語(しょうご=正しい言葉遣い)(4)正業(しょうごう=正しい行い)(5)正命(しょうみょう=正しい生活)(6)正精進(しょうしょうじん=正しい努力)(7)正念(しょうねん=邪念を離れ正しく念想する)(8)正定(しょうじょう=迷いのない正しい瞑想)ーのことです。

 これらは、上座部仏教の教学「清浄道論」に書かれています。

 …なんて、知ったかぶりばかりしておりますが、先日読了した松濤弘道著「お経の基本がわかる小事典」(PHP新書)に書いてあります。読了したとはいえ、全て頭の中に入っているわけではありません。逆に言うと、この事典の内容を奥深く理解して、頭の中に記憶できて入ったら、自分自身の仏教に関する知識が格段に進歩し、少しは自信がつくことでしょう。

 著者によると、お釈迦様が説いた教えである経典は、梵語から漢訳されて日本に伝わったものだけで1692部、日本で生まれたお経も含めれば3360部もあるといいます。

 この本では、お釈迦様の直説とされる「阿含経」から、「法句経」「大般若経」「無量寿経」「法華経」を始め、中国で生まれた「往生論註」「臨済録」「天台四教義」、日本で生まれた「山家学生式」「十住心論」「選択集」「教行信証」「正法眼蔵」など主要なお経はほとんど取り上げて内容について短く説明しています。(経典とは言えない「今昔物語」まで)

 これらのお経の内容を全て茲でご紹介するのは無理なので、この本を読んで特筆したいことと、その感想めいたことを書くことにします(拍子抜けされた方はすみません)。

 ・釈迦の滅後、聞き間違えや異説を唱える者が出て、何が師の教えだったのか再確認する必要に迫られた。それが、結集(けつじゅう)と呼ばれ、第一回の結集は、紀元前483年に開かれた、と書かれています(29ページ)。釈迦の生没年に関しては、(1)紀元前565~同486年(2)紀元前465~同386年(3)紀元前463~同383など、諸説ありますが、紀元前483年に釈迦入滅後初の結集が開催されたとしたら、(2)と(3)はあり得ず、(1)しかなく、お釈迦様が入滅された3年後に開催されたことになります。

・インドから膨大な量の経典を中国に持ち帰って「大般若経」600巻などを漢訳した玄奘三蔵法師の「三蔵」(ティピタカ)とは、「経」(スッタ=釈迦の直説の教え)と「律」(ヴィナヤ=その教えに従う弟子の教団の規律)、「論」(アビダルマ=経の注釈書)のこと。

・最澄は、大乗戒を説く「梵網経」に基づき、朝廷に対して、比叡山に大乗戒壇の建立を願う建白書をまとめたのが「山家学生式」。それまでは、僧侶になるには奈良の東大寺か、下野の薬師寺か、筑紫の観世音寺へ行って、小乗の戒律を受けなければならなかった(173ページ)。

中国仏教に感謝するしかない

・日本の仏教は、インド仏教というより、漢訳された中国仏教の影響の方が強いのではないかと思う。例えば、浄土宗の開祖法然は、中国浄土教の善導から最も強い影響を受けましたし、最澄の天台宗は、中国の南北朝時代から随にかけての天台智顗(538~598)なくしては語れません。栄西の開いた禅の臨済宗も、もともと中国の臨済義玄(?~867)が開宗したもので、道元が中国宋から持ち帰った曹洞宗も、中国禅宗六祖慧能が説法した曹渓と、慧能が大成した南宗禅の法系である良价(りょうかい)が住んだ洞山にちなんで、曹洞宗と名付けられたといわれてます。

 となると、今の中国仏教が見る影もないほど廃れてしまったことは大変残念です。と同時に、これまでの中国仏教には感謝するしかありません。日本の仏教は、明治の廃仏毀釈後も残りましたから、御先祖さまの長年の信仰と、存在価値があったからでしょう。

諸行無常、こだわってはいけない

・著者の松濤氏は、お経というものは、死者の冥福や慰霊のために、僧侶が唱えるものというのは固定観念であって、今を生きる普通の人でも、生きる糧として読むべきであり、現代人でも、釈迦の教えに逸脱しなければお経をつくっていいと主張しています。これは素晴らしいことだと思いました。

