「本能寺の変」の謎が解明した?

 古代史に回帰したと思ったら、もう戦国時代に戻ってしまいました(笑)。

 また、例の週刊朝日ムック「歴史道」最新号が「本能寺の変」を特集していたので、迷わず買ってしまったのです。

 この本の発売日が1月6日。その2日前の1月4日の朝日新聞の朝刊一面に大スクープが掲載されました。何と、「明智光秀は、本能寺に行っていなかった?」という衝撃的な新事実が発見されたのです。明智光秀が最も信頼していた家臣の斎藤利三(としみつ、1534~82年、春日局の父、山崎の戦いの後、捕縛され処刑、絵師海北友松の親友)と明智秀満(左馬助、1536~82年)率いる先発隊2000余騎が本能寺を襲撃し、光秀本人は、本能寺から南約8キロの鳥羽に控えていたというのです。

 えっ? それなら、「敵は本能寺にあり!」と、軍配を寺に向けて突進した明智光秀の姿は、講談のつくり話だったんですか? 講談師、見てきたような嘘を言う、とは昔から言われてきました(笑)。

 「明智光秀が本能寺に行かなかった」と証言したのは、実際に本能寺の変に参戦した斎藤利三の三男利宗(としむね、1567~1647年、当時数えで16歳)だったということですから、かなり信憑性があります。(加賀藩の兵学者関屋政春著「乙夜之書物(いつやのかきもの)」上巻(1669年)の中で、斎藤利宗が甥で加賀藩士の井上清左衛門に語ったというもの)

 この「歴史道」では、本能寺の変に関する歴史的史料を「一次史料」「二次史料」と区別して列挙していますが、勿論、この「乙夜之書物」は、雑誌の締め切りの関係で入っていません。が、後世に書かれた「二次史料」とはいえ、信憑性は高いでしょう。斎藤利宗が、江戸の平和な時代になって甥に嘘や出鱈目を語って何の得になるのでしょうか。

 織田信長に関する評伝で最も有名な歴史的史料は、太田牛一著「信長公記」ですが、これは後世になって一次史料を参考にして書かれたもので、二次史料に分類されていました。一次史料で重要なものの一つに、光秀と深い親交のあった吉田神社の祀官だった吉田兼見が残した「兼見卿記(かねみきょうき)」があり、そこに光秀本人が本能寺を急襲したように書かれていたため、後世に影響を与えたようです。

 しかし、吉田兼見自身が本能寺近くに行って見たわけではなく、あくまでも伝聞で書いたといいます。となると、実際に本能寺の変に参戦した人物である斎藤利宗の証言の方が真実ではないでしょうか?

 この本でも、小和田泰経氏は「たかだか1町(約109メートル)四方の寺院を取り囲むのに大軍は必要ない。(明智光秀は)全軍(1万3000~2万兵)で本能寺を攻めたのではなく、残りは七口と称される京都の出入り口を押さえていたのであろう」と書いてあるので、光秀本人が「現場」に行かなかったことは、十分あり得る話なのです。

本能寺跡

 光秀は、直接、主君信長に手を掛けたくなくて本能寺に行かなかったとしたら、彼の性格が伺えます。この本では、本能寺の変を起こした光秀の動機について、「怨恨説」「黒幕説」「野望説」など色々書かれていますが、私は、一つじゃない「複合説」を取ります。信長の古くからの重臣である宿老の佐久間信盛が追放され、滝川一益は伊勢長島(三重県桑名市)から上野厩橋(群馬県前橋市)に国替えさせられるなど、信長は世代交代を始めた。光秀も、せっかく坂本城、丹波亀山城を苦労して治めることができたのに、次は俺の番か、と危機感を持ったこと。四国長宗我部元親との交渉役を外されたこと。それに、中国毛利軍と戦っていた羽柴秀吉の与力(配下、つまり格下げ)になることを命令されたことなどから、将来を悲観して、中国地方に向かわず、変を起こす4日前(1582年5月28日、本能寺の変は6月2日早朝、当時陰暦で5月は30日まで)に急に決断して、緻密な完璧主義者の性格の光秀には似合わず、無計画に性急に、そして杜撰に事を進めていったのではないかと思います。

