「本能寺の変」の謎が解明した?

 古代史に回帰したと思ったら、もう戦国時代に戻ってしまいました(笑)。

 また、例の週刊朝日ムック「歴史道」最新号が「本能寺の変」を特集していたので、迷わず買ってしまったのです。

 この本の発売日が1月6日。その2日前の1月4日の朝日新聞の朝刊一面に大スクープが掲載されました。何と、「明智光秀は、本能寺に行っていなかった?」という衝撃的な新事実が発見されたのです。明智光秀が最も信頼していた家臣の斎藤利三(としみつ、1534~82年、春日局の父、山崎の戦いの後、捕縛され処刑、絵師海北友松の親友)と明智秀満(左馬助、1536~82年)率いる先発隊2000余騎が本能寺を襲撃し、光秀本人は、本能寺から南約8キロの鳥羽に控えていたというのです。

 えっ? それなら、「敵は本能寺にあり!」と、軍配を寺に向けて突進した明智光秀の姿は、講談のつくり話だったんですか? 講談師、見てきたような嘘を言う、とは昔から言われてきました(笑)。

 「明智光秀が本能寺に行かなかった」と証言したのは、実際に本能寺の変に参戦した斎藤利三の三男利宗(としむね、1567~1647年、当時数えで16歳)だったということですから、かなり信憑性があります。(加賀藩の兵学者関屋政春著「乙夜之書物(いつやのかきもの)」上巻(1669年)の中で、斎藤利宗が甥で加賀藩士の井上清左衛門に語ったというもの)

 この「歴史道」では、本能寺の変に関する歴史的史料を「一次史料」「二次史料」と区別して列挙していますが、勿論、この「乙夜之書物」は、雑誌の締め切りの関係で入っていません。が、後世に書かれた「二次史料」とはいえ、信憑性は高いでしょう。斎藤利宗が、江戸の平和な時代になって甥に嘘や出鱈目を語って何の得になるのでしょうか。

 織田信長に関する評伝で最も有名な歴史的史料は、太田牛一著「信長公記」ですが、これは後世になって一次史料を参考にして書かれたもので、二次史料に分類されていました。一次史料で重要なものの一つに、光秀と深い親交のあった吉田神社の祀官だった吉田兼見が残した「兼見卿記(かねみきょうき)」があり、そこに光秀本人が本能寺を急襲したように書かれていたため、後世に影響を与えたようです。

 しかし、吉田兼見自身が本能寺近くに行って見たわけではなく、あくまでも伝聞で書いたといいます。となると、実際に本能寺の変に参戦した人物である斎藤利宗の証言の方が真実ではないでしょうか?

 この本でも、小和田泰経氏は「たかだか1町(約109メートル)四方の寺院を取り囲むのに大軍は必要ない。(明智光秀は)全軍(1万3000~2万兵)で本能寺を攻めたのではなく、残りは七口と称される京都の出入り口を押さえていたのであろう」と書いてあるので、光秀本人が「現場」に行かなかったことは、十分あり得る話なのです。

本能寺跡

 光秀は、直接、主君信長に手を掛けたくなくて本能寺に行かなかったとしたら、彼の性格が伺えます。この本では、本能寺の変を起こした光秀の動機について、「怨恨説」「黒幕説」「野望説」など色々書かれていますが、私は、一つじゃない「複合説」を取ります。信長の古くからの重臣である宿老の佐久間信盛が追放され、滝川一益は伊勢長島(三重県桑名市)から上野厩橋(群馬県前橋市)に国替えさせられるなど、信長は世代交代を始めた。光秀も、せっかく坂本城、丹波亀山城を苦労して治めることができたのに、次は俺の番か、と危機感を持ったこと。四国長宗我部元親との交渉役を外されたこと。それに、中国毛利軍と戦っていた羽柴秀吉の与力(配下、つまり格下げ)になることを命令されたことなどから、将来を悲観して、中国地方に向かわず、変を起こす4日前(1582年5月28日、本能寺の変は6月2日早朝、当時陰暦で5月は30日まで)に急に決断して、緻密な完璧主義者の性格の光秀には似合わず、無計画に性急に、そして杜撰に事を進めていったのではないかと思います。

 考えてみれば、本能寺の変は、わずか439年前の出来事です。古代史と比べれば、つい最近のことです。これからも、信頼できる史料が出てくれば、どんどん謎も解明していくのではないでしょうか。

【追記】

 本能寺の変の第一次史料「兼見卿記」を書いた吉田神社の祀官吉田兼見(兼和)は単なる神官ではなく、公家であり、朝廷(正親町天皇)と光秀との仲介役だったんですね。光秀は、本能寺の変の後、大津に向かい、粟田口で吉田兼見と対面しているといいます。それどころか、変から5日後の1582年6月7日、吉田兼見は、光秀が占拠した信長の居城安土城に派遣され、光秀を信長に代わる権力者として認める朝廷の意向を光秀に伝えたといいます。

 これだけ、光秀に直接会っているなら、吉田兼見は本能寺の変の真相を本人から聞いていたはずなのに、具体的に書かなかったのは、光秀から口止めされていたのか? 態と書かなかったのか? やはり、謎は深まるばかり…。

邪馬台国は何処にあったのか?=「永遠に謎」でもいいのでは?