 やはり、悟りを開けなくても、人生を深く考え、見極めることが大切です。それはお経に書いてあります。例えば「諸行無常」です。西洋でいえば、「万物は流転する」ということでしょうか。すべてのものは変わっていて、同じ状態で居続けることはあり得ない。無常なものである。人の命も、愛情も友情もたったひと時のことである、と著者は語り掛けてくれます。

 人生、こだわってはいけないんですね。とらわれてはいけないんですね。先日15年ぶりに会ったM氏も、長年親しく付き合っていた北海道の友人と、何のきっかけもないのに、相手から連絡がなくなり、疎遠になってしまった、と嘆いていましたが、私も同じような経験があるので、気持ちがよく分かりました。でも、人生とは諸行無常であり、友情でさえ、一時のもので、変化していくものだという真理を知れば納得できます。

 私は特定の宗派の教団の信徒にはならないと思いますが、私が仏教哲学に、改めて心の奥底から惹かれるようになったのは、苦い人生経験を経た末のことだと思っています。

お経で自己反省=究極のミニマリストには驚き

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 最近、このブログで個人的なことばかり書いているので忸怩たる思いを感じております。

 今日やっと半月間かけて読了した松濤弘道著「お経の基本がわかる小事典」(PHP新書、2004年11月1日初版)は大変為になりました。お経は、梵語から漢訳されて日本に伝わったものだけで1692部あり、我が国で生まれたものを含めると3360部にもなるといいます。もちろん、お釈迦様お一人がこれほど膨大なお経を説いたわけではなく、弟子や後代の名僧が説いたものもあるわけです。

 以前にも取り上げましたが、著者の松濤弘道(まつなみ・こうどう)氏(1933~2010)は、米ハーバード大学大学院で修士号を修め、栃木市の近龍寺の住職なども務めた方でした。 近龍寺は浄土宗ですが、松濤氏は学者でもあるので、宗派にとらわれず、オールラウンドに仏教思想全体に精通されているところが素晴らしいです。

 その松濤氏は、お釈迦様の考えに逸脱しなければ、現代人でもお経を説いてもいいと主張するので驚いてしまいました。私は未読ですが、評論家の草柳大蔵さんには「これが私のお経です」(海竜社、1993年刊)という本がありました。この本でも著者の松濤氏は御自分でつくった短いお経も披露されています。

 その中で、「いたずらにむさぼらず、おごらず、とらわれず…、人に対しては優しい目、和やかな顔、温かい言葉をもって接し、お互い、いたわり合うべし。たとえそうすることによって不利益を被ることもあらんとも」という文章に巡り合いました。目から鱗が落ちるようで、深く反省した次第です。たとえ相手がチンピラだろうと、そいつから金品を巻き上げられようと、人に対しては優しく接しなければいけませんね。

 さて、今日は、最近テレビで見た奇人・変人(失礼!)をご紹介します。

 先週、バラエティー番組を見ていたら、若い気象予報士の男性が登場し、究極のミニマリスト(最小限の家財道具しかないシンプル生活者)で、部屋には何もない、と言います。食事は外食なので、調理道具も皿や茶わん等もないように見受けられました。

 凄かったのは、冷蔵庫はありますが、中に入っているのは湿布ぐらいだというのです。司会者が「何で?」と聞くと、「身体の節々が痛くなるから」と答えるので、また司会者が「何で痛くなるの?」と聞くと、どうやら、布団を持っていなくて、フローリングの床の上で、そのままダウンコートを着て寝ているというのです。(ということは、ソファもないことでしょう)周囲から「布団ぐらい買えよ」とチャチャを入れられていましたが、これには驚くとともに大笑いしてしまいました。

 世の中にはこんな人もいるんだ。何もなくても、布団もなくても生きていられるんだ、と逆に勇気をもらいました。もしかして、仏教の精神を実践されている方なのかもしれません。

【後記】

 あっちゃー、吃驚です。本物かどうか分かりませんが、「京都の住職」さんから「チンピラや悪党や性根の腐った人間もひとしく弥陀の救済の対象です。『さんげ』は必要ですが。
『極楽浄土に来てほしくない』なんておっしゃると、カンダタと同じになっちゃいますよ。 」との「コメント」を頂いておりました。(今、発見)

 カンダタとは芥川龍之介の「蜘蛛の糸」に登場する地獄に堕ちた泥棒さんのことですか?