 考えてみれば、本能寺の変は、わずか439年前の出来事です。古代史と比べれば、つい最近のことです。これからも、信頼できる史料が出てくれば、どんどん謎も解明していくのではないでしょうか。

【追記】

 本能寺の変の第一次史料「兼見卿記」を書いた吉田神社の祀官吉田兼見(兼和)は単なる神官ではなく、公家であり、朝廷(正親町天皇)と光秀との仲介役だったんですね。光秀は、本能寺の変の後、大津に向かい、粟田口で吉田兼見と対面しているといいます。それどころか、変から5日後の1582年6月7日、吉田兼見は、光秀が占拠した信長の居城安土城に派遣され、光秀を信長に代わる権力者として認める朝廷の意向を光秀に伝えたといいます。

 これだけ、光秀に直接会っているなら、吉田兼見は本能寺の変の真相を本人から聞いていたはずなのに、具体的に書かなかったのは、光秀から口止めされていたのか? 態と書かなかったのか? やはり、謎は深まるばかり…。

邪馬台国は何処にあったのか?=「永遠に謎」でもいいのでは?

 富岳 Copyright par Duc de Mtsuoqua

  年末年始は、コロナ禍で自宅待機を半ば強制され、朝から酒を呑んでいるので活字が頭に入らず、となると、テレビを見ることになります。しかし、現代人なのに最先端の流行ものに興味を持てず、というか、全く付いていけず(苦笑)、恒例の紅白歌合戦も5分見てギブアップしてしまいました。

 以前はよく見ていたお笑い番組も、流行の笑いに付いていけず、むしろ、馬鹿らしさと空虚さと怒りを感じてしまう始末でした。いけませんね。

 でも、その代わり、大収穫がありました。正月の夜にNHKで放送された「邪馬台国サミット2021」です。女王・卑弥呼の都「邪馬台国」の所在地を巡り、江戸時代から続く「九州説」と「近畿説」の大論争で、侃侃諤諤の議論はひじょーに面白かったでした。恐らく、多くの方もご覧になったかと思いますが、御覧になっていなかった皆さんは、「九州と近畿、どっちなんだあ」とせっかちに身を乗り出すと思われます。(戦前は、東京帝大の白鳥庫吉教授の「九州説」と京都帝大の内藤湖南教授の「近畿説」が有名ですが、エジプト説もあったりして吃驚しました)

 結論を先に言いますと、有力な「九州説」も「近畿説」も決定的な「証拠」に欠けて、まだ「分からない」というのが正解でした。でも、九州説では、例えば、佐賀県神埼市・吉野ケ里町で発掘された有名な吉野ケ里遺跡には、「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記された楼観(ろうかん)跡と推定される物見やぐらや大壕などがあったことから、北九州に邪馬台国があったという有力説になってます。(近畿には物見やぐらや大壕などの古代遺跡がない!ただし、吉野ケ里は邪馬台国に先立つ50~100年前の大集落だったらしいので、ここが邪馬台国跡ではないようです)

 近畿説は、奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡が有力のようでした。纏向遺跡内の箸墓(はしはか)古墳が卑弥呼の墓ではないか、とも言われていますが、古墳は宮内庁が管理して学術調査もできないので、まだ決定的証拠が見つかっていません。纏向遺跡には柱跡からかなり大きな宮殿のような巨大建築物が見つかり、ここで卑弥呼が「鬼道」(呪術)を使っていたのではないかと推測されていますが、魏志倭人伝の記述にあるような物見やぐら大壕などは発掘されていません。少なくとも、これだけ広大な宮殿跡は、初期天皇である大王の都跡、もしくは、出雲や吉備などの地方豪族の集合体の王都ではないかという説には私は惹かれました。(卑弥呼は、天照大神だった、卑弥呼は神功皇后だった、という説もあります)