 富岳 Copyright par Duc de Mtsuoqua

  年末年始は、コロナ禍で自宅待機を半ば強制され、朝から酒を呑んでいるので活字が頭に入らず、となると、テレビを見ることになります。しかし、現代人なのに最先端の流行ものに興味を持てず、というか、全く付いていけず(苦笑)、恒例の紅白歌合戦も5分見てギブアップしてしまいました。

 以前はよく見ていたお笑い番組も、流行の笑いに付いていけず、むしろ、馬鹿らしさと空虚さと怒りを感じてしまう始末でした。いけませんね。

 でも、その代わり、大収穫がありました。正月の夜にNHKで放送された「邪馬台国サミット2021」です。女王・卑弥呼の都「邪馬台国」の所在地を巡り、江戸時代から続く「九州説」と「近畿説」の大論争で、侃侃諤諤の議論はひじょーに面白かったでした。恐らく、多くの方もご覧になったかと思いますが、御覧になっていなかった皆さんは、「九州と近畿、どっちなんだあ」とせっかちに身を乗り出すと思われます。(戦前は、東京帝大の白鳥庫吉教授の「九州説」と京都帝大の内藤湖南教授の「近畿説」が有名ですが、エジプト説もあったりして吃驚しました)

 結論を先に言いますと、有力な「九州説」も「近畿説」も決定的な「証拠」に欠けて、まだ「分からない」というのが正解でした。でも、九州説では、例えば、佐賀県神埼市・吉野ケ里町で発掘された有名な吉野ケ里遺跡には、「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記された楼観(ろうかん)跡と推定される物見やぐらや大壕などがあったことから、北九州に邪馬台国があったという有力説になってます。(近畿には物見やぐらや大壕などの古代遺跡がない!ただし、吉野ケ里は邪馬台国に先立つ50~100年前の大集落だったらしいので、ここが邪馬台国跡ではないようです)

 近畿説は、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡が有力のようでした。纏向遺跡内の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないか、とも言われていますが、古墳は宮内庁が管理して学術調査もできないので、まだ決定的証拠が見つかっていません。纏向遺跡には柱跡からかなり大きな宮殿のような巨大建築物が見つかり、ここで卑弥呼が「鬼道」(呪術)を使っていたのではないかと推測されていますが、魏志倭人伝の記述にあるような物見やぐら大壕などは発掘されていません。少なくとも、これだけ広大な宮殿跡は、初期天皇である大王の都跡、もしくは、出雲や吉備などの地方豪族の集合体の王都ではないかという説には私は惹かれました。(卑弥呼は、天照大神だった、卑弥呼は神功皇后だった、という説もあります)

 しかし、私もその御著書を愛読している倉本一宏・国際日本文化研究センター教授は「(正史である)『日本書紀』に邪馬台国も卑弥呼も出て来ない。天皇家とは別の政権だからではないか。となると近畿というより九州ではないか」といった趣旨の発言をしておられましたが、私もどちらかと言えば、分が悪い「九州説」派です。(魏志倭人伝には、「倭人は鉄の矢じりを使っている」と書かれていて、これまで福岡で1740点、熊本で1891点の鉄の矢じりが発掘されていますが、大阪では153点、奈良では13点しか出土していないそうです。おっ!九州説、有利か?)

番組はきこしめながら見たので、このムックで捕捉しました。最新研究成果の書かれた良書です。

 話は脱線しますが、纏向遺跡も箸墓古墳も1970年代から発掘が始まり、その成果は20世紀末から21世紀になって徐々に明らかになったということですから、私の世代の学生時代は全く習いませんでした。古代史は日進月歩、新たな発掘で書き換えられているということですね。

 近畿説を取る福永伸哉・大阪大学文学部研究科教授は「自虐的九州説」と一刀両断しておられました。同教授は、魏志倭人伝に邪馬台国には7万戸あったということは人口は30万人いたことになる。しかし、927年の「延喜式」によると、筑後の人口は7万3300人、肥前は8万1400人しかいない。とても、九州とは思えない、といった論陣を張っておられました。

 これに対して、中国古代史が専門の渡辺義浩・早稲田大学文学学術院教授は「中国の場合、人口などの数字は正確ではありません」と説明していました。さすが「白髪三千丈」と、数字は桁違いにオーバーに言うお国柄です。こちらの分が高いようです。もっとも、渡辺教授は、邪馬台国が九州にあろうが、近畿にあろうが、どっちでもいい、三国志に興味があっても、そんなもん興味ない、というスタンスだったので笑ってしまいました。

 渡辺教授によると、邪馬台国の第一次資料である陳寿著「魏志倭人伝」は、日本人のために書かれたものではないことをもっと注目すべきだと強調していました。魏呉蜀の三国が覇権を争っていた時代に、天下国家を取るために、自国に都合の良いように脚色した部分もあり、全面的に信用できないといいます。だから、魏志倭人伝に書いた通りに邪馬台国の場所を探して辿っていくと九州の南の海の中になければならなくなってしまいます。

 これは、他の本で読んだのですが、卑弥呼に「卑しい」を使い、、邪馬台国に「邪(よこしま)」の文字を当てたこと自体が、明らかに中国側から見た倭人に対する蔑称です。(日本では、卑弥呼は、姫子と呼んでいたという説もあり)

 邪馬台国は何処にあったのか?-は確かに「古代のロマン」として好奇心をくすぐられます。でも、なぜ、明智光秀が、主君織田信長を裏切って本能寺の変を起こしたのか、諸説あって理由が定かでないように、「よく分からない」「ミステリー」が、日本史の魅力にもなっているのではないでしょうか。

 また、新たな発掘調査で真相が明らかになるかもしれませんが、「永遠に謎」でも私は構わないと思ってます(笑)。

 【後記】

 写説に書いた通り、きこしめながら、番組を見ていたので、書いた数字は正確ではないかもしれません。もし、事実誤認がありましたら、訂正致します。また、番組と同じぐらい週刊朝日ムック「歴史道」(「古代史の謎を解き明かす!」特集号)を参照しました。

 ところで、今朝(1月4日付)朝日新聞によると、本能寺の変の際、明智光秀が直接、本能寺を急襲したのではなく、家臣の斎藤利三(としみつ=春日局の父)に任せて、自分は京都市南部の鳥羽にいた、という説には驚きました。これだから歴史は面白いのです。