 そ、そ、それだけは御勘弁ください。ま、真人間になりますから。

 

京都・相国寺の承天閣美術館で「茶の湯・禅と数寄」展が開催中=宗旦狐の逸話も面白い

京都・相国寺 Copyright par Kyoraque-sensei  

おはようございます。京洛先生です。

 ワタシが勧めた「藝術新潮」2月号を購入され一読されて、「軽薄だ!」と厳しいご指摘ですが(笑)、世の中、すべてが軽佻浮薄です。貴人のように物事をナンデモ真正面から真面目に受け止める人は、生きにくいご時世です。もっと、生半可にいい加減にならないとノイローゼ、不眠症に陥りますよ(笑)。

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 ところで、中国・武漢の「急性肺炎」で、中国をあてにしている業界、企業は大慌てですね。株価も下降線に入りました。恐らくすぐ解決できることではなく、今夏の東京オリンピックも影響を受けると思いますね。特にその対応が「人の集まる場所に行かない方がいい!」ということでは、「景気」の落ち込みは半端じゃないですよ。「東京五輪後に不況がやって来る」と予測するエコノミスト、評論家はいましたが、これでは「東京五輪前に不況がやって来る」と言うことになりますね。

京都・相国寺 Copyright par Kyoraque-sensei  

 消費増税で消費が減速し、デパート、コンビニなどの業界では既に売り上げが大きく落ち込み始めているのですから、尋常じゃありません。

 1月28日(火)には、武漢に行ったこともない奈良在住の運転手が、武漢から来たツアー観光客を乗せて運転し、新型肺炎に感染したという事が分かり大騒ぎになっています。

京都・相国寺 Copyright par Kyoraque-sensei  

 京都、大阪、東京と中国人観光客が多いところは、日本国内での感染にこれまで以上に神経をとがらせことになります。

 洛中も新年になり、中国人観光客がめっきり減りました。その分、静かになり、煩くない分、地元住民は、ほっと一息つきますが、これから、新型肺炎の感染騒ぎを考えると憂鬱になりますね。

京都・相国寺 Copyright par Kyoraque-sensei  

 そんな世間の動きとは別に、以前、南青山の東京別院に渓流斎さんが参禅に行かれた京都五山の一つ「相国寺」に1月29日(水)の昼下がりぶらっと出かけてきました。
 同寺の境内にある承天閣美術館で「茶の湯・禅と数寄」展が開催中(3月29日まで)で、それを覗いてきたわけです。

 この展覧会は、昨年10月~12月は「Ⅰ期」、新年1月11日から「Ⅱ期」と、二回に分けての長期の開催です。Ⅱ期は、無学祖元の国宝「墨跡」(鎌倉時代、相国寺蔵)、明の永楽帝が足利義満におくった国宝「明永楽帝勅書」(室町時代、相国寺蔵)など、展示数は少ないですが、“禅と茶”、“権力者と茶”、“数寄者と茶”の関係がよく分かる品々が並び、充実した展覧会でした。

京都・相国寺 Copyright par Kyoraque-sensei  

しかも、平日なので来館者も、少なくゆったり見られるのは好いですね。

 展示品の写真撮影は不可ですが、相国寺の境内は御覧の通り、静寂で南天が咲いていたり、梅の枝には早くも梅の蕾が膨らみはじめ季節感を味わいました。

相国寺 宗旦稲荷 Copyright par Kyoraque-sensei  

 同寺の専門道場そばの“宗旦狐”を祀る「宗旦稲荷社」にも参って来ました。ここで伝承されている「宗旦狐」の謂れについてはリンクを貼っておきます。

 逸話は面白いでしょう。

 以上

「諸悪莫作、諸善奉行」「世間虚仮、唯仏是真」=聖徳太子

 このブログは、ほぼ毎日更新しているため、恐らく、付いていけず脱落された方も多いと思います。私も脱落する自信があります(笑)。ただ、日々の知的好奇心が読書量に追い付いていない気がします。いや、その逆かもしれません。日々の読書量が知的好奇心に追い付いていない気がします。知りたいことがまだ沢山あります。