 しかし、私もその御著書を愛読している倉本一宏・国際日本文化研究センター教授は「(正史である)『日本書紀』に邪馬台国も卑弥呼も出て来ない。天皇家とは別の政権だからではないか。となると近畿というより九州ではないか」といった趣旨の発言をしておられましたが、私もどちらかと言えば、分が悪い「九州説」派です。(魏志倭人伝には、「倭人は鉄の矢じりを使っている」と書かれていて、これまで福岡で1740点、熊本で1891点の鉄の矢じりが発掘されていますが、大阪では153点、奈良では13点しか出土していないそうです。おっ!九州説、有利か?)

番組はきこしめながら見たので、このムックで捕捉しました。最新研究成果の書かれた良書です。

 話は脱線しますが、纏向遺跡も箸墓古墳も1970年代から発掘が始まり、その成果は20世紀末から21世紀になって徐々に明らかになったということですから、私の世代の学生時代は全く習いませんでした。古代史は日進月歩、新たな発掘で書き換えられているということですね。

 近畿説を取る福永伸哉・大阪大学文学部研究科教授は「自虐的九州説」と一刀両断しておられました。同教授は、魏志倭人伝に邪馬台国には7万戸あったということは人口は30万人いたことになる。しかし、927年の「延喜式」によると、筑後の人口は7万3300人、肥前は8万1400人しかいない。とても、九州とは思えない、といった論陣を張っておられました。

 これに対して、中国古代史が専門の渡辺義浩・早稲田大学文学学術院教授は「中国の場合、人口などの数字は正確ではありません」と説明していました。さすが「白髪三千丈」と、数字は桁違いにオーバーに言うお国柄です。こちらの分が高いようです。もっとも、渡辺教授は、邪馬台国が九州にあろうが、近畿にあろうが、どっちでもいい、三国志に興味があっても、そんなもん興味ない、というスタンスだったので笑ってしまいました。

 渡辺教授によると、邪馬台国の第一次資料である陳寿著「魏志倭人伝」は、日本人のために書かれたものではないことをもっと注目すべきだと強調していました。魏呉蜀の三国が覇権を争っていた時代に、天下国家を取るために、自国に都合の良いように脚色した部分もあり、全面的に信用できないといいます。だから、魏志倭人伝に書いた通りに邪馬台国の場所を探して辿っていくと九州の南の海の中になければならなくなってしまいます。

 これは、他の本で読んだのですが、卑弥呼に「卑しい」を使い、、邪馬台国に「邪(よこしま)」の文字を当てたこと自体が、明らかに中国側から見た倭人に対する蔑称です。(日本では、卑弥呼は、姫子と呼んでいたという説もあり)

 邪馬台国は何処にあったのか?-は確かに「古代のロマン」として好奇心をくすぐられます。でも、なぜ、明智光秀が、主君織田信長を裏切って本能寺の変を起こしたのか、諸説あって理由が定かでないように、「よく分からない」「ミステリー」が、日本史の魅力にもなっているのではないでしょうか。

 また、新たな発掘調査で真相が明らかになるかもしれませんが、「永遠に謎」でも私は構わないと思ってます(笑)。

 【後記】

 写説に書いた通り、きこしめながら、番組を見ていたので、書いた数字は正確ではないかもしれません。もし、事実誤認がありましたら、訂正致します。また、番組と同じぐらい週刊朝日ムック「歴史道」(「古代史の謎を解き明かす!」特集号)を参照しました。

 ところで、今朝(1月4日付)朝日新聞によると、本能寺の変の際、明智光秀が直接、本能寺を急襲したのではなく、家臣の斎藤利三(としみつ=春日局の父)に任せて、自分は京都市南部の鳥羽にいた、という説には驚きました。これだから歴史は面白いのです。