株価高騰は異常なのでは?来年も城巡りが楽しみ=大晦日所感

 今日は大つごもり。まずは、この1年、読者の皆様には御愛読賜り、洵に有難う御座いました。先程、このブログのページヴューを見たら、何と総計40万アクセスを超えておりました。新しいサイトに独立・移転してカウントを始めたのが、2017年9月15日のことです。3年で40万を超えるなんて、誰も知らない秘密結社のような無名のブログにしては我ながら大したもんだと自負しております(笑)。

 もともと、「渓流斎日乗」を始めたのは2005年3月15日のことでした。来年で16周年ということになります。こんなに続くとは!です。今年は15周年の記念で、簡単な飲み会でもやろうかと図っておりましたが、豈はからんや、新型コロナ禍で、あえなく中止を余儀なくされてしまいました。

 ブログはもともと、遠く離れた異国に住んでいる友人への手紙のつもりも含めて書き始めたのですが、思想信条や趣味嗜好が合わなかったのか、彼からの音信も途絶えてしまいました。ブログを書くと、どうも「ソリが合わない」と思われるのか、それとも、「こんな奴と付き合っていられない。時間の無駄だ」と思われるのか、2020年も離れて行ってしまった特別な方もおり、個人的にはかなり落ち込みました。

 でも、新しい読者の方も増えましたし、こうして、長らくいまだに読み続けてくださる方もいらっしゃるわけですから、気を取り直して、来年も続けていきたいと思います。

福知山城

 いつも「長い」と言われているので、これで終わりにしても良いのですが(笑)、またマスクを買ってしまった話をします。通販で「100枚900円」を見つけて、まだ沢山マスクは残っているのに、つい誘惑に負けてしまったのです。1枚、何と9円ですよ!本当かなあ。…忘れもしない、今年5月3日、マスクがどこの店に行っても品切れ状態だった頃です。自宅近くで売っていたマスクは、50枚3300円もしたのです。1枚66円です。それが7カ月後に7分の1近くも値段が急降下したのです。信じられませんね。

 信じられないと言えば、株価です。昨日の大納会で、日経平均の終値が2万7444円と年末の株価としてはバブル経済で史上最高値を付けた1989年以来31年ぶりの高値だったというのです。年間の値幅は1万1015円という乱高下です。コロナ禍で、倒産や雇い止めや失業という最悪の景気の御時世で、異常ですよ。まさに逆現象が起きてます。「日銀がETFを買って、せっせと株価を釣り上げている」とか「外国人投資家が、割安の日本株を物色して買いに邁進している」とか専門家は色々言ってますが、説明つきませんね。そのうちバブルが弾けて、暴落するのではないでしょうか。まあ、私の予想は当たらないでしょうが、投資に向いてないと悟った私は、大半の自己資産は今年、損切りで市場から回収したことを告白しておきます。

 今年は相変わらず「城巡り」をし、坂本城や丹波亀山城、福知山城など明智光秀ゆかりのお城(跡)や関ヶ原などに行けたことは収穫でした。また、本で戦国時代の合戦や武将関係、江戸五百藩などの知識も得ることができ、来年もお城巡りが楽しみです。温泉付きを望んでますので、一刻も早いコロナの終息を願っています。

 私自身、お酒は呑みますが、煙草は吸わず、夜鷹も博打も賭博もやらないので、エンゲル係数90%でもいいですから、貯金を取り崩しながら残された人生を牛の歩みで過ごしていきたいと思います。来年は丑年ですからね。

 皆様も良いお年をお迎えください。

名こそ惜けれ=戦国武将の死生観

最近、どうも個人的な関心が「戦国時代」づいています。日本の歴史の中で、戦国時代を知らなければ、江戸時代のことが分からないし、江戸時代のことを知らなければ、現代も分からない、とこじつけみたいな話ですが、戦国時代のことを知ると、何か、日本史の舞台裏と政略結婚による人脈が分かるような気がして、爽快な気分になれるのです。

 ということで、また「歴史人」(KKベストセラーズ)1月号を買ってしまいました。「戦国武将の死生観」を特集していたからです。いつも死と隣り合わせで生きてきた戦国武将の遺言状や辞世の句などが載っていますが、不運にも討ち死にしたり、処刑されたりする武将がいる一方、当時としては恐るべき長生きした武将もいたりするので、大変興味深かったです。

 最初に「戦国大名 長寿ランキング」を御紹介すると、1位が真田信之の93歳、2位が島津義弘の85歳、3位が尼子経久と宇喜多秀家の84歳、5位が細川忠興の83歳…となっています。各武将、色んな逸話がありますが、1位の真田信之は、有名な真田幸村のお兄さんです。関ケ原では、真田昌幸・信繁(幸村)親子が西軍についたのに対して、信之は徳川方の東軍について、戦後、父昌幸の上田城を与えられ、元の沼田城主と合わせて6万8000石の大名になった人です。当時としては信じられないほど長寿である数えの93歳まで生きましたが、30代から病気がちの人だったらしいですね。

 真田藩は元和8年に上田から松代に移封されますが、幕末にこの藩から佐久間象山を輩出します。

 3位の宇喜多秀家は84歳で亡くなりますが、後半の約50年間は八丈島で過ごし、そこで亡くなっています。備前・美作の大名で、豊臣秀吉の五大老にまで昇り詰め、関ケ原の戦いでは西軍に属して敗退し、島流しになったわけです。前田利家の娘を娶ったことから、島流しの間は、密かに前田藩からの援助があったと言われています。勿論、皆さん御存知の話ですが。

 また、「戦国武将の滅びの美学ランキング」で、1位を獲得したのは松永久秀です。以前なら、主君三好氏に反逆し、将軍足利義輝を殺害し、東大寺大仏殿を焼き打ちした極悪非道の、下克上の典型的な悪人のイメージがありましたが、最近では、随分見直されてきたようです。将軍義輝暗殺事件の際は、久秀は大和の国におり、直接関与せず、大仏殿の焼失は三好方の放火だったいう説が有力になってきたからです。