 今も2冊を平行して読んでいます。読み終わると1カ月も経てば忘れてしまうので、備忘録としてこのブログに書いているだけなのかもしれません。

 先週は、松濤弘道著「日本の仏様を知る事典」を読了したので、羅列したいと思います。

如意輪観音の「如意」とは、如意宝珠のことで、どんな願いでも叶えてくれる珠のこと。「輪」とは、法輪のことで、仏の教えを指し、この仏に祈るとすべての願いが叶う。右手の第1手は頬につけて思惟をしている姿で、地獄道の人々を救う。右手の第2手は如意宝珠を持ち、餓鬼道から人々を救う。右手の第3手は、立膝の上で数珠を持ち、畜生道から人々を救う。また、左手の第1手は蓮弁に触れて修羅道から人々を救い、第2手は脇の下から蓮華を持ち、人道から人々を救い、第3手は、肩の上に法輪を持ち上げて、天道から人々を救うという。

・観音菩薩は、仏弟子の舎利弗、勢至菩薩は、目連のそれぞれ神話化されたものという。

・華厳経によると、善財童子(菩薩)は、仏の教えてを求めて、文殊菩薩の薦めで、53人のあらゆる職業の師に教えを乞う旅に出て、最後に勢至菩薩と巡り会って、所期の目的を果たす。この故事から、東海道五十三次などが生まれた。

・「明王」は、インドの原住民ドラヴィダ族の神の化身で、外来のアーリア人からの支配を受けた関係で、奴婢や奴隷の姿をしている。不動明王大日如来が変身し、降三世(ごうさんぜ)明王は、阿閦如来が変身したものといわれる。また、軍荼利明王は、宝生如来の変身、大威徳明王は阿弥陀如来の変身と言われる。さらに、金剛夜叉明王は不空成就如来(釈迦)の変身、愛染明王は、金剛愛菩薩の化身といわれる。

・世界の中心に須弥山(しゅみせん)がそびえ、その周囲に九重の山脈と八つの海がめぐらされている。その海の東西南北に四つの島が浮かび、南のしまの閻浮提(えんぶだい)が我々の住む世界。

・須弥山世界の下から十層目にある天界(有頂天)に梵天(ヒンズー教の最高神ブラフマンが仏教化)が住み、須弥山の頂上の忉利天(とうりてん)の喜見城(きけんじょう)には、帝釈天(原名インドラ)が住む。梵天と帝釈天を釈迦の脇侍とする三尊像が、ガンダーラでつくられた。帝釈天は、音楽神の乾闥婆(けんだつば)の娘をめぐって、阿修羅(八部衆)と争い、その闘いは熾烈を極めたことから、修羅場という言葉が生まれた。

・東の持国天、南の増長天、西の広目天(シヴァ神の化身)、北の多聞天(ヴィシュヌ神の化身⇒単独では毘沙門天)は「四天王」と呼ばれ、帝釈天の家来に当たる。

吉祥天は、鬼子母神(訶梨帝母=日蓮宗に多くまつられている)の娘で、毘沙門天の妻。弁財天は、梵天の妃。

大黒天は、シヴァ神の化身で、梵天の子。また、毘盧遮那仏の化身。

荼吉尼(だきに)天は、インドの魔女ダーキニーの音訳。平安時代の頃に、稲荷と習合する。稲荷は、イネナリから稲の実りを意味する農耕の神。宇迦之御霊(うかのみたま)、保食神(うけもちのかみ)といわれる。伏見の稲荷大社は、真言宗東寺の鎮守神として崇められ、荼吉尼天を本地とする神仏混淆の神。

・七福神=毘沙門天は、災いから身を守る神、大黒天は食欲を、弁財天は性欲を、寿老人は長生きを、福禄寿は権力欲を、布袋は笑いを、恵比寿は金欲を満たす神。

聖徳太子は死に臨み、周囲には「諸悪莫作(しょあくまくさ)、諸善奉行」(もろもろの悪しきことはなさず、もろもろの善きことを行え)と告げ、妻には「世間虚仮(せけんこけ)、唯仏是真(ゆいぶつぜしん)」(世の中のものは全てむなし、ただ仏の真実なり)と語ったという。

藤堂高虎はとてつもない築城名人

国宝姫路城

昨晩、お城関係の本を読んでいたら、三重県の津城は、正式には安濃津城ということを初めて知り、自分の不勉強を恥じるとともに、本当に驚いてしまいました。

 以前、沖浦和光著「天皇の国・賤民の国」を読んでいたら、中世になって差別をされた人々が浄土宗系の仏教に縋り、多くの寺院が建てられるようになったという話が出てきました。その中で、三重県の津市のことも出てきたので、たまたま、津市出身で、浄土系の名門中学校を出ている学生時代の友人がいるので、メールで聞いてみたところ、「私が育った安濃津(あのつ)あたりは、差別された人たちが多く住んでいて、私が通った小学校は、全国でも同和教育のモデル校として表彰されたこともあります。中学は浄土真宗の学校でした」といった答えが返ってきました。

 いきなり、初めて聞く「安濃津」という地名が出てきましたが、特に調べることはなく、津市の郊外にある地名なのかなあ、と思っていたら、どうやら、津城が安濃津城(津市丸之内)と呼ばれるぐらいですから、津市の中央部もかつては安濃津と呼ばれていたのかもしれません。

 となると、古代に征服されて、差別された人たちは、中世になって浄土系の宗教に救いを求めるようになり、その領地には寺院が建てられ、戦国時代になって、城郭が建てられたという仮説が成り立つのではないかと思ったわけです。よく知られている史実として、蓮如の建てた石山本願寺の跡地に大坂城がつくられ、このほか、 加賀前田藩の金沢城は、それ以前は、加賀一向一揆の拠点だった浄土真宗の尾山御坊という寺院だったといいます。

  私の晩年の趣味は、どういうわけか、いつの間にか、お城と寺社仏閣巡りになりましたが、城郭と寺社とは、水と油(戦闘と慰霊)で全く関係がないと考えていたら、意外にも密接な関係があったのですね。本当に驚きました。

 日本の歴史や文学、美術を知るには、仏教思想が欠かせませんが、当然ながら、寺社仏閣や城巡りの際にも、仏教思想はこうして役に立つわけです。

唐沢山城(伝藤原秀郷の築城、日本の100名城)

 先程の安濃津城は、浅はかにも、藤堂高虎の築城かと思っていたら、永禄年間(1558~70年)に、伊勢の有力国人・長野一族の細野藤光が築城したものでした。しかし、織田信長が伊勢を征服し、その弟の信包が城主となります。関ケ原の戦いの後になって、藤堂高虎が入城し、全面改修し、城下町も整え、明治維新まで藤堂家が続きます。

 藤堂高虎は、築城の名人と言われ、調べば調べるほど、とてつもない偉人だったことが分かります。伊勢の人ではなく、もともと、近江の甲良荘(滋賀県犬上郡)出身で、甲良大工という築城集団がいたようです。藤堂高虎もその影響で、伊予の今治城(海城)と宇和島城(重要文化財)、それに伊勢の安濃津城と伊賀上野城などを作り、江戸城、大坂城、二条城、丹波亀山城などを改修、篠山城、名古屋城などの縄張りを任されています。徳川家康も一目置いて、江戸の屋敷は、寛永寺そばの上野の領地を与えます。上野は、勿論、伊賀上野から取って付けられた地名です。

 明智光秀もいいですが、藤堂高虎も大河ドラマの主人公にしてほしいものです。

仏教思想と古代史と現代人=2019年の個人的回顧

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

今日は大晦日。午前中は、狭い陋屋を一人前に大掃除して、窓も綺麗に拭いて、良い新年を迎えられそうです。

 皆様にはこの一年、御愛読賜り、誠に感謝申し上げます。中には「つまらない」だの、「読む価値なし」だのと仰る方もおりましたが、それは、読んでいる証拠でもあり、叱咤激励のお言葉と勝手に受け取って、来年も続けて参りたい所存で御座います。