 久秀の最期は、天下一と称された「平蜘蛛の茶釜」とともに信貴山城で、織田軍に抵抗して爆死したと言われますが、茶器、刀剣、書画などの目利きという一流の文化人でもありました。いつか、彼が築城した多聞城趾に行きたくなりました。

 戦国時代の「天下分け目」の最大の合戦は、関ケ原の戦いですが、盟友石田三成に殉じて自害した大谷吉継の逸話が印象的です。西軍に属していた小早川秀秋らの裏切りで、吉継軍は壊滅しますが、吉継は自害するときに「(小早川秀秋は)人面獣心なり。三年の間に必ずや祟りをなさん」と秀秋の陣に向かって叫び、切腹したといいます。

 小早川秀秋は、秀吉の正室ねね(北政所、高台院)の兄木下家定の息子、つまり甥に当たる人物で、毛利元就の三兄弟の三男小早川隆景に後嗣がいなかったため、その養子になった人でした。秀秋は関ケ原の戦いの2年後に21歳の若さで急死したので、「大谷刑部の祟り」と噂されたのでした。

 勿論、皆さま御存知の話でしたが、この本にはまだまだ沢山色んな話が出てきます。山崎の戦いで秀吉軍に敗れた明智光秀が、近江の坂本城に戻ろうと逃げた際に残った従者に溝尾茂朝(みぞお・しげとも)や進士貞連(しんじ・さだつら)らの名前が出てきて、随分、マニアックながら、私なんか「武士は死して名を残す、というが凄いなあ」と思ってしまいました。

 あまりにも戦国武将の逸話を読み過ぎると、「中学時代の友達だった南部君は、南部藩主の末裔だったのかなあ?」とか、「古田って、あの古田織部の子孫かな?」「立花さんは、立花宗茂の子孫かなあ?」なぞと、勘繰りたくなってしまいました(笑)。

 豊臣秀吉の一族は、大坂の陣で滅亡したことになってますが、織田信長の一族は現代にも子孫は続いてます。何しろ信長には11人(12人説も)男子がいました。信長の嫡男信忠は、本能寺の変の際に討ち死にしましたが、信長の弟の長益(有楽斎)や二男信雄らの子孫は生き残り丹波柏原藩主などになりました。

 そう言えば、元フィギュアスケート選手の織田信成さんは直系の子孫ともいわれています。

 当然の話ながら、遠い遥かな戦国時代が現代と繋がっています。

【追記】

 19日のNHKの番組で、「関ヶ原の戦い」の新発見をやってました。空撮による最新技術で赤色立体地図を作成したところ、本丸が一辺260メートルもある巨大な山城「玉城」が山中(地名)に発見されたのです。恐らく、ここが西軍の本陣の陣城で、豊臣秀頼か総大将の毛利輝元の数万の部隊を配置する目論見だったらしいことが分かりました。文献に出てこないのは、勝った徳川側からしか関ヶ原の戦いが描かれていないからでした。

 当時、8歳の秀頼は、母親の淀殿と秀吉の正室の北政所の庇護下にあり、淀殿も北政所も必ずしも西軍や石田三成側に立っていたわけではなかったようでした。だから、寝返った小早川秀秋も、調略を進めていた東軍の黒田長政も、北政所から養育され、北政所だけに忠誠心があったため、小早川が寝返ったのは、北政所の意向に沿ったことが真相のようでした。新説です。

毛利輝元は、関ケ原の戦いのどさくさに紛れて、九州、四国に領土拡大を図り、大坂城から一歩も動かず。南宮山に陣取った輝元の養子の毛利秀元も、徳川軍勢を見過ごすなど最初から西軍のために戦う気がないような怪しい動きばかりしていました。

 毛利と島津義弘が真面目に戦い、淀殿と北政所が西軍に協力的だったら、必ず西軍が勝っていた戦いでした。

 これだから歴史は面白い。

年を経て趣味趣向も変わる

新橋演舞場

  「ブログは毎日書き続けなければ駄目ですよ」との先哲の教えに従って、話題がなくても、できるだけ書き続けるようにしています。

 苦痛と言えば苦痛なのですが、もう40年以上もジャーナリズムの世界にいて、毎日のように記事を書き続けて来たので、普通の人より書き慣れているといいますか、いわば「職業病」とも言えるでしょう。職業の延長線でブログを書いているようなものですから、刀根先生をはじめ、何で他の人は毎日続かないんだろうとさせ思ってしまいます(笑)。

 ところで、最近、ものの見方といいますか、自分の考え方が年を経るうちに変わってきていることに気が付いております。

 一番変わったと思うのは「転向者」に対する見方、考え方でしょう。昔なら、そんな節操のない裏切者は許しがたかったのに、今では全く逆に、転向せずに自己の思想を守旧した人の方が、どこか空恐ろしさを感じてしまいます。だって、人間は趣味趣向も考え方も日々変化するものでしょう。生物学的に言っても、細胞だって毎日のように入れ替わっているし、歯だって悪くなるし、髪の毛も抜けたりします。自分の考えを絶対曲げない人は、確かに格好良いかもしれませんが、そこは大人の力学で妥協しなければならない時もあるし、その方が万事うまくいくこともあります。

 戦前は、「国賊」扱いだった足利尊氏や「謀反人」の典型だった明智光秀も、戦後は随分歴史的解釈も変わり、名誉も回復されたではありませんか。

銀座 木挽町で …うーん、分かりやすい。アナログ万歳!