 このブログは、気の進まないまま、フェイスブックとツイッターに同期しておりますが、フェイスブックでは毎回アップする度に、まだお会いもしたことがない西日本にお住まいのYさんがお忙しい中、無理を押して「いいね!」ボタンを押してくださるので、励みになっております。イニシャルだけでお名前は書けませんが、御礼申し上げます。

 さて、この後に書くことは、本当にどうでも良い個人的な話です。一年を振り返って、個人的に一応区切りを付けたいだけですので、もうお読み続けることはありませんよ(笑)。

高野山 壇上伽藍

 我が人生、いつの間にか、老境の域に達してしまい、個人的な趣味が、全国の寺社仏閣とお城巡りになりましたが、昨年は、その長年の念願を実現することができました。7月に和歌山県の高野山、12月には出雲大社と、日本を代表する国宝姫路城に行くことができたのです。その内容については、既に事細かく書きましたので、このブログ内で検索して頂ければ出てきます(笑)。

 高野山から帰った後、真言宗について勉強を始めました。アカデミックではなく、職業柄、残念ながらジャーナリスティックな面での勉強、というか情報収集です。具体的には、真言宗内の宗派の力関係とか、全国に展開される真言宗寺院の展開、そして宗祖空海の人となりについてです。これも、ブログにかなり詳しく書きましたので、また、検索でもしてご参照ください(笑)。

 その後、ひょんなことで、このブログを通して、作家村上春樹氏の従兄弟に当たる西山浄土宗安養寺の村上純一住職と知り合い、8月の最も暑い盛りに京都・安養寺を訪れて村上御住職と面談しました。その際、また、色んなお話を聴くことができ、また、何度かメールをやり取りするうちに、法然上人や浄土宗にも興味を持つようになりました。

 またまた、ジャーナリスティックなアプローチで、浄土宗の宗派や全国の寺院について勉強していたら、たまたま、柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)と出合い、日本の浄土教思想に目覚めてしまいました。この後、読んだ沖浦和光著「天皇の国・賤民の国 両極のタブー」(河出文庫)により、仏教とカースト制度に影響を受けた差別問題が日本の歴史の底流に流れていることを初めて知り、実に、実に衝撃的でした。

出雲大社

 出雲大社に行ったのは、古代史に大変興味があったためで、実際に参拝し、その規模と大きさを知ることができたのが収穫でした。やはり、大和朝廷との関係が気になるところで、大陸や半島との交流で一足先に文明が進んでいた出雲が、最終的には大和に「国譲り」したことになるのでしょうが、何とも言えない、霊的な「気」も感じることができました。

  既にこのブログで登場させて頂いた武光誠著「一冊でつかむ古代日本」(平凡社新書) によると、 これまで「大王」と呼ばれた王族の長を初めて「天皇」と名乗ったのは壬申の乱を経て統一した天武天皇(631?~686年)でした。「古事記」「日本書紀」に則った紀元2680年にならんとする皇室からみると、「天皇」の名称が登場したのは1300年ほど前ということになるので、意外と最近だったことが分かります。

 また、古代の朝廷は、十数人からなる公卿と呼ばれる太政官(左大臣、右大臣、大納言、中納言、参議)による合議制で政策が決まり、天皇はそれを追認する形だったという史実を知り、「いかにも日本的だなあ」と改めて思いました。中国やドイツでは考えられないことです。

 先の大戦で、戦艦「大和」が米軍の爆撃によって沈没したことは、まるで古代から続いてきた大和朝廷が滅ぼされたような象徴的な意味合いがあり、それに代わる(米国直輸入の)「戦後民主主義」と呼ばれる時代も、70年も過ぎれば綻びが目立つようになり、ついには、公文書を改竄したり、破棄したり、処分したりしても平気な政権が長期にわたるというのに、その弊害さえ、その政治システムにより除去できない日本の現代人は、歴史的に見ても、古代の朝廷を批判できないんじゃないかと思っています。

 このブログも、どういうわけか、最近、驚くほどアクセスが増えてきており、感謝申し上げる次第で御座います。取材費も原稿料も出ないのですが(笑)、色んな世界(精神世界も含む)を駆け巡って、これからも頑張って執筆していこうかなと存じます。

 来年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 令和元年12月31日

 渓流斎 敬白

沖浦和光著「天皇の国・賤民の国 両極のタブー」を読んで

WST National Gallery Copyright par Duc de Matsuoqua

 個人的ながら、今年に入って、30年ぶりぐらいに仏教思想の勉強が復活しています。きっかけは、この夏に初めて高野山を参拝し、真言宗の密教とは何なのか、という疑問に目覚めたこと。もう一つは、このブログを通して知遇を得ました京都の西山浄土宗安養寺の村上純一御住職にお目にかかって、日本の浄土思想に共鳴し、こけつまろびつしながら、関連書を読み始めたことです。

 浄土思想に関しては、このブログでもご紹介致しましたが、柳宗悦著「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)に大変感銘を受け、影響も受けました。

 色々と勉強していくと、30年前は理解できなかったことが、その後、荒波の人生を経験したせいか、少しは分かるようになりました。それは「ミッシングリング」を発見したような喜びがあります。若い頃は、般若心経を暗記したことがあり、今でもその前半部を諳んじることができますが、それほど奥深く意味を理解していたわけでもありませんでした。

 それが、勉強を復活させると、「そういうことだったのか」と分かるのです。例えば、般若とは、般若波羅蜜のことでした。そして、波羅蜜とは、菩薩が如来になるため、迷いの世界から悟りの世界へ至る修行のことで、それは六つあり、そのうちの一つである般若は智慧ともいい、物事の本質を見極めることでした。法蔵菩薩はこれら六波羅蜜の修行を経て、阿弥陀如来に正覚したはずです。そういったことが分かると、「般若心経」の理解度が深まります。(残りの五つは、布施、持戒、忍辱、精進、禅定ですが、どういう意味か、京都・六波羅蜜寺のサイトにある「六波羅蜜とは」を参照してください)

 さて、今、北九州・小倉にお住まいの工藤先生のお薦めで、沖浦和光著「天皇の国・賤民の国 両極のタブー」(河出文庫、2007年9月20日初版)を読んでいますが、目から鱗が落ちるような話ばかりで、また「そういうことだったのかあ」と感心ばかりしています。この本は、新聞や雑誌などに掲載された論考をまとめたもので、1990年9月に弘文堂から出た同名書を底本にしており、古いと言えば、古いですが、ここに書かれた真相と深層は不滅です。

 この本では、日本民族の起源や天皇制から、(今では差別用語ですが)賤民(せんみん)に至るまで、実にさまざまなことが書かれていて、長くなるので、特に感心したことを書いてみます。沖浦氏は、桃山学院大学の学長まで務めた民俗学者ですが、後半生は被差別部落問題の研究に打ち込み、象牙の塔に閉じ籠らず、日本全国だけでなく、インド等までフィールドワークを続けたフットワークの軽い現場主義の学者でした。

 沖浦氏は、ヤマト政権とは、中国東北地方の騎馬民族が3世紀から4世紀にかけて、半島から九州に渡ってきて、アイヌや蝦夷、隼人など長く日本列島に住み着いていた縄文人を征服してできた政権という江上波夫が提唱した「征服王朝説」を取っています。

 ◇カースト制→密教→浄穢思想

 同書の中の「鎮護国家仏教の〈貴・賤〉観ーインドのカースト制と日本の密教」によると、ヤマト王朝は、政権を運営するに当たり、中国の髄・唐に倣って律令制度を取り入れて、世俗の身分を超越した聖なる天皇をいただき、卑しい賤民を最底辺とする「貴・賤」の身分制度を確立したといいます。そして、中世に入ると、インドのカースト制度に倣った「浄・穢」思想を取り入れて、差別観念を助長したといいます。この浄穢思想は、近世になって穢多、非人と呼ばれる被差別者を生み、住む場所や職業まで限定されます。