 趣味趣向といえば、私自身は音楽が大好きで、学生の頃は毎日、16時間も聴いていたものですが、今ではほとんど聴かなくなりました。今は1日30分も聴いているかどうか…。

 若い頃は「音楽こそがすべて」でした。ちょうどソニーのウォークマンが新発売され、電車の中でも歩きながらでも、本当に一日中、音楽を聴いていた感じでした。

  それが年を取ったせいなのか、ゆっくり腰を落ち着けて音楽が聴けなくなってしまったのです。というか、勉強しながら、本を読みながら、家事をしながら、といった「ながら」で音楽が聴けなくなったのが一番大きいのです。勉強しながら、では、その勉強のことだけで頭がいっぱいで、音楽が少しも脳に染み込んでくれないのです。つまり、昔だったら、人とおしゃべりしながら、本を読みながら、音楽を聴いてもしっかり把握できたのに、年を取ってからは、一つのことしか頭に入らなくなってしまったのです。音楽を聴くなら、そのことだけ集中して一心不乱に聴けば、脳みそに入ってくれるのですが、他のことをしていると他の方に気を取られて音楽が入ってこなくなってしまったのです。

 いまはまだ、読みたい本も、読まなければならないと思っている本もたくさんあるので、音楽を聴くだけに時間を割くのが惜しい気がしているのです。つまり、あんなに好きだった音楽が自分の人生の優先事項 priority ではランクが落ちたということになります。

 そして、唐突ながら、最近、酒量がめっきり減りました。昔は大酒飲みだったんですが、別に飲まなくても平気な顔をすることができるようになりました。自分自身の健康に気を遣っているかもしれませんが、どうしても呑みたいという気もあまり起きなくなりました。単に年を取ったせいなのかもしれませんが…(笑)。

 まだあります。美術の趣味が全く変わってしまったことです。若い頃は、泰西名画一辺倒で、ゴッホの「ひまわり」とか、とにかく脂ぎった油絵が大好きだったのに、今では、わびさび、枯淡な水墨画、もしくは長谷川等伯、狩野派、琳派などの日本美術の方が遥かに好きになりました。展覧会に行くとしたら、西洋美術よりも日本美術や仏像展を優先したくなります。

 なあんだ、やはり、単に、抹香臭くなって、年を取っただけかもしれませんね(笑)。

 

哀れ、明智光秀の最期=ムック「戦国争乱」

 コロナ禍で、結局、休日は「我慢の三連休」になってしまいました。ひたすら、家に閉じこもって勉強をしていました。何の勉強ですかって? フリーランスの個人事業主として必須の簿記関係です。訳が分からなくなって、ここ数カ月、何度も何度も匙を投げ出したくなりました。まさか、この年まで受験生のような勉強をさせられるとは夢にも思っていませんでした。今でもよく分からず、フラストレーションが溜まります。

 そんな勉強の合間、気分転換に読んでいるのが、中央公論新社のムック「戦国争乱」です。今、個人的にも戦国時代への関心、興味が深まっているので、この本は異様に面白いですね。信長、秀吉、家康を中心に「桶狭間の戦い」から「大坂の陣」までの代表的な18の合戦と60人の武将を徹底的に分析しています。何と言っても、戦国時代を日本史の狭いジャンルに閉じ込めることなく、世界史的視野で位置付けているところが、この本の醍醐味です。

 今年6~7月に放送された「NHKスペシャル 戦国~激動の世界と日本~」で、私も初めて知ったのですが、スペインの国王フェリペ二世は、宣教師を「先兵」に使って、日本をメキシコやフィリピンなどと同じように植民地化することを企んでいたといいます。この点について、この本でも詳しく触れられていて、清水克行明大教授によると、日本でのイエズス会の目的は二つあって、一つは純粋なキリスト教の布教。もう一つは、軍事大国日本を先兵にして中国・明の植民地化にあったといいます。イエズス会の創設者の一人イグナティウス・デ・ロヨラは、元々軍人でしたからね。本当は、日本を最初に植民地にする予定だったのが、自前で何万丁も火縄銃をつくってしまう世界最大級の軍事大国だった日本を攻め落とすことができないことを宣教師たちには早々に分かったようで、究極の目的の中国植民地化に切り替えたのでしょう。

 純粋な布教を目指したのは、宣教師ザビエル、巡察師バリニャーノ、司祭オルガンティーノらでした。彼らは、中国植民地化で政治利用を図った日本布教長のカブラル、日本準管区両長コエリョ、司祭フロイスらとの間で確執があったといいます。

 また、昨日22日のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」でもやってましたが、あの歴史的な織田信長による「比叡山焼き討ち」についても詳しく解説してくれています。テレビでも、主人公の明智光秀は、比叡山焼き討ちは、信長の命令で不本意にも仕方なく参戦したように描かれていましたが、この本では違っていました。光秀は積極的に参戦したというのです。

 近年、明智光秀が大津市の土豪和田秀純に送った書状(1571年9月2日付)が見つかり、光秀は内応を約束した秀純には前日の戦勝を報告する一方、敵対する仰木村の民は皆殺しにすると記していたといいます。

 光秀はこの時期、足利将軍家と織田家の両方に仕え、どっちつかずの状態だっため、比叡山焼き討ちに積極的に参戦して、織田家臣として手柄を立てたかったのではないかと推測されています。実際、光秀は信長からその武功を認められ、焼き討ちした坂本の領地を与えられます。

 私も、実際、「明智光秀ゆかりの地」を訪ねて、今月初めに坂本城跡や光秀の菩提寺である西教寺に行ってきたばかりなので、文字だけで想像力が湧きました。

 本能寺の変の後の天下分け目の「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍に敗れた明智光秀は、大津の坂本城に逃げ帰る途中の京都市伏見区小栗栖の「明智藪」で、落ち武者狩りの農民によって殺害されます。秀吉は、確保した光秀の首を本能寺の焼け跡に晒し、次いで首と遺骸をつないで粟田口で大罪人を示す磔にしたと、この本に書かれていました。

 この部分を引用することはやや逡巡はしましたが、冷酷な戦国時代の実相だと思われ、敢えて引用しました。明日にも露のようにそこはかとなく消えてしまう命のやり取りをしていた戦国武将と比べれば、今のような平和な時代に生まれた現代日本人の悩みなど本当に取るに足らないものなのかもしれませんね。何度も書きますが、戦国時代に生まれなくてよかった。