 この浄穢思想のカースト制度を生み出したのが、仏教よりも古いインド古来のバラモン教です。紀元前15世紀頃、北方から西北インドに侵略してきたアーリア人が、自らを「高貴な人(アーリアン)」と称し、インダス文明を築いた先住民族であるドラビダ人やモンゴル系などを征服して、「敵(ダーサ)」と呼び支配下に置きます。紀元前10世紀頃、アーリア人は、バラモン(司祭)、クシャトリヤ(王族・戦士)、ヴァイシャ(庶民)、シュードラ(隷属民)というカースト制度の原型を成立させます。この時はまだ、不可触賤民は出てきませんが、バラモンからヴァイシャまでをアーリア人が独占し、先住民らをシュードラに位置付けします。つまり、「制服ー被征服」が、そのまま「差別ー被差別」へ転化したわけなのです。差別とは、征服者側の論理ということになります。バラモン教の聖典「ウパニシャッド」は、紀元前5世紀に成立し、その後に成立した仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教に大きな影響を与えます。沖浦氏はこう書きます。

 (ただし、仏教を開いた)釈迦は、悩み苦しむ多くの衆生とともに生きながら、バラモン教の説く絶対神による救済を否定し、個々人の自覚と行為によって悟りを得ることができると考えた。すなわち、その人の生まれ・種姓とは関係なく、誰でも真理に目覚めれば覚者(ブッダ)になれると、「四姓平等」「万人成仏」の道を明らかにしたのである。

 つまり、釈迦は、カースト制差別の永遠性と合理性を根拠づけようとするバラモン教に対して根底的に批判したわけです。

 しかし、インドではヒンドゥー教が隆盛となり、仏教が衰退する中、仏教は延命策としてヒンドゥー教を取り入れた密教化していきます。曼荼羅の中心には釈迦に代わって大日如来が位置し、沖浦氏によると、大日如来にはバラモン教の大宇宙原理であるブラフマンの影を見ることができ、釈迦以来の仏教の独自の教義をほぼ完全に喪失していったといいます。

 この密教を日本に伝えたのが、9世紀に唐に留学した最澄であり、空海だったわけです。この密教にくっついてきたカースト制度の浄穢思想が、中世の日本社会に大きな影響を及ぼすことになった、というのが沖浦氏の説なのです。

 ◇平等社会を目指した釈迦

 なるほど、身分社会を打破して平等社会を目指した釈迦の革命的思想がよく分かりました。と同時に、これまでの皇族や貴族ら特権階級だけのものだった日本仏教を庶民に開放して浄土宗を開いた法然の功績も思い出しました。沖浦氏は、被差別部落民の95%が、「南無阿弥陀仏」の易行易修を説く浄土宗、浄土真宗、時宗の門徒である、と書いています。(101ページ)

 沖浦氏は、「密教はヒンドゥー教と癒着した」とまで書いてますが、確かに仏教には、毘沙門天(財宝神クベーラ)、吉祥天(ヴィシヌ神の妻)、梵天(バラモン教の最高神ブラフマン)、帝釈天(雷神インドラ)など、インドの神が取り入れられています。

 ◇痛烈な空海批判

 また、沖浦氏は、天皇を美辞麗句で賛美する一方、日本の先住民である蝦夷のことを旃陀羅(せんだら=不可触賤民)で「仏法と国家の大賊」であると断定する空海弘法大師を徹底的に批判します。(116~122ページ)空海がそんなことを書き残していたとは全く知りませんでした。

 日本古来の神道には、ケガレの精神があることから、中世になって急に浄穢思想が日本で隆盛したと私には思えませんが、差別意識は日本の精神風土の底流に流れていて、仏教も側面から援護し、社会からつま弾きにされた被差別部落の人たちが、傀儡(くぐつ)、鉢叩き、説経師から猿楽、田楽、能・狂言、人形浄瑠璃、歌舞伎に至る芸能や茶筅や皮革などの職人芸を苦悩の末に生み出さざるを得なかった歴史的背景もよく分かりました。

【追記】◎最も重要な大嘗祭(190ページ)

 戦前の「登極令」でいえば、践祚の儀、即位の礼、大嘗祭、改元ー以上四つである。中でも天孫降臨神話に出てくる真床覆衾(まとこおうふすま)によって、新帝への天皇霊の転移が確かめられる秘儀である大嘗祭が、最も重要な皇位継承儀礼となる。これを執り行えなかった新帝は、古くから”半帝”であるとみなされたのである。