伊達政宗の祖先は茨城県人だった=「歴史人」11月号「戦国武将の国盗り変遷マップ」

 「歴史人」11月号(KKベストセラーズ)「戦国武将の国盗り変遷マップ」特集をやっと読了しました。

 不勉強のせいか、知らなかったことばかりです。特に、東北地方の戦国時代の武将は、伊達政宗と上杉景勝と最上義光ぐらいしか知りませんでしたが、まさに群雄割拠で、他にも有象無象の大名がのし上がっては消える弱肉強食の時代だったんですね。

 知っていたはずの伊達政宗にしても、仙台の青葉城の印象が強すぎて、伊達氏は元々の東北人かと思っていましたら、常陸国伊佐庄中村(茨城県筑西市)出身で、鎌倉幕府を開いた源頼朝の関東御家人として、奥州藤原氏征伐に参戦し、武功として伊達郡を与えられたため、伊達氏を称したというのです。本姓は「中村」だったといいます。伊達者が絢爛豪華な数寄者の代名詞になっているぐらいですから、他の苗字だとピンときませんね(笑)。

 もう一人、「福島」の地名をつくった木村吉清という人物がおります。この人、元々、丹波亀山の足軽か雑兵出身だったといわれ、俄か大名の典型です。信長に謀反を起こした荒木村重に仕え、彼が失脚した後、明智光秀の家臣となり、本能寺の変にも参戦したといいます。山崎の合戦では羽柴秀吉につき、その戦功により5000石を与えられた、と、サラリとこの本に書かれています。でも、よくよく考えてみれば、本能寺の変から山崎の合戦までわずか11日です。こんな短時間で光秀を見限って寝返ったということになりますが、まさに戦国時代だからこそあり得る話なのかもしれません。もしかして、彼は、相当な忍びの間者を擁していて、秀吉の「中国大返し」のことも、細川幽斎・忠興親子が光秀を見捨てたという情報も得ていたのかもしれません。

 木村吉清は、秀吉による「奥州仕置き」で遠征し、「抜群の功があった」としてその60倍も加増されて東北の大大名になりますが、家臣団は浪人・無頼者出身が多く、暴政を敷いたため、地元の葛西氏や大崎氏の残党も加わった一揆で失脚します。一揆の背後で、伊達政宗が糸を引いていたとも言われています。その後、吉清は、嫡男清久とともに、蒲生家の与力として遇されて、信夫郡杉目5万石を与えられ、吉清は、この杉目の地を福島と改名したといいます。

 ちなみに、吉清の嫡男木村清久は、最期まで秀吉の恩を忘れなかったのか、大坂の夏の陣で討死しています。

 ◇尼子の悲劇

 このほか、中国地方で毛利元就・輝元に滅ぼされた出雲地方の大名だった「尼子の悲劇」があります。尼子義久・勝久に仕えた重臣で「尼子三傑」の一人、山中鹿介(やまなか・しかのすけ)は、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話が有名ですが、今では知る人は少ないでしょう。

 また、戦前の修身などの教科書では、楠木正成・正行父子が訣別する「桜井の別れ」が必ず取り上げられ、知らない人はいなかったと思われますが、「忠君愛国」思想を教育するのにちょうどよかったのかもしれません。このように、歴史の常識というのは、解釈の面で、時代によって変わっていくものだということを思い返し、この本を興味深く拝読致しました。

 それにしても、戦国史ですから、人間の本性が剥き出しです。疑心暗鬼から、離合集散あり、裏切り、寝返り、下剋上ありの何でもあり、しかも殺戮の仕方があまりにも残酷で、つくづくこの時代に生まれなくてよかった、と改めて天に感謝しております。

明智光秀ゆかりの地を訪ねて(中)=西教寺~坂本城跡~丹波亀山城~福知山城

福知山城

 2020年11月7日(土)、光秀ゆかりの地行脚二日目です。

 まず、大津市坂本にある西教寺をお参りしました。明智光秀一族の菩提寺です。

 日本最大の湖、琵琶湖の南部の「ほとり」にありますが、前夜泊まった北部・長浜市の「対岸」にあり、バスで1時間半も掛かりました。

 この大津市坂本は、琵琶湖のほとりであると同時に、比叡山の「麓」でもあります。織田信長は1570年、敵対する比叡山延暦寺の焼き討ちを断行します。家臣である明智光秀は不本意ながらも参戦し、この西教寺も延焼させたといわれます。その後、信長により坂本の地を与えられた光秀は、いち早く、この西教寺を再興するのです。

西教寺総門 坂本城大手門を移築したものと伝わる

 いやあ、思いのほか広い境内でした。聖徳太子が恩師である高句麗の僧慧慈、慧聡のために創建したと伝えられる古刹です。

 さすが全国に400余りの末寺を持つ天台真盛宗の総本山だけあります。

 この唐門の軒に、何と麒麟の彫刻が見られます。明智光秀が主人公のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」はフィクションですが、当時も、架空の動物ながら麒麟の存在を知られていたのかもしれません。

 西教寺境内にある明智光秀一族の墓です。

 我々はこの日の翌日に、光秀が殺害された「明智藪」(京都市伏見区小栗栖)を訪れましたが、光秀の遺骸はここまで運ばれたということなのでしょう。この寺は、先に亡くなった光秀の最愛の妻煕子(ひろこ)さんと実家の妻木家(美濃守護土岐氏の家臣)の墓もありました。

  光秀の墓と比べると煕子さんの墓はとてもこじんまりとしていました。戦国時代は、妻の葬儀に夫は参列しないという風習がありましたが、光秀は旧習を破って参列したと言われています。

 「煕子」という名前は、三浦綾子の小説「細川ガラシャ夫人」で広く知られるようになりましたが、それ以前は「お牧(槙)の方」の名前で通っていたようです。享年も46や36など諸説あります。

 西教寺の本堂です。本堂内には立派な阿弥陀如来坐像(重要文化財)が鎮座されておりました。

 境内の庭園も素晴らしく、一度は訪れたい寺院だと思います。何しろ総本山ですからね。渓流斎のお墨付きです。 

坂本城 本丸跡

 西教寺の後、坂本城に向かいました。この地を信長より下賜された明智光秀が1571年(元亀2年)に築城しましたた。宣教師ルイス・フロイスの著書「日本史」では、「安土城に次ぐ天下第二の城」と評されたらしいのですが、今は全く面影なし。

 石垣も今では琵琶湖の奥底に沈み、よほどの干潮でない限り、見られないそうです。上の写真を見ても、ここに本丸があったことなど誰も想像できないでしょう。看板すらありません。

 なぜなら、ここは今ではタッチパネルなどを製造するITメーカー、キーエンス(大阪市東淀川区)の保養所になっているからです。NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が放送される来年2月ぐらいまで、特別許可として私有地を観光客向けに公開してくれているのです。

 ということは、来年2月以降は、関係者以外立ち入り禁止になります。団体ツアーに参加してよかったと思いました。

 キーエンスは「日本一給与が高い」という一流企業ですが、勤務時間も長いという噂がありますね(笑)。

 坂本城の本丸ではなく、二の丸辺りが城址公園になっていました。

 城址公園にはこのように明智光秀の銅像があります(これからも出てきますが、他の城址公園にも結構、明智光秀像がありました)。

 坂本城を築城した頃の光秀は43歳。それぐらいの年齢の頃の像なのでしょう。

上の写真は、坂本城の三の丸あたりにあった碑です。

 ご興味のある方は、説明文もお読みください。

 また、大河ドラマの幟が立ってますね。NHK畏るべし。

 お昼は、びわ湖楽園ホテルの湖国御膳(滋賀県の郷土料理)でした。鮎、近江牛…料理長さんらしき方がメニューを紹介してくださいました。

 鴨肉が美味しかった。関東で食べる鴨は結構堅いですが、こちらはすごく柔らかくてハムのようでした。ご飯もおかわりしてしまいました。

 昼食会場のびわ湖楽園ホテルから西へ50分ほどで、丹波亀山城(京都府亀岡市荒塚町)に到着しました。

 明智光秀が1577年(天正5 年)頃、丹波攻略の拠点とするために築城しました。明治維新後、廃城となり、すかり荒廃してしまい、所有者も転々としたことから、大正期に新興宗教の大本教の教祖出口王仁三郎(でぐち・おにさぶろう=1871~1948)が購入し、大本教の教団本部となって現在に至っています。

 城址公園内には、またこうして明智光秀像がありました。こちらは、逆算すると、光秀49歳ぐらいの時の像と思われます。

 上の写真が、現在の大本教の教団本部です。かつて丹波亀山城の本丸があったところです。

 教団本部の中には書店もあり、出口王仁三郎の主著「霊界物語」全81巻もありました。いつか読んでみたいと思っています。

 というのも、元毎日新聞記者の早瀬圭一氏が書いた「大本襲撃」(2007年初版・毎日新聞社)を読んで感動したからでした。

 こうして、神聖なる教団の敷地を、物見遊山の一般客にも開放してくださることも凄いと思っております。

 ですから、私自身が大本教に入信することはありませんが、全く偏見はありません。

 上の写真の説明文にある通り、出口王仁三郎が大正末にこの地を購入した時、城址の痕跡すらほとんど残っていなかったようです。

 教団信者がそろって、汗水たらして、石を積み重ねて、当時の有り様を復元したようです。

 しかし、大正末から昭和初めにかけて、大本教は二度も時の政府官憲から襲撃され、徹底的に破壊されます。せっかく積み上げた石垣もです。宗教弾圧です。

 上の写真を見ると、石垣は苔むして、明智光秀が築城した450年前の頃のものに見えますが、実は、二度も大本教団本部が破壊されたため、戦後まもなくに復旧復興されたものです。

 それを考えると、あまりにも凄い。出口王仁三郎の明智光秀が築城した亀山城を是が非でも復元したいという執念が伝わってくるようです。

 ちなみに、丹波亀山城のある亀岡市の亀岡駅は、JR山陰本線の快速で京都駅までわずか20分。通勤圏になっているそうです。

 また、この近くの湯の花温泉には、ジョン・レノンと小野洋子夫妻がお忍びで訪れたらしいですね(笑)。

 丹波亀山城を後にして北西に向かったのは、この日最後の予定の福知山城(京都府福知山市)です。バスで1時間5分ほどの距離でした。

 福知山城は天正7(1579)年、丹波を平定した明智光秀が築城しました。明治維新後、廃城となり、石垣と銅門番所だけが残っていましたが、1986年に市民の瓦1枚運動などで三層四階の天守閣が復元されました。内部は明智光秀に関する資料や福知山地方の歴史や文化財を紹介したパネルなどがありました。

 財団法人日本城郭協会による「続 日本の名城100」にも選出されています。スタンプの台帳も家から持ってきたのに、浮かれていたのか、バスの車内に台帳を置いたまますっかり忘れてしまいました。嗚呼、残念!!

 明治になって廃城になっても石垣は残ったということで、光秀時代の石垣です。

 この写真の右上に模様のついた変な直方体の石が見えます。これは何と、墓石から転用されたらしいのです。

 領民をあまり苦しめたくないという明智光秀の配慮で、近場にある、利用できるものは何でも利用しようといった作為の現れのようです。

 主君織田信長を暗殺した逆賊のイメージが強かった明智光秀ですが、地子銭の免除や治水事業など善政を行い、領民たちには優しかった面があり、福知山では今でも光秀を慕う「福知山音頭」が歌い継がれているという話です。

 そこで思い出したのが、「忠臣蔵」では悪役の吉良上野介です。この高家旗本吉良義央は、「悪の権化」のように描かれています。私はもう30年近い昔、彼が治めた吉良町(現愛知県西尾市)を取材で訪れたことがありますが、地元では、灌漑用水を整えたりした領民思いの領主だった、と言い伝えられ、今でも尊敬されていました。

 歴史の解釈って多面的に複層していて、分からないものですよ。一方的、皮相的に見てはいけないという教訓です。

高野山に眠る著名大名 信玄・謙信・信長・光秀・三成…

雨飾山(百名山)

仕事の取材とプライベートの旅行で、既に30歳代で、北海道から沖縄まで全国47都道府県の全てを踏破しましたが、まだまだ行っていない所、行ってみたい所は数知れず。日本は結構広いです(笑)。

これまで行ったことがなくて、是非行きたい所の中に、空海が開いた高野山(和歌山県)があります。でも、諸般の事情で今年も行けそうにありません。そしたら、NHKの人気番組「ブラタモリ」で3週連続で特集をやってくれているので、食い入るように見ています。

いやあ、知らなかったことだらけですね。

特に、空海の「御廟」がある奥の院につながる道筋に実に30万基もの墓と供養塔があり、多くの有名人や大名が眠っているという事実には驚かされました。

戦国武将武田信玄と上杉謙信の墓が目と鼻の先にあるかと思えば、織田信長と明智光秀の墓まで側にあるのです。このほか、小田原の北条、仙台の伊達、薩摩の島津、加賀の前田、柳川の立花などの大名家もありました。意外にも関ケ原で敗れた石田三成までここで眠っていたのですね。

かつて、高野山は「追放」や「亡命先」のような側面がありました。有名な史実は、関白豊臣秀次でしょう。秀吉の世継ぎとして一旦は指名されながら、淀君(浅井長政と信長の妹お市との間に生まれた茶々)に実子秀頼が生まれたことから、秀吉に疎まれて、高野山に幽閉され、結局は自腹を切らされます。

この事件がきっかけで、秀吉の信望が厚かった山内一豊(掛川)や田中吉昌(岡崎)ら秀次の御家中衆や仙台の伊達政宗らが秀吉から離れ、彼らが関ケ原では家康側についてしまう原因となってしまいます。

関ケ原後、信州で秀忠軍を食い止めた真田昌幸・信繁(幸村)  親子も高野山に幽閉されましたね。このように、高野山は政治的裏舞台でもあったのです。

で、何で、これだけ多くの墓や供養塔があるのかと言いますと、番組によりますと、お釈迦様が入滅した56億7000万年後、弥勒菩薩の姿で復活され、空海もいわば「通訳」としてこの世に復活するというのです。同時に空海の側に控えている人たちも復活するということで、奥の院にこれだけ多くの墓や供養塔があるというのです。

復活というと、まるで耶蘇教の教えのようですが、戦国大名らは信じたのでしょう。彼らだけでなく、現代でもパナソニックやクボタなどの大企業がお墓か供養塔をつくってましたから、信仰の深さは変わらないということなんでしょう。

有名人のお墓の中には、俳優の鶴田浩二がおりましたが、番組のアシスタントの若い優秀な近江アナウンサーは、鶴田浩二のことを「知らない」と言うのでカルチャーショックを受けましたね。あんな一時代を築いた大物俳優でさえ、忘れ去られてしまうとは!

「街のサンドイッチマン」も知らないことでしょう。

嗚呼、諸行無常

加藤廣著「明智佐馬助の恋」

 勝毎花火

公開日時: 2007年8月9日

加藤廣著「明智佐馬助の恋」を読了し、これで、やっと加藤氏の「信長の棺」「秀吉の枷」上下と合わせて「本能寺三部作」を読み終えることができました。

 

最初に織田信長がきて、続いて豊臣秀吉、それなら3部作の最後は徳川家康かな、と思ったら、最後は、明智光秀の娘婿が主人公だったです。おめでたい私は、何故明智なのか、最初分からなかったのですが、著者の加藤氏は「明智左馬助の恋」の後書きで、種明かしをしています。

 

同じ主題(ここでは「本能寺の変」)を3つの角度から複合的に捉えて、その立体像を明らかにして歴史的真相に迫る。これは、黒沢明監督の映画「羅生門」(原作は芥川龍之介「藪の中」)と井上靖の「猟銃」から手法を学んだということを書いています。東京空襲を経験した著者は、3点からサーチライトを照らして敵機を捕らえて撃墜していたことを見た経験を語っています。著者曰く「三次元自動焦点」方式です。

 

本能寺の変という歴史的ミステリーは、信長の遺体が忽然と消え、遥か彼方の中国地方で毛利軍と対峙していたはずの秀吉が、他の武将よりも逸早く情報をキャッチして、「中国大返し」と呼ばれるアクロバチックな帰還で、光秀を山崎の合戦で打ち破って、天下を取ってしまうのです。それはどうしてなのか、なぜそんなことができたのか、というものでした。

この3部作を読んでいない人は、この先、読むとつまらなくなるのでやめておいた方がいいと思いますが、加藤さんは、信長暗殺を、秀吉「主犯」、光秀「未遂犯」説を採っています。

いやあ、面白かったですよ。著者の執筆の基本姿勢は「勝者に悲哀を、敗者に美学を」ということですから、今、逆境にいる人が読んだら、随分、救われると思います。

特に、私がこの中で一番面白かったのは、「秀吉の枷」の上巻ですね。秀吉の諜報活動が事細かく分析されていますが、まさに情報は力なり、情報収集能力の差で天下を取った証左をまざまざと見せ付けてくれます。

昨日の答え

1、ハンブルパイ

2、ブラックサバス

3、マウンテン

4、アニマルズ

5、新聞広告